夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私の秘かな心の女神は、中島みゆき女史である、と確信を深めながら・・。

2013-05-31 17:13:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一戸建てに住んでいる。

午前のひととき平素の買物専任者の私は、スーパーに2店で買い求めた後、
少しばかり散策した。

午後のひととき音楽棚からCDアルバムを2枚ばかり聴いた後、
やはり私は一枚のCDを音楽棚から取り出したのである。
シンガーソングライターと名高い中島みゆきさんのアルバムの一枚であった。

今回、私が手にしたのは、『短編集』とタイトル名であり、
そして11曲目の『ヘッドライト・テールライト』をCDラジカセに指定した・・。

このアルバムは2000(平成12)年11月15日に発売され、
私は中島みゆきさんのファンのひとりであるので、
退社後の駅前のソフト販売店で購入したアルバムのひとつである。
          
私は中島みゆきさんのファンの証(あかし)に関しては、
このサイトに於いても数多く綴ってきたので省略をするが、
この頃もアルバムが発売されるたびに買い求めてきた。

このアルバムが発売された当時の私は、
前年の1999(平成11)年2月より、本社の勤め先より、出向となった。
          
私は音楽業界のあるレコード会社に1970(昭和45)年より勤めていたが、
レコード業界は、1998(平成10)年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となった。

私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社で30年近く勤めいたが放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分です、と悪戦苦闘しながらも精務した。

               
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
                              

この間、確か2000(平成12)年の頃だったと思われるが、
家電メーカーなど大手企業がリストラ旋風になり、
『レコード各社は中小業であり・・特に外資系は先手となりリストラをし、俺のように出向となったり・・
家電メーカーは今頃になって・・リストラかよ・・やはり大手企業は余裕があるよなぁ・・』
と私は心の中で苦笑させられていた。

この一方では、時代を反映させてかNHKが『プロジェクトX 挑戦者たち』が放映され、
この番組の主題歌として中島みゆき女史の『地上の星』、
そしてエンディング・テーマ曲として『ヘッドライト・テールライト』が流れていた。
http://www.youtube.com/watch?v=1v90BoB__3E&list=PL9E92108FA8D928A1&index=4
☆YouTube【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】☆

私が初めて『ヘッドライト・テールライト』聴いた時、
瞬時に魅了され、そして感銘を受けたのは、

♪語り継ぐ人もなく
 吹きすさぶ風の中へ
 紛れ散らばる星の名は
 忘れられても
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき  】

という詞であった。

そして何よりも出向となっていた私の心情を支えてくれたり、
この後の定年退職後の年金生活の今でも、最も励ましてくれる詞が、

♪行く先を照らすのは
 まだ咲かぬ見果てぬ夢
 遥か後ろを照らすのは
 あどけない夢
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき  】

この励ましてくれる詞が、私にとっては何よりも大切な言葉となっている。
                    

私の人生の半ば、中島みゆきさんの『エレーン』を1989〈昭和64〉年に遅ればせながら初めて聴き、
この当時の私は情報畑で、消費税実施が4月から実施されるのでシステム改定、
そして昭和天皇がご逝去となり、『昭和』から『平成』の年号改定に苦闘していた時で、
心身ボロボロのような時に聴いたのである。

その後、私は40代の半(なか)ばに、ギックリ腰が悪化して、
28日ばかり入院して、もとより業務から離脱し、社会から取り残されたように心情の時、
『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。

このように私は人生の苦節の時、3度も中島みゆきさんの歌で救われたので、
私は敬愛しながら、女史という敬称が相応しい、と思っている。

私は女史という敬称は、女性の中で私が深く感銘を受けた社会的地位や名声のある女性に対し、
敬愛をこめて使用している。

たとえば、今回の場合は『中島みゆき氏』では、何かしら固苦しく他人行儀のような心持ちであるし、
『中島みゆきさん』では、敬愛していても直接にお逢いして言葉を重ねた人でないので何かしらおかしく、
まして私より齢下のお方であるので、『中島みゆきちゃん』・・馴れ馴れしく失礼であるし、
『中島みゆき』などと呼び捨てにするのは論外と思ってきたのである。
やむえず、『中島みゆき様』と照れ隠しのように綴ったりする時ある。

このような思いで、『中島みゆき女史』、私の心からしてぴったりと確信を深めている。
          
昨今の社会風潮の一部に於き、気性の勝った女性をからかい気味に言う時にも用いられる、
と何かの本で読んだことがあるが、
こうした解釈をされる方は、特に平成の初めの頃から社会が劣化した風潮の中で、
薄まった文化しか学んだことのない人である。

こうした中で、特に私の秘かな心の女神は、家内は別格であるが、まぎれなく中島みゆき女史である。

尚、私はあるレコード会社の管理畑を長らく勤めた身であるが、
中島みゆき女史の専属契約先のレコード会社とは、無念ながら関係がないことを明記する。

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つたない私のブログの投稿文、ときには時空を越えて、微笑みながら・・。

2013-05-30 12:59:05 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
この【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙~』を
午前中のひとときに開きのが多くなっている。

本日も小雨降り小庭を眺めながら開き、昨日の5月29日のアクセス数を見て、
『閲覧数(PV)は2685』、そして『訪問者数(IP)は452』
と表示され、私のつたない実力はこのようなものかしら、と思ったりした。

しかしながら閲覧数(PV)は、ここ5年ぐらいはグーグル、マイクロソフトなどの大手のロボット検索で、
大幅に加算されているので、実質数は不明であるので、私は余り気にしていない。

この後、『アクセス解析』の中で、『ページごとの閲覧数』に於いて、
昨日まで投稿文ごとの閲覧数を、漠然としてどの投稿した文が・・、
という思いで参照として見ることがある。

こうした後、コメント数の少ない私でも、こっそりと『コメント管理』を見たりし、
コメントを下さった場合は、殆ど昨日の投稿文に対してである。
          

本日も『コメント管理』を見たが、驚いてしまった・・。
昨年の2012〈平成24〉年の7月15年に於いて、
『パリ祭に無縁な私でも、ささやかな私の若き頃のシャンソンの想いは・・。』
と題して、私は投稿したが、
この投稿文に対して、見知らぬ若き男性よりコメントを頂いたのである。

真摯な思いで綴られ、私は午前中のひとときに返信を認(したた)めた。
                    

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
まもなくブログの世界を知り、その後はパソコンの故障、国内旅行で自宅に不在でない限り、
毎日少なくとも一通は投稿してきた・・。

定年退職後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの生活を過ごす中、
日常生活の思い、思考したことなど心の発露として、あふれる思いを真摯に、時には楽しく投稿してきた。

こうした中で、ときには熱中するように熱き思いを綴り、
この一部の3通は、今でも毎日少なくとも50前後の『ページごとの閲覧数』がある。

そして私は熱き思いで投稿文を送信した後、数多くの方に読んで頂きたく、
ここ数年は、ブログランキングとして名高い『人気ブログランキング』の『エッセイ・随筆』部門、
その後に『にほんブログ村』の『シニア日記』系の『60代』部門に加入している。

ときおり自己顕示欲が強いのかしら、と思惑する時もあるが、
何よりも自身の心の中を素直に発露すれば、この日の思いが、のちの想いになる、
と確信を深めて、つたない私なりに投稿文を一気呵成に書き上げて、送信している。
          

こうした中で、私は過ぎし日の投稿文を偶然にお読み頂くのが、何よりも嬉しく感じてしまう。

私も数多くのお方の投稿文を読ませていただき、この中で偶然に魅了された方に関して、
このお方の過ぎし日の投稿文を精読して、
このお方の人生観の思いを感じた後、圧倒的に感銘を受けたりしている。

ブログの世界は、もとより殆ど近日中の投稿文が読まれることが多く、
過ぎ去った日々の投稿文は、銀河の中に思いでを残しながらも、
塵のように拡散して忘れ去ってしまうことが圧倒的に多いのである・・。

しかしながら私は、熱き思いで綴った投稿文だけは、せめてと思いながら、
長き日々に、どなたかに読んで頂きたい、という願いを秘めているのである。

そして過ぎ去った半年以上の前の投稿文を、時空を越えて、年に5回ぐらい投稿文を読んで下さる方たち、
たまたま今朝、一年近く前の投稿文を読んで下さり、
その上にコメントを下さり、私は幸福の甘味のひとときを過ごしている。

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気まぐれな天上の気候の神々の采配に戸惑い、まもなく梅雨入りかしら、と微苦笑して・・。

2013-05-29 13:16:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
昨夜、テレビで地元の天気情報を視聴していたら、
九州地方は昨日の27日、そして関西地方は本日の28日に梅雨(つゆ)入りしました、
と報じられていた。

そして地元の明日の29日は、早朝から小雨が降り、昼過ぎには曇り空となりますが、
その後は小雨が降り続きます、
と優しい女性キャスターが伝えていた。

この後の週間天気情報を見ていたら、晴マークはなく、雨のマークも多かったので、
私の住む地域も29日から、梅雨入りになるのかしら、とぼんやりと思ったりした。

そして平年ならば、我が家の周辺は6月中旬に梅雨入りとなり、
やがて学童たちが夏休みに入いる7月20日前後に梅雨明けとなっているので、
天上の気候の神々は、せっかちな性格に今年は変貌したのかしら、と苦笑してしまった。


今朝、小庭の樹木、テラスが濡れていたので、
深夜か明け方に小雨が降ったのかしらと思いながら空を見上げると、
どんよりとした曇り空であった。

その後、テレビで地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は19度、昼下がりは20度前後、夕方の6時は19度前後、
昼の12時から午後3時までの3時間は曇り、その前後は小雨の一日となります。
          
このように報じられて、気温も横並びで、いよいよ梅雨入りになったのかしら、
と私はぼんやりと思ったりしたのは7時半過ぎであった。

そして9時過ぎまでは、今にも降りだす曇り空であったが、
なぜかしら空が明るくなり、10時過ぎには淡き陽射しが射し込んできた・・。
          
私はテラスに下り立ち、たわむれにデジカメで小庭の情景を撮ったりした後、
               
空を見上げながら、どうしてなのょ、と気まぐれな天上の気候の神々の采配に戸惑ったりした。

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そよ風に身をゆだねて遊歩道を歩き、この時節の情景に微笑み・・。

2013-05-28 16:22:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
今朝、家内と共に食事した後、
『今日は・・どちら方面に買物を行けばよいの?』
と朝食後、家内に訊(たず)ねた。

家内は新聞の朝刊に添付されているスーパーなどのチラシを見た後、
『そうねぇ・・少し遠いけれど・・XXに行って下さると助かるけれど・・』
と家内は私に言った。

何かしら京王線の『国領』駅の近くにある大型スーパーで、
チラシに丸印の品を買い求めてきて欲しい、このような意味合いであった。


私はサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきた。
     
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、責務を終えた後は散策をしたりし、
季節のうつろいを享受し、心を寄せたりしている。
          
こうした私の真情があるので、今朝も、
『ハイ! 了解! 行ってきます!』
と少しボケてきた私は、せめて返事ぐらいは、
若き自衛隊の諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えた。


私は年金生活を始めてから、根がケチな性格の為か、
我が家の周辺は路線バスなど利便性のある地域であるが、
殆ど私はひたすら歩くことが多いのである・・。

本日の場合は、我が家から『国領』駅の近くにある大型スーパーに行くのは、
近くの大通りに路線バスもあり、15分ぐらいで到着するので、
我が家の周辺の方は、殆ど利用されている。

私は220円のバス代を支払い利便性を享受するより、
我が家の近くに流れる野川の遊歩道を上流に向かって歩けば、
景観に良いし、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。


私は曇り時々晴れの中、野川の上流に向かい遊歩道を歩きはじめ、
半袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキングシューズ、
小型バックを斜め掛け、その上にたまたまコンパクトのデジカメを首回りから下げて、
夏帽子を深く被ったりした。
          

そして川風か薫風か解らないけれど、 そよ風に身をゆだねて遊歩道を歩いた・・。
やがて単細胞の私は、

♪しあわせは 歩いてこない
 だから歩いて ゆくんだね

【『三百六十五歩のマーチ』 作詞・星野哲郎、作曲・米山正夫、唄・水前寺清子 】

なぜかしら、この歌を心の中で唄っていたのである。

この後、この歌が世の中に流れていた1968(昭和43)年の晩秋の頃を思い馳せたりすると、
年齢をより何かと若いと言われている私でも、齢は隠せないなぁ、と微苦笑したりした。
               
この後、私の好きな小公園に立ち寄ったりした。
          

やがて私は家内から依頼された品を大型スーパーで購入した後、
帰路に向った。
          
そして、5分ばかり歩いた後、コンビニに寄り、煎茶のペットボトルを買い求めて、
喉を潤(うるお)して、
再び歩き始めた・・。
               
平日のひととき、こうして川沿いの情景を見ながら、片道2キロばかりの道を歩けるのは、
現役サラリーマンの時は、数多くの方たちと同様に多忙だったので、
夢のようなひとときである、と改めて微笑んだりして、我が家に向った。

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齢ばかり重ねた私でも、敬愛する『相田みつを』氏に、ときには深く思い馳せれば・・。

2013-05-27 16:19:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

今朝、洗面した後、いつものように、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

たとえば、本日は、
               

私は世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
《・・
   ただいるだけで

   あなたがそこに
   ただいるだけで
   その場の空気が
   あかるくなる

   あなたがそこに
   ただいるだけで
   みんなのこころが
   やすらぐ

   そんな
   あなたにわたしも
   なりたい

                 みつを
・・》

この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               


私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。


その後、私は氏の遺(のこ)されたされた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』、『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。
                    

こうした中で、昨年の2012(平成24)年8月23日に於いて、
いつものように読売新聞の朝刊を読んていた時、
定例特集のひとつの『先人を訪ねて』に於いて、《 心癒やす にんげんだもの 》と大きく明記され、
この日には《 相田みつを (栃木県足利市)》と記載されていた・・。

読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事であるが、無断ながら少し転記させて頂く。
《・・
相田みつをが終生、生まれ故郷の栃木県足利市で創作していたことはあまり知られていない。
・・
みつをは足利市の中心部を南北に分ける渡良瀬川の北にある旧市街地で生まれ、
歴史的な建造物のそばを遊び場にして育った。

書道では優れた腕前を持ちながらも、独自の書体で、平易な言葉での表現にこだわった。
当時は世間に受けいられず、書道教室を開くなじして糊口(ここう)をしのいだ。

東京の書家から「弟子にならないか」と誘いも受けたが、断った。
結婚後は渡良瀬川の南の借宿町に移り住んだ。
みつをの長男で「相田みつを美術館」館長の相田一人さんは、
「父の作品は足利で生活していたらこそ生まれた」と言い切る。
「父は自然の中で自分を見つめ、人間を詠んだ詩を書いていた。
東京の喧噪の中では同じように創作はできなかっただろう」と話す。

創作となれば、アトリエにこもりきりになるが、
息抜きをするときは、決まって釣竿を手に渡良瀬川に向った。
酒もたばこもやらず、「浮きを眺めているだけで集中できる」と一人さんに話したという。
・・
初作品集『にんげんだもの』が1984〈昭和59〉年に出版されると、次第に作品の評判が広まり、
ロングセラーに。
それから7年後、脳内出血のために67歳で死去したが、残された多くの作品がファンをひきつけてやまない。
・・
みつをが釣り糸を垂らした川のほとりに立つと、豊かな流れが涼しい風を運んでくるのを感じた。
川の流れのように、みつをの言葉は時代を超えても変わらずに、
人びとを癒やし、励ましつづけている。
・・》

このように綴られて、多々学んだ。
          
これまで氏の足跡は、私は多くの書物から学んできた。

1924(大正13)年、栃木県足利市に生まれ、
生家は名刹と知られている鑁阿寺(ばんなじ)の東に位置していた。
そして旧制栃木県立足利中学校在学中に於いて書や短歌、絵に親しんだが、
喫煙の濡れ衣をきせられ、軍事教練の教官に嫌われたために、進学を断念。

卒業後は歌人・山下陸奥に師事した。
1942〈昭和17〉年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。
そして1943(昭和18)年、書家を志して岩沢渓石に師事して、本格的に書の修行を積み、
1953(昭和28)年、関東短期大学夜間部国文科卒。

その後、書の最高峰のひとつとされる毎日書道展に於いて、
1954(昭和28)年から7年連続入選し、技巧派の書家として出発した。

しかしながら1947〈昭和22〉年の「鄭文公碑臨書」で古典的な書における実力を示す一方、
1950(昭和25)年に栃木県芸術祭書道中央展に出品した「宿命」では、
伝統的な書道界に対する複雑な思いを詩文書の形で吐露し、
専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱き、「書」と「詩」の高次元での融合を目指すようになった。

そして30歳の頃、独特の書体で、短く平易な自らの言葉を書く作風を確立。
1954(昭和29)年、最初の個展を足利市で開催し、その後も足利市などで毎年開催されるようになった。
こうした中で、翌年の1955(昭和30)年ろうけつ染めを学び、
書道教師ではなく、ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負うなどして生計を立てたりした。

その後、1974(昭和49)年、紀野一義のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、
さらに1984(昭和59)年に詩集『にんげんだもの』出版が契機となり、広く知られるようになった。
そして『にんげんだもの』は、その後ミリオンセラーとなり、
つづく第2詩集の『おかげさん』(1987年)が発刊され、約25万部のベストセラーとなり地位を確立した。

1991(平成3)年、道でころんで足を骨折し、足利市内の整形外科に入院したが、
脳内出血と診断され、それが原因となり急逝。
最期まで仕事への意欲は衰えず、「一文字を書いた大作だけを集めた展覧会を開きたい」というのが、
長男の一人さんとの最期の会話になった、と伝えられている。


偶然に読売新聞の地方部の木引美穂・記者の綴られた記事に私は導かれ、
人は誰しも人生で苦楽する深淵を、氏はあえて平易な詩で発露され、
その上に独特の書体で書き遺(のこ)した根源に、ふるさとが歴然とあったことに、
私は驚きながらも、そうでしたか、と深く教示されたのである。
          

私は氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

私は神や仏様にすがる気持ちは、日頃から持ち合わせてないが、
ときおり神社仏閣を観た時は、そぉっと手をあわせている程度の男である。
しかしながら、相田みつを氏の遺(のこ)された言葉の前には敬愛する余り、
神や仏様より高い存在といっても過言ではない、と深く敬愛しているひとりである。

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十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉の周辺のブナ林に、この時節に訪れたことを思い馳せ・・。

2013-05-26 14:30:02 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
過ぎし22日から再開した朝食前のウォーキングに、今朝は6時過ぎに自宅を出た。

自宅から近くに流れる野川の遊歩道を歩く人が多く、
昨日は上流に向っていたので、今朝は曇り空の中、下流に向った。

本日は日曜日の為か、60、70代の方はもとより、
働いて下さる世代の男女の方たちも、散策されたり、ウォーキングをしたり、
或いはジョキングで走る姿が視えた。

私は自宅を出る直前に家内から、
『急いでどこに行くの・・ぐらい速足で歩かないと、体脂肪が燃焼しないわょ』
と少し肥満体の私に言った。

私は遊歩道を歩き始めと前方に中年の男性らしい方の後ろ姿が見えたので、
平素は4キロを一時間ぐらいで散策している私は、
急ぎ足で歩き、まもなく抜いて、その先も多くの方を抜いたりしたので、
時速7キロぐらいかしら、と思ったりした。

やがて30分過ぎた頃、少し休憩ねぇ、とベンチに腰かけて、
そよ風に汗まみれの身体をゆだねたり、ハンドタオルで顔を拭(ぬぐ)ったりした。
     
少しぼんやりしていると、過ぎし一昨年に青森県の十和田湖の山奥にある蔦(つた)温泉の『蔦温泉旅館』を訪れた時、
ブナの森の小道を歩いたことが脳裏から舞いおりた・・。


私たち夫婦が蔦温泉の旅館、ブナ林を初めて知ったのは
過ぎ去りし2010(平成22)年3月、私たち夫婦の結婚して35年目となったので、
ささやかな記念と称した旅行を思案していた。

そして家内の要望は、日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『黄金崎(こがねざき) 不老ふ死(ふろうふし)温泉』に行って観たいわ、
というのが発想の原点があった。

結果的には、JR東日本が発行している『びゅう(VIEW)』の『北東北 青森・秋田・岩手』編を見て、
喚起されて、少しばかり変ったプランを私達は決定した。

東京駅から秋田新幹線『こまち』で秋田駅に着いた後、
リゾート『しらかみ』に乗り換えて北上し、『ウェスパ椿山』駅で下車した後、
日本海に面した青森県の黄金崎温泉の『黄金崎(こがねざき) 不老ふ死(ふろうふし)温泉』の新館に3泊した。
               
この後は、リゾート『しらかみ』で北上し青森駅の終点まで、
そして竜飛岬まで津軽腺とバスを利用して、竜飛温泉の『ホテル竜飛』で3泊し、竜飛岬の周辺も散策したが、
幼年期に農家の児として育てられた私は、山里の情景も恋しく、
八甲田山の連峰の周辺を探して、旅先の3週間前の頃に追加した。
                    
このような思いがあったので、その後は青森駅に戻った後は、
駅よりバスで70分ぐらい乗った先の山里にある酸ケ湯(すかゆ)温泉の『酸ケ湯温泉旅館』に1泊にして、
周辺の遊歩道を散策したりした。

その後は、少し奥まったブナの多い森があり、この中の一部に遊歩道があり蔦温泉の『蔦温泉旅館』の西館に2泊し、
そして青森駅に戻った後、特急スーパー『白鳥』で八戸駅で下車した後は、
近くにある鮫駅に移動して、 蕪(カブ)島でアホウドリを観て、八戸駅に戻り、
八戸駅より東北新幹線『はやて』で東京駅に帰京する9泊10日間の日程となった。


八甲田連峰の中腹にある『酸ケ湯温泉旅館』を後にしたのは、
5月31日の10時過ぎに『酸ヶ湯』からは、十和田湖方面の路線バスに乗車し、
芽吹き、新緑、そして若葉がそれぞれの落葉樹により異なるが、
みずみずしいたわわな葉は陽射しを受けてきらめいたりする中、
バスでわずか30分足らずで、『蔦温泉』に到着した。
     
この広いブナを中心とした中で、たった一軒の宿である。

http://tsutaonsen.com/
☆『蔦温泉旅館』ホームページ☆

このホームページの『ぶなの森』の欄で掲載されている通り、
《・・
蔦温泉の周辺にはぶなの森を縫うように約2.4Km、時間にして約一時間程の遊歩道が整備されています。

この遊歩道をひとまわりすると、蔦七沼と称される湖沼群の内、六つの沼を巡ることができます。
大小様々な沼の水面に映るぶなの森が人々を魅了します。
・・》
このように解説され、私達は旅立つ前に調べたりしていたので、
チエック・イン前に歩き出した・・。
     
整備された遊歩道を歩き、ヤチダモ、オニグルミ、サワグルミを見たり、
ブナ、ミズナラの大木は、聳え立つように数多くあり、私は圧倒された。

私は見惚(みと)れたり、デジカメで10数枚を撮ったりしていると、
たまたま通りがけの70代なかばの男性で、この付近にお住まいの方から、教えて頂いた・・。
     
ほんの一ヶ月前の頃は、落葉していた広葉樹が冬芽から春芽に育ち、
若葉が芽吹く直前に、
紅葉や萌黄色になる数週間の樹木の芽は鮮やかに萌える彩(いろど)りとなる。
こうした光景を古来の人たちから、春もみじ、と称してきた。

この地のブナ林は、5月初めに芽吹き、そして萌黄色の葉、そして新緑となり、
下旬の頃には若葉とまたたくまに色合い染める。
     
このブナ林は、原生林だったが、
明治の初期の頃は薪や木炭を作る為に伐採されたりしたが、
秋に数多くの落ちた種子が自然に発芽して育ったブナで、樹齢100年前後が多い。
しかし中には、伐採されなかった数百年の大木も数多くある。
     
そして紅葉の10月中旬から下旬になれば、
ブナ、カツラ、トチノキの大木は、黄色に染めはじめて、
やがて葉が散る頃に、ヤマモミジ、カエデ、ナナカマドが朱紅色、紅色に染められて錦繍期の情景、
数週間後には雪が舞い降る、
とこのような意味合いの確かな言葉に、私たちは礼を重ねた後、別れた。
     

     
そして『蔦温泉旅館』の館内の本館は、
天井、柱は周辺の森から切り出された材木がふんだんに取り入れ、
エンジュの長押、トチの樹のコブを生かした装飾の数々・・
一部は築後100年近いもあり、書院造りの床の間も豪壮で、
そして別館へのは本館から60段の優美な存在感のある階段は圧巻であった。

私達の宿泊した部屋は、20数年前の建てられた西館で近代的な造りであったが、
窓辺からのブナの森が隣接していたので、
早朝、朝、昼下がり、夕暮れの陽射しのうつろいが、樹木の枝葉を照らす輝き、
見飽きることのない光景であった。
そして、夜には満天の星空が観られた、格別に景観の良く、
私たちは幾たびか、その時々に見惚(みと)れたりした。

その上に、食事、温泉湯にも私たち魅了され、
雪の降りはじめた12月に再訪し、森閑する舞い降る雪の中を散策したい、
という願いも私たち夫婦にあった・・。


そして夏が過ぎ、秋も過ぎた半年後の2010(平成22)年12月14日より、
蔦(つた)温泉に再訪して4連泊、青森市内に1泊、
そして日本海の黄金崎の不老ふ死温泉に3連泊し、8泊9日で訪れてきた・・。

この日の12月14日、新青森駅に11時56分に『はやて 17号』は到着し、
私たちは『蔦温泉旅館』に向う為に、冬晴れの中、路線バスの十和田湖行きのバスに乗車した。

市内の情景は、数日前に雪が降られたらしく道路の路肩に除雪された雪があり、
のどかな感じであり、やがて八甲田山の連峰の付近の道路に入ると、
除雪された後の白い道、路肩には70センチぐらいの除雪された雪、左右の樹木の枝には雪が残っていた。

八甲田山のロープウェイの入り口で、路線バスは冬季運行の時間調整で、
30分ほどの休憩時間となり、私達はロープウェイの入り口にある常設されている案内のスタッフの方たちに、
私たちは冬の奥入瀬渓流を散策する予定であったので、
昨今の状況、注意点どを丁重に教えて頂いたりした。

そして、私達の乗車したバスは、午後3時半過ぎに、
少しばかり滞在する『蔦温泉旅館』が観え、まぎれなく雪囲いの正面玄関となっていた。


そして、この時のブナ林の情景を思い馳せれば、
蔦(つた)温泉に到着した翌日の午前10時前、私たち夫婦は防寒服、防寒登山靴、そして防寒帽子で身を固めて、
旅館の横手にある遊歩道を歩きはじめた・・。

そして人影はなく、積雪は20センチ前後で、吹き溜まりは30センチぐらいで、
遊歩道であるがこの冬の時節には、もとより除雪はされていなく、
ブナ、ミズナラの大木が数多く聳(そび)える中を歩いた・
                
そしてヤダモチ、オニグルミ、サワグルミなどの枝、小枝にわずかに雪が積もって折、
ときおり微風が吹くと、小枝は揺れて、花吹雪のように雪が空中を舞うように、
ゆっくりと地上に散乱した。
       
この後、ふたたび森閑とした森に還り、静寂となった。

このような情景に見惚(みと)れながら、ときおり立ち止まりデジカメで撮ったりし、
雪を掻き分けるように蔦沼までの遊歩道らしき路を歩いた。

蔦沼は、氷結はしていなかったが、森厳の中、静寂であった。
                     
帰路も雪と戯れるように、ゆっくりと歩いたりしていたので、
2時間ばかり過ごした後、手先に寒さを感じ、遊歩道の入り口にあるビジターセンターに戻ったりした。
           

このように若葉の頃、初冬のブナ林に圧倒的に魅了され、小路を歩き、
こうして3年過ぎた今でも、私の心の片隅に残っているのである。

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ときには古本屋に寄り、3冊で200円に驚き、やがて溜息(ためいき)を重ねて・・。

2013-05-25 16:47:57 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

本日のひととき、私は家内のボディガード兼お供で、
京王線の『仙川』駅の付近で買い物をする為に、私たち夫婦は出かけた。

そして家内が婦人の衣料専門店で買物すると言ったので、
私は何かと利用することの多いコーヒーショップの『ドトール』で待っている、
と家内に伝えた後、私は『ドトール』をめざして商店街を歩いた。

そして近道しょうと小路を歩いていた時、古本屋があり、
何気なしに店頭に、3冊で200円、と大きく明記されていたので驚いた。

私は定年後の年金生活でも、何よりも読書好きで、
少なくとも週に一回は本屋に寄り、随筆、ノンフィクション、現代史などの単行本、新書本、文庫本を買い求め、
年に数回ぐらいは古本屋チェーン店として名高い『BOOK・OFF』に立ち寄り、
魅了された本を購入してきた。


こうした本好きな私であるが、3冊で200円だったら、
私は魅了される本はないだろう、と思いながら店の最前列の本棚で、500冊くらいの本を眺めた・・。

そして『続 多摩』(武蔵書房)と題した本を手に取り、目次を見ると、
《 多摩の古戦場 》と題された章には、6話が掲載されていたり、
多摩川の古来からの数多くの風物詩が描写されていたので、瞬時に魅了された。
          

そして次に手に取ったのは、新文芸読本『宮沢賢治』(河出書房新社)であり、
私は宮沢賢治より同世代の石川啄木に圧倒的に魅了されて心酔した時期もあったが、
改めて宮沢賢治に対して、私自身の心の再整理と思ったりした。
          

この後、『旅』(秋田魁新報社)を手に取り、著作者の作家・渡辺喜恵子さんは、
私は未読の作家であったが、何かしら随筆の内容に惹(ひ)かれた。
          

この後、サーバーについて、解説されていた本があった。

私は1969〈昭和44〉年にコンピュータ専門学校で、初めてコンピュータを学び、
その後は民間会社の中小業で、20年ばかり情報畑を務めていたので、
汎用の大型コンピュータ、そしてオフィス・コンピュータなどで、もとより記憶装置の磁気ディスクを活用してきた。

その後の1990〈平成2〉年に管理畑に異動してしまい、
やがてネットウェブの世界は黎明期となり、そしてサーバーを利用されている隆盛期の今日、
どのような形態でサーバーを活用している状況が不明であるので、
遅ればせながら、お勉強と思ったりした。
          

そして私は、この4冊を持って、精算所で、
3冊で200円、そして一冊で100円の規約に基づき、300円を支払った。

その後、私は『ドトール』でアイスコーヒー(Lサイズ)を飲みながら、
家内を待つ間、持参した本を読んだりした。

そして買い求めた4冊の本代とアイスコーヒー(Lサイズ)は、
たまたま同額であり、これだけの中身が豊饒な本が余りにも廉(やす)く、
たとえデフレ烈風が10数年続いてきた今日でも、活字の世界は悲惨だ、と私は溜息を重ねたりした。

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初夏のような陽射しの中、何かと暑さに苦手な私は、戸惑いながら苦笑して・・。

2013-05-24 15:47:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していたので、
初夏のような26度前後の陽気の中、 私は出かけた。

そして自宅の近くに流れる野川の遊歩道を歩きはじめたが、
雲ひとつない青空で、私は陽射しを燦々と受け、夏帽子を深く被ったりした。
半袖のスポーツシャツ、長ズボン、ウォーキングシューズ、
小型バックを斜め掛け、その上にたまたまコンパクトのデジカメを首回りから下げて、
颯爽と歩いたりしていたが、何かと暑さに苦手な私は、少し熱いじゃないの、と思ったりした。

まもなく自転車に乗った40代ぐらいのご婦人が見えたが、
長袖のシャツ、手袋をされ、そして夏帽子を被り、顔を布地で覆(おお)われた上、
サングラスをかけられて、昨今の陽焼け防止のUVカットかしら、と私は微苦笑させられた。

そして私は対岸の遊歩道に行く為、歩道橋を渡った。
     
そして遊歩道を颯爽と歩いたりしが、汗ばんできたので、
これから美麗な若き女性歯科医師に失礼と思い、スーパーの洗面所に寄り、
顔を洗い身支度を直したりした。

そして予定通り、素敵な女性歯科医師から治療が終えた後、
本屋に寄って、結果としては新書本を2冊買い求めた。

その後は、駅前のスーパーで家内から依頼された品を買い求め、
そして煎茶のベットポトルを追加したりした。

帰路、買物した手荷物を提げて歩き始めたが、
相変わらず陽射しを燦々と受け、私は大きな樹の下の近くにあるベンチに腰を下ろした。
そして煎茶のベットポトルを飲みながら、
今からこのような暑さを迎え、夏本番はどのような暑さになの、と苦笑したりした。
     

やがて私は立ち上がり、なるべく緑陰の下を歩いたりしたが、
     
大きな樹がない処は、陽射しを燦々と受けていたので、帰宅後は汗まみれとなり、
やむなく洗面所で顔を洗ったりした。

そして私は着替えようかと思っていた時
『XXで、ソフランがお廉(やす)いのょ・・買ってきて下さると助かるわ』
と家内は私に言った。

近くのスーパーで洗濯する時の柔軟剤の詰め替え用が、平素より廉(やす)いらしく、
私に依頼されたのである。

もとより我が家は、料理、洗濯、掃除など家内がして下さっているので、
せめてと思いながら私は、自主的に平素の買物を年金生活を始めてから専任者の身であるので、
『ハイ! 行ってきます!』
と少しボケてきた私は、せめて返事ぐらいは、
若き自衛隊の諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えた。

そして私は、『いくつ買ってくれば、よいの?』
と私は家内に訊(たず)ねた。

『できるだけ・・たくさん』
と家内は微笑みながら私に言った。

『承知致しました!』
と私は明るく応(こた)えた。

そして私は、最寄りのスーパーに行き、指定された品を7つばかり買い求めて、帰宅した。

その後、私は着替えた後、小庭のテラスに下り立ち、
私もこれからは、夏に愛用しているサングラスを掛け、扇子を持つ、夏模様にしょうかしら、
と微苦笑したりした。

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アジサイを見て、やがて過ぎ去る年の5月下旬に伊豆半島の下田の旅路を思い馳せ・・。

2013-05-23 13:41:33 | 旅のあれこれ
 
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
昨日の朝、久々に朝食前の散策を自宅からの近くに流れている野川の遊歩道を歩いた帰路、
遊歩道沿いにアジサイの花を見て、足を止めた・・。
     
そして開花には早い状況であったが、まもなくアジサイが彩(いろど)る季節が到来することを
教示してくれた。

帰宅してから、しばらくして朝食を家内と共に頂いていた時、
私はアジサイがまもなく咲く時期になったよねぇ、
とこのような言葉を家内に話しかけたりした。

その後、私はテラスに下り立ち、ぼんやりと初夏の陽射しが照らす小庭の樹木を眺めたりしていた時、
過ぎし年に下田を訪れ、数多くのアジサイの花に魅了されたことを思いだされた・・。


私は中小業の民間会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職したが、
この直前に家内の父が病死した。
そして家内の母は独り住まいとなり、これ以降は私たち夫婦は家内の母を誘い、
幾たびか3人で温泉滞在旅行を重ねてきた。

そして2007〈平成19〉年の5月下旬に、伊豆半島の『下田』に6泊7日間の温泉滞在となった。

私たち3人は、伊豆の下田のある観光ホテルに到着したのは、5月22日の午後1時過ぎであった。

左に爪木崎、右手に城山公園が望める入り江にあるホテルであり、
快晴の空の下、微風か吹く中、海面は午後の陽差しで光を帯びていた。

伊豆半島の最南端地域の下田の外れにある須崎半島の先端にある爪木崎は、
1月の初め頃から野水仙で知られ、下田の街並みは温暖な地域として知られている。

そして観光名所も数多く、この中のひとつの下田公園では、6月に『あじさいまつり』が開催され、
数多くのアジサイの色合いにつつまれる、と街中のポスターで見たりした。

こうした中で、私は齢を重ねても日本男児のひとりなので、家内たちと観る所に差異があり、
殆ど独りで各観光名所を歩き廻ったりした。


初夏のような陽射しの中、江戸時代の末期に思いを馳(は)せるのも旅先のひとつと思い、
この地の歴史の散歩道と称された街並みを訪ねたりした。

そしてアメリカのペリー提督、ハリス領事、
そして唐人お吉と称された不運なうら若き女性に思いを偲(しの)ばせた・・。

この後は、ロシアのプチャーチン提督の来航、
江戸末期の下田港の栄華、そしてこの当時の下田の人々の面影を想像したりし、
快晴の暑い中、夏帽子を深く被り、寺めぐりなどをした。

了仙寺の境内は、ジャスミンの花の彩(いろど)りにつつまれ折、
陽射しを受けているあたりは盛りを過ぎていたが、
日陰の周辺の色合いは、洋花が何かと苦手な私さえ香りは強すぎるが、ある一面は魅了された。
     
このあと、丘陵の下田公園を訪ね、あじさいの花色を確かめに出かけたが、
ほんのわずか咲いており、莟(つぼみ)が大半であったが、
わずかに咲いている花の色合い愛(いと)おしさを感じたりした。
     
観光ホテルに戻ると、黄色い素朴な花が咲いていた。
地の人に尋ねると、兵隊花、と私達は昔から教えられていますよ、と答えてくれた。

こうした中で、この地域においては、アジサイの花の中で、品種により『寝姿ブルー』と称しているのがある。
なにかしら付近に丘陵は、女性の上半身に形に似て寝姿山と名付けられ、
この丘陵にもアジサイが多く、紫と青に染められた花色を寝姿ブルーとも伝えられいた。

私はポスターのひとつを見て、女性の秘める妖艶さを感じさせ何より気品のある美麗なアジサイ、
と瞬時に魅了され、後日めぐり逢えた。


そして私は、この付近の丘陵を散策し、樹木と花を誉(ほ)めながら、下田の街並みを一望しょうかしら、
と思ったりし歩き廻った。

下田の街外れを歩くと、今の時節はニオイバンマツリという芳香ある紫の花が彩っている。
紫から白色に移り変わるジャスミンの一種であるが、街から丘陵に数多くの見られた。

この花と重なるようにアジサイの花が咲きはじめている。
特に青色がひときわ強い妖艶で気品を感じる寝姿ブルーは、私は魅了され、見惚れたりした。
     
そして私は町並みを散策したり、小高い丘陵で花の色合いを誉めたりし、
或いは遊覧船に乗船し、入り江から須崎半島の周辺を景観したりした・・。

こうした中、下田港を小高い丘陵、海上の遊覧船からを見たりして、
はるか昔にアメリカ、ロシア、イギリスの船が来航した当時に、思いを巡らせたりした。
     
そして遊覧船に乗船した時、海上から右側の小山を除けば、
あれが女性の上半身に形に似て寝姿山かしら、と眺めたりした。
     

旅の終わりの前日の5月27日、下田公園では6月に『あじさいまつり』が開催されるが
私はこの地を去るので、日中に公園に行き、
わずかに咲き始めた寝姿ブルーと称せられたアジサイに再会しょう、
と思ったりし、下田公園の『あじさい祭』の開催される前に、
あじさい園を再び訪れた。

数多いのアジサイは、わずかに咲いてい折、多くは莟(つぼみ)の状況であったが、
所々七分咲きもあり、それなりに私の心を和(なご)ませてくれた。
     

     
無念ながら6月に『あじさいまつり』が開催される前で、
色合いは淡く、心を深く思えば色合いは濃くなり、圧倒な美麗の『寝姿ブルー』になる、
と私は思いながら、この公園を立ち去った。

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朝の散策のひととき、この人生の喜びを享受して・・。

2013-05-22 13:50:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
今朝、久々に朝の散策をしょう、と思い立ったりした。

ご近所の内科の医師から、朝食前の空腹時にウォーキングをすれば、
少し肥満体の私の身体の良い、と助言されたりしていた。

その上、このサイト上で心の清らかな奥方も空腹時にウォーキングをすれば、
体調に良く、身も心もベストコンデションのような意味合いを発露されていたので、
平素は買物専任者の私は、買物の責務を終えた後に、ひたすら歩き廻っている私でも、
謙虚に学び、自宅を出たのは7時15分過ぎであった。

快晴の中、夏帽子を深く被り、半袖のポロシャツ、長ズボン、ウォーキングシューズ、
小型バックを斜め掛け、その上にたまたまコンパクトのデジカメを首回りから掛けて、
近くに流れている野川の遊歩道に一分足らずで出た。

そして本日は、下流の小田急線の『成城学園前』駅と『喜多見』駅の中間点に流れる地点まで、
めざして隣接した遊歩道を歩いた。

歩き始めると前方から70代のご夫婦が散策されたり、
私の少し前には60代の男性がウォーキングされていたが、私は急ぎ足で追い抜いて5分ばかり歩き、
     
そして世田谷区の区域に入った後、ひとりの奥様風で高価な長袖のポロシャツを召され、
お洒落な夏帽子を深く被ったお方から、
『こんにち~わ』
と挨拶されて、私は見知らぬ60歳前後の女性の優雅なしぐさに戸惑い、ひと呼吸した後、
『こんにち~わ! 良き朝のひとときですねぇ』
と明るく大きな声で応(こた)えた。
『そうですわねぇ。貴方様のおしゃる通り、心地よいひとときです』
と見知らぬ60歳前後の女性は応(こた)えた。

私は黙礼をした後、再び遊歩道を歩いた。
この平日の時間は、働いて下さる諸兄諸姉の通勤される方、私のように年金生活をしている方たち、
多くの人がこの遊歩道を歩いている。

そして私は対岸の遊歩道に向かう為に、歩道橋を渡る時、
定年後から何かと魅せられている情景をデジカメで撮ったりした。
     
この後、対岸の遊歩道を歩いて、近くのベンチに腰を下ろした。
そして通勤される諸兄諸姉の方たち、そして通学される中学生を見たりしていた。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後した。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭となり、
古惚けた一軒家に住んでいる。
こうした中で、私たち夫婦は共に厚生年金、わずかな企業年金を頂く年金生活をしているが、
原則としての生計は、厚生年金、わずかな企業年金を頼って、生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

このように私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。


私は働いて下さる諸兄諸姉の方たちが通り過ぎて行く、颯爽とした姿を見たりして、
大変だなぁ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
     

こうした私の根底には、   
もとより私たちの高齢者がお世話になっている社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えて下さっている現実がある。

その上に昨今の現役世代の諸兄の状況は、『選別主義』の中で『常時リストラ』時代、
と学んだりした。
このことは、溝上憲文(みぞうえ・のりふみ)氏の著作『非常の常時リストラ』(文春新書)を、
私は4日前に読み、痛感しながら涙を浮かべたりした。

私の勤めた業界でも、私の50代にリストラ烈風となり、
私も50代の半(なか)ばから出向となり、
自分の敵は自分です、と悪戦苦闘しながらも関連先で定年退職時を迎えたが、
遥かに現代の会社は過酷である、と改めて教示されたりしたからである。

そして私は、サラリーマンを卒業して無力な身であるが、
どのような困難に遭遇しても、気力をなくすことなく、自分の敵は自分です、と精進して欲しい、
と祈願したりした。
     
この後、私は再び歩道橋を渡りきると、遊歩道には小学生の多くの学童が見られた。
近くに区立の小学校があり、今の時間が通学時間帯か、と実感させられた。
小学生の上級生の男の子の4人連れが、戯(たわむ)れながら談笑したり、
女の子の3人が、楽しげに談笑したり人たちと私はすれちがったりした。

そして2年生ぐらいの男の子の二人連れが歩いてきて、
『こんにち~わ』
と二人が口を合わせるように私に挨拶されて、私は微笑んだりした。
そして私も明るく、
『こんにち~わ』
と私は男の子の二人連れを見ながら、応(こた)えた。

やがて私は男の子の二人連れの後ろ姿を見送りながら、
この男の子たちのご家庭の親御さんの情操教育のしつけも良いと思われるが、
何よりも男の子の自身の身につけた何気ないしぐさ、言葉に私は魅了されたのである。

この後、小公園の中を歩いたりして、
     
朝のひとときに散策して、多くの方たち颯爽としたしぐさに、この人生の喜びを享受され、
私は帰宅に向った。

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定年後の年金生活の中、季節の移ろう情景に限りなく心を寄せて・・。

2013-05-21 15:39:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭の中で、築後35年過ぎた古惚けた一軒屋に住んでいる。

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職後した。
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
      
サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。
     
      自宅の付近の野川遊歩道の晩秋(2012.11.21.)

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、責務を終えた後は散策をしたりし、
季節のうつろいを享受し、心を寄せたりしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。

こうした中で、大半の時間は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

そして、ときたま家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
    
      自宅の付近の野川遊歩道の晩秋(2012.11.21.)

ここ数日、定年の時に記念としてデジタル・カメラを購入し、
散策の時に季節の移ろう情景をときおり撮ったり、国内旅行の旅先の情景を撮った写真を
バソコンの付随している機能の【Windows Live フォートギゃラリー】と称された画像管理、
或いは世界の数多くの方が愛用されているグーグルの運営している画像管理サービスの【Picasa(ピカサ)】に、
遅ればせながら6日前に加入し、定年後の程ほど多い写真の再整理をしたりしてきた・・。

こうした写真の再整理をしていると、定年後の年金生活をしてきた私は、
8年半を過ぎた日々の証(あかし)は、どのようなことだっただろう、と振り返ったりした・・。
     
      自宅の付近の野川遊歩道の桜花の満開(2013.3.26.)


私は定年後まもなくしてブログの世界を知り、年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの生活の中、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、あふれる思いを
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなり、パソコンの故障、国内旅行で不在以外は、
日々投稿してきた。

そして数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこの広い空の下で、未知のお方に投稿文の上で、めぐり逢えたことに秘かに感謝したり、
こうした中で、コメントを頂いたり、
私は数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、感きわまってコメントをしたりしてきた。

或いは季節感あふれる写真に感銘を受けたり、
そして心の深淵まで描写できるお方の散文に圧倒されたり、
ときには数多く人から励まされたりして、読ませて頂ただいているので、偏(ひとえ)に感謝をしている。
     
      自宅の付近の野川遊歩道の桜花の満開(2013.3.26.)

或いは我が家の小庭に、定年時に幼い樹を定年退職の記念樹として、
ときおり眺めたりして、大きく育ってきた、と拙(つたな)い私は微笑したりしてきた。

こうした中で、我が家は私の生家に近く住んでいるので、調布市は結婚前後5年を除き、
63年ばかり住んできたので、幼児期からの思いでを限りなく愛惜を秘めている。
散策したり、買い物をしたりする時、小・中学校に通学した旧街道の小道を歩いている時、
この当時の思いが浮かび、微苦笑したりしてきた。
     
      自宅の付近の野川遊歩道の桜花の満開(2013.3.26.)

それぞれの時期の四季折々の中で、劣等生ながら成長してきた私、
そして結婚後に一軒家を建てて、生活費に余裕が無くなり、労苦した時期など、
やはり過ぎ去った日々に、あの時の思いは・・、と愛惜を重ねたりして歩くことが多いのである。
     
      自宅の付近の野川遊歩道の桜花の満開(2013.3.26.)

こうした心情のある私は、何かと自宅の付近の四季折々のうつろう情景に、
圧倒的に魅了されて、心を寄せて過ごしている。

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グーグルの『ピカサ』を活用して、定年後の愛惜ある写真を保存し、やがて微笑み・・。

2013-05-20 16:50:54 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の高齢者4年生の68歳の身であるが、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職する2か月前にデジタル・カメラを購入し、
これ以来、日々の散策の時に季節のうつろう情景、或いは国内旅行の時などで、
技量の覚束ない私でも撮ったりしてきた。

そしてパソコンのハードディスクに収納してきて、
ハードディスクの故障も配慮して、ときおりDVDでバックアップをしてきた。
この時のパソコンは、、『ウィンドウズ XP』が搭載された富士通のディスクトップであり、
2006(平成18)年の9月下旬に買い改めた機種であったが、
容量不足を痛く感じて、
2年前の2011〈平成23〉年の6月にバソコンを買い改めた。

この当時の主流のOSの『Windows 7( ウィンドウズ・セブン)』を搭載したソニーのディスクトップとして、
私はパソコンの故障を幾たびか経験していたので、
これまで愛用してきた富士通のディスクトップ『XP』は、予備用として利用することに決めた。

この上に、データの予備として、外付けの2TB(テラ・バイト)のハードディスクを購入し、
パソコンを日々利用しているが、ネットの世界は益々進化しているか解からないが、
情報の洪水のような今日に備えたりした。
     
こうした中で、私は撮った写真を【Windows Live フォートギゃラリー】と称された画像管理を
愛用している。

そして世界の数多くの方が愛用されているグーグルの運営している画像管理サービスの【Picasa(ピカサ)】に、
遅ればせながら5日前に加入した。


本日は小雨の降る朝を迎えたが、雨とりおり曇り、と報じられて、
昨日の小庭の手入れで疲労感の残っていたので、買い物や散策も取り止めて、ぼんやりと午前を過ごしたりした。
こうした間に、【Picasa(ピカサ)】に保存した私の定年後の写真を保存(バック・アップ)しょうと思いたった。
          
そして写真は8000枚前後で、ピカサの保存画面に22.6GBと表示され、
DVD(4.7GB)は12枚近く表示され、
定年後の8年半を過ぎた今、こんなに撮っていたのか、と微苦笑したりした。

そして私のパソコンのブルーディスク装置に、ブルーディスク(25GB)をセットし、
保存(バック・アップ)をした・・。

そしてピカサの保存画面の右下に、保存経過状況が表示され、
やはり保存量が多かったので、長らく時間を要すると確信し、
やがて私はデジカメで、霧雨降る中、小庭の草花を取ったりした。

そして下草として植えている雪ノ下(ユキノシタ)が白い花を咲かせ、
幾つかのかんざしを合わせたかのような可憐な容姿で、
葉は緑色、黄緑色といったように幼い葉は萌黄色の色合いを見せながら、
微風に揺れながらも凛(りん)した気品をたたえている。
     
或いは群生させた稲穂に近い小判草(コバンソウ)があり、
小判草はイネ科の草花で、毎年、3月の下旬頃に芽を出して、稲のような容姿で成長し、
5月頃から葉先が小さな小判のような花穂となり、
早くも小麦色に染めら、風もないのに揺れたりしている。
     
そして梅雨の時節には、数枚の上葉が白く染められた半夏生(ハンゲショウ)の群生もあり、
家屋の付近でも、梅雨の時期を待つかのように幼い半夏生(ハンゲショウ)がある。
     

たわむれに撮ったりし、やがて家内と昼食を終えた後、
ピカサの保存画面の右下に、保存経過状況が終了を告げていた。
そして私は、定年後の生活の日々の思いのひとつとして、写真を撮ったりしてきたので、
写真の保存に関しては、完璧ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら微笑んだりしている。

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ときには私たち夫婦は、我が家の小庭の手入れに、昼食抜きで奮戦し・・。

2013-05-19 17:33:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、
蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けている。

過ぎし4月20日に樹木の剪定、草抜きをしたが、
この時節は 樹木の枝葉は日増毎に伸び、雑草も生い茂り、
二週間前の頃から私は、手入れをしなければと思ったりしてきたが、
初夏のような陽気もあり、何かと暑さに苦手な私は敬遠してしまい、怠(おこた)ってきた・・。

昨夕、19日の天気情報を見て、朝の6時は16度前後、昼下がりは22度前後、夕方の6時は17度前後、
午前中は快晴ですが、午後より曇り、夜の9時過ぎから雨、
と報じられていた。

日中に手入れをした後、雨で清めてくれる、と私は微笑みながら、
6月中旬頃に梅雨入りする前、徹底的に手入れをしょうと決意した。
     
注)写真のすべての掲載は、庭の手入れをする前の昨日に撮ったものである。

我が家の小庭は、垣根は常緑樹、庭は四季のうつろいを明晰に変貌する落葉樹を10数本があり、
草花は茶花を中心に植えている。
これからの時節は、梅雨の時節の主役の数枚の上葉が白く染められた半夏生(ハンゲショウ)の群生であり、
或いはピンクのたわわな花穂で芳(かぐわ)しい香りの唐糸草(カライトソウ)、
そして群生させた稲穂に近い小判草(コバンソウ)である。

小判草はイネ科の草花で、毎年、3月の下旬頃に芽を出して、稲のような容姿で成長し、
5月頃から葉先が小さな小判のような花穂となる。
そして、これからの時節は小麦色に染めら、風もないのに揺れたりしている。
水田の稲が実を重たげに見せている状況と同じで、 背丈30センチ前後の小判草は、けなげな容姿となっている。

そして茶花だけだと少し寂しいので、アメリカ芙蓉(フヨウ)を群生させている。
初夏のなれば、白と淡いピンクの複輪で底紅した大輪の花が10数輪咲く。

こうした中でも、玄関庭には、紫色の小花の露草(ツユクサ)は庭の片隅に群生していたり、
底紅で花びらは淡紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)がまもなく数多く咲き、
夏の終りの頃から淡き紅色の可憐な秋海棠(シュウカイドウ)、
そして純白の小花の玉すだれ(タマスダレ)が咲いたりする。

こうした状況なので、せめて梅雨の時節に半夏生(ハンゲショウ)に心を共にし、
やがて初夏にアメリカ芙蓉(フヨウ)に期待し、
黒土の上で彩(いろど)る情景を秘かに待ち焦(こ)がれているのであった。
     

このような思いのある私は、今朝は8時過ぎに庭に下り立った。
そしていつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をした上て、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしたりした。

まもなく家内も出てきて、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をして、
高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、私に近寄ってきた。
               
        
この後、私は剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内は高枝鋏(たかえだばさみ)を枝葉を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。

こうしてお互いに4時間近く奮戦したが、陽射しは燦々と照らし、
少し熱いじゃないの、と私は感じながら、
家内は切り落とした枝葉を整理し、私は草むしりに専念した。

結果として私たちは、お互いに昼食抜きで奮闘し、
樹木の剪定は完了したが、草むしりの私は体力を使い果たし、無念ながら次回にしょう、
と思ったのは午後3時過ぎであった。

この後、家内に風呂に入ってもらっている間、
私は主庭のテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら私は記念樹を眺めて微苦笑したりした。
              
この記念樹については、このサイトの4月18日に於いて、
【 私の定年退職時の記念樹、ぐうだらな年金生活を過ごす中、成長して・・。】
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20130418
投稿している。

そして月日の流れは、実に早く過ぎ去っている、と私は深めたりした。


このように綴っている私は、少し腰が痛いじゃないの、と苦笑している。

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この世で一番気楽なボディガード兼お供かしら、と高齢者の私は微苦笑し・・。

2013-05-18 14:29:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の夕食時に、家内は『明日(あした)の午前中に、駅前に買い物・・行きませんか?』
と家内は私を誘惑したのであった。

私は少しためらった後、
『ハイ! 行きましょう!』
と少しボケてきた私は、せめて返事ぐらいは、
若き自衛隊の諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えた。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

こうした中で、もとより年金の収入は減ることもあっても増えることなく、
当然ながら現役のサラリーマン時期より遥かに激減している上、
現役時代の多忙な業務から解放され、緊張感も無くなり体力の衰えも感じる昨今、
何かしら私は家内に従順となっていると思えて、苦笑したりした。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供、そして荷物持ちとなっているのが、
定年後の実情である。
        
今回、たまたま朝の9時過ぎに私たち夫婦は、京王線の『つつじが丘駅』に向かい、
徒歩で15分ばかり歩き、駅前のスーパー、ドラッグ・ストアーなどを廻ったりした。

この間、スーパーの衣料フロアーで家内が婦人の品、或いは台所の雑貨品を選定している間、
『いつもの本屋の前のベンチで待っているから』
と私は家内に伝えた後、
私は近くの本屋に行ったりした。

この本屋は路上から幅広い階段を下りて、地下一階が本屋の専用フロアーとなっている。
そして読書好きな私は、本屋で単行本、新書本、文庫本などをゆっくりと見たりし、
結果としては新書本の2冊を買い求めたりした。

そして本屋の前は、階段状の手前の片側の平坦な処に大きな樹があり、
近くにベンチがあり、その上に付近には飲料水の自動販売機があり、
私がこよなく愛している処のひとつである。

私は家内が1時間ぐらい買い物時間に要すると思いながら、
このベンチに座り、大きな樹の下の緑陰の中で、買い求めてきた新書本の一冊を読みはじめた・・。
しばらくすると、喉の渇きを覚えて、この自動販売機かに煎茶のペットボトルを買い、
喉を潤(うるお)しながら、読んだりした。

こうした中で、微風を身体に受け止めると、心地よく、本のページをめくったりした。

やがて家内は両手に大きな紙袋を重そうに提(さ)げてきた。
そして私は大半の荷物持ちとなったが、確かに重く、
我が家として異例であるが、帰路は歩くことは断念し、路線バスを利用しょうと、
互いに瞬時に合意した。

その後に食事処で昼食をして、路線バスに乗り、帰宅したのは午前12時半過ぎであった。
     

帰宅後、部屋に開け放ち風を通し、煎茶を飲んだりしながら、
この世で一番気楽なボディガード兼お供かしら、と高齢者の私は微苦笑したりした。


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ときには二度寝を甘受して、年金生活の何よりの特権かしら、と微笑みながら・・。

2013-05-17 14:39:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
昨夜、総合月刊雑誌の『中央公論』(6月号)の深夜まで読んでいるうちに寝付いた。

今朝、5時少し前に目覚め、トイレでオシッコを終えて、
洗面台の横の窓を開けて外を眺めると、
雨上がり清々しい情景を見たりし、日中は快晴を予感させるような朝の陽射しも見た後、
まだ早いじゃないの、と眠さが残っていたので、再び寝室に戻ると、
家内は目覚めて、起きだして何かしら洗濯に取り掛かっている様子であった。

そして私は寝室の雨戸を開けて、障子越しのおだやかな陽射しを受ける寝室の中で、
私は布団にもぐり『中央公論』の読み残した寄稿文を読んだりした・・。
     

過ぎし10日の夕方、私は作家の塩野七生(しおの・ななみ)氏の寄稿文を読み、
つたない私でも叱咤されたりした。

この寄稿文は、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(6月号)に於いて、
私は敬愛している塩野七生氏の連載寄稿文『日本人へ』(121)の中で、
《・・世間でまかり通っている一句に、賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ、というのがある。
たがあれは、真赤な嘘である。

賢者は、歴史からも経験からも学ぶことができる人で、
愚者は、歴史からも経験からも学ぶことができない人、と言い換えるべきである。
なぜなら、歴史とは経験の集積にすぎないからである。・・》
引用先・『文藝春秋』(6月号)93ページ

この時の私は居間でソファーの座り、読んでいたのであるが、思わず絨毯の上に正座で座り直し、
そうですか、と何かと劣等感を秘めた私は、うなだれてしまったのである。
     

このような思いのある私は、せめてと思いながら読み残した『中央公論』の各氏の寄稿文を、
早朝のひととき読んだりした・・。
まもなく寝付いてしまい、目覚めたのは7時過ぎであった。

この後、居間に下り立ち、まばゆい陽射しが射し込む小庭を眺めたりした。
そしてNHKのテレビニュースをぼんやりと視聴していると、
家内は奥の和室を掃除をしていて、まもなく居間に戻った時、
『二度寝してしまったょ・・』
と私は家内に照れながら言ったりした。

『たまには・・よろしいじゃないですか』
と家内は笑いながら私に言った。
     
この後、現役のサラリーマン時代は誰しも業務は時間で競争するようにしていたし、
我が家は年金生活の今は、時間で勝負する時代は確かに終った、
とぼんやりと実感したりした。

私は中小業の民間会社に勤め、定年した2004(平成16)年の秋の前の5年間は、
リストラの烈風の中、私は出向となり、遠方の勤務地の為、
起床が4時45分とし、そして始発のバスに乗り、小田急線の電車の通勤途上で、
冬の時節の時は日の出を迎えたりしていた。

帰宅も夜の9時過ぎが多く、もとより睡眠不足となり、
休日の時の昼下がりに昼寝をして補(おぎな)ってきた体験がある。

そして50代の後半で、体力テストは勘弁してほしい、と思いながらも、
自分の敵は自分であり、努力しなければ何事も手に入らない、と奮闘してきた・・。
     

こうした私のささやかな体験があるので、年金生活をしている今、
ときには二度寝をして寝坊できることは、
年金生活の何よりの特権かしら、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


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