みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

鯛焼きとライブ

2015-07-05 08:07:53 | Weblog
昨日、友人のライブを鑑賞するために由比ケ浜に行った。
江ノ電に乗るのは久しぶりだ。
「海街diary」の人気のせいかものすごい混雑だ(土曜日というせいもあるかナ)。
藤澤から鎌倉方面に向う(このコースの方が逆コースよりもたくさん乗れる)。
由比ヶ浜駅で降りる。
お目当ての友人のライプまでは時間があったので辺りをちょっと散策。
すぐ目についたのが鯛焼き屋さん。
週末なので若い人や家族連れなどで賑わっている。
店の前で通りを眺めながら一つ食べ始める。
ウウん…?、味は…? 
あまり美味しいとは言えないナ。
味の細かい評価をしても始まらないけど、そんな気持ちで鯛焼きを味わっている横で家族連れが「ごちそうさまでした。美味しかったです」と笑顔で去っていく。
するとまた間髪を入れずに浴衣姿の若い女性がお店の若い男性に「すごく美味しかったです」と言って去る。
「おいおい。本心かい? あんまりお世辞ばかり言うとこの手のお店ってすぐに勘違いしちゃうよ。湘南のあんな良い場所に店を構えていれば黙っててもお客さんは次から次にやってくるんだから…」。
まあ、メディアのせいもあるかもしれない。
メディアは、おしゃれな場所におしゃれなコンセプトでメニューを出すだけで高い評価をする。肝心の味には関係なく…。
よくメディアの人たちは「人の知る権利のために自分たちがその活動を担っている」という大義名分を主張するけれども、私に言わせればこれこそが「メディアの奢り」。
メディアはけっして「大衆の代弁者」ではない。
メディアの人たちが「大衆の代弁者」だと思っているのは大きな勘違い。
私は、極端に言うと、メディアというのは人を騙すために存在しているんじゃないかとさえ思っている。
最近問題になっている某党のあまり頭のよろしくない人たちがマスコミがどうのこうのと言っているのも笑止千万。
もともとメディアが大衆を惑わすのは当たり前(そういう存在なのだ)。
だとしたら、私たちは何をなすべきか。
言わずとしれたこと。
個人個人がきちんとした哲学と知識を持って一つ一つの物事をきちんと判断して行動する以外にない。
その見識を身につけることが、本当の意味での個人に課せられた「学習」のテーマなのでは。
メディアの言動の何がホントで何がウソかを見極める目を持つことを学習しないで一体私たちは何を学習するの...。
だから、私はTVを持たないしスマホを持つことも長い間拒否し続けている(パソコンはいち早くDOS時代から使っているけれども)。
自分に必要なメディアを持てば良いだけの話。
それに、私は別に鯛焼きの味が不味いことを怒っているわけではない。
たまたま「焼き過ぎた」だけなのかもしれない。
たまたま、小麦粉と卵の分量がうまく配分されなかったのかもしれない。
たまたまアンコの砂糖の分量を間違えただけなのかもしれない。
でも、私は、不味いと思う。
「美味しい」と言って店を去っていったあの人たちのことばが本心なのか単なるお世辞なのかはわからない。
けれども、あまりにもこの国には社交辞令が幅を利かせ過ぎているのではないかと思う。
「社交辞令」が生活の処世術として日本人の生活に染み付いているのは、おそらく「ムラ」社会が基本だった封建時代の日本社会で狭い村の中で本音を言ってしまっては村八分にされてしまうという事情があったからだろう。
村から出ることのできない人たちにとって「村八分」はイコール「死」だ。
そんな風にはなりたくないから、みんなお互いをおだておだてられる「相互扶助」的な生活が日本人の身に染み付いてしまったのかもしれない。
先日見た現代世界最高峰のピアニスト、マルタ・アルゲリッチのドキュメンタリー映画の中で彼女がこんなことを言っている場面があった。
「私はお世辞を言われるのが大嫌い」。
お世辞というのはすぐに見透かされる。
心にもないことをことばだけで取り繕うのだから。
誠意のない営業マンの最悪のセールストークのようなものだ。
私も、お世辞を言われるのも言うのもいやだ。
そんなことばのやり取りをするたびに気持が悪くなる。
だから私は演奏終了後いきなり楽屋に押し掛けてああでもないこうでもないとアーティストにダメを出したりする(他の人たちが口を揃えて「良かったです」と言っている横でそんなことを言うヤツはあまりいない)。
もちろん自分よりキャリアの長い人の楽屋に行っていきなりそんなことを言うほどの度胸はない。
だから、そんな時は楽屋に行かない。
良かったですとただのお世辞を言うぐらいだったら行かない方がよっぽどマシだ。
「社交辞令」を思いやりだと言う人もいる。
でも、「思いやり」とは相手の心の奥深くまで見て初めて出てくる行為。
鯛焼き屋さんに「美味しかったです」ということばが思いやりとはとても思えない。
でも、本音ばかりでは人々の生活がギクシャクしてしまうと考える人も多いかもしれない。
要は程度問題だろう。
あまりにもお世辞ばかりの生活では疲れてしまう。
ああ、そうだ。ライブが話だ(そのためにわざわざ鎌倉まで行ったことをスッカリ忘れていた)。
肝心のライブは、満足度の高いものだった。
自分にないものをドンドン吸収して新しい分野にチャレンジしていく彼女(ヴァイオリンでボサノバをやるというチャレンジはけっこうユニークだ)の意気込みとその成果を「音」として聞くのは本当に心地よかった。
別にお世辞ではない。
私は社交辞令の言えない人間だということを言うのがこの文章の目的なのだからそのことばにウソはない。
しかも、聞いた場所が「海街diary」そのままの雰囲気に素敵な長姉(映画よりも漫画よりも素敵な女性だ)のような女性が主催する古民家でのライブとあっては、その「気持良さ」も増幅される。

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