今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「私は私の語彙が母親ゆずりだと今にして思うのである。私の父は旧式な父親のひとりで、子供と話はしなかったし、それに私が小学生のとき死んだ。母は八十九まで、つまりついこの間まで生きていたから自然私は父の言葉より母の言葉で育った。彼女の教養は多く芝居に負っていたから、いくら私が歌舞伎が理不尽だと思っても自然その影響を受けないわけにはいかない。
私は二十三のとき『年を歴(へ)た鰐の話』を翻訳したが、そのなかに『今は老いた鰐は悲しや足をあげようとしても自由にあがらなかった』と書いた。
今でも私は可愛や怪しやなどと書く。これは紙屋治兵衛(じへえ)のせりふが口をついて出たものらしい。『かわいや小春がともしびに、そむけた顔のあのやせたことわい』と、治兵衛はなげいている。その浄瑠璃の文句をいつかおぼえて、それが自然に出たのだろう。”今さら言うも過ぎし秋、四谷で初めて逢うたとき好いたらしいと思うたが、因果な縁の糸車という新内の文句はどこでおぼえたか知らないが、むかしサンパティックという言葉を、好いたらしいと訳して失笑を買ったのは、これが意識下からとつぜん出て来たのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「私は私の語彙が母親ゆずりだと今にして思うのである。私の父は旧式な父親のひとりで、子供と話はしなかったし、それに私が小学生のとき死んだ。母は八十九まで、つまりついこの間まで生きていたから自然私は父の言葉より母の言葉で育った。彼女の教養は多く芝居に負っていたから、いくら私が歌舞伎が理不尽だと思っても自然その影響を受けないわけにはいかない。
私は二十三のとき『年を歴(へ)た鰐の話』を翻訳したが、そのなかに『今は老いた鰐は悲しや足をあげようとしても自由にあがらなかった』と書いた。
今でも私は可愛や怪しやなどと書く。これは紙屋治兵衛(じへえ)のせりふが口をついて出たものらしい。『かわいや小春がともしびに、そむけた顔のあのやせたことわい』と、治兵衛はなげいている。その浄瑠璃の文句をいつかおぼえて、それが自然に出たのだろう。”今さら言うも過ぎし秋、四谷で初めて逢うたとき好いたらしいと思うたが、因果な縁の糸車という新内の文句はどこでおぼえたか知らないが、むかしサンパティックという言葉を、好いたらしいと訳して失笑を買ったのは、これが意識下からとつぜん出て来たのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)