夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金の概要、改めて現在と将来を私は学び、やむなく開き直って苦笑させられて・・。

2017-01-31 16:29:32 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
昼下がり、ときおり愛読しているネットの【デイリー新潮】を見たりしていた中で、
【 年金支給「70歳から」に? ターゲットは団塊ジュニア世代 】と題された記事を見た。

私はどのようなことですか、と思いながら、記事を読んでしまった。

この記事の原文は、『週刊新潮』の2017年1月19日号の記事のひとつであり、
【デイリー新潮】に1月24日に配信され、無断であるが記事を編集して転載させて頂く。

《・・
☆起因

1月5日に日本老年学会が行った会見にて、「高齢者は75歳から」とする提言がなされた。

ワーキンググループにて座長を務めた大内尉義・東大名誉教授(老年医学)は、
「提言はあくまで医学の立場からのもので、財政的な問題は全く念頭にない」と断るが、
年金の支給年齢引き上げを促す材料に用いられると懸念する声も上がる。
             

☆現在の問題

社会保険労務士の北村庄吾氏は、 「現在の年金制度は世代間扶養方式。
現役の保険料で引退した人の年金を作っていて、それで足りずに国が不足分を捻出しているわけです。

1960年当時は11人で1人を支えていたのが、今は2・5人で1人、
2050年には1・3人で1人になっていくのだから、システムがもつはずがない。

どこかで抜本的な制度見直しをしないといけないのですが、
それに手をつけると政権維持が難しくなるから、
現状は株価対策をしつつGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用益で凌いでいるのです」

今年から65歳以上にも雇用保険が適用されることになり、
また確定拠出年金(DC)への加入も、個人型の対象が公務員や主婦などに拡大。
企業型も中小企業向けに簡易制度が創設された。

「年金制度自体は、すでに風前の灯で、だからこそ政府は確定拠出年金(DC)を拡充した。
年金も自分で作っていかねばならない時代に突入してしまったということです」(同)
             

☆将来の問題

経済アナリストの森永卓郎氏は、
「昨年、世界保健機関(WHO)が発表した2015年の日本の健康寿命は75歳ですから、
支給開始をそこまで引き上げるのは、さすがに無理でしょう」

としながらも、

「厚労省は、実は70歳に引き上げようとしています。

彼らが少なくとも5年ごとに年金財政の現況と見通しを公表する『財政検証』のうち、
2014年6月のレポートでは8つのケースが紹介されており、
うち5つは65歳から69歳までの労働力率が66・7%に設定されていました。

これは10人に7人が70歳まで働かないと厚生年金の所得代替率、
つまり現役世代の手取り収入の何%を受け取れるかという数字が50%を保てない、との検証結果を意味しています。

2030年度以降も、厚労省は3年に1歳ずつ引き上げて70歳に近づけようとしており、
このペースでいくと、2045年度には支給開始年齢が完全に70歳となります」

そのターゲットは“団塊ジュニア”だと指摘するのは、特定社会保険労務士の稲毛由佳氏である。

「彼らは就職氷河期を経験し、貧困が顕在化しています。
非正規雇用のために厚生年金が積み上がっていない率が高く、また親世代の年金を頼りにするパラサイトも多い。
現行のまま団塊ジュニアが受給年齢を迎えれば、支給額が20%近く減るのは必至で、
それを避けるには支給開始年齢を引き上げるしかないのです」
             

そんな日常と、いかに折り合えばよいというのか。先の森永氏が言う。

「支給年齢が70歳まで引き上げられても、世間は70歳定年制とはなりません。
今でも65歳定年制を導入しているのは、ごく一部の大企業や優良企業、公務員のみです。

現実には継続雇用の場合、60歳で定年を迎えてパートタイマーとして週3日とか、
フルタイムでなく数時間とか、勤務を短縮する形で、それまでの給料の半分、あるいは3分の1程度を貰う。
そんなスタイルが大多数を占めることになるでしょう」

つまりは、働きながら年金程度の額しか手にできない暮らしが、10年ほど続くというわけだ。

対処として、
「収入が3分の1になるかも知れないのだから、まずは生活コストを下げることです。
昭和35年の実質賃金は現在の5分の1でしたが、何とかやっていけました。

ローンを抱えていない夫婦なら、月に10万円あれば食べていける。
『高齢者層』に入る前に、こうした術を身につけておくべきです」(同)・・》
             

私は昨年の2016年10月下旬、マネーコンサルタント、経済の専門家と知られる神樹兵輔(かみき・へいすけ)さんが、
【『縮小ニッポン国』のサバイバル突破思考!】と連載記事を寄稿されている記事を読んだりした。

特に思案させられた代表的なことは、現行の厚生年金平均受給額は夫婦で19万円であるが、
約10年後の2025年には、団塊世代(敗戦直後の1947~49年生まれ、約700万人)の全員が、
すべて75歳以上の後期高齢者となり、そして65歳以上高齢者の人口比率が、現在の27%から30%へ増加し
社会保障費の総額は、膨張する。

こうした中で、年金制度は莫大な負担に耐えきれず、やがて現行の年金平均水準は、やむなく5割以下の給付水準に
ならざるを得ない状況になる。

私は年金で年金生活の基盤とし、不足分はやむなく程ほどの貯金を下ろして、
生活しているので、肝要な基盤が崩れて、生活が困窮すると震撼させられたりした・・。
                         

私は約10年後の2025年には、社会保障費の総額は、膨張するのは理解できるが、
それまで期間は、年金でも見直しされるたびに数パーセント減額されると思い、
健康保険は私は二割負担であるが、少なくとも私が75歳以上の後期高齢者となった時でも、
現行制度の一割負担は夢と化して、よくても二割負担と思案したりしている。

そして2025年を過ぎた後は、やがて社会保障費の総額は膨張し、
政府はやむなく社会保障制度の破綻を避けるために、年金は現行水準より半減することは、
私にとっては悪夢である。

私は何かと甘ちゃんの為か、2025年を過ぎた頃は、
年金は現行水準よりは最悪の場合は、20%ぐらい削減されると覚悟もあったりしたが、
まさか50%前後削減は勘弁してほしい、と思ったりしている。

こうした事態は少子高齢化社会の中、社会保障費は膨張し、
裕福な人を除き、殆ど人が先暗い社会となると思われ、私は震撼させられたりした。

或いは現役若者世代こそが、私たち世代より遥かに社会保障制度維持に負担があり、
今よりひどい老後地獄が襲来する、と教示されて、動顛させられたりした。
            
この2025年になった時は、この世に神様か仏様の采配か判らないが、
生かされていれば私は81歳であり、家内は76歳となり、後期高齢者夫婦となる。

そして体力も衰えて、年金支給は半減とされた中、かっては人生は気合だ、と自身を叱咤激励した私は、
ヨボヨボとしながら、果たしてどのような形で生活をしていくか、即答できず、思案ばかり重ねている・・。
             

このように学んできた私は、今回、改めて年金の概要、現在と将来を学び、
年金に関しては暗いニュースばかりで、明るい記事はないの?、と私は開き直って苦笑したりしている。

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葬儀代で相続税を軽減できる、遅ればせながら具体的に私は学び、やがて墓地、葬儀、相続を思い重ねて・・。

2017-01-30 15:04:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活13年生の身であり、
昼食後、机の脇机に新聞、雑誌などを切り抜いた記事用に整理箱を置いているが、
たまたま不必要な記事を捨てようとして、整理をした。

こうした中で、【 葬儀代で相続税を軽減できる! 】と大きく見出しされた記事があり、
私は葬儀の喪主の体験もなく、友人や知人から葬儀代は相続税から差し引かれる、と聞いたりしているが、
具体的には無知であったので、切り抜いて、いつ日にか学ぼうと保存していた・・。

この記事は読売新聞で、確か昨年の2016年12月中旬に、
お金や制度の面から、老後の安心を実現するための情報発信をしているファイナンシャルプランナーの黒田尚子(くろだ・なおこ)さんが、
連載している記事のひとつであり、無断であるが、読売新聞45年ばかり購読しているよしみに甘えて、記事を転記させて頂く。
             

《・・日本消費者協会の第10回「葬儀についてのアンケート調査」報告書によると、
葬儀費用の全国平均は約189万円です。

これには、通夜からの飲食接待費(33.9万円)、寺院への費用(お経、戒名、お布施)(44.6万円)、
葬儀一式費用(122.2万円)が含まれています。

一方、お葬式の“収入”といえば、参列者からの香典ですが、
鎌倉新書の「第2回お葬式に関する全国調査」アンケート結果によると、
参列者からの香典の平均額は78.9万円となっています。

つまり、お葬式の実質的な支出は、平均すると約110万円になるわけですが、
人として一生に一度のセレモニーといえど、100万円単位のお金が必要になるイベントというのは、滅多にないでしょう。
             

☆火葬費、読経料・・・遺産総額から控除

そして、この葬儀にかかる費用を相続財産から差し引くことができる、ということを知っている人も少ないと思います。
つまり、葬儀費用が多ければ多いほど、課税される相続財産を減らすことができるので、
結果として相続税が安くなるわけです。

ただし、一口に葬儀費用といっても、かかったすべての費用が対象になるわけではありません。
国税庁が、遺産総額から控除できる葬式費用と認めるのは、以下の通りです。

《遺産総額から控除できる葬式費》

(1)火葬や埋葬、納骨にかかった費用
(仮葬式と本葬式を行った時は、その両方にかかった費用)

(2)遺体や遺骨の回送にかかった費用

(3)お通夜など、葬式の前後に生じた費用で、通常葬式にかかせない費用

(4)葬式にあたったお寺などに読経料、お布施などの御礼をした費用

(5)死体の捜索または死体や遺骨の運搬にかかった費用

具体的には、「仮・本葬式」「お通夜」「お布施」「葬儀の会場代」「霊柩車(れいきゅうしゃ)の費用」などが
葬儀費用と認められています。
おおむね、一般的にお葬式代として支払うほとんどの費用が含まれていると言ってよいでしょう。
             

☆香典返し、初七日・・・葬式費には該当しない

一方、次のような費用は、いわゆる葬式費用には該当しません。

《葬式費には該当しない費用》

(1)香典返しのためにかかった費用

(2)墓石や墓地の買い入れにかかった費用や墓地を借りるためにかかった費用

(3)初七日や法事などにかかせない費用

(1)について、そもそも香典というのは、現金のカタチを取っていますが、
本来は死者の霊に供えるお香の代わりの金銭を意味するものです。
社会的見地からも非課税財産となり、所得税や相続税などの税金はかかりません。

したがって、お返しである香典返しについても、相続税法上の葬儀費用に含めないとされています。

(2)については、相続税法上、墓地・墓石は非課税財産に該当し、相続税の課税対象になりません。
したがって、生前にお墓を購入しておけば、その費用を相続財産から差し引くことができ、相続税を節税できます。
しかし、相続が発生した後に慌てて購入しても、その代金等を相続財産から差し引くことができないので、節税にはなりません。

なお、お墓を生前に購入したものの、代金をまだ払っていない状態で相続が発生した、ということもありますよね?
原則として、相続発生時に、借入金や未払い代金がある場合、
相続税を計算するときに債務として控除でき、これを「債務控除」と言います。

ただし、お墓の未払い代金は、債務控除の対象となりません。
つまり相続税の節税にはならないのでご注意を。

(3)については、告別式以降の初七日や四十九日の法要にかかった費用は、葬儀費用の対象外ということです。
             

☆お寺へのお布施・・・メモ書き残す

相続税が節税できるといっても、相続税がかからなければ、
このような葬儀費用で相続税対策を講じるまでもありません。

2015年1月1日以降、相続税の基礎控除が引き下げられました。
たとえば、故人の配偶者と子ども2人が相続人となった場合、
基礎控除は「3000万円+600万円×3人(法定相続人の数)」=4,800万円となります。

したがって、遺産総額が4,800万円を超えるようであれば、相続税がかかります。
葬儀費用でかかった分の領収書は、すべて保管して相続税の申告時に備えておくことをお勧めします。

お寺へのお布施など、領収書がない費用については、
支払日、支払先、支払った目的(お布施や車代など)、支払金額などを明記して、メモ書きなどで残しておきましょう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                          

私は一時間ばかり転記させて頂きながら、初めて具体的なことを多々教示された・・。

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、分家のような形で、実家の近くに住んでいるが、
実家のお墓の近くに墓地を買い求めるに、たまたま子供に恵まれなかったので、
一代限りとなるので、いつの日にか、私たち夫婦が亡くなった後、長兄の子供である甥っ子ふたりに何かと面倒をかける、
と思いながら、長らく躊躇(ためら)ってきた・・。
           

私が40歳を過ぎた頃の1985年〈昭和60年〉の2月、
亡き小説家・立原正秋の作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

こうした中で、あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。

人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。

こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
            

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから
・・・お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがあるだけである。
             

このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、
8年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、とか学んだりしてきた。

その後、千葉県の房総半島の奥地にある寺院で、樹木葬があると学んだが、
我が家から少なくとも3時間は要し、遠方だよなぁ、と私たちは思ったりしてきた。

或いは2年前の頃、我が家からバスと電車を利用して、一時間ぐらいの地域に、広大な墓地の一角に、
畳一畳より少し小さ目の墓地で、たった一本の樹木が植えられ墓地の販売区画で永代供養墓と知った。

いずれも永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
片割れの残された方が、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしている。
            

こうして思いばかり重ねてきたが、私は男性の平均寿命は80歳と認識しているので、
私たち夫婦は元気な今、樹木葬のできる墓地を決断しょう、と思いながら、
昨年の5月に私たち夫婦は大島にある『千の風 みらい園』に訪ねた。

そして視察を終えた後、やがて契約した。
             

葬儀はに関しては、私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ16年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や12年半が過ぎた年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。
            

こうした中で、家内はもとより、私の兄である夫妻、妹の夫妻、一番下の妹、兄の子供である甥のふたり、
そして家内の妹夫妻、そして家内の母が存命であったら加わって欲しい・・
このくらいの親族の一部の最小限のメンバーで通夜、告別式を執り行って、家族葬の形式と念願している。

昨今、式場の内部が、自宅の居間のような形で、片側に御棺を置き、
広いテーブルで食事やお酒を飲食できる会場もあると知り、私は微笑んだりした。

通夜の日、御棺の周りは幼年期は農家の児として育ち、
日本風土の土に還るので和花を中核として、欧米の書物、映画、音楽も少し愛してきたので、洋花も添える。
この時、和花が高価だったならば、洋花を中心としても差し支えない。
                          

大きめのテープルには、食事処から取り寄せた和食、洋食を食べて頂き、
煎茶、コーヒー、紅茶などを飲んだり、ウィスキー、ワイン、日本酒、ビールなど吞んで頂いたり、
私の生前のこぼれ話しをテーマに、談笑して頂く・・。

人は誰しも故人の心の奥に秘めた心は解らないが、とりとめなく話して、
あの時は・・と笑って下されば充分である。

こうした中で、音楽が静かに流れれば、と念願したりしている。
選定する曲としては、今、瞬時に思い浮ぶ曲としては、
唱歌の『ふるさと』、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番 『悲愴』、
交響曲第9番の第三楽章、アルビノーニのアダージョ、ショパンの練習曲作品10-3 『別れの曲』・・
この5曲ぐらいは・・と思ったりしている。

翌日の告別式は、このメンバーで自宅の居間のような形の式場に集合し、お線香一本を上げてもらい、
この後は火葬場に行き、ふたたびこの式場で、
お好みの飲み物を吞みながら、食事をして談笑して頂いた後、散会する・・。
           
そして私の生家(実家)は曹洞宗なので、やはり生家(実家)の墓地のある寺院の方に読経して頂くが、
通夜、告別式の5分ぐらいの簡略なお経でよい、と思ったりしていたが、
これらを省略しても差し支えない。

このような葬儀は、私の生家にしても、親戚にしても、前例がなく、
もとより兄妹は大いに戸惑いを重ねる、と想像をするが、水戸黄門さまの印籠のように、
故人の遺志である、と免じて私は念願している。
             

相続に関しては、私たち夫婦は雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいるが、
我が家は無念ながら裕福でないが、配偶者控除を活用して、相続税は無、と私は学んだりしてきた。

被相続人の配偶者は、遺産分割や遺贈により実際にもらった正味の遺産額が、
法定相続分以内であれば、税金がかかりません。

また、たとえ法定相続分を超えて相続しても、1億6000万円までは税金がかかりません。

このように私は学び、我が家はたとえば1億円は、遥かに高い月のようであり、
充二分に範囲以内だょ、と安堵しながら微苦笑させられてきた。

そして悩ましい相続に関しては、私が亡くなった後に、家内、私の兄妹の間で、揉めることなく的確にしたい為に、
私たち夫婦は、公正証書の遺言書を作成できる処に出向いたのは、年金生活を始めて、まもない時であった。

もとより遺(の)こされた家内が、生活に困苦しないように、
と一家の主(あるじ)の私は、少なくとも責務と深く思いながら、実施してきた。
             

今回、葬儀代で相続税を軽減できる、遅ればせながら具体的に私は学び、
やがて墓地、葬儀、相続に関して、このように思い重ねたりした。

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人間関係に悩まされることなく、自由に気楽に生きる秘訣、遅ればせながら私は学び、微苦笑しながら賛意を深めて・・。

2017-01-29 16:14:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅み住む年金生活の72歳の身であるが、
昨夜、長らく愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を読んでいる中、
【 医師が語る、心を整え、人生を楽にするコツ 】と題された見出しを見て、
どういうことかしら、と私は好奇心に負けて精読してしまった。

この記事は、東京大学名誉教授の医師である矢作直樹(やはぎ・なおき)さんが、ダイヤモンド・オンラインに於いて、
定期連載している【医師が語る、心を整え、人生を楽にする】寄稿文であり、
今回は第2回として【 人間関係に悩まされることなく、自由に気楽に生きる秘訣 】で、
2017年1月27日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・家庭や職場、学校、あるいは趣味の集まりなど、他人と関わり、交流すれば必ずついてくるのが人間関係の悩みだ。
しかし、そんな人間関係も、こうして考え方を少し変えるだけで驚くほど楽になる。
             
             ☆添付した今回の写真は、本日に散策した時に、たわむれに撮った☆

☆人付き合いが減ると、楽になる

悩みの種だった人付き合いが、気がつくと楽になっていることがあります。
経験のある方もいるでしょうが、これほどうれしいことはありません。
なぜ、楽になるのでしょうか?

(1)付き合う人の数(顔ぶれ)が減ると、物理的に楽になる
(2)気が合う人との交流が増えると、精神的に楽になる
(3)相手に何かを求めなくなると、関係的に楽になる

これらは、いわゆる「お互いさま」を理解した境地なのです。
少しずつこれができるようになれば、日常が変わります。

付き合う顔ぶれが減ることで、大事に思い合える人だけが残ります。
無理に減らす必要はありませんが、何かをきっかけにして、減ってしまうこともあります。
あるいは時間的、物理的(距離的)な要因でも、付き合う人は減ります。

そもそも、友人は作るものではなく、「できるもの」です。
さまざまな条件が重なった末にできるものであり、自然の成り行きなのです。
ですから減るのも、自然な成り行きであり、自然減はむしろストレスを解放してくれます。

友人といっても、関係は不変なものではありません。
お互いを取り巻く環境の変化などで、それまでの友人であり得た条件が変わり、疎遠になることもまた自然なのです。

気が合う人との交流を密にすると、共有力が高まります。
何かを共有したり、分け合ったりすることは、気づきと学びです。
そして、他者に求めなくなると、自分にも求められなくなります。

また、そこに何か加えるとすれば、「誰かを追いかけない」ということでしょうか。
意識が変わり始めると、必ず付き合いの中身が変わります。

それを繰り返すと、次第に自分と近しい人に出会うことになります。
すると、誰かを追いかける必要もなくなり、理想的な付き合いができるようになると思います。
             

☆評判は常に変わる。こだわることはない

あなたが思っているほど、他人はあなたに関心がありません。
身も蓋もないことを書きましたが、これは事実です。

私たちは日常の多くの状況において自意識過剰であり、自己評価も高すぎます。
その原因は、相対感が強すぎる、ということがほとんどです。
実績(キャリア)や人望があると自負する人に対しても、現実には皆さほど興味がありません。

そもそも人間は飽きっぽく、自分の興味の対象をコロコロと変える生き物です。
伝聞情報を真に受けてしまう傾向も強く、右に行ったり左に行ったりします。

他人はあなたに対して、一切の責任を持ってくれません。
ですから、他人があなたについて言うことなど、「ふーん」くらいの軽い態度で聞いていればいいのです。

「評判こそが唯一の資産であり、評判さえ落とさなければ、社会で成功する」と主張する人もいるかもしれません。
組織論や人間関係学において、評判・評価というのは、実にわかりやすい指標ではあります。
評判や評価次第で、人・物・金といった「資源」が動くからです。

しかし、そんな評判や評価は、いろいろな要素で、どんどん変わります。
それも一夜にして変化することさえあります。

仕事ができ、周囲から高い評価を得ていた人が、ある日、叩き落とされることがあります。
上司との関係、取引先との関係、組織内力学、いろいろな要素があるでしょう。

その人の評判を上下させる要素は、豊富です。
単なる一時的な感情で、プラス評価がマイナス評価に変えられてしまうこともありますし、

逆に低評価だった人物が、ささいなきっかけで評価・評判を上げることもあります。
評判や評価とは、それくらい「いいかげん(加減)」なものなのです。

いいかげんという言葉の真意は、「ほどほど」です。
どちらにも寄らず、感覚としてはプラスマイナスゼロに近い状態ということです。

他人からの評価や評判などにこだわらず、お天道さまに恥じないように生きればよいでしょう。
             

☆急に怒りっぽくなったら、体の病気も疑ってみる

些細なことにイライラしたり、怒ったりして、平常心を保てないことを悩む人がいます。

どんな時でも怒りをコントロールして、心を乱さないでいられるようになるためには、
規則正しい生活をし、何か打ち込めるものを持つことが必要です。

打ち込めるものとは、大したことでなく、ちょっとしたことでいいのです。
あるテレビ番組を見る、絵画を見る、音楽を聴く、でもいいし、人と話すことだという人もいるでしょう。
何でもいいから自分の気がまぎれることを持つことです。

これは、私にもあります。
例えば、読書や体を動かすことなどです。
「これをすることで、自分は気がまぎれるんだ」と思い込めることが重要です。
つまり、心が乱れた時の逃げ道を用意しておくのです。

しかし、忘れてはならないのが、怒りっぽい人に共通しているのは、人への感謝がない、ということです。
そして、足るを知らないのです。

これこそが「怒り」よりも、先に普段から意識しておくべきことです。
自分に尽くしてくれる妻を怒鳴りつける人や、頑固な人などが、その典型的な例でしょう。

人の悪いところばかり見るが、自分を振り返ることは決してしない、という人は少なくありません。
怒りっぽいと自覚したら、自分を振り返ってみることです。

しかし、怒りっぽいのは病気が原因ということもありますから、注意してください。
認知症の初期や脳血管障害、頻度は少ないですが脳腫瘍など、脳の器質的な障害でも怒りっぽくなることがあります。
また、躁うつ病でも躁状態の時や、統合失調症でも幻聴・妄想のために怒りやすくなることがあります。

そういう意味で自覚することが重要です。
怒りっぽいと自覚したら、まずは身体症状に原因があるかどうかを調べてもらってください。
また、怒りっぽくなったと家族などに指摘されたら、素直に受けとめ、注意してください。

感情面に急な変化が出たら、特に高齢になっていたら、病気の可能性も疑ってみたほうがいいでしょう。
体の病気が感情面に影響を及ぼすことがあることを忘れないでください。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は読み終わって後、そうですよねぇ、と微苦笑しながら賛意を深めたりした・・。


私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
                  
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
         
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。
             

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれず、たったふたりだけの家庭となっている。

年金生活を始めた当初から、私は午前中の殆どは、平素の我が家の買物として、
家内から依頼された品を独りでスーパー、専門店で求め、買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりして、
季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。

こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
                          

午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。


私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
             

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、映画、文學、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
                                   
         
こうした中、私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。

しかしながら日常生活の実情は、私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
             

このように私は定年退職するまでは、何かと悪戦苦闘の半生であったが、
定年後の年金生活は、予測した以上に心身に於いて、安楽な生活を過ごしている。

そして我が家は裕福層には無縁であるが、何とか生活できて有りがたいわ、
と家内がときおり呟(つぶや)くように言ったりする時、私は微苦笑したりしている。

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冬麗の時節、老ボーイの私でも、とりとめなく思い馳せて、微笑みを重ねて・・。

2017-01-28 15:06:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み住む、年金生活の老ボーイの72歳の身であるが、
私は民間会社の中小業で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸12年が過ぎ、早や13年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
       
そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や67年となっている。

本日の地元の天気情報を視(み)たりすると、
朝の6時はプラス0度、昼下りは11度前後、夜の6時は8度前後、
冬晴れの暖かい日となり、平年より少し暖かい日かしら、と微笑んだりした。
             

過ぎし1月5日に『小寒(しょうかん)』となり、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む地域でも、寒い時節となる。
      
こうした中で、3月上旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
この時節は三寒四温の時節、と遥か千年前の頃から名言されている・・。

やがて女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、私は日本水仙、椿(ツバキ)、或いは白梅に励(はげ)まされながら、
冬麗の美を心の友と私は思いながら、冬の季節をここ12年ばかり過ごしたりしてきた。
             

私は年金生活を始めた当初より、自主的に平素の買物専任者を宣言し、買物メール老ボーイの身であり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチな為か利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
そして私は自宅の近くに流れる野川の川沿いにある遊歩道、小公園、
或いは歩いて45分ばかりの深大寺、隣接した都立・神代植物園などを、その日の心情に応じて、歩き廻ったりしている。
             

たまたま本日は、野川の川沿いにある遊歩道を歩き、10度近い暖かな陽差しの中、風もなく寒さを感じることなく、
冬のスポーツシャツの上にフリースを着ていたが、ときおり足早に歩いていると、
熱くなり、フリースを脱いで、颯爽と大股で歩いたりした・・。
             

この時節は、桜(サクラ)、クヌギ、コナラ、白梅、公孫樹(イチョウ)などの冬木立となり、
暖かな陽差しを枝越しに眺めたりすると、
時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、と定年退職後から深め過ごしてきた・・。
       
ときには公園を訪ねたりすると落葉樹の冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラ、ケヤキの樹木が中核となっている・・。
             

そしてハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。
          
私は足を止めて、陽だまりとなっている木のベンチに座り、しばらく見つめたりすることが多い・・。
                    

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花がひっそりと咲いている。

このように冬木立の眺めたり、光がきらめく空を眺めたりし、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。
          

この時節、私の住む地域は、寒さを増しても、
庭の黒土の上にうっすらと霜となり、ところどころ霜柱も見られる。

そして数年に一回ぐらい小雪が舞い降る時もあるが、5センチ前後である。
                

私の小学生の頃までは、毎年少なくとも3回ぐらい30センチ前後の雪が降ったりしてきたので、
何かしら愛惜感が増したりしているので、国内旅行は何かと東北地方、北海道に家内を誘い、遊学することが多い。

しかしながら家内は家内の母宅に介護で行くことが多いので、今年は冬の旅路は断念している。

そして旅行は、非日常であり、女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、私は冬麗の美を心の友として歩いたりしている。
                

こうした中で、ときおり何故かしら『冬景色』の歌を心の中で唄ったり、
人影のいない遊歩道の中で、かぼそい声で『冬景色』を唄ったりしているのが、
定年後の年金生活の中で多くなっている。
http://www.youtube.com/watch?v=r3sZKBnr6t4
【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌、唄・芹 洋子、合唱・東京放送合唱団 1984/1 放送 】

私の幼年期、私の住む地域でもこの当時は、
田畑が広がり雑木林もある緑豊かな農家の児として育ち、私は心のふるさとの限りない情景として、
齢を重ねるたびに愛惜が深め、このような心情を秘めているひとりである。

この歌は、1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出と知られているが、
作詞はどなたが創られた不明であるので、この創られた方に心を寄せたりし、
ときおりこの歌を聴いたりすると、どなたが歌っても、私は涙ぐんでしまう時が多い・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、 或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は恥ずかしながら理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は、少しは解るつもりである。
                    

やがて2月下旬になれば、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら10数輪ばかり咲き、
その後は澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)となる中で、小庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らむ。

そして3月を迎えれば、予告もなく南の風が吹き、、
私は三寒四温の時節は、女の子が全国的に祝賀される『桃の節句』で終わりにしてょ、と毎年心の中で願ったりしてきた。

その後、南の風が吹くたびに暖かさを増して、主庭の水仙、白梅は満開となり、やがて紅梅に咲き、
我が家の小庭は遅ればせながら水仙、白梅、紅梅が彩(いろど)られてるのが、毎年の習わしとなってきた。
                                                       
このように思い馳せたりして、冬晴れの陽射しの中で、ぼんやりと佇(たたず)んだりし、
果たして、この先の天上の気候の神々の采配は、どのようになるの、と私は青空を見上げたりしている。

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家内の母が百歳まで生きたいわ、と呟(つぶや)くように家内に言い、やがて私は戸惑いながら微苦笑を重ねて・・。

2017-01-27 15:20:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

遠い昔、私の父は私が小学2年の時に病死し、そして母は私は53歳の時の1998年(平成10年)1月に死去された。

家内の父は、私が定年退職する2004年〈平成16年〉の秋の直前に病死され、
このような状況となり我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

家内の母は我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、早や12年半が過ぎている・・。
                         

家内は、家内の母が独り住まいとなった当初から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。

そして私たち夫婦は8年前の頃までは、年に数回は国内旅行に誘い、
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

家内の母は、平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは独りで実家の新潟県の上越市に訪れたりすることが多い。

この間、やはり後期高齢者の身であるので、内科、眼科、整形外科などに通院してきた。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
長女の家内は季節の変わるたびに、大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ12年の恒例のようになっていた。

この間、私は『おひとりさま』の生活となっているが、
いずれは私たち夫婦は片割れとなり『おひとりさま』となるので、 特別演習かしら、
と思いながら私は過ごしている。
                         

こうした中で年末年始は、独り住まいになっている家内の母を我が家に来てもらい、
私たち夫婦と共に年末年始を共に過ごすのが、ここ12年の恒例行事のようになっている。
           
独り住まいとなった家内の母は、千葉県の八千代市に一戸建てに住み続けて、
年金を頼りに程ほどの貯金を崩しながら、おひとりさまの生活をしている。

確か9年前の頃だったと私は記憶しているが、
年金は月平均14万円前後で貯金を少しづつ崩しているが、長生きを考えると心ぼそいわ、
と家内の母はこのような意味合いの言葉を、長女の私の家内に言った。

そして私は家内から聞いて、毎月少し融資を受けられる『リバースモーゲージ』を本格的に調べたりした。
『リバースモーゲージ』は、老後資金がどうしても不足してしまう場合には、自宅不動産を活用し、
自宅を担保にお金を借りて、慣れた自宅を手放さず、死亡後に担保を売却して元本を返済する方法である。

まもなく家内は関係先に孤軍奮戦した結果、家内の母の住む八千代市の社会福祉協議会より、
家内の母は、毎月3万円の融資を受けている。

この間、社会福祉協議会より一戸建ての査定をして、相場の70%前後の融資総額となり、
家内の母の相続人の長女の家内、そして次女などの承諾書を提出したりしてきた。

家内の母は、家内に、お父さんの遺(のこ)された一戸建て・・私の老後で喰いつぶしてしまうけれど、
とこのような意味合いの言葉を家内に言った、と後日に私は家内から聞いた。
                         

私は家内に結婚してまもない時に、
お義父(とう)さんとお義母(かあ)さんが築きあげてきた財産に関して、
どのようにお使いになっても、僕は関係ないょ・・と私は家内に言ってきた。

こうした私の根底には、私が結婚する時、私の母から、
男子(だんし)たる者は、奥さんの実家の財産をあてにするのは、最低の男だからねぇ、
と私は叱咤激励されたので、もとより家内の母のいつの日にかの遺産は、あてにしてこなかった。

やがて家内の母は、年金に毎月3万円頂くので助かるわ、と家内に言ったと、
と私は家内から聞いたりして、悦んだりした。

そして家内の母は、自身の葬儀代を預けるから、と家内に程ほどの金額を振り込んだ、
と私は家内から聞いたりして、私は微苦笑しながら、
お義母(かあ)さんらしいねぇ、と家内に言ったりした。
                                             

やがて家内の母は、6年前の81歳を過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、
杖(つえ)を突いて歩く身となった。

やがて市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。

そして私たち夫婦は、お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
                                  

こうして家内の母は、独り住まいとなって早や12年半が過ぎているが、
私は家内の母に対して、たったひとつだけ困惑することがある。

年末年始の時節になると、独り住まいの家内の母に年末に我が家に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に新年を我が家で過ごした・・。

こうした過ぎし7年前のある日、居間の炬燵に入り、食事をしたり、談笑したりすることが多かったが、
ある時、家内の母が、
『あたし・・やっぱり・・百まで生きたいわ・・』
と呟(つぶや)くように家内に言ったりした。

まもなく家内から私は聞いたりした時、私は家内の母が100歳になる事は、私は86歳、家内も81歳の高齢者となるので、
私は困り果てて、勘弁してょ、と心の中で思いながら、笑ってごまかしたりした。
                                   

私は定年退職の60歳を迎えた時、これからの10年間は何とか五体満足で、その後は余生である、
とこの当時は公言していた。

私は煙草も喫い、時折お酒も呑むし、身勝手な日常を過ごしているので、
75歳以上は想像がつかない未知の世界と思ったりしていた。

家内から言うわせれば、
『貴方は・・皮肉ぽく・・憎まれ口を言っていますので・・長生きできますよ・・
私の方が・・平均寿命まで無理と思うの・・』と私に年に数回ぐらい言ったりしている。

このようなことを私たち夫婦は、家内の母が百歳まで生きられたら、
老々介護以前に、私たちのどちらかは片割れになるか、或いは夫婦ふたりとも死後の世界、
と思ったりしたのである。

人それぞれ永(なが)らえるのは、自助努力も肝要であるが、こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。
                         

私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
過ぎし12年半前の定年後の頃から、漠然としながらも私は家内に死生観について話し合ったりしてきた。

こうした中で、自分の口で食事が食べられなかった時は死ぬ時であり、延命治療はしないで、
と幾たびか言ったりしている。

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
                                   

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
                                   

このような深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動に注視して、信愛を重ねている。
             

やがて一昨年の5月下旬より、家内の母は膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内と家内の妹は交互に、大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなっている。

やがて昨年の5月下旬、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

何かしら身だしなみや掃除などの身の回りの世話に手助けが必要で、
立ち上がり、歩行、移動の動作に支えが必要とする時があり、
排泄や食事は殆ど自分でできるが、問題行動や理解の低下がみられることがある方が対象されている。

こうした状況を家内から教えられた私は、いよいよ老々介護の時代に私たち夫婦はなった、と実感した。
                         

過ぎし24日の朝、家内は独り住まいの家内の母宅に介護に行く日であったので、私は平素より2時間半ばかり早く、
4時少し前に起床した。
やがて私たち夫婦は朝食後、まもなく玄関の軒下に降り立った。

そして6時少し前、私は門扉の近い道路に降り立って、
『お義母(かあ)さんに、よろしく・・』
と私は家内に言った後、家内を見送くったりした・・。

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしているが、
確か7年前、家内の母が元気な時、百歳まで生きたいわ、と呟(つぶや)くように家内に言ったりしたが、
現在はどのような心情かしら、と私は思い馳せたりした・・。

そして家内の母は娘ふたりに介護されているが、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
果たして私たちの晩年期は・・と微苦笑をしたりした。

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ボケたくなければ「大股で歩きなさい」、72歳の私は教示され、これ以来少しばかり意識して歩き・・。

2017-01-26 12:54:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳になる身であるが、
ここ5年何かと愛読しているネットの『PRESIDENT Online』がある。

過ぎし1月9日、いつものように『PRESIDENT Online』を見ている中で、
【 ボケたくなければ「大股で歩きなさい」 】と見出しを見て、
私としては、いつの日にか認知症になることが何よりも怖いので、こっそりと読んだりした。

この記事の原文は、『歩くだけで健康寿命を延ばす! 認知症にならないための歩き方』(幻冬舎)などを
上梓された椎名一博(しいな・くにひろ)さんが、『PRESIDENT Online』に連載されている寄稿文であり、
今回の【ボケたくなければ「大股で歩きなさい」】は1月8日に配信されていたが、無断であるが転載させて頂く。
             

《・・
☆認知症の疑いある/なしは歩き方でわかる

最新の研究で、100%ではないものの、認知症の疑いあり/なしを簡単に判断できる方法が見つかっています。
それは「歩き方」を見るというもの。

例えば、65歳以上の高齢者で、歩幅が広くスタスタと早足で歩いている人は、認知症である可能性が低く、
歩幅が狭くトボトボとゆっくりと歩いている人は、認知症の疑いありです。

歩行速度で言えば「秒速0.8メートル」(分速48メートル)が、一つの基準になります。
これは医師が「サルコペニア」(高齢により筋肉量と筋力が低下する症状)かどうかを
判断する最初の基準でもあり、そのまま放置するとアルツハイマーなど他の病気のリスクも高まります。

ただ、秒速0.8メートルというのは、「青信号の間に横断歩道が渡りきれない」速度ですから、かなり遅いです。
早期発見という観点から言えば、「いつもより歩く速度が遅くなった」というように、
歩行速度の“変化”を見るほうがずっと大切です。

一旦遅くなり始めると、その先はもっと急速に遅くなっていくからです。
             

☆歩幅が狭い人は、認知症リスクが3.4倍

なぜ、歩幅や歩行速度を見ることで、認知症の疑いのあり/なしがわかるのでしょうか?
脳の中でも運動と認知をつかさどる部位は別々で、そのメカニズムまでもが、完全に解明されたわけではありません。
ですが、歩幅や歩行速度と認知機能の関連性を裏付ける実証データは、世界中のあらゆる医療・研究機関から発表されています。

例えば、東京都健康長寿医療センター研究所の谷口優研究員によると、
歩幅を「広い」「普通」「狭い」の3グループに分けて追跡調査したところ、
歩幅の狭い人たちのグループは、広い人たちのグループに比べ、
認知機能低下のリスクが3.4倍(女性は5.8倍)も高くなっていることがわかったそうです。

あるいは米国マサチューセッツ州で1948年から継続して行われている、
平均年齢62歳の男女2400人を対象とした調査研究でも、
歩行速度の遅い人は、速い人に比べて認知症になるリスクが1.5倍も高くなっていることがわかっています。

この調査ではMRIで脳の状態も調べていて、歩行速度の遅い人は、脳の容積が小さく、
認知能力テストでの点数も、低くなる傾向があるとされています。

こうした調査や研究は世界中で幾つも発表されていて、枚挙にいとまがありません。
歩行というのは、単に足を前後させるだけでなく、腕や腹や背中を含めた全身の筋肉と、
視覚・触覚・バランス感覚など、あらゆるセンサーを稼働させる動作です。

それらは、ほとんど無意識のうちに行われますが、それを可能にしているのが脳の機能です。
そこになんらかの異変が生じると、各部位への命令がうまく伝わらなくなってバランスが崩れ、
歩幅や歩行速度に現れると考えられます。
             

☆早足で歩いて「脳に血を回す」

脳の機能と歩行には、密接な関連があります。
ゆえに歩行によって認知症のサインを知ることができるわけですが、
逆に、歩行によって認知症を遠ざけることもできます。

健康のために歩くのが良いのは、誰もが知っていると思いますが、それは認知症に対しても言えることなのです。

脳は、基礎代謝量の20%近くのカロリーを消費します。
そのためエネルギー源となるブドウ糖を十分に供給する必要がありますが、
認知症になると、ブドウ糖を脳に運ぶ血流が不足しがちになります。

では、脳への血流を増やすにはどうしたらいいのか――
東京都健康長寿医療センターの老化脳神経科学チームは、歩くことで血流が増えるメカニズムを解明しています。
歩行は「アセチルコリン」という物質の分泌を促し、それが脳の血管を拡張し、血の巡りを良くするというのです。

さらに、この「アセチルコリン」には、神経細胞のダメージを軽減する働きもあり、
若さや老いに関係なく作用することが確認されています。

「歩くだけで認知症が予防できる」と聞くと不思議な感じがしますが、
こうしたメカニズムを知れば「なるほど」と思えるのではないでしょうか。

ただ、認知症を予防する歩き方には、ちょっとしたコツがあります。
(1)少なくとも週90分以上(1日15分以上)
(2)歩幅を大きく早足で
(3)「ややきつい」と感じるくらいの強度で歩くことです。

特に「歩幅を大きく」は大切なポイントで、
速く歩こうとすると、体勢を安定させようと無意識に、歩幅は小さくなりがちです。
そこを意識して、大きな歩幅にすることで少し負荷がかかり、脳の活動が活発になります。
             

☆距離だけでなく「速度」計測を習慣に

万歩計などで、歩数や距離を計測している人は多いと思います。

一方で、「歩幅を大きく歩く」ことを習慣化するには、日頃から「歩行速度の計測」を意識して、習慣化するのが効果的です。
そこで、たとえば毎日歩くルートがあるのであれば、歩行速度を計算してみてはどうでしょう。
今は、歩数や距離だけでなく、速度まで計測できる万歩計やスマホのアプリもあります。

速度の計測は、認知症の早期発見にも重要です。
認知症を恐れるあまり、医師の診断を受けるのが遅れてしまっては元も子もありません。

認知症は早期段階(軽度認知障害MCI)であれば、元通りに回復できる可能性があること、
また進行を遅らせる手立てがあることも、知っていただきたいと思います。

日本の平均寿命は男性80歳/女性87歳ですが、75歳を超えると認知症の有病率は急激に高まり、
90歳を超えると男性36%・女性52%以上が、認知症になるという統計もあります。

認知症は決して他人事ではありません。
日々の生活に意識的に歩く運動を取り入れることで、認知症を含む健康の維持管理に関心が持てれば、
素晴らしいことではないでしょうか。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は民間の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で直ちに年金生活に入り、現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

そして年金生活を当初は、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或い日はビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだりした。

ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
リストラ烈風の中、最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした・・。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
                               
 
やがて2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記されてしまった。

私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医師に懇願した。

そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを聴いたりした・・。

私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。

このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。

やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

この間、私は最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
             

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭となっている。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
せめて退職後の年金生活に於いては、日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家は、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

そして2010年(平成22年)の秋に、健康診断で糖尿病と判断された後は、
買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより糖尿病の再発を回避したく、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、歩くことが多くなっている・・。

こうした時は紳士バックを園児のように真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

このように歩いていると、ほぼ1キロを15分ぐらいであるので、やはり時折、足早に歩くこともある。
             

今回、【ボケたくなければ「大股で歩きなさい」】は1月9日に私は読み終わった後、
翌日から少しばかり意識して、大股で歩いたりしている・・。

何よりも健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。


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ひとつの旅でも4度ぐらいは享受している、と老ボーイの私は微苦笑を重ねて・・。

2017-01-25 12:15:56 | 旅のあれこれ
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
家内との共通趣味のひとつは国内旅行であり、私たち夫婦は子供に恵まれなかった為か、
若き新婚時代から日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

旅から帰宅すれば、愚図で齢ばかり重ねた私は、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。

もとより旅行は非日常の出来事で、平素の私は年金生活している中、
程ほどにのんびりと過ごしたりしている。

2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた私は、
自主的に平素の買物担当を宣言して、家内から依頼された品を求めて、
殆ど毎日のようにスーパー、専門店に行ったりしている買い物メール老ボーイとなっている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
             

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主ぐらいはしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や13年生となっている。

そして時折、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、家内と国内旅行をしたりしている。
             

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で独りぽっちの『おひとりさま』の生活をしている。
             

家内は旅行する前日、女優を引退された後に随筆家として著名な亡き高峰秀子さんのように、
台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしない、
と満足しないひとりである。

私たちは旅行の滞在日数が多い場合は、旅先の最終日に現地より旅行ケースを宅配便を利用して、
自宅に送付することが多いが、
帰宅した直後は、部屋に外気を入れたり、着替えたりした後、手荷物を開けたりしている。

そして煎茶、コーヒーを私が淹れた後、私は入浴したりする。
この間、家内は宿泊した売店、お土産屋さんで買い求めた食べ物、或いは旅先でその地の特有な食べ物を皿に移して、
食卓に並べたりしている。

そして風呂上りの私は、私は煎茶を飲みながら、少し食べ物などを賞味している間、
家内は入浴している。

その後は私たちは、旅先のこぼれ話を談笑したりする。

やがて旅の疲れもあり、家内は寝室に行き、寝てしまう。

そして私は、確か5年の晩秋頃からブログの投稿文に写真を添付しているので、
旅先で撮った写真をデジカメの記憶媒体からパソコンに移動させ、
パソコンの大きな画面を見て、独り微苦笑したりすることが多い。

こうしたことはコンバクトのデジカメの性能もあるが、何よりもデジカメの技量の乏しい私は、
撮った数多くの写真への心の思いは強いが、やはりこの程度かょ、と苦笑したりしている。
                                         

そして写真を見ながら旅行の投稿文を思案したりしている。
出来うる限り、綴りは紀行文の形式に準拠したく、内容、構成とかを配慮しながら、
苦心惨憺としながら綴ることが多い。

結果として、私は平素は毎日一通は投稿をしてきたので、
こうした制約もあり、やむなく短めの散文で写真を添付して、
ごまかしたような手抜き投稿文となってしまい、ときおり後日に再読し、苦笑したりしている。

しかしながら、せめてタイトル名には配慮したりしている。

もとより小説、随筆、映画などの場合は、タイトル名で内容を適切に凝縮した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしているひとりであるが、
大半は失敗だった、と後日に後悔したりしている。
                       

帰宅後の翌日は、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
私はスーパーを2店ぐらい廻り、パン類、肉類、魚類、野菜、牛乳などを買い求めたり、
この間に、このブログサイトの投稿する内容を考えたりしている。

今回の旅は、たまたま沖縄本島の北谷(ちゃたん)地域にある『ザ・ビーチタワー沖縄』に滞在して、
1月12日より9泊10日で周辺を遊学した旅路であったが、
何とか7通ばかり投稿し終わったのは、昨日の24日であった。

この間に、このブログサイトで私が愛読している御方の投稿文を数多く読ませて頂ただいたり、
ネットで毎日のように精読しているニュース、音楽業界のサイトを見たりしている。

このように私は、情報機器として携帯電話、スマホも使えず、
自宅に設置しているパソコンだけが頼りとなっている稀な国民のひとりなので、
帰宅直後から、ブログ投稿の完了まで、何かと慌ただしく過ごすことが多い・・。
                       

家内は旅先でも、家内の母の安否を心配して毎夕電話連絡をし、
旅路から帰宅した翌日には、家内の母の介護に行く日程を家内の妹と調整したり、
或いは次回の旅行を思案しているらしく、今回の旅は忘却の彼方のように心情となっている。

しかしながら私は、少なくとも旅立つ前の思惑、旅行のさなかの遊学、
そして帰宅後の旅先の写真の整理、或いはブログの投稿文などで、
ひとつの旅でも4度ぐらいは享受しているなぁ、と微笑んだりしている。


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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 最終章 旅の終りは悲哀を秘めた花に別れを告げて

2017-01-24 17:25:42 | 
私たち夫婦は『ザ・ビーチタワー沖縄』に9連泊した後、
1月21日の朝、帰京する日を迎えた。

私は朝食後、滞在中こよなく散策した場所に独り歩き出した・・。
             

そして浜辺に行くホテルのゆるやかな脇道を下った。
             

まもなく安良波(アラハ)ビーチに行く近道を歩いたりした。
             

その後、一分足らずで安良波(アラハ)ビーチに下り立った。
確かに地元の御方と談笑した時、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れたり、ときおり小雨が多い、
と教えられて、私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかであった。
             

しかしながら人生と同様に、晴れる日もあり、曇り日もあり、そして小雨の日もあるよなぁ、
と私は微苦笑しながら波間を眺めたりした。

私は沖縄本島に関して、50代の初めに家内と共に初めて訪れ、
60代の三年生の時に、私たち夫婦は家内の母の要望で三人の旅路をして、
今回、70代の三年生となり、家内と共に各地を遊学した・・。

果たして沖縄に対する思いは、進歩したかと問われれば、
感傷的な視線から、良きこと悪しきことなど複眼的な視線に変貌してきた。

このようなことを思い重ねた後、やがてホテルに戻る途中、公園内でたんたんと咲いている花を見つめたりした。
             

そして眺めている中、沖縄の悲哀を秘めた花・・と私は感じ受け止めたりした・・。


やがて私たちはチエックアウト後、ホテル間を走るリムジンバスに乗車して、那覇空港に向かった。
こうした中で、『アメリカンビレッジ』の食事処で多彩な料理を頂いたり、
たまたま訪れた名所も残影したが、やはり私はさりげなく咲いている花に魅了された。
   

   

或いは曇り空の夕方、淡き陽射しが観られる中、日没の景観である。
             

こうしたことを思い馳せたりしていると、彼方に那覇空港が観えたりした。

《終り》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第5章 宿泊滞在した『ザ・ビーチタワー沖縄』の中で、私は・・。

2017-01-24 13:39:20 | 
私たち夫婦は、今回の旅路は沖縄本島・北谷(ちゃたん)地域にある『ザ・ビーチタワー沖縄』に、
1月12日より20日まで宿泊滞在したが、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れ、ときおり小雨が多く、
私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかで、
私たち夫婦は大いに戸惑ったりした。

こうした中、食事に関しては殆ど近くにある『アメリカンビレッジ』の食事処で、多彩な料理を頂いたりした。
そしてホテル館内では、朝食を二回ばかり賞味したりした。

そしてお風呂は、館内の指定された浴室が良く、殆ど私は愛用させて頂いた。
家内はホテルに隣接した『ちゅらーゆ』と称した大浴場、沖縄には稀な源泉かけ流しの露天風呂を日参し、
私も家内に勧められて、部屋から持参したビーチサンダルを履いて、ノコノコと二回ほど利用した。

クアハウス的であり、やはり源泉かけ流しの露天風呂は、心身共に解放感があり、享受した。

館内の売店は、私はビールを盛んに購入し、家内は沖縄特有のお菓子などを買い求めて、
私たちは部屋で頂いたりした。

朝のひととき、私はロビーの片隅で、地方紙を読んだりした・・。
             

たまたま1月21日の『琉球新報』に於いて、『沖縄への観光客 過去最高861万人 2016年』と見出しがあり、
私は沖縄が繁栄することは何よりと好感しながら、精読したりした・・。

《・・県が20日に発表した2016年の暦年(1~12月)入域観光客数は
前年比11・0%増(85万100人増)の861万3100人で、4年連続で過去最高を更新し、初めて800万人を突破した。
県が16年度(16年4月~17年3月)の目標とする観光客数840万人も大きく上回っており、年度目標の達成もほぼ確実な状況だ。

外国人客は38・7%の大幅増の208万2100人で、200万人の大台を超え、
県が21年度までの達成目標に据えていた年間200万人に早くも到達した。

増加の背景には国内外路線の拡充やクルーズ寄港回数の増加などがあり、全体を押し上げた。

外国人客の内訳をみると、台湾が27・9%増の60万7300人、中国本土が51・5%増の44万9200人、
韓国が44・8%増の43万1300人、香港が16・5%増の22万1千人などだった。

国内客は4・3%増の653万1千人。
内訳は東京方面が4・5%増の320万600人、関西方面が3・6%増の135万8千人、福岡方面が4・8%増の81万4400人、
名古屋が8・9%増の53万5100人、その他が0・4%増の62万2900人だった。・・》
             

こうした記事を読み終えた私は、館内、近くにある『アメリカンビレッジ』、公園、ビーチ、遊歩道など海外の観光客が多く見られ、
経済の繁栄こと沖縄は肝要だ、と微苦笑しながら好感したりした・・。

私は滞在中、持参した本を再読した。

福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示された。

そして大久保 潤、篠原 章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
沖縄の現実の難題を多々学び、これまでの沖縄に対する思考が、更に複眼化したりした。

或いはユージン・B・ストレッジ著作の『ペリリュー・沖縄戦記』(伊藤 真、曽田和子・訳、2008年、講談社学術文庫)、
映画などで表現しずらい戦場の余りにも過酷な実態を改めて震撼させられた。

こうした本を再読した後、近くにある総合スーパーのイオンの2階にある『未来屋書店』に於いて、
佐藤 優・著作の『佐藤優の沖縄評論』(2014年、光文社知恵の森文庫)を購読した。

いずれも室内のソファーに座ったり、或いはベットに横たわりながら読んだりした。

平素はパソコンを日々何かと友にしている私は、旅先は情報機器から一切断絶している身なので、
平素より読書時間が多いょねぇ、と独り微苦笑したりした。
             

こうした中、ときおり窓辺にあるベランダで、海上を眺めたりした・・。
  

  

私たちが滞在している中、快晴から程遠いが夕陽、日没した情景が、たった一度だけ観られた。
  

  

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第4章 幾たびか路線バスで名所を訪ねれば・・。

2017-01-24 11:24:43 | 
私たち夫婦は、宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』の隣接した『アメリカンビレッジ』、
或いは白い砂浜が美しい安良波(アラハ)ビーチ、そして海外沿いの遊歩道を散策してきたが、
5日目の1月16日には、路線バスを活用して嘉手納飛行場が少し見られる道の駅『かでな』を訪ねることとした。

私は定年後に自動車免許証明書の更新を断念した身であり、もとよりレンタカーも乗れず、
旅先でもタクシー、観光バスは出来るだけ避けてきた。

そして遠方の場合は路線バスを利用してきた・・。

こうした中で、佐渡島、長崎、石垣島などで路線バスに乗車すれば、その地域にお住まいの会話、
ときには私は談笑したり、車窓から見える情景・・
その地域の住民の生活が少し界間視られることを私は幾たびか体験をしてきた。


そしてホテルから10分ぐらい歩いた『桑江』バス停から路線バスに乗り、
やがて『嘉手納』バス停で下車した後は、20分ばかり歩いて道の駅『かでな』に到着した。

まもなく4階の『展望場&スカイラウンジ』からは、広大なアメリカ基地の『嘉手納飛行場』が観えたりした。



翌日の17日には、リゾートホテルが点在する恩納村の万座毛(まんざもう)をめざして、
路線バスに乗車して、やがて『恩納村役場前』バス停で下車して、15分足らず歩くと、
東シナ海に面した海岸の絶壁に、象の鼻の形の岩が付いている景勝地の万座毛に到着した。
              

平日の11時少し前であったが、観光客が多く見られて、やはり人気ある景勝地である。
万座毛の由来は琉球王朝の尚敬王が、「一万人が座れる広い原っぱ」と評した、
と伝えられている。

やがて私は遥か彼方の東シナ海を眺めたりした。
              

まもなく私たち夫婦は帰路する為に歩き出すと、確か全日空が約40年前の頃、
沖縄本島の万座毛にリゾートホテルを開業されて、本島のリゾートホテルのさきがけとなった、
と私はおぼろげながら記憶している。
              

この後、私たちは『恩納村役場前』バス停をめざして歩いている時、
道端に健気(けなげ)に咲いている花に私は見惚れたりした。
              

翌日の18日には、旧コザ街(現在・沖縄市)を私たち夫婦は訪れた。
前夜、家内は観光パンフレットで、《・・沖縄文化とアメリカ文化がチャンプルー(混ぜこぜ)された異国情緒ただよう沖縄市・・》、
見て行って観たい、と私に言ったりした。

私は沖縄が日本に復帰する前、アメリカ施政権下の時、1970年(昭和45年)12月にコザ暴動が発生し、
アメリカ軍人、沖縄住人にとっても、お互いに暗い不幸な事件であることを、
当時25歳の私はニュースで学んだりしてきた。

こうした意味合いから、私はこうした古傷をもう一度剥がすような処には訪れたくない街であった。

しかしながら家内の要望を私は聞きいれて、18日ホテルから近く『美浜アメリカンビレッジ南口』バス停より
路線バスに乗車して、『コザ』をめざした。

緩い丘陵には住宅街にある道をバスは通り抜けて、まもなく『コザ』バス停で下車し、
街の中心街と判ったが、小雨が降りだして、やがて本降りとなった。

私たちは北に一キロぐらい、そして西に一キロぐらい彷徨(さまよ)うようにあてどもなく歩いたが、
私は纏(まとわ)りつかない思いとなり、家内にアメリカンビレッジに戻り昼食を・・と私は言ったりした。

やがてアメリカンビレッジに向かう路線バスに乗車している中、雨は止み、
雲間から陽射しが差し込み、やはり『コザ』は私にとっては苦手な街だったかしら、と私は微苦笑したりした。
             

19日、私の要望で那覇市の中心街から少し外れた県立・博物館に、家内を誘って訪れた。
滞在しているホテルの最寄『軍病院前』バス停から路線バスに乗り、
45分ぐらいで『県立博物館美術館』バス停で下車した。
             

私は恥ずかしながら美術に関しては、小学生の『図画』は通信簿『2』の劣等生であり、
素養も知識もなく、未だに苦手な分野である。

しかしながら歴史、文化だけは、長らく好奇心旺盛であるので、博物館だけ視察する思いで、訪れた。

そして視察する前、早目の昼食と思いながら、館内の食事処『茶花』に家内を誘った。
まもなく入って、私は壁面、テーブル、椅子に瞬時に魅了されて、私にとっては異例であるが、写真を撮らせて頂いた。
             

やがて博物館の展示には、沖縄の自然として沖縄の地勢が形成されるまで具体的に明示されていた。

歴史・文化分野は、先史時代の土器出現以前の後期旧石器時代、その後の土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)、
やがて12世紀頃に本格的な農耕社会が成立し、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」時代が展示されていた。

こうした中で、中世のグスク時代、三山時代のそれぞれの興亡史、そして第一尚氏王統、第二尚氏王統など、
私は興味があふれて改めて学んだりした。

その後の王国の再建、近代、第二次世界大戦、敗戦後のアメリカの統治による琉球政府時代、
やがて日本に復帰、そして現代・・私は二十歳以来思い秘めてきたことが凝縮されて展示され、
改めて多々学んだりした・・。

そして重く心が疲れたので、屋外の展示場に私は出た。
             

こうした中、民家も見られた。
   

私は幾たびも沖縄本島、石垣島などで拝見してきたが、屋根を見て驚いた。
             

このようなことがあったの・・と遅ればせながら学んだりした。

この後、家内との待ち合わせ場所に向かう途中、教師3名に引率された小学6年生の男女50名に出会った。
そして私は足を止めて、学童の学習見学の一環と知った。

こうした沖縄の歴史、文化を学ぶことこそ、学童の自己形成には肝要だ、と私は強く願いながら、
この教師、そして学校の方針に私は賛意を重ねたりした。

今回、初めて県立博物館を訪れたが、多彩な展示に、私は知的好奇心の刺激が強く、
私を若替えさせられる何よりの心のビタミン剤と思ったりした・・。

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第3章 ホテル周辺を散策すれば・・。

2017-01-23 17:34:22 | 
私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』の隣接した処に北谷公園があり、
海辺には全長600mの白い砂浜が美しい安良波(アラハ)ビーチ、そして夕陽が眺めるに最適なサンセットビーチがある。
   

   


そして海岸沿いには、北に向かって整備された遊歩道が長く続く・・。
   

   

やがて15分ぐらい遊歩道を歩くと、『うみんちゅワーク』と名付けられた海の駅があり、
館内には『海の部屋』、『海洋生物と植物食物のパネル展』が常設されていた。

そして『北谷うみんちゅ市場』として、魚屋と野菜屋が即売店として、新鮮な多彩な魚、野菜があり、
私たちは魚の刺身に瞬時に魅了されて、三種類ばかり買い求めて、帰館後にビールを飲みながら賞味したりした。

ひとつ残念だったことは、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れ、ときおり小雨が多く、
私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかで、
私たち夫婦は大いに戸惑ったりした。

そして散策している中、多彩な花に魅了されて、見惚れたりして、歩き廻ったりした・・。
   

   

そして海上を眺めると、曇り空の中、淡き陽射しで天使の梯子(はしご)に似た情景に、
私は微苦笑しながら、長らく見惚れたりした・・。
             

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第2章 異国情緒あふれる美浜『アメリカンビレッジ』

2017-01-23 13:20:06 | 
私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』より、5分たらずにある『アメリカンビレッジ』は、
私たちは多彩な飲食店で、滞在した殆どは食事をしたり、カフェで休息したり、
或いは家内は雑貨店、土産物店を見て、魅せられた品を買い求めたりした・・。

この『アメリカンビレッジ』は、在日米軍施設キャンプ・フォスターのうち海岸沿いにあったハンビー飛行場が、
1981年(昭和56年)に返還され、やがて1988年(昭和63年)には飛行場跡地北側に隣接する海岸で、
新たに埋め立て地が造成された、と伝えられている。

そして両地区は一体的な開発が行われることになり、このうちの埋め立て地部分に建設されたのが、
北谷町運動公園とアメリカンビレッジとなった。

こうした中で、在日米軍施設が集中するこの地域の特性を生かして、
アメリカの雰囲気を前面に押し出すことになった、と私は学んだりした。

そしてアメリカンビレッジは、1997年(平成9年)から本格的な工事が始まり、翌年から施設が順次開業し、
2004年(平成16年)にほぼ完成した。

こうした中、2003年における年間来客数は、延べ830万人にのぼった活性化したリゾート街並みとなっている。
https://www.okinawa-americanvillage.com/
☆『アメリカンビレッジ』公式サイト☆

私たち夫婦は、このアメリカ風を中核とし、琉球、沖縄、インドなど異国情緒あふれる多彩な建物、それぞれの店、
そしてアメリカが多い欧米人、台湾、中国、韓国、インドそして日本人らアジア人が利用している不思議な街並みであった。
   

   

   

こうした中、アメリカが世界の諸国の中で、圧倒的な突出した経済、軍事力を有し、
もとより政治、外交も世界の主要国さえ、優に威圧できた1950年代、1960年代中期までのベトナム戦争の以前の時代、
この当時の雑誌『TIMES』、E.プレスリーのジャケットが、さりげなく店に掲げられていた・・。
   

こうした情景を見た私は、私は中学、高校生で、やはりアメリカ文化をまぶしく感じていた時代であったので、
あの当時の頃を思い馳せたりした・・。

私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
小学4年生の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた・・。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりし、
ラジオではコニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声を聴き、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。

そしてレコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れ、聴いたりしていた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、あるレコード会社に勤めて、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。

その後、人事異動をして営業本部で奮闘していた時、
洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
       
       ☆今回、ブック形式のジャケットの表を記念に撮った☆

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、と解説書を精読した。

《・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・》と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。

そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。

私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付けた素敵なお姉さん・・素敵なワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。

コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学生の時代の頃は、大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に心酔し、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、或いはツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての憧憬させられる思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。

このようなことを私は思い浮かべて、家内が魅了されて店で買物している時、近くで待ち侘びて思い重ねたりした・・。

やがて私たちは歩き出すと、私は足を止めて眺めたりした・・。
             

あの当時のアメリカは、アメリカ人にとっては黄金時代であった、と私は感じ深めたりした。

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第1章 リゾートホテルに到着した日には

2017-01-23 11:01:18 | 
私たち夫婦は国内旅行で観光ホテル、リゾートホテル、旅館に宿泊する滞在型の時は、
原則として、旅行ケースを宅配便を活用して、我が家から宿泊する処に配達依頼をしたり、
帰路も旅先の宿泊地から配達依頼をし、我が家に配達して貰ったりしている。
                   
                    ☆2013年(平成23年)1月に買い改めた時、記念写真として撮った☆

今回も1月9日に宅配業者の御方が我が家に来て頂き、
私たちが宿泊するリゾートホテルに1月12日の午前中に必着依頼をしたりした。

1月12日、私たちは旅立つ日は、家内は4時、私は5時半に起床して、
軽食を頂き、家を7時過ぎに出た。

そして路線バスに乗車して、まもなく最寄駅の小田急線の成城学園前より新宿駅に到着後、
山手線で品川駅に到着後に、京浜急行線に乗り替えて、やがて羽田空港・国内ターミナル駅・・
やがて出発ロビーに移動するのが、恒例のようになっている。

しかしながら家内は、この間に電車の事故などで遅延することを配慮して、
航空機が発走する2時間半前には、出発ロビーの近くで私たちは待機する習性となっている。

たまたま今回は羽田空港11時30分発の那覇空港行であったが、
羽田空港・国内ターミナル駅には9時少し前に到着した。

確か5年の以前の頃まで、こうした時には、空港内のレストランを利用して食事をしてきた。
しかし殆ど30分前後で食事を終えた後、待ち侘びている方たちもいるので、
この食事処を退去した後、パーラー風の喫茶店のような処でコーヒーか紅茶を飲んだりしてきた。

こうして20数年、それぞれのレストラン、蕎麦屋などで食事をした後、喫茶店を利用してきた・・。
       

そして5年前の頃、いつものように京浜急行の羽田空港・国内ターミナル駅を下車した後、
地下1階のフロアーを歩き、2階の出発ロビーを目指していた時、
何かしら地下1階のフロアーで、簡素な食事処が集約しているのを見かけたりした・・。

『XXちゃんさぁ・・とんかつ屋さん、蕎麦屋さん・・など沢山あるよねぇ・・便利そう・・』
と私は家内に言ったりした。

『あのような所は、フードコートっていうのょ・・』
と家内は微苦笑しながら、世の中に疎(うと)くなった私に教えてくれた。

そして何かと好奇心が衰えていない私は、家内を誘い、初めて入店した。

やがてフードコートには、とんかつ専門店・銀座「梅林」、下町浅草の洋食屋「ヨシカミ」、
青山のピザ&パスタ「トゥ・ザ・ハーブズエクスプレス」、大阪たこ焼「たこぼん」、
中華料理「彩鳳」、日本そば「あずみ野」などがあることを知ったりした。

そして私は山菜そばを食べたり、3か月後の旅路の時は、とんかつを食べたりした。
特にとんかつは程ほどに美味しく、お値段も廉(やす)かったのであった。

食事を終えた後、飲み物も廉(やす)く、1時間ぐらい座っていても、
違和感が感じられない店内の雰囲気で、私たち夫婦の周囲でも、
欧米人らしいグループの数組が寛(くつろ)いで、談笑したりしていた・・。

その上に、私は愛煙家のひとりで、喫煙所は30メートル近くにあり、この近くに化粧室(トイレ)もあり、
圧倒的な便利な所だょ、と私は微笑みながら家内に言ったりしてきた。

これ以来、私たち夫婦は羽田空港・発の旅路は、
この第1旅客ターミナルの地下1階にあるフードコートの『東京シェフキッチン』を利用している。

今回は早い9時であったので、メニューは制約されていたが、私は特選カレーライスを食べたりした。

やがて乗機待合所の23番ゲートの窓辺から、澄み切った冬晴れの中、遥かに遠方であったが冬富士が観え、
私たちの旅路を祝賀してくれているように思えて、私は微笑んだりした。

この後は予定より10分遅れで離陸して、私は機内でJALの機内誌『スカイワード』(1月号)を30分ぐらいで読んだりした後、
買い求めてきた月刊総合雑誌の『文藝春秋』(2月号)を読んだりしていると、14時半過ぎに那覇空港に着陸した。

そして到着ロビーで、私は冬用のフリースを脱いで、冬用のスボーツシャツを少し腕まくりをしたりし、
『やはり沖縄は、東京の5月ような陽気だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

やがてJTBが契約しているホテル間を巡回するリムジン・バスに私たち夫婦は乗車して、
曇り空の中、40分過ぎた時、私たちが宿泊滞在する『ザ・ビーチタワー沖縄』に17時に到着した。
             

そしてチェックイン後、指定された14階の一室に入り、室内は広々とし、窓辺のベランダから中央から右手には海上が観え、
左側は北谷(ちゃたん)の陸上グランド場、野球場、そして街並み、緩やかな丘陵には住宅街が見えたりした。


この後、私たち夫婦は5分たらずにあるアメリカン・ビレッジの食事処で、夕食を思いながら歩いていると小雨が降りだし、
結果としては『ザ・ビーチタワー沖縄』に隣接している島唄と琉球料理の『北谷ダイニング』で、夕食とした。
             

そして島唄を鑑賞しながら、私たちは生ビールを4杯ばかり飲み、あぐー石垣牛盛り合わせ、石垣牛ロース、島野菜サラダ、野菜盛り合わせ、
オムタコライス、島らっきょうを食べたりした。

やがて一時間半ばかり過ごした後、隣接したテラス風の広いサンデッキに喫煙場があり、
私は煙草を喫っていると、先程の食事テーブルで隣席にいた若き男女の御方が近寄ってきて、
私は若き男女の御方と談笑し、家内も加わり、お互いに談笑したりした・・。

何かしら女性の御方は北海道の阿寒湖にお住まいと明言され、若き男性の御方は地元の沖縄と見られ、
私は遠距離の恋愛のように感じて、冬の天の川・・と私は感じ深めたりし、好感したりした。

そして私たち夫婦は指定された部屋に戻り、疲れを感じて21時過ぎに私は寝付いたりした。

《つづく》

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沖縄本島・北谷(ちゃたん)滞在、遊学記【2017.1.12.~1.21.】 序章 旅立つ前の思い

2017-01-22 14:47:02 | 
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。


私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。
            

昨年の2015年2月9日より、オーホッツク海に面した紋別で流氷を目的に三連泊した後、
そしてサロマ湖の厳冬期を見たく三連泊した後、やがて網走湖畔で一泊するプランを旅行代理店に依頼して、
遊学したりした。

結果的に、紋別は観光ホテルの『セントラルホテル』で、サロマ湖は東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に、
網走湖畔で観光ホテルの『網走湖荘』に予定通り宿泊できたりしたが、風雪の怖さを実感させられたりした。

ここ数年、私たちの旅行は、春夏秋冬を含めても激少している。

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、
『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で『おひとりさま』の生活をしたり、私たち夫婦の旅行も少し遠ざかったりしている。
              

やがて家内は家内の母の介護で、疲労が増してきたので、気分転換に、疲労回復も兼ねて
伊豆半島の西海岸にある『堂ヶ島温泉ホテル』に3連泊プランが、クラブツーリズムの雑誌に掲載されていたので、
私たちは利用して、5月8日より周辺を遊学したりした。

まもなく、私たち夫婦はお墓に関しては樹木葬と決めてきたが、肝要の墓地を決定する為、
伊豆七島にある大島に今年5月19日に訪れて、三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』に一泊だけして、
墓地の仮契約したり、三原山に登山したりした。

やがて私は、秋になったら旅行に行こうょ、と家内と話し合ったりして、
能登半島の和倉温泉に少しゆっくりと滞在しょうと、7月中旬に旅行代理店に手配を依頼した。

そして私たち夫婦は10月上旬に旅立つ予定であったが、家内の母の容体の影響で、
結果としては11月7日より4泊5日で、久々(ひさびさ)の秋の旅路となったりした。

12月初旬、駅前の旅行代理店で、ひとつのパンフレットを頂き、私たち夫婦は冬の旅路は北海道が多かったが、
久々(ひさびさ)に日本列島の南海にある沖縄本島に、滞在旅行をしょうかしら、と思案したりした。
              

このパンフレットは、JTBが企画された『沖縄本島・石垣島』の長期滞在型で、
《暮らすようにおトクに滞在》と称して、各リゾートホテルが掲載されていた・・。

        

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れた。

この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズの企画した宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に石垣島に連泊した時、石垣島の島内を周遊したり、
西表島に船で訪れて、仲間川のマングロープの中を小舟で遡ったり、その後はカンビレーの滝まで散策したりした。

その後は隣接した由布島、そして竹富島などの八重山諸島を周遊したりしたが、
カメラを持参していなかったので、心の片隅に残っているだけである。


やがて私は定年退職後、三年過ぎた2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。
                        

そして2013年1月、旅行通販会社の大手のクラブツーリズムに於いて、
フリープランのひとつとして、石垣島フリープラン5・10・14日間が掲載されて、
《 離島桟橋まで徒歩3分の大浴場付きホテルに連泊 》と見出しがあり、
私たち夫婦は、石垣島の島内をゆっくり周遊するのも良いかしら、と思い申し込んだりした。

そして市内の中心街にあるビシネス風の『ホテルグランビュー 石垣』に2月7日より9連泊して、
本島の名所、周辺の新城島(あらぐすじま)、小浜島、竹富島などを遊学した。

この新城島は、バラスと称されるサンゴの欠片だけで出来た白い島であり、
たまたま観光客は私たち夫婦だけて、島内散策と白い浜にたわむれたりした。
      

                

このような沖縄・八重山諸島に、ささやかな想いを秘めた私たち夫婦は、
今回に於いて沖縄本島の滞在地は、那覇市内からバスで40分ぐらい北上した波打ち際に近いリゾートホテルであった。

何かしら県内最高層の23階建ての『ザ・ビーチタワー沖縄』であり、すぐ目の前がサンセットビーチ、
客室から眺望が良い、と明記されたりしている。

そして隣接地には華やかそうな『アメリカン・ビレッジ(村)』、そしてスーパーの『イオン』もあり、
何かと利便性に優れた地域である。

こうしたことを少し学び、沖縄本島のサンセットビーチとして名高い北谷(ちゃたん)町にあるリゾートホテルに
1月12日より9泊10日で滞在旅行をすることとした。

そして私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、この間に読書をしたりして、
家内は日頃の家内の母の介護、そして年末年始に孤軍奮闘した疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごす予定としているが、果たして・・。

《つづく》

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日本は、かの大戦でなぜ敗戦になった主因、つたない私でも思い重ねれば・・。

2017-01-21 12:02:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

そして敗戦なのに『終戦記念日』称している日の朝、都心の皇居に向かい黙祷を重ねたりしている・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ51年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。
             

私は高校生の時に、近現代史にも関心して以来、数多く本を乱読してきた・・。
どうしてあのような無謀な世界第二次大戦を、日本は開始してしまったのだろうか、
と重く心によどんだりしてきた・・。

やがて私はアメリカが計画してきたオレンジ計画に、日本の軍部の上層部は、深く対処できずに、
怜悧な総合戦略も思案できず、それぞれ思惑で迷走を重ねて、やがて戦争に突入してしまった、
このような思いで、ここ10数年ばかり思ったりしている。

オレンジ計画は、アメリカ海軍が戦間期(1920年代から1930年代)に於いて、
やがて起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するために立案された、

アメリカは交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、
日本はオレンジ色に識別したが、日本だけを特別敵視していたわけではない、と学んだりしてきた。

そして計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議で採用されていた。

アメリカはスペインとの戦争によりフィリピン、グアムを獲得した。
そしてアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、
日本が日清戦争により朝鮮半島含め大陸へと進出し始めていた当時であった。

わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、
富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、
スペインとの戦争を終えたアメリカにとっては、潜在的な警戒すべき問題となっていた。

こうした実態から、この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。

日露戦争が終結すると中国問題が、日米間で重要問題化となり、両国間の緊張が高まる。

そしてアメリカは、日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、
一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生した、と私は学んだりしてきた。

オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』
という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。

そして日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、
対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた、と私は学んだりしてきた。
                        

2015年の初夏、私が購読している読売新聞の朝刊に於いて、『戦後70年』の連載記事を読んだりした。
『[戦後70年 あの夏]どう負けた 皆知らない 作家 半藤一利さん 85歳』
と題された記事を襟を正して読んだりした。

もとより作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんは、昭和史研究家として突出されたお方である。
一部を無断ながら、転記させて頂く。

《・・敗戦の原因は、日本人固有の精神構造にあると思います。
情報を直視せず、自分に都合のいい結論のままどんどん行った。

ミッドウェー海戦では、敵機動部隊は出てこないと決めつけ、
ガダルカナル島の戦いでも、敵はすぐに引くと根拠もなく信じた。
兵站(へいたん)が限界を超えても出て行った。

陸海軍合わせ240万人の戦死者のうち、7割が餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。
そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません。

国全体が集団催眠にかかり、勢いで突き進んだ結果でした。・・》
                       

この後、半藤一利さんにインタビューされた編集委員・服部真さんが、
半藤一利さんの思いの記事が掲載されていた。

《・・「一等国」意識の暴走 背景に国民の熱狂

明治から昭和にかけての歴史は、日露戦争(1904~05年)でいったん切った方がわかりやすいと、半藤さんは言う。

日露戦争までは、欧米列強に植民地にされるのを回避するため、近代化を急いだ時期だ。
巨額の軍事費をまかなうため、国民は重い負担に耐えた。
ロシアに対して、世界中が日本が負けると思っていた戦争を始めたのも、自衛のためだった。

日露戦争から昭和の初めまでは、日本が大国として振る舞った時期だ。
戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りをしたと国民は確信するが、そこから日本が変わっていく。

自分たちは一等国民だという意識で動き始めたようだ。

例えば、第1次世界大戦の戦後処理を決める1919年のパリ講和会議では、
分け前を声高に主張して顰蹙(ひんしゅく)を買う。

国際社会で孤立を深めた日本は、英米に敵対感情を抱くようになり、33年には国際連盟を脱退する。

当時の指導者たちは、情勢を直視せず、国際法を顧みずに暴走した。
そして、米国を相手に、勝ち目のない戦争へと突き進んだ。

その背景に国民の熱狂があったことが、半藤さんの話から伝わってくる。 (服部)・・》

私はこうしたあの時代に、現世の私は心を痛め、ただ黙祷し、項垂(うなだ)れたりした。
             

半年の前、ケント・ギルバート・著作『日本覚醒~そろそろ自虐はやめて、目覚めませんか?』(2016年、宝島社)
たまたま私は購読して、アメリカ人なのに、確かな敗戦後の日本の実態に明晰に論調されていたことに、感心させられた。

そしてケント・ギルバート・著作『米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番』(2016年、KKベストセラーズ)も購読して、
多々教示されたりした

そして第二章に『戦争を起こしたのは、アメリカだった』と題された論調は、
これまで私は、つたないなりに数多くの書物から学んだりしてきたが、無知なことを学んだりした。

私はここ10数年、近現代史に関心を深めているので、どのようなことですか、と学びたく精読した。
無断であるが転記させて頂く。

《・・
※対米戦争を回避しようと努めた日本

近衛文麿内閣は、緊張の高まる日米関係を打開しようと、
一九四一(昭和十六)年四月に日米交渉を始めることを決定した。

日米交渉は、四月十四日に、野村吉三郎駐米大使が、
コーデル・ハル国務長官をワシントン市内のウォードマン・パーク・ホテルの中にある長官の私邸を訪ねて、
会談することから始まった。

野村大使は、つづく四月十六日にもハル長官と会談した。
五月だけでも、二日、七日、十一日、十三日、十四日、十六日、二十日、二十一日、二十八日と会談を重ねたが、
見るべき進展がなかった。
             

同じころ、日本本土の奇襲爆撃計画は、陸海軍合同委員会によって、
すでに作戦名が『JB―355』と、つけられていた。
『JB』とは、「Japan Bonbardment」、つまり「日本爆撃」の頭文字である。

五月九日に、ロークリン・カリー大統領補佐官が、大統領に『JB―355』計画について覚書を提出した。
カリーがホワイトハウスで、『JB―355』計画を仕切っていた。

カリーは、中国問題担当の大統領補佐官だったが、中国に深く同情していた。
蒋介石政権と協議するために、この年の一月に中国を大統領特使として訪れていた。

ルーズベルト大統領は五月十五日、陸海軍に対し、
蒋介石政権に爆撃機を供与して、『JB―355』計画を具体化するよう公式に命じた。

これは、機体に青天白日旗マークを塗って、中華民国空軍機に偽装し、
アメリカ人の「義勇兵」に操縦させ、中国の航空基地から発進して、東京、横浜、大阪、京都、神戸を爆撃するという計画だった。

陸海軍の合同委員会が、日本本土爆撃計画の実施へ向けて、詳細な立案に着手した。
目的は、日本の「兵器および経済体制を維持するために必要な、生産施設を根絶するために、
日本の民需、軍需工場を壊滅する」ことだった。


七月十八日、日本本土爆撃作戦計画書に、陸海軍長官が連署し、大統領の手元に提出した。
ルーズベルト大統領はこの作戦を、その日のうちに承認した。

これは、日本の機動部隊が真珠湾を攻撃する、五か月も前のことだった。

この日、七月十八日に、近衛首相が松岡洋介(まつおか・ようすけ)外相を更迭するために、
内閣を総辞職して、第三次近衛内閣が発足した。

代わって豊田貞次郎(とよだ・ていじろう)海軍大将が、外相として起用された。

松岡を追放して、豊田と交代させたのは、アメリカに歩み寄ろうとしたことを意味した。
アメリカのご機嫌をうかがったものだった。

松岡は、日独伊三国同盟を象徴する人物となっていた。
近衛は、松岡がドイツの力を借りて、アメリカに対抗しようとしたことが、日米交渉の障害となっていると考えた。

今日では、ルーズベルト大統領が七月十八日に、
日本本土爆撃作戦を承認した文書が、公開されている。

ルーズベルト大統領は今日でも、アメリカ国民のあいだで、『FDR』 として親しまれている。
アメリカの「英雄」として扱われる、数少ない大統領の一人である。
             

日本は前年八月に、アメリカ、イギリスが仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナムなど)を通じて、
蒋介石政権に、大量の兵器を供給していた、『援蒋ルート』を遮断するために、
フランス政府の同意を得て、南部仏印に進駐していた。

さらに、この年の七月に仏印のフランス当局の承認を取りつけて、北部仏印にも進駐した。

日本では多くの専門家によって、七月二十八日に北部仏印に進駐を強行したことが、
日米戦争の引き金を引いたと信じられている。

だが、ルーズベルト大統領は、その十日前に、日本本土爆撃作戦を承認していた。

B17をはじめとする百五十機の長距離爆撃機と、三百五十機の戦闘機を、
十月一日までに蒋介石政権に供与して、中国の基地から発進させて、
東京、横浜の産業地域と、神戸、京都、大阪の三角地帯に、奇襲爆撃を加えることになった。

この作戦には、中国のどの航空基地から発進して、日本のどの目標を攻撃するのか、それぞれ地図が添えられていた。

日本本土爆撃は、中国空軍が実施することになっていたが、
実際には『フライング・タイガーズ』と呼ばれる、義勇軍に偽装したアメリカ軍の飛行士が行う予定だった。

ところが、日本本土を奇襲爆撃する『JB―355』作戦は、
ヨーロッパ戦線が急迫し、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなければならなくなり、
中国への供与が遅れることになった結果、実施されなかった。

だが、真珠湾攻撃の約五か月前に、ルーズベルト大統領が、
アメリカ陸海軍に対して、日本本土攻撃計画を承認していたという事実には変わりがない。

これは、アメリカ国民を欺き、日本を騙し討ちにするものだった。

もし日本側が、この計画を察知していたならば、真珠湾攻撃は、自衛権の発動に基づいた反撃になるはずだった。・・》
             

こうした幻となった日本本土を奇襲爆撃する『JB―355』作戦、遅ればせながら私は学び、動顛をさせられたりしてきた。

もとより国家は国益に基づき、怜悧な行動をすると歴史から私は学んだりしてきたが、
昨今の日本人は、国益に対する思いは、人が良すぎる為に淡白な方が多い、と私は微苦笑させられる時もある。

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