南城市にある安次富グスク。
尚泰久の長男、つまり百十踏揚の兄ちゃんである
安次富金橋(あしとみかなはし)が、
首里を出てこの地に移った時に
一時住んでいたと言われるグスク。
(※金橋は“加那巴志”とも)
首里を出て田舎下りしたのは、
護佐丸・阿麻和利の乱後、
護佐丸の血をひいていたために追放されたとも
父ちゃん(尚泰久)と折り合いが悪かったとも言われています。
(尚泰久の長男・次男は正妃の生んだ子。つまり護佐丸の孫です)
王位継承は三男(※側室腹)の尚徳だったしね。
この岩が安次富グスク。
岩の上は一応平らになっているようです。
登らなかったけど(^^;)
グスクらしい城壁などはなく
岩の根元に古いお墓が2つありました。
金橋のお墓ではありません。
(でも家族とか一族とか関係のある人のお墓なのかなぁ???)
金橋のお墓は現在、尚泰久の墓の隣にあります。
古老の言い伝えによると
金橋は王位につけず追放された事を恨み
(父と尚徳に?)天罰が下るようにここで祈ったのだとか。
(参/「沖縄のグスクめぐり」当真嗣一監修)
もしそうなら、金丸(派)によるクーデターも
「ユーシッタイ!」って感じだったのでしょうか。
いやぁ、でもなぁ…
すぐ近くの仲栄真グスク(同じく田舎下りしてた尚泰久の四男在)では
新王軍に抵抗するために集まってたみたいだからなぁ。
やっぱり謎ですね。
「追放」なのか、「自ら出て行ったのか」で
だいぶ印象変わるしね。
(小説「百十踏揚」では追放ではなく、自ら王位を尚徳にゆずり出て行ってる。
もちろん裏では金丸がそう仕向けるように画策してるんだけど。
叔父である布里を頼って…、というのも有力な説)
尚泰久との仲がホントはどうだったのかも
気になるトコロ。
そんな安次富グスクでした。
ちなみに、安次富グスクの斜め向かいの藪は
金橋と一緒に田舎下りした弟、
つまり尚泰久の次男である三津葉多武喜(みつばたむき)が
居を構えたと言われる大川グスク。
ハッキリは分からないんだけど(参考資料によって位置が微妙にズレてる…)、だいたいこの藪群のエリア。
こちらも城壁などの遺構はなく
いまはただの藪になっています。
ちなみに、多武喜のお墓は、
百十踏揚のお墓の隣です。
*
この南城市富里エリアは
尚泰久周辺の人物巡りにはもってこいの場所です。
是非セットで巡ってみてください。
尚泰久の墓
長男・金橋の墓
次男・多武喜の墓
長女・百十踏揚の墓
布里(と妃)の墓
安次富グスク(長男ゆかり)
大川グスク(次男ゆかり)
仲栄真グスク(四男ゆかり)
*おまけ*
富里におこしの際は、
仲栄真グスクと百十踏揚の墓のすぐ近くにある
タイ料理レストラン「シャム」もどんぞ。
あの時のあの子がこんなに大きくなってた(≧▽≦)♪
グレーの子には会えず(>_<)