12月9日(月)、曇り。
今日も寒く、ブルブル震えました。
今は日本国中そういうこと。しばらく辛抱して春を待つことにします。
コメントで将棋盤について、最上品は天地柾だと書きました。
その天地柾の中でも「すだれ柾」が最上級ということになるでしょう。
すだれ柾は、木口の年輪模様が簾(すだれ)のように、上方から真っ直ぐ下にタラタラと垂れていて美しく、その数は少なく、私はほんの数台しか見たことがありません。
ところで、先日書きました「名人戦創設ゆかりの盤」ですが、その入手した時の経緯を思い出しました。
もう、25年以上(実際は28年くらいかもう少し)前のことです。
ある時、出張で上京して、仕事前にいつものように、上野池之端にある櫛店「十三や」さんを尋ねようと御徒町で下車し、商店街にある骨董店のウインドウの蒔絵の盤を見つけました。
この骨董店は、「十三や」さんに行く前後に良く立ち寄る店で、この日もそうでした。
ウインドウの盤は吉祥の貝の漆蒔絵がしてあって、貝は少し膨らんだり凹んでいたりとリアルそのもの。値段を聞くとかなりなものであった。その盤の蒔絵がこれ。
値段は少し高かったので、多少値引きしてもらって、思い切って買うことになった。
それから2カ月したある日のこと。
その骨董屋から電話があって「熊澤さん。またすばらしい将棋盤が入りました。どうですかネ?」と。
盤はもちろん日本榧。細かな柾目で厚みは五寸5寸2分。蓋には十三世関根名人の署名と揮毫があって、贈・阿部真之助殿とある。」とのことだった。
ウムム。これはただなならならぬものだと直感。詳細を尋ねました。
その結果、「分かりました。二~三日中に伺います。それまでは暗いところにしまっておいてください」と。
ということで、急遽、千葉工場での仕事を作り、そのついでに(ついででなく、これが本命なのですが)骨董屋さんに立ち寄りました。
店の前に行くと、ウインドウに飾ってあるではないか。
これを見た私は、すぐさま「盤をむき出しで、ウインドウに飾るのは盤の為にならない。すぐに引っ込めてください」と言って、しげしげと眺めました。
盤は思っていた以上。まぎれもなく、昭和10年に始まった実力名人戦に関わるものだと分かりました。
「それにしても、このような盤はどうして手に入ったのですか」と尋ねたところ、「過日、さるところで内覧会があって、そこには立派な碁盤、将棋盤がいくつもあって、私はこれを落札しました」と。
「その内覧会は文京区のコレコレではないか」というと、「商売上の仁義で、詳しくは言えないが、よく分かりましたね」と。
実はその前に、水道橋にあったM碁盤店で「文京区にあるさるお屋敷の大企業の当主が、碁盤、将棋盤を集めるのが趣味で立派なものをたくさん集めていて、この間は、熊澤さんとそのお屋敷に、その内、一緒に見に行こうかと言っていたが、先ほど亡くなってしまった」と、聞いていたところだったのでした。
示された値段は、当時の我が家の年間家計費の半分くらい。それでも欲しいと思いました。
さてどうするかです。
この続きは、後ほど。
12月8日(日)、晴。
今日は、昨日より寒くなりました。
手元の「将棋ペン倶楽部・秋号」を読み返していると、水野保さんが書かれた「実力名人戦の発足ー関根金次郎十三世名人とその時代」という一文を見つけ、その中で、オヤッと眼についた下りがありました。
この中で下段に、関根名人が、当時の主催社学芸部長の阿部慎之助さんに贈った盤のことが書かれていて、それは小生が所有する将棋盤ですが、近年になって3回の名人戦に使われたことも書かれています。
チョッと宣伝がましいですが、記憶に従って少し書き足しておきますと、1回目は米長名人対羽生挑戦者戦(山口県湯田温泉)で、盤へは米長名人に「曙」の揮毫と対局者二人の署名をしていただきました。
それから12年の2回目は、森内名人対谷川挑戦者戦(石川県辰口温泉)。さらに12年経っての3回目は、佐藤天彦名人対羽生挑戦者戦(奈良県興福寺)。
1回目は、2週間前に行われた名人戦の控室で、担当記者の加古明光さんに「昨年、コレコレの名人戦創設に関わる将棋盤を手に入れた」と話したところ、「次の第3局に持ってこれるか」との誘いがきっかけで、山口県まで自分で運ぶことにしたところ、幸い、使われることになりました。
第2回目は、能美市にある北陸科学技術先端大学院大学(飯田先生)から、講演で呼ばれて日本旅館「まつさき」に泊まった時、社長に将棋タイトル戦に相応しいと説明し、「開催を希望してはどうか」と持ち掛けたのがきっかけで、幸運にも翌年の名人戦6局で、開催が実現した経緯があります。
第3回目は、地元の奈良県ということで、将棋連盟にお願いして使っていただいたきました。
以上のことはいづれも、出会いと幸運の女神がなされた結果であり、関係皆様と幸運の女神に感謝感謝、であります。