夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高齢者の私でも、ときには家内に誘われて、都心のデパートに買物に・・。

2011-11-30 16:58:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨今、何かしら新聞の折込チラシで、デパート、スーパーなどの多く、
冬季のボーナス、お歳暮、クリスマスに迎えた商戦かしら、と私は微苦笑していた。

こうした中で、家内はあるデパートのチラシを見たりした後、
『あなたの・・冬のコート・・新調したら・・』
と話しかけてきた。


私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職した後、
国内旅行が私たち夫婦の共通趣味のひとつであり、
確かアウトドアーのフィールド・ジャケットのスリー・シーズン、冬用、
長ズボン、スボーツ・シャツのスリー・シーズン、冬用、夏用は買い改めてきた。

しかし、ブレザーのスリー・シーズンだけは新調したりしたが、
スーツ、コートなどは定年前の着用してきたのを年に何回かは着たりしてきたので、少し古びてきたのである。
このようにアウドドアに関しては衣服は充分あるが、
都心や旅行先の地方都市の市内地など着用する衣服は、そのうちに新調するか、
と私は思ったりしていたのである。

こうして本日の10時過ぎに、久々に私たち夫婦は都心の新宿に向い、家を出たのである。
結果としては『伊勢丹』で冬コート、冬ズボンを2本を購入した。
冬コートは10万円の予算で5000円も余ったし、
その上にデパートの商品券が、たまたま3万円あったので、冬ズボンを2本を購入できたのが実態であった。

その後、私たちは食事処で昼食をしたり、
帰路は最寄駅のひとつ京王線の『つつじが丘』で下車し、自宅まで10数分の道のりを歩いたりした。

そして桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍(きんしゅう)の情景を観たり、
『こうして今年も・・秋を受容できたね』
と私は家内に言ったりした。

こうした中で、紅色、朱色、黄色などで彩った落ち葉が、
吹き寄せのようになっているのを眺めたりし、
確かに私の半生は苦楽の激しい時を幾たびか過ごし、敗残記のような軌跡があったりしたが、
何とか『先憂後楽』を迎えることができた、
と拙(つたな)いなり私は思ったりした・・。


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喪中のお便(たよ)りを頂くの中、公平な視線を保った上司だった人の死去を知り・・。

2011-11-29 14:47:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし『勤労感謝の日』の23日の頃から、喪中のお便(たよ)りの葉書を知人、友人から頂いたりしている。
そしての親御さんの94歳とか96歳のご高齢で死去されたと知ったりした。

こうした中に、私の現役サラリーマンの時代に、ひととき上司だった当人の死去を知り、
特に私は深く精読したりした・・。

《・・
喪中のため新年のご挨拶は
 失礼させていただきます

夫 XXが XX月XX日に73歳で永眠いたしました
生前に賜りましたご厚情を深謝いたしますとともに
ご報告をさせていただきます
故人の遺志もありまして葬儀は身内で執り行いましたので
ご香典、ご供物等は固く辞退申し上げます
皆様には良い年が訪れますようお祈りいたします
・・》

このような文面を私は深く精読したのである・・。

私は中小業のある民間会社に勤め、30代の後半の一時時期、
組織変更と人事異動で、新たに上司となった方の下で、職務に従事していた。
管理畑であるが、この上司は営業畑で活躍されて栄進された方で、
親分肌で部下の多くから好かれていた。
そして休日の合間に、海釣り、スキーなどに後輩たちを引率したりし、
人望も有していた。

ある時、私は同僚のひとりとして、何か職務上の問題で論争になってしまった時、
この上司が聞いていた。
私としては、同僚が海釣りも好きで、この上司に懐(なつ)いていて、
何かと海釣りに幾たびか同行していたことも知っていたので、
不利な論争の結果になると、少し危惧したのは事実であった。

結果として、この上司は私の論に軍配を上げて、
公平な視線がある稀(まれ)な人、と私は強く感じたのである。

まもなくして、組織変更などで私の上司は変わったりしたが、
この上司は幾たびの会議で公平な判断をされていると同僚、後輩たちからも聞いたりし、
私は社内、懇親会などでお逢いするたびに、敬愛を深めたりした。

私は定年退職後も相変わらず年賀状だけは送信し、
この上司からも暖かな年賀状を頂いていた。

退職後の5年も過ぎると、現役時代と大きく変貌し、
たとえ葬儀であっても、お通夜、告別式の参列は、義理のように風化してしまうのである。
こうした心情も察して、この上司は葬儀は身内だけで、と判断された、
と私は解釈したのである。

私も退職後の年金生活を始めた頃に、葬儀は家族葬で、と家内に幾たびか言っているので、
この上司の思いが深く共感できるのである。

この後、私はこの方のお住まいだった方に、手を合わせて、
公平な視線を保った稀(まれ)な人だった、と心の中で呟(つぶや)きながら、ご冥福を祈ったりした。


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齢ばかり重ねた私、このブログサイトにためらいながらも、綴れないことは・・。

2011-11-28 11:51:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳であり、高齢者3年生のつたない身である。

中小業の音楽業界のあるレコード会社の管理畑などを35年近く勤め、
2004(平成16)年の秋に定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、余すことのないように私自身の幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切なのである。

従って、数多く綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、
と言っても差し支えない。

しかし人は誰しも光と影を有しているので、つたない私でも光と影があり、
特に暗く影のことも、このサイトにためらいながら、ときには涙を浮かべて綴ってきたもある。


私は幾たびも綴ってきたが、1944年(昭和19)年の秋に旧家の農家の三男坊として生を受け、
農家の児として幼年期を過ごし、やがて小学生の前期に父、祖父が死去された後は、
大黒柱を失った生家は衰退し、生活に困窮した時期もあった。
その後は、母の孤軍奮闘に寄り、私たち兄妹は何とか世間並みの生活が出来るようになった。

この間の私は、長兄、次兄の優等生であったせいか、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなった。
そして初めて勉強も楽しくなり程ほどの成績となり、
読書に目覚めて、熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。

私は小学生の後半から映画に圧倒的に魅せられて、
この後の中学時代を含めて、相変わらず独りで映画館に通ったし、
高校生になると、下校後にたびたび都心の映画館に寄ったりし帰宅していた。

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、
アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で3度ばかり落選したりしていた。

まもなくして30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから云われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。


結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
この当時は音響・映像メーカーのある大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。

その後、この大企業の音楽部門のひとつが外資系のレコード会社として新設され、
私は異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。


この間は家内と結婚したり、やがて1戸建ての家を構え、
住宅ローンなどが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、
落伍者になるまいと、それなりに奮闘したのである。

ぎっくり腰で1ヶ月ばかり入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして音楽業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たる空気の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされた人もいたし、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。


こうした時に、私たち夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と改めて真剣に話し合った。
私たち夫婦は子供も恵まれなかったので、老後も2人だけの家庭となるので、
残された歳月、その後の片割れになった時も配慮したのである。

老後の資金も肝要なので、私は出向先の不馴れな物流情報センターで、
何とか頑張れて、定年退職を迎えることが出来たのである。


そして定年退職後は、予定通り年金生活となり、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。

ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と言われたりしているが、
大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進され栄達したエリートのお方たちと違い、
数多い中小業で35年ばかり勤め、苦楽の激しかったサラリーマン生活であったので、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態である。


私の日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、ときたま小庭を手入れをしたり、
退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力、感性も衰えた今は、もとより小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログで随筆形式をめざして、毎日投稿し、
生きがいのひとつとなっている。


このように改めて、私の簡略なつたない軌跡を明示してきたが、
このサイトに於いて、どうしても表現できないことがある。
それは私の人格さえも問題視されることで、ためらいながらも結果としては綴れなかった・・。

例えば、皇室の問題であり、天皇陛下、皇后陛下は限りなく敬愛しているが、
肝要の皇太子殿下、妃殿下のご夫妻に憂うことも感じたりしている。

或いは私の勤めたあるレコード会社の秘めたる事柄は、
守秘義務もないが、退職後の8年生となった今でも、礼節として綴れない。

そして格差の問題は歴然として、この世の中に各分野に露呈して現実があるが、
特に生活保護の難題は、綴れないのである。

私はこのサイトに於いて、政治、経済、軍事、社会を含めて、
感ずるままに独断と偏見で、直球とかカープで余すことなく筆力が乏しいまま発露してきたが、
やはりこのようなことは綴れないこともあり、苦笑している次第である。


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たかが『茶坊主』されど『茶坊主』、齢ばかり重ねた私は、微苦笑し・・。

2011-11-27 12:57:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけの家庭で古びた一軒屋に住んでいる。

私は2006(平成14)年の秋に民間会社を定年退職し、予定通り直ちに年金生活に入った。

私が最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし方を考えて、
私は独りで外出して、散策をしたりしながら季節のうつろいを受容したり、
本屋、古本屋に寄ったりしていた。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は買物の担当となったのである。

それでも少し引け目を感じて、家内の茶坊主に専念したりした。

私は定年後は日の出と共に起床するのをモットーとして、
殆ど起きだして、煎茶を飲みながら新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。
そして家内が目覚める頃になれば、
コーヒーを指定されたマグカップを2階の寝室まで運び、
布団の枕元に置いたりし、
『今日は良いお天気になりそう・・』
と私は朝の挨拶代わりに家内に言ったりしている。
そして日中のひととき、コーヒーを5回ぐらい入れたりしている。

私の日常の多くは、買物、散策する以外は、
小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などの読むことが圧倒的に多い。
ときたま本棚の外れにある映画棚のビデオ、DVDを取り出して、居間で観賞したり、
音楽棚からカセット、CD、DVDを取り出して聴くことがある。
テレビに関して、ニュース、天気情報、ときおりドキュメンタリーの番組を視聴する程度であり、
テレビドラマは殆ど見ない。

そして、家内との共通趣味の国内旅行は、ときおり出かけたりしている。

このような年金生活を過ごして、今年の秋に早くも丸7年が過ぎて、
8年生に進級したのである。

最初の頃は、コーヒーの入れるたびの分量が不安定だと、
あとで『真心(まごころ)がこもっていない・・』
と呟(つぶや)くように私に言うのである。

家内の飲むコーヒーといっても、ゴールド・ブレンドのインスタント・コーヒーであり、
ミルクは粉末のブライトを入れるだけである。

私は殆ど煎茶の濃い目を愛飲しているが、ときたまコーヒーを飲むときは、
ゴールド・ブレンドを濃いめにして、少しばかり砂糖を入れたのを飲んでいる。

こうした結果、家内のコーヒーを入れる時は少しばかり創意工夫し、
午前10時、午後の3時の時間帯は通常量、食後の時間帯は少し濃いめとして、
何とか及第点を貰っているのである。

一昨日の深夜、私は居間で本を読み、12時過ぎなったので、
2階の寝室の布団にもぐり込んだ後、
隣に寝ていた家内が目覚めて、私の方に腕を伸びて、
『コーヒーを飲みたいわ・・』
と家内は私に言うのである。

深夜のコーヒーの依頼は初めてあり、私は暖かな布団を抜け出して、
一階の寒い台所でコーヒーを淹れて、茶坊主の深夜便となったのである。

昨夜は家内がいつものように寝ていたが、
私は布団もぐり寝ようとしたら、
『少し風邪気味みたい・・』
と家内は目覚めながら言ったのである。

そして私は起き上がり、
『いつもの風邪薬とお水でいい・・?』
と私は家内に訊(たず)ねた後、寒い居間と台所に寄った後、深夜の宅配便となったりしたのである。

このような平素の年金生活を過ごしているが、多くのご家庭はどのようになさっているか、
もとより私は解らなく、微苦笑ばかり重ねたりしている。


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年金生活を重ねれば、現役時代の懇親会も次第に消滅し、ときには地元の小、中学の同級生と・・。

2011-11-26 14:34:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

民間の音楽業界のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。

この時節、現役の諸兄諸姉はまもなくボーナスシーズンを迎え、
そして忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。


私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。

定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。


その後、私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが欠落したのである。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきたのである。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。

昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、かっての会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。

そして私は近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。


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私の日常の秘かな散歩道のひとつ、恥ずかしながら公開すれば・・。

2011-11-25 17:04:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。


昼下がり、主庭のテラスに下り立ち、黄色、朱紅色に染められた落葉樹を眺めたりしていた。
そして私は秘かに待ち焦(こ)がれた錦繍(きんしゅう)の季節となっている。

平年ならば、11月3日の『文化の日』の頃から、
11月23日の『勤労感謝の日』の頃まで錦繍(きんしゅう)の時節となるが、
今年は暖かな日に恵まれたせいか、10日ばかり遅れている、と微苦笑したりしてきた。

私は幼年期の頃から、初春の芽吹き、そして秋たけなわの錦繍(きんしゅう)の時節に、
圧倒的に魅せられている。

こうした秘めたる私は、この深まるいく錦繍の時節から
晩秋の黄色、朱紅色の葉が舞い散る時節までの季節は、少しばかりそわそわとしてしまう。

私の散策の好きなコースのひとつとして、昨日も歩いたりしたが、
近くに流れる野川の川沿いの遊歩道がある。
そして自宅の近くの野川は、片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所がある。

錦繍の時節を迎えた今、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
ぼんやりと、時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、
と定年退職後から深め過ごしてきた・・。


先ほど、パソコンでネットを開いたら、偶然に私が愛してきた『野川の川沿いの遊歩道』が掲載され、
15分ばかり見つめたりし、微笑みを重ねたりした。

秘かに愛してきた遊歩道のひとつであり、少し躊躇(ためらう)ながらも、
恥ずかしながら公開する。

http://www.odakyu.jp/walk/16/2.html#7
☆【小田急電鉄ホームページ】<==【小田急沿線 自然ふれあい歩道】
                        <==《 狛江駅~喜多見駅(野川)コース》☆

そして東京の田舎者風で、早めに歩き、ときおり立ち止まる少し肥満体の67歳の男、
ご近所の多くの奥様方より10歳ぐらい若いと定評のある人が、もとより私である。


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『携帯電話』も無知で時代遅れの私、いきなり『スマホ』を使うことになるの、と困惑し・・。

2011-11-25 00:17:59 | 時事【社会】
昨夜のひととき、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】を開き、
トビックスのニュースの見出しのひとつには、

《 iPhoneがとどめ、国内端末 窮地 》

と明記されていたので、どのようなことなの、と思わずクリックした・・。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111124-00000000-toyo-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【東洋経済オンライン 】<==《 iPhone4Sがとどめ、国内携帯端末メーカーの最終章 》☆


私は1998〈平成10〉年の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始めいたが、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999〈平成11〉年の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

東京ドームより遥かに広い商品センターの中で、私は携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、多くの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていたのである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、
我が家は夫婦2人だけの家庭である上、私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
数年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話の各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりしている。


このように私たち夫婦は。携帯電話も使えず、世の中の時流から取り残されている中、
ここ一年はスマートフォン(多機能携帯電話)の機能が増している。
従来の携帯電話はもとより、バソコン、デジカメ、カーナビ、携帯音楽プレーヤー、
ゲーム機、電子辞書なども有している機能もある、と知り私は驚いているひとりである。

私はパソコンに関しては、自宅のディスクトップ型で日々ネットで検索したり、
ブロクの投稿文を綴ったりしている。

そしてデジタル携帯音楽プレーヤーに関しては、
1990〈平成2〉年の頃から、CD携帯プレーヤーのウォークマンを愛用し、
今でも散策の時など、CDアルバムを数枚を簡易バックに入れて、
CDプレイーヤーで聴いている。、
しかし、世の中の音楽の愛好者はデジタル携帯プレーヤーに寄る250曲以上も収録できると聞いたりすると、
私なりに眩暈(めまい)を感じている。

或いはデジタルカメラに関しては、定年退職の記念として、
購入したのを旅行などで、日本の四季折々の情景を撮ったりしている。


このような単細胞の私は、いずれは音声通話とGPS機能の携帯電話を保有しょうと考えていたが、
今回のこのニュースを知り、動顚したのである・・。

私が解釈できたことは、従来の携帯電話は国産はもとより急速に消滅し、
スマートフォン(高機能携帯電話)の世界となることである。

そして予感できることは、アップルの『iPhone(アイフォーン)』、
或いはグーグルの基本ソフト『アンドロイド』を搭載した低価格の機種が、
ますます世界の各国の市場で熾烈な競争をして、急激に拡大させ、
やがて片方が制覇するまで戦いが続くと思われる。

こうした状況下に於いて、『携帯電話』も無知で時代遅れの私が、
いきなり『スマートフォン』を使うことになるの、と思い馳せると、
最新鋭の複合機種の『スマートフォン』をたじろぎ、困惑してしまうのである。


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永池健二(ながいけ・けんじ)・著の『逸脱の唱声 歌謡の精神史』、思わず読んでみたい本となり・・。

2011-11-24 15:18:43 | 読書、小説・随筆
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていて、
【本のよりうり堂】の中の【書評】のひとつを読んだ後、読んでみたくなった本がある。

奈良教育大教授で日本文学を専攻されている永池健二(ながいけ・けんじ)氏が、
『逸脱の唱声 歌謡の精神史』(梟社)が上梓され、
立正大教授で古代文学、伝承文学の専攻と名高い三浦佑之(みうら・すけゆき)氏が、書評されていた。

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20111121-OYT8T00400.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==【本のよりうり堂】
      <==【書評】<==『逸脱の唱声 歌謡の精神史』 永池健二著  評・三浦佑之(古代文学研究者・立正大教授)☆

私は三浦佑之氏の書評に導かれて、書評の魅力ある優(すぐ)れた文体を読んだりしたのである・・。

《・・
「酒盛」という語が登場するのは中世後半、南北朝から室町時代にかけてのことで、
それは酒を飲む行為が神事から離れて独自の楽しみになったことを意味する。

そこでは小歌をはじめ、「平家語り、早歌、能の小舞、小謡、乱舞等々」の新興芸能が行われた。
室町の歌謡集『閑吟集』の有名な一首「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂へ」が人々を誘引する言葉となるには、
風流踊りのような集団的舞踊の場や酒盛りが必要だった。

隠遁(いんとん)や漂泊が社会からの逸脱の一形式であったように、
人々を「<逸脱>の共同性」に誘うのが酒宴であり、歌=唱声であると説明されると、
我々の宴会やカラオケとも変わりがないと思う。

一方、独りさびしく歌う「鼻歌」は、
「中世と近世の境目頃に登場したきわめて新しい用語」らしい。
すでに「ひとり歌」という語は古くからあり、独りで歌を歌うことを古代では「うそぶく」と呼んでいた。
それは、「眼に見えぬ神霊や霊魂、鳥獣の霊など、この世ならぬ存在に働きかけてその力を喚起したり、退散させたり」
する行為だったと著者は言う。

さびしい夜道を独りで歩いていると、だれもが鼻歌を歌いたくなってしまうのは、
その原義から考えて当然のことだと気づかされる。


一般書とは言いにくいが、歌とは何か、人はなぜ歌うのかなど、
歌うことの意味を考えてみたいという人にはお勧めの、刺激に満ちた好著である。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしている中、
買物とか散策の途中、或いは小庭の樹木を眺めたりしていると、思わず鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことがある。
誰しも孤独があり、寂寥感を感じたり、ある時はささやかな悦びを感じる時などに、
私は発露していると思われる。

たまたま今回の浦佑之氏の書評に導かれて、
永池健二(ながいけ・けんじ)氏の著作『逸脱の唱声 歌謡の精神史』を読みたくなったのである。


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綾瀬はるか(あやせ・はるか)ちゃん、実家の祖母への真摯な思い、齢ばかり重ねた私でも好感し・・。

2011-11-23 22:08:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
朝のひととき、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
トップページの中央の中で、
《 尊敬する元気な祖母  》
と題されて、麗(うるわ)しき若き女性の写真が掲載されていた。

私は未知の女性であり、素敵な顔立ちに見惚(みと)れながら、
齢ばかり重ねた私でも男性のひとりであり、女性に興味を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念もあり、
こっそりとクリックしてしまった・・。

☆【YOMIURI ONLINE】
     <== 読売新聞の医療サイト(yomiDr.)【すてきライフ】<==《尊敬する元気な祖母》 ☆

私は読みながら、この麗(うるわ)しき若き女性は、女優の綾瀬はるか(あやせ・はるか)さんと解ったが、
何よりも実家の祖母への真摯な思いに、瞬時に好感した。

《・・
戦後、日本が貧しかったころのことは、広島にいる実家の祖母がよく教えてくれます。
パンの耳にお砂糖を付けて揚げたお菓子がぜいたく品だったこと、
まきのお風呂を沸かすのはとても手間がかかったこと……。

祖母は80歳代半ばですが、
とても元気で、朝のトイレ掃除、ストレッチや散歩も欠かしません。
勉強家で、本をたくさん読むし、私がプレゼントした電子辞書も見事に使いこなしています。
同じ女性として尊敬しています。
私も将来、そんなおばあちゃんになりたいな、と思うけれど、たぶんなれないなあ。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私は無念ながら、このような心を発露された女優の綾瀬はるかちゃんの作品は鑑賞したことはないが、
優れた表現をされる方である、と若き日に映画青年の真似事をした私は、感じたりしている。


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『勤労感謝の日』、現役の諸兄諸姉に思いを馳せ、年金生活の私は『年金感謝の日』と命名し・・。【下】

2011-11-23 15:17:15 | 時事【社会】
私が年金生活を享受しているが、日頃から秘かに根底に念願していることは、
ベルリンの壁の崩壊前の日本の姿に近くすることである。
短絡的に表現すれば、真摯な働けば多くの日本人が総中流家庭が実感でき、
明日に希望を託すことのできる時代で、
今後の日本の指針は総中流家庭の復興で、数多くの人々が安心し実感できる社会である。

この実現の為には政治は混迷、経済の低迷、社会の劣化の現状の中、
政治は民主党、自民党らの日本の明日のグランドデザインを真摯に政策を描ける方たちが、
結集の動きがあれば、無力な私でも賛意する。

何よりも悩ましい経済であるが、ここ40年の経済の大きく変貌し、
特に1990年にベルリンの壁が崩壊された後は、世界経済が更に激動し、
日本経済も余儀なくされてきた実態を配慮しなければならない。

この目的を達成する為には、もとより経済の成長は不可欠であり、
急速な超高齢化社会を迎えている今日、社会保障制度の基盤の安泰が何よりの前提条件となる。

問題の中核は各世代の負担であるが、
もとより30、40代の若い世代に現状のように加重負担させるのは過酷であり、
肝要に働いて下さる諸兄諸姉の多くの方の明日への芽を摘み取ることになる。

現状の財産形成の人口分布は、高齢者の方達が圧倒的に多く占有しているが、
高齢者自身は安心でき、将来も託すことのできる社会保障制度になっておらず、
多くの高齢者はやむなく自己防衛のために、生活を切り詰めて、少しつづ貯金をしている面もある。


私はサラリーマンの現役時代に数多く人々と同様に多忙な時、
確か15年前の頃、終電も過ぎたのでタクシーで帰宅する途中、
『旦那・・景気を良くする方法はないですかねぇ・・』
と私はドライバーの方から訊(たず)ねられたことが、数多くあった。

『年金生活をしている方に、消費して頂ただければ、内需は拡大し日本経済も良くなります。
その前提としては、社会保障制度が安心できると実感されれば、
貯金を崩されて買物をされると思います・・』
と私はドライバーの方に言ったりしていた。


現状の時点に於いては高齢者の年金だけ見ても、
若い30、40代の人たちが羨望するような額が、高齢者の多くの方たちに支給されている実態である。
私さえ民間の中小業に35年ばかり勤め、奮戦したこともさることながら、
年金は満62歳を過ぎてからは月平均20数万円頂いている身である。

もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えているのである。

もとより私より10歳以上齢上の人たちは、
敗戦後の荒廃した日本を、少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代と称される世代も奮闘し、
確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

その上、経済は低迷していると云われている現在さえも、国民は飢えることなく飽食の時代となり、
長寿化の時代を迎えている。


昨今、政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化の今日、
社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と報じられている。

こうした中で、多くの高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉の多くは、高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
私のように定年退職し年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない、
危険な政治状況と憂いているひとりである。

このような思いになると、たとえば福祉などは、
高齢者の方たちは、これ以上に国、都道府県、区市町村に頼るのは甘えである。

或いは現状の社会保障制度のままで放置すれば、
現役世代の若い30、40代の人たちは、何かと過重負担となり、
やがて耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と思ったりしている。

そして、働いて下さる諸兄諸姉は、高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、益々粗末にする風潮の世界となる。


このようなことを配慮すれば、私も高齢者3年生の67歳の身であるが、
あえて、消費税5%を撤廃し、社会保障税を少なくと10数%(専門家の諮問委員会で試案させる)を設定し、
年金、医療、介護の専用の財源とし、国からの負担の助成とする。
そして各世代の人々が社会保障税として程々に負担するのが望まく、社会保障制度を万全に近い形とした上で、
多くの方たちが安心できる社会を期待しているのである。

このことが私がめざす総中流家庭の復興の確実な一歩と思っている。


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『勤労感謝の日』、現役の諸兄諸姉に思いを馳せ、年金生活の私は『年金感謝の日』と命名し・・。【上】

2011-11-23 11:15:38 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、居間にあるカレンダーを何気なしに見ると『勤労感謝の日』と朱記され、
思わず恥ずかしくなり、微苦笑したりした。

私は2004(平成16)年の秋、35年近く中小業の民間会社でサラリーン生活を終えて定年退職した後、
私は年金生活で過ごしているので、昨今は曜日の感覚が衰えている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

私の住む調布市の片隅で世田谷区と狛江市に隣接した地域では、
この日『勤労感謝の日』の頃になると、自宅の小庭、付近の遊歩道、小公園の落葉樹が、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られる錦繍(きんしゅう)の華やかな情景のピークとなり、
過ぎし11月3日の『文化の日』の頃から、色合いを染め始めるので、
と毎年待ち焦(こが)がれているひとりである。

そして『勤労感謝の日』を過ぎる頃になれば、落葉が吹き寄せのように幾重にも重ねはじめ、
イチョウのたわわな葉が黄色の色合いを深めて、
12月の初旬の頃に落葉し始めるて、季節は晩秋から初冬に移り変わる・・。


このような思いで年金生活を過ごしているが、私のサラリーマンの現役時代には、
『勤労感謝の日』に際しては、それなりに想いである。

私の30代は、会社の販売締切日がたまたま20日であり、
コンピュータの専任者であったので、『勤労感謝の日』は月次処理作業で追われていた。
もとより休日出勤務をしていたが、経理の決算の担当者も出勤されていたので、
『働けるうちに・・こうしていられるのも・・幸せかも知れない・・』
と私は決算の担当者に言ったりしながら、疲れ切っていたが、奮闘していた。

40代になると、システムの開発と運営の併行業務となり、
たえず身体も張り、ときには週一回の日曜日だけは休めれば良い方で、
土日、祭日の休日もなくなった時期が多かった。
そして、ときおり徹夜となり、早朝を迎えると、
『今・・働らなくて・・いつ働くのよ』と心の中で、自身を励まして奮戦していた。

そして50代は情報畑から他部門に異動したり、後半は業界のリストラ烈風の中で出向となったりしたが、
相変わらず心身ギリギリまで業務に専念したりし、
特に勤務地の遠い出向先に於いては、『50代後半でも体力勝負は・・勘弁してほしい』と、
心の中で呟(つぶや)くことが多く、サラリーマン生活を卒業したのである。


昨今、過重労働などと新聞で読んだり、テレビで視聴すると、
私たちの時代も同じであった、と思ったりしている。

ただ、昭和の時代が終る頃までは、
日本の経済は躍進していたので、真摯に職責を果たせば多くの人々が明日に希望が持てる時代であったので、
少なくとも団塊の世代、少し齢上の私たち世代、そして先輩の人たちは、
幸運な時代に恵まれていた、
ときおり私は深く感じたりすることがある。


年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


こうしたささやかな生活をしているが、もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えているのである。

こうした現状を思考すれば、私は現役世代の諸兄諸姉に感謝をしながら、
思わず11月23日は、年金生活をしている私は『年金感謝の日』と命名した。

もとよりここ10年前の頃から、年金の世代格差の難題が露呈して今日、
解決策のひとつとして、私なりの思いを綴る。

                            《つづく》

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倉本聰(くらもと・そう)氏の幻の脚本『學』、テレビドラマ化されると知り、私は微苦笑し・・。【下】

2011-11-22 17:47:44 | 映画・テレビ
私が創作者・倉本聰(くらもと・そう)氏の脚本のひとつ『學(がく)』の作品を初めて読んだのは、
確か1993〈平成5〉年の12月の頃だった、と記憶している。

山岳を愛する専門誌として名高い月刊誌の『山と渓谷』の出版社(山と渓谷社)より、
別冊として『倉本聰の世界』(発行日・1993年12月20日)が発刊され、
私は敬愛している倉本聰(くらもと・そう)氏であったので、もとより購読したのである。

そして巻末に未発表のシナリオとして、この作品の『學(がく)』が掲載されていて、
私は精読した・・。
20年近く過ぎ去っている今であるが、
確か北アメリカの氷河をたたえる高山を背景に展開するドラマで、
読了後、テレビドラマ化、そして映画化でも、このような広大な背景で、人の心の深淵を描かれた内容は、
製作費を配慮すれば、とてもテレビドラマ、まして映画の作品で完成させるには困難な作品である、
と強く感じていたのである。

時は過ぎ、時代も変貌した今日、今回WOWOW開局20週年記念のひとつとして、
テレビドラマとして、2012年1月1日(祝・日)午後8時より放送されると知り、
WOWOWの英断もさることながら、何よりも氏の作品が視聴できることに悦んでいるひとりである。


私は無念ながら倉本聰氏にはお逢いしたこともないが、
数多くのテレビのシナリオを読んだり、放送されたテレビの作品を視聴したり、
映画の脚本、そして作品も観たりしてきた。
或いは随筆の数々の単行本を購読し、熱愛し読み始めたのは昭和が終る頃であった。

どなたでも作家の作品、シンガー・ソングライターの歌などで、偶然に接して、
ある日突然に心がざわめき魅了され、無我夢中に熱愛すると思われる。
私も創作家の倉本聰氏を書物で偶然に知り、
その後にある時から魅了されて、夢中に過去の作品を読んだり、観たりしたひとりである。

このサイトに於いても、私は創作家・倉本聰氏から、
数多く教示されたことがあり、投稿したりしているが、今回は省略する。


私が倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)氏の『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰氏の作品に初めて知り、印象が残った。

この後、10数年後に私にとっては、倉本聰氏に信愛するひとりとなり、
現在まで続いている・・。

改めて、私は倉本聰氏からは、
作品はもとより、生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多々ご教示を頂き、
人生は不思議な賜物(たまもの)がある、と深く思ったりしている。



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倉本聰(くらもと・そう)氏の幻の脚本『學』、テレビドラマ化されると知り、私は微苦笑し・・。【上】

2011-11-22 10:24:57 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
先ほど、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】の数々のニュースを読んだりしたいたが、
この中のひとつの見出しに、

《 倉本聰、“20年越し”ドラマは『北の国から』ネガティブ版 》

と明記されていたので、私が長年に敬愛している創作者・倉本聰(くらもと・そう)氏であるので、
どのようなことなのかしら、と思わずクリックした・・。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000317-oric-ent
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【オリコン】<==《 倉本聰、“20年越し”ドラマは『北の国から』ネガティブ版 》 ☆

そして、WOWOW開局20週年記念のひとつとして、
長らく幻の脚本と知られた『學(がく)』がテレビドラマとして、
2012年1月1日(祝・日)午後8時より放送されると知った。

この後、この下段に掲載されている関連記事のひとつで、
《倉本聰、最新作は「『北の国から』のネガティブバージョン」(cinemacafe.net)》
精読し、氏の『學(がく)』の創作意図を私は学んだりした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111121-00000026-flix-movi
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【シネマトゥデイ】<==《 倉本聰、幻の脚本がドラマ化!WOWOW開局20周年記念「學(がく)」は「北の国から」のネガティブバージョン! ☆



私がこの『學(がく)』の作品を初めて読んだのは、
確か1993〈平成5〉年の12月の頃だった、と記憶している。

この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に努め、
外資の親会社の要請で、資本下にある日本のレコード会社のふたつが合併して、まもない時であり、
私なりに与えられた職責に奮闘していた時でもあった。

                            《つづく》

後編は、私なりのこの『學(がく)』の作品を含め、
創作者・倉本聰(くらもと・そう)氏に関しての思いを綴る。


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「知的能力」全盛期は50代、と67歳の私は教示されても、どうしてなの、と呟(つぶや)き・・。

2011-11-21 10:05:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨日の深夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】のトップページに【トピックス】があるが、
この中のひとつの見出しに、

《 「知的能力」全盛期は50代 》

と明記されていたので、どのようなことなのかしら、と好奇心ばかり強い私は、
こっそりとクリックした・・。

《 ビジネスマン「知的能力」全盛期は50代だった! 》

と題された記事で、リクルートが発行している25歳以上の男性ビジネスマン向けのフリーマガジンで、
この雑誌の記事をウェブサイトとして、
【web R25(ウェブ アールニジュウゴ)】を命名されたサイトから配信された記事と私は解った。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職し、
その後は年金生活をし、サラリーマンを卒業したので、
もとよりビジネスマンとは疎遠になっているが、好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念もあり、
読みだしたのである。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20111120-00000011-rnijugo-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】<==
     【web R25】<==《 ビジネスマン「知的能力」全盛期は50代だった! 》 ☆

記事を綴られた呉 琢磨さんに寄ると、
《・・
職場においては若手~中堅にあたるR25世代。
「働き盛り」なんて言葉もあるけれど、実際のところ、僕らが働くうえでもっとも能力が高まるのって何歳ごろなんだろう? 

職種によって異なるとはいえ、人間の能力は大別すれば「身体能力」か「知的能力」のはず。
そこでサンプルとして、両者の象徴的な職業におけるトップ集団の全盛期を探ってみた!

まずは肉体エリートの代表として、
今年度のプロ野球12球団の開幕スタメンの年齢を調べてみると、平均は29.9歳。
より運動量の多いサッカーJ1の開幕スタメン平均は26.7歳。
競技特性の違いもあるが、20代半ば~後半が身体能力のピークというのはイメージ通りかも。

それに対して、頭脳エリートの全盛期はいつ頃か。
プロ棋士のデータを見てみると、囲碁の日本七大タイトル保持者の平均年齢は意外と若く32.2歳。
将棋の七大タイトル保持者は、やや上の39.3歳だった。
肉体に依存しない知的能力は30代がピークということ?


「人間の知能構造は、記憶力や瞬間的な計算力、運動能力などを左右する『流動性知能』と、
マネジメント能力に相当する『統括性知能』、
知識や経験に相当する『結晶性知能』の3種類によって成り立っています。

流動性知能は18~25歳をピークに衰えていきますが、
統括性知性と結晶性知能は年齢を重ねるほどに伸びていき、50代でピークを迎えるんです」
と教えてくれたのは、脳神経科学を専門とする諏訪東京理科大学の篠原菊紀教授。

「立場によっても異なりますが、マネジメント的な役割が求められるビジネスマンなら、
必要なのは頭の回転の速さより、深い経験と洞察に基づいた思考力や判断力です。
ビジネスマンの脳(能)力の全盛期は50代といえるでしょうね」

ルールが複雑な現実社会のビジネスでは“年の功”が勝る領域が大きいということかも。
将来の全盛期に力を発揮すべく、多くの経験を積んでおきたいものだ。

(呉 琢磨)
web R25 11月20日(日)7時15分配信
(R25編集部)

※コラムの内容は、フリーマガジンR25およびweb R25から一部抜粋したものです
※一部のコラムを除き、web R25では図・表・写真付きのコラムを掲載しております
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


この記事を精読した後、高齢者3年生の67歳の私としては、
何かとこの人生の歩みに遅れてきた半生なので、年金生活の今が、「知的能力」全盛期と確信をしているので、
微苦笑をしたりした。

私は東京郊外の調布市の片隅の世田谷区と狛江市に隣接した地域に住み、
結婚した前後の5年間を除き、早や60年は過ぎている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりでもある。

祖父と父が中心となり、小作人だった人たちのご厚意の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは、3番目は何かしら女の子を期待していたらしかった。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、学校の成績は優等生であり、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむなく田畑を売り、小田急線の狛江駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。

私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、高校時代になって初めて勉学が楽しくなった。
そして遅ればせながら、読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、アルバイトなどをしながら映画・文学青年の真似事をし、
やがて幾度も小説新人の応募で最終候補6作に漏れ、落胆し、やがて挫折した。

やむなく民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
この当時は映像・音響メーカーのある大手の民間会社に中途会社にできたのは、
1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなく、この会社の中の音楽事業本部のひとつのレーベルが、
外資レコード会社として新設されて、私も異動させられた。
そして六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、
もとより音楽業界とコンピュータ業界に関連していたので、
時代の最先端にいると勘違いしたりした。

この間、幾度も恋をしたが、失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に、若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

そして、55歳を迎える寸前に、音楽業界はリストラ旋風の中、
私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、お互いに残された人生の歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に栄進したエリートでなく、
勤めた会社の出世競争にも取り残されて、屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。

こうした負け戦のような半生を過ごしてきたが、
3年前に中学時代の有志で懇親会を開催した時、同級生の初恋の美麗な女性から、
『人生は・・誰しも公平にできているわょ・・
XXクン、あなたの人生・・これから良くなるわょ』
と大いに私は励まされた。

そして私たちはカラオケを共に唄いながら、この同級生から手を握られ、
私としては50年来の夢が叶(かな)えられたのである。


年金生活を過ごしている今、
働いていた35年は、もとより税金などで社会人のひとりとして責務を果たし、
それなりに苦楽のある半生を歩んできたが、
定年退職後は趣味の「知的能力」を深めたりしているので、我が人生の全盛期かしら、
と微苦笑しているのである。


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『女子校ならでは 心温る文化祭』、恥ずかしながら高齢者の私は、ネットで拝見して・・。

2011-11-20 17:42:49 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
トップページの中央の中で、
《 女子校ならでは 心温る文化祭 》
と題されて、キティちゃんに赤いリボンが付けた可愛らしい写真が掲載されていた。

私は女子校の文化祭を拝見したこともないが、
高齢者の男性の身であるが、好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、と信念もあり、
恥ずかしながらクリックしてしまった・・。


この文化祭は『聖徳大学附属女子中学校・高等学校「聖徳祭」』と解り、
取材された読売新聞の森 恵子・記者の記事に導かれて、
《・・女子校ならではの特性を生かしたカリキュラムや情操教育にも定評があります。》
に安堵を覚えたりした。

具体的な内容として、
《・・
実力派の書道部

廊下のあちこちに書道の授業での作品が展示されているが、どれも見事だ。
さらにすばらしい書道部の展示は、大人顔負け、いや足元にも及ばない作品の数々だった。

・・さまざまな書道展で受賞している常連校というだけに
展示されていた「古今和歌集」の見事な変体仮名に、しばらく見とれてしまった。


礼法部のゆかしいお席

礼法部で、煎茶手前の券を買うと、水と石畳を配した現代的な茶席の待合「洗心亭」に案内された。
席では、小笠原流礼法の解説とともに、和菓子と煎茶がふるまわれた。
わかりやすい説明と、心温まるもてなしに来場者は満足していた。

聖徳学園には「礼法」の授業があるが、礼法部ではさらに深く学んでいる。
ただし、ほかの部と違って部員は高校生だけだ。
「部活では、煎茶や抹茶手前のほか、ふすまの開け閉め、浴衣の着方などを学びます」という。
きもの姿もいい雰囲気です。


高校に音楽科のある同校らしく、ホールでは終日コンサートが開かれた。
・・
最後に演奏した「吹奏楽部」は、中学1年から高校3年まで部員が56人にのぼる。
前列のピンクのTシャツを着ている生徒は木管楽器、後列の黄色のTシャツは金管楽器だ。
元気で楽しい演奏に、観客がどんどん増え、200人を超えた。
ラストは「コパカバーナ」、アンコールは踊りながら「ミッキーマウス・マーチ」を演奏した。
・・》

特に私は、このような内容を写真を拝見しながら、読んだりしたのである。


私の住む地域の近くに、市立の中学、都立の高校、そして音楽専門の大学があり付属の中・高校もあるので、
下校時の中・高校生を私は見かけたりする。
或いは小田急線を利用している時も、幾たびか中・高校生を私は見かけたりする。

携帯電話に触れている方、或いは文学書の小説・随筆かと思ったら漫画本が多く、
文学少女、少年は死語になったのかしら、と苦笑することが多い。

何より憂(うれ)うことは、女子生徒でも、しぐさが粗雑になったり、
言葉が余りにも乱暴で、親御さんは情操教育はどうようにしているか、
或いは社会人になった時、どうように変貌できるのか、と暗澹たる思いも感ずることが多いのである。

今回、たまたま礼儀作法の基本である礼法部のゆかしい情景、演奏される溌剌とした状況など、
こうしたことも女子校の中で学ばれるのか、と感心しながら私は安堵を深めたりしている。

お詫び)この記事は読売新聞のプレミアム・サービスの【yorimo】であり、
    投稿した後に、添付掲載ができないと判明し、お詫び致します。
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