彼がロケでベネチアに行ったのは真夏のことだった。
泊まったのは運河沿いの安ホテル。
部屋に入ってしばらくすると、
壁に小さな染みがたくさんあるのに気づいた。
赤黒い染み。
最初は模様かと思ったが、
よく見るとそうではない。
たしかにそれは染みだった。
日が暮れる時間になって、
彼は壁の染みの正体に気づいた。
開けた窓から猛烈な勢いで蚊が部屋に入ってきた。
あの染みは、
刺した蚊を手でつぶした時、
手についた血液を壁にこすりつけた跡だったのだ。
たしかによくよく考えてみれば周囲は運河だらけ。
ボウフラが湧くには絶好の条件である。
そして思い返せば、
ホテルの入り口で蚊取り線香のようなものを配っていた。
体験者から直接聞いたので、本当の話だと思う。
ただ他の時期にベネチアに行った者や、
高級ホテルに泊まった者は蚊を煩わしいと思ったことはなかったという。
だから、この「壁の染み」事件の真相が、
僕にはいまいち腑に落ちずにいるのだ。