今日の「お気に入り」は、「 尾崎放哉句集 」( 池内 紀編、岩波文庫 ) の 巻末にある 編者 池内 紀 ( いけ
うち おさむ、1940 - 2019 ) さんの 「 解説 」です 。
「 尾崎放哉は不思議な俳人である 。自由律俳句の秀作をのこした 。吐息のような一行だが 、いちど知
ると忘れられない 。なにげなく目にとめたのが 、いつまでも記憶にしみついている 。たあいない句と
思うのに 、奇妙に印象深いのだ 。まさしく『 放哉俳句 』というしかない 。
そのおおかたが晩年の三年間にできた。厳密にいうと 、もっと短い期間だろう 。死とつばぜり合い
をするようにして俳句が生まれた 。おのずと放哉作には死と生とが紅白二本の糸のようによじ合わさ
れている 。
さらにこの俳人に特異なところだが、その句は作者ひとりのものではなかった 。作り手の背後に直
し手がいた 。わが国の短詩型の世界の作法であって 、師が弟子の作を添削する 。ムダを省いて 、不
足をつけ加える 。それをしてもかまわない 。添削を受けたからといってオリジナルの価値は減じない 。
その約束を前提にしている 。
口あけぬ蜆(しじみ)死んでゐる
放哉秀句の一つである 。もとの句はこうだった。
口あけぬ蜆淋しや
師にあたる人が『 淋しや 』を『 死んでゐる 』と添削した 。とたんに淡い叙情句が厳しい死の造型
になった 。この種の例は無数にある 。
とすると放哉俳句は師との共作というべきなのか ? むろん 、そんなことはない 。俳句世界の約束
からもオリジナル性は変わらない 。作者の価値は減じない 。作り手の背後に直し手のいたこと自体 、
とりたてて尾崎放哉に特異なところではない 。
ただこの俳人の場合 、添削の意味がふつうとはちがっていた 。はじめは作り手 、直し手とも気が
ついていなかったかもしれない 。ごく通常の約束ごととしてすすめられた 。それがあるころから 、
めだって一つの方向性をおびてきた 。そのもとに作られ 、そのもとに直された 。そのうち直すまで
もなくなった 。放哉秀句は 、このようにして誕生した 。」
( 筆者註 : 文中にある『 作り手 』は尾崎放哉 ( おざきほうさい 、
明治18年 - 大正15年、1885 - 1926 ) さん 、
『 直し手 』は 荻原井泉水さん ( おぎわらせいせんすい 、
明治17年 - 昭和51年、1884 - 1976 ) さん 。)
( 中 略 )
「 わが国の年号ではわからないが 、西暦にてらすと浮かび出る 。放哉の死んだのが一九二六年 、
井泉水の死は半世紀のちの一九七六年 、それから二十年後の一九九六年に眠っていた句稿が世に現わ
れた 。文業はときにたのしいイタズラをするものである 。」
( 出典:「 尾崎放哉句集 」池内 紀編 ( 岩波文庫 ) ㈱岩波書店 刊 )
「 解説 」の引用はここまで 。
ここからは 、放哉さんの自由律俳句をいくつか 、『 放哉さんの 原句 』と『 井泉水さんによる 手直し後 』
を併記します 。
『 原 句 』 『 手直し後 』
「 汽車通るま下た草ひく顔をあげず 」 「 背を汽車通る草ひく顔をあげず 」
「 たった一人分の米白々と洗ひあげたる 」 「 一人分の米白々と洗ひあげたる 」
「 時計が動いて居る 寺の荒れてゐること」 「 時計が動いて居る 寺の荒れてゐる 」
「 いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞 」 「 壁の新聞の女はいつも泣いて居る 」
「 お粥をすゝる音のふたをする 」 「 お粥煮えてくる音の鍋ふた 」
「 一つ二つ蛍見てたずね来りし 」 「 一つ二つ蛍見てたづぬる家 」
「 添削後 」は確かにいいが、「 原句 」にも味わいがあるような 。
今日の「お気に入り」、放哉俳句を もう一つ 。
「 女よ女よ年とるな 」