今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 高野山みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。備忘のため 、「 真田庵 」と題さ
れた小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 私は『 城塞 』という大坂ノ陣を背景にした
小説を書いたとき 、取材というほどの大げさ
なつもりではなしに九度山にきたことがある 。
真田氏の父子が関ケ原で敗れたあと 、徳川氏
に処罰されてこの地に配流された 。やがて父
の昌幸がこの九度山で老いて死に 、子の幸村
( 信繁 ) が 、当時 、一種孤立の状態にあった
豊臣秀頼に招かれ 、大坂に入城する 。とも
かくも かれらは 、この店と道路一つへだてた ( ドライブ・イン「 幸村 」)
九度山の集落で十余年をすごしたのである 。
九度山で暮らしたのは 、昌幸とその夫人 、
幸村とその夫人 、およびかれらの侍女たち 、
それに信州から随(したが)ってきた家来十六
人であった 。講談でいう猿飛佐助 、三好清
海入道ら真田十勇士の物語はこの十六人の家
来であった 。講談でいう猿飛佐助 、三好清
海入道ら真田十勇士の物語はこの十六人の家
来に仮託されたものだろうが 、ただし十六人
の姓は講談の十勇士の姓とは異なっている 。」
「 真田氏は 、信州では有力な地侍だったよう
だが 、武田信玄の勢力が信州に伸びるとこ
の傘下(さんか)に入って被官になった 。
武田の勢力は信玄の死で傾いた 。やがて子
の勝頼が織田信長に亡ぼされ 、さらにその
信長も本能寺で急死するといった変動がつづ
いたあげく 、真田昌幸は信州で自立する気
勢を示した 。昌幸は戦国人としては遅くう
まれすぎたほうだが 、この変転のなかで生
きてゆくうち 、
―― あるいは自分にも天下を望む資格があ
るかもしれない 。
と 、考えはじめたことはたしかである 。
昌幸は戦国の太陽の熱気を渾身(こんしん)
に享(う)けて育ったし 、その器才もそれに
適してはいたが 、しかし時代の暦(こよみ)
はかれの熱気と才能を置きざりにして移り
つつあった 。戦国という一つの時代が過ぎ
ようとするとき 、かえって時代の典型的人
物が出現して志の場違いに悩むものだし 、
結局 、多くは志をすてて風雅の道などに入
ってしまうものだが 、昌幸は志をすてきれ
なかったところに可笑(おか)しみがあると
いっていい 。
かれは関ケ原を好機とした 。
後嗣の伊豆守(いずのかみ)( 信幸 )を家
康方に付け 、自分は部屋住みの若い左衛
門佐(さえもんのすけ)( 幸村 )を連れて
さっさと石田三成方へ奔(はし)った 。ど
ちらが勝っても真田家は残るという保険的
な算段だが 、この露骨な計算はいかにも
戦国を生きぬいてきた男のすさまじさがあ
る 。
( 家康が勝つかもしれない )
と 、昌幸はおもっていたであろう 。石
田三成の人望のなさと政戦略の能力のひく
さは 、家康とくらべようもないほどで 、
そういう値踏みのたしかさにおいては昌幸
には天稟(てんびん)がある 。それでもな
お昌幸が幸村を連れて三成の旗のもとに奔
ったのは 、むしろ三成が庸人(ようじん)
であることに ばくち の魅力を感じたにち
がいない 。たとえ三成が勝っても諸将の
統制がとれず 、結局は 関ケ原の再戦が
あり 、そのときは自分が一方の旗頭にな
って三成を倒し 、天下をとるという計算
があったにちがいない 。
しかし結局として関ケ原の再戦はなかっ
た 。家康が勝ち 、従って家康に属した
伊豆守信幸はその功によって昌幸の所領
( 八万八千石 )をそのまま与えられ 、さ
らに加増されて十一万五千石の身代にな
り 、この家は明治までつづく 。
昌幸と次男の幸村は 、失落した 。一命
をたすけられたのは 、長男の伊豆守の奔
走による 。
九度山での昌幸の十余年は 、
『 関ケ原は一度では済まない 。もう一
度大きないくさがある 』
という期待と願望をこめた話題を 、子
の幸村に対してひそかに語りつづけた歳
月であったであろう 。昌幸はかれが予言
しつづけた大坂ノ陣がおこる前に病死す
るのだが 、その遺志を ―― というより
乱世への熱気のようなものを ―― 子の
幸村がひきついだ 。このあと幸村が豊臣
秀頼にまねかれて九度山を脱出し 、勝目
のすくない大坂城に入り 、召募(しょう
ぼ)浪人たちを指揮して孤城を守るのだが 、
昌幸の見果てぬ戦国の夢が幸村の情念の
ようなものに化(な)っていたのかもしれ
ない 。」
「 九度山での真田父子は 、紀州の領主の
浅野氏から五十石の養い料をもらってい ( 五十石って玄米 7,500kg )
たし 、信州の伊豆守からの仕送りなども ( 60kg の米俵なら 125俵 )
あって 、窮乏はしていなかったらしい 。 ( 家来も含めて 20人以上 の大所帯 )
しかしそれでも畑仕事をしたり 、のちに
『 真田紐 』とよばれた信濃風の組紐(く
みひも) を打ったりしていた 。」
( 以下は 、「 政所 ( まんどころ )・慈尊院 」と題された小文の中からの抜き書き 。)
「 慈尊院の石垣は 、路上から屹立(きつり
つ)している 。石垣は全体に苔やしだ類
があおあおと覆い 、人工でありながら 、
そのものが偉容ある自然物のような観を
呈している 。
石段をのぼって山門の梁(はり)の下に至
り 、ふりかえって紀ノ川の水明かりがす
る川湊の方角をみると 、川湊から石段ま
で届いているまっすぐな道路わきには古
風な民家の屋根がならび 、目の前に老松
の幹が おろち のように斜めに視野を横
切って 、江戸期の風景画を見るような感
じがする 。
『 ここは 、空海のお母さんのお寺です
ね 』
と 、須田画伯は写生をしながらいった 。」
「 高野山麓のこの慈尊院は 、空海在世中
に建立されたといわれる 。『 高野略記 』
という古い本に 、この家が空海の当時か
ら下院(げいん)といわれ 、空海は厳寒の
時期は降りて避寒したといわれる 。
空海の母は 、讃岐の阿刀(あと)氏の出
である 。
『 紀伊続風土記 』などによると 、承和
元 ( 834 ) 年にはるばる空海を高野山ま
で訪ねてきたという 。空海はこの慈尊院
に住まわせた 、となっている 。『 野山
名霊集 』によると 、空海はその母を『 此
所に室を構(かまへ)て留置(とどめおか)れ 、
現当の御孝養を尽され 、常光といふものを
御給仕に附置せ玉ひ 』などとある 。この
母は訪ねてきた翌承和二年二月五日 、八十
三歳で『 娑婆(しゃば)の縁尽 』きて逝き 、
この寺が廟所になり 、以後慈尊院とよばれ
るようになった 。空海も 、それから一カ
月ののちに六十ニ歳で入定(にゅうじょう)
する 。」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒) 。。
筆者が 、毎日のように通る道すがら 、見掛けるのが 、
高野山真言宗 の 末寺 の門前にある看板 である 。寺の由
来などが書かれた看板の末尾に 、「 永代供養 」「 人形
供養 」「 ペット埋葬 」と三つの営業種目が かかれている
のがいかにも現代の寺らしい 。ゆるキャラの「 こうやくん 」
も気に入っている 。
。。(⌒∇⌒) 。。
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