人間の能力の中でこの「想像力」ほど優れたものもないし、これほどさまざまな分野で有効なものもないと思う。
ただ、この能力を使いきれている人はそれほど多くはないし、私自身もこの想像力でつまづくことが多々あり、いつも考えさせられてしまう。
特に、恵子のこれまでの回復の過程で何度これで失敗したことだろうと思う。
よく「人を思いやる」とか「人の身になって考える」とかいうことが言われるけれども、このフレーズを本気で実践するために一番重要なのも「想像力」だ。
つまり、相手の身になって考えるということは相手がどんな状況でどんな風に考えているかを本当に「想像」できるかどうかにかかっている。
恵子が発症から二年を経過していろいろな紆余曲折はあったものの、少しずつ「回復」しているなと思えた矢先の出来事だった。
夜中、彼女が声を出しながらベッドで苦しそうにしている。
気持ちでも悪いのかと聞くとそうだと答える。
吐き気がするのと聞くと、そうではないと言う。
じゃあどんな風に気持ち悪いのと改めて聞くと、ああそうなんだと初めて私は「あること」に気づかされたのだった。
麻痺している右手を、彼女は療法士からも言われたようにできるだけ楽にして下に下げようとする。
つまり、力を抜いてダランとした状態にすることだ。
健常者なら何でもなくできるこの動作は、彼女のような麻痺で手や手指の筋肉、そして腕全体が緊張している状態の身体ではそれほど簡単なことではない。
医学用語で「痙縮(けいしゅく)」という筋肉のこわばった状態からまだ完全に抜けきれていいない彼女の右半身は自然と「緊張」状態へと導かれてしまう。
それでも、彼女は何とか右手の緊張を解こうと寝たままの状態で腕を身体の右脇に置こうとする。
しかし、時間がたつとだんだんその腕が自然と自分の胸の上に乗っかってきてしまい胸を圧迫するのだという。
これが、彼女の言う「気持ち悪さ」の正体だった。
そうやって自分の右手の重みで起こされてしまった彼女は、また改めて肩と腕の力を抜き元のだらんとした状態を作り寝ようと試みる。
これが毎夜繰り返されているのだという。
知らなかった。
そうだったのか。
なんて迂闊だったのだろう。
自分はぐっすり眠っている横でこれほど彼女が苦しんでいることをなんで今まで考えられなかったのだろうか…。
去年も同じようなことがあった。
その時は彼女の身体の「痺れ」や「痛み」に関してだった。
昨年の今頃は発症から一年以上を経過して身体の方も落ち着き始めていた頃だった。
なので、私の意識から彼女の「痺れ」や「痛み」ということばが消えかかっていた。
彼女自身が「痛い」とも「痺れている」ともまったく訴えなかったからだ。
ところが、彼女の中では常に痺れも痛みもあることが「当たり前」だったのでわざわざ「痛い」とも「痺れている」とも言わなかった。ただそれだけのことだったのだ。
それを良いことに私は彼女の身体からしびれや痛みが消えていると思い込んでしまっていた。
ある意味、迂闊というよりも「なんでそれぐらいのこと想像できなかったんだろう」という自分自身の想像力のなさを恥じた。
他人の痛みというのは、想像力で補うしか方法はない。
少し回復してきた彼女の身体を見る嬉しさにそんな簡単な原理すら忘れてしまうほど舞い上がっていたのかもしれなかった。
昨年も今年も介護施設ツアーを続けているが、いつも思うのは、自分は「本当にこの人たちの気持ちを汲み取っているのだろうか」という疑問だ。
ただ単に楽器を演奏したり一緒に歌を歌うだけでは気持ちの交流、心の交流などできはしない。
もっとお互いに気持ちを通じ合い、音楽が人の生きる「希望」になるには一体何をどういう風にすれば良いのか、それだけを探しながらいつも演奏している。
だからこそ、時々目にする施設のスタッフのお年寄りに対するぞんざいな態度や「上から目線」のふるまいには我慢がならなくなってしまう。
恵子がリハビリ病院で入院していた時にも感じたことだが、介護とかリハビリとかいう分野はとても新しい分野で、それこそまだ歴史の蓄積があまりない分野だ。
だからこそ、そこに携わる人たちはひたすら「謙虚に」何でも勉強してやろうぐらいの気持ちで仕事に携わらなければいけないと思う。
しかしながら、けっこうその辺に現在の介護、医療問題の盲点が潜んでいるような気がしてならない。
つまり、介護に携わる人たちに「プロ意識」が欠如しているような気がしてならないのだ。
それを単に「歴史が浅い」からとか「まだノウハウが確立していないから」というようなことばで誤摩化してはいけないと思う。
音楽のプロも楽器が上手い人がプロなのではないし、単にお金をもらうからプロなのでもない。
この相手の気持ちがわかる人。自分が何を望まれ何をやるべきかを適確にわかってそれをできる人がプロなのではないかと思う。
その結果一万円いただこうが百万いただこうかはあまり関係がない。
要は、自分がやるべき仕事をきちんと「想像」できる人がプロなのだと思う。
別に、「音楽のプロは何何をしなければならない」と書かれたマニュアルがあるわけではない。
その「こと」を自分の想像力で補える人。
それがプロなのではないかと思う。
だとすれば、介護のプロとは一体何をすれば良いのだろうか。
単純に考えればわかることかもしれない。
自分が相手の立場だったら何をどうして欲しいと思うだろうか。
そのことが想像できない限り介護はできないのでは…?
しかしながら、現場の若い介護士さん、看護士さん、療法士さんたちを見ていると果たしてそこまでの想像力を駆使して仕事をしているのかなと思うこともしばしばだ。
介護も音楽もけっして「技術」だけで行えるものではない。
技術にどれだけの「想像力」を付加していくことができるのか。
自分も「プロ」である以上、それをけっして忘れないようにしていたいと思う。
ただ、この能力を使いきれている人はそれほど多くはないし、私自身もこの想像力でつまづくことが多々あり、いつも考えさせられてしまう。
特に、恵子のこれまでの回復の過程で何度これで失敗したことだろうと思う。
よく「人を思いやる」とか「人の身になって考える」とかいうことが言われるけれども、このフレーズを本気で実践するために一番重要なのも「想像力」だ。
つまり、相手の身になって考えるということは相手がどんな状況でどんな風に考えているかを本当に「想像」できるかどうかにかかっている。
恵子が発症から二年を経過していろいろな紆余曲折はあったものの、少しずつ「回復」しているなと思えた矢先の出来事だった。
夜中、彼女が声を出しながらベッドで苦しそうにしている。
気持ちでも悪いのかと聞くとそうだと答える。
吐き気がするのと聞くと、そうではないと言う。
じゃあどんな風に気持ち悪いのと改めて聞くと、ああそうなんだと初めて私は「あること」に気づかされたのだった。
麻痺している右手を、彼女は療法士からも言われたようにできるだけ楽にして下に下げようとする。
つまり、力を抜いてダランとした状態にすることだ。
健常者なら何でもなくできるこの動作は、彼女のような麻痺で手や手指の筋肉、そして腕全体が緊張している状態の身体ではそれほど簡単なことではない。
医学用語で「痙縮(けいしゅく)」という筋肉のこわばった状態からまだ完全に抜けきれていいない彼女の右半身は自然と「緊張」状態へと導かれてしまう。
それでも、彼女は何とか右手の緊張を解こうと寝たままの状態で腕を身体の右脇に置こうとする。
しかし、時間がたつとだんだんその腕が自然と自分の胸の上に乗っかってきてしまい胸を圧迫するのだという。
これが、彼女の言う「気持ち悪さ」の正体だった。
そうやって自分の右手の重みで起こされてしまった彼女は、また改めて肩と腕の力を抜き元のだらんとした状態を作り寝ようと試みる。
これが毎夜繰り返されているのだという。
知らなかった。
そうだったのか。
なんて迂闊だったのだろう。
自分はぐっすり眠っている横でこれほど彼女が苦しんでいることをなんで今まで考えられなかったのだろうか…。
去年も同じようなことがあった。
その時は彼女の身体の「痺れ」や「痛み」に関してだった。
昨年の今頃は発症から一年以上を経過して身体の方も落ち着き始めていた頃だった。
なので、私の意識から彼女の「痺れ」や「痛み」ということばが消えかかっていた。
彼女自身が「痛い」とも「痺れている」ともまったく訴えなかったからだ。
ところが、彼女の中では常に痺れも痛みもあることが「当たり前」だったのでわざわざ「痛い」とも「痺れている」とも言わなかった。ただそれだけのことだったのだ。
それを良いことに私は彼女の身体からしびれや痛みが消えていると思い込んでしまっていた。
ある意味、迂闊というよりも「なんでそれぐらいのこと想像できなかったんだろう」という自分自身の想像力のなさを恥じた。
他人の痛みというのは、想像力で補うしか方法はない。
少し回復してきた彼女の身体を見る嬉しさにそんな簡単な原理すら忘れてしまうほど舞い上がっていたのかもしれなかった。
昨年も今年も介護施設ツアーを続けているが、いつも思うのは、自分は「本当にこの人たちの気持ちを汲み取っているのだろうか」という疑問だ。
ただ単に楽器を演奏したり一緒に歌を歌うだけでは気持ちの交流、心の交流などできはしない。
もっとお互いに気持ちを通じ合い、音楽が人の生きる「希望」になるには一体何をどういう風にすれば良いのか、それだけを探しながらいつも演奏している。
だからこそ、時々目にする施設のスタッフのお年寄りに対するぞんざいな態度や「上から目線」のふるまいには我慢がならなくなってしまう。
恵子がリハビリ病院で入院していた時にも感じたことだが、介護とかリハビリとかいう分野はとても新しい分野で、それこそまだ歴史の蓄積があまりない分野だ。
だからこそ、そこに携わる人たちはひたすら「謙虚に」何でも勉強してやろうぐらいの気持ちで仕事に携わらなければいけないと思う。
しかしながら、けっこうその辺に現在の介護、医療問題の盲点が潜んでいるような気がしてならない。
つまり、介護に携わる人たちに「プロ意識」が欠如しているような気がしてならないのだ。
それを単に「歴史が浅い」からとか「まだノウハウが確立していないから」というようなことばで誤摩化してはいけないと思う。
音楽のプロも楽器が上手い人がプロなのではないし、単にお金をもらうからプロなのでもない。
この相手の気持ちがわかる人。自分が何を望まれ何をやるべきかを適確にわかってそれをできる人がプロなのではないかと思う。
その結果一万円いただこうが百万いただこうかはあまり関係がない。
要は、自分がやるべき仕事をきちんと「想像」できる人がプロなのだと思う。
別に、「音楽のプロは何何をしなければならない」と書かれたマニュアルがあるわけではない。
その「こと」を自分の想像力で補える人。
それがプロなのではないかと思う。
だとすれば、介護のプロとは一体何をすれば良いのだろうか。
単純に考えればわかることかもしれない。
自分が相手の立場だったら何をどうして欲しいと思うだろうか。
そのことが想像できない限り介護はできないのでは…?
しかしながら、現場の若い介護士さん、看護士さん、療法士さんたちを見ていると果たしてそこまでの想像力を駆使して仕事をしているのかなと思うこともしばしばだ。
介護も音楽もけっして「技術」だけで行えるものではない。
技術にどれだけの「想像力」を付加していくことができるのか。
自分も「プロ」である以上、それをけっして忘れないようにしていたいと思う。
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