がじゅまるの樹の下で。

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尚泰久長男の安次富グスク

2014年05月13日 | ・琉球史散策/第一尚氏

南城市にある安次富グスク。

尚泰久の長男、つまり百十踏揚の兄ちゃんである
安次富金橋(あしとみかなはし)が、
首里を出てこの地に移った時に
一時住んでいたと言われるグスク。
(※金橋は“加那巴志”とも)

首里を出て田舎下りしたのは、
護佐丸・阿麻和利の乱後、
護佐丸の血をひいていたために追放されたとも
父ちゃん(尚泰久)と折り合いが悪かったとも言われています。
(尚泰久の長男・次男は正妃の生んだ子。つまり護佐丸の孫です)

王位継承は三男(※側室腹)の尚徳だったしね。

この岩が安次富グスク。

岩の上は一応平らになっているようです。
登らなかったけど(^^;)

グスクらしい城壁などはなく
岩の根元に古いお墓が2つありました。


金橋のお墓ではありません。
(でも家族とか一族とか関係のある人のお墓なのかなぁ???)

金橋のお墓は現在、尚泰久の墓の隣にあります。

古老の言い伝えによると
金橋は王位につけず追放された事を恨み
(父と尚徳に?)天罰が下るようにここで祈ったのだとか。

(参/「沖縄のグスクめぐり」当真嗣一監修)

もしそうなら、金丸(派)によるクーデターも
「ユーシッタイ!」って感じだったのでしょうか。

いやぁ、でもなぁ…
すぐ近くの仲栄真グスク(同じく田舎下りしてた尚泰久の四男在)では
新王軍に抵抗するために集まってたみたいだからなぁ。

やっぱり謎ですね。

「追放」なのか、「自ら出て行ったのか」で
だいぶ印象変わるしね。
(小説「百十踏揚」では追放ではなく、自ら王位を尚徳にゆずり出て行ってる。
もちろん裏では金丸がそう仕向けるように画策してるんだけど。
叔父である布里を頼って…、というのも有力な説)

尚泰久との仲がホントはどうだったのかも
気になるトコロ。

そんな安次富グスクでした。

 

ちなみに、安次富グスクの斜め向かいの藪は
金橋と一緒に田舎下りした弟、
つまり尚泰久の次男である三津葉多武喜(みつばたむき)
居を構えたと言われる大川グスク。


ハッキリは分からないんだけど(参考資料によって位置が微妙にズレてる…)、だいたいこの藪群のエリア。

こちらも城壁などの遺構はなく
いまはただの藪になっています。

ちなみに、多武喜のお墓は、
百十踏揚のお墓の隣です。

 

 

この南城市富里エリアは
尚泰久周辺の人物巡りにはもってこいの場所です。

是非セットで巡ってみてください。

尚泰久の墓
長男・金橋の墓

次男・多武喜の墓
長女・百十踏揚の墓


布里(と妃)の墓

安次富グスク(長男ゆかり)
大川グスク(次男ゆかり)

仲栄真グスク(四男ゆかり)

 

 

*おまけ*

富里におこしの際は、
仲栄真グスクと百十踏揚の墓のすぐ近くにある
タイ料理レストラン「シャム」もどんぞ。
あの時のあの子がこんなに大きくなってた(≧▽≦)♪
グレーの子には会えず(>_<)