昨日、キラキラ琉球史☆ゆんたくマンガ
で奥間大親について触れたので、関連して、
ずっと下書きのまま、"うっちゃん投ぎてた"記事を
アップしますね。
国頭村奥間にある、
アガリカンジャー。
ここには3つの見どころがあります。
1つは奥間鍛冶屋の拝所。
1つはかぎやで風節の碑。
そしてもう一つ。
かぎやで風節の碑の右にある碑。
見出しは、
「奥間鍛冶屋発祥の地」
書いてあることをザっと要約すると、
ここ、奥間で生まれた男は、
後に浦添間切謝名村に居住し、
察度や泰期を生んだ。
つまり、この男は、
察度の父ちゃん、
奥間大親その人だった(!!)
やがて察度は中山王となり、
異母弟である泰期や金満按司は進貢使として
琉球と明を行き来する。
明から鉄加工の技術を身に着けた二人は
父(奥間大親)の故郷である奥間に戻り、
鍛冶屋となった。
これが沖縄の鍛冶屋の祖と言われる所以だ。
そして、泰期、金満按司が奥間鍛冶屋の祖である。
というもの。
子孫の座安家に伝わる伝承のようです。
奥間大親の「奥間」は
まさに国頭村の「奥間」ということになります。
浦添・宜野湾と、国頭村の奥間がつながるとは
ちょっと意外ですね。
(なお、浦添間切には現在の宜野湾も入っていました)
泰期が鍛冶屋の始祖だった
というのも、他ではあまり聞かない伝承です。
(※本によっては泰期はなく、金満だけの記述だったり、
「泰期金満」で一人の人物だったりしています)
参/
沖縄拝所巡り300(比嘉朝進著)
くんじゃん徒歩ナビ国頭村奥間区編(国頭村)
また、
「カニマン(金満(万))」という名も各地に色々見られるのですが、
それが銭を指すのか、金属(鉄)を指すのかなども
諸説あるようです。
そして、彼らの子孫が、
あの金丸と繋がっていくのです。
ふっしぎ~☆
それにしても、
察度・泰期時代、
14世紀の鍛冶場か……
と言ったら
宜野座村の「漢那ウェーヌアタイ遺跡」が
思い出されますねぇ。
こっちからは実際に鍛冶遺物が出土しているようですが、
この奥間鍛冶屋周辺はどうなんでしょう。
気になるところです。