がじゅまるの樹の下で。

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百十踏揚○○○説

2012年02月02日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 

先日、じのんで手に取ったとある本。

確か与勝の歴史散歩みたいなタイトルだったと思うけど、
与勝地域の歴史についてのシンポジウム?を本にしたようなものだった。

いつものように、目次をチェックして興味を惹かれた箇所をぱらぱらとめくる。

 

 

 

 

 

その中の一文に思わずむせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

百十踏揚はスパイだった。

 

 

 

 

つまり女スパイ。

 

 

 

賢雄は分かるけど百十踏揚もか(笑)

つまりはだから2人は元々デキててグルだったってことでしょうが…

王女・百十踏揚にそのような役割は少なからずあったであろうことは
特に珍しい説ではないですが
ここまでストレートに百十踏揚は女スパイって言われたら
全く違ったイメージが浮かんでしまうのはワタシだけじゃないはず(笑)

ちなみにその本では
百十踏揚と賢雄が常に一緒(グルだから?)で
百十踏揚と阿麻和利は通常の夫婦生活は全然送れていなかった。

そのことに阿麻和利が不満をもって…

 

以下略。

 

でした。

 

 

 

もうひとつは、勝連クーデター。
つまり阿麻和利が茂知附按司を討伐し按司になったのは

 

1453年

 

と明記。

 

理由はその年に起こった志魯・布里の乱。

勝連で起こったクーデターという大事件がありながらも
王府では何もアクションがなかったということは
志魯・布里の乱で王府そのものがドタバタだったから、

という理由からだそうな。

 

1453年が本当かどうかはわかりませんが、
王府が脅威を抱いたほどの勝連の繁栄は
阿麻和利がゼロから起こしたのではなく
前代の茂知附按司から(もしくはもっと前から?)のもので
阿麻和利はそれを引き継いで更に発展させた…
ということは予想もつきますし、

個人的には阿麻和利が按司になって百十踏揚が嫁に来て
護佐丸・阿麻和利の乱が起こるまで
そんなに長い年月ではないと思ってるので
イメージに近いっちゃぁ、近いです。

 

 

    
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コメント (2)
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