たいして忙しくもないくせに、「忙しいから」を言い訳に、手抜きばかりして生きている私である。
毎日のお掃除は自動掃除ロボット・ルンバにまかせきり、洗濯はもちろん洗濯機にやってもらう。ワイシャツもアイロンするのが面倒くさいので、なるべくノーアイロンのものを買ってきてと夫に頼む。それでも、できてしまったシワは「ま、いいか、忙しいし、単なるシワだし」と、自分でもよくわからない言い訳をしてごまかしている。
料理も手抜きばかり・・・。ただし、ダシだけはちゃんと取るようにしている。
かつお節や昆布、トビウオで作ったアゴダシから、ダシを取ると、手抜きしても美味しい献立となるからだ。
手抜きしたかったら、ダシを取ろう
ダシはそれができるまで膨大な時間がかかる。
カツオブシでも昆布でも製品化されるまでには、大変な労力が費やされているものだ。
それでいながら、家庭で使うときは、ほんのひと手間で、海の恵みを手にいれることができる。たいしたものだ。
手抜きするのに、これほど便利なものはないのである。
最近、日本食がブームだが、その理由の一つは、乾燥した昆布やかつお節から素晴らしいダシが出るからだと私は思っている。どこにいても、誰が調理しても、真面目にとったダシは舌を裏切らない。体にもいい。
昆布はよみがえる?
昆布をお鍋の水に沈め、炊飯器のスイッチを入れる。
ご飯が炊きあがるまでの間に、カチカチだった昆布が、海の中でゆらゆらと波間を漂っていたときのようにツヤツヤしてくる。しばしの眠りから目覚め、生の昆布となって、生き返るかのようだ。
台所に海の香りがしてきて、いい気分になる。
あとはただ、野菜を入れ、お味噌をとけば、それはそれは美味しく、栄養満点のお味噌汁ができあがる。
復活とはこのことを言うのだろうと感じるひとときである。
なんでだろう?
しかし、考えてみると、なぜ昆布は海の中にいるときはダシを出さないのだろう。
海の水がしょっぱすぎて、ダシを出していても、気づかないのだろうか?
そういえば、かつて人気コメディアン・テツandトモも、「なんでだろう?」と歌いながら、その疑問をぶつけていたっけ。
その問いに答えてくれるのが、『なぜ昆布は死んでからダシが出るのか』(横浜康継・著/インプレス・刊)だ。
長年にわたり、海藻の生理生態学の研究に従事してきた著者・横浜康継が、丁寧に昆布がどうやってダシを出すのか教えてくれる。
生涯を昆布と共に生きてきた学者ならではの解答だ。
老学者の教え
老学者の教えは以下のようなものだ。
コンブダシの主成分はアミノ酸類で、光合成によって生じた炭水化物に窒素が加わって合成されたものです。生きた細胞にとってアミノ酸類は大切な物質なので、それらの物質が細胞の外へ逃げ出すことを、生きた細胞膜は防いでいるのです。
しかし、陸に揚げられ干されて死んだコンブの細胞膜は、生きていたときの働きを失っています。そこで水に漬けられるとアミノ酸などの流失を防げなくなり、ダシの素となるうまみ成分が溶け出すことになるというわけです。
(『なぜ昆布は死んでからダシが出るのか』より抜粋)
フムフム、なるほど。
昆布だって生き残りをかけて必死だということか。
そして、死んで初めて、私たちに旨みという名の恵みを提供してくれるのだろう。
東日本大震災から生き残ったからこそ言える言葉
生涯を海藻の研究に捧げた学者の言葉は、「ダシがいつ、どうして、どのように出るのか」だけにとどまってはいない。
「昆布はなぜ死んでからダシが出るのか」という素朴な問いは、実は「生きているとはどういうことか」を問うものでもあるのです。
(『なぜ昆布は死んでからダシが出るのか』より抜粋)
という、生命の根源を究めようとする姿勢につながる。
著者は南三陸に移り住み、その結果、東日本大震災によって、多くのものを失った。
地震当日は、偶然、家族が住む東京にいたため、津波に遭遇せず、命びろいしたものの、多くの大切な研究成果を失った。
本のあちらこちらから響いてくる老学者の叫びは、亡くなった方達への鎮魂の意味もこめられているに違いない。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ということわざがあるが、海の中をゆらゆら揺れている昆布も、死んだからこそダシを残すことができるということなのだろう。
出典元・三浦暁子
http://fum2.jp/6315/