「棋譜読み上げのテレビなどで、『玉』を『王』と言わないのはどうしてでしょうか」と、質問をいただきましたので、私の見解を申し述べます。
お尋ねの件。棋譜の読み上げですが「王」と言わず「玉」というのは、歴史的にも「玉」が正しいと思います。と言いますのは、もともと古くは「王将」という駒はなく、双玉と言って、2枚とも「玉将の駒」でありました。
私に言わせれば「王将」が一般化したのは、江戸時代後期以降で、いわば新参者の駒なのです。ですが、今は「王将」を、上位者がを持つことになっていますね。ちょっとこれには納得がゆきません。違和感があります。
では、いつ頃このような慣習になったのでしょうか。少し調べてみましたが、よくわかりませんでした。明治の頃か、大正時代、あるいは昭和初期の頃かはっきりしません。どなたか知っている方がいらっしゃれば、教えてほしいと思います。
今、これが当たり前のように定着してしまっていますが、よく考えればおかしいのです。大方の人は、考えたこともないのでしょうね。考えることが仕事の人でも、ここまで考えることはしない。
もう一つ、「王」と「玉」の言葉について考えてみます。
「王」はキング、つまり外国では王様ですね。おおかたの人は、この認識なんでしょう。しかし、日本の歴史を考えてみてください。「王」は、唯一無二の天皇ではなく、天皇の息子や弟、あるいは叔父など姻戚関係の男子。これを「王」と呼びます。そして、地方豪族の長、これも「王」と呼んできました。ですから、時代時代で「王」は、何人も何十人もいたのです。
一方、「玉」は、天皇の別称でもあります。玉体とも言いますね。玉座は天皇の座る特別のところ。
どうでしょうか。
なぜ、今は上位者が「王将」を持って、下位者が「玉将」なのでしょうか。
おかしなことではありませんか。理由が分からないのです。
どなたか、答えていただける方がいらっしゃれば、教えてほしいです。
今日は、こんな話ですみません。
戦争ゲームと考えると、他の駒と違って取られないルールがあり、平和的なゲームです。チェスもそうでしたか。ラグビーならそこでノーサイドです。
相手の駒とならないのが「玉」、侍大将の「王」なら命危ないです。そう考えると「玉」の意味伝わります。
いずれにしても、相手にリスペクトして「王将」を譲り合っている姿を時々見かけるのには、いつも、オヤオヤと違和感を感じています。
西暦1446年撰で、原本は今には伝わらない
「あい嚢鈔」が文献初出とされていて、江戸時代
これを「寝覚硯」や「萩原随筆」が引用していると
の旨が、増川宏一氏の法制大学出版局、将棋Ⅰ
に書いてあります。
以前に2回ほどこのことに関する文章を読ませていただきました。
棋譜の読み上げ、対局の棋譜、駒の配置図など私か知る限りにおいては、
『王』が使用されることはなく『玉』が使われています。
現在は、駒以外は王将が一般化する以前の状況であるといえますね。
玉(ぎょく)の響きが好きです。
余談ですが
対局の駒を王将1枚と玉将2枚そろえていた場合、上位者は王将、玉将どちらをならべるでしょうか。
興味深いです。
ありがとうございました。
コメント、ありがとう。
ご意見、出来ましたらもう少し詳しく、具体的に教えていただけないでしょうか。
南さんへ。
おっしゃるように、私も「ぎょく」という響きが良いですね。
「おう」では、なぜか気が抜けたようで、ピンと心に響かないですね。
興福寺駒の玉将が11世紀。四条畷王将が12世紀
ですから、100年位玉将の方が早く出土しています。
他方高級駒の双玉の起源は、安土桃山時代の
水無瀬兼成の業績にあると私は認識します。
実は”あい嚢鈔”の、”将棋の王/玉如何”は、私見
ですが、慶長年間の写本時の書き加えの疑いが
あると思います。
二巻物色葉字類抄の尊経閣文庫蔵、加賀前田本
に、ごく最近ですが、西暦1565年書き加えとみら
れる、奥付”小将碁馬名(王将入り)”と、き部雑物へ
の玉将の書き込み追加が、確認されました。
”あい嚢鈔”、(幻の)慶長本書写時の加筆者は、
推定ですが、八木書店2000年発行の、二巻物
色葉字類抄のいわば解説を、”王/玉説示”の
項目で、原本には無いのに、自己流で追加して、
説示しているように、私には疑われます。
つまり、水無瀬兼成の作駒や将棋纂図部類抄の
方が、加筆の疑われる慶長本”あい嚢鈔”(現在
行方不明)よりも、極めてわずかですが、成立が
早い疑いが有ると、私見します。
今後とも、研究成果をご披露してくださるようおねがいいたします。