山に落ちていたすなし(昨日の記事参照)。
現在、このすなしを使った豆乳ヨーグルトづくりを進行中。
結構苦戦しています。一応固まってはいるけど、できるだけおいしくしたい。
すなしヨーグルトを思いついたのは、この実が木曽地方のお漬物「すんき」に入れられるから。
すんき漬けは御嶽山麓の長野県側、開田高原あたりの独特のお漬物で、塩を使わず乳酸発酵させる。
厳寒地だからこそできるお漬物です。
前の年のすんき漬けをちょっと入れて、今年のすんきを漬けるらしい。つまり、乳酸の種を毎年引き継いで増やしているということ。
漬けるのは野沢菜のような菜っ葉ですが、漬けるときにオオウラジロノキの実(すなし)を入れるとよく漬かるということを、その土地の人に聞いたことがあったのです。
りんごの仲間で乳酸や酵母がよく作れるようですので、すなしでなくてもリンゴでもいいのかもしれませんが、すなしは地元の山に自然にあるものですから、きっと昔から使われてきたのだと思います。
というわけで、信州の山に行った思い出の実でヨーグルトを作り、その種をできるだけ長く培養しようと思っています。
何十年も育てるぬかみそみたいになったらいいのですが。
でも、実はあまり成功する自信がありません。
写真/長野県旧上村 2015年10月
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みなべの次の いわしろ駅。
谷山浩子の「テングサの歌」に出てくる。
30年ぐらい前のこと。以来、憧れの駅になった。
想像の中では、南国の日をぽかぽかと浴びている、ポツリとした駅。
1日に2本ぐらいしか電車が来ないような、私の好きな「へき地」。
でも電車は1時間に1本は来ます。
無意識にベンチを撮ってしまったのは、歌詞に出てきていたからだろうか。
それにしても、岩代=テングサ とインプットされてしまった。
・・・・・
紀勢本線 各駅停車 南部(みなべ)の次の岩代駅の
人気(ひとけ)のない ホームの古いベンチの上に あたしはいるの
あたしテングサ 海からとれた 紫色よ もじゃもじゃ髪よ
・・・・・
テングサって紫色じゃないような気もするのですが。
写真/和歌山県南部町 2015年10月下旬
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谷山浩子の「テングサの歌」に出てくる。
30年ぐらい前のこと。以来、憧れの駅になった。
想像の中では、南国の日をぽかぽかと浴びている、ポツリとした駅。
1日に2本ぐらいしか電車が来ないような、私の好きな「へき地」。
でも電車は1時間に1本は来ます。
無意識にベンチを撮ってしまったのは、歌詞に出てきていたからだろうか。
それにしても、岩代=テングサ とインプットされてしまった。
・・・・・
紀勢本線 各駅停車 南部(みなべ)の次の岩代駅の
人気(ひとけ)のない ホームの古いベンチの上に あたしはいるの
あたしテングサ 海からとれた 紫色よ もじゃもじゃ髪よ
・・・・・
テングサって紫色じゃないような気もするのですが。
写真/和歌山県南部町 2015年10月下旬
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タイムスリップしたかのように看板のある家。
山里の古い小集落で。
このあたりは、集落と集落を、少し細くて曲がった道が結んでいる。
細くて曲がっているから、古くからある道だと分かる。
この看板、今も有効だろうか?
看板に気を取られて、ここで塩と煙草を売っているのか確認するのを忘れた。
むしろ私は、家の前から裏手へと人を誘導するように咲く、オレンジ色のマリーゴールドを見ていたのだ。
家主の心映えが分かる。
マリーゴールドはこの色のものがやや自生的に毎年種から咲くようだ。
塩と煙草と郵便を扱う家は、昔は名士であり、集落の中心的存在だったのだろうかと想像する。
写真/長野県で 10月下旬
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*前の記事の続き
先日の鬼怒川決壊をきっかけに取り寄せた『聞き書 栃木県の食事』(農文協)に、水郷地帯の洪水への備えについて書かれてあった。
栃木県のその地帯は、鬼怒川沿いではなく、小さな3つの川にはさまれた生井村という所で、現在の渡良瀬遊水地の隣でもある。渡良瀬遊水地の中にも、かつては谷中村という輪中があったということだ。
以下、生井村について、『聞き書 栃木県の食事』から引用(要約)。渡良瀬川流域の項。
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下都賀郡生井(なまい)村は、栃木県では最も土地が低く、水郷地帯というべきところである。むらは三河川によってたびたび水害に見舞われる。そのため生井村は、たえず洪水の心配をしなければならない。
とくに初夏から秋にかけては、台風による洪水に悩まされる。田畑をはじめ、ときには家畜や家屋までも、濁流の中へ水没してしまうような被害を受けることがある。このような被害を防ぐために、むらのまわりを高い堤防で囲んだ輪中の里になっている。
また、洪水の危険から逃れるための一つの方法として、どこの家でも小高く土盛りした上に水塚(水屋)を建てている。
水塚を建てるところだけでなく、母屋や物置が建つところまでも土盛りする場合が多い。高く土盛りした塚の斜面には、洪水で崩れないように、土止めとして岩舟石で石垣を築いたり、木を植えたり、せきしょうを植えたりする。
輪中では、ちょっとした洪水では冠水の心配はないが、いったん水が入るとなかなかひかない。このような場合を考えて、水塚の中に丈夫な台をつくり、その上に畳、衣類、米俵、味噌樽、漬物樽、乾物類、そのほかの食料品や貴重品などを置いて、常に備えている。
木舟/輪中の里は何日間も水浸しになる。その間、ほかとの行き来は舟にたよらざるをえない。そのためどこの家でも手漕ぎの木舟を持っている。ふだんは納屋や台所の梁下につるし、洪水が予想されると庭先におろし、杭につないで冠水に備える。
輪中の里は、水量豊かな河川に恵まれ、農業以外に船頭や魚とり専業者もいる。
とれる魚は、なまず、ふな、こい、うなぎ、どじょう、雑魚、川えび、たにし、からす貝、しじみなど。
また、思川、巴波(うずま)川は、常には生活に重要な物資輸送の中心になっている。薪、炭、竹、麦類、大豆などが東京や浦安に向かって荷積みされる。
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ここでは、湿地特有の作物として、行李柳、いぐさもある。いぐさはもちろん畳表の良い材料になり、行李柳では行李や弁当箱を作る。
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写真/愛知県高浜市の長田川。川の両岸には家はなく、水田が広がっている。水田の向こうには、特産の瓦の工場などがあり、昔ながらの集落が続く。ここでも、水害に備え堤防のかさ上げ工事を行っている。
今の時期、オギの穂が銀色に光ってきれい。(2014年)
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この写真はインドネシア・スラウェシ島の田んぼ。川に堤防がない。
何年かに一度は氾濫するだろう。堤防がないから決壊もしない。水はじわりじわりとまわりの田んぼへ広がっていくだろう。
家は周りの山の端にあり、浸水する可能性がなくもないが、すぐに山に上がれる場所だ。
どっちにしても、ここらの家は1階部分が居住空間ではない、いわゆる高床なので、そうそう床上浸水にはならない。
稲は何らかの被害を受けるだろうが、米倉も高床だし、家に収納する場合にはやはり2階部分に置いている。
インドネシアには水上住宅もポピュラーだが、水上住宅とまでいかなくても、水の多い地域では、大雨による洪水を単なる水位の上昇としか思っていないのではと思う。
鬼怒川が決壊したと聞いて、すぐに農文協の『聞き書 栃木県の食事』を取り寄せた。
この本には、昭和初期の食事だけでなく暮らし全般が書かれていて、水郷地帯での何らかの暮らしの工夫が分かるのではと思ったからだ。
けれど、よく考えると鬼怒川が決壊したのは茨城県だった。
『茨城県の食事』はすでに持っているので調べてみると、水郷地帯の洪水への備えのことは一言も書かれていなかった。
鬼怒川が決壊するなどと言う恐れは誰ももっていないかのようだった。
書かれていないだけで、何らかあっただろうとは思うのだけど、常総市も、その合併前の水海道市も、水害に苦しめられてきたというような情報は見つからなかった。
今回洪水になった鬼怒川と小貝川にはさまれた場所は、テレビで見ると新しい家ばかりなので、昔からの集落ではないのだろうかと思った。昔は危険だった地区でも、最近になって住宅地が造られるということはよくある。昨年の広島県のように。
が、グーグルアースで見てみると、2本の川のそれぞれ少し内側に、旧道らしき曲がった道があり、そのまわりに家が建ち並んでいる。神社もところどころにある。
それらはきっと昔から開けた集落なのだと思う。その人たちは水害についてどういう心構えを持っていたのか聞いてみたい。
本当に昔から決壊などありえないこととして暮らすことができていた場所なのだろうか。
続く(予定)
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茨城、栃木、宮城で川が氾濫し大変なことになっていた。
が、3日ほど前からニュースは安保法案に塗り替えられた。
こんなに反対の人がたくさんいるのに、どうして前の選挙では自民党が圧勝したんだろう?
不可解ニッポン。
安保法案反対の人は選挙に行かなかったということなのか。
川の両岸には平地ができる。
山から土砂が流れ込む。
川が土砂を運んでくる。
そして大雨で氾濫を繰り返し、山と山のはざまに平らな土地をつくる。
平らな場所は、洪水が起こるという宿命を背負っている。
あるいはときに水たまりのようになる。
日本では(ほかの国でも)その宿命に逆らい安全に米を作るために堤防を築いたり、導水路を造ったり、さまざまな工夫をしてきた。
偉大な仕事を成し遂げてきたけれど、最近の気象の激しさを見ると、これから先はどんなに強く高い堤防を作っても、過激な雨とのイタチごっこになりそうな気がする。
こういうところに住む動機というのは、きっと本来は、米作りに便利だから、あるいは漁業や水運で川を利用するためだっただろう。
茨城の洪水がかなりひいた現在の状況を見ると、そのすさまじさに驚く。
一人暮らしの人は片づけもままならないだろう。
写真/山形県飯豊(2015年6月)
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*この写真は飯田市です。
前の記事で、長野県遠山郷の下栗という急傾斜地の集落の2つのタイプの道について書いた。
昨日、イタリア人の建築家マッテオ・ダリオ・パオルッチ氏が、世界遺産であり文化的景観でもあるアマルフィー海岸の集落について、下栗と同じ状況を紹介されたので、驚いた。
どこの国の急傾斜地でも同じ状況があるのかもしれない。ただ、そのことをあえて取り上げておられるということが、ちょっと嬉しかった。
パオルッチ先生の講演要旨に以下のようなことが書いてある。
屋敷と耕地には道の系がある。
その1つは、自動車が入る前にはそこそこの勾配の道にわだちがついた、比較的距離の長いもので、屋敷と屋敷を結ぶ、運搬車用の道だった。
もう1つは、急勾配のルートをとり、多くは小さな踏み段がある、上の段や屋敷に直行するようなものである。
この講演は9月5日、飯田市歴史研究所の研究集会で行われたもので、上の文は飯田市歴史研究所発行の配布資料を参照したものである。
写真は、長野県飯田市。「丘の上」と呼ばれる北西側の高いところから見下ろした盆地。
空撮で見ると、南アルプスと中央アルプスにはさまれた、一筋の溝のような本当に細長い窪地があり、その南の方に飯田市の旧飯田市地区は位置する。市の大きさからして伊那地方の中心であり、市民の文化レベルが異常に高い感じのする町。歴史研究所も市の機関である。
飯田は私にとってはずっと、霧の町だった。
中津川から東京に行くとき高速バスで通るとほとんどいつも霧が重くたれこめている。
逆に、霧を見て、ああ飯田か、と思う。
これだけはっきり窪んでいれば水蒸気が沈み込むのも無理もない気がする。
最近よく飯田に行くようになって、霧が晴れるように町の全貌が見えてきた。
盆地の中央を流れる天竜川が、両側の山脈に向かって河岸段丘をいく段にも造り、車で走っていると、坂を上がったり下りたり。それにつれて、次から次へと物語が展開されるように「地形の実感」が迫ってくる。それを確かめながら走るのが楽しい。
写真/長野県飯田市の旧飯田市部分
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前の記事から続く
今は集落には車道がある。下から上までつづら折になって、この道が家と家を結んでいる。
大正とか昭和になって、荷車やリアカーができたとき、この道の原型ができただろう。
もしかするとそれ以前から、こういう形でも人の歩く幅の小径はあったのかもしれない。
(*後日記/車道の原型となる道は元からなかったということ。
昭和45、6年頃今の車道ができ、それ以前は小径だけで移動していた)
けれどこれが車道になって、耕地は大幅に削られた。こんな急傾斜地では、幅2、3メートルの道をつけるのに、斜面をたくさん削らなければならない。こんなところでなくても、棚田のあるところでは、圃場整備によって田んぼが減ったという話をよく聞く。
まあ、今となってはどこでも耕地はお荷物のようなもので、ない方が手を入れなくていいから喜ばれるのが実態だけれど、この車道は、昔からあった人の歩く小径を分断している。
耕地もまた分断されて、ときおり、わずか幅30㎝ぐらいの畑が道の脇にあるのを見かける。
小さな径をどれだけの人がどれだけの年月歩いたことだろうと思う。
人が行き来してにぎやかだった村の昔のことを思う。
人が耕さなくなれば村は必要なくなり、村に人がいなくなれば、耕地も径も消えていく。
日本が、アジアが向かうところはどこなのだろうか。
写真/長野県遠山郷・下栗(飯田市旧上村 2015年6月)Simoguri,Tooyama, Nagano-pref.
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今は集落には車道がある。下から上までつづら折になって、この道が家と家を結んでいる。
大正とか昭和になって、荷車やリアカーができたとき、この道の原型ができただろう。
もしかするとそれ以前から、こういう形でも人の歩く幅の小径はあったのかもしれない。
(*後日記/車道の原型となる道は元からなかったということ。
昭和45、6年頃今の車道ができ、それ以前は小径だけで移動していた)
けれどこれが車道になって、耕地は大幅に削られた。こんな急傾斜地では、幅2、3メートルの道をつけるのに、斜面をたくさん削らなければならない。こんなところでなくても、棚田のあるところでは、圃場整備によって田んぼが減ったという話をよく聞く。
まあ、今となってはどこでも耕地はお荷物のようなもので、ない方が手を入れなくていいから喜ばれるのが実態だけれど、この車道は、昔からあった人の歩く小径を分断している。
耕地もまた分断されて、ときおり、わずか幅30㎝ぐらいの畑が道の脇にあるのを見かける。
小さな径をどれだけの人がどれだけの年月歩いたことだろうと思う。
人が行き来してにぎやかだった村の昔のことを思う。
人が耕さなくなれば村は必要なくなり、村に人がいなくなれば、耕地も径も消えていく。
日本が、アジアが向かうところはどこなのだろうか。
写真/長野県遠山郷・下栗(飯田市旧上村 2015年6月)Simoguri,Tooyama, Nagano-pref.
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急傾斜の畑のあいまに、人が一人歩ける幅の径がある。
両側に栗の丸太を置いてそこが道であることをはっきりさせ
はしご状に、横にも短い栗の丸太を置いてある。
それは歩きやすくする役にも立っているが、常に下へと落ち続ける土を留める役割もしている。
径は大きな杉の木の下へと続く。
そこには心地よさげな暗がりがある。
その大木の根元に丸い石が据えられていたり、小さな鳥居があったりするかどうかは分からないけれど、座ってむらの耕地や家々を見下ろしたり、対岸の山を眺めたりするにはいい場所だろう。
鍬や種や作物を背負ってこの急傾斜の小径を上った人たちは、きっとこの木陰で足を止めて、汗をぬぐったに違いない。
こういった小さな径が、家と家、家と耕地を結んでいる。
この径は今も住宅地図の中ではっきりと点線で示されている、使われている径でもある。
古い時代にはこの径を主にして人が往来していただろう。ちょっと隣の家に行くのに、このかわいらしい径を辿っていただろう。
今よりももっと人は歩いていて、この土地に密着して生きていて、誰かと出会うことも多かっただろう。
続く
写真/長野県遠山郷・下栗(飯田市旧上村 2015年6月)
Simoguri, Tooyama-go, Nagano-pref.
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