サイパン島の戦いは、太平洋戦争の中で初めて、膨大な市民が犠牲となった戦いでした。1944年6月、日本人2万人が暮らしていたこの島に、アメリカ軍は爆撃機の拠点を築こうと上陸。日本軍は4万3千の守備隊で迎え撃ちましたが全滅しました。捕虜になってはいけないと指示されていた市民たちは追い詰められ、親が子供とともに自決する事態となりました。
やがて、サイパン島のあるマリアナ諸島からB29爆撃機が飛び立ち、日本全土に焼夷弾を投下し、広島や長崎に原爆を落とすことになります。
美しい島は戦場に
サイパン島は、第一次世界大戦の戦勝国となった日本の委任統治領となり、沖縄や東北などから3万人が移住、主に砂糖づくりや漁業に従事していました。先住民(チャモロやカロリニアン)も4千人ほど暮らしていました。
ニューギニアやガダルカナル島方面から反攻してくるアメリカに押され、日本軍は1943年9月に「絶対国防圏」を設定、そのラインのすぐ内側に位置するサイパン島の重要性は一気に高まりました。しかし、兵力の強化は遅れ、4万の守備隊がそろったのは、アメリカ軍の上陸直前のことでした。
1944年6月、アメリカ軍は艦砲射撃と空襲を執拗に行った上で、15日に島の南西部に上陸。その総兵力は、7万を超えました。
東京まで往復5000㎞ 本土空襲の拠点に
アメリカのサイパン上陸とほぼ時を同じくして、現在の北九州市一帯が空襲を受け、衝撃を与えます。この空襲を行ったのが「超・空の要塞」と言われた爆撃機B29でした。
B29は、莫大な資金を投じて開発された最新鋭の爆撃機で、大量の爆弾や焼夷弾を積みながら5000㎞以上の飛行が可能でした。北九州市を襲ったのは、中国内陸部の成都から飛び立ったB29でした。
それでも、東京や大阪を攻撃するためには、より日本本土に近い基地からB29を発進させる必要がありました。そこで白羽の矢が立ったのが、サイパン島でした。この島を扇の要にすると、関東から西日本まですっぽりと爆撃圏内に入るのです。
日本海軍が誇る「機動部隊」も壊滅
サイパンに上陸したアメリカ軍は戦車や火砲による圧倒的な戦力で島を北上、日本軍は爆弾を抱えての戦車への突撃や夜襲で応戦しますが、後退を余儀なくされます。アメリカ軍に投降してはいけないと指示されていた住民たちも、北へと逃げていきました。
島での戦いと並行して、海上ではかつてない規模での航空決戦、「マリアナ沖海戦」が始まりました。日本海軍は、敵の攻撃圏外から航続距離の長い航空機を飛ばして戦いを有利に進めようとしましたが、逆にレーダーに探知されて待ち伏せされることになりました。さらに、目標近くで爆発してダメージを与える新開発の砲弾にさらされるなどして、およそ400機の航空機を失いました。空母3隻が沈没し、日本側の戦死者はおよそ3000人に及びました。日本海軍が誇る機動部隊は事実上壊滅し、これ以降、積極的な攻撃作戦を行うことが困難となりました。
追い詰められた住民は…
アメリカ軍の上陸から9日後、作戦を指導する東京の大本営は、撃退を断念し島の放棄を決定しました。7月7日未明、民間人を含むおよそ3千人の部隊が突撃を行い全滅、日本軍の組織的な抵抗は終わり、島は占領されることになりました。
「アメリカ兵に捕まったら何をされるかわからない」と聞かされていた住民たちは、断崖から次々と身を投げて行きました。島の北端にある岬は、飛び込んだ人々の叫び声から、「バンザイ・クリフ」と呼ばれました。犠牲となった住民は1万人、多くの先住民も巻き添えとなりました。
すぐ隣のテニアン島にも、アメリカ軍が上陸。ここでも惨劇が起きました。5人の子供を抱えながら洞窟に潜んでいた36歳の母親・小檜山ミサさんは、日本兵から「みんなここで自決しろ」「聞きわけのない子供は殺せ」と言われ、震える手で7か月の赤ん坊の首を締めました。その後の顛末を、戦後72年が経ってその場にいた娘の藤子さんが告白しています。
「母からは口止めされてたの。7か月の弟は、ふたたび息を吹き返して、母はとっても私はもうできないって。頼むからお前がやってくれって、私に言う。私まだね…、小学生の高学年だったんですけど。最後のとどめと言うんですか、私、洞窟の中でやりましたね。それは、今でもここから本当に一時も離れない、弟の顔。パッと目を見開いて私の顔を見ていました」
証言した当時、藤子さんは85歳。戦争の現実を語り残したいという思いからの、告白でした(ETV特集「“玉砕”の島を生きて ~テニアン島 日本人移民の記録~」2021年放送より)。
日本の敗戦を決定づけた戦い
サイパン島の陥落について、大本営陸軍部・戦争指導班の参謀は「もはや希望ある戦争指導は遂行しえず」と業務日誌に記しました。開戦前に目論んでいた、軍事的に優位に立ち講和に持ち込むという戦略は完全に破綻したのです。
陥落からおよそ2週間後、開戦前から政府を率い、陸軍のトップも兼任した東條英機総理大臣が辞任し、行き詰まりは国民の目にも明らかになりました。
しかし、戦争はこのあと1年以上もつづくことになります。サイパン島のあるマリアナ諸島からは次々とB29が飛び立ち、東京・大阪を始めとして日本中を焼け野原にしていきます。そして、広島・長崎に原爆を投下するのです。