山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

耕して暮らす

2010-08-31 | 山里
まったくもう、考えられないぐらい蒸し暑い。
夜7時、駅から歩いてきたら、汗が吹き出た。
まるで名古屋の一番暑いような蒸し暑さ。

でも、夜聞こえる音は、コオロギなど秋の虫の声に代わっている。


今日は中央線を長距離、電車で往復。
窓からの景色がいつもながら楽しい。
平らなところには、黄色くなりかけた田んぼ。
塩尻からはブドウ畑、りんご畑、
八ヶ岳の高原では、牧草地やレタス、
きれいな家々と、屋敷の垣根や花々。

みんな一生懸命耕してるなぁ……
と、頭の下がる思いです。


そういう人たちのおかげで、きれいな景色も見られるし
おいしいものも食べられます。

仕事をもつ山里のおばあちゃん その2

2010-08-28 | 山里のおばあちゃん
ゆきこさんの畑に下りていって
「すごい~、
 それにしても、広い~。こんなにやってるなんて」と言ったら、一言、

「これだけがわたしの仕事だから」と。

おおっ! なんてかっこいいの。


ゆきこさんはやさしいおとなしい人で、
決してみんなより大きな声でものを言ったり
説教をしたり、演説をしたり、ましてや自慢げにものを言ったりは
しない人なんですけど
そういう人がキッパリとこういうことを言われたので
ハッとしてしまいました。


山里のおばあちゃんとしての矜持みたいなものを
持っているのですね。

自分はこの畑だけはちゃんとやるんだという「務め」の気持ちと、
その仕事への誇り。


こうしてみると、山里のおばあちゃんはみんな仕事を持っているのです。
誰もが雨降りでなければ畑に出て仕事をしています。
フルタイムで従事してる本職です。キャリアウーマンです。
そして誰にも雇われていない。畑の経営者です。
しかも、自分が主人だから、自由です。
できた作物は全部自分の責任です。


息子や嫁さんは会社に働きに行っている。
おじいさんは田んぼをやって米を売っているし、地域の役もやっている。
だから私は畑をしっかりやるんだ、という「役割」の意識が強くあります。

畑以外にも、嫁さんがいないときは孫にご飯を食べさせたり。


現役引退して、時間が余っているから、土地も余っているから、
趣味で畑をやっている、というのとはまったく違う。
おばあちゃんにとっては、畑は「本職」なのでした。

ついでに言えば、採った作物を使って料理しまくるから
料理の腕も上がります。


山里のおばあちゃんは仕事を持っている。
そして家族の生活の基盤を作っている。
すごい。最強です。


そうして考えると、都会のお年寄りは気の毒みたい。
仕事を持つなんてことないから、カルチャーセンターに行ったり。
テレビを見たり。
勤めなんかしたら、年金減らされるもんね。


年を取ると都会のほうが住みやすくなるというけど
それは都会に人口が集中してるから交通や病院などが便利なためであり
都会のお年寄りたちがもっと田舎に来れば
いろいろと楽しいんじゃないかと思います。

仕事をもつ山里のおばあちゃん

2010-08-28 | 山里のおばあちゃん
畑の草を取っていたら、下のほうでウィーンと草刈機の音がしてきたので
ナオシさんがあぜの草を刈っているのかしらと思ったら
ユキコさん(ナオシさんの奥さん 推定70歳)だった。

そういえば、「カボチャとスイカの畑に生えた草を刈らなきゃ」と
このまえ言っていた。
鎌で刈るの大変だなぁと思ってたんだけど、まさか草刈機とは。

先日も愛知県の山奥で、やはりおばあちゃんが草刈機を振り回していた。
びっくりした。
危ないじゃないですか。と思うけど、
どうやらおばあちゃんたちにとっては当たり前のことらしい。

ユキコさんは脚が弱くてときどき転びそうになるので
とても心配ですけど、かといって、私が代わりにユキコさんの畑の
草刈り全部やってあげますなんて、言えない。
私はあまりにもヤワなんです。ズクもないんです(ごめんなさい)。

草刈機による事故は、林業のチェーンソーによる事故よりも
多いのである。
まあそれだけ使用する人数も多いってのはあるけど。


で、本題ですが。

ユキコさんの畑はとても広い。とはいっても、山里では普通の広さだろうと思うけど。
写真に写っているのはそのごくごく一部の隅っこのほうで
棚田の段々になっているところに4枚ぐらいある。

ビニールハウスの中に、トマトとキュウリがズラーーッ。
立派な手(支柱)がしてあって。

大豆、ささげ、などなども、ズラーーッ。
私とはスケールが違います。

オクラとかナスとか、里芋とかトウガンとか、サツマイモとか花とかも
なにもかも見事に育っているのです。

確かに草も生えているけれど、それ以上に野菜が立派に育っている。
いい仕事してます。

それに比べると私の畑は三歳児どころか1歳児ぐらい……
ちゃんちゃらおかしい……
ユキコさんの畑の野菜と見比べると、違う植物のよう……


(続く)

秋は近づいている?

2010-08-26 | めぐる季節と自然
昨日の夜中、窓から入る光が明るいなぁと思ったら、満月でした。
今も窓の外に丸い月が見えています。星も見えています。

毎日暑すぎ。
というか、暑過ぎる日が休みなく続いて、逃げ場がない感じ。
確か昨年は、1度しかクーラーを使わなかった気がするけど。


長野県木祖村に行くと、かなり涼しくてすごしやすいけれど
木祖村の人は、暑い暑いと言っています。
高原野菜の白菜も、いろいろと大変な状況のようですが
連日出荷が続いています。


暑いけれど月の光が明るいのは、
やはり空気が澄んできたからでしょうか。

イネ科の実りの季節

2010-08-25 | 植物
しばらく畑に行くのをサボっていて、久しぶりに行ったら
ナオシさんの田んぼのイネがすくすく成長し、
実ってうなだれ始めていました。

その横の私の畑で、エノコログサやらメヒシバやらのイネ科植物が、
やはり実って重そうになってました。
イネ科の皆さん! 今年も豊作ですねぇ。とほほ……


イネ科っていうのは人類にとても貢献してきたグループ。
このように勝手にすくすく育つところが、やはり実力なんですね。


しかし同じイネ科なのに、片や豊作だとちやほやされ
片や雑草といわれて迷惑がられる。
昔は草も肥料にしたから大事な資源だったのだけど。


今日は作業後、ユキコさんの家に寄って、お茶してきました。
お茶菓子が、暑さでぐったりした体に、効きました!
おばあちゃんと話すのはほんといやされます。

でもって、今日はカボチャがまた4個も採れました。あと3個なっています。
うちの物置には今9個のカボチャがあります。



ところで、写真は、ナオシさんとはまったく関係ない
愛知県の山奥の田んぼ。

暑い夏にはサルスベリ

2010-08-20 | なんとなく報告
体も精神もへなへなして、どうもブログを書く気力が湧いてこない。
ねたはいくらでもあるのに、体の底から力が湧いてこなくて、困ってしまう。
ちょくちょくこのブログをチェックしてくれている人(ほとんどが知り合いだと思うんだけど)には、ほんと申し訳ないです。

写真は半月ほどまえのサルスベリ。
その記事を書いていたらパソコンが突然OFFになって挫折。
半年ぐらい前から、よくパソコンが突然ストライキを起こす。
まあ何かとお疲れのときもあるでしょうから休んでもいいが、
なるべく予告してから休んでほしい。


目がさめたら、窓の外にうっそうとピンクの花の群れ。
南国に来ているようで、いい気分。
その勢いも、最近ちょっと落ちてきました。

行方不明の人たちと、インドネシアの国勢調査

2010-08-09 | なんとなく報告
全国各地で、戸籍上はいるはずなのに、実はいない、というお年寄りのことが続々と明るみに出た。

家族と一緒にいるのに隣室で白骨化していたというのは特殊な例としても、はなはだ無責任な言い方をすれば、死期近くなって姿を消し、どこかの山中で静かに息を引き取り土に戻るのだとすれば、それは生き物としてなかなか立派な死に方なのではないかと思う。
家族に介護の世話をかけることもない。

猫はそういう死に方をする。
人と猫と一緒にしてはいけないという人もいるかもしれない。

行方不明の人たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
日本の場合、都会のお年寄りが一人でそのような山中に入り込むということもないだろうから、どこかの街で行き倒れになり、病院なり施設なりに運ばれて、そこで名もない人として生きている(あるいは亡くなった)というのが多いのだろうか。

幸福の黄色いハンカチみたいに、どっかの農家の納屋にすみつきそれなりに仕事をしていたりするならいいけれど。
あるいは寅さんみたいに旅をしている?
昔はそういう素性の分からない流れ者みたいな人が、
山村にやってきて、住み着いたり、まだ若い人であればそこで所帯をもったりすることも
多くあったようである。
そうやって、新しい血を入れていたりしたのである。

どこかの施設に引き取られている場合なら、税金でその人をやしなったり看護したりしているわけで、家族は年金をもらいその義務を免れているのだから、けしからんという言い方もできなくはないが
都会だからそういうことにきちきちせざるを得ないのであって
山里には場所も食料もふんだんにあり、ただ行政のしくみとして困るということであって
健全なコミュニティーというのは本来そういう「ゆとり」「あそび」があるものだろう。

そもそも、人の出生と死について、すべてを国が把握できていることのほうが異常であり奇跡的驚異的であり、むしろ不自然である。


インドネシアでは5年ぶりかなんかで国勢調査を行い、今まで把握されていなかった樹上生活の民族のむらに分け入ったらしい。パプア島のこと。
インドネシアというのは本当に広くて、無数の島があり、それが一つの国になっていること自体、驚異的である。どうやってそれを「国」にしているのか不思議でならない。
ジャングルを奥へ奥へと分け入っていけば、忘れたころに次のむらが現れ、それが他の地域と隔離されていれば、別の民族だったりする。
フローレス島では、ネアンデルタール人とは別の系統の人類の骨が発見されている。
くだんの樹上生活の人たちへの国勢調査の様子をテレビでやっていたが、「インドネシアって何?」って答えていた。
彼らにとっては国なんか関係ない。

把握できない人たちやその地域を、自分の国として括ろうとすることをやめてみてはどうなんだろう。国勢調査の手間も省ける。
把握できる人と地域だけを自分の国とする。それでダメなのか。
インドネシアを批判しているのではない。
地球上のすべての地域をどこかの国として境界を引くようになったのは、いつからなの?
学校で習ったかもしれないが、歴史は苦手だったので、私は無知である。
ただ、その方式の中に、権力者の陣地取り合戦のにおいを感じて
無為に思うのである。
管理しようとしているのは誰なのか。
何のために管理するのか。

国というのは、「よその国」があって初めて意識されるものである。
よその国が認識されなければ、自国を国として括る必要もないし、境界線を引く必要もない。
生活に必要な土地を利用して暮らす、それだけのことである。

どこの「国家」にも属さず、自分たちの暮らしを営々と続け、そのことを外の人には知られずにいる人たちが(知られてもいいけど支配されずにいる人たちが)、地球上に残っていてほしいと思うのは、
私だけだろうか。