今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。備忘のため 、「 花のことども 」
と題された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
室津の宿の夕べ 、旅の同行者と過ごした 作家の 至
福の時間 。
引用はじめ 。
「 夜になると 、この歴史のみが重い漁港にも 、
集落(まち)らしい灯火の群れが 、暗い湾をか
こみはじめた 。
それらの灯を崖の中腹から見おろしながら 、
私どもは夕食をとった 。編集部のHさんをの
ぞいては 、下戸がほとんどの夕食である 。
『 本当に結構ですね 』
と 、言われたのは 、平素 、極端に少食な
安田幸子夫人であった 。インドで天人という
形而上的存在がうまれたのは 、現世ですでに
諸欲すくなくうまれついている人々がいて 、
宗教的な空想家がその煩悩の少なさにおどろ
いて発想したのかもしれないが 、彼女はまこ
とに稀有なその部類に属する人かもしれない 。
少食という点では 、安田章生(やすだあやお)
氏もそうである 。夫妻ともに少食なまま三十
余年も連れ添われると 、相乗作用で本然(ほん
ねん)以上に双方とも少食になってしまうもの
らしい 。」
「 安田章生氏は 、花好きである 。極端に好む
のは 、『 古今 』『 新古今 』の学究である
ためか 、あるいは定家の歌論を発展させた歌
論の上に立って作詠しているせいか 、それと
も幼時の龍野の想い出の中に揖保川河原の野
の花の想い出が多いところからみて 、天性の
ものであるのかもしれない 。
氏の話の様子では 、京都の北西 ―― 古い呼
称でいえば丹波国山国郷井戸 ―― のあかるい
田園の中にある常照皇寺のしだれ桜も 、すで
にかぞえきれないほどに観に行かれたらしく
思える 。
『 もう咲いたかと思ってゆくと 、まだだっ
たりします 』
というのは 、すずやかな執念ながら 、よほ
どのことのようである 。桜の開花は気象に対
して神経質で 、例年から察して 、いよいよ
今日あたりかと思い定めて行ってみると 、昨
夜降った雨などで気温がさがっているために 、
まだ蕾(つぼみ)が頑(かたく)なであったりす
る 。」
「 ある年の春 、氏はやはり一日早く常照皇寺
の庭をのぞいてしまって 、かといってその
まま帰る気にもなれず 、そのあたりをぼん
やり見まわしていたところ 、掃除のおばさ
んが話しかけてくれた 。ついでながら 、安
田氏という人は 、見知らぬ人に積極的に話し
かけるという芸当がうまれつき身に備わって
いない人である 。
その掃除のおばさんは 、永年 、しだれ桜の
下を掃いている人だけに 、花のことがよくわ
かっていた 。彼女は 、この桜が二分だけ咲
くときや 、三分咲くとき 、あるいは満開の
ときなどの説明をしつつ 、もっとも素晴らし
い時というのは開花の季節を通じて 、
『 ほんの四時間ですね 』
といったという 。
私は氏からこの話をきいて 、自分もしだれ
桜の下でそのおばさんから話をきいているよ
うな幸福な錯覚の中にいた 。ともかくも桜が
もっとも素晴らしいのは一日だけということ
なのであろう 。その一日のうちでも 、午後
になれば花が人の目や陽にくたびれるために 、
おそらく朝日が射しそめてそれこそ陽に匂う
というようなときのほんの四時間ということ
が 、その意味であるらしい 。そのたった一
日しかない好日に 、朝日に匂っている桜の
花のかがやきを見ることができるのは 、お
そらくこの掃除のおばさんだけかもしれない
のである 。」
「 常照皇寺は 、臨済禅の寺である 。禅という
のは天才の道で 、常人にとって毒物かもしれ
ないということを私はかねて感じていた 。専
門に僧侶として衣食するようになればいよいよ
禅から遠くなり 、そのくせ禅という毒物を食
うために禍害は深刻だと思ってきたが 、しか
し同時に禅というのは人類の財宝であるとも思
ってきた 。精神が極度に透明になった状態を
禅の妙境だとすれば 、僧位僧階とは無縁の場
所にいる人間のほうが 、まれに禅のほうから
自然に参入してくるような境地を持ちうるもの
かもしれない 。桜の花の見頃は四時間しかな
いと見たこの掃除のおばさんの感覚は 、単な
る意識から出たものではないであろう 。やは
り禅機というに幾(ちか)いものであると言える
かもしれない 。
( おなじ言葉がそのあたりの僧から出た場合 、
安田氏もべつに感動はせず 、むしろ禅的衒学
性や禅的修辞法から出たこけおどしの言い方だ
と思うのではないか )
と 、思い 、人間のことばというのは本来独
立しがたいもので 、それを口に出した人間と
不離にかかわるものだと思った 。この場合 、
このことばはあくまでも虚仮(こけ)に拠(よ)る
ところのない掃除のおばさんの口から出ねばな
らず 、たとえば同じ内容のことを天台山国清
寺の庭掃きをしていた寒山拾得(かんざんじっ
とく)がいったという語録があったとしても 、
多少のいかがわしさはつきまとう 。禅は 、そ
れが禅であるということで 、すでに不純にな
るというきわどいものではないか 。」
「 安田氏は花の話に熱中した 。やはり山桜が
いい 、といった 。赤い嫩葉(わかば)ととも
に花がひらくという姿もよく 、散る姿もいい 、
ともいった 。いちいちの内容はどうでもよく 、
それよりも室津(むろつ)という豪華としか言い
ようのない歴史のなかで桜の花がいかに美しい
かということをきいていると 、自分だけがこ
の世でもっとも贅沢な時間の中にいるという感
じがした 。」
「 私は 、江戸初期までの文章で 、和文でもって
思想を伝えたものとしては『 歎異抄(たんにしょ
う) 』がもっともよく 、技術という表現しがた
いものをうまく表現したものとしては宮本武蔵の
『 五輪之書(ごりんのしょ) 』がいい 、という
と 、安田氏もほぼ同感してくれて 、しかしなが
ら日本語は文章語としてはなかなか成熟せず 、
むしろ短歌という詩の形式において早く成熟し
た 、という意味のことをいった 。
この安田氏の意見は 、とくにこの人の専門であ
る平安朝にかぎってのことであるようで 、何某と
いう平安朝の女流の文章を例に挙げ 、
『 文章は 、大変よくないのです 。ところがその
中に出ている歌だけがまず出来あがったのでしょ
うか 』
と 、いった 。ついでながらこの安田氏の意見は 、
その前に述べた私の我執くさい説である『 文章と
いうのは 、その言語を使う社会がこぞってつくり
あげるものだ 』という意見を踏まえていわれたも
のである 。散文は容易に文学史の中で熟せず 、ま
ず歌が出来あがった 、という意見は 、おもしろか
った 。」
引用おわり 。
作家を含め 、この旅に参じた人はみな故人である 。
この小文の中で 、「 花 」について 、こんな感想を
作家は述べている 。
「 私は花の音痴だから 、ひたすらに聴き入るし
かない 。 」
「 私にとって好きな花といえば 、草花では
桔梗 、木の花では白梅だが 、しかしそれ
も現実に手もとで眺めているよりも 、イ
メージの中で 、浅茅ケ原に咲きけむる水
色桔梗を思いうかべたり 、あるいは春の
闇に匂う白梅を思いえがいたりするほう
がいい 。現実には 、失望する 。目の前
にその花々を置いたりすると 、花とは
それだけのものか 、と思ってしまい 、
二秒も見ることがない 。」
。。 (⌒∇⌒) 。。
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