今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」
に連載されたもの 。「 播州室津 」について書か
れた数節を追加抜粋して書き写す 。
以下は 、「 一文不知 」と題された小文の 前半の
数節で 、船の話 。作家の思案は 、あっちゃこっ
ちゃ 忙しなく飛ぶ 。
タイトル の「 一文不知 」や 法然上人 と 「 むろ
のとまり 」のゆかりの話は 、まだである 。
引用はじめ 。
「 室津の加茂明神の石段を降りながら 、中世日本
における船のことを考えた 。
日本歴史には 、海洋の要素が乏しい 。この国が
まわりを海にかこまれていながら 、みずからを海
洋国家であるとして自覚するのは幕末においてで
あり 、その実質へ出発するのはかろうじて日露戦
争前後ごろからといっていい 。
室津は 、すでに幾度もふれてきたように日本で
もっとも古典的権威をもつ海港である 。が 、皮
肉なことに日本が海洋国家として自覚した時期に ( 明治時代 )
見捨てられ 、以後 、小さな漁港になってしまっ
た 。 」
「 私は古代の漁労集団というのは 、東アジアの沿
岸に貼りつき 、東北アジアの海を共通の宇(いえ)
として暮らし 、似たようなクリヌキの小舟と似た
ような漁法をもち 、また以下のことは 、やや空
想の域を出ないが 、神話や語彙において共通点が
多かったかと思える 。
日本での古代漁労集団は安曇(あずみ)族とよば
れるものだが 、この集団が 、遼東半島から朝鮮
半島の黄海沿岸に住んでいた同業の連中とまった
く無縁だったとは考えられない 。
中国では 、漁民は徹底して軽んじられてきた 。
中国体制を参考にした律令日本の立国もまた農を
もって基本としたために漁労民は大いに軽んじ
られた 。その意味では明治以前の日本は小さな
島国のくせに内陸国家であったといってよく 、
このため外洋への航海と船舶は容易に発達しなか
った 。」
「 日本で外洋船が出現するのは 、飛鳥・奈良朝の
遣隋・唐使船の派遣からである 。当時の日本人
たちにとって船といえば小さな漁舟(いさりぶね)
のことで 、外洋船など 、どう建造していいのか
わからなかったにちがいない 。
妙なことに 、朝鮮半島では比較的早くから外洋
船が発達していた 。
たとえば北方の高句麗( 北朝鮮と南満州の一部 )
などは 、日本海を縦断できる外洋船を古くから
持っていたということからみて 、一種海洋国家
の要素も もっていたのではないかと思える 。こ
のことはこの地に高句麗という民族国家ができる
以前 、漢の植民地で 、楽浪郡などが置かれ 、
その文化や技術を高句麗が継承できたというせい
ではないかと思えるが 、想像でしかない( ただ
しこんにちの朝鮮の歴史家のあいだでは漢の楽
浪郡の影響を考えることは一般によろこばれな
いらしい 。しかし文化というものは他文化の影
響で変化し発展するというものであるというこ
とを考えると 、農業と牧畜の国家だった高句麗
が 、外洋船の建造能力ももっていたという意外
さは 、他からの影響として考えるほうがよりき
らびやかであるし 、また常識的ではないかと思
ったりする ) 。
南朝鮮の黄海沿岸の上代国家であった百済( ~
660 ) も 、外洋船をもっていた 。
百済はどういうわけか 、華北の北朝にはつよい
関心を示さず 、揚子江以南で興亡した六朝( 222
~589 ) の遊び性のつよい貴族文化が好きで 、
わざわざ遠い揚子江河口まで船をやっては 、朝
貢貿易をつづけていたために 、黄海から東シナ
海を突っきってゆく外洋船が必要だったのであ
る 。こんにち百済船と六朝船とを技術的に比較
する材料がないが 、両地帯の大船建造法は似て
いたのではないか 。
七世紀後半に百済が新羅のためにほろぼされ 、
その遺臣や遺民が大量に日本にきて 、日本の上
代文化に重大な影響をあたえた 。
日本の外洋船の建造の技術にも 、大きな影響
をあたえた 。遣唐使船というのはほぼ百済技術
による大船だったわけで 、百済式船舶といって
いいであろう 。
百済式による遣唐使船はひどく脆い船であった 。
竜骨などはむろんなく 、船底も扁平で 、構造的
には箱をつくるように戸板のような平面をべたべ
たと張りつけただけのものであった 。つよい横
波などを連続的にうけるとばらばらになったりし
て 、構造上 、東アジア各地の大船のレベルから
みると 、もっとも脆弱だったのではないかと思
える 。
同時代の新羅の外洋船のほうが 、まだましだっ
た 。新羅はいわゆる三韓のうちではもっとも後
進国だったが 、百済をほろぼし 、高句麗の故地
をあわせ 、唐の勢力を追っぱらって朝鮮半島に
おける最初の統一国家をつくった 。当然 、高句
麗の造船技術もあわせ吸収したに相違なく 、遣
唐使船時代の記録をみると 、新羅船がいかにも
堅牢で安全そうで 、日本側からみればひどくう
らやましいといった感じが匂ってくるようであ
る 。」
「 遣唐使船は 、大阪湾の三津浦から出た 。三津
浦のあたりはその後陸地化して いまでは大阪市
南区三津寺町付近といえば繁華街で 、そこが 、
奈良朝 、平安朝のむかし海港であったなどとい
う実感はまったくおこらない 。
大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が 、ほ
ぼ決まったように室津に寄港したことは 、まち
がいないかと思える 。遣唐使船は最初は二隻だ
ったが 、のち四隻になった 。一隻に 、多いと
きは二百人以上乗っていた 。使節団はべつとし
て 、操船者たちはその頃から存在したかと思え
る室津の遊女とあそんだのではないかと思われ
る 。」
「 遣唐使は寛平六( 894 ) 年に廃止されたが 、
以後 、日本における外洋航海も途絶え 、大船
建造の技術も衰微した 。」
「 平安末期 、平清盛が航海貿易策をとりながら
も 、それを実施する大船についてはわざわざ宋
から操船者付きで買い入れざるをえなかった 。
いかに日本が海洋国家としての実がなかったか
ということになるであろう 。清盛が唐から船員
付きで購入したのが『 高倉院御幸記 』に出て
くる唐船(からのみふね)である 。
清盛は室津入港の翌年には死んでしまう 。そ
れから四年後の三月 、平氏そのものが壇ノ浦の
海戦にやぶれ 、一挙にほろぶのだが 、その壇
ノ浦の海戦のとき 、平家方は清盛の外孫の幼帝
( 安徳天皇 ) を奉じていた 。幼帝の座乗船が
城楼のような唐船であったことが『 平家物語 』
にも出てくる 。他の海戦用の舟は源平両軍とも
漁舟(いさりぶね)で 、関門海峡をうずめた両軍
の小舟のむれからみれば 、一隻だけとびぬけて
大きかった 。
このあたりで 、私の想像はいつもたゆたって
しまう 。この唐船は 、五年前の室地入港のと
きの唐船であったろうか 、ということである 。
そうだったかもしれない可能性がわりあいにあ
り 、仮りにそうであったとして 、そうすれば
依然として操船者は宋人たちであったとすれば
異国の合戦に巻きこまれてしまったかれらがど
ういう運命をたどったろうかなどというらちも
ない思案にとりつかれて 、目の前の室津港の
山と潮の色が茫々(ぼうぼう)としてしまう 。」
引用おわり 。
法然上人の話は次回 。
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