山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

上野村のおばあちゃんの焼きおにぎり

2009-10-31 | 山里のおばあちゃん
上野村の民宿を発つとき、おばあちゃんが渡してくれた焼きおにぎり。頼んでないのに、お昼に、ってつくって渡してくれた。きっとご飯があまったから、思いついてつくってくれたんだろう。

民宿はそれなりに商売だから、何を頼んでも有料ってとこの方が多いけど、このおばあちゃんは商売っ気ゼロで、ほんと、まるで、知り合いのおばあちゃんとか、親戚のおばあちゃんという感じ。
やさしさが心にしみました!

おかげで上野村では全然お金を使わないですんだ。

ちなみに、表面に塗ってあるのはお味噌です。

十三夜

2009-10-30 | めぐる季節と自然
夕方、窓の外を見ると、いい月が出ていた。もしやと思い、暦を見ると、やはり十三夜だった。
十五夜より確実に見られる可能性が高い十三夜。
秋になると、月の光は明るくて、外にいれば影をつくってくれるし、
家の中にいれば青い光を窓から注いでくれる。

都会の明るさの中では絶対感じられない月の光。

畑仕事のついでに

2009-10-29 | 植物利用
10月24日の記事の、上野村のおばあちゃんが、両手にしっかり握っていたものは、くるみでした。
本当はこの日、おばあちゃんは友達とくるみ拾いに行くはずだったのですが、天気があまりよくなかったので、やめたのです。
でも、いくつか拾ってきたのです。

山里の祈りの心 上野村で

2009-10-27 | 山里
群馬県上野村で。
上野村にはあちこちに祈りを捧げる場所がある。
上野村に限らず、恵那にもこういった場所が特に多い集落はあるし
特に多くはなくても、山里に、あるいは、都市の中にも、
小さな祠や石仏や神様がある。
人はどうして祈るのでしょう。
そして、現代人はどうして祈らなくなったのでしょう。

山里の祈りの心

2009-10-26 | 山里
群馬県上野村の道端にあった小さな鳥居。まつられているのは石らしい。
ヌルデでつくった七福神のそなえものもあった。

最近、日本人の祈りの場や心のありかたが気になる。
現代人が失ってしまったもの。

内山節によれば、日本人がキツネにだまされなくなったのは1965年かららしい。

上野村民宿のおばあちゃんのラーメン

2009-10-25 | 山里のおばあちゃん
昨日の記事のおばあちゃんは80歳を過ぎてなお、一人で民宿を経営しています。
上野村の大部分の民宿が夏季だけの釣り人向けの営業であるのに、このおばあちゃんは電話したら快く引き受けてくれた頑張り屋さんです。
このときはシンポジウムだったので、本来なら役場経由で団体客用の大規模施設に宿泊するところだったのですが、別行動で民宿を頼んだのは、正解でした。
民宿に泊まって事情聴取、いや、情報収集したかったので、おばあちゃんがやっているところを選んだのです。
実は、ネットで調べた限りでは、おばあちゃんではなくおばちゃんだったのですが、写真が古かったらしく……。

民宿への帰りが少し遅くなりそうなのと、おばあちゃんも食事作るのがめんどくさそうな雰囲気を漂わせていたので、夕食は要らないということにして、でもその夜はおばあちゃんの話を聞かせていただく約束をして、夕方帰って来たのでした。

そうしたら、
「じゃー一緒に台所でラーメン食べようよ。サービスだから」といって、インスタントラーメンを作ってくれたのです。
このラーメンは、見たことのないカップラーメンだったのですが、おばあちゃんはそれをわざわざ鍋に入れて煮て、トントントンとまな板で野菜をいっぱい切って具として入れて、ちゃんとしたラーメンにして丼に入れてくれたのです。
「私は野菜がいっぱい入ったのが好きでねぇ」と言いながら、
私の分と、自分の分と、2回に分けて。

おばあちゃんは畑から帰って来たばかりだったのに、座ることもせず、台所に立ち、私には「そこ座ってて」と言って、作ってくれたのです。
感激、そして、あっぱれです。
さすがです。

ありがとう……。

ラーメン食べてから、2時間ぐらい、お話聞かせていただきました。
昔林業がよかったころ、だんなさんが木材運送の事業を起こして、トラック5台まで増やし、がんばった話でした。けがをして、やめようかと旦那さんが思ったとき、励ましたのは、おばあちゃんでした。
素敵な話でした。

早くテープ起こしてお話を書きたい。

一日中書いているという夢のような数日を過ごしていますが、かなり疲れます。
体は疲れないのに、妙に疲れる……。

それに、キーボードをたたく力がますます強くなっています。気がつくと、思いっきり、力任せに打っている。
多分、運動しないので、力が有り余っているのでしょう。

ガガイモ科の花 東山植物園で

2009-10-24 | 植物
名古屋、東山植物園の温室で。

ガガイモ科の花は、花びらがろう質な感じがします。
科によって、花の共通した雰囲気があります。
この花、透明感があってきれいです。
それに、この造形。
自然ってどうしてこんな不思議で素敵な造形をしているのでしょう。

ナス科の花はマットな感じで色はシアン系でやさしげで、形はおおむね星型です。

文明式ココナツかき器

2009-10-24 | 山里
前述の家にあった、ココナツをかく機械。
スイッチを入れると中央の部分が回転して、ココナツが削られます。
とっさに、九州の平戸諸島、小値賀島にあった「文明式芋切り器」を思い出しました。
小値賀島では、各家庭にサツマイモをスライスする機械があるのです。

ちなみに、私の住む中津川市の家庭には、五平餅のたれを作るときにつかう「落花生すりつぶし器」があります。落花生を投入し、ハンドルをぐるぐる回すと、どろどろになった落花生が出てくるもので、動かすのにけっこう力が要ります。

パダンの食堂のかまど

2009-10-24 | 山里
前述の、インドネシア スマトラ島 パダンで。
招いてくれた家のかまど。大なべでパダンの伝統料理を作っている。
パダンの料理にはココナツが使ってある。これはスラウェシにはないこと。
あと、唐辛子や赤にんにく、白にんにく、しょうが、うこんなど、各種香辛料。

このキッチンを見て、
「家ってこれでいいんだ」と思った瞬間でした。
インドネシアではキッチンの原型をあちこちで見ることができます。
というか、今の日本や欧米先進国だけ? 原型をとどめてないの。

キンモクセイも二度満開になる?

2009-10-23 | 植物
毎年花期がずれず、全国同時期に咲く花の代表は、ヒガンバナだけど、多分キンモクセイもそんな花です。
キンモクセイは毎年10月1日ごろ、きちんと咲いてくれます。
20年ぐらい前の私の観察では、キンモクセイの開花に気付くのは、毎年10月3日でした。
今年は9月末から咲いていました。

それが、今年、今また咲いているのです。
2日前に、なんかキンモクセイの香りがする・・・と思っていたら、少し離れたところに住む友人からも、それを伝えるメールが来て
そして今日、家の近所で満開に近い状態になっているのを発見。

でもこんなことは今年初めてです。


2006年8月8日に、ネムの花は二度満開になる、という記事を書きました。
これに気付いたのは私だけじゃないようなのですが、
今年のキンモクセイはどうなっているのでしょう。


心やさしく穏やかな人たちの街、パダン

2009-10-23 | 山里
9月末の西スマトラ大地震に見舞われたパダンがいかにいいところかは、2009年3月29日「南の島の赤鯛白鯛」の記事に少し書いた。

昨年12月、私はマレーシア経由でインドネシアに行った。
クアラルンプールから一番近いインドネシアの空港が、パダンだった。
マラッカ海峡を船で渡ってそこに入る、というのが理想だったけど、クアラルンプールから電車に乗り船の切符を買って乗り継ぐという慣れないルートを、旅の初めからやっていたら、いきなり疲れそうだったのであきらめ、飛行機で行ったのだった。

行き当たりばったりで、日本を出てからルートを考えているため、出発前はスマトラ島を経由することは予定になかった。なぜなら最終目的地はインドネシア東部のフローレス諸島だったので。
でも、考えた末、パダンからインドネシアを横断(縦断?)してバスでフローレスまで行ってしまおうかなどと計画したのだった。

空港からパダンの街までは確かバスで1時間半ぐらいかかった。
パダンの街にさしかかり、街を流れる道端の小川や、並木道を見たとき、わたしは自分でも全く予期しなかった深~い安らぎみたいなものが満ちてくるのを感じたのでした。
うまく説明できないが(説明するべきだが)、人が生きている実感みたいなものが、漂っていたのです。
バスの窓から見るだけなんだけど、ものすごい穏やかさがあるのです。

予備知識なく行ってみたら、意外に海に近いことがわかり、宿に荷物を下ろしてから海辺へと歩いていくと、海岸にそったいい道路にちいさい屋台(というより、ひさしのある台とでも言ったほうが適当な)が並び、そこでぴかぴかの魚を売っていました。
小さな舟がたくさん浜にあって、ぶらぶらしている人がいて、そこで写真をとったりし、モデルになってくれた人と片言で話したり(パダンの人はほとんど英語がしゃべれない)しているうちに、こっちでコーヒーを飲まないかと、浜の上の小屋に招かれました。

で、お言葉に甘えて、というか、そこはちょっとした茶店ふうだったので、まあたとえ商売だったとしてもお茶代ぐらいはたいしたことはないのだし、ミルクティーを飲んでいると、次第に人が増えてきて、それは今思うと私を見物に来た人なんだけど、7、8人になり、でも言葉が通じずに、スラマッソーレ(こんにちは)などとニタニタしながらあいまいに見つめあい言いあっているしかなかったのでした。
そこにいる人はほとんど若者だったけど、みんな漁師だということでした。
一人、ヒゲをはやした英語少ししゃべれるやさしげな警察官がいたけど(もちろんオフで)。

しばらくすると、若い女子が夫である彼氏とともに走ってやってきた。
その2人は、なんと日本語がぺらぺらでありました。
誰かが呼びに行ったのです。
日本で働いていたということで、なつかしがっていろいろ話をしてくれた。
インドネシアでは、地方に行くと、英語を話す人より日本語を話す人を探す方が早いことがよくあります。

2日前の記事の写真は、その小屋の中で撮ったものです。

結局、その茶店では、「いーよ、いーよ」とお茶代などとられず、
日本語を話す女子が「うちあなたの宿のほとんど隣デー「食堂」だから来てゴハン食べまセンカー?」というので行ったのでした。

で、行って、彼女の家の厨房を見せてもらったり、パダンの伝統的食事を食べさせてもらったり、日本の写真を見せてもらったり、従弟を紹介してもらったり、ギターで歌ったりとさんざん遊んで、
さすがに「めしや」さんでゴハンいただいたんだから、ここでは払わなくちゃ、と思ったけど、「いーよ、いーよ」といわれ、ご馳走になり、宿に帰ったのでした。

この日が、この旅行でのインドネシア初日だったのだけど、正直なところ、わたしには衝撃の一日だったのです。インドネシア観が変わってしまったのです。というより、それまでがゆがんでいたのでしょう。

それまでの経験では、どこに行っても、乗り物料金はふっかけられ(別に大した金額ではないのだけど、日本円にすると)、レストランでは先進諸国人が勘定をもつことを暗に期待され(まあそれも当然といえば当然で、どうということではないのだけど)、仲良くなったような気がしてた人からも、とにかく日本人やらツーリストは金のなる木というか、金をばらまく物体としてしか見られていないように感じ、心の中を「ヒュルル~~」とすきま風が吹いたりしてたのだけど、
パダンに来て初めて、インドネシア人と、人と人として対等に話をしたような気がして、心の中があったかーくなったのでした。

このパダンでの初日が、私のその後の1カ月を決めてくれたかのように、その後ジャワに行ってもスラウェシに行っても、ずっと現地の誰かの家に泊まったりご馳走になったりという、インドネシア人の厚意に触れる旅になったのでした。

パダンはそんな、忘れられない街です。
スマトラには名前忘れたけど湖のほとりの有名な避暑地があって、みんな、「どうしてそこへ行かないのか」と言っていた。
そのうち余裕ができたら、冬はそこで過ごしたいなーと夢見ていたのだけど。


浜辺の小屋の人たちにあげようと焼き増しした写真が、手元に残っています。

写真は、パダンの浜辺で、若い漁師。

インドネシア スマトラ島 パダン

2009-10-20 | なんとなく報告
私の好きな町、パダン。
2008年12月。

大通りをクレイジーな彩色をしたバスがたくさん走っていた。
通勤時間だったからか。

数千人がなくなったと推測される先日の地震を
ずっとおいかけて報道しているのが山陽新聞ってのは
どうしてなんだろう。
地方新聞って、なかなかやる。

ここで会った若い夫婦が、日本に働きに来たことがあって
奥さんは四国、彼のほうは鳥取だったと言っていた。
山陽新聞にパダン出身インドネシア人が多いのか?


在インドネシア 日本大使館のサイトにも、
在日本 インドネシア大使館のサイトにも
地震の報道が驚くほどない。
日本にいるインドネシアの人たちは情報入手できるのだろうか。


ハイビスカスのしわしわ

2009-10-20 | 植物
ハイビスカスのしわしわが大好きです。
見ると写真とらずにいられません。

先日の東山植物園、国指定重要文化財大温室では、ほとんどのハイビスカスが、終わっていました。
オフタイムに入ったらしいです。おやすみなさい……