6月6日(木)、曇り。
今日、昼頃です。
「本」2冊をゆうパックに梱包して、家を出ました。
コンビニには徒歩1分チョット。
もうすぐ到着と言うところで、気が付きました。
2冊では、分厚くてポストに入らないのですね。
「ああ、郵便局に行かなければだめなんだ」。
これは予てから分かっていたことですが、うっかりしていました。
因みに、ウッカリは私の得意技でした。
そう思って戻るさなか、バス道の先を見ると赤い車が向かってくるではありませんか。「ラッキー」。
そうです。郵便局の赤い車です。
で、手にしていた「赤いゆうパック」を大きく振りかざしました。
すると赤い車はスピードを緩めて、私の横でストップ。
今日は、首尾よく「本」の発送が出来たというお話です。
ところで、今日の映像は「2枚の歩兵」。
今年になって、静岡のある方から「失った歩兵を1枚、補充制作してほしい」と依頼されていたものです。
写真、左が元の駒。右が今回、制作した1枚。
小野鵞堂書の駒は、ホンの数組しか作った記憶しかなく、この駒はいつ作ったのかも覚えていないのですが、木地の模様と色合いも出来るだけ合うようにと作りました。
少し色合いが薄いことは分かりますが、まあ、このくらいで了承してくだされば、ありがたいと。
今日は以上です。
6月5日(水)、晴。
雲はありますが、今日もさわやかな陽ざしです。
先日、コメントで二つ、質問と言いますか指摘をいただきました。
その一つです。ーー
ーーー
これに対するお答えです。
そうですね。
「書き駒」は永年使い続けていると、漆で書いた文字がすり減って、次第に消えてゆくのは、おっしゃる通りです。
でもやまちゃんは、そのような文字が消えかけた駒を見たことがありますか?
私は文字が消えかかった江戸時代に作られた「守幸筆の書き駒」を一組、持っています。
いつの頃に文字が消えたのかは分かりませんが、作られたのはおそらく250年ほど前のモノです。
盛んに使われたのでしょう。その結果、銀将と角行の裏などは摩耗が激しく、文字が完全に無くなって、歩兵の裏なども同様の状態のモノもあり、その古い駒を見るにつけ「ここに至るまで、良く使い続けたもんだなあ」と思うのです。
さて、「盛り上げ駒」の場合はどうかです。
良く使われた「盛り上げ駒」で、文字(特に裏の文字)の漆がいちばん高くなったところが少し平らになっていて、そのような駒は結構見かけます。
しかし、土台の木地の根っこのところまで極端にすり減って、そこまで使い込まれた駒は勲章モノ。
そのような駒はほとんど見かけませんが、では、何百局、何千局使えば、書かれた文字が消えてしまうのでしょうかです。
それを知りたくて、昔一度、実験を試みたことがあります。
あるとき一枚の「銀将」を、堅い机に「パシッ」と1000回数えて叩きつけるのですね。
それを毎日続けて、ひと月が経過したころ、子細に見ると、漆の文字の一番高くなっているところが僅か平たくなってはいるものの、文字全体に大きな変化はなく、そのことで盤上に駒を打ち付けたとき、漆の高いところを軸にクルッと回転することが無くなって、駒に安定感が備わりました。
実験で打ち付けた回数は、ひと月30日間x1000回で3万回。
1局で「銀将」を20回動かすとして1500局。
1500局は大変な数で、普通の人なら一生かかっても、それには及ばない数字だと思います。
結論として申しあげたいのは、「漆が摩耗して文字が消えてしまう書き駒の一面性は、50年も100年も使い続けたとき、やがてそうなるのであって、現実として余り考えなくてもよいのでは」。
まだ書きたいことはありますが、今日はここまで。
6月3日(月)、晴。
快いお天気でした。
仕事は盛り上げ。その合間に、昨日の続いて以前に作りかけだった木地の整理もしました。
その中に以前に拵えた「水無瀬駒」の片割れと言いますか、余分に作っていた一部の駒が出てきました。
その映像です。
一方、あの分厚く作った木地のことです。
2組は作れることを確認して、さてどうするか。
つまり「盛り上げ」と「肉筆の直書きの駒」のどちらで作るかです。
少し考えて、やっぱり400年前の「水無瀬駒」に倣って、漆の直書きで作ろうと。そんなことを考えました。
「盛り上げ」と「直書き」を比較してみます。
「盛り上げ」は、手順通り追っていけば、自然に普通に出来上がることが約束されているところがあり、面白味も少ないと言えましょう。
その点「直書き」は、調子さえ良ければ盛りとは違って、文字が活き活きして一層良いモノが短時間で手早く作れて、出来上がった駒を手にすると、気持ちが良い。
しかし時に調子がイマイチの時もあって、文字の収まりが良くなかったり揃わなかったして、その時は、やり直しが必須でそれがジレンマと言いますか、リスクもあるわけです。
その辺のリスクをどう考えるかなのですが、今回は、久しぶりに思い立った駒なので、リスク覚悟で「肉筆の直書き」で作ろうと思うのです。
今日は、こんなところです。
では、また。
今朝の続きです。
早速、以前に作って残していた「水無瀬型」に成型した木地を取り出して、大きさ毎に分別し、再研磨して写真に納めました。
一部、右の方に見えるのは、前回作成した残りの「玉将」。
通常の駒に比べて分厚く作っていて(その分、傾斜角も増やして)、複数組分ありますので、ここから2~3組作れそうだとわかりました。
6月1日(土)、晴。
今日は、寒くもなく暑くもなく、今の時期らしい一日でした。
でも、そろそろ梅雨入りでしょうか。
本日は、再度「駒の銘」について触れてみます。
江戸時代前に始まった「水無瀬駒」はどうだったかです。
以前、「駒の銘は江戸時代、商業主義が高まって記されるようになった」と書きましたが、「銘」(作者銘)の記入は自己主張の表れでもあり、それが今日に引き継がれているわけです。
話を戻して「水無瀬駒」の場合、兼成卿が遺した双玉の玉将駒の一枚には、駒尻に「八十二才」などと年齢が記されたものと、二枚ともブランクのモノとがあります。
何故、その二種類があるのかについては、実際のところはよくわかりませんが、小生の推測では、兼成さんは、特にこだわりを持つことなく、その時その時の思いで、ある時は「今回は作ったときの年齢を入れておこう」と、年齢を記入したのではないかと考えます。
つまり、その時の心のままに年齢を入れたり入れなかったりは、自由でおおらかな気持ちの結果だと思うのです。
一方、養子・水無瀬親具(ちかとも)の駒が一組だけ残っているのですが、それには自分の号「一斎」。そしてもう一つには「六十一才」と記されています。
遺されているのはこの一組だけなので、断定は困難ではありますが、名前を記したのは、これは父親の兼成ではなく私が作ったモノであると、書き残しておきたかった。その気持ちがあったからだと思っています。
では翻って、兼成作で現在確認できるのは、およそ10組ですが、それには「作者銘」が記されたモノは一つもありません。ですので、おそらく兼成は1組として「作者銘」を記したことが無かったと思うのです。
ではなぜ、兼成は自分の駒に「作者銘」を入れなかったのでしょうか。理由は二つ。
この時代、商業主義という考えが全くなかったのと、しかも自分に伍する作者が居なかったからで、自分の名前を記す必要が無かった。
そう思うのです。
話が少々長くなりました。
今日はこの辺で。
「書き駒」は、文字が消えてしまいますよね。