みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』

2007-04-11 21:53:53 | Weblog
前から見ようと思っていた映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』をやっと観ることができた。
先週、先にバーバ・ズーラのコンサートに行ってしまって、若干順序が逆かナ?なんていう気もしたのだけど、別に映画を観た限りでは、別にどちらが先でもあまり問題はないのだなと思った(そりゃ、そうだ)。
先日観た映画『パリ、ジェテーム』が、ほとんどパリ観光の映画のようだったけど、この『クロッシング・ザ・ブリッジ」も、ある意味、トルコ観光にもなる映画だと思った。しかし、こちらは、音楽が全面に出ながらトルコや中東の音楽状況、政治状況のことも語られているドキュメントなので、より世界の中のトルコ、世界の中のヨーロッパとアジアの位置関係などが明確に語られていて見ごたえのある映画でもあった。
クルド人がどれだけトルコの中でも抑圧され、ある意味、トルコのヨーロッパ化(これは、アメリカ化でもあるのだけど)の中で犠牲になっていたかが音楽の面からも上手に語られていた。これって、日本の明治維新の時の文明開化の時にもよく似ている。江戸時代の文化を全面否定して、ひたすら西洋人に似せようと洋食を食べ、洋服を着て、無理して舞踏会などに出かける滑稽な日本人像がこの明治初期の日本にはあったわけだけれども、今の日本もその頃とそうたいして変わらないかナ?とも思ってしまう(ということは、クルド人の状況と似ているのかナ?)
でも、未だに、アメリカ文化に迎合して、英会話ができる日本人の必須条件のように勘違いする人たちが多い状況では、この映画の中のトルコの状況をけっして笑うことはできないなと思った。

それにしても、トルコの音階の幅の広さとあの怪しい魔力にはいつもながら心を本当に揺り動かされる。ひょっとして、私の前世はトルコ人?と思えるほど、あの音階にはとてつもない魅力を感じる(それって、かなり若い頃からだ)。でも、トルコ音楽やインド音楽、アラブ音楽を聞くたびに同時に感じるのは、絶対音感の無意味さだ。英会話と同じように、子供に絶対音感をつけさせようとする親がとても多いが、「一体何のために?」と思ってしまう。世の中のすべての音に「ド」とか「レ」のレッテルを貼るだけの作業(しかも、西洋音楽の中だけで通用するドレミのラベリングだ)にしか過ぎない絶対音感が、音楽を理解することにも、音楽を演奏することにもまったく役に立たないことは私は百万回言っても言い足りないぐらいだと思っている。絶対音感を持った人にとって中近東音楽やトルコ音楽、インド音楽、その他の民族音楽はすべて「計りきれない」音を持った音楽にしか響かないのでは?と思ってしまう。
はっきり言うが、絶対音感とは音楽的な能力ではけっしてない。ある意味、英語ができる、フランス語ができるのと同じように、脳の右脳で聞いた「その音」についた「ド」という記号を左脳が記憶しているだけのこと(この脳の作業は、語学の習得とまったく同じプロセス)。それ以上でもそれ以下でもない。こんなものは、音楽を聞く、あるいは、理解する能力、楽器を演奏する能力ともまったく関係のない事柄。音楽を楽しみ、理解するためには、相対的に音の高さを理解する相対音感(ドの音を与えれれば、そことの相対的な高さの差で、レやミの音の場所を理解する能力)があれば十分だし、むしろ、こちらの方が大事だということをわかって欲しい(まあ、それでも、モーツァルトやベートーベンなど歴史上有名な作曲家たちは絶対音感を持っていたとされるので、それが音楽家にとって必須な能力だと思ってしまう人も多いのだろうけど)。