山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

3カ月半かかって戻ってきた郵便

2010-01-31 | なんとなく報告
10月17日に投函したインドネシア・ジョグジャカルタ宛ての郵便が、あて先不明で戻ってきた。届いてないことは、相手からのメールで知っていたけれど。
届かなかったことより、3カ月半もかかって戻ってきたことの方が不思議。
言っちゃ悪いけど、インドネシアだから、郵便もなくなっちゃって戻ってきたりはしないだろうと思っていたのに戻ってきたオドロキと
そのことに3カ月半もかけることができることに対する不思議さ。
この郵便、一体どこで何をしていたのだろう…………????????
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高速道路無料化

2010-01-31 | 山里
本日岐阜駅前まで車で往復しました。
高速代は片道600円です。昔と比べたら安い感いっぱいです。
ETCで小牧東まで600円と、以前の半額。そこから尾張パークウェイが無料になっていた。

民主党政権で、高速道路を地方だけ無料にする方向で考えていると聞いた。
これは、フランスの地域振興政策と同じ(内山節さんから聞いた話)。
これで地域の人はとても暮らしやすくなっているらしい。
フランスでは過疎化は大分前に止まり、都会の人が地方にたくさん移住しているという。
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ダムのこと

2010-01-29 | 山里
今日(29日)のNHK「金とく」は良かった。名古屋放送局製作の番組で、今日は三河湾の六条潟の話。
豊川の上流に作られる大規模なダムによって、六条潟に悪影響がありそうなことを、はっきり述べていた。
さすがに、海底のくぼみが苦潮発生の大きな要因であることは述べていたが、そのくぼみをだれが作ったかは述べていなかった。でも、上出来。
何はともあれ、映像がすごくきれいだった。
六条潟がアサリの源になっていることは話に聞いていたけど、映像ですごくよく分かった。三河湾はすばらしいと思えた。

その豊川上流のダムは、反対派、推進派ある中で、造ることに決定はしていたが、民主党に変わって、見直しがされている。八ツ場ダムと同じだ。そこの住民の一人はやはり、政府に振り回されて当惑しているということを話していた。

必要のないダムはないほうがいい。
八ツ場ダムのことは勉強不足で私は何も知らない。なくて済むダムなら、ない方がいい。そのために前原大臣が尽力するのはよいことだと思う。
けれど、ダムを造るとか造らないとか、上意下達方式で言い渡すなんて、とんでもないことだ。ふるさとの自然を失うことに何年もかけてようよう納得してきた人たちの気持ちを考えてほしい。お金で買収されたとかは表面的なことで、賛成派の人だって心のどこかで泣いているはずだ。
ダムを造ることが正しい、正しくない以前に、人の気持ちを鶴の一声式で振り回すのは傲慢である。
それは、中央に住んでいて、山里の「人」のことなんて全く見えてないからやれるのである。論理的に正しいか、正しくないかだけで、正論をつきつけるのは合理的かもしれない。でも、人の心はモノではない。

前原大臣は、八ツ場ダムの見直しを言い渡す前に、地元の人とちゃんと話さなかったのがよくないのである。
そこでひんしゅくを買ったのに、直後にまた別のところで同じことをやっていた。
なぜ問題になったのかわかってなかったのだろう。

なので、潔く反省の意を示したことはよろしいので、今後も頑張って上手にやってください。
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小さな栗のスプーン

2010-01-29 | 植物利用
先日部屋を整理していたら、前に作った栗の実のスプーンが出てきたので、お塩を振りかけるのに使うことにした。
それまでは、木切れでやっていた(横着)。

栗はイガの中に3つの実が入っている。その両側にある「しいな」(実がしっかり入っていない実)はいい具合にスプーン状になっている。それに小枝や木の棒を差し込めば出来上がり。これは山栗の中でも特に小さいのを使っているので、お塩にはぴったり。
小さいほうが、いい感じのができる。
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前原さんほか

2010-01-27 | 山里
マエハラ、よくやった!(一昨日のこと)


それはそれとして、日本の「政治家」なるものがやっていることは「政治」なんだろうか。
すべてが空虚である。
本質からはずれたどうでもいい議論ばかり。
そんなことに国費を投じないでほしい。
言いがかりをつけて無駄な時間を使うことのほうが、よほど罪深いだろう。
彼らの頭はそれこそ庶民感覚からかけはなれた幼稚さである。
この幼稚さは、ずっと変わらない。

ばかばかしくて、日本の政治は見守る気にもなれない。
だから大嫌い。

日本はこれ以上国会議員を養う必要があるのだろうか。
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再会と足跡

2010-01-25 | 山里
23日、24日と、山を越えた向こうの山里に行っていた。
2日続きのセミナーがあった。
そこに来ていた女性と、どこかで会ったことがあると思っていたら、やはり、2006年に一度お会いしていたことがわかった。
彼女は役場職員なのだけど(だけど、というのが微妙な響きですが)、物静かでやさしげで、威張らず、自慢せず、声高に叫ばず、とても感じのいい人で、一緒にいて心地よくいやされた。ずっとこの人の隣にいたい、と思った。
私もそうありたい……と我が身を反省。
まだまだ修業を積まねば。

2006年に私がその山里で講座をコーディネートしていた。木工家、薬膳研究家、元加子母村長粥川さんなどを招き、「野山とのつながりを都市の人が求めていること」を伝え、野山の宝物を掘り起こす作業をした。その仕事はたしか2年で終わったのだけど、私がそこへ行かなくなってから、地域の皆さんが自力でその活動を行っていて、とてもうまくいっているということ。
それを彼女が伝えてくれた。

それきりになっていたので、成果も泡と化していたかと思ったけれど、そのことを聞いて、ほんとうに嬉しくなった。
やったことが無駄になっておらず、地域の人を確かに元気付けることができたのだということが、私を元気付けた。ちょっとだけ、私の足跡も残してきたのだと感じる。


そんなことは、恵那でもあって、
2006年に企画して始めた石積み塾が、今では地元棚田保存会の主要行事になって続いているし、2007年の山村塾で、長い年月使われず省みられず眠っていた炭窯を借りて、炭焼き名人を探して炭焼き塾を行ったら、今では地域の人が代わる代わる炭を焼くようになり、炭窯も冬場はフル稼働している。
私のできることはまあこの程度かと思うけど、これで十分だとも思う。
がんばれ、山里。
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椎葉村 椎茸乾燥小屋 新しいほう

2010-01-20 | 山里
向かって右にあった、新しいほうの小屋。
新しいとはいっても、ガラスがレトロでいい感じ。
奥に椎茸を入れる棚が並んでいます。
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椎葉村 しいたけ乾燥小屋 古いほう

2010-01-19 | 山里
先日のしいたけ乾燥小屋の、向かって左側のほうを大きくしたもの。
れんがでかまどが築いてあって、薪をたきつけるようになっている。
掘っ立て式なのがいい感じ。
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爆竹のあるどんど焼き

2010-01-19 | 植物利用
さえない写真ですが。
年末、うちの近所の空き地に準備された、どんど焼き。
1月15日の小正月の日、これに火をつける。
もっとも今は15日ではなく、直近の日曜日に行っている。
この地方では、かなりすたれてはきたけど、あちこちでまだまだやっている。

真ん中に立てられているのは竹。一番上に御幣がついている。
神様のよりしろっぽい。

下の方にある「たきつけ」は、去年の注連縄や、お正月がすぎれば、はずした門松。それだけでは足りないので、ほかの燃える小枝や、門松を作ったときに余った松など、とにかく燃えるもの。

当日、これに火をつけると、当然のことながらどんどん燃えていく。
書き初めも燃やして、そのもえさしが高く上がると字が上手になるという。

真ん中にあるのは竹じゃないといけない。
周りのたきつけががんがん燃えてクライマックスになったころ、真ん中の竹が黒焦げになって、バンッ!と音をたて、上の方で折れかかったりしてくる。
最近気づいた。この竹のはぜるバンッっていう音が大事。きっとそれで邪気を払っているのだろう。

なぜかというと、群馬県上野村では(どんどん焼きという)、真ん中の竹以外に、1メートルぐらいに切った竹筒をいくつも焚きつけの中に仕込むのである。
従って、焚き火がどんどん燃えると、バンッ! バンッ! バンッ! バンッ! と、何度もにぎやかに音をたてるのである。私はその現場に居合わせたわけではないけれど、そういう仕込みなのである。
結局は爆竹として使っているということ。
爆竹って、そもそもこういうものだったのだ。

竹だけではなく、たきつけの大部分は松だから、これが燃えるとまたパチパチと景気のいい音をたてる。どんど焼きでは音が大事なんですね。
そういえば恵那の北部では、門松は松じゃなくてそよご。ソヨゴがまた、松以上に、燃えるとパチパチいう音なのである。そのため節分のときにソヨゴを燃やして豆を炒り、その音で鬼を追い払うという。どんど焼きで、門松としての役目を終えたソヨゴを盛大に燃やせば、それはそれはいい音がするだろう。

つまり、どんど焼きで大事なのは音ってことでしょうか。
だからどんど焼きっていうの?
これってもしかして常識だったかしら。

うちのほうでは、竹がはぜて折れかかってくると、そろそろ火も小さくなっていくので、「焼きものタイム」が始まる。竹ざおの先端に割れ目を入れたところにお餅をはさんで焼く。みかんも焼く。お芋も焼く。
そして食べたら、どんど焼きも終わり。
恵那のある地方では、竹の黒焦げになったのを長方形の札状に切って、各家が持って帰り、家の炊事場の屋根の上に投げ上げる。
こうすると火事にならないことになっている。
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日本の心と野望

2010-01-17 | 山里
大きな目標を設定してそれに向かって突き進むことが、あるべき姿勢だと思っていた時代が私にもあった。そうでない人間は、面白みのない、向上心のない人で、尊敬に値しないと。
でもいつの間にか、そういうものはなくなってしまった。
なくなったというより、むしろなくてもよくなったというべきか。
そういう発想に少し疑問を持つようになった。

それはともすれば、未来のために今を生きることになる。
それが間違っているとは思わない。そういうのもありだと思う。
しかし、未来のために今を生きるというやり方を、いつから人間は始めたのだろう。
いつから日本人は始めたのだろう。
その歴史は、きわめて浅いと感じていた。

アメリカ映画によくある、アメリカンドリームの世界。サクセスストーリー。
そもそも、成功という言葉自体が、日本にはなじまない。
成功とは一体何なのか?

○○に成功する、というなら分かる。シュートに成功するとか。上手にお餅を焼くことに成功するとか。
しかし、人生で成功するとか、成功した人、とかいう言葉は、日本ではあまり意味を持っていないように思う。
アメリカンドリームの世界では、成功とは、お金持ちになることらしい。
はっきりしている。

巷にあふれるアメリカ系自己啓発書は、どれも、目標を設定し、そのために努力するためのものである。さもなくば億万長者になるためのものである。成功することと、目標を設定することが暗黙の前提としてある。日本人はそれに盲目的にかぶれている。毒されているといってもいい。

目標を設定し、それに向かって方法を考え、そこへ近づいていくというやり方は、論理的である。そのあまりにも明快な論理の組み立て方に、日本的ではないもの、人工的なニオイを感じてきたのである。そのニオイは、私の受けてきた学校教育と同じニオイである。

未来の目標のためによりよい今日を築くのではなく、今日をよりよく生きた結果で人生が自然に築かれていくという考え方もとれる。それは順序の問題ではなく、目的・目標というものを重視するかどうかということだ。それは確かに生臭い。それを先行させるやり方が西欧的だと私は直感的に感じていたのである。

橋口譲二の『夢』という写真集がある。日本全国の100人のお年寄り(明治、大正や昭和1桁に生まれた人)を撮影し、全員に同じ質問をしたものである。100人は、各県2、3名、平均的な生き方をしてきた人が選ばれている。朝ごはんは何を食べましたか、今まで住んできたところはどこですか、という、その人の生活を示す質問の最後に、「夢はなんですか」というのがある。
それに対して、ほとんどの人(95%か)が、「夢はありません」「考えたことはありません」か、「孫が結婚するのを見届けてからあの世へ行くことだ」「ただただ感謝して残りの人生を生きております」のような答えをしているのである。
この人たちに夢がないのは、年をとったからだとは思わない。いや、まあ中には、若い頃にはいろいろな夢があった人もあるだろう。それもいい。
でも、これを読んだとき、「やっぱりそうか」と思った。
それが日本人の(あるいは昔の日本人の)普通の姿なんだと思う。

山里のおばあちゃんたちが神様仏様に手を合わせるのは、「願い事」をするのではなく、「感謝」の気持ちを捧げるためである。
野望や目標を持って生きていく生き方は進化したもののように思えるが、では、そういう生き方を良しとしてきた今の私たちは、ただ日々に感謝して生きている人たちより幸せを感じているのか? 満たされているのか? 
どうも、答えはノーのように思う。それはなぜなんだろう、ということを考えていた。
もちろん人それぞれ違う。

そんなことをここのところ感じていた。
特に、山里のあちこちにある小さな祠や神様や、祭りの心に触れると、感じざるを得なくなっていた。

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寒かった夜と朝 キラキラの粒が舞う

2010-01-17 | 山里
昨日、山を越えた足助から帰ってくるとき、峠のあたりの気温が-10℃だった。
帰ってきたら室内は4度。
でもって、すごくあったかくして寝たのに、明け方寒くて目が覚めた。
気持ちいいぐらい寒いですね。
隣の人も、今朝は寒かったと言っていた。

朝、日が差して来たら、空気の中にすごく細かいダイヤモンドダストが舞っているのが見えた。

それでも水仙の芽はつくつく出ていた。

とても天気がいいので、仕事中の気分転換に、ぼさぼさに伸びている梅の枝を切りました。
うちの梅は剪定すると2年ぐらい花をほとんど咲かせなくなってしまう。
脆弱というのか、逆境に弱いというのか。
なので、切るのもほどほどでしかない。

隣にある桃の木が、梅の方に傾いてよっかかりかかっているのを発見。これはいけませんよ。どうしましょう。
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椎葉村 干ししいたけをつくる

2010-01-17 | 山里
椎葉村の山間の多くの家には、屋根のてっぺんに妙な櫓みたいな煙突がついた小屋がある。
これぞ、干し椎茸を作る小屋です。
写真の左は、薪で加熱して干ししいたけをつくる小屋。
右は、最近型の近代的乾燥室。
薪でやる方は、多分今は使ってない。
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寒い冬 赤いとげのサボテンもどき

2010-01-15 | 植物
水曜日の朝から、毎日雪模様。
一日中、気温が1度ぐらいまでしか上がらない。
これぞ冬というかんじ。

写真は、トウダイグサ科のサボテンもどき植物。とげの先が赤いのがかわいい。
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東山のハワイでは

2010-01-13 | 山里
一方、ハワイではこんな感じ。
東山植物園温室中のハワイアンの部屋です。
今日は温室では、ランが出揃ってる感じでした。
今まで見なかったようないろいろなランが咲いていました。
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ダンディーな雪の日の松

2010-01-13 | 山里
松ってこうやってお手入れするんだと感心。
広重の絵のようでした。
松は雪の日のためにあるんじゃないかと思いました。
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