書庫から、古くて、ショウゲキの一冊を発見。
『新講沖縄一千年史(上巻)』
(新屋敷幸繁・有川菫重著/昭和42年発行)
なにがとんでもないって…
「阿麻和利と大城賢雄の関係」の解釈!
なにぃっ!?
ってまたまた書庫でのけぞったよ。
全く考えもしなかった説だ…。
驚愕のこの一説は、
百十踏揚の阿麻和利への嫁下は
尚泰久が王になる前の、越来王子時代に行われた。
というところからまず始まります。
で、
大城賢雄は、
もともと勝連の阿麻和利に仕えていた
(なにーっ!)
が、
そこに百十踏揚が勝連に嫁いできて、
そのうち二人は愛し合うようになった
(こらーっ!)
そして、
そのうち、尚泰久が6代目琉球国王となり
百十踏揚は「王女」となった。
すると、
賢雄は心変わりをして、
勝連城と王女(百十踏揚)を同時に手に入れて
王直下の武将になろうと決意し、
阿麻和利に対する謀反心を持つようになった。
(おいおいおい!!)
以下略。
というもの。
(結局、賢雄ヤな奴じゃーーん(涙))
賢雄は喜屋武按司の孫として生まれますが、
幼くして父(栄野比大屋子)を亡くします。
で、孤児となって、当時繁栄していた勝連を頼って阿麻和利に仕えた
と書いてありましたが…。
うーん?
この本の賢雄の解釈は何かと幼少の阿麻和利とかぶるねぇ…
孤児じゃなくて、母方の実家である知花に移り住んだんじゃなかったっけ。
知花グスクと越来グスクはすぐ隣。
成長した賢勇が当時越来王子だった尚泰久に仕えた、と。
それとも後に首里に登って尚泰久に仕えたか。
本当の所は分かりませんが、
しかし、勝連に行って阿麻和利に仕えていたとは、
いやはや斬新な説だ…。
でも、
尚巴志は護佐丸の娘を妃にした
は間違いでしょう。
(でも確か、中山世鑑だったか正史にこういう間違った記述が残っているんだっけ?)
阿麻和利と賢勇の関係もそうだし、
これまでの年齢設定が大狂いになる説でございました。
もちろん、数百年前の昔のことなんで、
100%絶対に違う!!
とは断言しませんけどね。
はぁ~…こういう解釈もあるんですねぇ…。
(小説の設定としては面白いかもだけど…)
最近読んだ別の文章では
賢雄は「残虐無慈悲な男」ってあったよ。
まったく、色々と散々な言われようですなぁ、賢雄さん…。
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