夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

国立がん研究センター中央病院で、過ぎし30年前に私は手術を受けた時の思いで・・。

2013-10-25 14:11:22 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、洗面を終わった後、鏡を見ていた時、鼻から一センチぐらい離れた所の横に、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残っているのに、微苦笑したりした。

この傷跡は、過ぎし30年前に、がん治療として名高い築地にある通称『がんセンター』病院、
昨今の正式名称は『国立がん研究センター中央病院』となっているが、
私が手術を受けた時の痕跡である・・。

この当時の私は音楽業界のあるレコード会社に勤め、管理系の情報畑に奮戦していた時である。

この一年前の頃は、私は六本木にある本社のコンピュータの専任者で、
資本関係のあるレコード会社のシステムを利用して、処理もある情報センターに委託処理をし、
開発・運用に専念して従事していた。

そして私の勤める会社の業績は悪化してきた時、首脳部のひとりから、
コンピュータを自社導入して、システム全体の見直して効率と経費節約を図れ、
と難題を指示され、新たな部署を組織して下さった。

そして、XX君、貴方だったら出来るょ、と私はおだてられて、
日曜日以外は深夜まで、ブロジェクトの4名と共に奮闘しはじめた時であった。
          

そして3か月過ぎた頃、何かしら私の鼻の横に1センチぐらい腫瘍のような突起物ができ、
どうしてなのょ、と思いながら、日曜日の時に私の住む調布市の中の総合病院に訪ねた。
私は担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、困苦したりした。

この後、腫瘍のような突起物が少し大きくなり困り果てて、家内も不安となり、
やはり日曜日に、私たち夫婦はこの病院に再訪した。
そして担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、
『先生・・悪性の腫瘍物・・或いはガンですか・・』
と私は差し迫ったりした。

私としては勤めているブロジェクトで奮戦している中、もとより失敗は許されず、
何よりも住宅ローンなどの返済の責務、或いは人生設計の修整も余儀なくされ、
まして最悪の場合は私の人生の終幕もあり、私は動揺しながら混迷していた・・。

結果として、この後に『がんセンター』病院に紹介状を頂き、
その後の一週間後に、初めて大きな『がんセンター』で受診した。

しかしながら担当医師からは、明確な診断状況が得られなかった。
私は日本で一番最先端のガンに詳しい病院でも、不明確な診断であったので、
『先生・・悪性の腫瘍物・・もしかしたらガンの初期状態なのか・・
この部分を切除し、判明して下さい』
と私は担当医師に言った。

『腫瘍を開く、手術か・・』
と担当医師は少し困り果てたような苦笑を浮かべたりした。
          

やがて5日の平日に、私たち夫婦は指定された部屋に訪ね、
私は指定された受診服に着替え、近眼の私はメガネを取りように言われた。

そして看護婦さんに導かれて、広い部屋の中で、ベットがひとつある中、
横たわるように指示された。

やがて看護婦さんから、顔の一部だけの麻酔を受けた後、
担当医師が助手と思われる3名の方たちと共に、明るくした照明の下で、
私の腫瘍のような突起物を切り開いた・・。

私は顔の全体はタオル状で覆(おお)われて、顔の一部だけ露呈させ、
麻酔状態であったので、医師と助手の話し合いが聴こえたりした。
『この患部・・少し深いなぁ』
このような意味合いの言葉も聴こえたりしてきた。

そして遠くの通路から、
『XX先生・・手術ですか・・?』
と話し声が聴こえたりした。

『いゃあ・・患者が悪性の腫瘍物か・・ガンか・・明確にして欲しいと言われ、
やむなく切除している所です』
このような担当して下さった医師の言葉も私は聴こえたりした。

やがて一時間後に手術は終了して、私は看護婦さんに導かれて、
家内の待っている通路にある小さな待合室に戻った。

『あなた・・真っ青ょ』
と家内は私に言いながら、少し安堵した表情で言った。

やがて中央にある待合室の片隅で、私は横たわった。
『この病院・・手術した後、数時間ぐらいはベットに横たわれると思ったが・・
直ぐに帰宅していい、と先生は言ったので驚いたょ。

そして切った所、数週間過ぎても大きくなるようだったら、もう一度来なさい、
と先生が最後に言われたょ』
と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。
          
そして私たち夫婦は、地下鉄の築地駅から、私の勤務先の六本木駅に向った。
私は平日に手術を受けたので、ブロジェクトの奮戦している状況、
そして私の直接上司の首脳部の方も心配して下さっていたので、
せめて面会でも、と思いながら、家内は近くの喫茶店に待機させて、出社した。

そして私は首脳部の方にお逢いし、驚いたような表情で、
『手術・・大変みたいだったねぇ・・今日は帰宅してゆっくり休んで下さい』
と私は労(ねぎら)い挨拶を受けた。

この後、私はトイレに行き、鏡を見たら鼻の横から右頬まで白いガーゼで覆(おお)われて、
少し血が滲(にじ)んで、数か所血が飛び散った箇所もあり、周囲に絆創膏でガーゼが止められていた。
私は麻酔の余韻と何より手術を受けた動揺した心情であったので、気が付かなかったのである。
          
やがて私は退社した後、家内の待っている喫茶店で合流し、
通いなれた地下鉄の乃木坂の駅に向かった。

そして防衛庁(現在・東京ミッドタウン)の前の長い道を歩きながら、私は家内に話しかけたりした。
『心配させたけれど、この程度で助かったょ・・
先程の病院の手術室の近くの小さな待合室・・手術後にぼんやりと歩いた時、
20代の娘さんと息子さんと共に待機していた奥さんを見かけたの・・
多分、ご主人は私のような軽い手術じゃないような情態と思われ・・
あのような状態になったら・・深刻で大変だよなぁ』
と私はこのような意味合いの言葉を重ねて、私たち夫婦は帰宅に向った。

やがて悪性の腫瘍物、或いはガンか判明しなかったが、沈静化して、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残った。

そして徹夜も幾たびかして、やがて新システムは何とか軌道に乗せた。

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学士会館、遥か38年前に結婚式、披露宴のささやかな想いで・・。

2013-06-26 13:50:12 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私が加入しているブログのランキングの『にほんブログ村』に於いて、
私が秘かに魅了された74名の50代から80代までの男性、女性のお方たちの投稿文を、
隠れキリシタンのように投稿されるたびに、深く読ませて頂いている。

或いはタイトルに魅せらて、思わず投稿文を読ませて頂いていることもあり、
こうした中で、昨日のひとつとして、
【学士会館 中へ・・・】と題された投稿文に、私はクリックした。

そして『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のお方の投稿文のひとつと解り、
添付された数々写真を見たりし、
http://blog.goo.ne.jp/cocoa3003/e/efc6f16e682d6c1db3fe4add27f11c89
☆『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』<== 6月25日【学士会館 中へ・・・】☆

この最下段に《外から・・・は早々にUPしています》と明記されていたので、
私はクリックして、このお方の6月21日の【東京散歩・・・学士会館】も読ませて頂いた・・。

私は数々の写真を見たりして、最近の『学士会館』の情景も、確か38年前の頃と余り変わっていない、
と懐かしさもあり、長らく見惚(みと)れたりした・・。

私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の3月下旬に、
この『学士会館』で結婚式、その後に披露宴を挙げた処であった。
          

私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。

その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
          
この中の結婚式場もひとつであった。

私たちは結納の前の交際時、私は余り結婚準備金がなく、
長兄のように結婚式場と名高い『椿山荘』は経費も要するので、
ホテルの小さな式場で結婚式を挙げれば・・、
このような意味合いの言葉を相手方の新妻となる女性に言ったりした。

こうした時、この女性は『会社の首脳の方が、学士会館も良い処、と言っていました・・』
と私に言い、
私は恥ずかしながら『学士会館』は未知の処であり、
その後に私なりに調べると、私は国立大学には縁がなく、私立大学の中退の身であったので、
困惑したした。

やむなく単細胞の私は、中途入社する時に、何かとご尽力を頂いたお方が東大法学部出身であったので、
このことを頼りに、新年早々、ご自宅に訪れて丁重に懇願した。
          

そして結婚式の後の披露宴は夜6時からが難題となった。

秋になった頃の土、日曜日の日中にすれば良いのに、結婚式、披露宴など夜に行うのは、
我が家の代々行わったことはありません、母に言われたり、
長兄、次兄からも言われたりした。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であった。
私としては、新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、
桜の樹の下で散策することを夢にみていた私は、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかった。     

こうした多事多難もあったりし、何とか私たちは3月下旬のある日、
学士会館で結婚式、そして披露宴と決定した。
          
この日の当日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が激しく吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、私は小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に同居していた。

そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、朝の9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったり、身体を清めていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。

そして私のこれまでの幼年期からの素行が何かと悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思いながら、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。
                                         
その後、調布市の片隅みに住んでいる生家の長兄宅に集合した後、
先発隊として私は、次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。

そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。

学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたり、そして長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。
          
その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私は当時はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。
               
このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性に着付けをはじめてくれた。
          
私の父は小学生の2年の時に病死されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄さま・・良いお召し物で・・ やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れ高価な紋付の羽織と袴を所有していたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、私の方は誰もいなくなった。
          
やむなく私は、
『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性たちに聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が私に言った。

この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。
やがて私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を大きな鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。
                          

この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定の4時45分に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。

そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
                         
この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。

そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。

私は苦手な羽織、袴から解放されて黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、平常心となり、
まもなく愛(いとお)しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。
                    
この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を呑みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に呑み、食べたりした。

横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、
ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、 新たな料理を新妻の前に置いたりした。
          
こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。

そして私たち夫婦と親は、披露宴に出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。

この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。

車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、やがて最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だけだなぁ、と思ったりした。
          

そして参列してくれた友人のひとりが、翌年の春に学士会館で結婚式を挙げられ、
私も披露宴に出席し、フランス料理を気楽に頂いたりした。

このように学士会館は、結婚式、披露宴の申し込み、確認事項などで、
そして友人の披露宴などで、6回ぐらい行ったかしら、と私は思い馳せたりした。

尚、『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のサイトに於いて、
コメント欄がなく、やむなく無断で掲載させて頂いた。

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『節分の日』、つたない私なりの現役サラリーン時代の頃を思い馳せれば・・。

2011-02-03 08:15:27 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
早朝にカレンダーを眺めていたら、『節分の日』と朱字で明示されて、
私は苦笑したのである。

私の住む地域に於いては、
古くから煎(い)った豆をまき、その人なりの年齢の数だけを食べると、
邪気を追い払い、病気にもならない、と伝えられている。

私は年金生活の高齢者2年生の体力も衰えた身であり、
齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もないのである。

せめて、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求め、
私は夕食の時、66粒は多すぎるので、6プラス6で、12粒ばかり頂く予定である。

このように思ったりしていると、私の現役のサラリーマン時代の頃が思いだされた・・。
10数年前の頃だった。


私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。

この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電にも乗らずに良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、
私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。

家内が
『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』
と云った。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、
と素直に何かしら納得出来なかった。

『今からでも、遅くないよ・・』
と私は云って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。

しかし、良きことの行事に対しては、
ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。


このようなことを思いだし、過ぎ去ってしまえば、あんなことがあったよなぁ、
と独りで微苦笑したりしている。


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『おじさ~ん・・イェ~イ!!』と私は励まされて・・。

2010-05-14 17:00:29 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなた様も体験されたと思うが、
その時、思いもよらない人たちから私は激励の言葉を受けたりした。


私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、
まもなくレコード会社に転籍させられた。
もとよりレコード会社は中小業であり、この音楽業界に35年ばかり勤めたが、
最後の5年間が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。


私の勤めていたあるレコード会社は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。


私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、
この会社で定年の60歳まで勤め上げて、
私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。

周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、
出向とは予測もしていなかったのが本音であった・・。


私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
いろいろな部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。

そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は9時半が始業時であり、私は8時に家を出て、
少なくとも30分前後に出社していた。

物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては実質8時からであり、その前の事前準備などをが配慮すると7時半過ぎとなっていた。
退社できるのも曜日によって異なり、大半は7時前後であり、
私の通勤時間は1時間半は要していた。

私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』まで利用した後、
バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所へと通ったのである。

都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。


通勤はじめて半年ぐらいは、センター長のご厚意で、
私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、倉庫の中を歩き商品配列を覚えたり、
急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、
不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、
退社後は疲労困憊となっていた。

こうした時、確か週末の金曜日か土曜日になると、
明日は休みだ、と思いながら、『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったのである。


確か物流センターに通いはじめて数週間と記憶している。
一軒の小さな居酒屋に9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が差し向かいとなっているだけであった。

私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒を弐合とおつまみとしてふた品をお願いした。
私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。

そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。
この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの五枚から、一枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。

この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの・・』
と私は訊(たず)ねられた。

私はイヤホーンを外して、
『ここ一年はX-JAPANが多いけれど・・中島みゆきもよく聴くよ・・』

確かこのように私は云ったりし、たまたまこの若い女性が中島みゆきのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。

この若い女性は、小田急沿線にある大学に通われ、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、
と私は教えられた。

私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのようなことを私は云ったりしたと思われる・・。


この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した。

この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。

私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。


その後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの大学生の女性とは逢うことはなかった・・。

私は半年後、この出向先の物流センターに馴染み、
精進しながら、定年退職までの5年間を勤めた。

この間、このアーケードを通り過ぎると、
ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。

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冬至の頃、出勤時の想いで・・。

2009-12-22 06:52:37 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
先程、何気なしにカレンダーを見たら、『冬至』と記載されていた。

もとより一年の中で日中の時間は短く、夜の長い時間であり、
私の住む処では、日の出は6時45分過ぎで、日の入りは夕方の4時半過ぎである。

1995(平成7)年の頃から、日本経済の足かせになってきた企業の「雇用・設備・債務」の三大過剰問題に対し、
やがて過酷なほどに経営改革が行なわれ、リストラ渦中で、殆どのサラリーマンが翻弄された。

私はあるレコード会社に勤めていた身であるが、レコード会社の各社も総合見直しとなり、
会社間の統廃合をしたり、組織の統廃合で大幅な人員削減も行われたのが多かった。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、
上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、人事異動も盛んに行われたりした。

私も50代のなかば、1999(平成11)年の初春、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務し、出向先で定年退職を迎えた。


この出向先に勤務していた時代、遠方の神奈川県の厚木地域が勤務所在地であったので、
朝の起床は4時45分であった。
家を6時に出たが、まだ暗く寒さの中、バス停で始発のバスを待ったのである。

そして小田急線の『成城学園前』の駅前に向うバスの乗客は殆ど8人の固定客で、
お互いに無言であったが、いつものメンバーと思いながら、
秘かに心の中では、お互いに健闘していますね、と私は感じていたのである。

そして、常連となったメンバーのひとりが欠けていた時は、
風邪を退いたのかしら、と思ったり、
或いは職場が変わったのかしら、むえず退職をされたのかしら、と思ったりする時もあったりした。

このような心情で、駅前で下車した後、
小田急線の『成城学園前』駅のプラットホームで下りの電車を待っている時も薄暗く、
乗車して、『新百合ヶ丘』を過ぎた頃、車中で日の出を迎えていた。

出向の前は、都心にある本社に勤務していたので、始業時は9時半であり、
通勤時間は一時間弱であったので、
私は8時過ぎに家を出ていたので、出勤時、出勤状景が一変し、鍛えられたのである。

私の50代の後期であったので、体力テストは勘弁してほしい、というのが本音であったが、
会社のいく度かのリストラで、退職を余儀なくした先輩、同僚を思い、
私なりに背水の陣の心境で何とか頑張れたのである。

新春が過ぎ、節分の時節になる頃は、『成城学園前』の駅前に向うバスの車中で、
日の出を迎え、ほっとした気持ちは、今の私でも忘れることの出来ない思いでとなっている。



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私なりの現役時代のボーナスを頂いた後の休日の折には・・。

2009-12-13 08:26:47 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日は11月中旬のような18度前後の陽気に恵まれた中、昼下がりから買物、散策をしたりした。
今朝、ぼんやりと薄日の射す中、ときおり風は吹き、
日中も12度前後となると報じて折、この時節の平年並みになってしまった、と苦笑した。
そして、煎茶を淹れた後、新聞を読んだりし、
主庭のテラスに下り立ち、モミジの残り少なくなった朱紅色に彩(いろど)られ情景を眺めたりしている。

この時節、現役の諸兄姉たちの多くはボーナス、お歳暮、忘年会など、
その上、何かと業務も年度末を迎えているので、何かとお忙しく、心身お疲れとなっているが、
頑張られているのではないかしら、と思ったりしたのである。

私も現役時代は数多くの人たちと同様に、
特にこの時節は、睡眠時間を削り、奮闘していたひとりである。

そして、一昨日はボーナスが支給された日だった、と想いだし、
私の現役時代はボーナスを頂いた週末の休日の時は、
お歳暮の挨拶廻り、母の住んでる処に寄っていた、と想いだされたりした。

このような思いをしていた時、
私の現役時代に於いて、この師走のなかば頃の思い出も、
このサイトで綴ってきたので、先ほど読み返し、独り苦笑したのである。


【お歳暮の頃の想いで・・♪ 】と題して、2006年12月2日に投稿している。

【・・
私の現役時代に、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、なるべく避けていた。

不得意な私でも、人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時はご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。

私が25歳で中途入社した時には、ある大手の会社の首脳陣のひとりであったが、
ご自宅に訪問した折、温かなまなざしで私に応対してくれた。
奥様もさりげなくつつみこんで下さり、
このご夫婦から高潔さを私達夫婦は教示を受けた。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方からは素養が格段違う、と私達夫婦は共は実感している。

私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくご高齢であったので、亡くなわれた。

告別式に私共夫婦は参列させて頂き、改めて高潔なお人であった、
と思い馳(はせた)りした。
・・】



【私なりのボーナスの想いで・・♪】と題して、
このサイトに2007年12月11日に投稿している。

【・・
昨日のニュースで官公庁の冬季のボーナスが支給され、
民間会社の多くも既に支給された会社もある、と報じられ、私は微苦笑したりしていた。

私は中小業の民間会社を卒業した年金生活の4年生の身であるので、
あの頃は、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。

20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来た。

30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
無知な私は結構お金を要する、と実家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスの度に返済した。
この二年間の期間は、返済していても、多少の貯蓄は出来た。

この後、私は実家の近くに一戸建てをするのであるが、
土地、住宅建築まで多大な経費となり、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定した。

このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に30%前後を返済していた。

私達夫婦は子供に恵まれなかったけれど、
住宅に関する購入は、一介のサラリーマンとしては人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、ローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後30年の古惚けた家に住み、
程々の広さの庭で、樹木を眺めながら、あんな時代もあった、
と思いを馳(は)せたりしている。

尚、私は家内を戦友と思っている。
人生の過ごす時に公私共々何かと確執があったりするので、
私達夫婦は互いの欠点を補(おぎな)いながら寝食を共にし、
無条件に寄り掛かれる随一の人、と実感しているからである。
・・】



【『サイレント・イヴ』の想いで・・♪ 】と題して、
2007年12月24日にこのサイトに投稿している。

【・・
私は、定年退職後の4年生の身であるが、
この時節、ときおり辛島美登里の『サイレント・イヴ』がテレビ、ラジオで聴いたりすると、
苦く懐かしい想いでが甦(よみが)ってくる・・。

私の現役時代、あるレコード会社の情報管理畑に勤務していたが、
リストラの影響で不馴れな経理畑に人事異動させられ、その上、レコード会社の統廃合が行われ、
私は当然睡眠時間を削り、奮闘していた時代であった。

そして、統廃合で社員の交流をお互いに深め、目先の不馴れな業務に励んでいたので、
心身疲れきっていたのである・・。

こうした折、12月の初め、統廃合で知り合った後輩の人から、
私の机上に一枚のCDアルバムを置いていった。

『昨年に発売したのですが、よかったら聴いて下さい』
とメモが綴られていた。

『Keep Christmas With You』というアルバムのタイトルで、
CDのジャケットが洒落ていた。
初回限定 特製スノープレート付きと明示され、ジャケットを少し振ると、
森の中に拓かれ大きな樅(モミ)の樹の周辺に雪が降るのであった。

そして辛島美登里の『サイレント・イヴ』、稲垣潤一の『メリー・クリスマスが言えない』、
永井真理子の『ZUTTO~Xmaz Version~』等が収録されていた。

その後、まもなくお歳暮の挨拶を家内と数軒廻っている時、
疲れたので駅前の喫茶店で休息をしていた時、


♪真白な粉雪 人は立ち止まり
 心が求める場所を 思い出すの

【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】


店内から流れてきた。

私は、もう少ししたらクリスマスかょ、と心の中で呟(つぶや)いて、
歳末の仕事納めの日まで、数多くの業務を思案したりすると、
尚更ぐったりと心身の疲れが増してきた・・。


私にとっては、今でもこの曲を聴くたびに、
現役時代で一番労苦の多い時だった、と想いだしたりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=cjpDJYc6kpc
☆【『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里、編曲・若草 恵、唄・辛島美登里】☆



このように私は綴っていたのを読み返し、現役の諸兄姉たちは、
何かと大変な時代の中、業務に精勤する余りお身体だけは程々に大切にして欲しい、
と思ったりしている。

私は年金生活に安住しているので、日中のひととき、庭の手入れをのんびりと過ごす予定である。


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国鉄が8日間全面ストップした時、私なりの想いで・・。

2009-11-26 23:24:40 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
夕方のひととき、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを見ていた時、
この中で【新おとな総研】と称されたコーナーがあり、
そして、ひとつとして『あの日あの時』と題された定例記事がある。
この日を基軸に過去の出来事を回想する内容であり、
本日のこの日の11月26日に於いては、

《 11月26日 スト権ストで国鉄が8日間全面ストップした。
      1975年(昭和50年)》

と題された記事であった。

私はこの記事を読みながら、あの当時の私を思いだされた。

無断であるが転載させて頂く。


34年前のこの日早朝、首都圏のターミナル駅、バス乗り場や、私鉄、地下鉄の改札・ホームは人の波であふれていた。

新宿駅の小田急線、京王線から約3分おきに吐き出された通勤客は、
一直線に地下鉄の丸ノ内線へ吸い込まれ、電車に乗り込むまでに30分待ちの状態。

横浜駅では電車にたどり着くまで1時間も待たされたあげく、
都心に向かう京浜急行の乗車率は250%にも達した。

幹線道路もマイカー通勤の車で大渋滞となった。


旧総評系の「公共企業体等労働組合協議会(公労協)」に加盟していた国鉄(現在のJR)、
郵便、電電公社(同NTT)などの労働組合が、
公務員に認められていないストライキ権付与を要求して突入した「スト権スト」初日の様子である。

スト突入後、三木内閣はスト権を認めないと表明、12月3日に中止の指令が出された。

国鉄は8日間にわたりほぼ全線が運休、利用客延べ1億5090万人に影響した。
郵便物の遅配は1億7000万通に達した。
労働者の正当な権利を求めた実力行使は、
サラリーマンら同じ労働者に苦しみを強いる結果となった。

違法ストの代償は軽くはなかった。
振り上げた拳は己の身へ向かってきた。
国鉄は運休で約202億5000万円の損害を被ったとして、
国鉄職員の労働組合、国労と動労に損害賠償の訴えを起こしたのだ。
この訴訟は、1987年の国鉄の分割・民営化後まで長引く。

94年12月に旧国鉄側が訴えを取り下げるのと引き換えに、
東京駅八重洲口にある国労会館の敷地を明け渡すことでようやく決着した。
(治)

注)この記事の原文にあえて改行を多くした。

http://otona.yomiuri.co.jp/history/091126.htm?from=yoltop


この当時、1975(昭和50)年の時は、母が小田急線と国鉄の南武線の交差する『登戸駅』の近くで、
アパート経営をして住んでいて、私は数年前に同居の身となった。

私はあるレコード会社に勤め、この当時は六本木・本社が勤務先であり、
自宅からは小田急線の『登戸駅』から『下北沢駅』で乗り換えて、
京王の井の頭腺の『下北沢駅』から『渋谷駅』に乗り、
国鉄の山手線の『渋谷駅』から『恵比寿駅』まで乗車し、
そして地下鉄の日比谷腺の『恵比寿駅』から『六本木駅』まで通勤していた。
母の処で同居した所から、おそよ会社まで一時間ほどであった。

こうした時、国鉄がストを実施する、と伝えら前日の頃から、ほぼ一週間、
ストが解消されるまで、
NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
三木総理の官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏が対談し、
公労協統一ストをめぐり討議していた。

私はこのニュースを見終わった7時半過ぎに、会社の始業9時半を気にしながら通勤に向ったのである。
国鉄がスト決行と知り、小田急線の『登戸駅』から『代々木八幡駅』で下車し、
この当時は地下鉄の千代田線が小田急線の『代々木上原駅』まで未通であったので、
ひとつ手前の千代田線の『代々木公園前』まで徒歩5分ぐらいを歩いたのである。

そして千代田線の『代々木公園前』で乗車し、『乃木坂駅』で下車して、
六本木の4丁目付近にある会社まで10分ばかり歩いたのである。
私が通いなれた通勤コースと違い、少し戸惑いながら10分ぐらい加味すれば到着した。

しかし、私達の社員の中に於いては、国鉄の中央線、山手線、横須賀線などを利用している方たちは、
会社の近くの安価なビジネス・ホテルに宿泊する方、或いは自動車で途中で同僚、後輩を乗せて出勤したり、
開通しいる私鉄の駅まで歩かれる方、バスを乗り継いで出勤するなどで、
9時半の始業時に間に合ったのは七割方であった。

このような出勤体制が3日続くと、お互いに疲れの表情となったが、
国鉄のスト継続にあきらめ顔となった。

私は同じ小田急線を利用して通勤する方たちと共に、
6時の終業時になり、1時間ばかり残務整理した後、
帰路、千代田線の『代々木公園前』で下車し、小田急線の『代々木八幡駅』までの5分ばかりの道のりの途中で、
この後は小田急線に乗れば帰宅コースと安堵しながら、
居酒屋、屋台などに寄り、ビールなどを呑みながら、
いつまで国鉄の組合の連中はストを続けるば気が済むの、とぼやいたりしたのであった。
周囲も私達と同じような数多くのサラリーマンも疲れた表情となっていた。

私は出勤前、NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏の対決を相変わらず視聴していたが、
早稲田の雄弁会時代に総長まで記憶とどめた海部俊樹氏の論理の前では、
巧者の富塚三夫氏を追い詰める話術に感心しながら、視聴したりしていた。
その上、何より私たちのようなサラリーマンの苦痛を味わせながら、
公労協スト権を勝ち取ることは、おこがましいと思ったりしたのである。

多くの国民の気持ちを理解していない公労の諸兄姉は、
結果として国民から遊離して、さすがの国鉄の国労といえども、
この後は国鉄7日ストなどはなくなったのである。

このようなことを少しボケた私は、思い返したりしていたのである。


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『第三の男』の私が、改めて心の節度を学んだ時は・・。

2009-10-14 16:08:01 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなた様も体験されたと思うが、
その時、それなりにそのお方の人生軌跡に大きく影響を受ける時点がある。

私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、まもなくレコード会社に転籍させられた。
もとよりレコード会社は中小業であり、この音楽業界に35年ばかり勤めたが、
最後の5年間が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。


私の勤めていたレコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。


私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様にこの会社で定年の60歳まで勤め上げて、
私なりの人生設計を持っていた。

先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。

周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、出向とは予測もしていなかったのが本音であったのである・・。


私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外として感じたので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。

それまでの私は、殆ど本社勤めで部門間でもとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。


若手の契約社員、アルバイト、そして女性パート人達と業務上の打ち合わせ、親睦会、そして現場での立ち話したり、
管理部門として立場で、社内の事情を把握するにつれて、
意外と賃金を含め冷遇されていると解かってきた。

そして物流現場で多くの人達に効率よく動いて頂く為に、上に立つ方に様々なタイプがあることを知った。
短絡的に云えば、あたりは柔らかく指示するタイプ、或いは威圧的に形で指示するタイプであった。

私のそれぞれのお方に性格を知る必要があると思い、ともかく私なりに脳裏に刻み、
多くのお方のその人なりの長所と短所を覚えた。

私はあたりは柔らかくタイブで、たとえばミスなど気付いた場合、
その当人の性格を加味し、人前を避けて注意したりした。
もとより再発防止が目的であるので、威圧的に行っても当人が傷つく場合が多いので、
これは私の性格からして避けたのである。
そして物流センターの現場では、出来る限り笑顔で大きな声で接していた。

私の出向元のレコード会社、そして勤め先となっている物流会社も、一年後に更にリストラが行われ、
ある程度の正社員がこの業界から去った。

こうした中、私の出向元のレコード会社では、出向先の物流会社に対して、物流コストの削減を要請され、
結果として若手男性の契約社員、アルバイト、そして女性のパートお方達の人件費削減、そして解雇が行われた。
私は内面心の板ばさみとなり、労苦の多い時期でもあったのである。


何とか定年退職を出向先の物流会社で2004(平成16)年の秋に迎え、
出向元のレコード会社の有志が私の為に歓送会を開いてくれた。
その席のひとりのお方は、すでに早期退職優遇制度でお辞めになった二歳ばかり齢上の人であるが、
私のそばに近づいて、
『実は・・俺に物流会社の出向先の話がアンタより先にあったの・・
俺の前に確かひとりいた・・いずれも断わったので・・
人事の取締役・・やむえずアンタにお願いしたと思うよ・・
悪かったけどねぇ・・』
と二歳ばかり齢上の人から私は初めて実情を知ったのである。

この後、私は過ぎ去った5年の出向期間を思い浮かべたりし、
《結果して・・俺は第3の男かょ・・》
と心の中で、呟(つぶや)いた。

後日、出向先の物流会社で私の歓送会を開催して頂き、
女性のパート方達から花束、贈呈品、そして色紙にほぼ全員からの短かなメッセージを見た時、
涙があふれそうになり困ったのは事実である。

私は現場で弱い立場の人達から、限りなく多くの心の勉強をさせて頂いた。
指示する立場であれ、傲慢さをなくし謙虚な言動がいかに大切なのかを、
改めてこの人たちから多々学んだのである。

私は殆どレコード会社の本社で情報畑、管理畑で30年、その後の5年は物流会社に出向で、
サラリーマン生活を終えたのであるが、
今でもこの物流会社で出向したことは確かな心の節度として、かけがえのない貴重な財産と思っている。




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ふたたび、 『花の金曜日』の想いで・・♪  

2009-08-21 07:58:32 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
朝夕は過ごしやすいが、日中は30数度となり残暑は厳しい、と暑さに苦手な私は感じている。

私は愛煙家のひとりであるが、定年退職後まもなくして、
室内禁煙の宣言をして、庭の樹木の下、玄関の軒下など喫ったりしている。

先程も炎天下を避けて、軒下で喫ったりしていると、
現役時代の頃が想いだされた・・。


本社勤務が多かったが、この時節、ワイシャツとネクタイで出社すると、
まずはトイレの洗面所で顔を洗ったりした。

その後、出向時代の時、物流会社の倉庫で、冷房がないフロアーがあり、
不馴れな最初は眩暈(めまい)を感じたりした。

この時は、外廻りでスーツにネクタイの人を考えたり、
或いは炎天下の下で業務をする人を思いながら、耐えたりしたのが本音である。


先程、私は新聞を読みながら、最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいるので、
金曜日だった、と教えられる程度となったのである。
そして私はぼんやりと、現役時代の連休前の金曜日の頃を思い出したりしていた・・。


私の現役時代は数多くのサラリーマンと同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしたりした後、
昭和45年の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、 仲良しグループで呑みに通ったりしていた。

業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動の折には開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になると出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、 居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、11時過ぎに家内と話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの方達は、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。


昨今は民間会社で成果主義の影響で、部署間はもとより、仲間うちでも競争が激しくなり、
ノミニケーションが薄らいでいる、と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。

その上、昨年の秋以来、世界的な経済悪化により、より各民間会社のサラリーマンは厳しさが増しているので、
私達が過ごしてきた時代と余りにも違い、過酷な時代であると、憂いたりしている。

退職後の無力な私は、せめて花の金曜日ぐらいは、
料理を頂きながら、お酒を呑み、最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりし、
職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、と長年思ったりしてきたので、
現役の諸兄姉は少し寂しくない、と思ったりしている。

しかし、このような職場の交流がなければ、
帰宅されて、いとおしい妻、或いは主人と、夕食を頂きながら、
気楽に語り合いながら、過ごされる。
或いは、お子様がいれば、ご家族で団欒のひとときは、
何よりの贅沢な花の金曜日かしら、と私は思ったりしている。



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私だけの森山直太郎の『さくら(独唱)』の深い想いで・・♪

2009-03-27 17:11:22 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝はいつものように日の出と共に起床し、
6時過ぎに玄関庭に下り立つ、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしていた。

門扉の郵便受入箱の近くにある椿(ツバキ)が淡紅色の花がたわわな咲き、
恥らうように咲いている花を誉(ほ)めたりし、
平年より幾分寒く、花冷えとなって中、
花持ちによいかしら、と微笑んだりした。

この後、花梨(カリン)の樹木を眺め、
芽吹きはじめ、萌黄色の彩(いろど)りの情景に心を寄せたりしていた。


このような状景を眺めていたら、


♪僕らはきっと待っている 君とまた会える日々を
 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


この歌が突然思い出され、私は心の中で唄いはじめた・・。


私の民間会社のサラリーマンの現役時代の最期は、
ほど遠いの物流情報会社に出向となり、この中の物流センターに勤めたのである。

そしてCD、DVD等の音楽商品を管理する部署であったので、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、
契約社員10名前後、そして女性パート100名前後の中で、
効率よく限られた時間内で出荷できるような業務もしていた。

私は2003年3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』は、
発売日の初回枚数がわずかであったので、余り注視することがなかった。

桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したのである。

しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、
現場を駆けずり廻っていた。


この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年間レコード会社に体験した身でも需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、
人々の好みを予測し、この中の一部の方が購入して下さる、
まぎれなく生きた心の商品であるからである。

結果として、森山直太郎の『さくら(独唱)』は
東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの連休の頃、ミリオン・セラーとなったのである。


私は出向の初め、長年勤めた本社から辞令を受けた後の半年は気落ちし、
その後は馴染み、定年退職の前の年にこの曲が、
私の予測を遥かに超え、思いで深い曲のひとつとなったのである。


♪どんなに苦しい時も 君は笑っているから
 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は花梨の萌黄色の新芽を眺めながら、
桜の咲く頃には、可憐なピンクの色した花びらが数多く彩(いろど)る光景に、
思いを重ねたりした。


♪今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
 輝ける君の未来を願い 本当の言葉

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は小声で唄いだしたのである。


余談であるが、この頃のCDシングルは、
何曲も収録されているのが、流行だった。

この曲も『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、
『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。



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『薪ストーブ』の想いで・・♪

2008-09-20 18:36:43 | 現役サラリーマン時代の想いで
先ほど、ネットでニュースを検索していた時、
北海道の函館で、薪ストーブを製造されるニュースを見て、
私は何かしら懐かしい心情となった。


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080919-OYT1T00825.htm

私の母が10年前に死去された後、翌年の年始は、喪中となり、
家内はそれまで毎年御節料理を造っていたが、
親族の新年会も20数年ぶりに取り止めとなり、
私達夫婦は初めての年末年始の旅行に出かけたのである。

秋田県の山奥にある秋の宮温泉郷にある稲住温泉に3泊4日で滞在した。
何かしら開放感があり少し華(はな)やかな北海道、東北の著名な温泉地は、
亡き母との歳月の思いを重ねるには相応しくないと思い、
山奥の素朴な温泉地としたのである。


稲住温泉の周辺は山里の情景で、雪が舞い降り中、
狭い県道、市道の雪道を散策したりした。
付近にある町営スキー場は、ゴンドラなどもなく、
リフトが2本観られる素朴なスキー場であった。

スキー場の外れにある蕎麦屋さんに入り、
昼食代わりに山菜そばを頂こうと、
入店したのであるが、お客は私達夫婦だけで、
こじんまりと店内の中央に薪ストーブのあり、
私達は冷え切った身体であったので、思わず近づき、
暖をとったのである。


私は東京郊外の住宅街に住む身であり、
とても家の中の一角に薪ストーブを置けるような場所もなければ、
薪の補給を配慮すれば、贅沢な暖房具となっているのである。

私の幼年期は、今住んでいる処からは程近く、
田畑は広がり、雑木林があり、祖父と父が中心となり、
農家を営んでいた。
家の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、
或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、
家族一同は暖をとっていたのである。


薪は宅地と畑の境界線にある防風林として欅(けやき)などを植えて折、
間隔が狭まった木を毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
これを30センチ間隔で輪切りにした後、
鉈(なた)で薪割りをし、日当たりの良い所で乾燥をさしていた。

そして、枝葉は竈で薪を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。


薪ストーブの中、薪が燃えるのを眺めていたら、
こうした幼年期の竈(かまど)の情景が甦(よみがえ)り、
『お姉さん・・お酒・・2本・・お願い・・』
と私は60代の店番の女性に云った。

そして、薪ストーブで暖を取りながら、昼のひととき、お酒をゆっくりと呑もうと思い、
家内は少し微苦笑した後は、
殆ど人気のない外気の雪降る情景に見惚(みと)れていた。



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改めて、 『花の金曜日』の想いで・・♪   

2008-09-12 18:52:20 | 現役サラリーマン時代の想いで
先ほど、読売新聞の夕刊を玄関脇から取り込んで、
カレンダーを眺めていたら、明日から3連休の方も多いのかしら、
と思ったりしていた。

そして、私の現役時代の連休前の金曜日の頃を思い出したりしていた・・。


私は、このサイトに、
【 『花の金曜日』の想いで・・♪】と題し、
昨年の9月7日に投稿した文を読み返したりした・・



私は定年退職後の3年生の身であるが、最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいる。
カレンダーを眺めると、金曜日だったと教えられる程度となったのである。

私の現役時代は数多くのサラリーマンと同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画青年、文学青年の真似事をしたりした後、
昭和45年の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、
仲良しグループで呑みに通ったりしていた。

業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動の折には開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になると出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、
居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、11時過ぎに家内と話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの方達は、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。



今こうして読み返していたのであるが、
昨今は民間会社で成果主義の影響で、
部署間はもとより、仲間うちでも競争が激しくなり、
ノミニケーションが薄らいでいる、
と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。

私は料理を頂きながら、お酒を呑み、
最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりするのが、
職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、
と長年思ったりしてきたので、少し寂しくない、
と現役の諸兄姉を思ったりしている。



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テラスの前にあるモミジの樹木は・・♪  《初出2008.5.8.》

2008-06-13 08:42:01 | 現役サラリーマン時代の想いで
我家の居間の前は主庭であり、この中の一角にテラスがあるが、
その付近にモミジの樹木がある。

30年前頃、一戸建てを建てた時、
若気の勢いで家の中に茶室などを設置しまい、
庭の造成の予算が乏しくなり、実家から幼い雑木を貰い受けたりした。

この中の1本がこのモミジであり、
かぼそかった主幹であったが、数年過ぎれば、
それなりに成長した。


早春の芽吹き、萌黄色の幼い葉、そして緑色と色合いを深め、
夏は強い陽差しの木陰となり、
晩秋には朱色に染められ、錦繍の世界を誉(ほ)め、
やがては葉を落とし、樹木の周囲は朱色の絨毯のようになり、
風が吹けばテラスの付近も吹き寄せのようになる。
冬になれば、主幹と枝の裸樹となり、柔らかな陽差しを受けたりしている。


5年過ぎた頃、次兄が突然に自裁された後、
私は会社から帰宅するたびに、深夜になると深く戸惑い、
居間の外れのテラスの前に座り、茶碗酒を呑みながら、
モミジの樹木に問いかけ、涙ぐんだりした・・。

そして10日ばかり過ぎた頃、私なりに了解できたのである、。


平成の初めの頃、台風による強風で、
2階の上の屋根にあるテレビのアンテナが落ちてきて、
テラスに散乱するところ、
たくましく大きく育ったモミジの枝葉が受けた留めてくれたりした。


私は定年退職後、煙草を室内厳禁と自ら宣言した後は、
主庭にたたずんだり、このテラスで煙草を喫ったりすることが多い。
そして5月頃からは陽差しが強くなるので、
私はモミジの木陰に身を寄せたりしている。


1昨年の夏に、私はこの樹木を手入れしていた時、
スズメ蜂の巣があったのを知らず、私は蜂に刺されて、
病院で簡単な治療を受けたりした。
翌日、市の専門家により、スズメ蜂の巣を駆除して貰ったりした。


このようなモミジであるが、
私が居間で新聞を読んだり、食事をしたり、
家内と他愛ない話をする日常生活を、
30年間見つめられている・・。

先程、いつものようにテラスに下り立ち、
微風を受けて、モミジの枝葉が揺らぐ中、
煙草を喫ったりしていた。



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レイン・コートの想いで・・♪  《初出2008.4.18.》

2008-06-10 07:46:41 | 現役サラリーマン時代の想いで
東京郊外の調布市に住む私は、
雨脚の強い音で目覚めたのは4時頃であった・・。

布団の中で、明日の午前中まで雨と予測されていたので、
買物と散策は取りやめて、読書でもしょうかしら、
と考えたりしていた・・。

そして、通勤される方はお気の毒と思い、
私が現役のサラリーマン時代は、
このような強く雨が降る朝は、どのような容装で出勤したのか、
と思い出されたのである・・。


昭和の終わりの頃までは、
オーバー・コートからスブリング・コートの時節となり、
そして強く雨の降る時は、レイン・コートを着て、確か出勤していた・・。

スーツの上に軽い繊維で水濡れに強く、乾きやすいコートであった・・。

私は二十歳の時に、東京オリンピックを迎えた世代であり、
あの頃まではレイン・コートとゴムの長靴であったが、
それからは強い雨の日でも、
都心に向かう折、ヒジネス・シューズの革靴で出かけていた・・。
そして、平成になると、レイン・コートを着なくなり、
スーツだけで出勤していたのである。

結果としては、ゴムの長靴は東京オリンピック頃、
レイン・コートは昭和の終わりで別れを告げたのである・・。


退職後の私は、ゴアテックスで施(ほどこ)したフィールド・ジャケット、
ウォーキング・シューズで雨傘を差して、
旅先やら平素の買物、散策をしている。


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『弘法寺の枝垂れ桜』の想いで・・♪  《初出2008.4.7.》

2008-06-09 15:04:59 | 現役サラリーマン時代の想いで
昨日の日中は庭の手入れに専念していたので、
夕方の6時過ぎに寝付き、深夜の一時過ぎに目覚めた・・。

少しぼんやりとして、読売新聞の朝刊を読み残した記事を読んだりした・・。

歌人・長谷川 櫂の【四季】の連載記事を読みながら、
私は微笑んだのである・・。



まさをなる空よりしだれざくらかな
          
           詠み人・富安風生


俳句を選定し、氏の解説に、


『南総里見八犬伝』の伏姫にちなんで伏姫桜。
千葉県市川市真間の弘法寺にみごとな枝垂れ桜がある。
この句、春爛漫の青空から滝しぶきのように枝垂れ落ちてくる薄紅の花また花。
樹齢四百年、江戸幕府が開かれたころからここにある。


と綴られて折、弘法寺にある満開に咲き乱れる写真が掲載されていた。


私は家内と結婚し、市川市真間山の最寄にある賃貸マンションを借りて、
新婚生活のスタートしたのは、昭和51年の春であった。

マンションの窓辺から、真間山にある弘法寺(ぐほうじ)が一望でき、
私はこの情景に魅せられて、借用したのである。

家内は中学生の頃から茶事を学んでいたので、
弘法寺の隅にある茶室も使わせて頂いた体験もあるので、
新婚旅行から帰宅した後、私達は休日にたびたび弘法寺を散策したりした・・。

ここで枝垂れ桜に出会ったのであるが、
私は呆然と立ちすくしたのである。

『XXちゃん・・見事な枝垂れ桜だよねぇ・・
まさに美の結晶だょ・・』
と私は新妻に云ったりした。


http://seaport.hp.infoseek.co.jp/guhoji.html

ネットで検索し、作者は不明ですが,
『真間山弘法寺の枝垂桜』と題されたのを無断であるが掲載させて頂きます。
《撮影日・平成17年4月》
注意・私が観た頃の時代は、このような華やかでなく、
もう少し静寂な情景でした。


私達夫婦は、この地に人生のあらゆる出発としたかったので、
この地に本籍を移した。

そして私達は弘法寺から里見公園の桜を誉(ほ)めたりして、
桜の時節を過ごした。


2年間ばかり真間山の付近の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
私の実家の近くに一軒屋を構えた。

家内が『戸籍謄本』が必要となり、私は一人で市川市の市役所で受領した後で、
私は懐かしい弘法寺に立ち寄ったのは昭和54年の春であった。

小雨の降る中、枝垂れ桜は煙るような光景であり、
私は傘を差しながら、ため息をしたりし、長らく見つめていた。


このような情景を齢を重ねた63歳の私は思い返したりしている・・。



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