今日の「 お気に入り 」は 、村上春樹さん ( 1949 - )
の随筆「 村上朝日堂 はいほー! 」( 新潮文庫 )
の中から抜き書き 。備忘のため 。
引用はじめ 。
「 英会話というのがあまり得意ではない 。と
いうよりは はっきり言って 相当に不得意で
ある 。」
「 僕はけっこう翻訳の仕事をしているし( あ
あ 、実に十冊も翻訳書を出しているのだ ) 、
ここのところずっと年の大半は外国暮らしを
しているから 、会話のほうもさぞや堪能なん
だろうと世間で思われがちなのだけれど 、そ
んなことはなくて 、恥ずかしながらまったく
苦手である 。何か用事があって外国人と会っ
て英語で話さなくてはならないような時には 、
朝からなんとなく胃が重くて仕方ない 。」
「 でもよく考えてみれば 、これは僕としては
決して不自然な話ではない 。だって 僕は 日本
語の会話からして 圧倒的に不得意 なのだ 。
よほど親しい人が相手ならともかく 、人前に出
ると 言葉がうまく出てこないし 、すごく緊張
して声がうわずってしまう 。その結果 ろくで
もないことを口走ってしまうし 、無茶苦茶な
間違いもする 。」
「 会話というのは生まれつきうまい人とうまく
ない人がいるし 、会話のうまくない人がどれ
だけ英会話に堪能になろうとしても 、それは
おのずから限界というものがある 。何故なら
ばそれは 生き方の姿勢の問題 だからである 。
日本語の文章を書くのが苦手な人がどれだけ
英作文を習ってもおのずから限界があるのと
同じである 。」
( ^)o(^ )
「 僕の経験からいうと 、外国語というのは必
要に迫られれば ある程度は 話せるようになる 。
逆に言えば 、必要に迫られなければまず駄目
だ 。これはとても単純な結論だけれど 、厳
然たる真実 です 。必要に迫られれば人間の体
内には特殊な分泌液のようなものが溢れ出て
きて 、それが集中力をかきあつめて語学の習
得を可能にするのではないかと僕は想像して
いるのだが 、その科学的な真偽は定かではな
い 。しかし理屈はともあれ必要性というのが
語学習得のための最も重要な要素であること
は経験的に言ってまず間違いのないところで
ある 。」
(^O^)/
「 普通の六歳の子供がどうしてバイリンガルに
ならなくちゃいけないのか僕には全然理解で
きない 。日本語もちゃんとできない子供が表
層的にちょこっとバイリンガルができてそこ
にいったい何の意味があるのだろう? 何度も
言うようだけれど 、才能かあるいは必要があ
れば 、子供英会話教室にに通わなくたって英
会話は人生のどこかの段階でちゃんとできる
ようになる 。大事なことはまず自分という人
間がどういうものに興味があるのかを見定め
ることだろう 。日本語の真の会話がそこから
始まるのと同じように 、英語の会話だってそ
こから始まる 。」
(^ω^)
「 たとえば僕は高校時代アメリカの小説ばかり
読んでいたから 、まず読み書きから英語に入
り 、そこから少しずつ会話に入っていった 。
だから会話ができるようになるまでにずいぶん
時間がかかったし 、初めに言ったように今だ
ってとても得意とはいえない 。訥々とした不
器用な喋り方である 。発音だってヤクザであ
る 。うまくさっと言葉が出てこない 。でもそ
れが僕という人間なのだ 。僕には向くことも
あるし 、向かないこともあるのだ 。そう思っ
てなんとか間にあわせている 。僕らはとても
不完全な存在だし 、何から何まで要領よくう
まくやることなんて不可能だ 。世の中にはい
ろいろな人間がいる 。ひとりひとり良いとこ
ろもあれば 、悪いところもある 。得意なも
のもあれば不得意なものもある 。女の子を口
説くのがうまい人もいれば 、日曜大工のうま
い人もいる 。セールスの得意な人もいれば 、
黙々と小説を書くのに向いた人もいる 。我々
は自分以外の人間になることはできない 。こ
れは根本的な原則である 。でもそれにあわせ
て自分にあったスタイルを身につけていくこと
は可能である 。」
( ´_ゝ`)
「 外国に行くとよくわかることだけれど 、ろく
に言葉が通じなくても気の合う人間とはちゃん
と気が合うし 、どれだけ言葉が通じても気の
合わない人間とはやはり気が合わない 。」
「 会話にはもちろん技術が絶対に必要だけれど 、
まず自分という人間の手応えというか存在感が
なければ 、それはただ構文と単語の丸暗記に
終わってしまう 。
そしてそういう会話力はどれだけ意味が通じて
もそれより先にはまず進まないし 、そういう
タイプの広がりのない会話力を僕は全然好ま
ない 。」
「 例をあげると小澤征爾氏の英語の喋りなんて
あれだけ外国にいるわりに決して流暢とは言い
がたいのだけれど 、とても信頼感の持てるいい
喋りである 。どこがいいのかと訊かれてもうま
く説明できないが 、聞いていて『 うん 、そう
だな 』と自然にうなずいてしまうところがある 。
逆にけっこう流暢に英語をを喋るのにどうも信
頼できそうにない人もいる 。例をあげるとカド
が立つのであげないけれど 。」
( ´_ゝ`)
引用おわり 。
ながながと引用したが 、この小文のタイトルは 、
" CAN YOU SPEAK ENGLISH ? "。
中学校 、高校と旧来の読み書き中心の英語教育を
受けた団塊世代には 、英会話 苦手のひとが多い 、
というより 英語嫌い のひとが多い 。受験勉強で
苦しめられた所為だ 。
筆者も英会話苦手の例にもれないが 、勤め人人生
の大半の期間 、英語の読み書きに携わってきたこ
とから 、英語アレルギーはない 。いくつになって
も 内容のある話しをするのが難しいのは 、日本語
会話とて同じことである 。多くの点で作家と同感 、
同意見 。日本語会話が不得意なのに 、英会話が得
意な訳ないではないか 。
友好的な日常会話なら 、" How are you doin' today ? "
" I'm just fine, thank you. " だけ覚えて 、あとは笑顔
で おもてなし 、今どきの AI翻訳機器は俊敏 、優秀 、
スマート 。利用しない手はない 。ほんとに そんなに 会
話がしたいのならば 。
( 迷彩服着た🐸くん 、推定年齢3歳くらい 。啼くようだから孤独なオス🐸 )
( ついでながらの
筆者註:「 『 耳順 』は 、男性の年齢を称する語句のひとつで 、
次のような意味があります 。
人間は 、六十歳くらいになれば 、人の言うことを
聞いて すなおに理解できるようになるものだ 、と
いうこと。」
「『 論語‐為政 』には 、このほかにも次のような言葉
が挙げられています。
志学( 15歳 )
而立( 30歳 )
不惑( 40歳 )
知命( 50歳 )
耳順( 60歳 )
従心( 70歳 )」
「『 六十にして耳順う 』の由来は 、『 論語 ― 為政 』
にある孔子の言葉で 、この章には『 十有五にして学を
志す 』、『 三十にして立つ 』、『 四十にして惑わ
ず 』、『 五十にして天命を知る 』と続き 、最後は
『 七十にして己の欲する所に従えども 矩(のり)を
踰(こ)えず 』( 七十にして矩を踰えず )となっ
ています 。」
以上ウィキ情報 ほか 。
(⌒∇⌒)
われ独り曰く
七十にして己の欲する所に従い 、矩(のり)を踰える 。)
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