「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

からのみふね Long Good-bye 2024・11・22

2024-11-22 06:39:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」

 に連載されたもの 。「 播州室津 」について書か

 れた数節を追加抜粋して書き写す 。

  以下は 、「 一文不知 」と題された小文の 前半の

 数節で 、船の話 。作家の思案は 、あっちゃこっ

 ちゃ 忙しなく飛ぶ 。

  タイトル の「 一文不知 」や 法然上人 と 「 むろ

 のとまり 」のゆかりの話は 、まだである 。

  引用はじめ 。

  「 室津の加茂明神の石段を降りながら 、中世日本
  における船のことを考えた 。
   日本歴史には 、海洋の要素が乏しい 。この国が
  まわりを海にかこまれていながら 、みずからを海
  洋国家であるとして自覚するのは幕末においてで
  あり 、その実質へ出発するのはかろうじて日露戦
  争前後ごろからといっていい
   室津は 、すでに幾度もふれてきたように日本で
  もっとも古典的権威をもつ海港である 。が 、
  肉なことに日本が海洋国家として自覚した時期に ( 明治時代 )
  見捨てられ 、以後 、小さな漁港になってしまっ
  た 。 」

 「 私は古代の漁労集団というのは 、東アジアの沿
  岸に貼りつき 、東北アジアの海を共通の宇(いえ)
  として暮らし 、似たようなクリヌキの小舟と似た
  ような漁法をもち 、また以下のことは 、やや空
  想の域を出ないが 、神話や語彙において共通点が
  多かったかと思える 。
   日本での古代漁労集団は安曇(あずみ)族とよば
  れるものだが 、この集団が 、遼東半島から朝鮮
  半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまった
  く無縁だったとは考えられない 。
   中国では 、漁民は徹底して軽んじられてきた 。
  中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農を
  もって基本としたために漁労民は大いに軽んじ
  られた 。その意味では明治以前の日本は小さな
  島国のくせに内陸国家であったといってよく 、
  このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなか
  った 。」

 「 日本で外洋船が出現するのは 、飛鳥・奈良朝の
  遣隋・唐使船の派遣からである 。当時の日本人
  たちにとって船といえば小さな漁舟(いさりぶね)
  のことで 、外洋船など 、どう建造していいのか
  わからなかったにちがいない 。
   妙なことに 、朝鮮半島では比較的早くから外洋
  船が発達していた
   たとえば北方の高句麗( 北朝鮮と南満州の一部 )
  などは 、日本海を縦断できる外洋船を古くから
  持っていたということからみて 、一種海洋国家
  の要素も もっていたのではないかと思える 。こ
  のことはこの地に高句麗という民族国家ができる
  以前 、漢の植民地で 、楽浪郡などが置かれ 、
  その文化や技術を高句麗が継承できたというせい
  ではないかと思えるが 、想像でしかない( ただ
  しこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽
  浪郡の影響を考えることは一般によろこばれな
  いらしい 。しかし文化というものは他文化の影
  響で変化し発展するというものであるというこ
  とを考えると 、農業と牧畜の国家だった高句麗
  が 、外洋船の建造能力ももっていたという意外
  さは 、他からの影響として考えるほうがよりき
  らびやかであるし 、また常識的ではないかと思
  ったりする ) 。
   南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済( ~
  660 ) も 、外洋船をもっていた 。
   百済はどういうわけか 、華北の北朝にはつよい
  関心を示さず 、揚子江以南で興亡した六朝( 222
  ~589 ) の遊び性のつよい貴族文化が好きで 、
  わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては 、朝
  貢貿易をつづけていたために 、黄海から東シナ
  海を突っきってゆく外洋船が必要だったのであ
  る 。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較
  する材料がないが 、両地帯の大船建造法は似て
  いたのではないか 。
   七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ 、
  その遺臣や遺民が大量に日本にきて 、日本の上
  代文化に重大な影響をあたえた
   日本の外洋船の建造の技術にも 、大きな影響
  をあたえた 。遣唐使船というのはほぼ百済技術
  による大船だったわけで 、百済式船舶といって
  いいであろう 。
   百済式による遣唐使船はひどく脆い船であった
  竜骨などはむろんなく 、船底も扁平で 、構造的
  には箱をつくるように戸板のような平面をべたべ
  たと張りつけただけのものであった 。つよい横
  波などを連続的にうけるとばらばらになったりし
  て 、構造上 、東アジア各地の大船のレベルから
  みると 、もっとも脆弱だったのではないかと思
  える
   同時代の新羅の外洋船のほうが 、まだましだっ
  た 。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後
  進国だったが 、百済をほろぼし 、高句麗の故地
  をあわせ 、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島に
  おける最初の統一国家をつくった 。当然 、高句
  麗の造船技術もあわせ吸収したに相違なく 、遣
  唐使船時代の記録をみると 、新羅船がいかにも
  堅牢で安全そうで 、日本側からみればひどくう
  らやましいといった感じが匂ってくるようであ
  る 。」

 「 遣唐使船は 、大阪湾の三津浦から出た 。三津
  浦のあたりはその後陸地化して いまでは大阪市
  南区三津寺町付近といえば繁華街で 、そこが 、
  奈良朝 、平安朝のむかし海港であったなどとい
  う実感はまったくおこらない 。
   大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が 、ほ
  ぼ決まったように室津に寄港したことは 、まち
  がいないかと思える 。遣唐使船は最初は二隻だ
  ったが 、のち四隻になった 。一隻に 、多いと
  きは二百人以上乗っていた 。使節団はべつとし
  て 、操船者たちはその頃から存在したかと思え
  る室津の遊女とあそんだのではないかと思われ
  る 。」

 「 遣唐使は寛平六( 894 ) 年に廃止されたが 、
  以後 、日本における外洋航海も途絶え 、大船
  建造の技術も衰微した 。」

 「 平安末期 、平清盛が航海貿易策をとりながら
  も 、それを実施する大船についてはわざわざ宋
  から操船者付きで買い入れざるをえなかった 。
  いかに日本が海洋国家としての実がなかったか
  ということになるであろう清盛が唐から船員
  付きで購入したのが『 高倉院御幸記 』に出て
  くる唐船(からのみふね)である 。
   清盛は室津入港の翌年には死んでしまう 。そ
  れから四年後の三月 、平氏そのものが壇ノ浦の
  海戦にやぶれ 、一挙にほろぶのだが 、その壇
  ノ浦の海戦のとき 、平家方は清盛の外孫の幼帝
  ( 安徳天皇 ) を奉じていた 。幼帝の座乗船が
  城楼のような唐船であったことが『 平家物語 』
  にも出てくる 。他の海戦用の舟は源平両軍とも
  漁舟(いさりぶね)で 、関門海峡をうずめた両軍
  の小舟のむれからみれば 、一隻だけとびぬけて
  大きかった
   このあたりで 、私の想像はいつもたゆたって
  しまう 。この唐船は 、五年前の室地入港のと
  きの唐船であったろうか 、ということである 。
  そうだったかもしれない可能性がわりあいにあ
  り 、仮りにそうであったとして 、そうすれば
  依然として操船者は宋人たちであったとすれば
  異国の合戦に巻きこまれてしまったかれらがど
  ういう運命をたどったろうかなどというらちも
  ない思案にとりつかれて 、目の前の室津港の
  山と潮の色が茫々(ぼうぼう)としてしまう 。」

  引用おわり 。

  法然上人の話は次回 。

  

   

 

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