今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。以下は 、この紀行文「 播州揖保
川・室津みち 」の旅がはじまる前の導入部分 。
作家の旅の同行者の紹介などもある 。挿絵を担当
する須田画伯や編集部のHさんは 、「 街道をゆく 」
の常連さん 。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 私どもは 、大阪湾をかこむ地方に住んでいる 。
淀川の河口を中心とすれば 、私はその東郊の中
河内の猥雑な低湿地に住み 、須田画伯はその西郊
の摂津(せっつ)夙川(しゅくがわ)という高燥閑雅な
住宅地に古くから住んでいる 。文学博士安田章生
(やすだあやお)氏は 、やや内陸?に入った北摂の
石橋に住む 。石橋には歌の名所の待兼(まちかね)
山があり 、歌人であるほか 、『 古今 』『 新古
今 』の学究として定評のあるこの人の住む場所に
ふさわしい 。
京都に住む編集部のHさんは 、この朝 、まず夙
川の河口の須田画伯宅から画伯を運び出し 、つい
で北上して石橋へゆき 、難なく安田夫妻をのせて 、
そのまま中国縦貫自動車道路という高速道路に宝塚
から乗った 。この山間部を西へ直進する道路でゆく
と 、一時間ほどで播州山崎に着けるという 、かつ
ての距離感覚からいえば 、うそのような交通地
理になっている 。
幸いなことにこの縦貫道路は大阪の東郊の私の住
むあたりまで延びてきている 。私はこの道路にさ
え乗っかれば 、二十分後には 、この道路の宝塚
地点で待つ須田画伯や安田夫妻と合流できるわけ
である 。
実際そのとおりになった 。ニ十分後には私は宝
塚地点にいたし 、そこでいそぎ車を乗りかえ 、
すぐさま安田氏の座席の横にすわるというふしぎ
な変化の中にいた 。」
「 車中 、播州門徒の話になった 。
『 播州は一向宗( 本願寺門徒 )の強い土地です
から 』
と私がなにげなくいうと 、自分の知らないこと
については少年のような質問したりする安田氏は 、
このときも 、ははあそれほど門徒の勢力がつよか
った土地ですか 、と反問した 。
本願寺ではいまでも 、門徒勢力の強かった土地
については 、とくに国名を冠して特別な地帯のよ
うにして称(よ)んでいる 。加賀(かが)門徒 、三
河(みかわ)門徒 、播州門徒 、安芸(あき)門徒と
いうようにしてよぶ 。この四大勢力のほかは東海
門徒ということばが存在する程度で 、あまり他の
土地については聞かない 。たとえば越中( 富山
県 )なども強い勢力があったのに 、とくに越中門
徒というぐあいにしてよばないのは 、あるいは戦
国期の一向一揆と関係があるかもしれない 。」
「 まことに中国縦貫自動車道路は 、快適である 。
戦国の織田信長のごときは早い時期に上方をお
さえていながら 、中国への入口である播州へ進
出するのにその晩年の長い歳月をついやしてしま
い 、代官の羽柴秀吉によって播州の平定を見た
とき 、本能寺で死んだ 。私どもは宝塚を出てか
ら一時間ほどで山崎へ入り 、『 山崎 』と書か
れた標識のそばを通りぬけて普通道路に降りた 。
信長の苦心などは 、こんにちの交通条件の上を
走っているかぎりは 、まことに実感をうしなう 。
降りた道路は 、北上して因幡( 鳥取県 )へ
ゆく国道29号線である 。私はこの稿の表題で
この道を仮りに『 揖保川・室津みち 』などと
便宜上よぶことにしたが 、しかし土地では『 因
幡街道 』といういかにも旅の道にふさわしいい
い名前でよばれている 。ついでながら因幡の国
に入るとこの道は名が変って『 若桜街道 』とい
う優美な名前でよばれる 。鳥取県に若桜という
土地があって 、道路がその在所を通っているた
めだが 、要するに殺風景によべば国道29号線
であることに変りがない 。
山崎の町に降りたが 、町へは帰りに寄ることに
し 、いまは一気に北上して伊和郷の一宮神社へ
行ってみることにした 。」
「 因幡街道は 、南流する揖保川に沿って北上して
いる 。揖保川はこの上流までくると浅瀬が多く 、
陽が水底の白い小石にまでよく透っており 、鮎が
多く棲むというだけにまことに透明度が高い 。対
岸は晩春の若葉で装われた雑木山だけに 、流れに
も山にも風が光をさざなみ立たせているようで 、
じつにあかるい 。」
引用おわり 。
ひとは去ったが 、
作家の旅から五十年後のこんにち 、
室津みちの風景は 、かわらずにあるんだろうか 。
(⌒∇⌒) 。。
( ついでながらの
筆者註:「須田 剋太(すだ こくた 、1906年5月1日 -
1990年7月14日 )は 、日本の洋画家 。埼玉県生 。
浦和画家 。
人 物
当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが 、1949
年以降抽象画へと進む 。力強い奔放なタッチが特徴
と評される 。司馬遼太郎の紀行文集『 街道をゆく 』
の挿絵を担当し 、また取材旅行にも同行した 。」
(⌒∇⌒) 。。
「 安田 章生( やすだ あやお 、1917年〈大正6年〉
3月24日 - 1979年〈昭和54年〉2月13日)は 、昭和
期の歌人 、国文学者 。文学博士 。
人 物
尾上柴舟門下の歌人・安田青風の長男として兵庫県
に生まれる。
( 中 略 )
中世和歌の精神を短歌に導入することにつとめ 、
国文学者としては藤原定家 、西行研究の大家であ
った 。1964年、『 藤原定家 』で大阪大学より文
学博士号取得 。」
(⌒∇⌒) 。。
以上ウィキ情報 。)