今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。述べられている風景は 、こんにち
でも余りかわっていないのではないか 。知らんけど 。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 幾度ものべたように 、新潟市の南につらなる亀
田郷は 、まことに一望鏡のように平坦である 。
『 潟のみち 』
と自分で勝手に名づけてこの変哲もない田園を
歩いているのだが 、こんにち 、ただ一つの例外
を除いて潟は残っていない 。
鳥屋野潟(とやのがた)だけが 、残っている 。
この潟を地図でみるとカタチは琵琶湖に似てい
る 。むろん湖などというほど大きいものでなく 、
潟のまわりは一〇キロほどでしかない 。」
「 亀田郷はことごとく干上がって陸地になったが 、
鳥屋野潟のみは可憐にも古代以来の潟と湛水地と
いう地形をまもって水をたたえているのである 。
明治時代の地理書をみると 、
『 鳥屋野潟は 、古い時代の湾の名残りにちがい
ない 』
という意味のことが書かれている 。」
「 この潟のまわりの鳥屋野という旧村は亀田郷の
どの土地よりも低く 、亀田郷のあらゆる土地か
ら水が流れてくるようになっている 。地図を見
ると 、海面の高さにくらべてマイナス一メート
ルである 。
『 諸村の悪水流入す 』
と 、前記明治の地理書にある 。諸村にとって
自分たちの土地に降った雨などが 、大小さまざ
まな水路をつたって鳥屋野村へ流れこむ 。ふつ
うなら村が『 悪水 』で沈没するところだが 、
悪水を受けとめる鳥屋野潟があるために救われ
ている 。まことにこの意味では近世以来 、亀
田郷のひとびとにとっては大恩ある沼といって
よく 、水天宮でも祀って子々孫々まで感謝して
もおかしくはない 。 」
「 鳥屋野潟の堤の上にのぼると 、堤の上には桜
が植えられていて 、並木をなしていた 。おそ
らく公園にするという計画があったのであろう 。
ところが並木道のそばは 、長く列をなしてラ
ブ・ホテルが押しならび 、その装飾過剰な建物
のむれが 、景観を特殊なものにしている 。ま
わりは 、稲作の田園である 。ちょっと異様な
景色といっていい 。 」
「 ともかくも土地に関する私権が無制限にちかい
社会だから致しかたないが 、はるばるとこの潟
をめざしてきただけに 、気が滅入った 。」
「 鳥屋野潟は 、大いなる水溜まりとして 、いま
もこの土地の乾湿に大きな役割を果たしている 。
この潟の東端に栗ノ木川という小さな川が不要
の水をはこんできてこの潟に流しこみ 、同時に
その東端でポンプによる揚水がなされ 、水は水
路をつたって信濃川河口に流れこむ 。
それだけでなく 、潟の西端が大きく切りとられ 、
直線一・五キロほどの立派な排水路によって 、
信濃川の『 親松 』という地点に流しこまれ 、
盛大に排水されている 。
鳥屋野潟から 、親松まで行ってみた 。
『 親松排水機場 』
という三階建のビルがあり 、ここに巨大なポ
ンプがいくつも据わっていて 、これが日夜稼働
して亀田郷の水( 具体的には鳥屋野潟に集めら
れた水 )を信濃川へ吐き出して海へ送っている
ということによってのみ 、亀田郷は乾いた陸と
して存在しているのである 。
『 亀田郷は親松のポンプで保(も)っているので
す 』
と 、佐野藤三郎氏がいったことばが 、この屋
内に入るとよくわかった 。
このポンプ場は 、農林省がつくった 。
維持管理費は年に九千万円で 、その分担の内
訳は国が4 、県が4 、亀田郷が2だという 。」
「 このポンプを見あげていると 、われわれの社
会はじつによくやっているという気持が湧いて
くるが 、しかし土地についてのわれわれの思想
の中に公の習慣がほとんどないためになにかこの
現状での折角の努力も 、かつての亀田郷のひと
びとの労苦も 、結果としては珍妙なものになっ
ているのではないかと思えたりした 。」
引用おわり 。
(⌒∇⌒) 。。🐸 。。
グーグル・マップのストリートビュー―で『 鳥屋野潟(とやのがた)』
の周囲の みち や 信濃川河畔にある『 親松排水機場 』の外観をみる
ことが出来た 。
書かれた文章の五十年後の風景をみられるなんて ・・・ 🐸 。。
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