今日の「お気に入り」。
「 夜さり、台所の土間で吉爺は縄をなっている。
鉄砲組方の調練がちかく目代野でもよおされる。一丁縄と十間縄を調練にそなえてなっておかなけ
ればならない。いつものことながら吉爺が測り縄をなうのは目にもとまらぬ早わざである。いくすじ
かの藁しべがもみ合せている両手に吸いこまれたかと思えば、一本の縄に変って生あるもののように
するするとのびてゆく。うちわのように大きい手である。その手で吉爺は櫓をにぎり、帆をはったの
だ。
『吉よい、陸(おか)を行けば佐賀まで何日かかると』
『三日でごんす、早馬なら一日』
『船で走れば佐賀まで何日かかると』
『風向き次第でごんす、順風なら半日、逆風なら岬泊りして追い風に変るまで碇ばうたずばなりませ
んと』
『吉よい、本明川を下れば海に出るとだろう』
『河口に出るまでが難儀でごんす、あっち曲りこっち曲りせずばなりませんと、潟に舳先ば乗り上げ
れば舵とりが名折れ、ふうけもんのどまぐれのとそしられます、吉は一度も舵とりばあやまったこと
はござんせん』
『吉よい、私は海ば見たことはなかと』 」
( 野呂邦暢著 「諌早菖蒲日記」 梓書院刊 所収 )