「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

こうやくん Long Good-bye 2024・11・28

2024-11-28 05:33:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 高野山みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。備忘のため 、「 真田庵 」と題さ

 れた小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 私は『 城塞 』という大坂ノ陣を背景にした
  小説を書いたとき 、取材というほどの大げさ
  なつもりではなしに九度山にきたことがある 。 
  真田氏の父子が関ケ原で敗れたあと 、徳川氏
  に処罰されてこの地に配流された 。やがて父
  の昌幸がこの九度山で老いて死に 、子の幸村
   ( 信繁 ) が 、当時 、一種孤立の状態にあった
  豊臣秀頼に招かれ 、大坂に入城する 。とも
  かくも かれらは 、この店と道路一つへだてた  ( ドライブ・イン「 幸村 」)
  九度山の集落で十余年をすごしたのである 。

   九度山で暮らしたのは 、昌幸とその夫人 、
  幸村とその夫人 、およびかれらの侍女たち 、
  それに信州から随(したが)ってきた家来十六
  人であった 。講談でいう猿飛佐助 、三好清
  海入道ら真田十勇士の物語はこの十六人の家
  来であった 。講談でいう猿飛佐助 、三好清
  海入道ら真田十勇士の物語はこの十六人の家
  来に仮託されたものだろうが 、ただし十六人
  の姓は講談の十勇士の姓とは異なっている 。」

 「 真田氏は 、信州では有力な地侍だったよう
  だが 、武田信玄の勢力が信州に伸びるとこ
  の傘下(さんか)に入って被官になった 。
   武田の勢力は信玄の死で傾いた 。やがて子
  の勝頼が織田信長に亡ぼされ 、さらにその
  信長も本能寺で急死するといった変動がつづ
  いたあげく 、真田昌幸は信州で自立する気
  勢を示した 。昌幸は戦国人としては遅くう
  まれすぎたほうだが 、この変転のなかで生
  きてゆくうち 、
   ―― あるいは自分にも天下を望む資格があ
  るかもしれない 。
   と 、考えはじめたことはたしかである 。
  昌幸は戦国の太陽の熱気を渾身(こんしん)
  に享(う)けて育ったし 、その器才もそれに
  適してはいたが 、しかし時代の暦(こよみ)
  はかれの熱気と才能を置きざりにして移り
  つつあった 。戦国という一つの時代が過ぎ
  ようとするとき 、かえって時代の典型的人
  物が出現して志の場違いに悩むものだし 、
  結局 、多くは志をすてて風雅の道などに入
  ってしまうものだが 、昌幸は志をすてきれ
  なかったところに可笑(おか)しみがあると
  いっていい 。
   かれは関ケ原を好機とした 。
   後嗣の伊豆守(いずのかみ)( 信幸 )を家
  康方に付け 、自分は部屋住みの若い左衛
  門佐(さえもんのすけ)( 幸村 )を連れて
  さっさと石田三成方へ奔(はし)った 。ど
  ちらが勝っても真田家は残るという保険的
  な算段だが 、この露骨な計算はいかにも
  戦国を生きぬいてきた男のすさまじさがあ
  る 。
  ( 家康が勝つかもしれない )
   と 、昌幸はおもっていたであろう 。石
  田三成の人望のなさと政戦略の能力のひく
  さは 、家康とくらべようもないほどで 、
  そういう値踏みのたしかさにおいては昌幸
  には天稟(てんびん)がある 。それでもな
  お昌幸が幸村を連れて三成の旗のもとに奔
  ったのは 、むしろ三成が庸人(ようじん)
  であることに ばくち の魅力を感じたにち
  がいない 。たとえ三成が勝っても諸将の
  統制がとれず 、結局は 関ケ原の再戦が
  あり 、そのときは自分が一方の旗頭にな
  って三成を倒し 、天下をとるという計算
  があったにちがいない 。
   しかし結局として関ケ原の再戦はなかっ
  た 。家康が勝ち 、従って家康に属した
  伊豆守信幸はその功によって昌幸の所領
  ( 八万八千石 )をそのまま与えられ 、さ
  らに加増されて十一万五千石の身代にな
  り 、この家は明治までつづく
   昌幸と次男の幸村は 、失落した 。一命
  をたすけられたのは 、長男の伊豆守の奔
  走による 。
   九度山での昌幸の十余年は 、
  『 関ケ原は一度では済まない 。もう一
  度大きないくさがある 』
   という期待と願望をこめた話題を 、子
  の幸村に対してひそかに語りつづけた歳
  月であったであろう 。昌幸はかれが予言
  しつづけた大坂ノ陣がおこる前に病死す
  るのだが 、その遺志を ―― というより
  乱世への熱気のようなものを ―― 子の
  幸村がひきついだ 。このあと幸村が豊臣
  秀頼にまねかれて九度山を脱出し 、勝目
  のすくない大坂城に入り 、召募(しょう
  ぼ)浪人たちを指揮して孤城を守るのだが 、
  昌幸の見果てぬ戦国の夢が幸村の情念の
  ようなものに化(な)っていたのかもしれ
  ない 。」

 「 九度山での真田父子は 、紀州の領主の
  浅野氏から五十石の養い料をもらってい  ( 五十石って玄米 7,500kg )
  たし 、信州の伊豆守からの仕送りなども  ( 60kg の米俵なら 125俵 )
  あって 、窮乏はしていなかったらしい 。  ( 家来も含めて 20人以上 の大所帯 )
  しかしそれでも畑仕事をしたり 、のちに
  『 真田紐 』とよばれた信濃風の組紐(く
  みひも) を打ったりしていた 。

 ( 以下は 、「 政所 ( まんどころ )・慈尊院  」と題された小文の中からの抜き書き 。)

 「 慈尊院の石垣は 、路上から屹立(きつり
  つ)している 。石垣は全体に苔やしだ類
  があおあおと覆い 、人工でありながら 、
  そのものが偉容ある自然物のような観を
  呈している 。
   石段をのぼって山門の梁(はり)の下に至
  り 、ふりかえって紀ノ川の水明かりがす
  る川湊の方角をみると 、川湊から石段ま
  で届いているまっすぐな道路わきには古
  風な民家の屋根がならび 、目の前に老松
  の幹が おろち のように斜めに視野を横
  切って 、江戸期の風景画を見るような感
  じがする 。
  『 ここは 、空海のお母さんのお寺です
  ね 』
   と 、須田画伯は写生をしながらいった 。」

 「 高野山麓のこの慈尊院は 、空海在世中
  に建立されたといわれる 。『 高野略記 』
  という古い本に 、この家が空海の当時か
  ら下院(げいん)といわれ 、空海は厳寒の
  時期は降りて避寒したといわれる 。
   空海の母は 、讃岐の阿刀(あと)氏の出
  である
  『 紀伊続風土記 』などによると 、承和
  元 ( 834 ) 年にはるばる空海を高野山ま
  で訪ねてきたという 。空海はこの慈尊院
  に住まわせた 、となっている 。『 野山
  名霊集 』によると 、空海はその母を『 此
  所に室を構(かまへ)て留置(とどめおか)れ 、
  現当の御孝養を尽され 、常光といふものを
  御給仕に附置せ玉ひ 』などとある 。この
  母は訪ねてきた翌承和二年二月五日 、八十
  三歳で『 娑婆(しゃば)の縁尽 』きて逝き 、
  この寺が廟所になり 、以後慈尊院とよばれ
  るようになった 。空海も 、それから一カ
  月ののちに六十ニ歳で入定(にゅうじょう)
  する

  引用おわり 。

  。。(⌒∇⌒) 。。

  筆者が 、毎日のように通る道すがら 、見掛けるのが 、

 高野山真言宗 の 末寺 の門前にある看板 である 。寺の由

 来などが書かれた看板の末尾に 、「 永代供養 」「 人形

 供養 」「 ペット埋葬 」と三つの営業種目が かかれている

 のがいかにも現代の寺らしい 。ゆるキャラの「 こうやくん 」

 も気に入っている 。 

 。。(⌒∇⌒) 。。

 

      

    

 

  

 

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