「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

不輸不入 Long Good-bye 2024・11・30

2024-11-30 06:03:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 高野山みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。

   備忘のため 、「 政所 (まんどころ)・慈尊院 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   書き写す手が止まらない 。

   引用はじめ 。

 「 高野山へ登るのは いまはケーブル・カーか
  自動車道路によるが 、かつては七つの登山
  口があった 。高野街道西口 、京街道不動
  坂口 、龍神街道湯川口 、熊野街道相浦口 、
  同大滝口 、大峰街道東口 、大和街道粉搗
  (こつき)口である 。
   このうち 、平安朝いらいもっとも繁く人
  々が踏みならした道は 、慈尊院から登っ
  ていく高野街道西口で 、町石道(ちょうい
  しみち)とよばれたりした 。いまはほとん
  ど廃道になっているらしい 。
   十年ばかり前 、この旧道を高野山大学の
  若い先生と学生十人ほどが 、ところどころ
  密林のようになっている旧道を登ったこと
  があるという 。もはや人の通えるような道
  ではないといわれる 。」

 「 境内を突っ切って奥へ至ると 、そこから
  再び長い石段になる 。かつて旧道をたどっ
  たひとびとは 、この石段の途中まで登り 、
  そのまま石段を右へ離れ 、そこから出てい
  る山道へ足を踏み入れるのである 。」

 「 旧道への入口は 、まだ入口であるという
  のに 、雑木で鬱然とし 、樹々の下に木下
  闇(このしたやみ)ができていた 。その木下
  闇を背にして 、大きな花崗岩の町石が建っ
  ている 。
   町石というのは一丈一尺の石柱で 、山頂
  まであと何町ということを知らせる道しる
  べなのだが 、石柱の頂が五輪のかたちを
  なし 、石柱の表面に梵字が刻まれ 、形は
  簡素な石の柱ながらも一基ずつがさまざま
  な菩薩を象徴しているということになって
  いる山頂の大門まで百八十基ある 。ほ
  んの十年ばかり前までは道の廃(すた)れと
  ともに多くの町石が谷底にころがったり 、
  人知れずに傾いていたりしたが 、最近 、
  文化庁の肝煎(きもいり)で谷底にころがっ
  ているのを滑車をつかってひっぱりあげ 、
  その何基かを自動車道路の路傍に移したり
  して 、近頃は人目につくようになった 。
   院政の例を最初にひらいた白河天皇 ( 10
  53 ~ 1129 ) というのは 上皇・法皇にな
  ってから熊野へ八度詣でたほか 、高野山
  にも四度登ったといわれるが 、そのつど
  この町石道をたどり 、町石ごとに足をと
  め 、礼拝し 、真言(しんごん)をとなえた 。
  町石そのものも信仰の対象だったことが
  推察できる 。
   町石はそのときどきの権門勢家の寄進に
  よるものらしく 、そのうち天皇の寄進が
  四基 、鎌倉の執権北条氏の寄進も二基あ

   慈尊院の町石の横を通って旧道をすこし
  たどってみたが 、百歩もゆかぬうちに
  山幽谷にまぎれ入ってしまいそうで 、そ
  のままひきかえして石段の途中に戻った 。
   息切れしないように石段をゆっくり登る
  ことにした 。
   石段の左側が石垣になっている 。石垣
  には草や苔が蒸れるように覆っていて 、
  ここでも幾種類かの大型の草が花をつけ
  ていた 。高野山は梅雨どきが野の花の季
  節であるのかもしれない 。
   花好きの須田さんにとって 、この石段
  登りは楽しそうであった 。縁日を歩いて
  いる子供が 、綿菓子の屋台や金魚すくい
  の水槽に一つ一つ吸いよせられてゆくよ
  うに 、何段かごとに石垣に寄って行って
  は 、葉をすくうように指をのばして行っ
  たり 、小さな花におどろいたりしていた 。
  地上でこれだけ平和な人はいないかもし
  れない 。」

 「 石段を登りつめると 、思ったより大き
  な平坦の地面がひろがっている 。左右が
  谷で 、左側の谷が暗く深い 。正面の奥
  が 、神社になっていた 。明治の神仏分
  離以前は 、慈尊院の守り神として寺域の
  一つになっており 、僧がお守りをし 、
  僧がお経をあげていたらしい 。」

 「『 丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社
   という名前がついている 。うっかり平
   安朝の世にまぎれこんでしまったかと思
   えるほどに 、神社としてはめずらしい名
   前である 。
    官省というのが奈良朝・平安朝の行政
  用語であることは 、いうまでもない 。
  官とは太政官のことであり 、省とは民
  部省のことである 。両機関を併称する
  ときに官省と言う 。この社名には『 符 』
  がついている 。丁寧にいうには 、『 官
  省符荘 』といわねばならない 。官省符
  荘とは 、平安期の荘園の一種( 法的性格
  としての )である 。荘園とは 、いうま
  でもなく平安期の律令体制における土地
  公有制度の原則をくつがえしてゆく私有
  農場のことだが 、この荘園のうち 、官
  省符荘とは『 その荘園のもちぬしは国
  家に租税を納めなくてよい 』というこ
  とを太政官の官符と民部省の省符でもっ
  て認められた荘園のことである 。この
  特権を得るには 、ときの高官に対して
  よほどの工作をおこなわねばならず 、
  とくに有力寺院の荘園の場合に多い 。
  ( つまりは 、高野山領のことであるの
  か )
   と 、私は神社の社名を仰ぎながらおも
  った 。平安朝のある時期に 、高野山は
  それが所有する荘園のすべてでなくても
  その一部を『 租税なし 』という特権を
  獲得した 。租税を『 不輸 』といって
  も荘園の農民は高野山にしぼられるのだ
  が 、高野山そのものが紀伊の国庁や都に
  租税を払わなくてもいいというものであ
  る 。さらには 、持主は荘園内の治安警
  察権も持つ 。ともかくも『 官省符荘 』
  の農民は国家に属せず 、私的機関に隷属
  させられてしまうわけで 、その荘民とし
  ては誇るべきことなのか なげくべきこと
  なのか 、おそらく後者であったであろう 。」

 「 空海の死後 、一時高野山も亡びるかと
  思われるほどの時期もあったが 、やがて
  白河法皇などが参詣に来たりするように
  なった平安中期以後は 、その権威も経済
  も大いに安定したにちがいない 。その安
  定の巨大な象徴ともいうべきものが 、こ
  の丹生官省符神社かと思われる 。
   社殿の前に立てられた立札の由緒書を読
  むと 、
  『 官省符荘二十一箇村の総氏神である 』
   という旨のことが書かれている 。富裕な
  紀ノ川流域の二十一箇村の荘園というのは
  大変な富の源泉とおもわれるが 、官省符荘
  であるためには 、高野山がその荘園の隷民
  たちの行政・警察権をにぎっていたことに
  なる 。具体的には 、政所である慈尊院が 、
  江戸期の代官のようにその実務を執ってい
  たのであろう 。その二十一箇村の人心のま
  とめとして 、総氏神を慈尊院に置く必要が
  あったにちがいない 。
   祭神は丹生都比売(にうつひめ)である 。
  空海が高野山に密教の道場を据えたとき 、
  地主神(じぬしがみ)としてこの神をまつり 、
  慈尊院にも 、慈尊院を守護するためにこ
  の神をまつった 。
   当初は 、この神の仕事は寺域の守護だけ
  であったが 、世を経て高野山の経済が巨
  大になるにつれてこの神は 、官省符荘の
  村々が高野山領であるぞという縄張りを示
  す象徴になった 。さらには発展して 、各
  村の隷民の心を一つにするという政治上の
  必要をになう総氏神の役割をになわせられ
  るようになったと見ていい 。」

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒) 。。

   平安朝の「 律令体制や荘園制度 」について 、

  司馬遼太郎さんのような解説をしてくれる先生

  が 、もし 、学校にいらして話が聞けたなら 、

  日本史の勉強も興味深い 、随分と楽しいもの

  になるだろな ~ 。

  。。(⌒∇⌒); 。。

  ( ついでながらの

    筆者註:筆者の手許にある 「 ス-パー大辞林 3.0 」には 、

       不輸不入という四字熟語について 、次のような解

       説がある 。

      「 【 不輸不入 】

        荘園制において 、租税を納入することを
        免ぜられ(不輸)、また国衙(こくが)の
        役人を荘園内に入らせない(不入)特権 。
        権門勢家および社寺の荘園がこの特権を与
        えられていた 。  」

       試験運用中の生成AIは 、

       「 不輸不入ふゆふにゅう)とは 、平安時代に
         荘園領主が国から認められた特権で 、国家権
        力の介入を排除する権利です 。

        不輸不入の特権には、次のようなもの
        があります 。
        ・不輸(ふゆ)の権:国から賦課される税
         目の一部またはすべてが免除される権利
        ・不入(ふにゅう)の権:国使や国検田使
         などの立入りを拒否する権利

       この特権を得た荘園領主には 、土地を寄
       進する者が多く 、特に藤原摂関家に荘園
       が集中しました

       と 、もうちょっと詳しく 、解説してくれる 。

       Yahoo! 知恵袋には 、

       Q 「  不輸不入権とはなんでしょうか 」

       A 「 税金を払わない 、国の警察権を排除して
         いい という 権利 の事です。 」

        という質疑応答もある 。

        良い子のみんなは わかったかなあ 。

       社寺 、権門勢家ならずとも 、こんな特権欲しいよなあ 。

       昔も 、今も 。 )

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« こうやくん Long Go... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事