私は私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり、
民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。
そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたり、或いは川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、
ときには小学校、中学校の時代に通学した旧街道を歩いたりしながら、
季節のうつろいを享受している。
こうした時は、周囲の情景を視(みた)りして、時節のうつろう情況に、
圧倒的に魅せられて、歩き廻ったりしている。
このような時、ときには苦楽の激しかった現役時代を思いだしたり、
これからの予定に思いを馳せたりしているのが大半であるが、
ときには思わずかぼそい声で唄ってしまう歌もあり、又は心の中で唄うこともある。

年金生活の今、過ぎし夏の季節に於いて、私が唄ったり、或いは心の中で唄ってしまった曲は、
と先程ぼんやりと思い馳せたりした。
私は幼年期から人前で唄うことは苦手で、現役時代のサラリーマンの時は、
カラオケなどに誘われた時は、やむなく付き合い程度に唄ったりした。
もとより歌手の徳永英明さんのように透明感あるシルキー・ヴォイスで、
圧倒的な歌唱力の声量で唄えるには程遠い上、楽譜も読めなく、楽器も弾けない私なので、
せめて心を込めて、唄う程度である。
私は夏の季節の歌で即時に浮かべるのは、
『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年
『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年
『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年
『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年
『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年
このような名曲を思い馳せたりしている。

この中のひとつとして、帰省のニュースがテレビなどで報じられると、
『少年時代』の歌に思いを重ねてしまう。
もとより『少年時代』の歌は、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた名曲である。
私はこの歌を最初に聴いた時は、私は下記のような情景を思い重ねたりした・・。
若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。
この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。
私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
こうした中で、数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。
私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむなく業界から去っていたりした苦い時代でもあった。
こうした思いのある私は、散策して人影のない遊歩道なとで、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。

昨日、散策した時、思わず、♪海の青さに 空の青・・と唄ったりした。
http://www.youtube.com/watch?v=rUCFh4kFoBE
☆【YouTube】『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男、唄・前里 秀美 】
この歌は、私たち夫婦が初めて沖縄に旅をした時、私は50代であったが、
最も魅了され、ときには涙を浮かべる時もある歌である。
私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。
日本が戦争で敗退する中で、本土の各地は空襲などがある中で、
国土の地上戦は沖縄地域だけ行われ、こうした中で中学・高校の生徒は軍人の後方支援、
そして住民の老幼まで戦禍の中、避難される最も過酷な状況だった、と学んできた私は、

☆私が秘かに『美ら海桔梗』と名付けたベンガル・ヤハズ・カズラの花☆
『芭蕉布』の歌は、幾世代かの歳月を得て初めて浄化できる鎮魂曲のように思え、
そしてこの地方の特有の風土と共に『芭蕉布』の歌を重ねてしまうのである。
このような思いを秘めた私、『少年時代』そして『芭蕉布』を夏の時は、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしていることもある。
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民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。
そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたり、或いは川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、
ときには小学校、中学校の時代に通学した旧街道を歩いたりしながら、
季節のうつろいを享受している。
こうした時は、周囲の情景を視(みた)りして、時節のうつろう情況に、
圧倒的に魅せられて、歩き廻ったりしている。
このような時、ときには苦楽の激しかった現役時代を思いだしたり、
これからの予定に思いを馳せたりしているのが大半であるが、
ときには思わずかぼそい声で唄ってしまう歌もあり、又は心の中で唄うこともある。

年金生活の今、過ぎし夏の季節に於いて、私が唄ったり、或いは心の中で唄ってしまった曲は、
と先程ぼんやりと思い馳せたりした。
私は幼年期から人前で唄うことは苦手で、現役時代のサラリーマンの時は、
カラオケなどに誘われた時は、やむなく付き合い程度に唄ったりした。
もとより歌手の徳永英明さんのように透明感あるシルキー・ヴォイスで、
圧倒的な歌唱力の声量で唄えるには程遠い上、楽譜も読めなく、楽器も弾けない私なので、
せめて心を込めて、唄う程度である。
私は夏の季節の歌で即時に浮かべるのは、
『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年
『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年
『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年
『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年
『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年
このような名曲を思い馳せたりしている。

この中のひとつとして、帰省のニュースがテレビなどで報じられると、
『少年時代』の歌に思いを重ねてしまう。
もとより『少年時代』の歌は、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた名曲である。
私はこの歌を最初に聴いた時は、私は下記のような情景を思い重ねたりした・・。
若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。
この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。
私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
こうした中で、数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。
私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむなく業界から去っていたりした苦い時代でもあった。
こうした思いのある私は、散策して人影のない遊歩道なとで、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。

昨日、散策した時、思わず、♪海の青さに 空の青・・と唄ったりした。
http://www.youtube.com/watch?v=rUCFh4kFoBE
☆【YouTube】『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男、唄・前里 秀美 】
この歌は、私たち夫婦が初めて沖縄に旅をした時、私は50代であったが、
最も魅了され、ときには涙を浮かべる時もある歌である。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。
しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。
日本が戦争で敗退する中で、本土の各地は空襲などがある中で、
国土の地上戦は沖縄地域だけ行われ、こうした中で中学・高校の生徒は軍人の後方支援、
そして住民の老幼まで戦禍の中、避難される最も過酷な状況だった、と学んできた私は、

☆私が秘かに『美ら海桔梗』と名付けたベンガル・ヤハズ・カズラの花☆
『芭蕉布』の歌は、幾世代かの歳月を得て初めて浄化できる鎮魂曲のように思え、
そしてこの地方の特有の風土と共に『芭蕉布』の歌を重ねてしまうのである。
このような思いを秘めた私、『少年時代』そして『芭蕉布』を夏の時は、
かぼそい声で唄ったり、ときには心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしていることもある。
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