当たり前のことを当たり前のこととして主張して、当たり前のこととして実行できる世の中だと良いナと若い頃からずっと思っていた。
でも、現実の世の中はそうはなっていないし、そんな(青い)ことを主張してもハジき返され挫折して「世の中ってこんなもんだよな」と不条理や不公平を嘆きつつ自分もその世の中に同化していく。
つまり、世の中の流れに順応していく方が(人は)はるかに生きやすい。
特に日本という社会は(世間という)「同調圧力」の強い国だと言われている。
外国の人から見れば何でもっと自己主張しないのと苛立つぐらい日本人は大人しく、一つの枠の中で同じことをしている(ように見えているはず)。
でも、私は「人が全員右を向いていても自分だけは左を向きたい」人間。
そこに人だかりがしていても絶対にその輪に入りたいとは思わないし、(何があるのかと)覗きたいとも思わない。
行列があっても絶対そこには並ばない。
二十代半ばで留学したアメリカのキャンパスで反捕鯨の団体がビラを配って何やら演説していた(あの頃シーシェパードがあったとは思わないが)。
すぐさま私は噛み付いた。
「なぜクジラだけ?なぜイルカだけ?」
かつてアメリカは捕鯨大国だったはず、先住民族が(必要最小限度)行っていたバッファロー狩りを大規模に行ってほぼ全滅させてしまい(代わりに)牛を飼い始めたのもアナタたちアメリカ人なのでは?(牛を育てるためにどれだけ地球環境が破壊され多くの食料が牛の餌として浪費されているのかをご存知ないのですか)等々。
もちろん、アメリカのキャンパスでごちゃごちゃとこんなことやりあったところでラチがあくわけではない。
でも、たとえそうだとわかっていても「いや、それは違うのでは?」と主張せずにはいられない(黙っていることは認めたことになると私は思うので)。
これまでどれだけ新しいことをやってきただろう。
しかし、何か新しいことを始めると必ず出て来るのが「それな〜に?」という単純な疑問と「そんなのできっこないよ」という無意味な否定。
そして、反発。
私は音楽家。
だから私の人生の目的は「コミュニケーション」。
というよりも「音楽はコミュニケーション」である前に「人はコミュニケーションで生きている」と信じている。
人間以外の生物でもコミュニケーションはあるはずなのだが(アリがお互いの触手でエサの在処を教え合っているのもコミュニケーションの一つだろう)、そうした生物にとってコミュニケーションはほとんど「本能」に近いのでそのことでトラぶることはあまりない。
でも、人間という生物はいつもこのコミュニケーションでトラぶってばかりいる。
その結果が「戦争」だったり「イジメ」だったりする。
ひょっとしたら人間はコミュニケーションが苦手なのでは?と思ったりもする。
せっかくコミュニケーションのために「ことば」や「文字」という便利な道具を発明したくせにそれすらまだ十分に使いこなせていない。
「音楽はコミュニケーション」なのだが、もともと音楽がコミュニケーションしていた相手は人間ではない。
人が「異界(神)」とコミュニケートするために発明されたものが音楽、なのだと私は思っている(その証拠に、どんな原始宗教でもどんな新興宗教でも音楽のない宗教は存在しない)。
例えば、キリスト教会の中にある神への賛美の道具の一つパイプオルガンには、人間の可聴範囲(20〜20000Hz)を越えた振動数の音がある。
「人間に聞こえない音がなぜあるの?」ではなく「神を賛美するためなのだから(その音が)人間に聞こえる必要はない」のだ。
ところが、時代とともに音楽は「異界とのコミュニケーション」の道具ではなく人間同士のコミュニケーションの道具になっていく。
まあ、音楽だけじゃなく、他の分野もルネサンス以降、人間中心になっていくのはこれまでの人類史でよくわかる。
百年ごとに歴史を見るのはあまりにも大雑把な見方だが、古典主義、啓蒙主義、ロマン主義、産業革命といった歴史の大きな流れを見ると、今私たちのいる21世紀はこれまでとは明らかに違った位相にいるような気がしてならない(それとも、違った時空と言った方が良いのだろうか)。
幕末の志士たち(特に薩長の志士たち)は攘夷を叫びながらも一方で(それと矛盾した行動を起こして)外国に密航してイギリスの技術を学び明治という新しい時代を作った。
鎖国の間にヨーロッパは産業革命のまっただ中にあったからだ。
そのおかげでとりあえず19世紀の「モノの時代」に日本も取り残されずに済んだ(だいぶ世界から遅れたけれど、鉄道作ったり、船作ったり、ビルもたくさん作れたのは彼らのおかげだろう)。
20世紀の「資本主義経済」の時代にもちょっとばかり繁栄を謳歌した。
ただ、….。
私たちの今いるこの21世紀という時代に、日本はもう既に取り残され始めているのではないかという懸念を強く持っている。
中国の有名な諺に「賢者が月を指差す時、馬鹿は指を見る」というのがある。
つまり、「見るべきポイント」を見誤るなということ。
賢者が作る国家はもう既に新しい時代を先取りしている(日本は今一体どこを見ているのかナ?)。
私が若い高校生たちと立ち上げた「 WAS」は、「福祉Welfareで人の生活を守り、Artで人の心を作り、Scienceで人の未来を作っていこう」という主旨のプロジェクト。
「19世紀はモノの時代、20世紀は経済の時代、21世紀は人のこころの時代」。
だからこそ、その「こころの時代」を担うのはまさしく21世紀を生き抜いていかなければならない十代、二十代の人たちだと私は確信している。
その彼ら彼女らと一緒に新しい時代を作っていこうと始めたプロジェクトだ。
地元の自治体がたまたま募集していた(移住、定住をテーマにした地方創生の提案募集の)コンペに応募した。
そして、私のこの「 WASプロジェクト」の提案が見事最優秀賞を受賞した。
今の地方都市の若い世代には(人生の)選択肢があまりにも少ない。
私自身は幸い東京生まれ東京育ちなので未来に対する選択肢はいくらでも存在した。
(若い時は)何でもできると思ったし、何にでもなれると思った。
しかし、今の地方の高校生たちの選択肢はごくごく限られている。
「進学」か「就職」か。
しかも、地元に残る選択肢はほとんどない(地元に大学や専門学校がある場所は限られているし、就職先だって限定される)。
これからの数十年で日本の地方都市の多くは消滅してしまうと言われている。
進学するにしても就職するにしても彼ら彼女らは都会に行くしかない。
そして、半永久的に故郷には戻らない。
いや、戻れない。
戻る「理由」がないからだ。
結果、地方の人口は減るばかりで、増えるのは空き家とシャッター通り、そして高齢者だけ。
高校生たちと話すのは、この WASを「大学か就職か」の二択以外の三択目の選択肢にしようということ。
「ここにいれば学べるし、スキルも才能も生かすことができる」場所にするということ。
といっても別に大学を作ろうとしているわけでも専門学校を作ろうとしているわけでもない。
というか、もはや学校という存在が世の中に必要なのかナという気もする。
たしかに、モノとカネが欲しければこれまでのように偏差値をあげて良い大学に入って良い会社に就職して良い家庭を持つといった従来型の人生設計を追っていれば良いのだろうが、今の若い人たちはそんな価値観を持っていない。
だからこそモノにこだわらないしお金にもこだわらない。
そんなものが後生大事に思われていた時代はとっくの昔に終わっているのに、大半の大人はそれに気づいていない。
か、あるいは気づいていないフリをしているだけなのか。
でも、確実に時代は変わっている。
「コンテンツ産業や IT 産業による町起こし」なんていうアイデアはもう既に日本のあちこちで始まっている。
既に成功した例だって幾つかある。
ただ、私は、単に町が活性化すればよいとは思っていない。
私たちの生活に、そして未来に本当に必要なものは何かを探していくためのプロジェクトだ。
だから、一番重要なコンセプトに「多様性」を掲げている。
生物が多様性を必要とするのは「種」が滅亡しないため。
ごく単純な理由だ。
でも、そのことに人間という生物だけが長い間気がついていなかったような気もする。
伊豆では、毎年春5月ぐらいになると「猿山」から幾つかのグループが追われて猿たちが移動を始める。
20〜30匹ぐらいのグループが新しい住処を求めて移動する。
この時期、小猿を器用に肩に乗せて群れと一緒に歩く母猿をよく見かける。
なぜか。
これも単純な理由から。
同じ猿山にたくさんの猿が同居し続けていると近親相姦を繰り返し、結果(自分たちの社会が)滅びてしまうことを本能的に知っているからだ。
だから、意図的に幾つかのグループを追い出していく。
こうやって猿たちも「多様性」を維持しようとするのだ。
人間でも、2000年ぐらい前にジプシー(つまりロマ族)が北インドから民族大移動を始めて世界中至るところに散らばっていった。
しかし、どういうわけか日本にだけはやってこず日本だけがその影響を受けなかったと言われているが(だから、日本だけ多様性から取り残されてしまったのかナ)、そうやって国家を持たずに存在する民族はロマ族だけではない。
ユダヤ民族だって第二次大戦後初めてイスラエルという国家を作ったわけで、それ以前にユダヤ民族の定住国家はなかった。
時代はどんどん変わっていく。
人も環境も宇宙も不変ではない。
私は、今の若い世代が「モノやお金にこだわらない」のはとっても良い傾向だと思っている。
だからこそ、若い人たちは、既存の組織や考えにこだわらずに新しい「イノベーション」をどんどん起こそうとしている。
どんどん起業している。
もうそういう時代に入っているのだ。
モノに固執しなくったって、お金に固執しなくったって「感動したり幸福感を持ちたい」という願望は誰にもあるはず。
それが映像や音楽、ゲームやアニメであるという時代の流れはもはや誰にも止められないし、止める必要もない。
ゲームだろうがアニメだろうが音楽だろうが、人の才能やスキルで作り出されたもの(つまりは、人の「こころ」が作ったものだ)。
かつては、サブカルチュアとして社会のマイナー枠にいたこれらの「コンテンツ(産業)」がもはや私たちのメジャー(中心)にでんと鎮座している。
「今日」から「明日」へ移る時間の流れの中で「未来」を作る事業を行っていく場がWASである。
多様性というのは「違うことを否定しない」こと。
違う相手を認めるところから出発すれば、すべてのコミュニケーションはうまく行くはずだし、違う他者を否定しようとするイジメも生まれるはずがない。
高校生は私にとってほぼ孫の世代。
でも、私はけっして彼ら彼女らのことばを否定しない。
否定から生まれるものは何もないからだ。
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