夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が家の家内は、パソコンの入力も出来ない稀(まれ)な人であるが、ときおり触ると・・。

2013-03-31 14:20:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦は、恥ずかしながら携帯電話も使えず、ましてスマートフォンも遠い世界の出来事のように感じ、
せめて私だけはパソコンで、インターネットの過度の情報に戸惑いながら、
社会の時流から取り残されていると実感を深めたりし、齢ばかり重ね年金生活の9年生となっている。

私たち夫婦の共通趣味のひとつとして、国内旅行であり、ときおり日本の各地を旅行したりしている。

このような生活の中で、私はパソコンを日常の友のひとりとして、愛用しているが、
家内はパソコンに関心がなく、原則として触れることはない・・。

我が家のパソコンは、私が最初に購入したのは、確か1983(昭和58)年の頃であったと思われるが、
あくまで私専用のパソコンであり、その後に幾たびか買い換えたりしたが、
インターネットの回線を施設したのは、遅ればせながら私の定年退職時の数ヶ月前で、
2004年(平成16)年の夏であった。

そして、私は家内には、
『インターネットの検索程度ぐらいは・・覚えたほうが何かと便利よ』
と日頃から言ったりしてきた・・。
               

しかし、家内は興味を示すことがなかった。
やむなく私は、家内は旅行先などで、若き30代の頃はゲーム機を見つけると熱中するタイプだったので、
パソコンに馴染んでもらおうと、パソコンのソフトに搭載されているゲームの『ブロック崩し』、
『こいこい』などを開いて、家内に仕向けると数時間は触れていた・・。

その後、国内旅行を私たちが立案している時、私が宿泊先、観光案内などの検索をして、
途中から家内に交代すると、マウスを動かしながら、関連項目まで検索するようになった。

しかしながら、家内は自身からキー・ボードから、検索項目をキー・インするには、
おぼつか無く抵抗感があるらしく、私が検索項目を入力し、『お気に入り』に記憶させた後、
私は家内と交代している。

その後まもなく、私は家内に
『パソコンは独学で覚えてきたので・・自己流なので・・意外と基本的な事は知らないことがあるので、
近くにあるパソコン教室で・・初級を1週間ぐらいで教えてくれる所があるから・・行ってみた方が良い・・』
と幾たびか進言してきたが、いいのよ、と興味を示さなかった・・。
               

私は現役サラリーマン時代の1971(昭和46)年から1991(平成3)年まで、
ある中小業の民間会社で情報畑に勤めていた。
こうした中で、初心者、或いは中高年の方に対して、
責務のひとつとして、相手の性格を配慮して、教えたりして、何かと好評された体験があった。

こうした成功体験を応用して、家内にJISキー・ボードの入力方法を優(やさ)しく教えたりしたが、
ひとときは覚えたりしたが、もともと興味がないようで、
結果的には、今でも私が家内から要望された検索項目を入力している。

家内は茶事に関しては中学生から学んでいるので、程々に習得しているので、
私は茶事のことを幾たびか家内から教えて貰っているが、
私は数ヶ月したら忘れることが多いので、お互い様、と私は苦笑している。
              

しかしながら家内は、血液型はA型のなせる技か、
国内旅行の思案、検討している宿泊先、観光案内などをネット検索を始めると、
少なくとも3時間ぐらいは徹底的に調べる。

我が家は一昨年の2011〈平成23〉年の6月に新たにパソコンを買い求めるまで、
たった一台しかないので、私がネットで調べ事、或いはブログ投稿文をしょうとしても、
ときおり家内がパソコンを独占するので、困惑したりしてきた。

そして、私が定年後まもない時からブログに関して、色々と綴っているのは家内は解っているが、
どのような内容を綴っているのか知らないし、干渉もしない不思議な夫婦である。

昨今は、一昨年の2011〈平成23〉年の6月にバソコンを買い改めた『ウィンドウズ 7(セブン)』を私が専用し、
従来の『ウィンドウズ XP』を予備機とし、我が家は2台となっている。
               
こうした結果、ときたま家内がパソコンで検索で、たとえ何時間も熱中しても、
血液B型の私は微笑んだりしている。

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恥ずかしながら本日、私たち夫婦は『結婚記念日』を迎え、私は微苦笑を重ねて・・。

2013-03-30 11:37:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、2階の寝室でまどろみながら目覚め、横に寝ているはずの家内は布団だけで、
時計を見たら7時となり、昨夜は深夜まで本を読んでいたので寝坊してしまった、
と起きだして、1階の居間に階段を降りだした。

そして家内は何かしら洗濯の合間に今の食卓テーブルで新聞を読んでいたので、
パジャマ姿の私は失礼だと思いながらも、
『おかげさまで・・無事に36年が過ぎて、37年目の春を迎えることが出来ました。
今後もよろしく叱咤激励の程を・・』
と私は家内に言ったりした。

ぼんやりとしていた家内は、
『あらぁ・・今日は私たちの結婚記念日だったかしら・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に言った。

私は幼年期から算数、数学には苦手であるが、
歴史、文化にはなぜかしら興味があり、もとより我が家のささやかな出来事も覚えている男で、
結婚記念日は家内はおぼろげであるが、世の中に普及しているハードディスクは壊れることもあるが、
つたない私の心の片隅には鮮明に記憶しているひとりである。

私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の本日に結婚し、
過ぎし日々の大波、小波の世の中の荒波に揺られながらも、何かと家内に叱咤激励されながらも、
今日を迎えることができたので、ひたすら感謝の気持ちで私は家内に言ったのである。

朝食後、私は花冷えの少し寒さを感じる庭のテラスに下り立ち、
落葉樹の芽吹いて幼い葉を広げている樹木を眺めながら、
ぼんやりと結婚式の当日のことを、ぼんやりと思い浮かべたりした・・。
               

この日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が激しく吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に私は同居していた。
そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったり、身体を清めていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。

そして私のこれまでの幼年期からの素行が何かと悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思いながら、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。
                              

私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。
その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。

この中のひとつとして、結婚式の後の披露宴は夜6時からであった。
秋季の土、日曜日の日中にすれば良いのに、と母や長兄、次兄から言われたりした。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であった。

私は新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、
桜の樹の下で散策することを私はこだわっていたので、
               
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかったのである。


調布市の片隅みに住んでいる生家の長兄宅に集合した後、
先発隊として私は、次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。

そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。

結婚式場の学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたり、そして長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。

その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。
               
このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性に着付けをはじめてくれた。

私の父は小学生の2年の時に病死されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄さま・・良いお召し物で・・ やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れ高価な紋付の羽織と袴を所有していたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、
私の方は誰もいなくなった。

『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性たちに聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が私に言った。

この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。
やがて私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を大きな鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。
               

この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定の4時45分に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
              
この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。

そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。

私は苦手な羽織、袴から解放されて黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、平常心となり、
まもなく愛(いとお)しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。

この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を呑みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に呑み、食べたりした。

横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、
新たな料理を新妻の前に置いたりした。

こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。

そして私たち夫婦と親は、披露宴に出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。

この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。
車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、やがて最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だけだなぁ、と思ったりした。
               
ニューオータニの指定された室に入った後、
疲れたでしょう、と私は新妻に言ったりした。
そして私は風呂に入った後、新妻が入浴している間、
窓辺に近い椅子に座りながら、ビールを呑みながら都心の夜景を見たりした。

その後は、初めて新妻と性愛を深く交わした後、この日のこぼれ話しをしたりし、
まもなく私たちは寝付いた。

深夜、私は目覚めると、新妻は窓辺に近い椅子に座りながら、バナナを食べていた。
私はぼんやりと近づくと、
『お腹がすいたの・・あなた披露宴の席上のお料理・・ゆっくり食べようとしていたら、
あなたの指示でボーイさん下げてしまったじゃないの・・』
と家内は微笑みながら私に苦言した。
               

このような結婚式、そして披露宴の当日の日を途切れ途切れに私は思いだしながら、
あの日から36年過ぎたのか、独り微苦笑した。


私たち夫婦は、36年が過ぎて37年目を迎え、
これまでの最大の誤算は子供に恵まれなかったことであるが、
このことに関しては、このサイトで昨年の8月19日に於いて、
【『梅ちゃん先生』の父親のような男には、無念ながら見果てぬ夢となった私・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20120819
と題して、投稿しているので省略する。
               

そして私としては続いての誤算は、家内がディズニーのキャラクター品が好きである、という現実である。
私は家内と交際して婚約する前の頃、
家内は茶事を中学生から習い続けていたことに好感し、
私は無知な和事を少し学べるかしら、と秘かに微笑んだりしていた・・。

そして翌年の春に結婚日が近づくと、
新居の賃貸マンションの一室に、私たちはお互いに荷物を運び入れたりしていた。

この時に、家内の荷物の中から、数多くの茶道具は予期し、
私は家内と共に、梱包された箱から取りだしたりしていた・・。
その後、もとより衣服などの箱もあり、そうした箱の横に、ひとつの箱があった。

そして家内は嬉しげに、この箱を開けたら、
何故かしら10センチぐらいの背丈のミッキー・マウスを見た時は、
私は驚きながら、
『俺・・知らなかったよ・・聞いてもいなかったし・・』
と私は小声で家内に呟(つぶ)やき、そして溜息(ためいき)をしたのである。

私は幼年期から犬、猫も苦手な身であり、ましてネズミを変貌させたミッキーなどが、どうして可愛らしいか、
いまだにわからない。
               
私たち夫婦は、これまで離婚騒動もなく、一年に一度ぐらいは、
夏季のクーラーの冷気で険悪となったぐらいである。
家内は冷気が苦手で、私は何よりも熱さが苦手で、クーラー大好きなタイプなので、
私の現役のサラリーマン時代には、毎年の夏の初めの頃に、幾たびか冷たい戦争があったりした。
               

定年後の年金生活の中、私は苦楽の激しかった現役サラリーマン時代の勤務から解放され、
緊張感を失くして、体力も衰えた昨今、私はなぜかしら家内に従順となり、
『ハイ! XXちゃんの仰(おっしゃ)る通りです!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように大きな声で、家内に応(こた)えている。

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桜花舞い散る花衣(はなごろも)の時節、私のブログ名称を改定・・。

2013-03-29 15:36:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
午前のひととき平素の買物専任者の私は、買い物を終えた後、
自宅の近くに流れる野川の遊歩道を下流に向って歩きだした。
               
過ぎし一週間前には桜並木は、桜花は七分咲き頃から満開となり、
本日は盛りが過ぎて、散りはじめ花びらが舞いながら散る花衣(はなごろも)の情景かしら、
と歩いていた。

そして木のベンチに座り、小休憩していると、少し花びらが枝から舞い散っていた。
                
その後、遊歩道を歩きだした後、公園に立ち寄り、公園の小路の片隅のはずれに、
ひっそりと咲いている花を見つめたりした。
               

私はこの【gooブログ】に加入して、私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』と命名しているが、
このことでここ半年ばかり考え込んできた。

私は『自己紹介』として、
定年退職後、身過ぎ世過ぎの生活ですが、
日常生活の思い、思考したことなど心の発露として真摯に、ときには楽しく綴ります♪
そして私なりの感性で読書、映画、音楽、そして時事なども投稿♪

こうしたことを明示してきたが、ここ一年ぐらい投稿文の内容と差異があり、
多少悩んできたことは本音でもある。
               
               遊歩道を歩いていると、桜花の散りはじめ、花びらが舞いながら散っていた。


私は政治、外交、軍事、経済などは専門知識もないが、余りにも心の節度を欠けたニュースに接すると、
つたない私でもいたたまれず、ここ一年前の以前に投稿文を認(したた)めたりしてきた。

たとえば鳩山政権の時は、首相が園児のような言動にあきれ果てて、辛辣な投稿文をしたり、
管政権になると、首相は高校の生徒会で生徒会長のような言動だ、と批判をしたりしてきた。

こうしたことが短絡的に私が綴れるのは、《たわむれ》として逃げ場があるのは、
事実でもあった。

その上、やはり樹ばかり注視し、森を見ていないことも一面あったが、
専門知識もなく素人の批判範囲であり、結果としてむなしさを感じることが多く、
ここ一年は沈黙している中、遠い世界の出来事のような心情となってきた。
               

やはり私としては社会、文化の読書、映画、音楽の分野、
そして定年後の日常生活での思い、或いは思考したことをあふれる思いを真摯に、
ときには楽しく綴ることに専念しょう、と改めて決意したのである。

こうした思考から、私のブログ名称だけは、改定とし、
    現在・・・『 夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~ 』
    改定・・・『 夢愛人かりそめ草紙 』
とさせて頂きます。

そして何よりも、私のブログサイトをブックマークして下さっているお方などに、
お手数ながら『夢愛人かりそめ草紙』に改定をお願い致したく、
よろしくお願い致します。

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桜満開の中、桜花と菜の花が仲良し恋しの情景に、微笑みを頂き・・。

2013-03-28 16:09:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、家内と共に朝食を頂いている時、4月中旬のような陽春の陽射しに、
昨日は花冷えの小雨降る冬のような寒さはどこに行ったの、
と急激な天候の変化に戸惑いながら私は微笑んだりした。

午前のひととき平素の買物専任者の私は、いつものようにスーパーに向かったが、
少し遠回りして、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を上流に向って歩きだした。

下流の桜並木は一昨日の26日に於いて、満開の桜花を愛(め)でながら心は充たされたが、
上流にある桜並木は散ってしまったのかしら、と気になったのである。


やがて桜の視える桜並木は、わずかながら桜花は舞いながら散り始めていたが、
まだ満開の桜花であり、安堵しながら微笑んだりした。
                    
そして数日過ぎれば花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散り、
ときおり微風が吹くと、花びらが枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
地上に落下する情景を思い浮かべたりした。
このような情景は古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきた。

或いは川面に花びらが舞い、そして花びらがゆっくりと流れる情景を花筏(ハナイカダ)にも、
私は30数年魅せられてきた。

このようなことを思い重ね、川端に近い下方の歩道を眺めていると、
               
桜花の下には、菜の花が視えて、桜花と菜の花が仲良し恋しかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら微笑んだりした。

この野川の下流で一昨日に、菜の花を見たりしてきたことを思い浮かべ、
                    
そうだよねぇ、この辺の野川の川端の近くには、確か4月中旬になれば、
菜の花が黄色い帯状のように一キロぐらい彩(いろど)る光景を思いだしたのである。

この菜の花が咲く序曲には、桜花と共に始まるのか、と私は遅ればせながら教示された。


この後、付近の小公園で、欅(ケヤキ)の芽吹きに魅了され、遠望には桜花が観え、
この世の贅沢なひととき、と思ったりした。

そして付近を歩いていると、桜の樹の幹に、桜花を見て、私は長らくみつめていた・・。
               
もとより数多くの枝に桜花は、あまたに咲き美麗の主役となっているが、
この樹の幹に、ひっそりと桜花が咲いていたので、私は羨望と嫉妬を感じてしまった。

世の中の主流になれず、陰でも片隅のように存在で、
ともすれば樹の育成の為に、やがては取り払われてしまう儚(はかな)さの状況であるが、
私のこれからの晩年の日々は、このようになれたら最上である、と思ったりしたからである。

やがて、この樹の幹にひっそりと咲いている桜花に別れを告げて、
買物先のスーパーに向い、遊歩道を歩きだした。

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花冷えの小雨降る日には、高齢者の私でも、ときには名曲を聴こうと思い・・。

2013-03-27 13:58:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝8時過ぎに霧雨が降りだし、寒いじゃないの、と思いながら、
スポーツシャツの上に軽い繊維の防寒着フリースのジャンパーを着たりした。

そして家内と共に朝食を頂いていると、霧雨から小雨にうつろい、
小庭の落葉樹の幼い葉、藪椿(ヤブツバキ)の濃い紅色、紫木蓮(シモクレン)の花を眺めたりした。
               
その後、地元の天気情報を見たりしていると、
朝の6時は6度、昼下りは9度前後、夕方の6時は10度前後、
小雨が降り平年よりも寒い日中となります、
と報じられていたので、寒いはずだょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

ここ数日は桜花の満開を迎えている中、花冷えの小雨降る日かょ、と感じて、
今日は買物も散策もやめて、ゆっくりと家の中で過ごそう、と思い、
平素の買物専任者の私は、このような意味合いのことを家内に言ったりした。


私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い中、
ときには居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

小雨降りしきる小庭をぼんやりと眺めていると、音楽でも聴こうかしらと思い立ち、
CD、DVD、カセットを収納している音楽棚の前で、
少し選曲を考えたりした後、3枚ばかりのCDを抜き取った・・。

クラシックの【恋人たちのためのクラシック】として題された企画で、
『クラシック・フォー・スウィート』、『クラシック・フォー・プロポーズ』、『クラシック・フォー・ウェディング』、
とそれぞれサブタイトルを記され、
               
クラシックの珠玉(しゅぎょく)の名曲を選定した3枚のCDであり、
1997(平成9)年の春先に発売された企画商品である。

たとえば『クラシック・フォー・スウィート』の収録された13曲の中に於いても、
エルガーの『愛のあいさつ』、リストの『愛の夢』、クライスラー『愛の喜び』などがあり、
誰でも知られている名曲である。

私は現役のサラリーマン時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めていたが、
この当時の私は営業本部の片隅にいて、新譜注文書を発売の2ヶ月前作成したのを職務上で見ていたら、
この新譜注文書に於いて、クラシックの特別企画として【恋人たちのためのクラシック】が掲載され、
私は魅了され、この企画されたクラシック担当者を誉(ほ)めたりした。

そして3日後に、私の机の上に、このCD3枚の見本品(非売品)が置かれていた。

このようなこともあったなぁ、と私は過ぎ去り15、6年前のことを思い馳せたりし、
あの頃の企画としては、製作プランナーの女性は優れていた、
と時が過ぎた今でも、クラシックの名曲を編成した珠玉を聴いたりした。

私はレコード会社に長らく勤務していたが、情報畑、管理畑などが多い裏方であり、
恥ずかしながら楽譜も読めなく、楽器も弾けない身であり、
つたない感性を頼りに音楽を聴いてきた身でもある。

しかしながらこうしたクラシックの珠玉の名曲を聴いたりすると、
昨今の政治、外交、軍事、経済の節度の欠けた一時を忘れさせてくれる。
ときには、今までの過ごして来た時が甦(よみがえ)ったりする。

或る時は、こうした名曲に触れたりすると、美の余りにも美しさに感極まったり、
美の移ろいのはかなさを感じたりする時、涙ぐむ時もある・・。
               
                 奈良の西大寺に立ち寄った時、本堂、愛染堂よりも、圧倒的に魅せられた建物のひとつである。

もとより美は動くこともなく、歴然としてたたずんでいるが、
齢ばかり重ねた私の心が動いているだけである・・。

このように思ったりして、午前のひとときを過ごしたりした。

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桜並木の満開の中、何かと人生に甘ちゃんの私でも、この先の晩年を思い馳せて・・。

2013-03-26 17:48:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は午前のひととつ近くの散髪屋(理容店)に行き、いつものように周辺の情景の話を談笑したりし、
その後は買物専任者の私はスーパーに寄り帰宅した。

その後、平素のように散策に出かけたのであるが、やはり近くに流れる野川の遊歩道を歩こうと思った・・。
過ぎし日に桜花が七分咲きであったので、満開の頃だと思いながら、歩きだした。
               
この遊歩道に隣接した所に、過ぎし9年前ごろにある大手の不動産会社がマンションを建設し、
広々とした敷地の中に数10棟のマンションとなり、樹木も四季折々の情景をかもしだして、
私は秘かに好感している処でもある。
                     
                 もとよりプライパシーの問題があるので、出来る限り映らないよう配慮した。

この敷地内の広場で、幼児を遊ばされている若き母親、お孫さんと食事をされて桜花を愛(め)でている祖父母、
或いは女性グールプで談笑しながら食事をされたり、この地に桜花が咲く時節に見られる平日の光景でもある。

こうした情景を見ながら、私は木のベンチに腰かけて、秘かにこの地を好感している根底には、
ここ数年に於いてこの遊歩道を歩き、何か人生に甘ちゃんの私でも、ときおり考え深めたりし、
ぼんやりとこの先の晩年を思い馳せたりしてきた・・。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と言われたりしていることもある。
しかしこの世は、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる。

日常の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、3年前の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは自宅で呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と私は50代の初めの頃から確信を深めてきた。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。
               

家内の母は私より14歳ばかり齢上の高齢者であるが、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の2004〈平成16〉年の秋の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早くも8年が過ぎている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市(旧・高田市)に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
そして83歳となっている今としては、
身体は衰えても心は溌剌として元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

こうした時の私は『おひとりさま』となっているが、たまたま昨年の11月の一週間に於いては、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い電気炊飯器に5分後にセットした。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶を飲んだりした。
朝食は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』としていた。

私は単細胞のひとりなので、白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、ラッキョ、福神漬け、シャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
不変のように食べたりしてきた。

昼食は煎茶、インスタント・コーヒーを飲みながら、レーズンロールのパンを3つばかり食べたり、
或いは菓子パンを食べたりしてきた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしてきたが、
なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーのオンザロックを呑んだり、テレビのニュースを視聴したりした。
そして二晩だけ、音楽を聴きながらワインを呑んだりした。

洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、8時過ぎが多かった。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素日常生活から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。
                 

現在の古ぼけた一軒家の生活は、あと10年ぐらい私たちは五体満足で生かしてもらいたい、と思ったりした。
この時は私は78歳となり、家内は72歳となる。
或いは果たしていつの日か解らないが、私は痴呆症などあわず、心が明確な時にポックリと死去できれば良い、
と秘かに念願しているが、こればかりは天上の神々の采配に寄るものである。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
苦楽が伴なうので住めないだろう、と私は改めて感じたりした。
やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、
都立の大きな公園が隣接した場所で、小さな2DKのマンションに転居すると思われる。
そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。

この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、1000冊前後に厳選した上、
映画作品のビデオテープ、DVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

過ぎし年、新聞の折り込み広告で、マンションの売却のひとつに、
私がこよなく散策している公園、遊歩道に隣接地帯のマンションのひとつが掲載されていた。
広い敷地の中で、数多く樹木もあり、広場もゆったりとして数10棟が8年前頃に分譲を始めた。
この中は殆ど広い3LDが多い中、小さい中古分譲があった。
                                 

一階の15畳と8畳の二部屋に、テラスと小庭6畳ぐらい有り、もとより台所、バス、トイレ付であった。
私は『おひとりさま』になった時は、こうしたスペースが最適かしら、と思案させられたりした・・。

15畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のテラス前に小庭には、今の小庭にある定年退職した時の記念樹をたった一本だけ移植し、
                      
そしてテラス越にマンション敷地内の大きな樹木が観える・・。
                          
そして食事もこのテーブルを使い、四季折々の落葉樹の情景を眺める。

8畳はベットの下には収納棚に下着と靴下、壁側は衣服棚・・
このように思い馳せたりした。

そして付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
                
                                               
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。
こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、月に3泊4日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。


このように小心者の私は思ったりしたが、せんなきことかしら、と思いながら付近の桜花を見上げて眺めたりした。
               


この後、この先の晩年を考えても、こればかり天上の神々の采配に寄ることだし、
と思いながら、ふたたび足を進めて歩きだした。
               
やがて橋を渡り、対岸の遊歩路を歩いたりした。
     
この写真には人影が少ないが、平日の本日でも、ご家族連れ、女性グールプなど多く歩いていたが、
たまたまベンチに腰かけたり、行き過ぎたのを待ちかけて撮ったりした。

そしてこうした時に桜花を見上げて撮ったりした。
               
そして人生の晩年は、多くの方が予測できないことが多い、と学んだりしてきたので、
私なりに、日一日を前向きに歩けば、と思いながら帰宅に向った。

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定年後の年金生活の数々の写真、旅先より地元の情景が多く、微苦笑して・・。

2013-03-25 15:20:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
早朝から霧雨か降ったり、ときおり止んだりしている。

春欄愛の桜花などが咲く今日のこの頃、ときには心を穏やかに過ごすのもよいかしら、
と午後のひととき霧雨か降る小庭をぼんやりと眺めたりした。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そしてw私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭で古びた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている・・。


私は読書でもしょうかしら、と思ったりしたが、
突然にこれまで数多くのデジカメで撮った写真を整理しょうかしら、と思い立ち、
日付順に並び替えて見たりした・・。

私は現在はパソコンに連結した外部ハードディスクに記憶させているが、
総計7500枚と表示され、定年後の年金9年生の中で、こんなに撮ったの、と少しばかり驚いたりした。


私たち夫婦の共通趣味のひとつには、国内旅行であり、
サラリーマン現役時代、定年後の年金生活でも四季折々、各地を訪れて、
私は旅先の記憶の助手代わりに、定年後はデジカメで撮ったりしてきた。

そして私としては旅先の公園などで、花を見かけると撮ったりしてきた。
               
               私は幼年期に農家の児として育てられ、生家の田んぼと小川にこのような情景があり、
               幼年の頃から、この世の美だ、と思ったりしているので撮ったりした。
                          
しかしながら、たまたま薔薇(バラ)園などは、苦手意識と齢ばかり重ねた今でも思っている。
               
               やはり薔薇(バラ)などの洋花の美麗は、人生体験を重ねた中年以上の女性の感性にゆだねるに限る、
               と確信しながら、苦笑したりしている。
                          

このようなこともさることながら、旅先の写真は4割ぐらいで、
あとの6割は私の住む地域、或いは少し歩いた小公園、都立の公園などの地元の情景の写真が多く、
四季折々の移ろう景色が映しだされている・・。

もとより旅行は非日常の出来事であり、
平素は買物をしたり、遊歩道、住宅街、小公園、都立の公園などを散策し、
季節のうつろいを享受しているので、ときおりデシカメで撮ったりしてきた。
               
               晩秋の朱紅色、黄色に染められる錦繍には、都立・神代植物園で撮ったり、
               
               近くに流れる野川の遊歩道を3月中旬に陽だまりの処に、
               早咲きの桜花にめぐり逢え、記念にねぇ、と撮ったりしてきた。
      

つたない私は、私のその時の心象はデジカメで表現できないので、
やむなくブログで綴っているが、せめてその瞬時の情景を写して、あの時の情景はこのようだった、
ともすれば忘れがちな記憶のお手伝いと思い撮ったりしている。

今回、写真の技量に乏しい私は、こっそりと改めてボケた写真、夜景がぼんやりと不出来な写真を削除したり、
自己向上心に何かと甘い私は微苦笑したりしている。

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春爛漫の桜花、お住まいの地域で愛(め)でるのが最良、と確信を深めて・・。

2013-03-24 15:36:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ここ数日、各地で桜が開花、七分咲き、或いは満開とテレビのニュースで報じられて、
微笑んでいるひとりである。

東京の都心の多くは、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が昨日に満開となり、
統計開始以来2番目の早さとなり、桜の名所でイベントを予定されている関係者は対応に大わらわになっている、
とニュースを視聴したりして、私は思わず微苦笑したりした。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域でも、
昨年の12月から平年より寒く、3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、
平年ならば一月に咲く純白の日本水仙も咲いたりし、戸惑いながら仲良し恋しかょ、と微笑んだりした。

その後は暖かい南の風に便乗して5月中旬のような陽気になったりし、
或いは北風の吹く2月下旬のような寒気の日もあり、
私は天上の気候の神々の采配に戸惑いながら、ときおり空を見上げたりして、
どうしてなのょ、と心の中で呟(つぶや)いたりしてきた・・。

そして一昨日の22日の金曜日に、自宅の近くに流れる野川の遊歩道を散策し、
               
桜の樹の多い中を歩けば、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が七分咲きとなり、私は微笑みながら歩いた。
                              
やがて染井吉野(ソメイヨシノ)は満開を迎え、その後に山桜(ヤマザクラ)、
4月下旬に八重桜(ヤエザクラ)が散り始めて、桜花と今年はお別れねぇ、と思ったりした。


私たち夫婦は国内旅行も共通趣味のひとつで、日本の各地の桜を観たりしてきた。
この中のひとつとして、南東北地方の桜の名所をバスでめぐる観光団体ツアーに私たちは参加した。
私のノートに記載されたメモを見ると、2005〈平成17〉年4月18日から1泊2日の短かき旅路であった。

樹齢1000年以上で日本一の紅枝垂桜(べにしだれざくら)と知られている『三春』の滝桜、
蔵王連峰を背に7キロ前後に1000本の咲く『白石』の一目千本桜、
最上川の置賜地域のさくら回廊として名高い『最上川』千本桜、
樹齢1200年でエドヒガンザクラと有名な『長井』の久保桜、
1000本前後の桜が咲き誇る会津の名所の『鶴ヶ城公園』、
1200本の桜が咲く福島の名所である『開成山公園』、
このような6ヶ所の桜めぐり旅てあった。

私は旅行をした後には、その時に感じたことを記載する旅ノートがあり、
この旅路には下記のように記していた。


私達夫婦は東北地方の南部地方に、桜の季節を訪ねるのは初めてであったので、
未知の世界でもあった。
    
郡山の近郊にある《三春の滝桜》は、一分咲きだった。

紅枝垂桜(べにしだれざくら)で樹齢千年以上いわれる大木で、
枝は支柱で支えら、里の中の斜面に忽然とあった。

見事な大木であったが、支柱に支えられるのを視ると、何かしら痛ましいような感情をよぎった。

この桜の周辺は、樹齢50年以上の桜が30数本あり、やはり一分咲きであったが、
清々しく、東北の遅い春を現(あらわ)していた。
肌寒かったが、観光客で賑わっていた。

その後、白石市のはずれにある白石川の川堤で、数多くの染井吉野が七分咲きを見せていた。
観光客は少なく、市民の人たちで賑わっていた。

この川べりに7キロ近くわたって千本の白っぽくたわわな桜並木が続いている、
と市民の方から教えて頂く。
こうした情景を観ると、地元にお住まいの市民の方たちの春の訪れを楽しまれているのに、
素朴な喜びを頂いた・・。

この地を後にして、宿泊先の蔵王温泉より高台にあるホテルに行くため、
スカイケーブルを乗り継いだ後、根雪が2メートル以上残っているので、雪上車に乗った。

落葉したブナ林の中に、ホテルがあり、その周辺にドッコ沼があった。
浴室から、ブナの樹木を通し、ドッコ沼が見え、根雪が沼に押し寄せていた。
雪解けのひとつの情景である。
   
早朝、部屋からドッコ沼を眺めた・・。
弱い朝陽がブナの樹木を照らし、樹元の根雪は幾分薄く、少し離れた根雪は相変わらず厚く、
沼岸に押し寄せている。

沼の水面は、陽差しを受けて早春の漂いを見せていた・・。

ホテルをチェックアウト後、
スカイケーブルで下山する途中、蔵王温泉の街並みが快晴の陽だまりの中、浮いているようだった。

バスの車窓からは、山形盆地の街並みが一望でき、ここからの景観は何回見ても飽きない光景である。

盆地特有の山並みから緩やかな斜線の中での雑木林が観られ、
その山里には、切り開かれた畑があり、点在した人家が見られた。
盆地の底は、人家の多い街並みがあった。

最上川に面した白鷹町の付近にある河川岸にある千本桜は、固いの蕾であった・・。
川の流れは急速で、ゆたかな清冷な流れでを見せてくれた。
やはりこの地は、東京の郊外より、暦(こよみ)を一ヶ月もどしたような遠方な地であった。

長井市にある久保桜を観に行くため下車し、歩き始めた時、田畑の道あぜの付近には、
土筆(つくし)、蓬(よもぎ)が見られた。
素朴な情景であったが、この後の江戸彼岸桜はどうでも良い、と思えた。

里の春の訪れを確かに受容できたので、私は満足し、心が豊かになったことを自覚した。

久保桜は、一分咲きで樹齢千二百年の風格があったが、
先ほど見た土筆、蓬の方に、私は魅了された。

観光客は多く、地元の方が、この地で採れた蒟蒻(こんにゃく)を串刺しで、
烏賊(イカ)で味付けをしたのが、
家内はイカ味を工夫してあって美味しい、と言った。

私は地酒の試飲をした後、純米酒は美味しくなく、やむなく原酒を買い求めた。

会津若松の鶴ヶ城公園の桜も、一分咲きであった。

その後、郡山の開成山公園に行き、満開の桜に出会ったのである。

桜はもとより、白木蓮、日陰の付近に辛夷(こぶし)咲き誇っており、
周辺一帯を白い花で染められていた・・。

旅の終わりに、たわわに咲く満開の桜の樹の下で、家内と言葉を交わした。

『色々と観て廻ってきたが・・
ここで春一色とは・・予想もしなかったょ・・』
と私は家内に言葉をかけた。


このようなことを拙(つたな)いメモ書きで綴っていた。
私は読み返したりして、やはりお住まいの地域で桜花を愛(め)でるのが最良、
と確信を深めたりした。

もとよりその地にお住まいの方が、寒い長きの冬の時節を過ごされて、
梅の咲く時節には春がまもなく到来すると感じ、やがて桃の花を眺めて、
そして桜の花が咲き、春爛漫の時節を家族、知人ともに悦ぶ合う季節である。

このようなことを感じたら、私の場合は近くに流れる野川の桜並木、
               
そして上流に向かい45分ばかり歩いた先の私が通学した中学校の近くの都立・神代植物園、
私は調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、63年ばかり住んでいるので、
過ぎ去る日々の時代の愛惜感も重ねながら、地元の桜が圧倒的に愛(いと)おしいのである。

このようなことをぼんやりと思ったりしたが、どなたでもお住まいの地域の桜花こそが、どの桜より美しく感じる、
と私は気付き、微笑んだりしている。

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春麗の中、ときには私たち夫婦は小庭の手入れに奮闘して・・。

2013-03-23 16:09:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の夕食時に、私は家内に、
『庭の手入れをするよ・・早めにしておいた方が楽だからねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。
『そうよねぇ・・私も手伝うから・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、年に数回ぐらい家内の支援がある。

今朝、地元の天気情報を見たら、朝の6時は10度、昼下りは16度、夜の6時は13度、
午前中は快晴で午後より曇り、と報じられていた。
そして明日の24日の日曜日は、午前中は曇り午後より小雨が予測されていたので、
本日は庭の手入れベストだよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


この時節は、常緑樹は新芽を伸ばし、落葉樹は芽吹き始めて、そして幼葉を広げはじめ、
みずみずしい新緑の情景となっている。
ときおり、微風が吹くと、新緑の葉は揺らいで、心身心地よく、
私は心の中でスキップしながら、付近の遊歩道、公園をほぼ毎日のように歩き廻ったりしている。
そして桜花も七分咲きとなり、春麗の情景となっている。

我が家の小庭も大きな莟〈つぼみ〉の紫木蓮(し・モクレン)は満開となり、
               
陽当たりの少ない所にある藪椿(ヤブ・ツバキ)の朱紅色、紅色、濃い紅色の花びらが、
               
彩(いろど)っている。

私の住む地域は昨年の12月は平年より寒い日が続いた為に、
3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、
平年ならば一月に咲く純白の日本水仙も咲いたりし、戸惑いながら仲良し恋しかょ、と微笑んだりした。

そして茶花のひとつとして愛されている白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き始め、
               
私は春到来ねぇ、と喜びをかみしめたりしてきた。

やがて5本ばかりのモミジ、花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを迎え、
日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸びている。
               
こうした中、日本水仙は終わりを告げると、黄色と純白のラッパ水仙が咲き、
可憐な純白した花びらの鈴蘭水仙(ススラン・スイセン)が、主庭、玄関庭に数多く咲き始めている。
そして稲穂のような小判草(コバンソウ)が地表から芽をだいして、
日増し毎に成長し、今や10センチばかりとなっている

このような情景となっているが、黒土には草が所々生え、中には5センチぐらいが伸び、
ぐうだらな私は、眺めてきた。


今朝の8時半過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにした後、どの樹から剪定しょうかしら、
と思ったりした。

とりあえず垣根のカイズカイブキが伸びきたので短めに切っていると、
家内は、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被り、ウォーキング・シューズの万全な容姿で、
滑り止めの軍手をして、高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。

この後私も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝もっと短く切り落として・・』

我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチなどを剪定したり、
玄関に近いナンテンなども短めにした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

この後、剪定した後の切り落とした枝葉を市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。
そして私は草むしりを始めた。

家内は63歳の身であるが、何かしら心身溌剌としている。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感する時がある。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

そして昼の12時過ぎに、『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない?』
と私の方から家内に提案し、風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は玄関の前の石畳に簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。

               
                 テラスの近くにあるモミジであるが、芽吹き、そして幼い葉を広げ始めた情景であり、
                 季節のうつろいを明晰に教示してくれる樹のひとつで、私の恋人のような存在となって35年は過ぎている。

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりしていた。

そして玄関庭、主庭も手抜きながら何とか終わり、
今後も4週間毎に晩秋の頃まで手入れをしなければ、
草は伸び放題、枝葉の伸び、余りにも野趣の庭になってしまう、
と体力の衰えた私は、自身を心の中で叱咤激励をしたりした。

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桜花、東京の郊外でも春麗の情景となり、やがて過ぎし時代を思い馳せ・・。

2013-03-22 17:19:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していたので、
晴れ渡った中、私は出かけた。

自宅の近くに流れている野川の遊歩道を歩きだし、まもなく桜の樹が多い中を足を進めると、
七分咲きぐらいかしら、と私は足を止めて、しばらく眺めたりした・・。
               
私の住む地域は、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始め、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

そして春の訪れが実感でくる陽気であり、まもなく染井吉野(ソメイヨシノ)は満開に近く、
平日の今日でも、花見をしながら散策され方が少し多い中、 私は再び歩きだした。

私は桜花に関しては、三分咲きに魅了されるひとりであるが、
七分咲きも春麗の情景に相応しいと微笑んだりした。

やがて花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じる。
ときおり微風が吹くと、花びらが枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
そして地上に落下する。
古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきた。

或いは川面に花びらが舞い、そして花びらがゆっくりと流れる情景を花筏(ハナイカダ)にも、
私は30数年魅せられてきた。

このようなせんなきことを思ったりしていると、遥か遠い日々が甦(よみがえ)ってきた・・。
               
私は小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた映画少年で、
やがて東京オリンピックが開催されて1964〈昭和39〉年に大学を中退し、
シナリオライターをめざして養成所に入所し、アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。

しかし大学時代の友人の多くは、社会の第一線で活躍し始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。
そして私はこの世から取り残されている、と思ったりした時もあった。

たまたま桜の咲く時が、生家から近くを散策して、畑のはずれに桜の樹を眺めたりしていると、
ひとつの歌を心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

   そらになる心は春の霞(かすみ)にて世にあらじとも思ひ立つかな

もとより鎌倉時代の歌人でもある西行の遺(のこ)された一首である。

やがて私は新人賞の決定する最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、落胆していた。
こうした時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

やむなく民間会社に中途入社をする為に、
技術を習得しょうとコンピュータの専門学校に一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響メーカーの大企業だった会社に、何とか中途入社をしたのは、
25歳の時であり、遅ればせながら、社会人のひとりとなった。

まもなく転籍させられた会社が新設されたレコード会社であり、商品の現場を学んだ後、
やがて私は本社のコンビュータの専任者となり、私なりに奮闘した。
その後、私は結婚して、そして30代の後半の頃、私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、
日曜日になると、家内と散策したりしていた。
               
桜の咲く時期になると、野川の遊歩道を上流に向かい45分ばかり歩くと、
都立の神代植物園に行き、桜の樹の下に近いベンチで、
私は持参した2合の地酒を吞み、家内の手づくりのお弁当を食べながら、
家内と談笑し、語り合ったりした。

40代の後半の頃は、家内の父が年金生活をしていたので、
私たち夫婦は誘い、新宿3丁目で待ち合わせて、新宿御苑の桜見をした。
この間、伊勢丹のデパートで、好みの食べ物、そして地酒とビールを買い求めて、
私たち3人は、持参したグランド・シートに座り、ささやかな宴会の真似事をしたりした。
               
50代のなると私も多忙な勤務の間、私たち夫婦は家内の両親を誘い、
1泊2日が多かった温泉旅行に行ったりしていたので、改めた桜見の集(つど)いはなくなった。
               

このようなことをぼんやりと思い馳せたりし、
過ぎてしまえば歳月は余りにも早く過ぎ去った、と高齢者の私は心の中で微苦笑し、
やがて駅が視え、私は近くの歯科医院に向かい歩きだした。

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我が人生『主役』になれたのは、たった一度だけの結婚披露宴だった、と私は微苦笑して・・。

2013-03-21 12:58:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝いつものように家内と共に朝食を頂いた時、
ぼんやりと私たちの今後のスケージュルのことを話し合ったりした。

そして小庭の手入れ、今後の共通趣味の国内旅行のことなどを話題になったりした後、
私は結婚した3月30日だったことが思いだされ、
結婚記念日まもなくだよねぇ、と私は家内に言ったりした。

この後、私は庭のテラスに下り立ち、小庭にある落葉樹が芽吹きを迎え、
幼い数多くの葉を眺めたりした・・。

ぼんやりと私は、これまでの人生で『主役』になれたのは、結婚式の後の結婚披露宴だった、
と微苦笑したのであった。

誰しも人生は、生まれてきた誕生日、新たな家庭を築く両家の新郎新婦の祝賀会の結婚、
そしてやむなく亡くなった葬儀が、そのお方の人生の三大の出来事と称されてきた。

しかしながら私の場合は、1944年(昭和19)年の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親はもとより、祖父、父の妹の叔母、そして長兄、次兄のもとで育(はぐく)まれたが、
もとより誕生した時は私は自覚がなかった。

そして今後の天上の神々の采配により、私がこの世と別れた時の後、
葬儀の内容は家族葬を要望しているが、こうした時も命の果てた私には解らないのである。

こうした関係により、つたない私の人生で、数多くの方から恥ずかしながら『主役』になれたのは、
新郎新婦の両家の結束を固める結婚式であり、
その後の知人、友人、親戚たちから祝賀される結婚披露宴だった、と私は思ったりしたのであった。
               
私は小、中学時代は劣等生であり、高校時代には始めて授業の楽しさを覚えたりする中、
何とか優等生のグループになったりした中で、
クラブは写真部に所属して、風景部門で最優秀を頂いたこともあるが、
これはクラブの部員の中で選定された、文化祭のセレモニーのひとこまに過ぎなかったのである。

或いは35年近くのサラリーマン時代には、わすか一度だけ社長から、社に多大に貢献したと、
表彰式を設けられて感謝状と共に金一封を頂いたこともあるが、
こうしたことも勤務して、たまたま目立ったことの業務に配属されて奮闘したセレモニーである。

こうしたことは『主役』の範疇は、もとより対象外のささやかなイベントであり、
卑屈で何かと劣等感が多い人生を歩んできた私は、
『主役』になれた結婚披露宴の若かった私、新妻のだった家内、知人、友人たち・・
それぞれのしぐさ、言動を思い馳せて微苦笑をしたりした。

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『春分の日』、私たち夫婦は長兄宅で談笑した後、お墓参りをして・・。

2013-03-20 16:44:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、毎年この日の『春分の日』は、私たち夫婦は私の実家である長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが恒例となっている。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944(昭和19)年の秋に生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。


今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の78歳の叔父さんが来宅されていて、
長兄と義姉と叔父さんをまじえて私たち夫婦の5人で談笑したりした。

私は叔父さん、長兄、私が小学校は同じ学校を通学したので、
共通の話題として、遥か遠い昔の小学校の情景を教えて貰ったりした。
私は1951〈昭和26〉年の春、長兄は1946〈昭和21〉年の春に地元の小学校に入学し、
叔父さんは1941〈昭和16〉年の春であり、
あの当時の頃の状況、そして周辺の情景を教示されたりした。

そして30分過ぎた頃、叔父さんは帰宅された後、
長兄は74歳、義姉は66歳の迎える歳となり、私も69歳、家内は64歳を迎えることとなるので、
お互いに無理しないで過ごしましょう、と語り合ったりした。


そして30分ばかり談笑を重ねた後、まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩5分ぐらいにあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。

いつものように山門から私たち夫婦は入り、
        

寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
               
       私の実家は室町時代から代々続いていた農家で、父まもなく祖父が亡くなった私の小学3年まで継続されたが、
       その後はやむなく転業して今日に至っている。
       こうした関係から、右側は徳川時代の後期までのお墓となり、これ以降は左側に添付したお墓で、
       私たちはいつものように二つのお墓参りをしている。

この後、私たちは私を育ててくれた祖父、父、母、次兄などが永眠しているお墓の墓石を水で清め、
途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花を奉(ささげ)、お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が立ち昇る中、祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。

こうした思いを重ねたりした後、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

こうした確かな記憶の片隅から、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる・・。

そして生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

まもなく穏やかな陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
澄み切った青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。

やがて寺を辞した後、駅に向かう小公園では、落葉樹が芽吹き始めて、幼いあまたの葉を広げ、
               
この時節を教示されたりした。

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ときには家内から『ボケチィン』、『ダメオ(駄目夫)クン』と私は呼ばれ、早や8年生・・。

2013-03-19 14:34:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そしてw私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭で古びた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている・・。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代は小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも少し引け目を感じて、家内の茶坊主に専念したりした。

私は定年後の年金生活をし始め、日の出と共に起床するのをモットーとして、
殆ど起きだしている・・。
煎茶を飲みながら新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

そして家内が目覚める頃になれば、指定されたマグカップにコーヒーを淹れて、
2階の寝室まで運び、 布団の枕元に置いたりし、
『今日は良いお天気になりそう・・』
と私は朝の挨拶代わりに家内に言ったりしている。
そして日中のひととき、コーヒーを5回ぐらい入れたりしている。
               

こうした中で、午前中のひととき、平素の買物の専任者となった私は、
殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

新聞の間に入ったスーパーのチラシに家内はサインペンの赤で○印を付けて、
これが我が家の必須購入品となり、
これ以外は私が店内で魅了された品を買い求めるのが我が家の方針となっている。

年金生活を始めて数年までは、ときおり間違えたりした。
たとえぱ、
『あらぁ・・お願いした品は、《部屋干すトップ》で・・これ違うわよ・・ 困るわよ・・』
と私は買物から帰宅後、家内から苦言を言われたりした。

私は最寄のスーパーで洗剤のひとつが割安の値段であると言われ、
ひとつ1キロ前後の洗剤を、これくらいしか私は貢献が出来ない、 と思い、
あえて多めに5個ばかり提(さ)げてきたのであった。

『あなた・・お勤めの時・・よく仕事が出来たわねぇ・・こんな簡単なことを間違えて・・』
と私は家内から言われたりした。

私はこうした苦言の前に少しばかりうなだれ、、
『じゃあ・・取り替えてくるよ・・』
と私は言いながら、重い洗剤を提げて、スーパーに向かったりした。

そして私は歩きながら心の中で、
『現役の時は・・死に物狂いで仕事をしていたし・・第一・・給料を貰っていたので・・気を張っていたし・・
こんな間違いはしないょ・・』
と私は心の中で呟(つぶ)いたりしていた。
               

ある時、家内が居間でコーヒーを飲みながら旅行雑誌を見たりしている時、
私は今の片隅でパソコンに向かい、文章を綴り、つたない脳裏から綴りを紡(つむ)ぎだしていた・・。

家内が旅先のこぼれ話を話しかけてきたのであるが、私は生返事をしていた・・。

『あなた・・さっきから・・聞いてないわねぇ・・』
と家内は私に小言を言いながら、少し怒った表情となっている。

私は料理、洗濯、掃除を担当している家内には、申し訳なく思い、
日頃は幾度も家内の茶坊主をしたりしているが、何かしら発言力が弱く、旅行先の選定などは、
ほぼ家内の要望が多いのである。

私達夫婦は、年金生活の多くの時間は、それぞれの趣味の時間に過ごすことが多く、
私なりに満足しているが、ときおり家内の苦言、小言に戸惑いながら、
私の威厳が低下し、気弱になる事もある。

こうした時、多くの年金生活のご夫婦はどうされているのかしら、と思ったりしていた・・。

このような心情の時は、私が定年後から愛読している『文藝春秋』の季刊誌である《SPECIAL》で、
この中の一節を思い浮かべて、微苦笑したりした。

確か2008〈平成20〉年の春号に於いて、
特別対談として、阿川弘之(あがわ・ひろゆき)と三浦朱門(みうら・しゅもん)の両氏が、
『不思議に命永らえて』と題されて対談していた。

作家の三浦朱門さんは、奥様が作家の曽野綾子(その・あやこ)さんで、
おしどり夫婦として長く世間の一部の方たちに知られている。

三浦朱門さんは文化庁長官も歴任した方でもあり、昨今は芸術院の院長をされているお方で、
聡明な曽野綾子さんが日常生活で多少ながら辛辣な言動をご主人に取る、
と当人の三浦朱門さんが発言されていた・・。

無断であるが、気弱な年金生活の男性諸氏を大いに励まされる一節であるので、
対談の一部を引用させて頂く。

《・・
三浦朱門氏
  僕は毎日朝ごはんを作っている。
  だって、うちのおばさん(注・曽野綾子さん)、腰が痛いもので、1度座ったら立てない。
  ・・(略)・・》

この後は三浦朱門氏は、朝食の作る過程を詳細に発言されている。

《・・
阿川弘之氏
  亭主のほうが立ち働いてるとは、そりゃ偉いね。

三浦朱門氏
  うん、彼女は座ったままで、亭主のやり方が悪いと言って怒る(笑)
  自分でハムを出してきて、僕に食べるかと聞くから、
  食べたければ自分で食べると思って黙っていると、
  返事をしないと言ってまた怒る。
  やっぱり齢だね。やたらと亭主に怒る。
・・》

この対談のほんの一部であるが、もとより三浦朱門さんは、読者に対してのサービス旺盛なお方であるので、
私は多少割り引きながらも、解釈したのである・・。

しかし、あれほどのご高名なお方のご夫婦でも、
あのような振る舞いをされるのか、と私なりに驚き、ため息し、安堵したのである。

そして私は家内の少し怒った表情を思い出したりした・・。

その後、私はご高名のご夫婦から、この人生の何よりの微笑みのある大切な贈り物を頂だけた、と思いながら、
私はビタミン剤などと称する疲労回復剤よりも、はるかに心身に良い、と微笑んだりした。
               

我が家の生活費の実態は、程ほどのお金を幾つかの銀行に分散したり、郵便局などに貯金をして、
2ヵ月毎に厚生年金を頂き、生活費の基盤としている。
そして、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行、冠婚葬祭、そして思いがけない出費の時は、
貯金から取り崩して過ごしている。

そして月が変わるたびに、月次決算のように家計簿に準じた幾つかの表で、
お互いに確認しあって、今月も赤字かょ、と私は微苦笑しながら、家内に言ったりしている。

こうした中で、ときおり私たち夫婦が外出したりする時、
ご近所の奥様たちから、仲良し恋しで羨ましいわ、と言われたりしている。
こうした後、私は微苦笑することが多いのである・・。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

年金生活を始めてまもない頃、私は買物を終えて帰宅後、台所にいた家内に手渡したのである。

まもなく、家内は冷蔵庫に収納したりした後、
『あらぁ・・お願いした品がないわ・・』
と家内は呟(つぶや)くように、私に言った。

『本当ぉ・・』
と私は言いながら、スーパーのチラシで、
家内が赤丸の印を付けたりのを、見ながら再確認した。

『本当だぁ・・買わなかったょ・・次から気をつけるょ』
と私は明るく大きな声で家内に言った。

『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑いながら、私に言ったりしている。
               

我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました』
と私は家内に報告したりする。
『ご苦労であった!』
と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。

家内は専業主婦の時代が大半で、我が家の専守防衛長官の責務となり、
私は現役の時代は、もとより収入の重責で奮闘してきたが、
働き蜂のようなひとりであったりした。
そして家内は、何かと私を叱咤激励することも多々あったりしたので、
退職後の年金生活の今でも、持続しているのかしら、と私は苦笑したりしている。

一週間前、いつものように洗濯の合間でテレビを視聴している家内に、
私はコーヒーを淹れて、居間のテーブルに置いたりした。
『最近・・コーヒーとブライト(粉末ミルク)・・バランスが欠けているわ・・
一定の量じゃないでしょう・・ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は苦笑しながら、私に言った。

『ダメオ(駄目夫)クン・・かょ』
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、新語だょね、と苦笑したりした。
               

しかしながら私の日常の大半は、
本屋で魅せられた随筆、ノンフィクション、現代史などを買い求め、読書していることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

家内はブログには興味がなく、私がどのようなことを綴っているのかは、
一切関知していないので、この投稿文も知らない。

こうした日常生活を過ごせるので、ときには『ボケチィン』、『ダメオ(駄目夫)クン』と、
家内から言われ続けても、中小業の重圧の職責と何かと苦闘の多い体験を重ねてきた私は、
簡単に笑い飛ばしたりしている。

尚、私は家内を呼んだりする時は、
『XXちゃん・・』
と家内の名前を婚約の少し前から呼び、今日まで37年を超えても、相変わらず呼んだりしている。

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東京の郊外は、里花は咲き、雑木は木の芽時(このめどき)を迎えて・・。

2013-03-18 14:44:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みであるので、
平年ならば桜か咲く時期は4月の上旬となっている。

ここ3日ばかり近く散策をすれば、近くの小公園に於いては、
モミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)などの雑木の芽吹きはじめて、
私は齢を重ねたせいか限りなく愛惜を深めて、見惚(みと)れたりしている。

そして遊歩道を歩けば、辛夷(コブシ)の白い花、華やぐ桃の花、純白の白木蓮(ハクモクレン)、雪柳(ユキヤナギ)の白い花、
馬酔木(アセビ)は垂れた穂に五個前後の可愛らしい白い花をつけたり、そしてサンシュウの黄色の小花が咲いている。

桜並木を歩けば、開花する前の大きな莟(つぼみ)となっているので、
まもなく桜が咲けば、こうした数多く花の彩(いろど)りも桜に主役の座は奪われてしまうが、
私は心を寄せる里花である。

こうした中で路のはずれに咲く小花も、私は幼年期に農家の児として育ったので、
足をとめて見たりするときもある。
                

自宅に帰れば、紅濃色、或いは紅色の満開となっている藪椿(ヤブ・ツバキ)を眺めたりする。
我が家の一面がマンションに隣接し、冬の時期は半日ぐらい陽が当たらない状状況となり、
こうした我が家の小庭で寒い処に藪椿(ヤブ・ツバキ)を植えてしまったので、
周辺の地域より遅く咲いている・・。
               
私は現役時代のサラリーマン時代は、何かと裏方の情報畑、管理畑が多かったので、
私の同じようだったと感じ、何かしら愛(いと)おしさが増して、見たりしていることが多い。

或いは陽を当る恵まれた所には、白玉椿(シラタマ・ツバキ)と思われる純白色の花が、
この時節に咲いている。
                   
一年の中で、たった二週間ばかり咲き終わり、これ以外は休眠の状態なので、
花もちのはかない椿なので、やはり愛(いと)おし感じている。

そして紫木蓮(シ・モクレン)が大きな莟(つぼみ)なり開花の前の情景となっている。
               

こうした中で、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)、
塀代わりに植えているあかね糯(アカネ・モチ)が新芽が伸ばしたりしている。
                  

そして、 蕗(フキ)を片隅に群生させているが、10センチぐらい育ち春の息吹きを感じたりしている。

このように私は梅の花が散り終え後、
桜の咲く前のこの時節の情景のひとつで、ここ8年ばかり年金生活の中、
季節のうつろいに圧倒的に魅せられて過ごしている。

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私のサイト、訪問者数(IP)は700、000を超え、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝・・。

2013-03-17 12:03:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
『ブログの開設から2,978日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

そして、昨日までの『トータルアクセス数の閲覧数(PV)は3、332、306、
訪問者数(IP)は700,369と表示され、少し驚いたりした。

しかしながら閲覧数(PV)は、ここ4年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索で、
大幅に加算されているので、実質数は不明であると微苦笑したりした。

そして総サイト数1、841、687の中で、1、227位か、と見たりした後、
少し順位が落ちてしまった、と苦笑したりした・・。


私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初に会員数の多い【アメーバブログ】に加入して、
『極楽とんぼ ~団塊世代のひとりとして~』と題し、発信名を『極楽とんぼ』と称した。
Webの世界に未熟な私は、戸惑いながら投稿をはじめ、
まもなく賞金ランキングのような形式が公示され、私は投稿をやめた。

そしてブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入し、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名を『風と光』とし、
原則として毎日数通ぐらい投稿したのは、2004(平成16)年11月17日である。

まもなくブログ形式に準じた【すくすくブログ】を知り、
『続・極楽とんぼ』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
気楽に綴れる専用サイトとしたのは、翌年の2005(平成17)年1月11日であった。
一週間ぐらい投稿したが、会員数の多い【gooブログ】を知り、取り止めた。


この後、この【gooブログ】に加入して、
『新・極楽とんぼ日記』と題し、発信名も『極楽とんぼ』と称し、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005(平成17)年1月19日であり、この日から2,979日が過ぎた、ということである。

まもなく『極楽とんぼ』と称した芸能人がいることを知り、その上に社会的な不祥事を起し、
もとより関係ない私までコメントが寄せられ、迷惑限りないと思い、心の純潔を汚されたように感じて、
やむなく発信名を『夢逢人〈ゆめあいびと〉』に改称した。

このように会員数の多い【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
投稿を中止した。


その後、2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入し、『風のように光のように』として、殆ど毎日数通は投稿した。
そして後日には、改題し『風、そして光のように』とした。

この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後をコピーしながら整理、統合し始めたりした・・。

そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

私のブログ形式に準じた【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、と改めて認識したりした。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
そして区分した結果として、あたかもジャンル別の旧刊本が並んでいると思ったりした。

こうした中で、どの本の中で、一編読んでも、恥ずかしながら自己愛の強い私は、
ときおり振り返り、この当時はこのような思いで過ごしていたのか、
と過ぎ去った年金生活の日々に愛惜を秘めながら、読む時もある。

やがて併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』を単独とした。

この後、昨年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称し、今日に至っている。
               

私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
               
                たまたま昨日、我が家から10分ばかりの音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスの校門のひとつに、
                早咲きの桜で、紅色の麗(うるわ)しき花に見惚(みと)れて、商店街の片隅から撮らせて頂いた。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。
               

こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)える。
こうしたことは日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多かった。

何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               
その一方に於いて、本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。


コメントに関しては、以前のあるブログ形式に準じた10万人ぐらい加入した旧サイトに於いて、
何かしら『お友達リスト』が掲示機能があり、私は数多くのお方とコメントで交流を深めたりしていた。
そしてサイト上に明示できるので、こうした関連からまもなく100人は超えてしまい、
こうした影響もあり、ランキングの首位に4週間ばかりなったことがある。

しかし、私は気楽にコメントを書くことはできず、書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したのであった。

そして2年後には、コメント欄を解放して、来訪しコメントを残して下さった方には、
原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。


私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、
この当時は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。

こうした意味合いからひとつの目安として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、ささやかながらブログの体験上で学んできた。

そしてブログのランキングのサイトを彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
『にほんブログ村』には、投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』は、日記系『60歳代』に加入している。

たまたま昨日に於いて、
『人気ブログランキング』は総加入サイト975、952で、総ランキングは3、286位であり、
『にほんブログ村』の総加入サイト703、397で、総ランキングは3、868位となっていた。

そして『人気ブログランキング』の所属部門は『エッセイ・随筆』であり、
加入サイト287であり、5位となり、
『にほんブログ村』の所属部門は日記系『60歳代』であり、加入サイト393であり、7位となっていた。

こうした結果を見ながら、つたない私としては、
何よりも自身の投稿文の質の向上が肝要である、と微苦笑したりし、
そして気弱で小心者の私は、ランキングを少しばかり気にしていることも本音である。


しかしながら、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。
               
そして今回、【gooブログ】の私のサイト『夢愛人たわむれ記 ~かりそめ草紙~』に於いて、
たまたま訪問者数(IP)は700,000を超えたことは、
偏(ひとえ)に数多くの皆様のご厚意に支えられた賜物であり、改めて感謝致します。

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