夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『結婚記念日』、私たち夫婦は歳月を重ねると変貌し、私は微苦笑し・・。

2012-03-31 12:33:50 | 定年後の思い
私は昨日、このサイトに於いて、
【『結婚記念日』を迎え、あの日を思い馳せれば、独り微苦笑を重ねて・・。】と題し、
私たち夫婦が3月30日に結婚した遠い日々を思い浮かべながら、《上、下》で投稿した。

昨晩は、これといった祝い事もせずに、
いつもより少し多めの料理を食べながら、私は久々に弐合徳利で純米酒の辛口を吞んだりし、
あの日の結婚式、披露宴のこぼれ話しを家内と談笑したりし、
一時間半過ぎの9時に私は酔いを感じて、布団にもぐって寝付いてしまった。

結婚した最初の一年目は、私はサラリーマンの多忙時であったが、
この世はロマンも大切だと私は思い深めて、
その週の土、日曜日を活用して、結婚当日の夜に宿泊した都心のホテルに泊まった。
家内は水色のロングドレスを着て、私も少し高価なブレザーを着たりしていたので、
ボーイさんから結婚披露宴後と間違われて、私たちは微苦笑したりした。
そして背伸びして、高級ワインを呑みながら、フランス料理を頂いたりした。

翌日は庭園を散策したり、茶屋風で和菓子を頂き、濃茶などを吞んだり、
至福のひとときを過ごして帰宅した。

翌年になると、幾たびか婚約期間にデートした時のひとつ銀座の食事処で、
夕食を頂き、記念日をお互いに祝ったした。

三年目になると、賃貸マンションから一戸建ちの引越し前後で、
慌しい中、結婚式場でキャンドル・サービスの際、
大きなキャンドル(蝋燭)を頂き、これを新居で灯(とも)したりした・・。

この大きなキャンドルは、どうした訳か解からないが、
25年まで目盛りが付いていた。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、
数多くの夫婦は25年過ぎれば、子供達が成人し、やがて次世代となるからだろう、
と理解したのである。

私たち夫婦は10年頃までは、
記念日の夕食の時は、キャンドルを灯して、
家内が改まった容姿で居間で食事を頂いたりした。
そして互いにプレゼントの品を渡しあっていた・・。

その後は、私たち夫婦は共通の趣味のひとつは国内旅行であり、
私のサラリーマンの職務として、3月決算月は更に多忙期となったので、
2月に2泊3日で各地を訪ねて、記念旅行に変貌した。

2004(平成16)年の秋に定年退職後、年金生活となった私たち夫婦は、
家内からは旅行の宿泊数が多いのが良いわ、との要望で、
この記念日前後は5泊6日前後の旅行となってきている。

歳月を重ねると、たとえ結婚記念日と称されても、大きく変貌してきた、
と私は微苦笑したりしている。


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『結婚記念日』を迎え、あの日を思い馳せれば、独り微苦笑を重ねて・・。 《下》

2012-03-30 15:37:01 | 定年後の思い
結婚式場の学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたりと長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。

その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。

『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・
黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。

このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性が着付けをはじめてくれた。

私の父は小学生の2年の時に死去されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。

長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄様・・良いお召し物で・・
やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性の方は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れて折、高価な紋付の羽織と袴を持っていたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、
私の方は誰もいなくなった。

『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性達に聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・
でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が言った。

この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。

その後、私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。


この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列する新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
指定の4時45分に結婚式の式場に向った。

そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と改めて思いながら緊張した。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした。

この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。

そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。

私は苦手な羽織、袴から黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、
平常心となり、
まもなく愛しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。

この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を吞みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に吞み、食べたりした。

横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、
新たな料理を新妻の前に置いたりした。

こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。

そして私たち夫婦と親は、出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。

この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。
車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だなぁ、と思ったりした。

ニューオータニの指定された室に入った後、
疲れたでしょう、と私は新妻に言ったりした。
そして私は風呂に入った後、新妻が入浴している間、
窓辺に近い椅子に座りながら、ビールを吞み、都心の夜景を見たりした。

その後は、初めて新妻と性愛を深く交わした後、この日のこぼれ話しをしたりし、
まもなく私たちは寝付いた。

深夜、私は目覚めると、新妻は窓辺に近い椅子に座りながら、バナナを食べていた。
私はぼんやりと近づくと、
『お腹がすいたの・・あなた披露宴の席上のお料理・・ゆっくり食べようとしていたら、
あなたの指示でボーイさん下げてしまったじゃない・・』
と家内は微笑みながら私に苦言した。


このような結婚式、そして披露宴の当日の日を途切れ途切れに私は思いだしながら、
あの日から36年過ぎたのか、独り微苦笑した。


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『結婚記念日』を迎え、あの日を思い馳せれば、独り微苦笑を重ねて・・。 《上》

2012-03-30 11:54:52 | 定年後の思い
今朝の5時過ぎに、私は目覚めたが、まどろみながら30分過ぎた頃、
布団から抜け出して、2階の寝室から1階のトイレでオシッコした後、洗面した。

そして寝室に戻ると、隣に寝ていた家内が目覚めたらしく、
私は自分の布団の上に正座して、
『おかげさまで・・無事に36年が過ぎて、37年目の春を迎えることが出来ました。
今後もよろしく叱咤激励の程を・・』
と私は家内に言ったりした。

ぼんやりとしていた家内は、
『あらぁ・・今日、結婚記念日だったかしら』
と家内は呟(つぶや)くように私に言った。

私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の本日に結婚し、
過ぎし日々の大波、小波に揺られながらも、何かと家内に叱咤激励されながらも、
今日を迎えることができたので、ひたすら感謝で私は家内に言ったのである。

朝食後、私は主庭のテラスに下り立ち、
白梅の花が音もなく散り始めている情景を見ながら、ぼんやりと結婚式の当日のことを、
ぼんやりと思い浮かべたりした・・。


この日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に私は同居していた。
そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったりしていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。

そして私のこれまでの素行が悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思い、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。


私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。

この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、こよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方で、
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父からは、苦笑されながら、何かと私は可愛がれたりしていた。

こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、
両家の結納となった。
その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
私は小波にもまれたりした。

この中のひとつとして、結婚式の後の披露宴は夜6時からであった。
秋季の土、日曜日の日中にすれば良いのに、と母や長兄、次兄から言われたりした。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であったが、
新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、桜の樹の下で散策することを私はこだわっていたので、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかったのである。


調布市の片隅みに住んでいる長兄宅に集合した後、
先発隊として私は次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。
そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。

                              《つづく》
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『おとなのおやつ』ってなぁに、と高齢者の私は学びながら、苦笑を重ねて・・。

2012-03-29 14:18:52 | 食べ物、お酒
今朝、私はいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
10面の【経済面】に於いて、
《 小売り シニア層狙い
         電話一本宅配 割引カード 》
と見出しのフレーズがあり、私もシニアのひとりなので、この記事を注視した。

そして右側には、畠山朋子・記者が、シニア市場の実態が解り易く掲載されていた。
《・・
主に60歳以上による消費市場を指す。
高齢社会白書によると、2010年の65歳以上の人口は2958万人で総人口の23%を占める。
2025年に3500万人まで増え、
高齢人口の比率が高まると予想されている。

60歳以上の2011年度の消費額は計109兆円と全体の4割を超え、
消費意欲は旺盛だ。
団塊の世代(1947~1949年生まれ)がシニア層に加わり、
消費市場も刺激されている。
・・》

そしてこの下段に『世代別の消費額』が円グラフで表示されていた。
《・・
60歳以上・・・・・・・109兆円
50~59歳・・・・・・・50兆円
40~49歳・・・・・・・47兆円
30~39歳・・・・・・・31兆円
~29歳・・・・・・・・・10兆円
                *イオンが2011年度家計調査報告を基に作成
・・》
私はこの『世代別の消費額』を長らく見て、もとより人口の世代別の人口比例がないにしても、
圧倒的に60歳以上の消費額が多いのに、驚いたりした。

この相関関係で、スーパーやコンビニなどが、
高齢者(シニア層)の顧客獲得でしのぎを削っている状況が、
畠山朋子・記者が具体的に現状を記載されていた。

私は記事を読みながら、《電話一本宅配》《割引カード》など商魂がたくましい、
と苦笑したりした。

そして《・・コンビニ大手のファミリーマートは、
50歳以上のシニア層をターゲットにしたPB開発を進めている。

一月下旬に発売した「おとなのおやつ」シリーズは、
発売から一カ月で100万食を突破する大ヒットとなった。・・》
と読んだりしたが、私は「おとなのおやつ」は無知であった。


私は何事も好奇心を失くしたらこの人生は終りだ、という信念の持ち主であるので、
こっそりと「おとなのおやつ」をネットなどで調べた。

http://www.family.co.jp/goods/otona/otonanooyatu/
☆【ファミリーマート】<==商品情報<==おとなコンビニ研究所<==おとなのおやつ☆

私はこのサイトを見て、婦女子の食べ物か、と苦笑した。


私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
年金生活を始めて、自主的に買物を担当している。
平素は家内から依頼された品をスーパー、専門店で買い求めて、
そして店内で魅せられた品を購入している。
家から徒歩10分以内には、スーパーは3店あり、駅前まで20分ぐらい歩けば、
少なくとも7店があるので、殆どスーパーを利用している。

コンビニに関しては、家から徒歩10分以内に3店あるが、
ときおり月刊総合雑誌の『文藝春秋』を買い求めたり、
散策している時に、喉の渇きを覚えた時はペットボトルの『煎茶』を購入したりしてきた。

私は根はケチなせいか、同じ品であれば、
あえてコンビニなどで高い価格で買い求めたりしたことはない。
そして私は、朝、昼、夕食以外は間食する習性はないのである。

幼年期の小学2年に父に病死される前、
父から、男子たる者は三食を腹いっぱい食べれば、間食などはみっともない、
と幾たびか言われたので、これまでの67年の人生で、殆ど間食はしなかった。
ただ、国内旅行で私たち夫婦は旅先で和菓子屋などで、
家内が煎茶か濃茶でその地の銘菓を頂く時、私はやむなくお付き合いをしてきた。

このような私であるので、今回の『おとなのおやつ』は、間食の範疇であり、
婦女子の食べ物であるので、私にとっては無縁だ、と苦笑を重ねたりした。


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齢ばかり重ねた私でも、ときには『星に願い』を託(たく)して・・。

2012-03-28 10:37:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、年金生活の67歳の身であるが、
一昨日の26日の夜の7時少し前、風呂から上がった後の私は、
いつものように玄関の軒下に立ち、ぼんやりと煙草を喫ったりした。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、年金生活を始め、
家の中でも喫っていた煙草を自主的に取り止めて、
玄関の軒下とか主庭のテラスなどで喫う蛍族のひとりとなった。

このように煙草を愛する私は、夕食前のひととき玄関の軒下に立ち、
ぼんやりと月を眺めたり、星を眺めたりしてきた。

そして26日の晩も月を観たりしていたが、なぜかしら月の上に輝く星があり、
月の下に星が観え、お月様がサンドイッチのようになっていた。
私は星、月、そして星がまるで一直線のように縦並びになっているように観えた・・。

私は居間にいる家内に声をかけ、家内が玄関の軒下に来たので、
『XXちゃんさぁ・・俺・・眼が悪くなったのかしら・・
月の上に星、月の下にも星・・行儀良く並んでいる・・と観えるだょ』
と私は少し不安げに家内に言ったりした。

『あらぁ、本当だわ・・確かに星ふたつの間に、お月様が輝いているわ』
と家内は私に微笑みかけるように言った。

『俺・・初めて観たよ』
と私は家内に言った後、私たちは見惚れたりした。

そして夜のテレビのニュースを私たちが視聴していた時、
今宵は三日月となっている細い月を金星と木星がはさみうちする光景が見られました、
と報道していたので、
『XXちゃんさぁ・・月の上に輝いていた星は金星だったんだ・・
月の下に観えた星は、木星かょ・・俺・・知らなかったょ』
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。


私は恥ずかしながら星のことも全く知らず今日に至っているが、
星空を観たりするのが、好きである。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944〈昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が長兄、次兄と生まれたので、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
私の数年後に妹が生まれ、溺愛した様子を私なりに見たりし、
幼児の私は何となくいじけた可愛いげのない子であった。

私のおぼろげな記憶をたどれば、
私が最初に映画を観たのは、小学校の入学前、『長崎の鐘』だった、
と思い返している・・。

この頃は、ラジオからこの主題歌が流れていて、
私の幼児なりに、物悲しさを感じ、涙を浮かべたりしていた。

近所のお寺の境内で、隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。

帰宅の途中、母に手を引かれて歩いていた時、
夜空の銀河の天の川が綺麗であり、圧倒的に満天の煌(きらめ)いた星空であった。

この後、私が小学2年に父が病死し、その後まもなく祖父も死去したので、
農家の大黒柱のふたりがいなくなり、我が家は衰退し、生活に困窮したが、
私たち兄妹の5人は、母と父の末妹の未婚前だった叔母の基で育(はぐく)まれ、成長した。

やがてこの叔母は、私が高校1年過ぎた頃に嫁ぎ、
母は私がサラリーマン時代の54歳の時に病死した。


私たち夫婦は子供に恵まれなっかったので、たった二人だけの家庭となっている。
そして国内旅行が共通の趣味のひとつで、ときおり各地に旅を重ねてきた。
こうした中で、私は夜のひとときに満天の星空を観ることを願ってきた。
しかしながら拙(つたな)い私の半生、そして年金生活の素行の悪さのせいか、
幼年期に母に手を引かれて観た満天の星空、或いは天の川には、めぐり逢えないのである。

やむなく私は幾つかの星が輝いているのに、見惚れたりすることが多くなっている。
昨今、私は67歳、家内は62歳の身であるので、
いずれは片割れとなり、おひとりさまの生活になる。

過日、ぼんやりと星を眺めていた私は、せめて家内が70歳を迎えるまで、
五体満足で生かしてくれ、と思ったりした。

かって私は定年前の55歳の頃は、定年後の60代は五体満足で10年過ごせれば、
あとは余生であると断言してきたが、
身勝手な私の性格なので、私が75歳、家内は70歳になるまで、
何とか今の生活で過ごせますように、と輝くひとつの星に願ったりしたのである。


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反町隆史さんの発言の一部、ブログの世界と同じかしら、と私は微笑みながら・・。

2012-03-27 10:32:01 | 定年後の思い
昨夜、私はいつものように読売新聞の夕刊を読んでいた。
そして13面の【テレビ&ラジオ】に於いて、
何かしらフジテレビ系『市長死す』に主演されているらしい俳優の反町隆史(そりまち・たかし)さんの
インタビュー記事が掲載されていた。

私は反町隆史さんに関しては、
何年間前に家内が午後のひとときテレビの再放送の連続ドラマ『ビーチボーイズ』を居間で視聴していた時、
付近のソファーに居た私は、ほんの少し見たりした。
そして映画の『男たちの大和/YAMATO』(2005年)がテレビで放送された時、
鑑賞して、ここのお方に好感したりした。

そしてここ10数年の若手の俳優で、織田裕二(おだ・ ゆうじ)、木村拓哉(きむら・ たくや)の両氏より、
遥かに存在感のある人で、男らしい男であり、
世間の若き女性の多くは、良い男と称されるのは、このような人を指すのかしら、
と齢ばかり重ねた67歳の私は感じていた程度である。

今回のインタビュー記事をぼんやりと読んでいたら、この中の一部の発言に、
思わず私は二度ばかり読んだりした。

《・・「写真やビデオは、その瞬間を絵としては残せるけど、
心情までは残せない。
日記は字を通して書いた人の気持ちまで分かる。
僕は書く習慣がないが、日記の良さに気付かされた」・・》
このような発言をされていた。

そして私は瞬時に、それぞれの数多く方が、
その人なりの思いを心情まで発露したブログの世界の投稿文と同じ、
と思ったりした・・。


私は中小業の民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

しかし拙〈つたな〉い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
のちの想いになることは確かだ、と思い原則として日々投稿文を認(したた)めている。


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『菜の花』の辛し和え、晩酌と共に遠去り、やむなく私は微苦笑を重ね・・。

2012-03-26 15:51:04 | 定年後の思い
私はいつもように午前中のひとときスーパーに買い物に行き、
店内の野菜コーナーで、『菜の花』を見かけ、買い求めるか迷った後、
結果として、取り止めた。
そして家内から依頼された数々の品を購入して、帰宅した。

そして帰宅後、テラスに下り立ち、満開の白梅の樹の周辺に、
少し散った白い花びらを眺めたりし、あの頃までは私も吞んでいたょなぁ、
とぼんやりと思いを馳せたりした。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
その直後から年金生活を始めた。

そして現役のサラリーマン時代よりも酒量は減ったりしたが、
相変わらず夕食の前に晩酌をしていた。


確か年金生活の4年生の2008〈平成20〉年の今頃の時節も、
夕食の前に晩酌をしていた。
そして、ときおりビールも呑んだりしたが、殆ど純米酒の辛口を呑んでいた。

私は齢ばかり重ねているが、何かと甘い性格なので、
辛口が心身の波長にあっていた。

この当時、夕食の前に、その日に応じた弐合徳利とぐい呑みを選定した後、
お燗をしていた。
呑兵衛な私は待ちきれず、一升瓶からくい呑みに一杯だけ呑んだりしているが、
この後ろめたさが何とも美味を増すのだから、不思議であると20数年過ぎていた・・。

この時節は晩酌の友は、春菊、菜の花が多く、春の香りに満喫していた。

日中、定年後から私は自主的に買物を担当しているので、
スーパーの野菜売場で、早春の便りを改めて教えられたりし、
最後に三つ葉、春菊、菜の花を眺めたりしていた。
『菜の花』の辛し和え・
特に菜の花が新鮮で程ほどの価格であれば、迷わず購入してしまい、
帰宅後、家内に笑われてしまうことが多かった。


家内が本格的に夕食の準備を台所ではじめた頃、
私は台所の隅の小テーブルで、お燗の準備をして、家内と他愛ない話をしたりしていた。

家内は菜の花をよく水洗いし、
湯通した後、辛しと醤油で調味している時、
私は盗み酒のぐい呑みで、呑んでいる時が多かったりした。

家内が辛しの味を確かめるように、
私に少し箸で菜の花を手渡すのであるが、
『俺は何かにつけて・・甘いから・・もう少し辛し・・加えて・・』
と私は言ったりしたりしていた。

私は居間の食卓テーブルにテーブルマット、料理の受け入れ盆を並び終る頃、
家内から台所から声をかけられて、
私は菜の花の辛し和え、箸などを食卓テーブル運んだ後、
弐合徳利、ぐい呑みも食卓テーブルに置いたりしていた。

そして、私はNHKのニュースなどを視聴しながら、
菜の花を頂きながら、人肌に温めた純米酒を呑んだりしていた。
私は春の香りを口一杯に広がり、歯ごたえをかみ締めると至福のひとときを過ごしたりした。

ときには、江戸中期の俳人の与謝蕪村が詠んだ、

   菜の花や 月は東に 日は西に

と一句を思い出し、春たけなわの光景を思い浮かべたりしていた。

私は菜の花に関しては、
特に味もさることながら、胃腸にも良いと信じているので、
よく飽(あき)きないわね、と家内から笑われているが、
3月は殆ど毎晩頂いたりしていた。

残念ながら菜の花のない時は、カイワレ大根を頂くことが多く、
昨今の政治家の一部の方が心の節度を失くしたニュースなどを観て、
一寸の虫にも五分の魂、
と無力な私でさえ、次回の選挙の時は落選してほしい、
と心の中で呟(つぶや)いたりしていた頃であった。


私は定年退職した時は、身長は170センチ、体重は70キロ弱であったが、
採血、心電、尿検査、血圧測定、そして胃がん、大腸がんの検診も含めて、
至って健康のマークを頂いていた。

この後、現役時代の職責からの重圧から解放され、
現役のサラリーマン時代よりも確かに酒量は減ったりしたが、
相変わらず夕食の前に晩酌をしていたので、
やがてメタボ気味となり、市の斡旋する『メタボの研修』を6か月ばかり受講した。

この時は、うら若き保健師の女医さんの優しい指導で、
ビールでしたら350mlの缶ビールを2本までにして下さいね、
と言われりしたのである。
そして、軽い室内体操を毎日10分ばかりした。

そして『メタボの研修』以降は、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会などに限り、地酒をある程度は呑んだりしたが、
缶ビールの350mlを2本までを殆ど守ってきた。

そして私は減量してきたので悦びながら、家内に伝えたら、
『あなたの健康にも良いし・・家計費のアルコール代も減りますから・・』
と家内は私に微笑みながら、言われたりしたのである。

この後、私は相変わらず缶ビールの350mlを2本までを守り、
幾たびか旅行を重ねた時は、昼はビール、夕食の時は地酒も呑み、
日常生活は散策と買物ぐらいの運動不足、その後の猛暑でエアコンの冷風に頼ったりした・・。

そして、一昨年の2010〈平成22〉年の秋、例年通り健康診断を受診し、
3週間過ぎた頃に、健康診断の結果表が郵送配達されて、
『糖尿病で、内科に受診して下さい』
と明記されていたので、私は青ざめた・・。
そして、翌日に自宅から徒歩10分の内科の専門の病院に行った。

検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

私は定年の5年前の頃から、60代は五体満足で生かしてくれ、その後は余生である、
と公言してきたが、家内との共通趣味は国内旅行であり、
糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内は旅行先の美味しい夕食を頂いていた場合、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりしたからである。

医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。


この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら料理を作って貰い、
朝夕頂いている。
そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、煎茶を飲んだりしている。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としていた。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。


この結果、この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、昨年の2011〈平成23〉の3月の初旬であった。

そして私としては何よりも不思議と感じたのは、
冷蔵庫の中にビールがあること、
台所の片隅の収納所に日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまっていることである。
かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
今日に至っている・・。

しかしながら、『菜の花』の辛し和えなどの食べ物は、お酒の吞みながら頂くと、
風味は数段倍増するので、無念ながら、遠ざかけている。

そして幾つかの弐合徳利、ぐい呑みは殆ど使われくなり、
寂しそうになっているが、こればかりはねぇ、と苦笑している。

昨今、女優をされた後、稀な潔(きよ)き晩年を過ごされた高峰秀子さんの遺(のこ)された言葉のひとつ、
《 思い出は仕舞う場所は要らない。盗まれる心配もない 》
確かな格言です、と拙(つたな)い私でも受け止めている。


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木の芽時(このめどき)の時節を迎え、齢ばかり重ねた私は、小躍(こおど)りしながら散策し・・。

2012-03-25 11:34:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

玄関庭の門扉の近くに朱紅色した藪椿(ヤブ・ツバキ)が咲き、
清麗な純白の白梅は、満開となり2週間ばかり過ぎている。

主庭は日本水仙が咲き、白梅と紅梅は一週間前に満開となり、
この世の最上な花と思っている白玉椿(シラタマ・ツバキ)が秘っそりと咲いている。
そして紫木蓮(シモクレンと)が大きな莟〈つぼみ〉を見せている。

こうした中で、4日前、玄関庭でぼんやりと白梅の花に見惚れていた時、
花梨(カリン)の樹の枝から新芽を見つけ、
『XXちゃん、カリンの樹・・芽吹いてきたょ・・』
と私は家内に言ったりしている。

私はこの2月近く、早春の樹木、花木が気になり、野川の遊歩道を独りで散策したり、
家内を誘って、この野川の遊歩道の上流を3キロを歩いたりして、
神代植物園を6度ばかり訪れて、今年は寒気が多かった為に、
梅園も平年より数週間遅れでの情景となっていたが、心を寄せたりしてきた。


このような時を過ごしたりしたが、この時節に於いて、
私が最も関心があるのは、雑木の芽吹き時である。

モミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の季節のうつろいを観せてくれる雑木に、
圧倒的に魅了させられてきた・・。
特に芽吹き、その後の幼い葉が見られるまでの情景に、
齢を重ねる毎に私の心は深まりっている。

我が家のモミジ、花木の花梨(カリン)、無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレンと)など、
木の芽時(このめどき)の時節を迎え、
周辺の遊歩道、小公園などで歩き廻ると、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)などを観たりすると、
私の心は、小躍(こおど)りしながら長らく足を止め、見惚れたりする季節となっている。


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天然水の森、サステナビリティを学び、無力な私でも好感しながら・・。

2012-03-24 13:41:37 | 時事【社会】
今朝、私はいつものように読売新聞の朝を見ていたら、
森の奥地の木立の中、渓流が流れ清らかそうな水が流れ、川辺にある岩を苔むた情景のひとつの写真に、
私は見惚れていた・・。

そして右側の上段にには、
《 地下水の安全・安心、サステナビリティ(持続可能性)のため、
  水資源エリアの森を守るサントリー「天然水の森」に取り組んでいます。》
と見出しのようなフレーズを読んで、サントリーの広告記事と解り、20面の一面記事と解った。

そして私は中段に『サントリー天然水の森(7、300ha)』と題され、
日本列島の地図上に、各地の天然水の森の地名と広さが明示されていたので、
こんなに多く、広大な地域を管理・保全しているのか、と思ったりした。

そして記事を読みはじめ、
《・・全国の工場で使う地下水の安全・安心、そしてサステナビリティ(持続可能性)を守るため、
2003年から”サントリー「天然水の森」”という水源かん養活動を行っている・・

地下水の水源にあたる森を整備し、地下水を育む力(かん養力)を高め
”工場で使用する地下水の量”より”森が育む地下水の量”が上回るように努めている・・》

そしてこの活動の経緯として、
《・・我々が製造する飲料は、天然の地下水を頼りにつくられています。
もし、その地下水を育む森が荒廃すれば、いずれは水は枯れてしまう・・
有限な資源に頼っている企業としては、
その持続性を守るのは当たり前だろうと考え活動を始めました・・

当初の目標は全国で7、000haでしたが、
昨年の12月時点で12都府県14箇所となり7、300haを超え、
東京の山手線内の面積強・・》

この後に具体的に活動の経路として、
《・・まず水文調査によって工場の地下水がどのように流れてきているのかを調べ、
水源かん養地域を指定し、
その上で国や周辺の自治体、土地所有者なとのご協力を得て、
「天然水の森」を設定します。

整備を行う際は、森の植林調査をはじめ、地質や土壌などの様々な分野の専門家とともに調査・・
それによって50年後、100年後の森の姿を想定し、専門家と一緒に警備計画を作っていく・・》
このような要旨が明記そされていた。


私がこのようなことを執拗に転記してきたのは、
ここ10数年、ときおり森の荒廃の状況を観たり、
或いは新聞の記事などで、この原因などを学んできた。

その上に、ここ5年ぐらいに、中国の民間業者の一部の方たちが、
日本の各地の土地を買い求め、主たる要因は水資源の確保、と学んだりしてきた。

そして世界の人口が増加する中で、水資源競争が食糧、地下資源の石油、ガスなどと同様に、
各国の熾烈な競争下の到来、と報じられている。

もとより人が生きていく為には、古来の日本の縄文時代からも、
川のある水辺の周辺に人は住み、飲み水などの確保にあたって生活をしてきた。
そして都市部には、古きローマ帝国の初めての頃でも、上水道を敷かれ、
都市住民の人たちを生活の基盤として潤(うるお)おしてきた。

このように人は、何よりも水、そして食べ物が欠くことができないことであり、
ここ数十年、何かと国、自治体、土地所有者なとが、
水資源の根源の森林の整備まで出来ていない処が多い中、
今回の企業のひとつのサントリー・グループが、水資源の森林の整備まで永続的に行っている実態に、
無力な私は、安堵させられながら、微笑んだりしたのである。

尚、私はサントリー・グループには一切無縁な年金生活の身であり、良きことに賞賛する習性から、
あえてこの投稿文を認(したた)めたことを付記する。

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楽譜も読めなく楽器もさわれない私でも、ときにはクラシックの珠玉曲を聴き・・。

2012-03-23 13:46:41 | 定年後の思い
過ぎし一週間前16日、私は駅前の本屋に寄って、何かしら魅了される本はないかしら、
と単行本のコーナー、新書本のコーナー、そして文庫本のコーナーを見たりしていた。

そして探し求めている中、店内からクライスラーの『愛の喜び』、メンデルスゾーンの『歌の翼に』、
シューベルトの『アヴェ・マリア』などが流れて、
私は思わず微笑みながら、やはり本屋にはクラシックの珠玉曲が相応(ふさわ)しいよねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

2004(平成16)年の秋に中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職となり、
その後は年金生活をしている67歳の身である。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

音楽を聴くと明記したが、恥ずかしながら、
楽譜も読めなく、楽器もさわれない拙(つたな)い男であるので、
ゆむなく感性を頼りに聴いているのである。


このようなに日常生活を過ごしたりしているが、
定年退職後、多く聴いた曲は、と先程ぼんやりと振り返ったのである。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を5分間ばかり思い浮かべと、やはりねぇ、と微苦笑したのである・・。

イギリスの作曲家のひとりでエルガーが『朝のあいさつ』と題した名曲を遺(の)こされているが、
この曲を特にサラリーマンを卒業した定年退職後の生活で最も多かった。

私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

この曲を聴くと、イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、
朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、
この曲を聴く時が多いのである。


そして、恥ずかしいことを告白すれば、
たまたま私は音楽業界のあるレコード会社の情報畑、管理畑などに35年近く勤めた身であったが、
現役時代は無知で、定年後にブログの世界を学び、
たまたま私が加入したサイトで、お互いにコメントを寄せあったりした
30歳前後の女性から教示された珠玉曲がある。
アルビノーニの『アダージョ』である。

私り現役のサラリーマン時代に於いては、クラシックに関し、
モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、ベートーヴェンのピアノソナタの『悲愴』、『月光』、『熱情』、
そしてショパンの『12の練習曲 作品10、作品25』が圧倒的に魅了されて、
何百回を聴いたりしていた。

定年後はアルビノーニの『アダージョ』が加わっている。
私はこの曲を聴くたびに、
まぎれない美に触れ、作曲家の想いに深く立ち入れる時もある。

そして私のその時の心に動きにより、美はするりと逃げ去られたり、
ただの儚(はかな)さしか享受出来ないこともある。

この曲は確かな美の結晶であるが、
私のその時の心境により移ろう不思議な力が存在する。

美はこのように魔力を秘めている。

このようにアルビノーニの『アダージョ』に魅了され、
私は何百回も愛聴し、私が死去した時のセレモニーの時は、
この曲も加えてほしい、と家内に言ったりしている。


このように私は深く信愛し、6年が過ぎた・・。
そして、音楽の基礎知識に乏しい私は、昨年の2011〈平成23〉年の初めに、
フリー百科事典として名高い【ウィキペディア】の解説をこっそりと読んで、
動顚させられたのである・・。

《・・
   アルビノーニのアダージョ  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アダージョ ト短調は、レモ・ジャゾットが作曲し、1958年に初めて出版した作品で、
弦楽合奏とオルガンのための楽曲。
弦楽合奏のみでも演奏される。

この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、
その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、
旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。

作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。
しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。

雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から広まり、
クラシック音楽の入門としてだけでなく、
ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりした。

日本や欧米で葬儀のとき最も使われている曲の一つである。
(略)
・・》

このように解説されて、私のクラシックの無知をさらけだし、
その上、《日本や欧米で葬儀のとき最も使われている曲の一つである。》と明記されて、
知らなかったょ、と私は赤面したりしている。

このような体験をしてきた私は、遥か過ぎし日々、独身の20代後半の1970代の前半期に、
ある音楽専門大学のピアノ科を卒業された女性と交遊していたことが思いだされてしまう。
この女性のお宅に行ったりして、この方の母親には私は可愛いがれたりした・・。

そして私の生家に来て貰ったりし、やがて私は求愛したりしたが、
私の魅力が乏しい為か、結婚することが出来なかった苦い経験があった。


昨今、齢ばかり重ね音楽に素養のない私は、やむなく感性を頼りに、
ときおり日常生活でクラシックの珠玉曲を聴いたりしている。


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読書好きな私、定年後の今でも、何よりも困窮する時は読みたい本が手元になく・・。

2012-03-22 16:19:19 | 定年後の思い
今朝、私はいつものように読売新聞を見ていたら、
2面の下段に出版社の広告が掲載されていて、この中のひとつに、
《・・ 新潮新書 3月の新刊
      自由、常識、教養、運命・・
        「本当の答え」が、ここにある。
    曽野綾子 『人間の基本』        ・・》
このように掲載されていたのを読み、
本屋で見逃していたよ、と心の中で呟(つぶや)たりした。

そして私は、昨夜のひととき家内と本日の22日に神代植物園に行く約束をしていたので、
『XXちゃんさぁ・・今日・・神代植物園に行くのをやめて・・
駅前に買い物に行くことに、変更しない?』
と私は家内に言ったりした。

結果として私の突然の願いに、家内に妥協してもらい、
自宅の近くの野川の遊歩道を20分ばかり私たちは歩き、
私は本屋に寄り、家内はスーパーで買い物をしたりした。

私は即急に曽野綾子・著作の『人間の基本』(新潮新書)を確保した後、
曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)、
阿川弘之・著作の『言葉と礼節 ~阿川弘之座談集~』(文春文庫)を見かけて、
買い求めたりした。

そして読みたい本がたまたま3冊となったが、こうして買い求めて、読書に専念できる今、
小躍(こおど)りしたくなる心思いとなったりした・・。


私は民間会社を35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
年金生活を始めて8年生になる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、各氏の作品に深く魅了され、
この著作された人たちを主軸に精読している。

このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
明治時代からの各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。

昨今は丸66年の歳月が過ぎ、67歳の今、過ぎ去った人生を思い重ねて、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、各氏の作品を購読して、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


このような読書好きな私が、何よりも困窮するのは、
旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。

日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。

私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内にこぼしたりしていた。
そして帰路の箱根湯本の本屋で寄り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。


読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四(ひらいわ・がいし)氏は、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、もとより経団連などに縁遠かった私でも、
思わず平岩外四氏に好感させられてしまうから不思議な作用がある。

もとより読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、
活字に親しむ方に何かと親近感を覚えてしまう。

このような私なので、心の友のひとりとして、この世に別れを告げるまで、
限りなく本を読んでいたと思っている。


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高峰秀子さんに関する数々の本、つたない私でも買い求めて、ときには涙を浮かべ・・。

2012-03-21 15:41:34 | 読書、小説・随筆
一週間前、駅前に買い物に行った時、本屋に立ち寄った。
これといった買い求める本が決まったわけでないので、単行本のコーナーを見たりした・・。
私は定年退職後も相変わらず読書が好きで、特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、
曽野綾子の各氏の作品を中核に、単行本、新書本、文庫本を購読している。

しかしながら、この各氏の店頭に並んでいる本も読んできたので、
何かしら魅了される本はないかしら、探したりしていた。
まもなく作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子との仕事 1 ~初めての原稿依頼』(新潮社)、
『高峰秀子との仕事 2 ~忘れなれないインタビュー』(新潮社)を見かけて、
買い求めたりした。

私は確か8年前頃に、作家・斎藤明美さんの著作『高峰秀子の捨てられない荷物』(文春文庫)を読み、
感銘したりし、その後は松山善三、高峰秀子ご夫妻の養女になられたと知り、
今回の本もまぎれなく最適任者と感じ、購入したのであった。

ここ一週間は読書中の本があったので、本日の9時過ぎから、
『高峰秀子との仕事 1 ~初めての原稿依頼』を読みはじめた・・。

居間のソファーに座ったりして、作家・斎藤明美さんに導かれて亡き高峰秀子さんの心情に思い馳せたり、
庭に下り立ち、満開となっている白梅を眺めたりしていた。


私は高峰秀子さんが綴られた随筆は、
一昨年の2010〈平成22〉の年末に高峰秀子さんの死去が公表される前に、
大半は読んだりしてきたが、
昨年の12月初旬に、松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を購読した。
そして同時に、久々に『芸術新潮』の12月号を買い求めた。
特集記事に《没後一周年特集》として、
《高峰秀子の旅と本棚》と題された記事を私は精読した。

この特集記事のひとつに、作家・斎藤明美さんが、
『まさに”食う”ように』と題された寄稿文があり、私は圧倒的に感銘を受けた寄稿文であった。

最終章の部分には、
高峰秀子さんは、ひたすら読書を重ねる根源は、
劣等感を克服するために、たえず本から学び、生きることだった、
とこのような意味合いの綴りを作家・斎藤明美さんが記載され、
私は読みながら、涙を浮かべた・・。

その後は、1月下旬に高峰秀子・松山善三・斎藤明美、共著による『高峰秀子 暮らしの流儀』(新潮社)を
購読したりしてきた。


私は高峰秀子さんに関しては、知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりであり、
たった一度だけ偶然にお逢いできたことがあった。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画の脚本家になりたくて、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの戦前の昭和20年までの名作を観ることが出来た。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていた。


このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、
私は成城学園の近くの砧にある東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に言った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画青年の真似事、その後に文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じ、35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その直後から年金生活を始めた身である。

この間、サラリーマンの現役時代のいつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
高峰秀子さんの随筆の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。


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『春分の日』、お墓参りの後、帰宅すれば白梅の満開の清麗な情景を迎えて・・。

2012-03-20 15:37:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

毎年この日の『春分の日』は、私たち夫婦は私の実家である長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っている。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
生を受け、両親、祖父母、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きているので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、『春分の日』、『お盆の日』、この日の『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。


今朝いつものように朝の9時半過ぎに、私の実家の長兄宅に行くと、
親戚の77歳の叔父さんが来宅されていて、
長兄と義姉と叔父さんをまじえて私たち夫婦の5人で談笑したりした。
その後、亡き父の妹の叔母も来宅して、お互いに談笑したりした。

そして30分過ぎた頃、叔父さん、叔母さんが帰宅された後、
長兄は73歳、義姉は65歳の迎え老夫婦となり、私も68歳、家内は63歳を迎え、
お互いに無理しないで過ごしましょう、と語り合ったりした。

そして30分ばかり談笑を重ねた後、まもなく私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』から徒歩数分にあるお寺まで、
お互いに運動不足もあるので、20分ばかり徒歩の道を往復しょう、と歩きだした。

寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。

お墓の墓石を水で清め、途中で買い求めた生前の母が好きだったお花を4束のお花を奉(ささげ)、
お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が立ち昇る中、
祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。

こうした思いを重ねたりすると、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる・・。

そして穏やかな陽射しの中、お線香の煙が芳香を残して、
青き空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。

この後、境内の片隅に白梅は満開となっていたのに気付き、
しばらく見惚れたりした。
平年ならば、3週間前の情景であったが、
今年は寒さで大幅に開花も遅れ、遅れてご免なさい、というように盛大に咲いていた。

我が家に帰宅すれば、主庭の白梅も満開となり、昼下がりの陽射しの中で、
沈香の香りを漂(ただよ)わせながら咲いていた。

私は清麗な花を見たりし、長兄夫婦、私たち夫婦は、
いずれはこの世を去るが、それまでは談笑を重ねられる歳月は・・、
とぼんやりと思ったりした・・。


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年金支給額が減額と知り、昭和妻の時代に思いを馳せて、微苦笑を重ねて・・。

2012-03-19 17:19:11 | 時事【社会】
今朝、いつものように家内は、居間でテレビのNHKの連続ドラマの『カーネーション』を視聴した後、
読売新聞の朝刊を読んでいた。
私は居間で、国際政治学者として名高い村田 晃嗣(むらた・ こうじ)氏の著作『レーガン』(中公新書)を昨夜に読み終えたので、
ぼんやりとレーガン元アメリカ大統領の生涯(1911年~2004年)、
そして大統領の任期の1981(昭和56)年1月~1989〈昭和64〉年1月の時代を思い馳せたりしていた。

『あらぁ・・嫌だわ・・年金4月から減額になるわ・・』
と家内は呟くように私に言った。

『デフレの時代が長く続いているのだから・・やむえないょ・・
それより現役の方たちの方が何かと大変だょ・・』
と私は苦笑しながら家内に応(こた)えたりした。


この後、私は買い物を終えた昼過ぎに、見逃した読売新聞を見たりした。

19面にある【社会保障】面にあるひとつの記事に於いて、
『年金のきほん』の連載の第9回として、
《  4月からの減額は
           標準世帯で月708円 》
と見出しされていたで、家内はこの記事を読んで、私に言ったのか知った。

そして私は読みながら、微苦笑したりした・・。

《・・
2012年度は、4月と10月の2回、年金額の改定が行われる予定です。
ただし、10月分については法案が未成立で、確定ではありません。

まず、4月の改定・・
基礎年金、厚生年金とも今年度と比べて0.3%減額されます。
2011年に物価が下がったため、その下落率に応じて年金額を引き下がるのです。

この結果、基礎年金(40年加入)は今年度の月額6万5741円が
200円減額の6万5541円に。

サラリーマンだった夫と専業主婦の妻という標準的な厚生年金世帯では、
夫婦2人分の厚生年金の合計が今年度は月額23万1648円でしたが、
23万940円と708円減になります。

4、5月分の年金は6月に支給されます。
実際にに支給額が変わるのはそれからです。
(略)

一方、10月の改定は、物価スライドとは別の特例的なもので、0.9%減額の予定です。

今の年金額は、過去の物価下落時に受給者の反発を恐れて引き下げなかったため、
本来より2.5%分高くなっています。
この分は、物価が上がっても年金額を据え置くことで解消するはずでした。
しかし、物価が下落傾向が続いて見込みがはずれ、年金財政を悪化させています。
このため、12年度から3年間かけて解消することになったのです。

この結果、基礎年金はさらに600円程度、
標準的な厚生年金受給世帯の受給額では、2000円強の減額になります。
4月の分と合わせると11年度より1.2%減額です。

10月の減額は、年金額を本来の水準に戻すためのものですが、
受給者にとっては実質値の目減るりになります。
・・》
このように、読売新聞の林 真奈美・記者は、優しく綴られていたのである。

そして私は、月平均2000円減るのかょ、と微苦笑したりした。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活をしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、中小業の民間会社のサラリーマンの身であったが、
もとより生計の責務もあり奮闘する中、30代の半(なか)ばに一軒家を建て、
この後3年ばかり家内はデパートなどに勤めて、強力な支援を受けたが、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として長らく努めてきた。

私たち夫婦の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、本年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
そして毎月、家計簿のような形の表を5表ばかり作成して、
予算と実績を互いに確認し合って、今月も赤字ねぇ、と私たち夫婦は苦笑している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


今回の年金の減額を改めて知ったりすると、私は微苦笑を重ねてしまうのである。
年金を含めた社会保障制度の医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えている。

もとより私より10歳以上齢上の人たちは、
敗戦後の荒廃した日本を、少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代と称される世代も奮闘し、
確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

その上、経済は低迷している現在さえも、殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
長寿化の時代を迎えている。


昨今、政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化の今日、
社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と報じられている。

こうした中で、多くの高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉の多くは、高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
私のように定年退職し年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない、
危険な政治状況と憂いているひとりである。

何よりも働いて下さる現役世代の諸兄諸姉は、何かと過重負担となっている。

私たちが過ごしてきた1990年にベルリンの壁が崩壊する前は、
真摯な働けば多くの日本人が、総中流家庭が実感でき、明日に希望を託すことのできる時代で、
主人は収入の責務の基で奮闘して働き、
多くの主婦は子供の育成も含めた家庭の多岐に及ぶ後方支援として専業主婦が多かった。
そして昭和妻と称せられた家庭内の専守防衛長官でもあった。

1990年にベルリンの壁が崩壊された後は、
かってソ連、東ヨーロッバの諸国も自由経済に変貌し、世界経済が激動し、
日本経済も余儀なくされてきた時代となった。

昨今の日本の家庭では、もとより昭和妻のような専業主婦は殆どなく、
短期に成果を求められる現役世代の諸兄諸姉の職責など、
私なりに少し学ぶと、過酷な時代、と感じたりしている。

こうした中で、長らくデフレを放置してきた財務省、日銀など責任、
そして企業は世界の自由経済の荒波に対処するために、短絡的に多くの社員をリストラしたり、
契約社員、アルバイトのような形態の増大を図ってきた。

この結果、殆どの男性サラリーマンの社員は、果敢に奮戦しても、
私たち世代の前後の人々の多くが体験できた年代に応じて年収が増大する時代は、
遥かに遠のき、家庭内で妻を専業主婦となることは、
夢物語のひとつとなり、社会に多大に影響しているのが、平成の時代となっている。

ときおり、このようなことを私は憂いているが、
無力な私は溜息ばかりしている時もある。

このような思いがある私は、年金がわずか2000円減額されると知っても、
この大きな問題の前では、微苦笑ができるのである。


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作家・嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏より、料理の作る楽しさ、改めて教示され・・。

2012-03-18 13:05:44 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
13面の【文化】欄に日曜日の特集記事のひとつとして、『本のソムリエ』を思わず読んでしまった。

この『本のソムリエ』の主旨は、《汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)で博覧強記な回答者陣が
韋編三絶(いへんさんぜつ)のうえ、森羅万象の悩みを快刀乱麻かつ誠心誠意、全身全霊で質疑に応答します。》
と格調高く掲げられた質疑回答となっている。

今回はふたつの質疑があったが、《料理作る楽しさ教えて》と見出しされた質疑に関し、
汗牛充棟で博覧強記な回答者としては、誰かしら、と私は少し思い浮かべた。

そして回答者は、作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)と明記されていたので、
やはり現世の作家の中から、料理に関しては、この方が圧倒的に突出している第一人者であり、
数多くの本も上梓され、私も多々教示を受けたりしてきたので、最適任者と確信したりした。


嵐山光三郎氏は、1965(昭和41)年に國學院大學文学部国文科卒業され、専攻は中世文学であり、
在学中の講師として丸谷才一、安東次男らに学んだひとりである。

この直後、平凡社に入社されて、編集者として奮闘されながら、
やがて『別冊太陽』と『太陽』のそれぞれ編集長に抜擢された後、
この後は、散漫経営のため平凡社が経営危機となった1981(昭和56)年に退社され、
出販社を設立されたりする中で、編集者、作家としてもご活躍された。

この後は、 1987(昭和62)年に『素人庖丁記』で翌年に第4回講談社エッセイ受賞、
その後も俳諧の分野も含めて、多彩に本を上梓されている。

私は氏の数多くの本を読んできたが、料理に関しては、
『 文人悪食』(新潮文庫),『 文人暴食』(新潮文庫)の2冊だけでも読めば、
それぞれの料理の時代の変貌してきた味を検証して食べ歩き、
その時代に活躍された作家たちが、どのような料理を好まれたか、
明晰に作家の作品を根底に描いた力作である。


こうした稀な方の嵐山光三郎氏が、今回の質疑にどのように回答するか、
私は興味して、読んだりした・・。

壇 一雄・著作の『壇流クッキング』(中公文庫)に於いては、
《・・
放浪作家がつくる料理は豪快で楽しく、本から、おいしい匂いがたちのぼってくる。

いまの季節ならタケノコの竹林焼き。
(略)
壇さんにこれを作ってもらって九州の山で食べたときは、
醤油のこげた匂いで腰までふるえました。》

私はこの本は未読であるが、生前の壇 一雄(だん・かずお)氏のご自宅に於いて、
台所の近くの大きな食卓で、亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏が招待されて、
奥様の手料理を味わいながら、お互いに料理好きな両氏が談笑する写真を思い重ねたりした。

この後は、水上 勉・著作の『土を喰(くら)う日々』(新潮文庫)を採りあげられいた。
《・・
軽井沢の畑でとれた野菜を自ら料理したもので写真入り。
1月から12月の章までの「わが精進12カ月」である。
水上さんは少年のころ、京都の禅寺で精進料理の作り方を教えられた。

3月はリンゴセロリサラダ。
(略)
このサラダを水上さんに食べさせてもらったときは、下にレタスが敷いてあった。
シャキっとして歯ごたえで、すずやかな禅味がある。》

私はこの本を幾たびか精読している。
私の幼年期は農家の児として育ったので、殆どこの本に書かれている素材は知っているが、
無念ながら料理に素養のない私は、ときおり家内に作ってもらっている。

たとえば、蕗(ふき)の薹(とう)もひとつである。

私の幼年期は、祖父と父が中心となって小作人だった人のご厚意を借りて、
田畑を耕していて農業を営んでいた・・。
2月頃に宅地の外れに蕗の薹を見かけたりしていたが、
取り残した蕗の薹が日増しに大きくなり、4月の頃になると蕗の成長を驚いたりしていた。

祖父、父たちは、蕗の薹などで晩酌をしたりしていたが、
蕗になった料理り数々は、幼児の私には苦手な食べ物のひとつであった。

私は40代の頃は、中小業の民間会社で情報部門に勤務していたので、
4月からの新管理体制など対応で開発・運営などに、
ほぼ毎年早春の頃から多忙な身となっていた。

日曜日に休めればよい期間が多く、睡眠不足もさることながら、
果たして上層部の要請に答えられるか、と必死に面持ちで過ごし奮闘していた。

節分を過ぎた頃の日曜日、
昼前に庭に下り立ち、蕗の薹がわずか地上から、
こんにちは、といった表情で小指の先程度の大きさで、10数個見つけたりした・・。

私は蕗の薹になる前の莟(つぼみ)のような蕗を採り、家内に手渡した。

昼食の前、私は弐合徳利をお燗している時に、
家内に味噌味などで蕗の薹の幼期を簡素に調理して貰い、
私は早春の陽射しの射しこんでる庭を眺めたり、
家内と他愛のない話をしたりして、純米酒を呑んだりしていた。

ほろ苦い蕗味噌を口に含むと、香り、風味はまぎれもなく早春の息吹きを感じながら、
と味わっていたのであった。

昼食後、少し酔った睡眠不足の私は、2時間ばかり昼寝をしたりしていた。

私は定年退職後の年金生活をしている今、
散策をしたりして、ときおり蕗の薹を見かけたりすると、
芭蕉を敬愛し、じきじきに弟子入りに懇願したひとりの俳人の名句が思い出したしている。

思ひ出し 思ひ出し蕗の にがみかな
                  詠み人・路通

私は江戸時代の前期に残された名句を呟(つぶや)き、微苦笑をしたりしている。

このような蕗に関しては、ささやかな思いを秘めたりしている。


今回の嵐山光三郎氏の結びの文として、
《・・
壇さんも水上さんも本業は小説家で、料理は余技である。
だから読んでいておいしい。
作る途中が楽しい。
自分だけでなく、だれかに作ってあげる、という気持ちがぜい沢なのです。》

このような名文を読みながら、ただ恐れ入りました、
と私は未知の嵐山光三郎氏の本に掲載されていた写真の顔立ちを眩しげに見たりしている。


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