私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、月末の31日かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしている・・。
新たな年を迎えた時は、ここ9年ばかり恒例行事のように、
家内の母を昨年の29日に我が家に来て頂き、私たち夫婦と共に過ごして新年を迎えて、
3日まで過ごしたりした。
こうした中で、『御節(おせち)料理』のような真似事の数々の単品料理を頂き、
居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、談笑することが多かった。
新年の三が日の朝は、お雑煮を頂いたが、昼食の時は大根(ダイコン)を下(お)ろして、
お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりした。
そして最も素朴な食べ物で、この世で最も贅沢な主食と感じて、頂いたりした。
我が家は『しめ飾り』、『門松(かどまつ)』に関しては、略している。
35年前の新築した初めて年末には、スーパーで『しめ飾り』、ミニ『門松』を買い求めて、
門扉、玄関に飾ったりしたが、
北風の強く吹いた時、あえなくミニ『門松』は吹き飛ばされて、
呆れ果てた私はこれ以来断念したりした。
そして我が家は簡素な『お正月飾り』で徹してきた。
年末近い28日に、家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりしている。
☆我が家のお正月飾りは、家内が中学生の頃から茶事を学び、
たまたま裏千家の流派で、お正月の祝いのひとつの品に準拠して、
左側にあるひとつばかりの品を代用し、簡素としている☆
そして少し寂しいので、スーパーで売っている可愛らしい『鏡餅』を買い求めて、
居間にあるテレビ台の横に置いている。
新年に初めて昇ってくる太陽を拝(おが)む『初日の出』は、
私は平素の日々、朝のひとときに陽射しに向って両手を合わせて、感謝をしているので、
改めて新年に拝(おが)むようなことはしない。
2日は『書き初(ぞ)め』の日と古来から伝えられているが、
私は小学生の『習字』の授業の時、通信簿『2』の劣等生の採点をされ、
これ以来、毛筆、鉛筆、万年筆、サインペンなどで字を書くのは苦手となっている。
そして冠婚葬祭などで署名で困苦する体験を重ねてきたので、『書き初(ぞ)め』は論外となっている。
しかし正月の2日の夜に見る『初夢』は、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられ、毎年享受している。
もとより夢は貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。
やがて7日の『七草粥(ななくさがゆ)』は、我が家は無縁となり、
私は平素の一汁三菜の朝食を頂いたりしてきた。
私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬け・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりした。
そして家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いたりした。
こうした中で、三寒四温の中、近くの遊歩道、公園などをひたすら歩き廻ったりしてきた。
そして私の住む地域は、昨年の12月頃から平年より寒かったので、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、
白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしたりしている。
或いは私たち夫婦は共通趣味のひとつが国内旅行であり、
たまたま1月13日より北海道の函館市の郊外にある『湯の川温泉』の観光ホテルに滞在して、
4泊5日で市内、周辺を散策し、遊学してきた。
過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節は同じように巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は思い重ねたりした。
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。
毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも49年の歳月が流れている。
そして日常の日々こそ、何よりも肝要であり、
惰性に過ごすことなく、残こされた人生の日々を大切に過ごそう、
と私は自宅の付近を歩き、移ろう時節を甘受したり、思考したりして散策している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
散文 ブログランキングへ
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、月末の31日かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
過ぎ去ってしまえば、齢を重ねるたびに早く感じたりしている・・。
新たな年を迎えた時は、ここ9年ばかり恒例行事のように、
家内の母を昨年の29日に我が家に来て頂き、私たち夫婦と共に過ごして新年を迎えて、
3日まで過ごしたりした。
こうした中で、『御節(おせち)料理』のような真似事の数々の単品料理を頂き、
居間の17畳ばかりの一角に6人用の炬燵(こたつ)を設置し、談笑することが多かった。
新年の三が日の朝は、お雑煮を頂いたが、昼食の時は大根(ダイコン)を下(お)ろして、
お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりした。
そして最も素朴な食べ物で、この世で最も贅沢な主食と感じて、頂いたりした。
我が家は『しめ飾り』、『門松(かどまつ)』に関しては、略している。
35年前の新築した初めて年末には、スーパーで『しめ飾り』、ミニ『門松』を買い求めて、
門扉、玄関に飾ったりしたが、
北風の強く吹いた時、あえなくミニ『門松』は吹き飛ばされて、
呆れ果てた私はこれ以来断念したりした。
そして我が家は簡素な『お正月飾り』で徹してきた。
年末近い28日に、家内は何かしら末広がり吉日だわ、と毎年この日に、
和室の戸袋から取りだして玄関の片隅に置いたりしている。
☆我が家のお正月飾りは、家内が中学生の頃から茶事を学び、
たまたま裏千家の流派で、お正月の祝いのひとつの品に準拠して、
左側にあるひとつばかりの品を代用し、簡素としている☆
そして少し寂しいので、スーパーで売っている可愛らしい『鏡餅』を買い求めて、
居間にあるテレビ台の横に置いている。
新年に初めて昇ってくる太陽を拝(おが)む『初日の出』は、
私は平素の日々、朝のひとときに陽射しに向って両手を合わせて、感謝をしているので、
改めて新年に拝(おが)むようなことはしない。
2日は『書き初(ぞ)め』の日と古来から伝えられているが、
私は小学生の『習字』の授業の時、通信簿『2』の劣等生の採点をされ、
これ以来、毛筆、鉛筆、万年筆、サインペンなどで字を書くのは苦手となっている。
そして冠婚葬祭などで署名で困苦する体験を重ねてきたので、『書き初(ぞ)め』は論外となっている。
しかし正月の2日の夜に見る『初夢』は、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられ、毎年享受している。
もとより夢は貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。
やがて7日の『七草粥(ななくさがゆ)』は、我が家は無縁となり、
私は平素の一汁三菜の朝食を頂いたりしてきた。
私は五穀米が入った白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、
カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚、ラッキョの塩漬け・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合うのであるので、頂いたりした。
そして家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いたりした。
こうした中で、三寒四温の中、近くの遊歩道、公園などをひたすら歩き廻ったりしてきた。
そして私の住む地域は、昨年の12月頃から平年より寒かったので、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、
白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしたりしている。
或いは私たち夫婦は共通趣味のひとつが国内旅行であり、
たまたま1月13日より北海道の函館市の郊外にある『湯の川温泉』の観光ホテルに滞在して、
4泊5日で市内、周辺を散策し、遊学してきた。
過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節は同じように巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は思い重ねたりした。
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。
毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも49年の歳月が流れている。
そして日常の日々こそ、何よりも肝要であり、
惰性に過ごすことなく、残こされた人生の日々を大切に過ごそう、
と私は自宅の付近を歩き、移ろう時節を甘受したり、思考したりして散策している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
散文 ブログランキングへ