夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

シニア「疲れとれぬ・・秋バテ注意」、年金生活12年生の私は学び、やがて微苦笑して・・。

2016-09-30 15:37:46 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活12年生の72歳の身であり、
今朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。

まもなく16ページの【くらし/家庭】面を見たりした中で、恒例の『シニア』が掲載されているが、
【 疲れとれぬ・・秋バテ注意 】と見出しを見て、
私も高齢者であるので、読んだりした。

やがて読み終わった後、そうですよねぇ、と思いながら老ボーイは私は、微苦笑したりした。

無断であるが、読売新聞45年ばかり購読しているよしみに甘えて、転記させて頂く。

《・・
※寒暖差や気圧の変化、体調崩しやすく

過ごしやすい季節になったはずなのに、疲れがとれない、食欲が出ないなどと体調不良を訴える人が増えている。
最近は「秋バテ」と呼ばれており、高齢世代は特に注意が必要だ。

横浜市の鍼灸(しんきゅう)院「土井治療院」には、
秋になると「疲れがとれない」「だるい」と訴える人が多く来院する。
肩やひざ、股関節の痛みを訴える人も少なくない。

同市の男性(58歳)は「昼寝をしないと疲れがとれない」
「持病の五十肩がますます痛む」と表情をゆがめる。

同院の鍼灸師、熊切愛香さんは「秋バテの症状の一つ。高齢者や女性に多い」と話す。

「秋バテ」は、まだ聞き慣れない言葉だが、東京有明医療大教授の内科医、川嶋朗さんによると、
秋特有の気候が、引き起こす症状だという。
            

まず影響するのは、気温の変化だ。
秋は昼夜の寒暖差が大きく、体温を調節する自律神経のバランスを崩しやすくなる。
十分な睡眠がとれず、体力の低下につながりやすい。

気圧の変化も、人間の体に影響する。
台風や秋雨前線で低気圧になると、空気中の酸素濃度が、少し低い状態になる。
すると、体を休ませようと副交感神経の働きが活発になる。

ぜんそくなどの人はアレルギー症状が出やすくなるという。
川嶋さんは「体力のない人ほど、影響を受けやすく、高齢者は要注意」と話す。


過ごしやすくなって、活動的になりすぎてしまうのも、秋バテの落とし穴だ。
夏の間の疲れを残したまま、激しい運動をしたり、食べ過ぎたりすると、体に負担をかける。

秋バテは、日頃の心がけで、ある程度予防できる。
川嶋さんら医師や管理栄養士などで作る「ウーマンウェルネス研究会」は、秋バテ予防の啓発活動をしている。

電車やバスなどでは、立つよう心がけ、エスカレーターではなく、
階段を使うなど適度な運動で、筋肉を落とさないようにする。
ただし、体力を消耗する激しい運動は控える。

入浴は、ぬるめの湯にゆっくりつかると、リラックスし深い眠りにつくことができる。
食べ物は胃に優しいものを。

ニンジンやサトイモなどの根菜類は、体を温めてくれる。
腹巻きやスカーフなどで、体を冷やさない工夫も有効だ。

「秋バテを放置すると、大きな病気にもつながりかねません」と川嶋さんは注意を促す。
秋ならではの楽しみを満喫し、冬に備えるためにも、今一度日々の暮らしを振り返りたい。
            

※秋バテ対策は日常生活の見直しから

〈1〉軽い負荷で体力不足を解消
     ☆電車やバスの車内では立つ
     ☆エスカレーターではなく階段を使う

〈2〉自律神経のバランスを保つ
     ☆ゆっくりとぬるめの湯で入浴
     ☆就寝前のスマートフォンやパソコンの使用は控える

〈3〉食事に気を配る
     ☆体を冷やす食べ物は避ける
     ☆よくかんで食べる

〈4〉体を冷やさない
     ☆腹巻きやひざ掛けなどで体温調整
     ☆エアコンは夏場の設定のままにしない

(川嶋さんの話などを基に作成)・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
その後は多々の理由で年金生活を始めた身である。

そして定年後から自主的に平素の買物担当となった私は、
家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家は、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

こうした後、独りで我が家から歩いて3キロ範囲にある遊歩道、小公園をひたすら歩いたりし、
今年の夏も、夏帽子を被り、半袖のスポーツシャツが多く、下半身はアウトドアの丈夫な長ズボン、
ウオーキング・シューズの容姿となっている。

そして紳士バックを園児に真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

私は特にスポーツはしていないが、このように私は歩いたりしている程度であり、
体力の衰えを実感している私は、この程度で充分と微笑んだりしている。
            

しかしながら35度前後の猛暑の時は、最寄駅から利便性ある路線バスに乗車して、
車内の冷風に甘えて、甘享したりしてきた。

或いは自宅の近くにある遊歩道を少しばかり歩く程度となり、さぼったりしてきた。
もとより熱中症で倒れて、目覚めたら病院のベッドだったことは困苦するので、
回避してきた・・。

そして9月を迎えても、大気不安定な日々が続き、ときおり残暑は厳しく、
或いは平年以上に雨が激しく降ったりして、戸惑いながら過ごしてきた。
            
            
食事に関しては、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
ここ三が月は、タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。
        
家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

昼食は私はアイス・コーヒーを飲みながら、小さな塩フランスバンを三ばかり食べたりしているが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。
そして昼食は、お互いに自由な時間を過ごしているので、それぞれ自在に食べることが多いのが、実態となっている。
                                     

やがて夕食の時は、私は前菜として、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、
やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べている。

そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、 私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、
男の癖におしゃべりで、家内と談笑をしたりしている。

こうした日常生活の食事となり、ときおり駅前に買物とか旅行の旅先の時は、
家内の要望を聞いて、食事処で少し背延びした料理も頂いたりしている。

ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、看病に行った時は、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、こうした時でも殆ど食事内容が変わらなく過ごしたりしている。
                         

睡眠に関しては、現役時代のサラリーマン時代には、ストレスがあったりしたが、
年金生活をすると悩みも激少し、たとえ震度3ぐらいでも目覚めることなく、少なくとも6時半は連続熟睡している。

このように私は、何かと単細胞の為か疲れたら、人生は気合だ、と思ったりしているので、
「夏バテ」、そして「秋バテ」も無縁となって、年金生活を過ごしてきた。

しかしながら体力の衰えを実感している私は、三キロばかり遊歩道を歩きながら、
疲れを感じた時は、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたりしてきた。

或いは、♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
【『三百六十五歩のマーチ』 作詞・星野哲郎、作曲・米山正夫、唄・水前寺清子 】
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄い、
自身を励ましたりしているのが実態である。
                    
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ブラジャーのすき間に延命拒否のメモ、高齢者の男性の私は学び、恐れ入りました、と心の中で呟(つぶや)き・・。

2016-09-29 13:03:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活している72歳の身であるが、
昨夜、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【dot.(ドット)】を見ていたら、
【 ブラジャーのすき間に延命拒否のメモ 女性の「終活」事情 】
と見出しを見てしまった。

私はいつの日にか晩終期には、無理な延命治療はしてほしくないと念願している私は、
どのようなことですかと思い、少しためらいながら、こっそりと記事を精読してしまった。

この記事は、『週刊朝日』 2012年12月21日号に掲載された記事のひとつであり、
そして【dot.(ドット)】に2012年12月16日配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・終末期における意思決定への関心が高まっているが、「理想の死」への支度とは一体何か。
川崎市の松根敦子さん(79歳)の場合はこうだ。

〈私が気を失っていても絶対に蘇生させないで下さい〉

川崎市の松根さんの家の玄関先には、手作りの札が掲げてある。
理想の最期のための「意思表示」だ。
            

「宅配便の配達員が『これ何ですか!』と驚くんです。
無理な延命治療はしないという宣言書よ、と説明するんです。
自衛策、といってもいいかしら」

敦子さんは今年3月まで日本尊厳死協会の副理事長を務め、
尊厳死についての考えを人々に伝えたり、相談にのったりしてきた。

この協会は、産婦人科医で国会議員も務めた故・太田典礼氏を中心に1976年に発足したものだ。
リビング・ウイルによって、安らかに死ぬ権利を守る考えに賛同し、
敦子さんは夫の光雄さん(享年69歳)とともに、設立直後に入会している。

「入った当初は200人足らずだった会員も、今は12万5千人を超えている。
私が尊厳死について考えたきっかけは、義理の両親の死でした。
人は生き方だけでなく、死に方にも、責任を持たなければと思ったんです」

札だけでなく、もしもの際の「別れの手紙」を居間に置き、
散骨や遺品整理に備えた連絡先も、目に見える場所に用意している。
            

ここまで死に支度を整えている人は珍しいが、
いざというとき、女性のほうが、男性より肝が据わっているというのは本当のようだ。
実際、日本尊厳死協会の会員も約7割が女性だという。

夫は、妻に終末期の面倒をみてもらうケースが多いので、あえて準備しなくていいと、「終活」に消極的だが、
妻のほうは、親を看取り、子どもに負担をかけたくないと、準備を整える傾向があるらしい。

「出かけた先で、何かあってもわかるように、
ブラジャーのすき間にもDNR(蘇生拒否)のメモを挟んでいるの(笑い)。
幕の引き方を決めれば、今が充実する。それは本当よ」・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は読み終わった直後、ここまで周到に準備されて御方に、
恐れ入りました、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇しないで、まもなく年金生活12年となる。

ここ10数年、いつの年か判からないが、どちらかが亡くなった時、
葬儀、残こされた方の『おひとりさま』の生活基盤など、ときおり話し合ったりしてきた・・。

或いは、どちらかが大病になった時、私は自身で食事が出来なかった時は死ぬ時だから、
まして延命治療まで施(ほどこ)して、生きるのは・・と私は家内に言ったりしてきた。

家内も、あたしも延命治療はお断わりょ、と私に言ったりしてきた。

このような心情を漠然としながらも、私たち夫婦は秘めたりしてきた・・。
                        

私は延命治療に関して、少し知ったのは、確か35年前の頃で、
私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母に衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。

この頃、遠い親戚の裕福の御方が、身体を壊して、長らく入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった自身の身を想定し、長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたりした。

こうした母の根底には、敗戦後の前、自宅で祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看護し、
やがて死去された思いがあったと思われる。

そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は思ったりしたのであった。
                                    

やがて平成5年の頃、母は婦人系のガンが発見され、
それから1年に1ヶ月前後、都心の広尾にある日本赤十字医療センターで、入退院を繰り返していた。

結果的には、母の意志で、苦痛を和らげるために緩和医療を依頼し、5年後に亡くなってしまったが、
この間、母が気に入った個室に、幾たびか私が見舞いに行ったある時、
看護婦さんから、あなたのお母さん、ご自分でトイレに行っているの、と私は聞き、
お母さんらしいなぁ、と私は思いながら、安堵もしたりした。

ともすれば、回復の見込みがない大病となり、本人が延命治療はしてほしくない、と念願しても、
親族、親戚、知人などは、出来る限る長く生きていて欲しい心情に圧(お)されたりしまい、
結果的には本人の意志に背(そむ)き、酸素を吸入し、鼻から栄養を入れるなど延命治療がされてしまうケースが多い、
と私は聞いたりしてきた。
            

過ぎし7月16日、私はネットでニュースを見ている中、
【 延命治療を断るために宣言すべき3つの項目 】と題された記事を精読した。

『この文書は私の精神が健全な状態にある時に書いたものです』と宣言したうえで、

1つ目は
    『ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命治療はお断わりします』
    と意思を明示すること。

2つ目は
    『ただし私の苦痛を和らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行なってください』
    と、緩和医療と単なる延命措置をきちんと区別しておくこと。

そして3つ目は
    『私が回復不能な遷延性意識障害(植物状態)に陥った時は、生命維持措置を取りやめてください』
    と、植物状態のまま生かされることを拒否しておくことです。

こうした宣言書は自分で作成することも、公証役場で専門家に作成してもらうこともできます。
ただし、いずれにしても法的な拘束力はなく、その意味では確実に延命治療を断わる方法はありません。
自分の意思を書類にまとめたうえで、家族や医師に考えを伝えていくしかありません」

このようなことも学んだりしてきた。
            

今回の記事を読み、私は多々教示された。

そして後期高齢者になる75歳まで、この御方のように準備し、私は男性であるので、
男性用のネックレスに少し鎖で垂らして名刺大の大きさに、この三が条を明記した内容をケースに入り、
外出の時は持ち歩こうかなぁ、と思ったりしている。

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現役厚労幹部官僚が告発「日本の医療制度は最短5年で破綻」、私は教示されて、動顛し、やがて・・。

2016-09-28 16:38:48 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活している72歳の身であるが、
先程、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【dot.(ドット)】を見ていたら、
【 現役厚労幹部官僚が告発「日本の医療制度は最短5年で破綻」】
と見出しを見て、どのようなことになって破綻・・と思いながら私は記事を精読した。

この記事は、朝日新聞出版が発行する『AERA(アエラ)』に於いて、2016年10月3日号に掲載された記事のひとつであり、
現役の厚生労働省幹部官僚と医療ガバナンスの専門家の上昌広(かみ・まさひろ)さんが、対談形式で、
編集部・熊澤志保さんがまとめられた記事である。

そして【dot.(ドット)】に2015年9月28日配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・午前中の病院の待合室は、診察を求める高齢者らで、ごった返すことが多い。
国民皆保険の恩恵とも言えるが、いつまで持続可能なのだろうか。

少子高齢化が進む中、医療費が膨らみ続けるニッポン。
「もう持たないのでは」と誰もが不安を覚えている状況に「もはや一刻の猶予もない」と警告する厚生労働省幹部が現れた。
医療ガバナンスの専門家・上昌広(かみ・まさひろ)さんが、その見方に切り込んだ。
            

上昌広さん
     日本の医療財政に破綻(はたん)が迫っている。
     そう考えておられると聞きました。

厚労省幹部
     はい。社会保障財政も医療財政も、皆保険制度も破綻の瀬戸際です。

     国民健康保険の収支を見ると、毎年若干の黒字に見えますが、
     保険料収入と同等、もしくはそれ以上の国庫支出金に支えられています。
     本来は赤字続きで、すでにシステムとしては破綻しているんです。

上昌広さん
     2014年度の総額が40兆円、15年度は41・5兆円と、医療費は膨張する一方です。
     団塊世代が75歳以上になる2025年に向けて、今後ますますシビアになることが予想されます。

厚労省幹部
     税金を補てんし続けるのか、保険料や自己負担を上げるのか、選択肢は限られています。
     国債の発行も税金の負担増も、限界にきている。じき、膨らむ医療費に対応しきれなくなる。

     個人的な考えでは、2025年まで現行制度が持つかもあやしい。
     消費税率の引き上げも10%では到底足りないでしょうし、
     引き上げがうまくいかなければ、最短5年で、医療制度は破綻します。

上昌広さん
     予想以上に早い破綻ですね。
     官僚たちは、その危機を理解しているんでしょうか。
            

※対処は破綻してから?

厚労省幹部
     財務省は、医療費の伸びを分析し、警告もしている。議論したがっていると思いますよ。
     一部の厚労官僚も認識しているはずですが、割り当てられた予算で、しのいでいれば、責任は追及されない。
     結局、さまざまな支払いが滞り、破綻が現実的になってから、対処しようということになるのでしょう。

上昌広さん
     なぜ、ここまで膨らんだのでしょう。

厚労省幹部
     構造的な問題です。採算のとりようがない。
     現状のシステムは、受給者は受けたいだけ医療を受けられ、医療サービス提供者へも出来高払い。
     
     全員で保険料・税金と国の財源に群がっている。
     依存しているのは、国の財布に加え、国債という次世代のお金です。悪質だと思います。

上昌広さん
     そもそも、制度自体がおかしいということですね。

厚労省幹部
     その通りです。保険とは名ばかり。
     加入者の掛け金では足りず、自動車保険の損害賠償を、国民の税金で補てんして、
     バンバン出しているようなものです。
     カバーする領域も広すぎる。

     皆保険は、戦後間もない頃、蔓延(まんえん)していた結核やコレラなど感染症への対策を主として、作られた仕組みです。
     当時は、希少な医療資源を全国公平に分配する意義も、税金を投入する意義もあった。
     経済成長を前提にした制度でもあります。

     現代は前提が違う。
     大部分を占めるのは高齢者の医療費で、健康保険加入者の保険料は、高齢者の慢性期の病気や延命治療に充てられている。
            

※本家麦飯、離れすき焼き

厚労省幹部
     高齢になれば、健康面のリスクは上がる。
     そこに「保険」を適用すること自体に、無理があるでしょう。
     さらに、通常は3割の自己負担が、後期高齢者では1割しかない。

     「本家が麦飯なのに、離れがすき焼きを食べている」状態です。

上昌広さん
     医療費が最もかさんでいるのは、高齢者の終末期医療、いわゆる延命治療であるという報告もあります。

厚労省幹部
     延命措置も高額医療も受けるのは自由ですが、公的保険を充てるのはおかしい。
     民間保険や自己負担でカバーすべきです。
     皆保険を維持するには、給付と負担のバランスをどうするか、早急に議論すべきでしょう。

上昌広さん
     何かを保険から外すとなると、「命に差をつけるのか」とイデオロギーが持ち込まれ、問題をすり替えられてしまう。
     国民が問題の本質を認識できていないためでしょうね。

厚労省幹部
     高齢者が少しの不調を訴えて来院したら、高額な医療機器で全身を検査して、
     数百万円を計上して自己負担はごく少額、というシステムは、持続不可能です。
     皆保険がカバーする領域に条件を設けて狭め、自己負担や自由診療の領域を拡大するしかないと思います。

上昌広さん
     私も、免責事項と免責額を設定するしかないと考えます。
     まずは、命にかかわるところを優先する。
     心筋梗塞(こうそく)や脳卒中を公的負担にしても、過剰診療は起こりえないでしょう。

     その代わり、延命治療やQOLの疾患は削る。
     効果がよくわからない大部分の抗がん剤をカバーするのも、現実的でないと思います。

厚労省幹部
     同意見です。命に関わる問題は重大ですが、
     シビアにいえば、人工透析のような慢性疾患を公的保険で負担するなら、さらなる工夫も必要でしょう。

上昌広さん
     能力に応じた負担が、きれいですよね。
     収入の高い人には、一定の負担をしてもらうのが現実的でしょう。

     公的保険の対象に、何を入れて何を外すかは難しい問題で、意見が分かれます。
     優先順位は、本来は国民がつけるべきですよね。
            

※遠隔医療進む米国

上昌広さん
     日本の医療サービスは、コスト+最低利潤という発想で、一律公定価格である点にも問題があると思います。
     いいか悪いか、どこも比較しようとしない。
     コストを削減しようとも、付加価値を追求しようともしない。
     
     現在の医療の単価が高いのは、国が買い上げてくれるからです。

厚労省幹部
     医療サービスでも自由診療を増やし、競争原理を働かせるべき、ということですね。
     自己負担になれば、受給者側も、適正な頻度でサービスを受けるようになるでしょう。

上昌広さん
     市場競争が起これば、価格も自然に下がります。日本の医療界は、あまりにも遅れています。
     コストを下げれば価格競争力を持ち、世界に打って出ることもできる。
     米国ではすでに、医療コストが低く、スマホひとつで遠隔診療ができる「テレメディスン」が注目されています。
     今後はこの領域が発達していくでしょう。

     ところが、日本ではいまだに、高いお金をかけて全国で、病院ばかり建てている。
     固定費が増え、赤字リスクが増すばかりです。

厚労省幹部
     目立つ建物が建てば、住民が喜ぶ。津々浦々に公的病院を造って、赤字が膨らむ悪循環ですね。
     民主主義的ですが、残念な発想です。
     現在の政治システム上、思い切ったかじ取りは、実現が難しそうです。

上昌広さん
     いま、もうかっている層の利権が、複雑に絡み合っているからでしょう。
            

厚労省幹部
     医療財政破綻のXデーがくれば、上さんは、何が起こると思いますか。

上昌広さん
     色々なことが一度に起こると思うので、正確なところは予想しづらいですが、
     まず、一部の公的病院から経営破綻すると思います。

     診療報酬が支払われない、あるいは大幅カットになれば、キャッシュフローが滞るからです。
     診療報酬に依存する病院から潰れていく。

     美容外科や人間ドック、保険診療以外で収益を確保している病院は別として、
     補助金や診療報酬の割合が高い、地方の公立病院が厳しくなると思います。

     経営合理化が進んでいたり、不動産など安定した財政基盤があったりすれば、強いかもしれません。
     大学病院も研究費を減らされるでしょうから、ジリ貧になる。
     診療業務はギリギリまで頑張るかもしれませんが。
            

※チーム医療より一匹狼

厚労省幹部
     医師はどうなるでしょう。


上昌広さん
     仕事と収入が減る医師が出るなど、格差が広がると思います。
     国はやたらとチーム医療を推していますが、私は、若い医師たちには「チーム医療はやめておけ」と言っています。

     東京ではここ10年、一部の専門病院に患者が集中する一人勝ち状態が続いているからです。
     チーム医療はこうした大病院でこそ、機能するものです。

     ところが、大病院は医師やスタッフも多く、人数が飽和しているうえ、序列があって、完全に買い手市場です。
     労働力は買いたたかれてしまう。
     臨床経験も満足に積めるかどうか、わかりません。

     これからは自分の腕一本で、勝負できる診療科が強くなるでしょう。
     乳がん、眼科、泌尿器科は一人でもできます。海外で需要のある科ならなおさらです。

     フリーランスで働く眼科の服部匡志医師は、ベトナムと日本を股にかけ、1万件以上の白内障手術を行いました。
     日本の医療が破綻しても、内視鏡などの技量があれば、混乱期に海外で腕を磨けるんです。

厚労省幹部
     医師個人に付加価値があれば、いかようにも活躍できるということですね。

上昌広さん
     必要な変革のリーダーシップをどこが取るのか。
     マスコミも国民も、国に丸投げしたがりますが、国がやるべきことは、情報開示をする仕組みをつくること。

     どんなに優秀であっても、国はサポーターであって指揮者じゃない。
     指揮をとるなら、それは社会主義です。
            

厚労省幹部
     20世紀のソ連は破綻しましたね。パンを買うのに行列ができていたかつてのソ連と、
     大学病院に行列ができている現在の日本の医療は、極論すれば同じことだと思います。
     足りていない資源に、群がっている。

上昌広さん
     国が医療の総量規制をやっているからですよね。

厚労省幹部
     医師数を国家管理しようというのが、そもそもおかしいと思います。
     国が行うべきは、医療規制ではなく、公衆衛生と感染症対策でしょう。

     先日の麻疹の発生では、直ちに介入する意思表示をすべきでした。
     ところが、ワクチンの備蓄や緊急輸入も行わず、予防接種をしろとも言わなかった。
     何もしなかった。よくないパターンです。

     2020年の東京開催を考えれば、五輪関連予算に計上してもよい案件でしょう。

     国は本来の役割をこなし、医師養成数を縛るのをやめればいい。ロースクールのように増やせばいいんです。
     ダメな教育機関は退場し、優れた機関は伸びるでしょう。
     粗製乱造はいけませんが、一定レベルの能力がある人を国家試験で合格させるのは自然です。
            

※30年後も医師は不足

上昌広さん
     近い将来、医師数が飽和すると考える医師も多いようですが、科学的に明らかに間違っています。
     私たちの研究グループは数学者と共同で、人口学に基づいたシミュレーションを行った。

     それによると、現状の医師養成数では、2050年まで医師はまったく足りず、今より状況は悪化します。
     日本は、山手線内の医師数こそ世界でも最高レベルですが、地方は慢性的な人手不足です。
     医師は足りないとダメで、余っているほうがいい。

厚労省幹部
     同意見です。官僚たちは、医師が増えれば、診療報酬が増えると考えている節がある。

上昌広さん
     人口当たりの医師数が不足している地域なら、医師が増えれば当然、医療費は増えますよ。
     しかし、ある程度の数がいれば、医療費は増えません。
     
     付加価値のある医師が高収入になり、努力しない医師は収入が下がる。海外に行く医師ももちろん出るでしょうね。

厚労省幹部
     不足して行列ができるよりは、競争原理が働き、健全にサービスが提供されている状態が望ましい。

     結局、役所は官僚統制が好きなんです。
     戦後の成功体験が根強いためか、希少な医療資源を分配して、感謝されたい。

     医療資源が十分行きわたり、質の競争が始まれば、公権力を行使できず口も出せず、存在意義がなくなってしまう。
     それを本能的に避けているのかもしれません。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は定年後に多々の理由で年金生活を始めて、約一年後に『国民健康保険』に加入して、
70歳になった時は、昭和19年3月生まれまでは『一割』負担であったが、
9月生まれであった為、『二割』負担となっている。

そして国民健康保険の財政は、国の負担が多く、高齢者増大で悪化し、
私の5歳下の団塊世代に属する家内にも、これから亡くなるまで、私たちは『二割』負担となる、
と思うょ、と私は苦笑しながら言ったりしてきた。

今回の記事を読み終わった後、このまま放置すれば「日本の医療制度は最短5年で破綻」と学び、
もとより病院迷子になったら困苦すると、私は動顛したりした・・。

そして厚労省幹部は、《・・税金を補てんし続けるのか、保険料や自己負担を上げるのか、選択肢は限られています。
国債の発行も税金の負担増も、限界にきている。じき、膨らむ医療費に対応しきれなくなる。

個人的な考えでは、2025年まで現行制度が持つかもあやしい。
消費税率の引き上げも10%では到底足りないでしょうし、
引き上げがうまくいかなければ、最短5年で、医療制度は破綻します。・・》

私はこの厚労省幹部の御方は、問題定義をされるばかりで、総合的な当面、中期、長期の試案を
具体的に厚労省内部で作成した上、政権に提示するが責務と感じている。

そして政権にいる御方たちは、これからの日本の医療制度について、具体的に国民に提示するが責務がある、
と無力な国民のひとりとして深く感じたりした。
            

難題の財政に関しては、敬愛している高橋洋一さんの著作『日本はこの先どうなるか』(幻冬舎新書)を購読し、
根本的に歳入庁を創設すれば増税の必要がなくなり、或いは多々の施策を実施すれば財政健全化が図れる、
と私は学んできたので、あとは厚労省、そして財務省、政府の判断と私は感じている。

いずれにしても、いつ日にか日本の医療制度が破綻すれば、殆どの国民は困窮するので、
政府の最優先課題のひとつと私は思ったりしている。

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つたない人生航路を歩んできた私でも、何とか満72歳を迎え、やがて独り微苦笑を重ねて・・。

2016-09-27 15:36:02 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、雑木の多い小庭に古惚けた戸建に住み、
近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であると暗黙の定(さだ)めがあるが、この当時も幼児に病死することもあり、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
          
そして私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

やがて1960年〈昭和35年〉の春、都心にある高校に入学して、
初めて授業の楽しさを知り、生れて初めて優等生グループになったりした。

そして遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
            

その後の私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
                  
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
         
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
            

このようにつたない定年までの半生を過ごし、せめて残されたセカンドライフは、
多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。

そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。

こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
                         
         
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、まもなく年金生活を丸12年となる。
            

私が現役サラリーマンで奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
           
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                                           
                       
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

もとより70代、80代の私より年上の御方でも、心身溌剌と過ごされている方達も、
近所にいる御方、知人に多くいることも、私は知って、少しでも学ぼうとしている。
            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                                      

私が定年退職してまもない時、地元の中学校時代の友人が、私の定年退職の挨拶状を読み、
とりあえず近くに住んでいる同級生を招集して、クラス有志会を開催してくれた・・。

やがて指定されたお洒落な居酒屋に行ったのであるが、
男性5名、女性5名のメンバーとなった。

まもなく私は、 『俺・・小学校、中学校も「2」と「3」の多い・・いじけた劣等生だった・・』
と私は皆に云ったりした。

『XXくん・・学校の成績なんか・・この人生・・平等に出来ているんだから・・関係ないわよ・・』
と同級生の女性は、微笑みながら私に言ったりした。

『それだったら・・俺の人生・・これから上向きだよね・・』
と私は軽口を云い、皆を笑わせたりした。

やがて二次会は、カラオケができる洋風の軽食事処で、
先程の女性同級生から、XXくん・・百恵ちゃんの『いい日旅たち』・・一緒に唄おうょ、
と私は誘い出されて、やがて互いに手を軽くにぎり、私は少し照れながら共に唄ったりした。
            

過ぎし2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の知人、後輩から定年退職を迎えた挨拶状、
或いは電話連絡を受けたりした。

この間、不幸にしてリストラで早期優遇退職制度に応じて、やむなく転職した連絡も幾たびも、
私は受けたりした。

こうした中、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。

もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

私も60代の10年間は、定年するまで何かと苦節が多かった半生を振り返れば、
想定したより遥かな安楽な年金生活を享受して、70代の初期の今でも、先苦後楽の人生かしら、
と私は独り微笑んだりした。

そして私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇しないで、今日を迎え、
つたない人生航路を歩んできた私でも、神様か仏様に守られて、満72歳を迎えることが出来た。
            

私たち両親は、無念ながら家内の母だけとなり、独り住まいの生活をされて、早や丸12年近くになっている・・。
                                  
昨年の5月下旬より、膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりし、『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

そして家内と家内の妹は交互に交代しながら、家内の母宅に大半は宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなっていて、
今朝、家内は家内の母宅に2泊3日で行ったりしている。

私は今年は年男で、本日満72歳を迎えることができ、感謝しながらささやかな祝杯が本来であるが、
無念ながら私は『おひとりさま』となり、これも人生だよねぇ・・と私は独り微苦笑したりしている。

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いざという時のために知っておきたい「生活保護」 老後の暮らしを守る最後の砦、多々教示されて溜息を重ねて・・。

2016-09-26 15:55:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活し、まもなく満72歳を迎える身であるが、
昨夜、愛読しているネットの【現代ビジネス 】を見ている中で、
【 いざという時のために知っておきたい「生活保護」 老後の暮らしを守る最後の砦 】
と見出しを見たりした・・。

そして少しためらいながら、私は昨年の9月中旬に、
藤田孝典(ふじた・たかのり)さん・著作の『下流老人~一億老後崩壊の衝撃』(朝日新書)を購読したことの内容に、
思い馳せたりした・・。

確か普通に暮らすことができず下流の生活を強いられる貧困高齢者を下流老人と名付けられて、
「このままだと高齢者の9割が貧困化し、貧困に苦しむ若者も増える」と提示されていた。

そして藤田孝典さん、『下流老人』の中で高齢者が貧困に陥るパターンを五つに大別されていた。
【1】本人の病気や事故により高額な医療費がかかる
【2】高齢者介護施設に入居できない
【3】子どもがワーキングプアや引きこもりで親に寄りかかる
【4】熟年離婚
【5】認知症でも周りに頼れる家族がいない

或いは私は新聞を読んだりしていた中、実際に生活保護を受給する高齢者は増加中で、
今年3月時点で65歳以上の78万6634世帯(受給世帯の約48%)が生活保護を受けている。
昔なら子ども夫婦に扶助してもらうことが当たり前だったが、今は核家族が多い。

そして頼りの子どもは派遣切りやニート。
高齢で大病して貯蓄も尽きたら、生活困窮者になる、と学んだりしてきた・・。
            

まさかの出来事に遭遇して、生活困窮者になり、やむえなく「生活保護」の身になる・・。

私だって、いつの日にか、想定もしないまさか出来事が連続して遭遇して、生活困窮者になるかも知れない。
そして「生活保護」の条件も無知だったので、
『いざという時のために知っておきたい「生活保護」 老後の暮らしを守る最後の砦』記事を読んだりした・・。


この記事の原文は、『週刊現代』2016年9月17日号に掲載されて、
【現代ビジネス 】に9月18日配信された記事のひとつであり、無断ながら転載させて頂く。
          
《・・いざという時のために知っておきたい「生活保護」 老後の暮らしを守る最後の砦
            

※家があっても受給できる

「まさかねぇ、この歳になって、自分が生活保護を受けるようになるなんて、60歳の頃には思いもしませんでしたよ」
こう話すのは、東京・練馬区で親の代から八百屋を営んできた、高森吉彦さん(71歳・仮名)。

現在は廃業しているが、元店舗兼住宅の敷地8坪、築45年の自宅に暮らしている。
自動車は持っていないが、食卓の横には小ぶりの液晶テレビもあり、整理整頓された室内は明るく清潔だ。

生活保護を受け取っている人は、資産など一切なく、極貧の状態にあるはず・・。
そんな一方的なイメージを持っていると、高森さんが生活保護を受け取っているようには見えないだろう。

だが、懐事情は非常に厳しかったと高森さんは話す。
「駅前にスーパーができてから、開店休業状態。
4年前に店を畳む直前なんかは、毎日赤字が積み重なる状態でしたね。
そんなときに女房が乳がんになって・・。

一昨年、女房を看取りましたけれども、気がついたら銀行には30万円くらいしかなかった。
年金は国民年金だけです。未払いの時期もあって、もらえるのは月4万円程度。
電気、ガス、水道払って、おまんま食べたら足が出る。そんな状態でした・・・」

子供のいなかった高森さん夫婦。親類縁者に面倒を見てくれる人もいない。
長年の知人である商店会の元会長が見かねて、渋る高森さんを福祉事務所の生活保護の相談窓口に連れていった。

現在、高森さんは約4万円の国民年金に加え、生活保護として月3万5000円を給付されている。
年金額の9割近くを補助されている計算だ。
            

そもそも「生活保護」とは、厚生労働省が地域ごとに細かく指定している
「その場所で暮らすための最低限の生活費」に収入が届かない人に対して、収入との差額を補助する制度。

年金収入があっても、この「最低生活費」に満たなければ受給することができ、
無年金などで収入がゼロの場合には、最低生活費の額を全額受給できる。

さらに生活保護を受給していると、上下水道の基本料金はタダ、
住民税、固定資産税、NHKの聴取料も免除される。

国民健康保険に加入できなくなるため、保険証がなくなるが、
代わりに福祉事務所で発行される医療券を提示すると、医療費の自己負担もゼロだ。

自治体によって他にも減免される料金があり、
都民ならば、都電・都営地下鉄・都営バスの共通無料パスももらえるため、「こんなにしてもらっていいのかと驚いた」(高森さん)。

長年、掛け金を払ってきた年金に匹敵する金額を受け取ることができ、さまざまな減免措置まで受けられる生活保護。

だが「生活保護」と聞くと、「戦後でもあるまいし、働ける人間が働きもしないで、公金をむさぼっている」などと、
ネガティブな印象を持っている人も少なくないだろう。

実際には、生活保護の受給世帯約163万5000世帯のうち、
半数を超える50・8%は65歳以上の人を中心とする高齢者世帯。
うち9割は単身世帯となっている(厚生労働省統計・2016年3月現在)。

「働けるのに、サボっている」のではなく、これまで長年、働いてきたが、
20年、30年と長い老後を生き抜かなければならない人々が、頼りにする制度と言っていいだろう。

では、いざというときこの最後の砦を使うには、どうしたらいいのか。
            

※タンス預金までは調べない

生活保護に詳しい社労士の林智之氏は、大きく4つの条件があると話す。

「地域の福祉事務所や市町村の福祉課などを訪れたときに、まず問われるのが、次の4つです。
『援助してくれる身内がいないか』、『資産を持っていないか』、『働けないか』、『月の収入が最低生活費を下回っているか』。

第一の『身内』とは、法律で扶養義務のある、3親等以内の親族です。
同居している親族に収入がある場合は、同じ家計として扱われるので、まず申請は通りません。

別居していて、その人を扶養したくない、没交渉だというような親族の場合、
かつては『借金があるので、扶養できません』と言えば、あまり調べられることもなく、申請が通っていました。

しかし、例の芸能人の家族が生活保護を受給していた問題で、
平成26年の法改正以降は『具体的にどんな借金があるのか』と問われるようになりましたね」


続いて、2番目の『資産がないか』を見てみよう。前出の林氏は言う。

「資産とは、預貯金や株、有価証券、金や宝石、不動産、自動車などです。

東京近郊では無理でしょうが、車がないと生活できないような地域では、自動車の所有が認められることもあります。
不動産に関しては、自宅に住宅ローンが残っているとアウトです。
生活保護費を借金の返済に充てることはできないと決まっているため、売却して清算してください、となります」

ローンがなく、自ら居住している不動産がある場合には、福祉事務所の担当者との相談になる。
売却して賃貸に移り、家賃を払うとしても、心もとない売り値にしかならないと判断されれば、
持ち家に住み続けることが許される。

前出の高森さんもこのパターンだ。

「ただ財産を調べると言っても現金については、自宅に踏み込んでヘソクリがないかまで、調べたりはしません。
悪質な受給者の中には預金を引き出してタンス預金にし、数年寝かせて、財産がないと主張する例もある」(都内の福祉事務所職員)
            

3番目の『働けないか』については、20代、30代ならいざ知らず、
65歳を超えた人については、問われないのが普通だ。


そして最後が、『最低生活費以下の収入しかないか』。
この最低生活費とは、どのような金額なのか。

前出の林氏が続ける。
「最低生活費は、厚生労働省が定めているもので、地域ごとに細かく決められています。
東京など大都市と地方では、生活費に差がありますから、それを反映しているのです。

たとえば、夫婦とも60代で、東京23区在住の場合を見てみます。
すると、1人あたりの生活費が3万8990円。2人世帯では、その88・5%が支給されます。
さらに世帯当たりの加算が5万180円。合計11万9190円です。

賃貸暮らしの場合は、さらに住宅扶助が加わります。
2人世帯では6万4000円になりますから、計18万3190円。
この金額より月の収入が少なければ、生活保護を受け取ることができます」
            

※月単位でも申請できる

もし、この夫婦が2人とも国民年金を満額、月6万5000円受け取っていたとしよう。
世帯の収入は月13万円だ。すると、差額の5万3190円を生活保護費として受け取ることができる。

夫婦とも国民年金を満額もらってもなお、生活保護を受け取ることができる計算だ。

「それでも、誰でも受給しているわけではないのは、
自宅を売却しろと言われても、先祖代々の家でなかなかできないなど、
条件をクリアするのが難しい事情があるからでしょう」(林氏)

知っているようで、意外と知らない生活保護の仕組み。
若い頃には想像もできなかった長寿を謳歌できる現在だが、一方で70歳以降は、家計が火の車という方も多いはず。
使えるものは遠慮せず、上手に使って人生を乗り切るしかない。

『プチ生活保護のススメ』などの著書がある河西保夫氏は、こう話す。
「これも意外と知られていませんが、本来、生活保護の申請と受給は、月単位でできます。

たとえば、タクシーの運転手として働いていて、普段は27万円ある収入が、
ある月だけ10万円で最低生活費を下回ったとなれば、差額分の生活保護費をもらうことができる。

仕事を持っている人でも、国が目安を定めた最低生活費を下回る収入しかなければ、
セーフティーネットの恩恵にあずかれるのです」

年金をもらっていても、収入があっても、条件さえ満たせば、月単位で受け取れる生活保護。
家計が厳しい日々が続くようなら、「これで我が家も極貧に転落か」と思い込んであきらめるのではなく、
まずは福祉事務所の窓口で相談してみよう。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後38年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で、セカンドライフと称される年金生活を始めて、早や丸12年を迎えている。
 
こうした中で、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇しないで、今日に至っている。

今回、『生活保護』の概要を学んだりし、溜息を重ねたりしたが、
これから到来する日々、悲惨なまさかの出来事が連続して遭遇して、困窮する貧困生活になるのは勘弁してょ、
と私は空を見上げながら祈願したりした。

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人生案内、『夫亡くして5年 1人がつらい』、高齢者の男性の私は読み、やがて瞼(まぶた)が熱くなり・・。

2016-09-25 14:17:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活し、まもなく満72歳を迎える身である。

今朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。
まもなく19ページの【くらし/家庭】面を見たりした中で、恒例の『人生案内』が掲載されているが、
何気なしに見ていると、 【 夫亡くして5年 1人がつらい 】と見出しを見て、
私の心は吸い取られるように、今回の人生案内の記事を読んだりした・・。

やがて読み終わった後、瞼(まぶた)が熱くなった。
無断であるが、転記させて頂く。

《・・夫亡くして5年 1人がつらい

50代の自営業の女性。
夫を亡くして5年が過ぎようとしている今、1人でいることに耐えられず、
もう一度、誰かと共に暮らしたいと思うようになりました。
しかし、夫に対して申し訳ないのではないかと、考えあぐねています。
            

幸せな結婚生活でした。

夫は紳士的で優しく、私のことを気にかけてくれました。
おかげで何の不安もなく、日々を過ごすことができました。
休日には2人で近くの温泉に足を延ばし、夫の好きな日本酒とおいしい食事をいただいて、のんびり過ごしたものです。

こんな毎日がずっと続くことを疑っていませんでした。
夫が亡くなって初めて、今までの暮らしがどんなに恵まれていたか、一つ一つわかった次第です。

それなのに、私は今、あまりの寂しさと切なさに耐えられなくなっています。
誰かとささやかなことで笑顔を交わしたいと思うようになったのです。

これから一緒に過ごしていただける方を探すことは見苦しいことでしょうか。
夢を見てはいけないのでしょうか。(栃木・A子)
            

※弁護士・土肥幸代さんの寄せられたこと。

夫に先立たれたあと、もう一度、残りの人生を、誰かといっしょに暮らしたいというあなたの夢。
いいではありませんか。
そのための「婚活」は決して見苦しいことではありません。

実は、私も13年前に夫を亡くしたので、1人で暮らす寂しさ、切なさはよくわかります。
私は、いまだに亡き夫が忘れられず、常に幻の夫といっしょにいると思い続けることで、そのわびしさに耐えています。

でも、夫亡きあと、どう生きるかは、人それぞれです。
泣いて暮らすも、笑って暮らすも同じ一生なら、明るく楽しく過ごした方が幸せです。

私は、前向きに生きようとしているあなたに、エールを送りたいです。
亡き夫も、あなたの幸せを願っていらっしゃると思いますよ。

ただ、寂しいときは、ちょっとした親切や甘い言葉に心が動かされやすいもの。
伴侶を選ぶ際は、慎重に人となりを見極めることが肝要です。
まずは、茶飲み友達を見つけることから、始めてみたらどうでしょうか。

よい方に巡り合えるようお祈りしています。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を尊重している。

私は家内より先にあの世に旅立つことを思い、
残された家内が生活に困苦しないように、私は公正証書の遺言書を作成したのは、
定年後の年金生活を始めて、まもない時であった。

そして家内に我が家を処分して、小さな2DKのマンションに転居し、
趣味を基軸に過ごされれば・・と私は幾たびも家内に言ったりしている。

いつの日にか、私は大病に遭遇して、やがて危篤時に、
家内からは、『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』と心の中で感じてくれれば、私は充分である。
            

しかしながら、この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
いつの年に私を残して家内に先き立たれて、『おひとりさま』の生活になることも考えられる・・。
          
私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は兄妹などの親族関係だけの家族葬とした後、お墓は、亡くなわれた方は土に還ると思いが強く、
樹木葬として、遅ればせながら今年の5月に埋葬できる墓地を買い求めたりしてきた。

そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。
                       

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら失墜感を深めて、やがて四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
私たち夫婦の長き航路を歩み、愛惜感もあり、苦痛が増したりするので住めないだろう、と私は改めて感じている。

やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、都立の大きな公園が隣接した場所で、
小さな2DKのマンションに転居すると思われる。

そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。
                                                       
この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、500冊前後に厳選した上、
映画作品のDVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

小さな2DKの12畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のバルコニー越しにマンション敷地内の大きな樹木が数多く観え、
食事もこのテーブルを使い、四季折々の常緑樹、落葉樹の情景を眺める。

そして6畳はベットの下には、収納棚に下着と靴下、壁側は衣服棚・・
付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
                                                                                               
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。

そして私は家内の位牌の代わりに、定期入れに愛用した革のケースに、
家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。
              
こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、少なくとも年に4回ぐらいは2泊3日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。
            

このようなことを私は、ときおり思案してきたが、今回、『夫亡くして5年 1人がつらい』と真情を読み、
私はこの御方の心情を思い重ねると、瞼(まぶた)が熱くなっくる・・。

やがて、こればかりは御当人が、想定したことなどより遥かに奥深き、
その時になって実感されて初めて判ることである、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

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宇多田ヒカルさんの『花束を君に』、まもなく72歳になる男性の私でも、聴くたびに感銘を深めて・・。

2016-09-24 15:31:25 | ささやかな古稀からの思い
我が家では朝の8時過ぎには、宇多田ヒカルさんの『花束を君に』の歌が流れることが多い。

家内がNHK連続ドラマ『とと姉ちゃん』を視聴しているので、
居間にあるテレビから宇多田ヒカルさんの『花束を君に』の歌が、付近にいる私は聴こえてくる・・。

或いは私は年金生活の中、平素の買物を自主的にしている私は、
スーパーの店内で品を探し求めている時でも、
     ♪花束を君に贈ろう 愛おしい人 愛おしい人
           どんな言葉並べても 真実にはならないから・・・
と宇多田ヒカルさんが作詞・作曲もされた『花束を君に』の歌が流れたりすることが多い。

私は幾たびも聴いたりする中で、《・・どんな言葉並べても 真実にはならないから・・》
と歌詞に、聴くたびに魅了を深めたりしている。

人それぞれ、どのように解釈しても、本人しか本心の真情は解らないので、人生の深淵を的源している、と思いながら、
よくぞ宇多田ヒカルさんは、お若いに判るよなぁ、と感心し、やがて感銘を深めてきている・・。
            

過ぎし22日、NHK総合『SONGSスペシャル 宇多田ヒカル』が、
午後10時より通常の30分番組枠を拡大して、約一時間を私は視聴した。

そして『とと姉ちゃん』主演の高畑充希さんがナレーションを務めていた。

そして宇多田ヒカルさんは『花束を君に』をテレビで初めて歌唱すると知ったり、
約8年半ぶりに発表するオリジナルアルバム『Fantome』(28日発売、全11曲)、
と学んだりして、番組ではこの中から『ともだち』、『道』も初披露して下さり、聴いたりした。

或いはコピーライターの糸井重里さんが、宇多田ヒカルさんと初対談と知り、
活動休止に至った経緯、初めて「日常」を手にした休止中の出来事、現在の創作活動に至るまでの状況を
私は学んだりした・・。

そして「今までになく率直で、今までになく肉体的になった」という新曲たちの概念には、
3年前に亡くなった母上の藤圭子さんへの強い思い、そして昨年7月に出産した第1子男児の存在もあった、
と私は知り、『花束を君に』の歌は、育てて下さった母上の藤圭子さんへの鎮魂歌かしら、と感じ深めたりした。
            

やがて番組の後半に於いては、歴代の代表曲を振り返る語りもあったり、
当時の映像を映し出される中、自身の歌詞や歌声について語り、創作の変遷を発露されたりしていた。

私は宇多田ヒカルさんの波乱に満ちた足跡を、表面だけ少しだけ判ったりしたが、
大変な人生航路を歩まれてきた・・と感じ深めたりした。

そして私は、心の中で、『花束を君に』を唄ったりした。

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高齢化で多死社会の“難民遺体”の現代、「死者のホテル」も活況と学び、高齢者の私は溜息を重ねて・・。

2016-09-23 15:32:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活しているまもなく満72歳になる身である。

本日の昼下がり、自分らしく人生を仕上げる終活情報サイトの『ソナエ 』を見ていた中、
【 「死者のホテル」も活況 高齢化で多死社会、新たなビジネスも 】と見出しを見て、
どういうことなの、と思いながら記事を精読してしまった・・。

この記事は、実業家の平松庚三(ひらまつ・こうぞう)さんの寄稿文で、
終活情報サイトの『ソナエ 』に9月23日に配信された記事であり、無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・訪日外国人観光客の増加によってホテル・旅館など国内の宿泊施設が不足している。
東京オリンピックを控え、宿泊施設不足は、今後ますます深刻化していく。

しかし、最近の宿泊施設不足は、なにも旅行者だけに限ったことではなく、
冥土に旅立ったはずの死者でさえ宿泊施設不足から三途(さんず)の川で足止めを食らっている。

高齢化の進む日本は、同時に世界有数の長寿国でもある。
長寿国となったことは大いにけっこう。

だが他国の人と比べて、寿命が少々長いというだけで死ななくなったわけではない。
長寿国とは、多死国と同義語だ。

現時点で国内で年間130万人以上が亡くなっており、この数字は年々増加している。
これだけ死亡者が増えると当然、後の処理が追いつかなくなってくる。
            

後処理とは、つまり火葬のこと。
その火葬場の数が圧倒的に足りなくなっている。

原因は死亡者数が増えたことのほかにも、いくつかある。
海外と比べ日本では、ほとんどの遺体が荼毘(だび)に付される。

しかも日本では習慣上、遺灰より遺骨を重要視するから、1体の処理に平均3時間かかる。
遺灰の場合は、強烈な火力を使うから1時間で済む。

東京都の場合、平均毎日300人強が亡くなるのに対して、火葬施設は10カ所だ。
1カ所で平均10基の火葬炉があるから、東京都合計で1日当たり300件の遺体処理能力はあるが、今はこれで限界だ。

当然処理能力の向上を図ることが急務だが簡単ではない。

遺骨ではなく、遺灰にすれば、処理能力は3倍に増える。
2体一緒に火葬すれば能力は2倍になる。

しかし火葬の手順を決めるのは、遺族であって本人ではないから、なかなか難しい。
新しい火葬場を建設しようにも近隣住民の反対が多く、簡単に新火葬場を造るわけにもいかない。

火葬どころか、通夜も葬儀もできないから、順番待ちの“難民遺体”の数も増える。
            

1日や2日ならともかく中には1週間以上も待機させられることもある。
こうなると問題は、遺体の安置場所だ。

病院の安置室が使えるのは、せいぜい死後24時間まで、自宅に遺体を運び込むわけにもいかない。
一般的には葬儀場に預けておくのが常だが、ここは1日当たり1万円から10万円以上するところもある。

これだけのニーズがあれば「それでは遺体の置き場所を提供しよう」
と新規ビジネスを考える者が出てもおかしくない。

とりわけ都内近郊には、すでに死者専用ホテルが数件開業しており、
どこも回転率は85%を超えるというから普通のホテル経営より効率が良い。

従業員数も一般的ホテルより、はるかに少なくて済む。
朝食サービスも不要。全室がシングルルームで、バス・トイレも要らないから、
オペレーションコストを抑えたビジネスモデルを構築できる。

顧客、つまり遺族の立場から見れば値段も1泊5000円から2万円と手頃で
24時間面会可能の利便性と安心感がある。

需要があれば供給が生まれ、必要性があればそれを解決するための新しい商いが誕生する。
死者相手の商売か? と首をかしげてはいけない。

王様であれ、物乞いであれ、死は人間誰でもが最後に体験しなくてはならない大仕事である。
死んでもその後は、ホテルのスイートルームで数日間快適に過ごせる-と思うと
案外死ぬのも悪くないかもしれない。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は恥ずかしながら、「死者のホテル」は無知であり、今回の記事を読みながら多々教示させられ、
溜息を重ねながら読んだりした・・。

私の母は婦人系のガンが発見され、 日赤の広尾病院に3年ばかり入退院を繰り返した後、
1997年(平成9年)の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行い、
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、何かしら華やかなさを好んでいるので、私たち兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

やがて年の瀬に悪化を増して、緊急入院した後、新年の1998年(平成10年)の1月13日の深夜一時少し前に、
死去した。

そして病室から安置室に運ばれて、やがて寝台車と2台の乗用車で、母と共に私たち親族は母の住んでいた所を経由して、
実家の長兄宅に深夜二時頃に到着して、私たち親族は母を安置した。

そして実家の長兄宅で1月13日は仮通夜、14日は本通夜、15日は告別式後、霊柩車で火葬場に行き、
やがて帰宅後には初七日を行ったりした。
            

私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなかったので、一代限りの身となっている。

そして私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ15年ぐらい言ったりしている。

私は父親、祖父、次兄、母親、そして親戚の叔父、叔母、或いは知人などの数多くの葬儀に参列してきた。
こうした中で、自宅で通夜、告別式、或いは寺院の斎場で通夜、告別式が執り行われ、
多くの会葬者を観たりしてきた・・。

私はサラリーマンを定年退職し、早や12年近い年金生活の身であり、
官公庁、民間会社で栄達された人とは、遥かに遠い平凡な人生を歩んできたりした。

こうしたことで、遠い親戚、知人、友人も高齢者の方が多く、わざわざ通夜、葬儀に参列して頂くより、
これまでの私の人生の歩みで、欠かすことのできない血は水よりも濃いと称せられる親族で、
ささやかに葬儀をしてもらいたい、と願っている。

いつの日にか私は亡くなった時、火葬場が待機するばかりで、“難民遺体”には、
残された家内、兄妹などは、もとより困窮される・・。

今回の記事で、「死者のホテル」を初めて学び、
私の最後の人生の旅路の果ては、「死者のホテル」かょ、と私は微苦笑してしまった。
            

私より少し年下の団塊世代の御方は、2025年を迎えると75歳となり、
やがて亡くなわれる御方が急増する多死社会となる、と私は学んだりしてきた。

そうした時まで、“難民遺体”は遺族は困苦されるので、「死者のホテル」は、
益々活況化して、急増するかしら、と何かと単細胞の私は微苦笑したりしている。

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人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない、瞬時に私は賛意して、微笑み・・。

2016-09-22 15:00:18 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活している身で、
年男でまもなく誕生日を迎えると満72歳を迎えるひとりである。

昨夜 愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 】と見出しを見て、
私は瞬時に賛意して、クリックして記事を読んでしまった。

この記事は、『ダイヤモンド・オンライン』の中で、『ライフスタイル』分野があり、
昨今は『 フィンランド人が教えるほんとうのシンプル 』連載記事がある。

《・・この連載は、フィンランドで生まれ育った私が、日本のみなさんに「フィンランドのシンプル」をお伝えするものです。
私の最新作『フィンランド人が教えるほんとうのシンプル』(モニカ・ルーッコネン/ダイヤモンド社)より、
記事を厳選してお届けします。

フィンランドの人びとの考え方、生き方、そして少しでもフィンランドの風を感じてもらえたらうれしく思います。・・》
と明記されていた。

そして著作者・モニカ・ルーッコネンさんが綴られ、
今回は【第3回】として『人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない 』として、
2016年9月21日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・人生を大切にしたいなら、日常を大切にしなければならない
            

☆日常を通りすぎず、立ち止まる

私は、図書館の自習室で、この文章を書いています。

今朝は少々雨が降っていましたが、自転車で図書館まで5キロ走ってきました。
冷たい新鮮な空気。さわやかな夏の香りがしました。

仕事が終わって、家までサイクリングするときも、少しだけ立ち止まります。
勢いよく流れている川、川の表面に跳ね返るような雨粒。
これらの一瞬が私の大きな喜びです。

さて、「日常」とはなんでしょうか? 

そんなこと考えたこともないかもしれませんね。
私にとって日常は「人生そのもの」です。

人によっては、日常というのはつまらない、ワクワクしないものかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。

毎日を充実させることが、より素敵な未来をつくります。
ふつうのことであっても、そのふつうの日常を大切に思うことが、大切なのです。

「一度きりの人生だから、人生を大切にしよう」
と考える人であっても、毎日をなんとなく過ごしている人は、多くいます。

しかし、その大切な人生というのは、無数の日常で成り立っているのです。
よって、日常こそが大切なのです。

特別なことをする必要はありません。
より多くのモノや、より多くのお金も必要ありません。
ただ、この毎日を大切に思えばいいのです。

時間は「一瞬」から次の「一瞬」に流れていきます。
一瞬は一瞬ですが、その一瞬の集まりによって日常がかたちづくられ、人生が成り立っていきます。

毎回の食事、誰かとの会話、歩くときの一歩、呼吸さえも意識して
大切におこなうことができれば、毎日は豊かになり、素敵な人生につながるはずです。

なにげない日常において、ちょっとだけ立ち止まり、
世界の不可思議を楽しんでみるのは、どうでしょうか。

その一瞬一瞬を十分に満喫することは、きっとあなたの人生を豊かにするはずです。
            

☆財布を持たない、ぜいたく散歩

私は、一瞬を大切にするために「1円もかからないシンプルなこと」を楽しむようにしています。

人とは違った特別な体験や、大きくて豪華で新しいモノを手に入れることなど必要ありません。
そうではなく、お金のかからないもの、すでに持っているもの、すぐそこにあるものに価値と意味を見出しましょう。

生活の中のシンプルで、小さなことを楽しむ。
そこからワクワク感は、生まれます。

たとえば、仕事で新しい人とつながること、なにげない雑談がおもしろい会話に広がったりすること。
マグカップの中から、ただよう濃い紅茶の香り、仕事に行く途中の車の中で感じる一日の光の変化、四季の変化。

それから、夕方のウォーキングで見る木々、新鮮な空気の香り、海の音。
娘が前回よりも、うまくテニスのボールを打てたこと、
運転中に心に染み入るようなクラシックの音楽が流れてくること、
図書館でたくさんのおもしろそうな本に出合うこと・・・。

私は、建築が大好きです。豪華な家に住んでみたいということではありません。
いろいろな建築を見るのが、好きなのです。

通りを歩いていると、見とれてしまうような素敵な建築を見つけます。
光の反射のしかたで、建物のかたちやディテールが見えたりします。

いつもと違う道を歩いたとき、いままで見たこともなかった建物に出合い、びっくりすることもあります。
「誰が住んでいるのだろう? 」「どんなお仕事かしら? 」
「家の中はどんなだろうか? 」と考える時間が大好きです。

建築を見ながらぶらぶらすることは、私にとって、お金のかからない、財布もいらないぜいたくな散歩なのです。

人生の速度を緩めてまわりを見渡してみると、小さくてシンプルかもしれないけれど、
たくさんのおもしろいものが、見つかるはずです。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は民間会社の中小業に勤める中、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
                               
そして雑木の多い小庭の中で、古惚けた築後38年の一軒屋に、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

午前中の殆どは、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。

そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

こうした時の大半は、帽子を被り、スポーツシャツとアウトドアの丈夫な長ズボン、
ウオーキング・シューズの容姿となっている。

そして紳士バックを園児に真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された状景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。
            

こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。

こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
            
午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
            

帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、まもなく年金生活を丸12年となる。
            

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

私たち夫婦は幸運にも、これまで大病に遭遇せずに、年金生活を過ごしてきた。

そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは駅前のスーパー、喫茶店、ファミリー・レストランなどで、
高齢者のご夫妻のしぐさ、会話が聴こえたりして、この人生の微笑みを感じたりしてきた。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
                          

ときおり知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

或いは私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
観光ホテルなどの滞在する旅路が多く、こうした時に偶然に私たちと同世代、そして70代のご夫妻と、
ロピー、食事処で幾たびかお逢いすると、お互いに談笑したりして、私は多々学んだりしてきた。
           
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
             
こうしたありふれた年金生活をしている中、日常生活が肝要、と思い深めて12年が過ぎ、
今回の記事を読みながら、瞬時に私は、そうですよねぇ、と賛意して、微笑みを重ねたりした・・。

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豊洲の「戦犯」石原慎太郎とドン内田と教示されても、都民の無力な私は、困惑を重ね、やがて妄想して・・。

2016-09-21 16:00:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
結婚前後5年を除き、都民のひとりとして、この地に66年ばかり過ごしている。

私は政治にも疎(うと)く、過ぎし7月31日に都知事選には、
都政を浄化して下さる御方は、小池百合子さんだけだ、と期待して清き一票を投じたひとりである。

そして都政の多事多難が山積する中、無力な私は新聞、雑誌、ネットでニュースを読んだり、
テレビでニュースを視聴してきたりした。

こうした中で、2020年東京五輪・パラリンピックに関しては、
大会組織委員会の森喜朗会長、都議会のドンと称せられる内田茂・東京都議らは、
巨額な都の血税、そして国の血税をあたかも無限大のように策略し、喰いものにして、利権、名誉を勝ち取りながら、
強欲にも政治家として晩成期を飾ろうとする悪しき御方たち、と私は妄想を重ねたりしてきた。

昨今、豊洲新市場がの盛り土に関しての空洞問題、
樽(たる)が底が抜けたような根幹の事態に、ただ都の幹部の責務放棄に、私はあきれ果てて、
都の幹部も傲慢な言動に、怒りさえ私は感じたりしてきた。
            

昨夜、ときおり愛読している文藝春秋のネットのひとつ『週刊文春』を読んだりしていた中、
【石原氏 豊洲移転を「副知事に任せていたことを反省」】と見出しがあり、
私はクリックして精読した。

この記事は、9月20日午後4時に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・石原氏 豊洲移転を「副知事に任せていたことを反省」


☆移転を推進した石原氏

混迷を深める築地市場の豊洲移転問題で、石原慎太郎元東京都知事(83歳)が、
「週刊文春」の取材に、交渉は浜渦武生副知事(当時)に任せていたと語った。
            

築地市場移転を掲げていた石原氏だが、豊洲の土地所有者だった東京ガスは、独自の再開発計画を立てており、
2001年1月には環境基準値を上回るベンゼンなどが検出されたと公表するなど、交渉は難航していた。

2000年秋頃から交渉を担当することになった浜渦氏は、
2001年2月に東京ガスの副社長と<覚書>を交わし、
容積率の見直し、防潮護岸の整備に係る開発者負担の見直しなどを行うとした。

交渉は7月6日に妥結し、<築地市場の豊洲移転に関する東京都と東京ガスとの基本合意>を交わした。

元都庁幹部が解説する。
「もともと防潮護岸の整備費は、東京ガスも相当程度負担する予定でした。
ところが合意文書では、東京ガスの負担をゼロにするという条件が盛り込まれたのです」

浜渦氏は、週刊文春の取材に対して、
「私、タッチしましたよ。
担当の副知事がいたけど、話が進まなかったので。
ダメだったから、私が引き取ったんです」と答えた。

東京ガス広報部は次のように回答した。
「築地市場は都民をはじめ多くの人々の生活を支える重要な公益施設であることから、基本合意に達しました。
弊社としては、『東京都からの要請』と受け止めております」
            

石原氏は、小誌の独占直撃に次のように語った。

――なぜ汚染された豊洲の土地を買ったのか。

「何も知らない。あれは福永(正通副知事)から引き継いで、浜渦(武生副知事)がやったんでしょ。
僕はね、横田(基地)とか、大江戸線とか、尖閣諸島を守ることに必死だったから」

――つまり豊洲は専門ではない? 

「まあ、彼は一緒に使命感を持ってやっていたけどね、
僕は人から聞いたんだけど、浜渦が胸張って『俺が実質的知事』と言ってた(笑)」


石原氏は、書面でも次のように回答した。
「このような重要な案件を任せたことで、浜渦氏が過剰な権限を行使するに至ったのであれば、強く反省しています」

築地市場の豊洲移転を巡っては、盛り土問題だけでなく、
総事業費が約5900億円に膨らんだことなどが問題視されており、小池百合子知事の対応が注目される。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

今朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。
まもなく10ページの最下段には、9月29日号の9月21日発売される『週刊文春』の広告が掲載されて、
私は読んだりした・・。、
【 豊洲の「戦犯」石原慎太郎とドン内田 】
と大きく見出しされていた。

そして▼石原単独直撃「豊洲は専門ではない。浜渦副知事に一任していた」
▼ベンゼンまみれたの豊洲が1859億円 浜渦がサインした疑惑の覚書
▼土壌汚染対策工事を全区画受注 鹿島専務は石原知事元秘書
▼民主党議員を寝返らせ 一票差で豊洲移転を可決させたる内田茂
▼小池知事が開けたパンドラの箱「落し所は決まってない」

このような記事見出しが連記され、同問題に関して石原慎太郎元東京都知事と“都議会のドン”の内田茂さんの関与を
特集して詳報しているが、今回の『週刊文春』のようであった・・。

私は無力ながら、溜息を重ねたりした。

豊洲市場の地下空間の問題でも、市場を所管する都中央卸売市場の歴代市場長は、
マスメディアのインタビューに応じたが、まるで他人事のように発言されて、
余りにも無責任で、私は知るたびにあきれ果て、困惑を重ねるばかりある。
             

ここ数週間、マスメディアは連日、豊洲問題を加熱したように報道している。

こうした中、ときおり新聞、雑誌、ネットでニュースを読んだり、
テレビでニュースを視聴してきたりしていると、無力な私でも妄想をしたりした・・。

“都議会のドン”の内田茂さんは、ご自身の思惑で、或いは取り巻きの御方たちの具申を取り上げて、
知事、都の幹部を動かし、もとより都議も骨抜きし管轄下にして、
大手民間会社に・・都の「政」、『官』、『業』を制して、利権と名誉を勝ち取る悪しき状況が長く続いてきた、
と妄想を重ねたりした・・。

都政の多事多難が山積する中、豊洲市場、都立広尾病院の移転、オリンピック関係の施設・・など難題も、
小池知事が就任して、初めて発覚できたことであり、まさに都の闇のパンドラの箱が開けられ、
無力な私は、都政を浄化して下さる小池知事を信愛し、都民が判る都政の情報公開を待ち望んでいるひとりである。

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65歳以上は高齢者であるが、「年寄り」と呼ばないで・・、まもなく満72歳の年男の私は、微苦笑を重ねて・・。

2016-09-20 13:44:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活している年男で、
まもなく誕生日を迎えると満72歳を迎える身である。

昨日の朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。

まもなく4ページの【政治・経済】面を見たりすると、
【 「年寄り」と呼ばないで
         「65歳以上=高齢者」に見直し論 
               旅行、ネットで買い物・・・活動的に 】
と大きく見出しされた記事を私は見たりした。

やはりねぇ・・と私は高齢者の身であったので、気になり、こっそりと読んでしまい、やがて微苦笑してしまった・・。
無断であるが、転記させて頂く。
            
《・・総務省が19日の「敬老の日」に合わせて発表した2015年の高齢者に関する調査では、
ネットショッピングを利用し、旅行など趣味を楽しむ活動的な高齢者の姿が浮かび上がった。

こうした若々しいお年寄りの姿に、現在「65歳以上」とされる高齢者の定義を見直すべきだとの指摘も出ている。
            

☆出費いとわず

総務省の調査で、趣味への年間支出額を世帯別で見たところ、65歳以上の高齢者世帯の支出が際立っている。
パック旅行費は年間6万円で最も多く、25~44歳の支出額の2倍。
好きな趣味への出費をいとわない高齢者の姿勢が垣間見える。

高齢者にとって、不慣れとされてきたインターネットは、スマートフォンの登場もあって、徐々に身近になっている。
ネットの利用率は70歳代で53・5%に達し、5年前の39・2%から大きく伸びた。

ネットショッピングを利用した高齢者世帯は、2005年の3・8%から2015年は13・6%となり、
10年間で3・6倍に増加。

旅費の決済(22・5%)や、食品の購入(16・4%)に利用する人が多かった。
自宅にいながら買い物ができる便利さから、高齢者にも浸透してきた形だ。
            

☆5~10歳若返り

平均寿命が延びて、行動的な高齢者が増えつつある中、高齢者の定義が、
時代に合わなくなってきたとの見方がある。

総務省によると、高齢者の年齢は1950年代半ばに出された国連の報告書で、
65歳以上と定義されて以降、現在に至るまで国内の政府機関で引用されている。

しかし、介護を必要とせず自立した生活ができる「健康寿命」が、
2013年の厚生労働省の調査で、男性は71・19歳、女性が74・21歳となり
「今の定義が実態にそぐわない」(厚労省幹部)などと疑問視する声が出ていた。

そこで、日本老年学会などは、13年から高齢者の定義見直しに向けた検討を続けている。

同学会に所属する東京大学大学院の秋下雅弘教授(加齢医学)によると、
歩行速度や認知機能、病気の罹患(りかん)率などの身体面は、
現在の高齢者は10~20年前と比べ、5~10歳程度は若返っているという。
            

☆「70歳以上」最多

厚労省が16年に実施した意識調査で、「高齢者だと思う年齢」として最多だったのが「70歳以上」(41・1%)で、
現状の「65歳以上」と考えている人は、20・2%にとどまった。

「75歳以上」と答えた人は、16・0%もおり、
高齢者の年齢を、健康寿命に近い70歳を超えたあたりと考えている人が、多いことがうかがえる。

秋下教授は「一般的な認識と『65歳以上』を高齢者とする現在の定義は、合わなくなっている」と指摘。
そのうえで、「(定義を引き上げても)年金などのセーフティーネット(安全網)を維持しつつ、
高齢者の変化に、社会が対応するべきだ」と語る。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

過ぎし2008年(平成20年)、私が満65歳になる直前に、
私が住む調布市の高齢者支援室より、『介護保険被保険証』が郵送され、
そして『介護保険料』の請求書が同封されてきた。

『XXちゃんさぁ・・俺も高齢者となり、実感が乏しいが・・介護保険証を持つ身になったよ・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりしてきた。
            

まもなく私は、遅ればせながら心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、
と専門家の人から数多く発言されていることを学んだりした。

もとより知人、ご近所のご夫婦でも80代でも心身溌剌とされている方もいるし、
私が職場で共に奮闘してきた方は不幸にして、定年前に病死されたり、
或いは定年後の2年過ぎた頃に、大病で入退院を繰り返しした後、亡くなわれた方もいる。


私は年金生活を始めた当初から、私は午前中の殆どは、平素の我が家の買物として、
家内から依頼された品を独りでスーパー、専門店で求め、買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりして、
季節のうつろいを享受している。

こうした根底のひとつとして、何よりもいつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩くことが多くなっている・・。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。
                       

私たち夫婦は幸運にも、これまで大病に遭遇せずに、年金生活を過ごしてきた。

そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は重ねてきたが、旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
話しかけて談笑したりしている。
            
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
             
                                             
このように年金生活を過ごしているが、『生きがい』が最優先であり、そして『健康』であり、程ほどの『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

ときおり私は60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
数多くの知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
           
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、
つたない定年まで半生から比べれば、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受し、大病に遭遇せず、70代も継続している・・。
            

今回の記事に於いて、65歳以上は高齢者あるが、「年寄り」と呼ばないで・・という主旨に、
もとより数多く諸兄諸姉を見かけると、殆どは実年齢よりお若く感じてきたので、
私は思い浮かべたりして微苦笑を重ねたりした。

一週間、私は最寄駅の前で、中学時代の同級生の女性と偶然に逢ったりして、立ち話をした・・。
やがて別れ際に、貴女は溌剌としたご様子で・・10歳ぐらいお若いですょ・・と私は言ったりした。

そして同級生の女性は、XXくん・・嬉しいこと言ってくれるわねぇ・・握手しょうょ・・、
と私は言われて、私は照れながら握手をしたりした。

余談であるが、この同級生の女性は、駅前から少し離れた住宅街に住み、御主人と御子息の家族と同居され、
お孫さんは中学2年生の女の子と小学5年生がいる御方である。

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「敬老の日」を迎え、65歳以上、最高の3461万人=女性は初の3割超、老ボーイの私は微笑んで・・。

2016-09-19 08:02:58 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活し、
恥ずかしながら年男のまもなく下旬に誕生日を迎えると満72歳を迎える身である。

昨夜、ときおり愛読している時事通信社のネット『時事ドットコム』を見ていたら、
【 65歳以上、最高の3461万人=女性は初の3割超 ~総務省~ 】と題された見出しを見て、
私も高齢者のひとりの為か、こっそりと読んだりした。

この記事は、9月18日の午後6時前に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・「敬老の日」を前に総務省は18日、65歳以上の高齢者の推計人口を発表した。

15日時点の高齢者人口は、3461万人(総人口に占める割合は27.3%)で過去最多を更新。
男女別で男性は、1499万人で男性全体の24.3%。
女性高齢者は、1962万人で女性全体の30.1%を占め、初めて3割を超えた。
            

2015年の高齢者の人口移動を見ると、東京都や大阪府で転出超過の一方、
埼玉、千葉、神奈川県などで転入超過となった。

高齢者の就業者数は730万人となり、12年連続で増加。
就業者総数に占める割合は、11.4%で過去最高となった。
高齢者全体に占める就業者の割合を示す就業率は、21.7%となり、主要国で最も高い水準だ。

高齢者の世帯主を含む2人以上で構成する「高齢者世帯」の15年の1世帯当たり貯蓄現在高は、
前年比69万円減の2430万円。
3年ぶりの減少で定期預金などが減った。

また、世帯主の年齢別にパック旅行費の支出金額を見ると、
高齢者世帯が6万円を超え、他の年代を抑えて最も高かった。

サプリメントなどの「健康保持用摂取品」への支出も高く、
高齢者が健康に気を使いながら、趣味を楽しむ様子が浮かび上がった。・・》 

注)原文にあえて改行を多くした。
            

長寿社会の中、私は健康寿命と平均寿命に関して、
遅ればせながら過ぎし高齢者入門となった65歳の時から、強く意識を始めたりした・・。

厚生労働省の「平成25年簡易生命表」などによれば、
男性は健康寿命は71.19歳、そして平均寿命は80.21歳、
女性は健康寿命は74.21歳、そして平均寿命は86.61歳、と公表されてきた。

そして平均寿命と健康寿命の間には、男性で約9年、女性で約13年の差があり、
それぞれ人生の晩秋期として、何よりも悩ましい難関の期間となる。

もとより健康寿命は、健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間であり、
やがて要支援・要介護状態となり自立度の低下や寝たきり、終末期となる。

そして誰もが最後まで、健康で心身溌剌とした生活を送りたいと念願して、
自助努力されて過ごされている、と私は深く感じたりしてきた。
            

私は2004年〈平成16年〉の秋に民間会社を定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
早や年金生活12年生となっている。

そして雑木の多い小庭の中で、古惚けた築後38年の一軒屋に、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は年金生活を始めた当初から、私は午前中の殆どは、平素の我が家の買物として、
家内から依頼された品を独りでスーパー、専門店で求め、買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりして、
季節のうつろいを享受している。

こうした根底のひとつとして、何よりもいつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩くことが多くなっている・・。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体と信愛し、年金生活を過ごしている。
            

私たち夫婦は幸運にも、これまで大病に遭遇せずに、年金生活を過ごしてきた。

そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
                       
                                                
このように平素の年金生活を過ごしているが、『生きがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

たとえ不幸にして、入院生活が余儀されても、『生きがい』を失くしたら、心は終末期と思ったりしている。

このように私は年金生活を過ごしてきたが、いつ日にか天国に導かれるか解らないが、
あの世に旅立つことまで、自助努力も肝要であるが、こればかりは神様か仏様の采配によると思い深めたりしている。

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ある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡、私は読み終わった後、涙を浮かべて・・。

2016-09-18 14:59:51 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活しているまもなく満72歳を迎える身である。

昨日の深夜、ときおり愛読しているネットの『東洋経済オンライン』を見ている中、
【 多くの日本人が貧困に沈むのは、なぜなのか ~「6人に1人が貧困状態」という不都合な真実~ 】と見出しを見て、
どのような状況なの、と思いながら、クリックして記事を読んでしまった。

この記事は、東洋経済・記者の中島順一郎さんが綴られた記事で、
『東洋経済オンライン』に2015年4月5日に配信されていたが、
真摯に私は前半部を読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。

無断であるが、記事の前半部、ある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を、転載させて頂く。

《・・2012年の日本の相対的貧困率は、16.1%と過去最悪を更新した。
相対的貧困率とは、国民の所得分布の中央値の半分(2012年は122万円)未満である状態を示す。

相対的貧困率には所有する資産は考慮されていないが、
誤解を恐れずに単純化すると、日本人の6人に1人が貧困状態にあるということだ。
今年1月時点の生活保護受給者も217万人と過去最多に上る。

「貧困は自己責任」「本人の努力が足りない」――。
貧困世帯には、時として厳しい批判が飛ぶ。

だが本当にそうなのか。
病気、ケガ、介護、転職、失業・・誰にでも起こりうる事態をきっかけに、
人々は「安定」からいとも簡単に滑り落ちていくのだ。
            

☆年収1200万円の生活が一転

「まさかこんなことになるなんて……」
50代の男性はそう嘆く。

彼はかつて誰もがうらやむエリートビジネスマンだった。
外資系IT企業を渡り歩いてキャリアアップ。
ピーク時の年収は1200万円に上り、充実した生活を送っていた。

ところが、現在の年収は約300万円と4分の1に。
一時は生活保護の申請に足を運ぶなど、生活に困窮していた。
彼の身に一体何が起こったのか。

最初のきっかけは、病気だった。
2005年頃に、大手通信会社系企業に転職。

その後、スマートフォンの新商品発売に向けた連日の激務がたたり、脳の病気で倒れた。
3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受けた。

「いつ倒れるかもわからない人に、年収1000万円ものコストをかけたくないから、
早くやめさせたかったんじゃないか」
と男性は振り返る。
            

さらに不幸は、重なる。
しばらくして今後は、母親が心臓の病気で倒れた。

都内のマンションから東京郊外にある実家に戻り、看護をしながら通勤する生活に。
通勤時間は片道2時間半。

終電に間に合わず、週の半分は、サウナに寝泊まりしていたという。
それでも親の看護と仕事の両立は、簡単ではない。

自分が倒れたときに、有給休暇を使い切っており、欠勤扱いになる日が、増加。
2011年末に、会社を解雇されてしまった。

解雇と同じくして、母親は他界。

さらに父親にも、肺がんが見つかり、母の死から数カ月後になくなった。

精神的にはどん底だったが、それでも働かなければ生活できない。
実家暮らしで家賃負担はなかったが、希望の仕事を見つけるのは難しい。

コンビニのバイトを始めた。
生活保護の申請にも行ったが、持ち家と数十万円ほどの貯金があるから、
認められないと担当者は、にべにもなかった。

その後、家を300万円で売却。
友人たちの誘いなどもあり、貯金を元手に都心に戻ってきた。

現在はITの知識を生かして、フリーのコンサルタントとして生計を立てている。
だが病気などで、働けなくなったらどうなるのか、老後はどうするのかを考えると不安は募る。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
                  
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
         
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。


今回のある50代の男性サラリーマンの転落していく軌跡を読みながら、
つたないサラリーマン航路を私は35年近く勤めた身であり、
この間に大病に遭遇したり、自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励しなければ、
現在の年金生活には、たどり着けなかった、と改めて思い深めたりした。
            

こうした心情を思い重ねると、この御方は外資系IT企業などでエリートビジネスマンだったが、
大病に遭遇した後は退社となり、そして転職後の会社では激務がたたり、脳の病気で倒れた。

そして3カ月で復帰すると、今度は職場でパワーハラスメントを受ける中、
実家に戻り、母親の看病、やがて死去、そして父親の病死を看取りながら、遠方に勤務先に通勤したが、
やがて解雇・・。

こうした転落していく軌跡を読むと、ある日突然に大病に遭遇したり、
ここ10数年、常時リストラ時代に解雇されて、再就職がままならずに困苦する御方、
私とは縁のないエリートビジネスマンでも、こうしたことはありえる、
と思いながら、この御方は余りにも不遇な連続に、私は涙を浮かべたりした・・。


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自分でできる「隠れ脳梗塞」発見法、やがて誰でも自宅で簡単に、こっそりとできる、と私は微笑み・・。

2016-09-17 10:33:51 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活し、
恥ずかしながら年男のまもなく下旬に誕生日を迎えると満72歳を迎える身である。

昨夜 愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 自分でできる「隠れ脳梗塞」発見法 】と見出しを見て、
私はいつの日にか認知症、或いは脳梗塞になったら、何よりも困窮するので、
どのようなことなの、と思いながら、クリックして記事を読んでしまった。

この記事は、『ダイヤモンド・オンライン』に於いては、『健康ラボ』連載記事があり、
今回の記事は、医療ジャーナリストの竹内有三さんが、『第35回 自分でできる「隠れ脳梗塞」発見法』と題して、
2009年2月27日に配信された寄稿文である。

もとより脳梗塞は時代を問わず、誰しも生死にかかわる難病であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・脳梗塞は、運よく一命を取り留めても、重い後遺症が残ることが多い怖い病気です。
初期には「隠れ脳梗塞」と呼ぶ、微少な梗塞がよく見られるそうです。

動脈硬化が進むにつれて、この隠れ脳梗塞の数や大きさも増し、やがて本格的な脳梗塞に発展します。
そこで「自分でできる隠れ脳梗塞発見法」を1つ紹介しておきましょう。
            

ミスターこと長島茂雄さん、歌手の西城秀樹さん、コメディアンの坂上二郎さん・・。
ここ数年、著名人が脳梗塞で倒れるケースが目立っています。

長島茂雄さんや坂上二郎さんは60代、西城秀樹さんは40代で発症。
他人事じゃないなと、落ち着かない気分になった働き盛りのビジネスマンも多いのではないでしょうか。

脳梗塞は血栓(血のかたまり)などで、脳の血管がつまる病気。
血液に乗って運ばれている酸素や必要な栄養成分の補給が遮断されるため、脳の組織が壊死してしまいます。
脳卒中死亡の約6割を占め、運よく一命を取り留めても、重い後遺症が残ることが多い怖い病気です。

脳梗塞のリスクを高める最大の要因は、動脈硬化。
ですから日頃から、脂肪や塩分の取りすぎに気をつけたり、散歩やウォーキングなど
汗ばむ程度の軽い運動をつづけることで、血液を常にサラサラの状態に保つようにしたいものです。

また、早期発見・早期治療も、非常に大切です。

脳梗塞の権威である眞田クリニック(東京・池上)の眞田祥一院長によれば、
脳梗塞の初期には「隠れ脳梗塞」と呼ぶ、ごく微少な梗塞がよく見られるのだそうです。

動脈硬化が進むにつれて、この隠れ脳梗塞の数や大きさも増し、やがて本格的な脳梗塞に発展します。

隠れ脳梗塞程度では、ほとんど自覚症状はありません。
しかし、この段階で改善のためのアクションをとることで、重大な脳梗塞の芽を事前に摘むことができるのです。

そこで眞田先生が勧めている「自分でできる隠れ脳梗塞発見法」を1つ紹介しておきましょう。

紙に幅5ミリ間隔で「5周の渦巻き」を書きます。
次に、異なる色のペンで渦巻きの間に沿って、「新たな渦巻き」を書き加えます。
先に書いた渦巻きの線には、触れないように注意します。

もし、先に書いた線に触れたり、はみ出たりするような箇所が2ヵ所以上あったら、隠れ脳梗塞の疑いあり。
念のため専門医に相談されるようにしては、いかがでしょうか。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私は読み終わった後、早速『自分でできる隠れ脳梗塞発見法』を、こっそりと挑戦した。
大き目のメモ用紙を取り出して、蚊取り線香の渦巻きを思い浮かべた・・。

そして太めの黒字サインペンを取り出して、幅5ミリ間隔で5周ばかり書き込んだりした。

この後、太めの赤字サインペンを取り出して、先に書いた渦巻きの線には、触れないように書き込んだ。

やがて蚊取り線香のような黒と赤が綺麗に渦巻きが完成したので、
何かと単細胞の私は、小学生の1955年(昭和30年)の頃、鶴田浩二さんが唄った『赤と黒のブルース』のようだねぇ、
と思い重ねて、独り微笑んだりした・・。

この後、私は「隠れ脳梗塞」のテストは、誰でも自宅で簡単に、こっそりとできる、と微笑んだりした。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
やはり歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体だよねぇ、と私は信愛してきたので、今回の「隠れ脳梗塞」は正常と判断され、安堵を重ねたりした。

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嵐のコンサートチケット 高値転売容疑で25歳の女を逮捕を知り、やがて過ぎし年、ダフ屋に遭遇した苦い想いで・・。

2016-09-16 15:23:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活し、
恥ずかしながら年男のまもなく下旬に誕生日を迎えると満72歳を迎える身である。

先程、ネットでニュースを見ている中、
【 嵐のコンサートチケット 高値転売容疑で25歳の女を逮捕 】と見出しを見て、
悪しき人がいるよなぁ・・と思いながら、クリックして記事を読んでしまった。

この記事は、『NHK NEWS WEB』が9月15日に配信されていた記事のひとつであり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・人気アイドルグループ「嵐」のコンサートチケットを、インターネットのサイトで高値で転売したとして、
香川県の25歳の女が、古物営業法違反の疑いで、警察に逮捕されました。
            

警察は、女が2年前からチケットの転売を繰り返し、
1000万円以上の売り上げを得ていたと見て、さらに詳しく調べています。

逮捕されたのは香川県善通寺市のブリーダー、山中いづみ容疑者(25)です。

警察の調べによりますと山中容疑者は、みずから購入した人気アイドルグループ「嵐」のコンサートチケット5枚を、
去年11月から12月にかけてインターネットのサイトを通じて札幌市などの女性3人に、
定価の1.6倍にあたる総額およそ7万円で転売したとして、古物営業法違反の疑いが持たれています。

去年12月、札幌市の20代の女性から「嵐のチケットが高値で販売されている」という情報が寄せられ、
警察が捜査したところ、山中容疑者がチケットを大量に売買していることが分かったということです。

調べに対し山中容疑者は「間違いありません」と容疑を認めているということです。
警察は、山中容疑者が2年前からおよそ300枚のチケットを売買し、
1000万円以上の売り上げを得ていたと見て、さらに詳しく調べています。・・》

注)原文にあえて改行を多くした。
            

私はたまたま音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて2004年の秋に定年退職した身であり、
この後も何かと音楽業界の動向に習性のように注視しているひとりである。

こうした中、ここ10年はコンサート・ライブが活性し、ネットでチケット券が発売される業者も出現したり、
これを悪用して、一部の方が投機目的の買占めて、やがて高額転売する状況となっている・・。

過ぎし9月12日、国内有数56組のアーティストたちが、
「チケット高額転売取引の防止」共同声明をを、2つの国内音楽イベントが開催されてきた。
もとより純真なファンがチケットを定額で購入して、コンサートを鑑賞して頂く主旨であった。

私は記事を読み終わった後、音楽業界で最も販売実績(CD+DVD)とコンサート動員も突出している『嵐』を利用して、
チケットを高値で転売したり、
《・・2年前からチケットの転売を繰り返し、1000万円以上の売り上げを得ていた・・》と知り、
悪しき女の人、と思ったりした。

そして昔はダフ屋・・昨今はネットで高額転売かょ・・と苦笑を重ねたりした。
やがて私は、過ぎし30年近く前の頃、ダフ屋に遭遇した苦い想いを思い馳せたりした・・。
            

誰しも本、映画、音楽等で、ふとしたきっかけで、その作者にのめり込むことがあると思う。

私も音楽に於いて、ひとりのアーティストの出会いもそのような形であった。

私はあるレコード会社に勤め、この当時は情報畑に所属し、
平成元年の初め、昭和天皇が崩御された後、昭和から平成と年号の変換、
そして四月から消費税の対応で、睡眠時間を削りながら奮闘していた・・。

1月のある日曜日、昼過ぎまで寝過してしまい、パジャマ姿でぐったりしていた。
日曜日の夕方、疲れきった私は、パジャマ姿で家内が買物に行くのを見送ったりした。
そして足早に過ぎていく、夕陽を見ていた・・。

お茶を淹れた後、カセット・テープをラジカセに何気なしかけた。
そして、何曲目から、人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。

♪エレーン
  生きていてもいいですかと 誰も問いたい
 エレーン
  その答を誰もが知っているから 誰も問えない・・(略)・・【『エレーン』 作詞、作曲・中島みゆき 】

私は聴きなが感極まって、目頭が熱くなり、涙があふれ出た・・。
            

このカセットテープは、倉本聰(くらもと・そう)・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックであり、
私の勤務する会社から発売され、試聴用として頂いたのを、初めて聴いたのであった。

この映画に使用された音楽は、金子由香利さんの『時は過ぎてゆく』、五輪真弓さんの『恋人よ』、
中島みゆきさんの『エレーン』、浜田麻里さんの『ハート・ライン』、高橋真梨子さんの『モノローグの九月』、
北原ミレイの『石狩挽歌』、森昌子さんの『越冬つばめ』等であった。

このように各レコード会社の所属する有数な歌手を使用したので、
発売先が問題があったが、テーマ曲が金子由香利さんであり、私の勤務先の会社で決まった、
と上司から聞いたりしていた。

私は初めて中島みゆきさんを心に留めたのは、この曲からである。

中島みゆきさんは他社に所属していたが、勤務先の関係より、
中島みゆきさんの名と曲ぐらいは、制作に直接に関係のない情報畑の私でも、
私の務め先でアイドル歌手用に、何曲か作詞・作曲をして頂だしたりしてきた。

たとえば、♪記念にください ボタンをひとつ 青い空に捨てます・・(略)・・【『春なのに』 作詞、作曲・中島みゆき 】
私からみれば、感性のあるシンガーソングライタのひとり程度だった・・。

そして『時代』、『わかれのうた』、『悪女』にしても、
当然知っていたが、何事もなく私の心は通りすぎて行ったのであったが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。
            

多くの方が魅了されたアーティストに対し、
初期作品から聴いてみたいと思うように、私の場合も同様だった。

中島みゆきさんのデビューアルバムの『私の声が聴こえますか』から『回帰熱』までのアルバムは、
私はまたたくまに購入した。
そして、多岐にわたる分野を書き分ける才能の豊かさには、圧倒された。

今、思い出しても、この当時に百回以上聴いた曲は、『アザミのララバイ』、『歌をあなたに』、『時代』、『冬を待つ季節』、『忘れるものならば』、
『ホームにて』、『時はながれて』、 『玲子』、『おまえの家』、『世情』、『根雪』、『小石のように』、『エレーン』、『異国』、『夜曲』、
『肩に降る雨』、『HALF』、『白鳥の歌が聴こえる』、『クリスマスソングを唄うように』、『ローリング』、『黄砂に吹かれて』、『群集』、
『儀式(セレモニー)』であったりした。

こうした中、随筆集も求めて精読したが、文体は軽く、随所とらえる感覚が鋭いところがある程度だったが、
意識的に、読みやすく工夫をしている、と解釈した。
放送は、わずかしか聴いていなかったが、随筆と同様と判断した。

そして、中島みゆきさんに関しての評論本も購入して読んだりした。

こうした結果として、中島みゆきさんの生命線は、やはり作詞・作曲、そして歌につきる、と深く思いながら、
コンサートを観る機会を待ち焦(こ)がれたりした。
            

コンサートまでの道のりは、遠かった・・。

平成元年(1989)11月、業界の注目の中で、『夜会』が公演された。

公演場所は、渋谷の東急文化村のシスターコクーンに於いて、
音楽と演劇を融合した形で行なわれると発表されていたので、
業界の内外の各専門家の間にも、無視できないような空気につつまれていた。

前売りの予約は好調だと聞いたりしていた。

私は予約も取れず、キャンセル待ちをわずかな望みを託して、勤務先の六本木から退社後、渋谷に行き、
やがて文化村に近づくと、花屋から『歌姫』が流れて聴こえてきた。

♪握りこぶしの中にあるように見せた夢を
 もう2年 もう10年 忘れすてるまで ・・(略)・・【『歌姫』作詞、作曲・中島みゆき 】


路上では、高校生らしい女の子の三人が、中島みゆきさんが工藤静香さんに
提供してヒットした『黄砂に吹かれて』を大きな声で唄っていた・・。

♪黄砂に吹かれて 聴こえる歌は
 忘れたくて忘れた 失くしたくて失くした ・・(略)・・【『黄砂に吹かれて』作詞、作曲・中島みゆき 】

この周囲の街は、中島みゆき、に染まっていた・・。
            

私はやはり『夜会』の人気は凄いと感じながら、シスターコクーン等のキップ売り場の窓口で、
『この公演の最終日まで完売でして、キャンセル待ちをされても、ダメだと思いますが・・』
と云われて、やはりね、と無念ながら公演場所を後にした。

そして、まもなく30歳前後ぐらいの男と女の二人に囲まれた。
『兄さん・・さぁ・・キップ欲しいだろう・・』
と30歳前後ぐらいの男が私に言った。

『いくら・・』
と私は、乾いた声で答えた。

そして私は定額の倍額程度まで覚悟していたが、相手方は三倍を超す値段だった。

『こんなに凄い人気のある公演にしたら、安いよ・・考えている場合じゃねえょ・・
兄さんさぁ、うかうかしていると、公演が始まっちゃうよ・・』
と追い討ちをかけてきた。

私はあきらめた・・。

私は歩き始めると、背後から声がした。
『お買い得だょ!!』
振り向くと、先程の30歳前後ぐらいの男から、若い二十代の男女のふたりが購入していた。

私は肩を落とし、『歌姫』の聴こえてくる街を抜け、渋谷の駅に向かった。
私は悔(くや)しさも隠し切れず、だけど中年は何かとお金がいるし・・家に帰って酒を呑もう、と思ったりした。
            

余談であるが、第一回 『夜会』の公演の鑑賞に敗退した私は、      
翌年、平成2年はコンサートのキップを手に入れる方法を模索した。

やがて雑誌『ぴあ』等で検討した結果、まもなくファンクラブに入会した。
確か10月頃だった、と思う。第2回の『夜会』を申し込んだ。

抽選の結果、念願のキップを手に入れ、最近は、行いが良かった、と思い、ときおり独り微笑んだりした。
そして公演日は平成2年11月29日であり、私は少し高揚しながら鑑賞した。

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