みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

こんな手のかかる人間、早く捨てちゃいなよ

2013-05-23 21:29:32 | Weblog
彼女はそう言って泣きじゃくる。
「だって、私は何をやるにも助けがなければできないんだし、三度三度の食事だって自分一人じゃ作れないんだからヤマネコがイライラしてくるの当たり前だよネ」そう吐き捨てるように言うと恵子は布団を頭からかぶってしまった。
もちろん、いきなり彼女がこうなってしまったわけではない。
夕食をあれこれ用意しながらテーブルに並べていた時に彼女がたまたまテーブルの隅に寄せておいた薬箱(お菓子の箱に彼女が毎食飲むのに必要な薬を入れてある)を「薬こっちにちょうだい」と言ったことばに私が少しキレてしまったことが直接の引き金だった。
「食事を先にちゃんと揃えて、それから後で薬持って来ても遅くはないだろう。こっちは食事作りで忙しいんだから」
私はそう言い残すとプイと外に飛び出してしまったのだ。
別に彼女に腹がたったわけではないし本気でどこかに行こうと思ったわけではもちろんない。
私の心がテンぱり過ぎていただけのことだ。
ほんのちょっとしたことばに心がすぐにイラついてしまうのだ。
でも、こんな光景そう滅多にあることではない。
私はいくらイライラしても絶対に彼女に直接アタることだけはすまいと心に誓っていたからだ。
それでも、毎日毎日のイライラは募っていく。
少しずつではあるが彼女の身体は確実に回復している。しかし、そのテンポは恐ろしく鈍い。
だから、キレイごとだけはすまなくなる時もあるのだ。
私も彼女もアセっているのだろう。
それが今日ちょっとしたキッカケで「暴走」してしまったのだ。
もちろん、私のことばも彼女もことばも本心ではない。
お互いを思いやるからこそどうしようもないイライラがお互いの心の中にうず高く積もり積もっていく。
そして、それはほんのちょっとしたキッカケで崩れ堰を切ったように流れ出す。
世の中には老人が老人を介護する「老老介護」だとか認知症の認知症の人間を介護する「認認介護」だとかいう、やるせなくなるような不条理なことばが溢れかえっている。
それだけ日本の社会は介護の問題だらけということだろう。
でも、私たちの場合は、彼女が身体の麻痺のために24時間介護を必要としていても、少なくとももう一方の当事者である私はごく普通の健常者だ。
自由にものを考え自由に動き回れる。
だから私が彼女の面倒を見るのは当たり前、と思ってきた。
ところが、必ずしもそうでもないのかナと時々疑問に思う。
このままもし私が鬱やイライラで自暴自棄になって電車にでも飛び込んでしまったら…。
あるいは、今度は私が心筋梗塞だとか脳卒中だとかで突然倒れてしまったら…。
そうなると、「老老介護」とか「認認介護」どころの話ではない。
恵子は突然糸の切れたタコのように空中に放り投げられてしまうことになるのだ。
彼女の面倒は一体誰が見てくれるというのだろう。
それでも、人は生きていくよ、と言うかもしれないし、実際そうなのかもしれない。
でも、そんな恐れや毎日の家事、介護の積み重ねで私の頭はきっと押しつぶされそうになっているのだろう。
そんな私の頭を恵子はちゃんと見抜いている。
泣きじゃくりながら彼女は私の心配をする。
「一番心配なのはヤマネコだ。ヤマネコがどうにかなっちゃったら大変だ…」。

そんな私たち二人の心を救ってくれたのは、やはり「音楽」だった。
別にこの音楽じゃなきゃいけないというものは何もない。
私は、何気にバッハの無伴奏チェロ組曲を選んでいた。
緊張と不安で張りつめた二人の間にある空気。それを和らげてくれるものはチェロの心地よい振動しかないと思ったからかもしれない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿