今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 新潟市の東方にある豊栄(とよさか)市は 、国道ぞ
いだけが 、とりとめもなく都市化している 。
国道から 、木崎という旧村へゆくべく枝道に入る
と 、昔ながらの田園がひろがりはじめる 。昨夜降
った雨があちこちに溜まって 、日射しをはねかえ
したり 、樹影をうつしたりしている 。村内に入る
と 、道は水をたっぷりふくんでいて 、スポンジを
踏むような感がある 。
木崎村は亀田郷とおなじ低湿地だが 、亀田郷のよ
うにいかにも超現代的共同体というような基盤や自
治的規制をもたないために 、どこにでもある都市
近郊農村のように 、集落としての景色も秩序美も
もっていない 。」
(⌒∇⌒) 。。
「 木崎村というのは 、大正末年 、ここに大規模な
小作争議がおこったことで有名である 。結局は法
廷でやぶれたが 、争議期間が長かったことと 、争
議が整然と運営されたこと 、当時としてはめずら
しく県外から有力な応援者が駆けつけたことなど
で 、大正期に頻発した小作争議のなかでは一つの
典型として記憶されている 。」
「 当時の幹部で 、今なお元気な人がいるという 。」
「 明治二十六年うまれの池田徳三郎氏だという 。」
「 池田翁は 、
『 木崎村は 、江戸時代はみな自作農だった 。明治
になってから小作農になった 。』
私のほうをむかず 、在来 、話し馴れている村の人
のほうをむいていった 。この人の叙述の仕方はじつ
に明晰で 、木崎村をはっきりと客観的に対象化して
とらえている 。『 私は 』と 、途中で翁がいうの
に 、
『 はずかしいことだが 、尋常 ( 尋常小学校のこと )
も 、六年上(あが)ればよかったのに 、四年しか行
がねえ 』
だからうまく言えねえが 、という 。しかし 、叙述
の的確さは 、なまじいな研究者から物をきくよりも
みごとなものがある 。
『 宝暦年間( ほぼ一七五〇年代 )から 』
と 、簡潔に村史をいう 。宝暦年間というのは江戸
期でももっとも充実した時期で 、『 仮名手本忠臣
蔵 』の作者竹田出雲の晩年であり 、蘭学者杉田玄
白 、思想家の三浦梅園 、安藤昌益 、医家の山脇東
洋などの活動期でもあり 、また大岡裁判の大岡越前
守が最晩年をむかえたころでもある 。そのころから
この湛水地にひとびとがやってきては 、土を投げこ
んで稲を植えた 。
『 ・・・ やってきた者たちが 、芦のはえたドブハ
ラを耕して自分の田を自分でつくってきた 』
その作業を子や孫が継ぎ 、江戸期いっぱいそれを
繰りかえして明治を迎えた 。」
「 明治維新直後 、太政官の財政基礎は 、徳川幕府
と同様 、米穀である 。維新で太政官は徳川家の直
轄領を没収したから 、ほぼ六百万石から八百万石
ほどの所帯であったであろう 。
維新後 、太政官の内部で 、米が財政の基礎をな
していることに疑問をもつむきが多かった 。
『 欧米は 、国家が来期にやるべき仕事を 、その
前年において予算として組んでおく 。ところが
日本ではそれができない 。というのは 、旧幕同
様 、米が貨幣の代りになっているからである 。
米というのは豊凶さまざまで 、来年の穫れ高の予
想ができないから 、従って米を基礎にしていては
予算が組みあがらない 。よろしく金(かね) を基礎
とすべきであり 、在来 、百姓に米で租税を納めさ
せるべきである 』
明治五年 、三十歳足らずで地租改正局長になった
陸奥宗光が 、その職につく前 、大意右のようなこ
とを建白している 。武士の俸給が米で支払われる
ことに馴れていたひとびとにとっては 、この程度
の建白でも 、驚天動地のことであったであろう 。
が 、金納制というのは 、農民にとってたまった
ものではなかった 。
農民の暮らしというのは 、弥生式稲作が入って
以来 、商品経済とはあまりかかわりなくつづいて
きて 、現金要らずの自給自足のままやってきてい
る 。『 米もまた商品であり 、農民は商品生産者
である 』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれ
ても 、現実の農民は 、上代以来 、現金の顔など
ほとんど見ることなく暮してきたし 、たいていの
自作農は 、米を金に換えうる力などもっていなか
った 。」
「 どうすれば自作農たちが金納しうるかということ
については 、政府にその思想も施策も指導能力も
なにもなく 、ただ明治六年七月に『 地租改正条
例 』がいきなりといっていい印象で施行されただ
けである 。
これが高率であったこと 、各地の実情にそぐわ
なかったことなどもふくめて 、明治初年 、各地
に大規模な農民一揆が頻発するにいたるのだが 、
木崎村はこのときには一揆をおこしていない 。
池田翁の話ではただ仰天し 、とても納める金な
どない 、ということで 、金納の能力をもつ大地
主をさがして 、
『 安い金で買ってもらったんです 。地主に金納
してもらい 、自分は先祖代々耕してきた田を依然
として耕し 、以前 、藩に米を納めたように 、地
主に物納してゆく 。つまり 、小作になったわけ
です 』
と 、池田翁はいう 。全国的にその傾向があり 、
これによってどの府県でも圧倒的な大地主という
のはこの時期にできあがるのだが 、その間のこと
を 、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人
が肉声で言うのを聴くのは 、ちょっと凄味があっ
た 。」
「 この消息を 、池田翁は 、やや諧謔をこめて 、
『 地主だって 、小地主はそう田地を持ちこまれ
ても 、金納の能力はない 。そこをなんとかお願
いします 、といって 、酒や赤飯を持って行って
ただで引きとってもらった例も多いんです 。そう
いうぐあいにしてみな小作になった 』
やがて小地主も倒れてゆき 、大地主だけは膨れ 、
明治政府は大地主から得た金で財政をまかなって
ゆくのだが 、大正期になると 、小作農は暮らし
の苦しさと政治意識の自覚が高まって 、各地に
小作争議が頻発する 。」
「『 争議のきっかけは 、はっきりしていないが 、
大正十一年にスガイ・カイテン翁がやってきて 、
各部落に小作組合ができた 』
以後 、話の中でしばしば 、スガイ・カイテン
( 須貝快天 )翁という名が出たが 、池田翁はこ
の名前を発音するたびに微妙な懐かしさを籠めた 。
川瀬新蔵著の『 木崎村農民運動史 』では 、カ
イテン翁については 、『 北越農民運動史のリー
ダー 』とあるのみでこの名前は一ヵ所しか出て
いないが 、池田翁はカイテン翁がおそらく好き
だったにちがいなく 、勢い 、その生い立ちに
まで触れはじめた 。( 後 略 )」
「 池田翁は 、話術の名手といっていい 。話が外
(そ)れたりもどったりしつつも しん が通って
いる 。話が外れるのも当時の人情を語るためで 、
話全体が 、絵でいえば明治の錦絵の描法のよう
でもあった 。」
「 この争議のヤマは 、裁判だった 。
大正十二年五月 、地主の真島家が小作人十二人
に対し 、小作料未払いを理由にその請求のための
訴訟を新発田区裁判所に提起した 。つづいて同十
三年三月 、同家は小作人六十余人に対し 、小作
米未納を理由に仮処分の申請をし 、新発田区裁判
所によって受理された 。
このことについては 、川瀬新蔵氏の『 木崎村農
民運動史 』には 、
父祖伝来愛着の土地に『 小作人立入る可(べか)
らず 』の禁札が 、雪解の水を湛えて氷雨煙る
中に鷗(かもめ)の如く点々として樹てられた 。
とある 。鷗のごとくとあるのは禁札に白ペンキ
が塗られていたためらしく 、こういう叙景は 、
川瀬氏という著者自身が当事者の一人だったから
こそ書けたのであろう 。」
「 裁判は 、小作人側の弁護人として片山哲氏がひ
きうけた 。後年 、昭和二十二年六月に成立した
社会党内閣の総理大臣である 。
『 新発田の裁判所まで何度も足を運んで 、傍聴
に行った 。あのころの傍聴は羽織袴でないといか
んという規則があったが 、私は羽織も持たず 、
袴も持っていなかったので 、そのまま行った 。』
と 、池田翁はいう 。
裁判は相当ながびき 、その間 、全国の無産運動
者側の応援もあり 、争議団の大会 、講演会 、就
学児童五百余人の同盟休校 、農民学校の開設など
もあって 、よほど世間の耳目をあつめたらしい 。
東京の新聞はほぼ争議団に同情的で 、国権主義傾
向のつよい『 国民新聞 』でさえ 、大正十五年八
月十五日付の社説で 、『 元来 、土地は天賜のも
の 』という基本論を説いている 。
元来土地は天賜のもの 、之を一国の法制を以つて
私人の所有に委ねる所以のものは 、土地の能力を
国家社会のため十分に発揮せしめるに出づる 。国
は土地を私に有用に利用すべく信託するのである 。
これ以外には土地私有の合理的根拠はない筈であ
る 。所有は後であって 、地力発揮が先きである 。
しかるに土地の法的所有そのものを至上に尊しと
するは 、社会生活の理想に反する 。
土地私有と私有にともなう行為についての無制限
にちかい現実はいまも変ることがなく 、この社説
はこんにちの新聞に掲げられても 、すこしの違和
感もない 。
木崎村の小作問題の裁判は 、女学生まで団体で
傍聴にきたらしい 。
当時 、田舎では女学生の姿そのものがめずらし
い時代で 、『 何もかも忘れっしもうた 』と池田
翁は言いつつも 、そのことだけはよくおぼえてい
る 。
『 あるとき 、傍聴人だったか 、静かな法廷で大
きな屁をひった者がある 。それでもっておおぜい
の女学生が笑いだして笑いがとまらず 、法廷もな
にも 、どうにもならなかった 』
と 、追想の風景を 、笑わずにいった 。
裁判は 、結局 、小作人側の負けになった 。
が 、八十翁の記憶にはそのことがない 。
『 忘れっしもうた 。あンだけ新発田まで足を運ん
だのだが 』
と言い 、このときだけは風の中で口をあけて笑っ
た 。」
引用おわり 。
ながながと引用してしまったが 、
この文章が書かれてから50近く経った現代日本の
土地私有と私有にともなう行為についての無制限に
ちかい現実はいまも変ることがないどころか 、混迷
の度を深めているように思える 。