夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

葬儀は家族葬で、祭壇に花、静かな音楽の中で、談笑してくれれば、と私は願い・・。

2012-08-31 15:44:57 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、
或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職した引退の年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは遥かに遠い平凡な人生を歩んできたので、
遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。

こうした中で、家内はもとより、長兄夫妻、長女の妹の夫妻、次女の妹、長兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、
私は微笑んだりした。


通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、
洋花も添える。

テープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをし、談笑して頂く・・。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。

こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。

そして私の生家は曹洞宗なので、やはり実家の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしている。

このような葬儀は、私の実家にしても、親戚にしても、前例がなく、
もとより兄妹は大いに戸惑い、
なぜ実家の墓地のある寺院の斎場で、通夜、告別式を行わないの、と予測されるが、
水戸黄門の印籠のように、故人の遺志である、と家内が明言し、了解を願いたいのである。

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ささやかな『お墓』、私たちの夫婦の秘かな願いは、樹の下で・・。

2012-08-30 16:09:55 | 私の死生観、葬儀、埋葬など
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ10数年言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、旅行か何かの機会に時、気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と私たちは話し合ったりしてきた。


私の生家は長兄が実家として継いで、確か18代目となって、
祖先代々からの位牌などのある仏壇を守り、
お墓は実家から徒歩で20分ばかり小田急線の『狛江』駅から数分歩いた所の寺院の広い墓地の一角にある。

私たち夫婦も、母の命日、春のお彼岸、夏のお盆、秋のお彼岸に、
長兄宅に寄って仏壇にお線香を捧げた後、長兄夫婦、来宅している叔母、親戚の方たちと談笑したりした後、
お墓参りに行ったりしている。

私は農家の三男坊として生を受け、分家のような形で実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、私たち夫婦が亡くなった後のことを配慮し、躊躇(ためら)ってきた・・。


私が40歳を過ぎた頃の1985〈昭和60〉年の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、
私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

私がこの当時何かと愛していた『L特急』で、上野駅から上田駅まで利用し、
上田電鉄の別所線に乗り換え、かぼそい2両連結の電車で終点の別所温泉駅に行ったりした。

もとより別所温泉地域は、鎌倉時代には周辺の塩田平地域を本拠とした塩田北条氏が、
建立による国宝八角三重塔を有する安楽寺や北向観音が創建され、
やがて近代に至って北条氏とのゆかりや神社仏閣が点在する塩田平・別所界隈の様子を鎌倉になぞらえ、
「信州の鎌倉」と称せられるようになった地である。

私たちは、秘かに木造建築の美の結晶のひとつであると私が深く感じた旅館『花屋』に宿泊し、
周辺の名所を散策したりした。

あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこの事だろう、と思案した。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。


このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
5年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。
昨今、我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

そして永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。

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ひとり遊び、齢ばかり重ねた私は日々過ごし、恥ずかしながら上手になり・・。

2012-08-29 14:09:28 | 時事【社会】
私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後した。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

或いは茶坊主に徹し、殆ど朝は家内より早めに起き出して、
家内用のコーヒーを指定されたマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。
そして日中のひととき、家内がコーヒーか煎茶を飲みたいようなことを素早く察して、
さりげなく淹れている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
残された方は落胆しながらも、強い趣味があれば、やがて薄らいで、命果てるまで生きがいのひとつとなるので、
互いの趣味の時は大切にしている。

日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


定年後の年金生活を始めて、予期できなかったことがある。

小学生の4年の頃から映画に熱愛し、大学を中退し、映画青年の真似事をした体験のある私は、
映画の作品のDVDに興味が薄らいだのである、
或いは音楽の作品のCD、DVDにしても、私の感性が衰えてきたのか、作品自体が劣化した為か解らないが、
年金生活の8年生の今日まで、映画作品は3作品、音楽のアルバムは6作品ぐらい買い求めてきた程度である。

やむなく居間にある映画棚から、映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴く程度となった。

しかし本だけは相変わらず本屋に寄ったりして、単行本、新書本、文庫本などを買い求めたりし、
魅了された本に出逢えなかった時、ときおり古本屋まで行ったりしている。


会社の時代にめぐり逢えた先輩、同僚などの交流が薄らいだこともある。

殆どの方は年金生活をされて、ご自身の趣味を楽しまれながら、
ご自身の子供の家庭、そしてお孫さんが在て、愛おしく思いながら日々過ごしている、
と年賀状に認(したた)められている。

たまたま私が勤めてきた音楽業界は、1970、80年代はそれぞれのレコード会社は躍進したが、
1990年代を迎えると、特に外資系は、世界市場の中でアメリカに続いて、日本が第二位となり、
抜きん出た市場となり、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。

そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

私は定年退職の直前まで、失業保険の申請して、
勤める意志はなかったが、わずかばかりの額を甘受する予定であった。

しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、
退職直前は業務の引継ぎに加わり、多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
真に職さがしをしている人に失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したのである。
           
私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であったので、金融資産は程ほどである。

私の現役時代の財産といえば、
その時代と共に過ごした名曲の数多くが心に残り、
そして上司、同僚、後輩と共に音楽業界の空気を共にできたことである。

定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする。


私は年金生活を始めて数年以内に、先輩、同僚の死去に接し、
余りにも若き60代なのに、と戸惑いながら、ご冥福を祈った。

私は現役サラリーマンの55歳の頃から、 定年退職の60歳から10年間だけ五体満足に生かしてくれれば、
70歳以降の人生は余生である、と公言し一部の方から険悪されたりしてきたが、
この根底は、長らく勤めた方のささやかな勲章として、
せめて退職後の10年は、ご自身の安息な時を過ごせるように、と信念を重ねたりしていたのである。


私は年金生活を始めて、まもなく丸2年を迎えようとした2006〈平成18〉年8月下旬、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)・著作の『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39年〉の秋に、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、あえなく敗退し、
やむなくある企業に何とか中途入社できたのは、
1970〈昭和45〉年の春で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々である。
そして机を並べ、この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、何かと友人には団塊の世代の人々が多かった、
団塊の世代の多くは、2007〈平成19〉年に定年を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版されていた・・。

山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、これからの時期も《ひとりぼっち》、
と学んだりした。
私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、私は衝撃を受けたのである。

そして私は定年後の年金生活は、何かと『ひとり遊び』の読書、本屋に寄ったり、散策などが多いので、
彼ら団塊の世代もについて《ひとりぼっち》かょ、と微苦笑したりし、今日に至っている。

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『尖閣(せんかく)に 台風進路も 戸惑い』、と無力な私は思わず一句詠み・・。

2012-08-28 10:14:22 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、NHKのテレビのニュースを見ている中で、天気情報を視聴した。

私は台風14号が強い暴風や大雨と数日前に知り、愛する沖縄、石垣諸島に被害が少なく通過してほしい、
と年金生活の無力な身ながら、心配していた。

何かしら天気情報の中で、台風14号について、
先週、石垣島など先島諸島の南の海上を通過した強い台風14号ですが、
今後は東寄りに進んでいき、28日の午後、再び先島諸島に接近する見込みです、
と報じていた。

そして台風の進路図が表示され、石垣島に近い台湾の南部の海上を大きく楕円形を描くように、
進路は彷徨(さま)ように進み、一周してしまい、どうしてなのよ、と私は戸惑ったりした。

つたない私なりに思索したりしたのであるが、ひとつだけ思い当ることがあった、
と微苦笑したのである。

石垣諸島に近い尖閣諸島があるが、もとより魚釣島などからなる日本最南部にある諸島であるが、
なぜかしら1970年代の頃から、突然に『中国』、『台湾』も領有権を 主張し始め、
特にここ数年は紛争難題となっている。

過日も中国、香港、台湾のグループが上陸問題が発生して、
大きな国難のひとつとしてニュースが報じられてきた。

私は日本の男児として憂いながら過ごしてきたが、天上の気候の神々も心配され、
石垣島に近い台湾の南部の海上を大きく円を描くように、台風の進路を采配されたのかしら、
と思ったりした。
そして『中国』、『台湾』政府の国民も強い大雨が降る中で、冷静になりなさい、と思ったりしてしまった・・。

この後、俳句も詠めない身ながら、思わず、
     尖閣(せんかく)に 台風進路も 戸惑い
と呟(つぶや)いたりした。

そして字数足らずと気付き、私はやはり俳句にも素養のない、と苦笑したりしている。

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小説家になれなくてよかった、と齢ばかり重ねた今、苦笑して・・。

2012-08-27 13:38:00 | 真摯に『文学』を思考する時
私は1955(昭和30)年の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

私は地元の小、中学校を卒業した後、
初めて都心の高等学校に通い、満員電車に乗り、都心の新宿の情景を観ながら、通学したりし、
都心の中学校を卒業した同級生と交流を深めながら、都心の空気に満喫したりしていた。

このような下校のある日、私は生家の最寄駅より、トボトボと歩いて帰宅する時であった。
近くの旧家が田畑を売り払い、新たな10数軒の家並みを観たりすると、
幼年期の頃の思いを重ねたりすると、愛惜が増したりした・・。

この後、ぼんやりと変わらないものは・・と思ったりしていると、
作曲家のモーツァルト、ショパンが浮かび、幾たびか戦時をあり、祖国の領土も憲法も変わっても、
確かに現世の人々に時代を超えて聴かれている事実に気付かされたのである。

芸術家かょ、と思いながらも創作される人に、あこがれ魅了させられた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、
初めて習作した。
私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
川端康成の影響を感じられるが、何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
もとより同世代は、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍していたが、
私は明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだのである。

たとえ私の場合、まぐれて純文学の新人賞を得ても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多いカルチャークラブの文藝講師などにありつければよい方だろう・・。
そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。


このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


そして私は、この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然といる。

こうした方の前では、創作家の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感のためか、敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。

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『100冊の小説本は、100回の人生にも勝る』と学び、読書好きな私は微苦笑を重ね・・。

2012-08-26 11:59:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の深夜、ネットでニュースを見ている中で、あるビジネス・ニュースを追求していると、
たまたま《 100冊の小説本は、100回の人生にも勝る 》と見出しを見つけ、
遅ればせながら、読書好きな私は思わず読んでしまった。

そして何かと多忙な現役サラリーマン諸兄諸姉にも役立つと思ったり、
或いはここ10数年に及び出版業界の不況の中で、
小説を読みだす方が多くなる起爆剤のひとつになるかしら、と思い馳せたりした。

今回、偶然に読んだのは、ビジネス情報誌として名高い『PRESIDENT』の 2010年4月12日号に掲載され、
『社長の仕事術』のコーナーで、ファミリーマート社長が発言された言葉である。

http://president.jp/articles/-/5700
【PRESIDENT Online】<==変革トップ「自分を耕す学び方」【2】
                    <==100冊の小説本は、100回の人生にも勝る:ファミリーマート社長

私はファミリーマート社長の上田準ニ(うえだ・じゅんじ)氏には、未知のお方であるが、
略歴を拝見すれば、1946年生まれと知り、私とほぼ同世代なので、親近感を持って読んだりしたのであったが、
何よりも魅せられたのは、下記の学生時代、その後の社会人となり、「予知能力」の源泉は読書にあり、
と発露されたことである。

無断であるが、この状況を転記させて頂く。
《・・
(略)
私には「予知能力」があるのです。
そして、その力は読書で培われたと言えそうなのです。

私が生まれたのは秋田県平鹿郡大森町字大森という所です。
現在は横手市に編入されていますが、当時はテレビもなく、ラジオの電波も途切れがち。
山河と田畑しかない辺鄙な町です。
娯楽に飢えていた私は、自然と本を愉しむようになりました。
時間はあり余るほどありました。
学校の図書室の本はあっという間に読み切り、仕方がないので、町役場の公民館まで本を借りにいきました。
ここの蔵書は学校と違って大人っぽい。
梶山季之や柴田錬三郎を読み漁る日々でした。

受験勉強に追われた高校時代を経て、本格的に読書に取り組んだのは山形大学へ進んでからです。
当時、集英社の『新日本文学全集』(全38巻)の刊行が進んでおり、毎月2冊ずつ買ってすべて読破しました。
芥川賞や直木賞の受賞作も掲載誌でほとんど読みました。

思い出深いのは学生寮での日々です。
当時は学生運動が盛んで、毎晩のように政治や哲学の議論が行われていました。
ただし八畳一間の5人部屋。
出ていく金もないので、左翼も右翼も仲良く同室で過ごしていました。

彼らはずいぶんと熱心に思想を語るのですが、私には興味がもてなかった。
非現実的な議論にしか聞こえなかったからです。
論戦を吹っかけられたので、私は文学作品のことを話題にしました。
背伸びをしたい年頃ですから、彼らも「そんなものは読んだ」という。
でも大概は読んだふりです。
たとえ読んでいたとしても、作品の細部までは読み込めていない。
次第に私が議論の中心になっていきました。

文学作品は、読み手によって何通りもの解釈が生まれます。
だから同じ本でも意見が大きく異なることが少なくありません。
それが面白い。
たとえば同室の人間は、山本有三の『路傍の石』を読んで、
「主人公の吾一は自らの境遇を恥じ、卑屈になり、そこから逃げ続けた」
という感想をもっていた。

しかし、私はこう言いました。
「たしかに吾一には卑屈な面がある。しかし成長するにつれて、自分の不遇に向きあい、乗り越えていく。
つまり大人になる過程を描いた物語だ」

『路傍の石』は未完の作品です。
体制に批判的な小説だとして圧力を受け、絶筆に追い込まれています。
主人公の境遇には自分自身と重なる点もあり、私はこの作品に心酔していました。

大学を卒業するにあたり、「僕が続きを書いて完成させよう」と職業作家を志し、
そのために「まず東京に出て社会経験を積もう」と考えました。
そこで大学の就職課に斡旋を求めたところ、最初に案内された会社が伊藤忠(商事)でした。
事業内容はまったく知らず、社名を「いとうただし」と読んでいた。
それでも入社できました。
作り話だとよく疑われますが、事実です。

就職してからは、仕事が面白く、作家になる夢はひとまずおいていました。
業務に追われるなかで、「あれ、こういう局面は、前にも経験してるな」と感じることが、しばしばあった。
採るべき方策が次々と湧いてくるのです。
そうした直観に沿って行動すると、実際、事態は予想通りに進み、幸いにも難を逃れられる。
「俺には予知能力があるのか」と訝しんだほどです。

そして、あるときに気づきました。
おそらく過去に読んだ大量の物語が、データベースとして私の頭の中に収まっている。
それが場面や局面に応じて、自然と湧き出てくる。
どれだけ時代が進み、技術が進歩しても、
文学作品で描かれてきた人間の特質は、依然として我々のテーマであり続けています。

一人の人間が経験できる人生は一つだけです。
しかし100冊の心に残るような本を読めば、100通りの人生にも勝る経験を積むことができる。
ビジネスの現場で、経験は強力な武器となります。
頭のキレだけでは、リーダーは務まりません。
上質な小説を読むことは、人生経験を豊かにします。

人生経験の乏しい人は、咄嗟の事態にうろたえる。
とくに困難にぶつかったときに、そうした「経験値」の差が、対応の違いとして表れるように思います。
(略)
・・》

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、近代史、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、高峰秀子、中西輝政、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。

このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら、明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
明治時代からの各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。

昨今は丸67年の歳月が過ぎ、まもなく67を迎える今、過ぎ去った人生を思い重ねて、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、高峰秀子、各氏の作品を購読して、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


そして読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四(ひらいわ・がいし)氏は、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四氏に好感させられてしまうから不思議な作用がある。

もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。

このような私なので、心の友のひとりとして、この世に別れを告げるまで、
限りなく本を読んでいたと思っている。

このような心情のある私は、今回、偶然にファミリーマート社長の上田準ニ(うえだ・じゅんじ)氏が、
《 100冊の小説本は、100回の人生にも勝る 》と発言されて、
読み終えた後、好感させられてしまった・・。

もとより小説の多くは、主人公の人生の軌跡を心の深淵まで描写する作品であり、
優れた作品を読めば、多くの人の人生経路を学ぶことでもある。

或いは映画の俳優さんが数多くの作品に出演された方が、役者冥利に尽きます、と発露されると同じように、
ひとは誰しも、たった一回限りの人生体験しかないので、作品の主人公に思いを重ねることができるので、
そうですよねぇ、とつたない私でも了解させられてしまうのである。

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認知症になる前に、いつの日にかポックリとこの世と別れを告げたい、と私は秘かに願い・・。

2012-08-25 15:51:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の朝、テレビのニュースを視聴していると、
認知症の方が、厚生労働省の推計によれば、300万人以上を超えて、65歳以上の1割と判明致しました、
と報じられていた。

私も高齢者3年生の身なので、注視して視聴した。
何かしら介護保険の要介護認定のデータから、日常生活で何らかの支援が必要な認知症高齢者数を推計し、
2012年段階では、305万人に達しているとみられ、
将来推計としては、2015年は345万人、2025年は470万人と予測されます、
こうしたことは、急速な高齢化に加え、認知症の啓発が進み、受診者が増えたことが大きいと見られます、
と詳細を伝えられていた。

私は超高齢化社会で、数多くの方が寿命が伸びたので、
やはり痴呆症と称される「認知症」は、やはり多くなるのか、と苦笑させられた。


私は民間会社に勤めていた55歳の頃から、
定年退職の60歳から10年間だけ五体満足に生かしてくれれば、
70歳以降の人生は余生である、と公言し一部の方から険悪されたりしてきた。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったりして、
自宅周辺の数キロ範囲の遊歩道、公園などを散策したりしているぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりすることもある。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、
と思ったりしている。


過ぎし日の一昨年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。

そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、いつの日にか突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。


或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そして『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が心の中で感じてくれれば充分である。

このようなことを私は秘かに願望しているのである。


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年金生活の我が家、『三種の神器』は何かしら、思い浮かべれば・・。

2012-08-24 16:54:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨夜、講談社・編集の『暮らしの年表 流行語』を開いていた時、
たまたま『三種の神器』という事項を読んだりし、何事も好奇心旺盛の私は、ネットで調べたりした。

《・・
1950年代後半、神武景気の頃、豊かさやあこがれの象徴として「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が、「三種の神器」と呼ばれた。
高度成長期となった1960年代半ばには、「3C」(カラーテレビ・クーラー・カー〈自家用車〉)がこれに代わった。
平成の今、デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型大型テレビのデジタル家電が「新・三種の神器」と呼ばれている。
家事労働の軽減から余暇の充実へと、あこがれの質の変化が製品を通してうかがえる。
・・》
このように『知恵蔵』2012年版で、多摩美術大学教授・武正秀治さんが解説されていた。

もとより『三種の神器』は、恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた鏡・剣・玉のことであるが、
数多くの国民が熱望してきた商品をどなたかが大衆の『三種の神器』と命名されて今日に至っている思われる。

ぼんやりと私は我が家にとっては、『三種の神器』は何かしら、と思い浮かべたりした。


『カー〈自家用車〉』
若き独身時代の時、生家の自動車を盛んに運転をし、ドライブをしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーとなり、
定年退職後は自動車をを購入して、ゆったりとドライブするのも、ひとつの楽しみと思ったりした。

しかし、無念ながら齢を重ね感覚が衰えているので、自身の過ちで事故を起こした場合のことや、
何より人様に対して人身事故で傷つかせたりした場合を考慮すると、
単なる保険の支払いで済まなくなるので、自制し、
退職後まもない更新時に免許書を破棄することにした。

このように我が家は自動車も所有できず、私は根がケチにせいか、路線バスにも乗らず、
平素は我が家の周辺数キロの範囲をひたすら歩いたりしている。
そして冠婚葬祭、国内旅行、緊急の用事などで、タクシーを利用したりしているが、
昨年も月平均は、福沢諭吉さんのお札を超えることなく今日に至っている。


『携帯電話』
私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
数年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思ったりしている。

新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話の各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たり、ときには販売店でお互いに戸惑いながら見たりしている。

そしてここ数年、スマートフォン(多機能携帯電話)が急速に普及してきているが
我が家は、世の中の時流から取り残されていると微苦笑しているのが、昨今である。


このように無念ながら我が家は、『三種の神器』にも無縁なのかしら、と落胆していたが、
しばらくすると私は微笑んだのである。

『電気冷蔵庫』
我が家は結婚して36年目となっているが、電気冷蔵庫は三代目となっている。
確か10年前頃に買い改めた冷蔵庫は、上部から冷蔵庫、野菜室、製氷室とパーシャル、冷凍室に、
大きく分かれている。
この中の冷蔵庫の下部は加工食品、肉や魚などのファインフレッシュルームとなっているが、
この左横には、自動製氷のプラスチックの専用ケースがあり、
この専用ケースに水道水を入れておけば、
やがて適度な大きさの氷が、コトリと優しい音を立てながら、下段にある製氷室に山積みとなる・・。

何よりも昼下がり、夜のしじまの静寂の時などに、居間に私がいても、
台所の冷蔵庫から10メートル離れていても、コトリと音色が聴こえ、賢明に働いている自動製氷機能に、
過ぎし現役時代のサラリーマンだった私の奮闘した状況に思いを重ねて、微笑んだりしている。

この時節、私は冷茶とアイスコーヒーを愛飲しているが、
アイスコーヒーに、この新たなる氷を五つばかり入れて、飲んだりしている。
或いは、ときにはウィスキーに氷を入れただけのオンザロックを吞む時、
この氷を入れて、過ぎし日に愛惜を重ねて、吞んだりする。


乾燥機能付きの『洗濯機』
過ぎし2010(平成22)年の1月初旬に、我が家としては通常の洗濯機を二度ばかり買い改めてきたが、
無念ながら故障して、乾燥機能付きの『洗濯機』に新調した。

家内は原則として洗濯物は日々完遂するタイプであり、
洗濯の干し竿に吊るして陽射しの下で乾燥させているが、冬の陽射しの乏しい時、
梅雨の時節もあり、こうした時はガスファンヒーターの暖気で補足してきた。

私は家内に20年前の頃から、喉に良くないから、乾燥機を購入するように進めてきたが、
たまたま洗濯機を新調する機会に、乾燥機能付きとしたのである。

この乾燥機能付きの『洗濯機』は、いじらしい程、健気(けなげ)に乾燥機能が働き、
私は思わず微笑んだりすることが多い。

『エアコン』
我が家は居間と寝室にエアコンを設置しているが、原則として冷房機能として利用している。
寒い時節は、我が家はガスファンヒーターを活用している。

我が家は、6月の梅雨入りの前の頃から秋のお彼岸の頃まで、
簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾(すだれ)にして、庭越しの風を通したりしている。

その後、家内は室内の掃除が終えて、居間のエアコンが静かに作動し、冷気になっているのが、
私が年金生活を始めて以来の習性となっている。

そして私は午前中に買い物、散策を終えた後、居間で過ごしたりすることが多い。
随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読んだりしている。
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を居間で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

この映画などを鑑賞するテレビにしても、昨年の夏頃にアナグロテレビ放送は廃止と知り、
やむなく昨年の5月に、デジタル対応の薄型テレビの51インチ、
ブルーディスクの500キガの録画機を買い求めたりした。

そして冷気の中で、ときたま簡易ベットを敷いて昼寝をしたりしている。


このような我が家の『三種の神器』を思い馳せたりしたが、
数多くのご家庭からは、このようなことは時代遅れで『三種の神器』じゃないわょ、
と言われそうでもあり、やむなく私は苦笑を重ねたりしている。

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相田みつを氏、あえて故郷で作品を綴られた日常生活を、遅ればせながら学び・・。

2012-08-23 15:21:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私は殆ど毎日、家内より早めに起き出して、日の出前に起床することか多い。
そして洗面を終えた後、和室でバジャマから普段着に着替えたりしている。

この後、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

たとえば、過ぎし4日には、
《・・
  自己顕示
  自己嫌悪
   わたしの
    こころ
     うらおもて
             みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
しかしながら、相田みつを氏の遺(のこ)された言葉の前には敬愛する余り、神や仏様より高い存在となっている。


過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。

『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

私は左下に『相田みつを作品集』、と読みながら、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
《・・
  ただいるだけで

  あなたがそこに
  ただいるだけで
  その場の空気が
  あかるくなる

 あなたがそこに
 ただいるだけで
  みんなのこころが
  やすらぐ

    そんな
    あなたにわたしも
     なりたい

                 みつを
・・》

この言葉が表紙を捲(めく)った後、
最初のページに掲載され、瞬時に圧倒的に魅了されたのである。


私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は小学2年の時に病死されたこともあり、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。

この作品集は、『トイレ用日めくり』、と明記されて折、
その日に応じたページに、さりげなく深い人生の教訓の言葉、そして特有な書体で書かれている。

その後、私は彼の遺(のこ)されたされた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』、『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。


このような心情のある私は、今朝、いつものように読売新聞を読んていた時、
定例特集のひとつの『先人を訪ねて』に於いて、《 心癒やす にんげんだもの 》と大きく明記され、
今回は《 相田みつを (栃木県足利市)》と記載されていたので精読した・・。

読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事であり、無断ながら少し転記させて頂く。
《・・
相田みつをが終生、生まれ故郷の栃木県足利市で創作していたことはあまり知られていない。
・・
みつをは足利市の中心部を南北に分ける渡良瀬川の北にある旧市街地で生まれ、
歴史的な建造物のそばを遊び場にして育った。

書道では優れた腕前を持ちながらも、
独自の書体で、平易な言葉での表現にこだわった。
当時は世間に受けいられず、書道教室を開くなじして糊口(ここう)をしのいだ。

東京の書家から「弟子にならないか」と誘いも受けたが、断った。
結婚後は渡良瀬川の南の借宿町に移り住んだ。
みつをの長男で「相田みつを美術館」館長の相田一人さんは、
「父の作品は足利で生活していたらこそ生まれた」と言い切る。
「父は自然の中で自分を見つめ、人間を詠んだ詩を書いていた。
東京の喧噪の中では同じように創作はできなかっただろう」と話す。

創作となれば、アトリエにこもりきりになるが、
息抜きをするときは、決まって釣竿を手に渡良瀬川に向った。
酒もたばこもやらず、「浮きを眺めているだけで集中できる」と一人さんに話したという。
・・
初作品集『にんげんだもの』が1984〈昭和59〉年に出版されると、次第に作品の評判が広まり、
ロングセラーに。
それから7年後、脳内出血のために67歳で死去したが、残された多くの作品がファンをひきつけてやまない。
・・
みつをが釣り糸を垂らした川のほとりに立つと、
豊かな流れが涼しい風を運んでくるのを感じた。
川の流れのように、みつをの言葉は時代を超えても変わらずに、
人びとを癒やし、励ましつづけている。
・・》

このように綴られて、多々学んだ。

これまで氏の足跡は、私は多くの書物から学んできた。

1924(大正13)年、栃木県足利市に生まれ、
生家は名刹と知られている鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。
そして旧制栃木県立足利中学校在学中に於いて書や短歌、絵に親しんだが、
喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために、進学を断念。

卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。
1942〈昭和17〉年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。
そして1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事して、本格的に書の修行を積み、
1953(昭和28)年、関東短期大学夜間部国文科卒。

その後、書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に於いて、
1954(昭和28)年から7年連続入選し、技巧派の書家として出発した。

しかしながら1947〈昭和22〉年の「鄭文公碑臨書」で古典的な書における実力を示す一方、
1950(昭和25)年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、
伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露し、
専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになった。

そして30歳の頃、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立。
1954(昭和29)年、最初の個展を足利市で開催し、その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
こうした中で、翌年の1955(昭和30)年ろうけつ染めを学び、
書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てたりした。

その後、1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、
さらに1984(昭和59)年に詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。
そして『にんげんだもの』は、その後ミリオンセラーとなり、
つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)が発刊され、約25万部のベストセラーとなり地位を確立した。

1991(平成3)年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、
脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。
最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、
長男の一人さんとの最期の会話になった、と伝えられている。


今回、読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事に私は導かれ、
人は誰しも人生で苦楽する深淵を、氏はあえて平易な詩で発露され、
その上に独特の書体で書き遺(のこ)した根源に、ふるさとが歴然とあったことに、
私は驚きながらも、そうでしたか、と深く教示されたのである。

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残暑厳しい時節、冬の寒さを思い浮かべて、私は自身を激励し過ごし・・。

2012-08-22 12:06:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
今朝のニュースで、全国的に真夏日に近い暑さとなりますので、お互いに注意致しましょう、
と報じられていたので、何よりも暑さに苦手な高齢者3年生の67歳の私は苦笑したりした。

私は定年後から自主的に日常の買い物を担当となっているので、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりしているが、
根がケチなせいか路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内を歩き廻ったりしていることが多い。

半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、夏の帽子を深めに被り、
サングラスをして、ときには扇子を取りだして煽(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。

こうした中で、暑さに負けと思う時、やむなく冬の寒さを思い浮かべて、歩いたりしている。

たとえば昨年の12月20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、二度ばかりしかない。
最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。

私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。

そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。

このような思いで帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊した後、
いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行った。

いずれにしても地域でも、マイナス10度前後、烈風か寒気団が襲来すればマイナス20度前後と予測して、
防寒着で身を固めて散策したが、
旅の間に寒いと感じたら、昨今流行〈はや〉っている中島みゆきさんの『荒野より』の歌を、
心の中で唄えば、私は励〈はげ〉まされて身も心も暖かくなる、と思ったりしてきた。

このような思いを秘めて、170センチ、73キロ前後の老いぼれた熊のような容姿で、
私は周辺をうろつき廻り歩いたりしてきたが、マイナス5度前後が多く、
ときおりマイナス10度ぐらいであったので、私は微笑みながら雪の情景の中を歩いてきた。

このような寒さの旅を思い馳せたりして、遊歩道の脇にある小公園の数多い大きな樹木の下で、
ペットボドルの冷茶を飲みながら、休息をしたりしてきた。


しかし私は帰宅すれば、洗面所で顔を洗ったり着替えもでき、
居間のエアコンの冷風の下で過ごしたりしている。
そして熱中症で救急車、或いは病院にお世話になることは、 勘弁してほしいので、
このように過保護のような生活を過ごしている。
そして時には、簡易ベットを敷いて、横たわり本を読んだり、昼寝をすることもある。


私は現役のサラリーマン時代には、本社勤務で情報畑、管理畑で30年ばかりディスク・ワークであったが、
この時節、ときおり夏のスーツを着る程度であり、
殆どワイシャツとネクタイで出社すると、まずはトイレの洗面所で顔を洗ったりした。
そして自動販売機で冷茶を買い求めて、始業時前のひととき、
自席で扇子を煽(あお)ぎながら、業務のことを思案したりしていた。

その後、定年の5年前にリストラ烈風の中で、私は出向となり、
物流情報会社に勤めだした・・。
現場の物流会社の倉庫で、冷房がないフロアーがあり、不馴れな最初は眩暈(めまい)を感じたりした。

この時は、外廻りでスーツにネクタイをして精勤している人たちを考えたり、
或いは炎天下の中で業務に奮戦する人を思いながら、耐えたりしたのが本音である。

そして私は35年ばかり勤めた夏の時節は、
暑さを感じて、したたる汗をハンカチで拭〈ぬぐ〉ったりした時、
ときおり、冬の寒さの情景を思い浮かべながら、自身を励ましたりしてきた。

しかしながら昨今の諸情勢は、果てしなき悪循環の『デフレスパイラル』の時代となり、
こうした『デフレスパイラル』のもとで進められた国家によるサービスの縮小、
そして大幅な規制緩和による市場経済重視する新自由主義と命名された『ネオリベ(ネオリベラリズム)改革』の中、
何かと短期に成果を求められる時代であり、
働いて下さる諸兄諸姉は奮戦されている状況に、無力な私でも同情させられる。

このようなことをぼんやりと思いながら、
残暑厳しい中、余り熱くならないでねぇ、と青空を見上げながら、天上の気候の神々に祈願している。

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晩夏を迎え、東京の郊外は朝夜は涼しく、日中は残暑厳しく、私は微苦笑し・・。

2012-08-21 13:25:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝5時半過ぎに目覚め、洗面後はいつものように作務衣に着替え、
玄関の軒下で樹木を眺めたれしていると、風もないのに何かしら涼しいので、
暑さに苦手な私は微笑んだりした。

付近から鈴虫(スズムシ)が夜の間に盛んに鳴いていたが、鳴き足らないのか、元気よく鳴いている。
そして、まもなく遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。

朝の七時過ぎに、門扉の前の歩道を働いて下さる諸兄諸姉も溌剌と出勤される情景を観たりすると、
世の中はお盆休みも終わりを告げ、いつもの平常になったのかしらと感じたりした。

そして私は朝涼(あさすず)のひととき、
たわわな紫紅色の花が咲いている高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)を眺めたり、
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
そして2週間前の頃から純白な花を見せてくれる玉すだれ〈タマスダレ〉の花に、
私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は23度、昼下がりは33度前後、夕暮れの6時は29度前後で、
雲ひとつない快晴の一日を迎える。
そして、この先の一週間も、ほぼこのように横並びとなり、晴れマークが続いている。

高齢者3年生の私は、何かと根は単細胞なので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は熱中症に気をつけましょう、
と解釈したりした。

日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように元気いっぱいで鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、
と私は思ったりしている。

夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
鳴き疲れてお休みの睡眠となったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているので私は愛(いと)おしく感じてしまう。

可哀想な蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願望したりしている。


過ぎしこの一週間、定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
相変わらず毎日のように最寄のスーパー2店に行ったり、
或いは駅前まで徒歩で15分コースのスーパー6店の中の数店で、買い求めたりしている。
この後は、その日の思うまま自宅から数キロの範囲を適当に散策したりし、季節のうつろいを享受している。

私は夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、煙草、ライター、携帯灰皿などを入れ、
買い物したり、散策したりしている。


路線バスも走る大通りの歩道には、街路樹として淡紅色、純白の花が彩(いろど)っている。
そして川沿いの遊歩道、ご近所のお宅にも、
この百日紅(ヒャクジッコウ)の花をこの時節に観かけたりすると、思わず私は足を止めてしまう。

猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている樹木の夏の花のひとつであるが、
私の住む地域では、7月の中旬の頃から、秋にかけて長い期間に彩(いろど)ってくれる。

古人の人たちは、夏の季節に百日も咲き続けると称して、
百日紅と命名した、と私は何かの本で読んでいた。

遠い昔の60年前の頃、私の生家にも百日紅の大きな樹木があり、
私の小学生の頃には、夏休みの時などは、木登りをしたりした。

父の妹の叔母達からは、
『猿も滑るくらい・・つるつるした樹だから・・気をつけるのよ・・』
とたびたび言われたした。

毎年、この淡い紅色の花が咲く頃、夏休みが近づいてきた、と思いながら、
夏休みの期間を見守り、初秋の台風の季節まで咲いていた。

ここ数年、散策などでこの花に出逢うと、私は小学生の頃が思い出されるのである。

私の住む調布市では、市の花として、
この百日紅が指定され、淡紅色、純白の花が街路樹などで彩っている。

こうした時、暑い夏は何かと私は苦手であるが、
この淡紅色の花を眺めたりすると、思わず微笑(ほほえ)んだりすることが多い。


私の住む近くに野川が流れて、この遊歩道を独りで散策したりしている。
陽射しが燦々と照らす中を歩いたりすると汗がしたたり落ち、ハンドタオルで拭(ぬぐ)ったり、
コンビニを見かけると、ふらふらと煎茶のペットボトルを買い求めたりしている。
そして付近の小さな公園の大きく育ったモミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の樹の下で、
ヘンチに座りながら休息したりしてきた。

このように私は、暑さの苦手な私は午前中には買い物をした後、散策をしたりして、
昼下がり後は、居間でエアコンの冷風の中で、本を読んだりしている。

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『曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く』と学び、そして私は微苦笑させられ・・。

2012-08-20 14:01:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の朝、購読している読売新聞をいつものように読んでいたら、
日曜版の好例記事の『名言巡礼』の記事に於いて、
《 満月 光り輝く海の道 》と大きく明記された言葉に瞬時に魅せられて、
この記事を精読した。

そして今回の名言は、《 曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く 》
と戦国時代の乱世の終盤時期に歴史を遺(のこ)した伊達政宗の辞世の和歌が掲載されていた。

恥ずかしながら私はこの辞世の和歌は、無知だったので、藤原善晴さんの綴られた解説文に縋(すが)った・・。
そして無断であるが要約すれば、
《 仙台藩の正史「貞山公治家記録」は、藩祖・伊達政宗が1936〈寛永13〉年に江戸で死去し、
        曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照らしてぞ行く
と辞世の和歌だったとして、簡潔に記している。

戦国乱世の終盤に台頭し、一部の歴史が、
「あと20年早く生まれていたら天下を取ったかもしれない」と評する隻眼の武将。
関ヶ原の合戦から36年が過ぎ、世の中は天下泰平となる中、
世を去る時の心情は、悟りの境地だったのか、
或いは果たせなかった夢の無念の思いだったのか。

政宗が何度も満月を見ていたという名勝の地の松島で、
町の中心部に入る手前の双観山の近くで、松島湾の島影から満月がのぞかせた。
日没の約10分前で、青みがかった薄暮の空に丸い月が浮かび、海面は光が映り始める。

約一時間後、闇夜の中で光源は月だけとなり、
海面には一本の黄金色の道がくっきりと照らしだされた。
・・》
このように前半は綴られていた。


私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

ときおり家内と共通趣味のひとつの国内旅行をしたりすると、
このような月の光り輝く中で海の道の光景を観ることもあり、圧倒的に魅せられて長らく見惚れたりする。
そして拙(つたな)い私のこれまで歩んできた人生のひとこま、ひとこまが走馬灯のように思い浮かび、
微笑させられたりしてきた。


ある北海道に住む敬愛している著名人の方が、
あるエッセイで船便で来道するのが最良です、といったような綴りを20年前の頃に読んだりした。

そして確か10年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。
この中には、新潟港から小樽港が紹介され、特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。

私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、と私たち夫婦は退職記念旅行と決めた。

そして私の定年退職の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、ちょっと慌しくなったので、
退職記念旅行は延期とした。

この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、申し込んだ。

4泊5日の団体観光ツアーであり、東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。
小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。
翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。
翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。
夕暮れの札幌駅より『北斗星号』を乗車し、宿泊しながら上野駅に到着する。
このような日程であった。


新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。

私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、
船体から海に出たような形で、予期した以上に広い6畳ぐらいのテラスであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。

そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中のひととき日本海の雲の間に晴れ間が果てしなく広がっている情景を眺めながら、
簡易椅子に座り、ゆっくりとビールを呑んだりした。
そしてこうした贅沢の時を過ごせるのは、年金生活の特権かしら、と心の中で微笑んだりした。

こうした満足な時を一時間ばかり過ごした後、少し眠くなってしまった・・。
今朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、 集合時間は6時半であったので、
我が家を早朝に、タクシーで新宿駅に向かった。
その後は、新宿駅より中央線の始発近い電車で東京駅に到着し、
自動販売機でコーヒー缶を買い求めて、待機していたのであった。

この後、私はベットにもぐり、まどろんだ後に寝付いたりした。
そして目覚めた後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会ったりした。

もとよりフェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、
楽しげに話し合っているのに、やはり働いている現役の諸兄は溌剌としているので、
私は中小業の民間会社で奮戦してきた体験があるので、好感したりした。

ディナーの際、イタリアン料理だったので、
小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら談笑したりして食事をしたりした。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
そして齢を重ねるたびに、食べ物に多少のこだわりを持つのは、
多くの人が経験するのだろう、と思ったりした。

部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、あたかもテラスに向かって部屋に差し込んでいるように思えた。

その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。


或いは過ぎし2002010〈平成22〉年の初め、
家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に言ったし、
色々と調べた結果、海外旅行には苦手な私たち夫婦は、
小笠原諸島の『父島』で2、3月にザトウクジラが観られることが多いと知った。

往復路は『おがさわら丸』を利用して、片道だけでも都心から1000キロ南下する25時間半の船旅となり、
船室はトイレのある部屋を家内が要望したので、『特一等客室』で程ほどに揺れ、
宿泊先の選定は、父島の静寂で景観の良い海辺のリゾートホテル『ホライズン』に宿泊した。
結果的には、2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊となった。

そして宿泊した『ホライズン』は、海岸を目の前にしてシーサイド・ホテルで、
部屋の前にある共同通路も兼ねた広いベランダとなり、
このベランダからは扇浦の白色の砂浜、打ち寄せる波、
海の色合いは青い色、薄い蒼い色、蒼い色、そして濃い蒼い色と四色の色合いを織り成して海原が続き、
右側の前方には二見港の桟橋、街並みが観え、
前方の彼方に切立った小山の上に三日月山の展望台のあるウェザー・ステーションが聳(そび)えていた。

私が若い女性であったならば、『凄い・・綺麗だわ・・』と歓声を上げると思われるが、
私は家内に、『まぎれない美しい景観だね・・』と言ったりしていた。

そして夜のひととり、月が上がると、前方の扇浦海岸の海上には、
月の光が帯状となり、あたかも私の方に向い、照らしているようだった。


このような情景を思い馳せたりし、日本は古来より幾千年、奈良時代にしても、平安の女人からも、
月の光に思いを託したりしてきた、と思ったりした。
そして伊達政宗公の歩んできた人生には恐れ多いが、ぼんやりと辞世の一首に思いを重ねたりしたのである。

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『梅ちゃん先生』の父親のような男には、無念ながら見果てぬ夢となった私・・。

2012-08-19 16:14:24 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内は朝のひととき、居間でNHKの連続テレビ小説『梅ちゃん先生』を視聴していることが多く、
そばのソファーで新聞か雑誌を読んでいることの多い私も、ときおり見たりしているが、
ヒロインの下村梅子の父親に微苦笑したりしている。

この父親は一家の主(あるじ)として、家族を養う責務がある中、
いつもしかめっ面で言葉少ない為、
家族には近寄りがたい昭和時代によくみられた頑固な親父(おやじ)であるが、
心の奥底は限りなく優しいタイプである。

そして私は心の中で、いいよなぁ、と呟(つぶや)いたりすることもある・・。


私は1944(昭和19)年に農家の子として、生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵(くら)、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、蔵(くら)に叩き込まれ閉じ込まれたり、
夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、と私は言ったりすると、
母屋から放りだされ、私は泣きながら母屋の周囲を廻ったりした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。

この少し前、自宅で寝込んでいた父が、町の医師が来宅して、治療を受けていた時、
『煙草(タバコ)は・・身体にいけないと・・あれほど言ったのに・・』、
と町の医師に父か叱咤されていたのを、偶然に私は見てしまい、
この世に父に怒る人がいる、と私は幼児ながら驚いていたのである。

後年になると、長兄、次兄と共に亡き父の話題を話したりすると、
俺もよく怒られたよ、と兄府ふたりは私に言ったりしたので、私は苦笑したりした。
父は肝要の祖父の跡継ぎの身ながら、身体を壊し、自宅治療の無念さもあり、
ともすれば苛立(いらだ)つことが多く、
悪戯を盛んにする男の子の三人に叱咤することが多かったのだろう、と解釈できたりした。

この後、翌年に祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。
そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった・・。

この後、確か小学6年生の頃か、テレビのドラマで山村聡(やまむら・そう)が父親で、
和気藹々と一家の団欒のドラマを視聴したりすると、
あのような楽しげな家庭は信じられない、と私は思ったりした。

私は結婚して、一家の主(あるじ)として、
息子には、社会がどのように変貌しても逞(たくま)しく生き続ける、
そして娘には、人さまから愛される良き性格になれるよう人に、
徹底的にしつけをしょうと夢想したりしていた。

しかしながら、もとより息子、娘に恵まれるのには、
天上の神々の采配に寄る、と私は後年に諭(さと)されたのである・・。


私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、やがて翌年の1976(昭和51)年の春に結婚した。

千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を始めた。
私はこの当時は会社に勤めて、社内のシステム改定などで多忙で孤軍奮闘したりしていたが、
家内は中学生の時から茶事を学んできた延長として、週に一度にお茶の先生の宅に訪れて習ったりし、
料理、洗濯、掃除も手を抜くこともなく、何かと従順な新妻であった。

こうした中で、愛(いと)しき新妻に私は毎晩のように性愛を重ねて、
仲良し恋しを深めたりしていた。

そして少し狭い2DK賃貸マンションであったので、
子供ができて、這(は)いずりまわった時は狭いなぁ、
と私は思いながら、マンションか一戸建てを考えなければ、と次期の住まいを私たち夫婦は検討した。

結果的には、私の生家の近くの空き地に一戸建てを構えたのは、
1978(昭和53)年の春であった。
そして子供部屋の2室も設計に配慮したりし、
私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりしたので、
更に多額な住宅ローンとなったりした。


こうした一年が過ぎた頃、父の妹のひとりの叔母が体調を崩して入院していたので、
私の幼年期に何かと私の面倒をみてくれたりしていたので、私たち夫婦はお見舞いに病室に訪れた。
私は叔母にお見舞いの言葉を述べたりした後、
『あなたたち・・結婚して4年目なのに・・子供に恵まれないの・・
XXX(私の名前)は5歳の時・・「おたふく」になったせいかしら・・』
と叔母は私に言った。

私は帰宅する時、確か3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。

私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された後、
この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもなく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


このようなこと後年に私は教えられたが、
『おたふく風邪』はどこまで影響するのかは、母、小母たちからも教えてもらった記憶がないのである。

この後、私は医学の本で《睾丸などに生殖機能に後遺症が残る》と学び、
私は恥ずかしいので、少し遠方の病院で検査を受けたりした。
そして診断の結果としては、精液の量は普通ですが、やや精子が少ない、と医師から告げられた。

帰宅後、私は家内に包隠(つつみかく)すことなく伝えたりした。
色々と対策を医師から提示されたことも私たちは話し合ったりしたが、
結果としては自然のままの性愛の結果にゆだねるとした。

このような状況で、私は40歳過ぎた頃になった時、
私たち夫婦は子供のいない家庭に違和感もなく過ごしたりし、今日に至っている。

昨今、ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、
仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
ここ10数年、少子高齢化が社会の難題となり、
私は社会に対して、子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。

このように私たちは子供に恵まれずに、たったふたりだけの家庭であるので、
死後のお墓のことは、もとより一代限りなので、やむなく樹木葬などで土に還る、
ことなどを私たち夫婦は話し合ったりしている。

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サラリーマンを卒業した私でも、最前線の情報は、秘かにネットで学び・・。

2012-08-18 10:03:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
朝のひとときは、購読している読売新聞を読んでいる。
そして経済、国際、企業などの記事で、何かと気になった場合は、
本屋に行き買い求めたりすることもあるが、
殆どひとつのネットのサイトを開き、多々教示を受けたりしている。

このサイトは、ビジネス情報誌として名高いダイヤモンド社のネット【DIAMOND online】である。

私は民間会社の中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
50代の頃には、ビジネス週刊誌としては『日経ビジネス』を愛読し、
ときおり『週刊ダイヤモンド』を購読した程度であった。

そして2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
この直後から年金生活をしているが、たまたまこのサイトを知り、
各分野の賢人が寄稿された記事を読んだりしている。

この後、このサイトは会員制となり、何かしら無料で会員になれると知り、
私は2010〈平成22〉年6月に加入させて頂いた。

このサイトで、特に『経済・時事』、『国際』、『企業・産業』、『ライフ・健康』の分野を学び、
多々教示されながら、その分野の賢人の提議、批評などの寄稿文を深く拝読したりしている。

いつも感じることなのであるが、やはり専門分野の深く洞察された論文による確かな情報寄稿文である、
と受け止めている・・。

私はサラリーマン生活を卒業した年金生活の無力な身であるが、
何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりである、と生活信条を掲げている。

しかし無念ながら、この真摯な情報寄稿文をときには私の拙(つたな)い知識の理解度を超えてしまい、
恥ずかしい限りで、猫に小判かしら、と思い浮かべたりする時もある。
いずれにしても、ボケるまでは一生お勉強ね、と微苦笑したりしている。

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防空壕、防空頭巾、高射砲台の跡など、戦争に無知な私のささやかな想い・・。

2012-08-17 13:53:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
ここ一週間、今井清一・編集の『ドキュメント昭和史 5 敗戦前後』(平凡社)を再読したりしている。

この本は、1975(昭和50)の夏に、偶然に本屋の棚にあった『ドキュメント昭和史』(平凡社)として、
『1 昭和初年』、『2 満州事変と二.二六』、『3 日中戦争』、『4 太平洋戦争』、『5 敗戦前後』、
『6 占領時代』、『7 安保と高度成長』、『8 問われる戦後』の全8巻で、
私は恥ずかしながら昭和史にも少し知っている程度であったので、
学ぶために購読し、若き30歳の時に全8巻を読んだりしてきた。
それぞれの分冊は、この当時に優れた知識者の基で編集された渾身の『ドキュメント昭和史』と感じたりしていた。

改めて今回、37年ぶりに『5 敗戦前後』を再読し、若き30歳の時に深く理解できなかったこともあり、
多々教示を受けたりした。

読了後、ぼんやりと防空壕、防空頭巾、高射砲台のことなどに、思いを馳せたりした。

私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
かの大戦の敗戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身なので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。

北に軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西に軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944〈昭和19〉年11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

その後、幾たびか東京も空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945〈昭和20〉年3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。
結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。

我が家の生家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。
そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と私たちは微苦笑したりした。


私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。

この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。

このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。

敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私は圧倒的に感動させられ、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなっている。


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