ゆきんこブログ

月刊ガソリンスタンド誌
『変化と試練が、人と企業を強くする』
連載中!

蕎麦のうんちく

2007年05月11日 09時20分22秒 | Weblog
会社のそばに美味い蕎麦屋がありましてよく食べに行きます。
注文は五合とか七合とか一升とかで受けています。

私は「麺くい」なので蕎麦にはうるさい方です。

旅先でも思いがけずに美味い蕎麦屋さんに当たると嬉しくなります。

今まで一番感激したのは信州の南相木村のJA組合長さんが、私と某大手建設会社の役員さんのために特別に村一番の「そば打ち名人」を呼んで打っていただいた、繋ぎを使わない手打ちそばで「松茸の蕎麦つゆ」を使用した絶品でした。

蕎麦は打つ時に風に当たると「風邪をひく」のだそうです、ですから名人は空気が動かない蔵の中で蕎麦を打ちました。

打ったら、すぐに冷たい清流にさらして10分以内に食べなければなりません。繋ぎを使用していないので時間をおくと細かく切れてしまいます。

あれ以来、生涯あんなうまい蕎麦は生涯食べられないだろうと思っています。
いつかは、またお願いして食べてみたいものです。

ところで私の会社の近くの蕎麦屋さんもかなりのものです。やはりメニューは蕎麦しかない専門店ですから打ち方が上品です。つゆも洗練されいて下界で食べるそばとしては最高だと思います。

北海道十勝、岩手県のわんこ、信州の戸隠、更科をはじめ全国各地の蕎麦を食べ歩きましたが、決して劣らない味です。季節の山菜のてんぷらも美味いです。

当社のサポートセンターまでお越しの客様には御馳走させていただきますよ。
高崎駅東口のすぐそばです。

忘れていたら、お気軽に「蕎麦を食わせろ」と言ってください。
ご要望にお応えいたします。

今日の昼は蕎麦にしましょう。

たまには青空の下で

2007年05月11日 06時58分00秒 | Weblog
朝起きたら素晴らしい五月晴れ。
窓を開け放って朝の大気と融合し胸一杯に元気を吸い込むと「生きててよかった」と感じられる爽やかな朝です。

マンションのベランダの向こうには故郷の山並みが、妙義山、荒船山、三つ又山。
「ふるさとの山に向いて言うことなし・・」

私の人生の中で五月は大きな決断や仕事の曲がり角となった季節です。

若いころからこの季節になると、生まれ在所の空の狭さと周りを取り巻く生活環境、特にそこに住む人達とのビジネスに嫌気がさしては、大きな広いマーケットで仕事をしてみたいというとめどもない事業意欲が出てきて胸がときめいたものです。

「神田三崎町をカルチェラタンに」
全共斗活動に没頭していた学生時代から一転して田舎での息の詰まる生活。
そして、昭和46年に田舎の小さな「ガソリンスタンド」をもらってこの道に入りました。今考えると祖母が私を田舎に繋ぎ止めるために与えてくれたものでしたが
それでも当時としては田舎では大きな商売でした。

しばらくは、商売が面白くて没頭しました。そして2年間で人口が4000人の過疎の村で当時としては驚異的なガソリン100㌔SSを達成したのです。

地元だけでそんなボリュームが売れるはずもありません。周辺地域の建設業や農業用燃料の外販に専念したのです。当時、不凍液なんて夏の間に販売して冬になる頃にラジエターの錆止めと一緒に販売したものです。当時は現在のような「クーラント」ではなくて、夏と冬にはラジエターの水を入れ替えていました。

今考えたら、当時のガソリンスタンドの「油外収益」は本当に凄かった。当時は元売りから支給される手書きの「SS運営日報」というものがありまして、毎日記入しては分析しながらセオリー通りの手順で頑張りました。業転なんてとんでもない優秀なガソリンスタンドでした。

ある時、突然元売りの役員がド田舎のSSまで来訪しました。系列特約店が倒産して元売りが事業継承することになり説明と挨拶に来たのです。そして私に何ヵ所かのSSの運営をしてほしいとの依頼がありました。

私は、自分で買収できるSSだけ運営したいと考え、金融機関に行きまして融資を申し込みました。そして若干25歳で800坪のSSを土地と設備込みで8500円で買収しました。当時としては大きな金額でした。

昭和48年6月のことです。その年に第一次オイルショックです。
そこから、一気に私の石油ビジネスがスタートしたわけです。

あまりの私の快進撃に地元の石油組合の支部長と大ゲンカ。
談合の宴会のテーブルをひっくり返してその後は一気呵成の大攻勢。

軽油の不良債権が発生してサブ店の悲哀を痛感しまして元売りとも喧嘩。当たり前です。自分には不良債権なのに特約店でなければ軽油税還付を受けられないのです。特徴義務者になると決断しました。

自社物件で自主経営をしているのに不公正だということで、某系列とも特約契約を締結、堂々と特約店とサブ店の二枚看板での営業を開始したのです。転籍をしないで二枚看板です。現在のSS経営者が転籍だのPBだの言っているのは甘すぎます。

ほとんどの元売りが日参して系列への参入を要請されまして、いつの間にか仕入先だけでも10社以上になっていました。

隣接する県外の農協やサブ店が仕入れをしたいと殺到してきました。そこから自分で仕入れた商品を業転で流す中間流通に手を染め、高速道路のインター至近距離にオイルターミナルを建設して月商ガソリン1万㌔、灯油2万㌔、軽油に至っては3万㌔を達成したのです。狭い地域ですが地域の軽油税納税の70%を納税していたのです。

その後、どうなったかって?
焼肉レストラン、ステーキハウス、不動産業で住宅分譲、軽井沢での別荘開発。システム開発に膨大な資金を投入。ゴルフ場開発からダム建設、高速道路、世界最大の神流側発電所の2兆円プロジェクトの燃料納入。女房の実家の破綻と保証債務。メインバンクの破綻。吉原のソープではあるまいにまさにバブルの泡まみれ・・・、自分の人生まで大きなクラッシュです。

そして、今があるのです。
厳しい、厳しいと嘆いているSS経営者の皆さん大丈夫ですよ。「やる気」さえあればどんな試練でも耐えられます。

「あの空の下」には若いころの私の人生が凝縮されています。

五月の爽やかな広い空、そして今こうして胸一杯に爽やかな朝の空気を吸い込んで生きています。この広い空の向こうにはどんな世界が拡がっているのやら・・・

今日もがんばります。