夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

長寿祝いは、人生の祝勝会と教示され、つたない人生航路を歩んだ私でも、やがて微笑み・・。

2016-03-31 15:33:36 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝6時に起床して、やがて朝食を頂いたりした。

家内は家内の母宅に介護で行っているので、我が家は私が独りぼっちの『おひとりさま』となり、
朝食は前菜として冷凍のブロッコリーを電子レンジで温めて食べ、そしていつもように一汁七菜で頂いた後、
休むと台所が汚くなるので、人生は気合だ、と自身を叱咤激励した・・。

そして家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、台所で皿洗いを始めた。
食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、それぞれの茶碗、皿などに丁重に擦(こすっ)たりした後、
盛大に水道水で洗い清めたりした・・。

こうした時、どうした心情が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていた。

そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し  君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。

この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。

そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
            

やがて自宅の近くにある遊歩道を散策すれば、桜花が五分咲きが多く、私は微笑みながら歩いたりした。
そして私は木のベンチに腰を下ろして、桜花を見上げたりしてた。

こうした時、過日、ネットで読んだ『長寿祝いは人生の祝勝会』とコラムが思いだされた・・。

毎日新聞の週刊誌『サンデー毎日』連載されている『人生の四季』に於いて、
2016年3月6日号に掲載されたコラムであった。
無断であるが、転載させて頂く。
            

《・・先日、知り合いの編集者が「還暦」を迎えたので、お祝い会を開いた。
まずはホテルのBARで待ち合わせ、シャンパンで乾杯。
その後は食事して、スナックでカラオケという、いわゆる「おじさんコース」である。

近年、30歳前後を「アラサー」、40歳前後は「アラフォー」、50歳前後は「アラフィフ」と呼ぶ。
60歳前後は伝説の名俳優・嵐寛寿郎を思わせる「アラカン」と言うそうだ。

還暦は第二の誕生とされ、生まれ直すとの意味合いで、赤子のように赤色の衣服や頭巾などを贈って祝う。
還暦に贈る赤色は、赤子に贈る赤い品々になぞらえているという。

では、なぜ赤色なのだろうか。
赤色は、朱色や紅色なども含めて祝意を表すもので、縁起物や祝い事の膳椀(ぜんわん)、酒樽(さかだる)などに使われた。
魔除(よ)けの意味でも、赤色は重視されたようだ。

わたしは、赤のチャンチャンコの代わりに、「還暦祝い」として、
その人にラルフローレンの赤いVネックセーターをプレゼントした。

日本には、長寿祝いというものがある。
数え年で61歳の「還暦」、70歳の「古稀(こき)」、77歳の「喜寿」、
80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」などだ。
            

そのいわれは、次の通り。
還暦は、生まれ年と同じ干支の年を迎えることから暦に還るという。
古稀は、杜甫(とほ)の詩である「人生七十古来稀也」に由来。
喜寿は、喜の草書体が「七十七」と読めることから。

傘寿は、傘の略字が「八十」に通じ、米寿は八十八が「米」の字に通じる。
卒寿は、卒の略字の「卆」が九十に通じる。
そして白寿は、百から一をとると字は「白」になり、数は九十九になるというわけである。

沖縄の人々は「生年祝い」として、さらに長寿を盛大に祝う。
それらは高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であることを示し、
「人は老いるほど豊かになる」ということをくっきりとした形で見せてくれる。

長寿祝いとは、大いなる人生の祝勝会なのである。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた。

この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
                               
そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
一昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されて71歳となっている。

ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受し、大病に遭遇せず、70代も継続している・・。
            

こうした中で、厚生労働省は2015年7月30日に公表した、
2014年(平成26年)における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳となっている。

私が小学一年生の1951年(昭和26年)の当時は、男性が60.80歳、女性が64.90歳であり、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時は、男性が67.67歳、女性が72.87歳であったので、
数え年で61歳の「還暦」祝いをされた家庭も多かったと思われる。

現代では、長寿祝いは、77歳の「喜寿」祝いからかしら、と微笑んだりした。

私の父は私が小学2年の時に病死され、私の母は何かと人生の大半は労苦が多く、60代からは安楽の生活を過ごしてきたので、
せめて77歳の「喜寿」祝いを私たち兄妹は、罪滅ぼしを兼ねて出来る限り盛会としたりした。

このようなことを思い浮かべ、『サンデー毎日』の『人生の四季』をコラムで綴られている御方、
《・・長寿祝いは人生の祝勝会・・》と名言された感性に、私は脱帽している。

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『結婚記念日』、私たち夫婦は歳月を重ねると大いに変貌し、やがて私は微苦笑し・・。

2016-03-30 16:13:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
40年目の結婚記念日か・・と私は微苦笑したりした。

家内は昨日より2泊3日で、家内の母宅に介護で行っているので、
我が家は私が『おひとりさま』となっている。

一昨日の夕食の時、私は家内に向かって、
『明後日の30日になると、僕たち40年目の結婚記念日なるよねぇ・・
おかげさまをもちまして・・今後もよろしくねぇ・・』
と私は明るく大きな声で家内に言ったりした。

家内は私から突然に言われて戸惑いながら、
『あらぁ・・私たちの結婚して40年目なるの・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に言いながら、微苦笑したりした・・。

私は小学生の頃から算数、やがて数学には劣等生で、未(いま)だに苦手であるが、
何故かしら歴史、文化などには興味があり、我が家のささやかな出来事の日々も覚えている変わった男である。

世の中の多くは、妻の方が結婚生活の中での大波小波の出来事は的確に覚えて、
夫の方はかすかに覚えてたり、或いは忘れてしまった、と友人とか知人に私は聞いたりすると、
我が家の夫婦はまったく反対だよ、と私は苦笑する時もある。
            

今朝、独りで朝食を頂いた後、ぼんやりとテラスに降りたと、
芽吹き始めたモミジを眺めたりしていた。

やがて私たち夫婦が、『結婚記念日』を迎えてきた中で、歳月を重ねると大いに変貌してきた、
と独り微苦笑したりした・・。
         

私たち夫婦は1976年〈昭和51年〉3月30日に、学士会館で結婚式、そして披露宴を終えた後、
都心のニューオータニに宿泊した。

翌年の初めて『結婚記念日』は、私はサラリーマンの多忙時であったが、
この世はロマンも大切だと私は思い深めて、
その週の土、日曜日を活用して、結婚当日の夜に宿泊したニューオータニに1泊2日で滞在した。

当日の夕食の時、家内は水色のロングドレスを着て、私も少し高価なブレザーを着たりしていたので、
ボーイさんから結婚披露宴後と間違われて、私たちは微苦笑したりした。
そして私は背伸びして、私たちは高級ワインを呑みながら、フランス料理を頂いたりした。

翌日は庭園を散策したり、茶屋風で和菓子を頂き、濃茶などを呑んだり、
至福のひとときを過ごして帰宅した。
            

翌年になると、幾たびか婚約期間にデートした時のひとつ銀座の食事処で、
夕食を頂き、記念日をお互いに祝ったした。

3年目になると、賃貸マンションから一戸建ちの引越し前後で、慌しい中、
披露宴でキャンドル・サービスの際、大きなキャンドル(蝋燭)を頂き、
これを新居で灯(とも)したりした・・。

この大きなキャンドルは、どうした訳か解からないが、25年まで目盛りが付いていた。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、数多くの夫婦は25年過ぎれば、子供達が成人し、やがて次世代となるからだろう、
と理解したりした

私たち夫婦は確か10年目の頃までは、記念日の夕食の時は、キャンドルを灯して、
家内が改まった容姿で、私たちは居間で食事を頂いたりした。
そして互いにプレゼントの品を渡しあっていた・・。

その後は、私たち夫婦は共通の趣味のひとつは国内旅行であり、
私のサラリーマンの職務として、3月決算月は更に多忙期となったので、
2月に2泊3日で各地を訪ねて、記念旅行に変貌した。

2004(平成16)年の秋に定年退職後、年金生活となった私たち夫婦は、
家内からは旅行の宿泊数が多いのが良いわ、との要望で、
この記念日前後は5泊6日前後の旅行となってきている。
            

こうした中、我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、我が家から遠い地で独り住まいをしているが、
家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっていた。

そして昨年の5月下旬より、家内の母は膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。
そして家内と家内の妹は交互に、家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているが、現状となっている。

こうした関係で、我が家は私が『おひとりさま』の生活が多くなり、
私たち共通趣味の国内旅行も激少して戸惑い、
人生長がえれば色々なことがあるよなぁ・・と私は微苦笑したりしている。

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雑談は一番良く脳を使うと知り、男の癖におしゃべりな私は、微苦笑を重ねて・・。

2016-03-29 15:13:30 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
過日、居間で家内がテレビを視聴していた時、私は近くのソファで新聞を読んいた。

何かしらテレビより、雑談は一番良く脳を使う・・と私は聴こえ、
テレビを見ると、脳学者の茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが語っていた・・。

『XXちゃんさぁ・・聴いていた?
脳学者の第一人者の御方が・・雑談は一番良く脳を使うだって・
そうだったら、おしゃべりな僕は、ボケなくて長生きするかなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

『あなたは・・男の癖におしゃべりで・・ときには煩(うるさ)いくらいょ・・』
と家内に微苦笑しながら私に言った。

『だけど・・前にも幾度も言った通り・・昔は無口だったんだょ・・』
と私は苦笑しながらに家内に言ったりした。
            

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
                      

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない生家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか私は人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
このした中で、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。

そして学校に行くのが苦手な児となった・・。
        
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
                      
        
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。

そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。
            

私が男の癖におしゃべりなのは、亡き母から色濃く素直に受け継いだ、と確信を深めたりしている。
長兄と妹ふたりと談笑する時、何故かしら私が七割ぐらい話すことが多く、
後で微苦笑したりしている。

世の中には、沈黙は金、という名言があるが、私に取っては死語だょ、と思ったりしている。

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主婦の三大ストレス要因を遅ればせながら学び、老ボーイの私は戸惑い、やがて微苦笑して・・。

2016-03-28 12:34:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、築後38年の古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

昨夜、ネットでニュースを見ている中で、
【 チョコレートとコーヒーが夫婦仲も円満にする? 】
と題された見出しを見て、どのようなことなょ、と好奇心に負けて、私は精読してしまった。

そして主婦の三大ストレス要因を学び、そうだったの・・、と遅ればせながら知り、
溜息を重ねた後、微苦笑したりした・・。
            

この記事は、【東京ウォーカー 】が 3月27日に配信して下さり、
原文は『レタスクラブ』と明記されていた。
無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・「チョコレート」と「コーヒー」の組み合わせが好きな主婦は8割以上。
リラックスに欠かせないアイテムである。

家事などがひと段落して生まれる自由な時間。
趣味に没頭するのもいいが、そこまで時間がないことも多い。
主婦はどんなリラックスタイムでストレスを発散しているのか?

リラックスタイムには「ゆっくりお茶を飲む」「テレビを見る」「お菓子を食べる」などの
プチリラックスタイムを楽しんでいる

株式会社ロッテの調査によると、主婦の三大ストレス要因には「家事」「夫との関係」「親子関係」があげられ、
家事の中でも「掃除」「炊事」にストレスを感じているという回答が多かった。
夫が「掃除」「炊事」を手伝うことで、主婦のストレス度合が下がるという回答も。
            

一方、1日のリラックスタイムは「2時間未満」が約6割。
「もっとリラックスタイムが欲しい」との声も約8割あり、時間的には充分とは言えなさそうだ。

リラックスタイムに何をするか尋ねたところ、
一日にリラックスする時間のあるなしに関わらず「ゆっくりお茶を飲む」がTOP。

「テレビを見る」「お菓子を食べる」などのプチリラックスタイムを過ごす傾向。
お菓子を食べるタイミングとしても「リラックスしたいとき」が最も多く、お菓子でストレスを解消している事が伺える。

そしてリラックスタイムに食べるお菓子は「チョコレート」が一番多く、
「チョコレート」と「コーヒー」の組み合わせが好きだという主婦は、8割以上にものぼった。

リラックスがもたらす影響やリラックスと夫婦の相関性について、
医学博士の米山公啓さんは、「現代の日本社会の背景として、ほとんどの人がリラックスを求めている。
中でも主婦は、家事や育児等、時間に追われていることが多く、ストレスを感じている。

強いストレスがあると相手に対して攻撃的になり、話を十分に聞く余裕がなくなってしまい、
家庭不和につながりやすい。」と述べている。

「チョコレートとコーヒーを摂取する場や時間を設けることで、雰囲気が和らぎ夫婦の会話が増えたという例もある」とのこと。
チョコレートとコーヒーは、夫婦のコミュニケーションツールとしても、効果があるようだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は記事を読み終わった後、『レタスクラブ』は初めてであったで、こっそりとネットで検索すると、
角川書店より発刊されている定期雑誌で、
《・・身近な材料で作れる、プロの料理人や料理研究家のレシピが「レタスクラブ」には満載! ・・
・・片付けや節約術など、毎日の生活に役立つ情報をたっぷりご紹介・・》
と解説されていたので、40代前後の主婦の専用雑誌かしら、と私は解釈した。

そして我が家とは世代も違うが、やはり家内は主婦であり、似ているようなことが多く、
私は微苦笑したりした。
            

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そして私は、平素の買物専任者を自主宣言したりした。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。

この趣味などのささやかな時間を崩すことは、天敵と確信を深めて、
買物メール老ボーイとなり、早や12年生となっている。

そして我が家の平素の買物は、私は独りで指定された最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。
                      
そして買物を終えた後は、やはり独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを
ひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

こうした中で、 家内は従来通り料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめてと私は思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
                                   

今回の記事に於いて、《・・主婦の三大ストレス要因には「家事」「夫との関係」「親子関係」・・
家事の中でも「掃除」「炊事」にストレスを感じている・・》

私は年金生活を始め、早や12年目となり71歳の身であり、
家内は私より5歳若く66歳となっている。

私たち夫婦は40年近く寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ11年の年金生活は安楽の日々を過ごしてきた。

こうした中で私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちはお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          
私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から、年金生活を開始できたことも事実である。
       
もとより子供がいれば、圧倒的に育てる喜びもあるし、子供の笑顔に何よりも癒(いや)されるし、
ときには苦渋することもあると、知人たちから教えられてきたが、
無念ながらこうしたことの体験は、私たち夫婦は欠落している。
          
そして果たしていつの日まで、情愛さえも子供にも頼ることができない私たち夫婦は、
ささやかな日々が続くのだろうか、と私はよぎることもある。
                      

家事の掃除、洗濯、料理に関しては、家内は几帳面にする専業主婦の優等生タイプであるが、
やはり日々の献立には、思案する時もある。

家内が都心にあるデパート、最寄駅に買物に行く時は、私は家内のボディガード、荷物持ちとなり、行ったりし、
或いは共通趣味の国内旅行先に於いて、食事処では、日頃の感謝をして、家内が食べたい処を最優先としている。

こうした中で、家内の母宅に介護で、長女の家内は、ときおり泊りがけで行ったりしているので、
私は『おひとりさま』となり、若葉マークなりに奮闘している。
こうした時、掃除、洗濯、料理など苦楽は、少しばかり学んだりしている。
            

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

平素は家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人と談笑したりする時もある。             


私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は40年近く寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしてきた。

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は幾つになっても短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

私たち夫婦は、ご近所の方の奥様たちから、あなたたちは仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
しかしながら私たち夫婦は、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、険悪になる時もある。

やがて私は、文学、映画、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たち夫婦の人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思いながら、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりする時もある。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
                                          

私は現役サラリーマン時代は、苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦し、何とか定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

やがて出向先で定年を迎え、敗残者のようなサラリーマン航路を歩んだ為、
サラリーマン人生の哀歓は強く知っているひとりである為か、時折、家内から私は苦言を言われても、
家内の日頃のストレスの解消になれば、たやすいこと、と思ったりしている。

余談であるが、やはり家内はチョコレート、お菓子は大好きなひとりであるが、
ここ数年、カカオが多い《美と健康を考えた、高カカオポリフェール》チョコレートを好み、
買物メール老ボーイが、時折忘れてしまう時、思いやりのない人ねぇ、と家内から私は苦言されることもある。
            
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9年後の「2025年問題」を改めて学び、プラス思考の71歳の私でも、溜息を重ねて動顛して【下】

2016-03-27 18:59:10 | ささやかな古稀からの思い
今朝、朝食後に愛読しているネットの【現代ビジネス 】を見ている中で。
【 「2025年問題」をご存知ですか?~「人口減少」「プア・ジャパニーズ急増」・・9年後この国に起こること 】
と見出しを見て、私は「2025年問題」を注視しているので、とクリックして読んだりした。

やがて9年後の「2025年問題」を改めて学び、プラス思考の71歳の私でも、溜息を重ねて動顛したりした。

この記事の原文は、『週刊現代』2016年3月26日・4月2日合併号に掲載されて、
【現代ビジネス 】に3月27日配信された記事のひとつであり、無断ながら転載させて頂く。
          
《・・人口の20%が「後期高齢者」になり、単純労働に就くのは移民と外国人。
医療と介護の安心は根底から覆る。

街に人があふれ、子供たちが教室にぎゅうぎゅう詰めで授業を受けた、古き良き日本は二度と戻らない。
増えてゆく空席を、言葉の通じぬ人々が埋めてゆく。
カネも絆も失った私たちは、どうなるのか。
            

☆10人に1人はボケている

「このまま無為無策で過ごせば、日本はとんでもない事態に見舞われます。
社会保障の破綻、際限のない増税といった山積みの問題が、10年足らずで一気に表面化するのです」
こう警鐘を鳴らすのは、政策研究大学院大学名誉教授の松谷明彦氏だ。

およそ1世紀も増え続けてきた日本の人口が、昨年ついに減り始めた。
「これから10年間で、日本の人口は700万人減ります。
15歳~64歳の生産年齢人口が7000万人まで落ち込む一方で、65歳以上の人口は3500万人を突破する。

2025年の日本は、団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、
国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類が経験したことのない『超・超高齢社会』を迎える。
これが『2025年問題』です」(前出・松谷氏)

東京五輪が終わったあと、日本の姿は、今とは大きく変わっている。
現在と同水準の人口を維持できるのは、東京・神奈川・千葉・埼玉の首都圏と、愛知・沖縄・滋賀のみ。
青森・岩手・秋田・山形・福島の東北各県や、中四国の大半の県は、軒並み1割人口を減らす。

働き方も、大変化に見舞われる。
厚生労働省のデータによれば、'00~'10年の10年間で、
事務職や工業系技術者は14%、農家や漁師は30%、また土木作業者や建設技術者は40%も減っている。
一方、介護関係職員は倍以上に増加し、葬儀関係者も1・5倍に増えた。
この傾向は、2025年までにますます加速する。
            

若者が減り、老人が増える。
何かを作る仕事に携わる人が減り、介護や葬儀に携わる人が激増する。
もはや、国全体が老境に入ってしまったような状態だ。

しかも・・。
「現時点でも、軽度のものを含めれば、少なくとも820万人が、認知症を患っているという厚労省のデータがあります。
それに基づけば、2025年には今の1・5倍、1200万人以上が認知症になっていてもおかしくありません」(国際医療福祉大学教授の高橋泰氏)

全国民の10人に1人がボケている。
そんな国が成り立つのか、という疑問がわいてくるが、あと9年で画期的な対策が見つかるとも思えない。
特別養護老人ホームには、順番待ちの長い列ができ、認知症の特効薬ができる気配もない。
もはや策は尽きている。
            

☆病院がどんどん潰れる

経団連の榊原定征会長は、ついに
「移民に頼らざるを得ない。ドアを開けに行かないといけない」と明言。
自民党も特命委員会を今月設置し、まさに移民受け入れの議論を始めようとしている。

移民や大量の外国人労働者を受け入れた2025年の日本が、どんな国になるかについては後記で詳述するが、
ひとつ言えるのは、その「劇薬」をもってしても、事態は好転しないということだ。

2025年、まず医療がパンクする。
厚生労働省の推計によれば、2025年の医療保険給付は総額54兆円と、現在より12兆円以上増える見通しだ。
衰えゆく日本の国力で、とうてい賄える額ではない。

「破綻シナリオ」を回避するために、国は医者と病院を減らしにかかっている。
患者は確実に増えるにもかかわらず、である。

NPO法人医療制度研究会副理事長で、外科医の本田宏氏が言う。
「今、全国で病院の身売りや倒産が相次いでいます。
実は日本の医師数は、先進国最低レベルです。
医者がいなければ、治療できない。治療できなければ、医療費が膨らむこともない。
つまり、医療費を抑えるため、医師の数を減らし、病院の数も抑えているわけです。
            

'13年には、埼玉県で25ヵ所の病院を36回たらいまわしにされて、患者が亡くなる事件もありました。
地域の病院が減ってゆくと、こうした事件が全国で多発するでしょう」

9年後、全国の入院患者数は138万人(1日あたり)を超えている。
だが、全国の病床数は今でさえ、それに足りない134万床で、今後さらに減らされる見通しだ。
確実に、数万から数十万人の病人が、病気にかかっても入院できなくなる。

少し体調が悪いくらいで、いちいち病院に行くな。
いや、行きたくても行けない—それが常識になるのだ。


介護も同様である。
介護保険制度が設けられた'00年に比べ、現在、介護関連の職につく人の数は、およそ4倍にも膨らんでいる。
それでもまだまだ、人手が足りそうにない。

前出の高橋氏が言う。
「これからの日本は、地方の人口は減ってゆきますが、大都市圏では人口はあまり減らず、同時に高齢者が激増します。
首都圏では、高齢者人口はおよそ1000万人にも達するでしょう。
おそらく2025年を待つまでもなく、あと数年で、首都圏の介護施設は足りなくなります。
『介護クライシス』と懸念されている事態です。

誰にも介護してもらえず、自宅で放置され、亡くなる人が急増する。
『このまま東京にいたらまずい』と考え、地方に移住する高齢者も出るでしょう。
しかし、移住できない大多数の人々は、厳しい状況に追い込まれる」
            

☆年金なんて出るわけない

さらに、多くの国民が不安に思いつつ、半ば諦めているのが、年金の行く末だ。
2025年にも、年金制度そのものは残っているだろう。
だが、その内実が、「破綻同然」の水準にまで崩壊しきっていることは間違いない。

長年、年金を研究してきた、社会保険労務士の大曲義典氏が分析する。
「年金をはじめとする社会保障費は、現在の約120兆円から、2025年には総額150兆円に増えると考えられます。

しかし、'14年に厚生労働省が行った将来予測は、
『現役世代の賃金はこれから毎年上がり、10年後の保険料収入は40兆円に達する見込みだ。だから年金は破綻しない』
といった、実態からかけ離れた仮定が満載で、明らかに『絵に描いた餅』でした。

現実的な値をもとに計算すると、遅くとも2030年代前半には、年金積立金は枯渇します。
『所得代替率(現役時代の給料と年金支給額の比率)50%を死守する』という政府の目標も、おそらく叶わないでしょう」

年金破綻を防ぐには、2025年まで、経済成長と毎年1・5%ずつの賃金アップを同時に達成しなければならないという。
だが日本人の平均賃金は、もう20年間も連続で下がっており、しかも働き手は減る一方だ。
            

「かくなるうえは、消費税増税しかない」というのが財務省の理屈だが、
消費税を1%上げても2兆円しか税収は増えない。
10年足らずで15%も消費税を上げるというのは、とてもじゃないが、ムチャな目標である。

「2025年というのは、今まさに行われている、60歳から65歳への年金支給開始年齢引き上げが、
最終段階にさしかかっている頃です。
おそらく、年金の実質的破綻は、誰の目にも明らかになっているでしょうから、
『70歳への支給開始年齢引き上げ』も実行に移されるはずです」(前出・大曲氏)

ただでさえ、物価や賃金の変動に合わせて給付額を減らす「マクロ経済スライド」で、
2025年には今の8割前後まで、年金給付額が減っている。
それに加えて、残念ながら現在の50代から下の世代は、
「ようやく年金がもらえると思ったのに、まだ待たされるのか」と嘆くはめになるのだ。

介護の人手は足りず、病院に行ってもすぐに追い返される。
認知症の高齢者が、わずかな年金を握りしめて、閑散とした街中を歩き回る—後記では、
そんな「絶望の国」と化した、未来の日本で起きる悲劇を見てゆこう。
            

☆プア・ジャパニーズも急増 日本の治安はニューヨーク以下になる

中国人に乗っ取られる。
「中国農村部の貧しい人々の間では、日本神話は健在です。
日本のコンビニなど、単純労働の職場で働けば、中国の何倍も収入が得られる。
病院に行くにしても、中国のように2~3日並ばされることもありません。
日本が本格的に、外国人労働者を受け入れる方向に舵を切れば、移民の問題は当然出てくるでしょう」(産経新聞中国総局特派員の矢板明夫氏)

政府や財界は、安上がりな労働力を求めて「外国人労働者受け入れ」に前のめりになっている。

これから、元気に働ける日本人の人口は、右肩下がりに減ってゆく。
それならば、過酷な単純労働にも文句を言わず、人件費も安い外国人労働者を雇えばいい—。

経営者の間にはそんな風潮が広がり、
すでにコンビニや飲食店の店員など、サービス業の現場はアジア系の外国人労働者が席巻している。
介護の現場も、間もなくそうなる。

「一方で、今は日本経済が中国に比べて良くないため、
中国のエリート層は日本に魅力を感じなくなり、渡航する人も減っています。
彼らにとっては、日本に行くよりも、中国にいるほうが儲かるのです」(前出・矢板氏)

ついこの間まで、日本人の多くは「日本人であれば、無条件に中国人よりも豊かだ」と思い込んでいた。
しかし、上海の物価が、東京の物価を優に上回る今、その認識は完全に時代遅れだ。
            

貧しい日本人は、貧しい中国人と同じ条件で働かなければならなくなった。
2025年には、そうした日本人がひとつの階層を形作り、
アメリカの「プア・ホワイト(貧しい白人)」ならぬ「プア・ジャパニーズ」と呼ばれているだろう。

'05年から'15年の10年間で、外国人労働者の総数は34万人から90万人に激増した。
うち最も多いのは中国人で、32万2500人あまり。
以下ベトナム人が11万人、フィリピン人が10万6500人、ブラジル人が9万6600人と続く。
このペースが続けば、2025年には140万人を突破する計算だ。

今、彼らの多くが住んでいるのは、高齢化が進んで、年々空洞化している郊外の団地である。
東京都区部郊外のニュータウン・高島平団地に約30年住む、ジャーナリストの浅川澄一氏が言う。

「現在、高島平団地の高齢化率は50・2%に達しています。
1万5000人あまりの住民のうち、7600人が65歳以上と、まるで日本社会の縮図です。
'70年代初めの開発当時に入居した世代が、そのまま年をとり、60~80代を迎えているわけです」

日本人の夢が詰まったニュータウンは、今や「オールドタウン」と化した。
2025年までには、少なからぬ住民がいなくなっているはずで、
入れ替わるようにして、多国籍の外国人労働者が流れ込んでゆく。

地域紙「高島平新聞」の調べによると、現在、同団地に外国人は約900人住んでおり、団地の子供の6・5人に1人は外国人だという。
            

☆治安悪化は避けられない

高島平団地の近隣には、日本の看護師資格をとるために、来日した外国人向けの日本語学校がある。
そこに通う留学生は、地域のボランティアなどにも積極的に加わり、住民の信頼を得ている。

しかし、数ある日本語学校の中には、事実上の「寄せ場」と化しているところもあるのが実情だという。

外国人労働者問題に詳しい、ジャーナリストの出井康博氏が言う。
「急増しているアジア系の外国人労働者は、その多くが日本語学校に通う留学生です。
ただ、学校には在留資格を得るために籍だけ置き、目的は出稼ぎ、という人も少なくありません。

彼らはブローカーに『日本に来れば、簡単に月20万~30万円稼げる』と騙され、
家や土地を担保に、学費など200万円近くを借金して来日する。
ブローカーが日本語学校と組んで、彼らを食い物にしているのです」
            

☆傷害・窃盗・大麻・地下銀行

首都圏の周辺には、すでに「外国人労働者の街」と化しているエリアもある。
昨年上半期、外国人の刑法犯検挙件数は6610件。

刑法犯全体の4%未満と、これだけを見ると必ずしも多いとは言えないが、
実はベトナム人の犯罪件数が、前年同期比で36%も急増している。

民家を改造して、大麻を栽培する。
本国への違法送金を格安で請け負う「地下銀行」を運営する・・その手口は、単なる傷害や窃盗だけにとどまらない。
物価の安いベトナム出身の労働者が、低賃金で過酷な労働をさせられ、
耐えきれずに犯罪に手を染めるケースが増えていると考えられる。

「アジア系外国人労働者の中には、徹夜の肉体労働など、労働条件のよくない仕事に携わる人も多い。
また、日本人の人手不足もあって、『留学生のアルバイトは週28時間以内』という法律の規定も、全く形骸化しています。
日本語学校の学費の支払いを逃れようと、退学して不法就労に走る者もいる」(前出・出井氏)

東京五輪が終わり、5年の月日が流れた2025年の日本では、
各地でマンションの空洞化がさらに深刻になり、空き家率も20%を超えている。
            

半ば打ち捨てられた郊外のマンションや団地へ、
中国の貧困層のみならず、東南アジアでも賃金が安いベトナムやカンボジア、バングラデシュなどからの外国人労働者が
住むようになる・・彼らに日本語は通じない。

「日本に出稼ぎに来る外国人が、皆日本語を勉強し、社会に溶け込む努力をするとは限らない。
そういう人々が集まって、外国人だけのコミュニティがあちこちにできてしまうのです。

中国でも、北京など都市部の建物には、窃盗防止のため、必ず金属の防犯ドアが付いていますが、
日本にはそうした設備がないところも多い。
外国人犯罪集団からすれば、日本は犯罪天国に見えるでしょう」(前出・矢板氏)

移民という「最後の手段」に手をかけた日本。
2025年の治安は、年間に東京の2・5倍の殺人事件が起き、34倍の強盗事件が起きるニューヨーク以下に
悪化していてもおかしくない。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

今から9年後の2025年は、私が81歳、家内は76歳となり、共に後期高齢者となる。
果たして、この頃は亡くなっているか、或いは年金生活を何とか過ごしていると思われるが、
確かなことは、現代より社会状況が悪化していることは、何かとプラス思考の私でも、
今回の記事を精読し、溜息を重ねて動顛したりした・・。

住まいも老朽化した今の一軒家に住んでいるか、やがて大病となり病院探しの迷子になるか、
或いは介護の身となり介護施設の迷子になるか、こればかりは予測がつかないが現状である。

何よりも困惑させられるは、働いて下さる諸兄諸姉の方達と思案させられた・・。

昨今、国税庁による「民間給与実態統計調査」に寄れば、1人あたりの年間平均給与は、継続的に下がり続け、
平成16年には438.8万円だったのが、平成26年には415.0万円と知ったりした。

ここ10数年は、民間会社は短期に成果が問われる時代の中、常時リストラともいわれたりして過酷な時代になり、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

こうした中で、少子高齢化が増す社会となり、年金、医療、介護などの社会保障費は膨張し、
やむなく年金の削減、医療、介護の見直し改定が実施されてきた。
            

そして14年の平均寿命は女性86.83歳、男性80.5歳と大幅に伸び、
健康寿命も女性は約74歳、男性は約71歳で、
晩年期の難関として、健康寿命から平均寿命までは、女性が約12年、男性が約9年となっている現実がある。

こうした中で、14年簡易生命表による生存率に寄れば、90歳時点でも女性の48.3%、男性の24.2%は、
95歳時点でも女性の24.4%、男性の8.7%、お元気な方もいる。

このような状況の中、40兆円の医療費は65歳以上が半分以上を占め、
やがて25年には約50兆円に達すると予測されている。

何よりも年金だけとっても、2000年に現役世代3.6人で1人の高齢者を支える状況から、
25年には現役世代1.8人で1人の高齢者を支える事態が到来する。
                       

不幸にして生活保護を受けられる方は、国家予算の約3%前後となり、
14年度は過去最高の2.8兆円となり、162万世帯で217万人と私は学んだりした。
この中で、高齢者は半分を占める、と知ったりした。

今回の記事を読み終わった後、漠然としながらも、
生活保護を受けられる方を除外した上、団塊の世代の晩年期は、もはや自分で守るしかない、と私は思惑を深めている・・。

そして私は何よりも認知症が怖く、殆ど毎日ひたすら自宅周辺にある遊歩道、小公園を歩き廻ったしている。

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9年後の「2025年問題」を改めて学び、プラス思考の71歳の私でも、溜息を重ねて動顛して【上】

2016-03-27 12:48:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨年の5月初旬、松谷明彦・著作の『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』(PHP新書)を購読し、
震撼させられたひとりであった。
               

新書のカバーにある解説として、
《・・地方の集落の消滅を危惧する声が高まっているが、
これまでの政策の方向性を変えれば日本の農業や集落を維持する術(すべ)はある。

むしろ、地方よりも東京のほうが、より急激な変化に見舞われると考えられる。
東京の高齢化はすさまじい。
2040年には、2010年に比べて高齢者が143.8万人増加する。
1.5万人減少する秋田県とは対照的だ。

その結果東京の貯蓄率は低下し、インフラが維持できず、都市がスラム化するおそれがある。
年金の給付水準は大幅に引き下げられ、その結果多くの高齢者が家を失い、
老人ホームが新たに100万床以上必要になると考えられる。

ならばどうするか。
人口減少問題の第一人者が、欧州の事例も参考にしながら、現実的な処方箋を提案する。・・》

そして帯カバーの裏面には、
■地方は「消滅」しない
■貧しくなる東京
■オリンピックの狂騒の後に残るもの
■日本経済を支えたビジネスモデルの終焉
■1950年代の産児制限が急速な高齢化の原因
■公共賃貸住宅を大量につくれ―――財政への影響は問題なし  ・・など9つ命題が明記されていた。

こうしたことを立ち読みした私は、やがて到来する東京劣化を学びたく、買い求め、精読した。
                    

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
生家も近く、この地域に結婚前後の5年を除き、66年ばかり住んでいる。

このような関係で地元はもとより、都心には幼年期の頃から行ったりし、
そして学生時代、やがて社会人になってサラリーマンで精勤すると、都心にある本社で奮戦したり、
定年後の年金生活の中でも、ときおり都心に行ったりしている。

そして私は、《・・貧しくなる東京・・》は都民のひとりとして、
無力ながら悲嘆し、ため息を重ねて、著作者の松谷明彦さんから多々教示された・・・。


たまたま私は当時の3日前、ネットでニュースなどを見たりした中で、
ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の配信して下さった記事のひとつとして、
『 東京の高齢化にどう備えればいいか 』と題された見出しを見た。

そして過日の『プレジデント』2015年6月1日号に掲載され、
『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』を上梓された松谷明彦さんの寄稿文と解り、
この配信して下さった記事を、たまたま私は改めて精読を深めたりした。

精読後、基本的な要旨は、『東京劣化 ~地方以上に劇的な首都の人口問題~』と同一であるが、
今後の都心、そして首都圏(東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県)に多大な影響、
やがて日本各地に影響が波及するので、共有致したく、無断であるが転載させて頂く。
          
《・・
★平均3人を産まねば「1億人維持」は無理

人口減少が始まって10年になる。今後も日本の人口は減り続ける。
そして人口減少で最も大きな影響を受けるのが東京だ。
だが、多くの人は、この事実から目を背けている。

たとえば政府は昨年6月に示した「骨太の方針」で50年後の人口を1億人に維持するという目標を掲げた。
安倍晋三首相も今年4月の国会答弁で「1億人は維持していきたい」と発言している。

そのため少子化対策などに力を入れるとしているが、これからの人口減少はすでに確定している事実である。


今後50年で子どもの数は半分以下になる。
なぜなら50年後までに子供を産む可能性の高い25~39歳の女性が半分以下になるからだ。
国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の推計によると、
この年代の女性は25年後までに37.1%も減少する。
その大幅に減少した女性が次の世代を産む。50年後には55.1%の減少が見込まれている。

このような急激な少子化は日本特有のものだ。
国際連合の人口推計で今後50年の25~39歳の女性と子どもの増減を比較すると、
フランスでは前者が4.2%増で後者が8.4%増、イギリスでは5.2%増で13.7%増、
アメリカでは23.0%増で21.9%増。

これに対し、日本は女性が55.1%減で、子どもが53.0%減である。

理由は戦後まもなくの大規模な産児制限にある。
人工妊娠中絶などを主な手段として、年間出生者数を約4割(約100万人)も減少させた結果、
いびつな人口構造が現れた。
          

日本が欧米先進国のようになだらかな人口構造へ戻るためには、あと50年以上かかる。
それまでに日本では女性と子どもの激減、そして急速な高齢化が立て続けに起きる。

結婚するかしないか、子どもを何人持つかという選択は、人々の価値観によるものだ。
2013年時点の合計特殊出生率(1人の女性が一生に産む子供の平均数)は1.43だった。
人口維持には2.07まで引き上げる必要がある。

しかし女性の生涯未婚率は30年以上前から上昇を続けており、試算では2040年には30%近くに達する。
一方、既婚女性(有配偶女性)の合計特殊出生率は40年以上、2.0+アルファーで安定している。

つまり女性が子どもを産まなくなったわけではなく、結婚をしない女性や子どもを持たないと決めた女性が増えているのだ。
政府の目標を達成するには、既婚女性が平均で3人程度を産む必要がある。
それは非現実的であり、非民主的だ。
          

★東京は30年後には「超高齢化」する

こうした人口の変化で深刻な影響を受けるのは地方ではなく大都市である。
地方の高齢化は既にピークを過ぎており、今後、人口変動は落ち着く。
一部で議論されている「地方の消滅」は杞憂に過ぎない。

これから東京などの大都市では、「人口がたいして減らない」
「これまで大量に流入した若者が歳を取り、高齢者が急増する」
「全国的な少子化で流入する若者が激減する」という三重苦が始まる。

人口が減らないため、行政サービスや公共インフラへの需要は減らない。
そこで高齢者が急増すれば、医療や介護への負担で財政支出が急激に膨張する。
さらに流入する若者の激減で納税者は減り、税収は低迷する。大都市は未曾有の財政難に陥る。

特に東京の高齢化の規模はあまりにも巨大だ。
社人研によると、2010年時点で、東京都の65歳以上の高齢者は約268万人。
これが2040年には約144万人増え、約412万人となる。

増加率は53.7%に達する。
この結果、これから首都東京の「劣化」が起きると予想される。
          

★「高齢者難民」が発生。東京はスラム化する

劣化の第一は、東京の「スラム化」である。
人口減少高齢社会では、経済成長率が低下する。
さらに働いて貯蓄できる人の比率も下がるため、貯蓄率も大幅に低下する。

このような局面では、道路や上下水道といった公共インフラを計画的に整理縮小する必要がある。

ところが東京では人口の減少が小幅にとどまるため、大胆な整理縮小ができない。
それどころか2020年の東京オリンピックに関連して、インフラの新規投資が膨張している。
今後は既存インフラの維持や更新すら困難になるのに、貯蓄を使い果たそうとしている。

大量の「高齢者難民」が発生する可能性も高い。
東京の高齢者の約4割は借家住まいだ。
近い将来、年金制度が事実上破綻し、給付水準が引き下げられれば、家賃が払えなくなった高齢者が街にあふれ出す。

経済成長が衰えれば、民間によるインフラ整備も期待できなくなる。
再開発は行われなくなり、老朽化した商業ビルは、取り壊されず廃墟になる。
また鉄道の沿線人口が減れば、路線は廃止・短縮される。

鉄道が来なくなれば郊外の住宅地は価値を失い、ゴーストタウンになるだろう。

経済成長を上向かせるには、東京の経済を国際化・高度化する必要があるが、
それでも大量の失業が発生するだろう。1950年代後半から1970年代初頭に東京へ流入した第一波は、
製造業に組み込まれ、熟練労働者に成長した。

しかし1980年代や2000年以降に流入した第二波、第三波は、
流通業などに就いた人が多く、高度なスキルを持つ人は少ない。
これは政府と企業、そして労働者自身が、職業教育を軽視し、安価な労働力を追い求めたツケでもある。
           
        
ではどうすればいいのか。
ひとつの提案は、「高齢者難民」を防ぐために、耐用年数が200年程度の公共賃貸住宅を大量に建設することだ。

民間の賃貸住宅は20~30年程度で建築費を回収する必要があるため家賃が高い。
だが国や地方自治体であれば超長期の借金ができる。
耐用年数が200年程度で、維持補修費が他の集合住宅とさほど変わらないものを建てる技術はすでにある。

土地は区役所の上や公共遊休地などを活用する。
建築費の回収期間を200年に設定すれば、家賃は月額2万~3万円程度に抑えられるはずだ。

人口減少高齢社会は資源減少社会だ。
限られた資源で社会を維持していくためには、世代を超えて資源を管理する必要がある。
年金は現役世代の稼ぎ、つまり「フロー」に頼る仕組みだが、公共賃貸住宅は世代を超えた「ストック」の資源になる。

民間の商業ビルにも「ストック」の管理という視点が有効だろう。
個々の対応ではスラム化は防げない。

東京にある商業ビルの台帳をつくり、新規建設の調整や建て替えの指導を行う。
資源を適正に管理できれば、企業活動の持続性も高まる。

東京の劣化を防ぐうえで、これから必要になるのは変化を恐れないことだ。
今後の人口減少高齢社会では、働く人の比率が低下するため、
1人当たりの財政支出は増えるが、税収は増えない。
           
         
このため財政再建を達成するには、人口の減少に比例して財政規模を縮小させるしかない。
言い換えれば、年金や社会福祉、公共サービスなど、
これまでと同じ社会構造では成り立たないということだ。

経済にも同じことがいえる。
米国では、各業界の概ね3分の2、欧州では半分程度が、外国企業だ。
だが日本では、いずれの業界も国内企業がほとんどだ。

東京の国際競争力を高めるには、日本企業に外国人を呼ぶのではなく、
東京に多数の外国企業を呼び込むような「開国」が必要だろう。
そのためには日本経済全体の構造改革も求められる。

東京の劣化は、2020年の東京オリンピックの数年後には兆しが見えてくるだろう。
対策を急ぐ必要がある。
祭りの後で悔やんでも、最早手遅れなのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私はこの寄稿文を読み終わった後、やがて到来する都心の情景は、
1970年代のニューヨーク市の街中の荒廃した状景に思いを重ねてしまった。

戦後、1950年代まで政治、外交、軍事、経済、文化など世界を牽引してきたアメリカが、
1960年代の中頃より、ベトナム戦争の泥沼化の中、やがて推進派と反対派で昏迷し、
そして経済は低迷し、何よりもアメリカ人の心まで疲弊させた。

こうした深刻な経済状況の中、ニューヨーク市も財政悪化となり、
建物、道路、橋、地下鉄、水道、ガス、電気などの社会基盤の補修もままならず、荒廃していった。

こうした中で、裕福な人たちは市の財政が破綻し大増税が始まることを恐れて、
市の住民の13%に相当する約100万人が、市から流出した実態を思い馳せたりした。

この当時のニューヨークの荒廃した情景を的確に表現した映画があり、
マーティン・スコセッシ・監督の『タクシードライバー』(1976年)である。
          

やがて到来する都心は、都民の裕福な人たちは。都政の高負担・低福祉に険悪して、
香港、シンガポール、カナダなどに移住してしまうと、私は妄想を重ねたりした。

そして残された都民の大半は、益々財政悪化の中、高負担・低福祉に従属した生活を
余儀なくされて過ごされる・・。

こうした中で、《・・財政再建を達成するには、人口の減少に比例して財政規模を縮小させるしかない。
言い換えれば、年金や社会福祉、公共サービスなど・・》削減、低下は、
過ぎし年のニューヨークは大胆な政策もとで、称賛されるほどに甦(よみが)ったが、
果たして都民、周辺の人々は、特に享受してきた高齢者は、耐えられるかしら、と危惧したりした。

このように何かとプラス思考の私でも、このような悲嘆な到来を思案したりしてきた。

            《つづく》

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ときには小庭の手入れ、老ボーイの私は今年初めて、泥まみれ汗まみれに奮戦しても・・。

2016-03-26 16:50:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨日の夕食の時に、私は家内に、
『明日、久々に庭の草むしりをするよ・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうねぇ・・早めにすれば後が楽でしょう・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

私は昨年の晩秋、白内障の手術をして、左眼と右眼に広く手元から遠くまで見える多焦点眼内レンズを挿入して頂ただき、
手術前の私は、裸眼0・03は酷い近眼で、メガネを掛けても0・7弱くらいであったが、
結果的には左眼と右眼も1・0となり、高校生以来から近眼のメガネから解放された。

こうした影響で、当面は庭の手入れをして、泥まみれ汗まみれを避けて、
さぼり果ててきた。

ここ一か月、我が家にある数多くの落葉樹も、膨らんだ莟(つぼみ)、幼いあまたの葉を広げた木の芽時(このめどき)の迎え、
地面からは雑草が、こんにちわ、というように生えてきている。

このような状況となってきたので、体力の衰えた私でも、遅ればせながら草むしりだけを決意した。
            

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、ときおり家内の支援を受けることもある。

我が家の小庭の樹の剪定は、ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流で樹木の剪定しているのが、私が定年後、ここ12年目の実態となっている。
                
                
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職した以前は、
5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに、枝葉の処分料が多かった為か50万円前後を要してきたが、
この間は私がこっそりと植木屋さんの剪定した状況を物真似をして剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は私たちの旅行3泊4日が2回ぐらいできるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
                                                      

今朝、私は昨夜は深夜まで読書をしていた為か、起床したのは8時過ぎで、
『遅れをとった・・早く食べて庭に出るからねぇ』
と私は家内に言い訳をしたりした。

そして私は朝食を頂きながら、地元の天気情報を視聴したりした。

朝の6時は5度、昼下がりは11度前後、夕方の6時は10度前後、
日中は曇り時々晴、と報じられていた。

やがて私は10時少し前に、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をし、剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

そして私は玄関庭、主庭を草むしりを4時間半ばかりした。

この間、テラスに於いてある簡易椅子に座り休憩したりすると、
心地よい陽射しを受けたりしたが、
やはり樹の下の周囲にある雑草を取ろうと、地面に這いつくばりながら奮戦すると、
やがて泥まみれ汗まみれとなり、苦笑したりした。

しかしながら熱い時節は、汗はしたたり落ちながら、草むしり、樹木の剪定をするよりは、
遥かに楽で、微苦笑をしたりした。

老ボーイの私は、日頃は人生は気合だ、とプラス思考でいるが、
やがて私は疲れは果て、程ほどに小奇麗になったので、瞬時に妥協してしまった。
            

結果的には、雑草の草むしりとしては、
市から指定されている『燃えるゴミ袋』のLLサイズ(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)が、
雑草の草むしりとしては、3袋となったりした。

やがて風呂から上がったのは、午後3時であった。

そして台所で整理整頓をしている家内に、
『疲れたょ・・やはり齢だよねぇ・・腰がだるいょ・・』
と私は微苦笑しながら言ったりした。

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春和景明の中、健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、と深く思い馳せて・・・。

2016-03-25 16:19:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
            

こうした中で、私は幼年期に農家の児として育った為か、
数多くの落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジなど雑木は、
木の芽時(このめどき)の時節を迎え、膨らんだ莟(つぼみ)、幼いあまたの葉を広げて、萌黄(もえぎ)色に染められる初春、
こうした季節のうつろいを眺めるのが、この世で最も好きな情景のひとつとなっている。
            
       
或いは純白の白梅、華やかな紅梅に長らく見惚れたりし、
やがて全国の女の子を祝賀するような桃の花を見たり、そして河津桜、大島桜などの早咲きの桜花にめぐり逢え、
春到来かしら、と私は微笑んだりしてきた・・。
            

過ぎし21日、私の住む地域でも染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始め、
やがて山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲く時節となる。

このような春和景明の中、私は本日も散策して、のどかなひとときを享受したりした。

木のベンチに腰を下ろして長らく桜花を眺めたりしていると、
私は中小業の民間会社に奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
            

やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、そして62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
            
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
            

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日を迎えているが、
健康寿命、やがて逝去も余りにも格差がある、と思い馳せたりした。

私の父は私が小学2年の時に、肝臓が悪化して、やがて42歳の若さで肝臓ガンで死去した。
母は私が54歳の時に病死したが、数年前から入退院を繰り返して、
婦人系のガンで喜寿(きじゅ)と称される77歳を迎えてまもなく亡くなった。

家内の父は私が定年退職する直前に病死されたが、やはり4年前から入退院を繰り返して、
腎臓ガンで77歳で死去した。

家内の母は独り住まいとなり、4年前の80歳前後に膝(ひざ)と腰を悪化して、
要支援2となり、今や娘ふたりの支援のもとで過ごし、
長女の家内と妹が交代で家内の母宅に行き、介護する状況となっている。

私の父の兄弟は、父、妹4人、弟であったが、
弟は二十歳を過ぎてまもなく病死し、父も42歳で病死したが、
妹ふたりは90代で亡くなり、下の姉妹は85歳、81歳で健在である。

このように父の兄弟は、男性は若くして死去し、女性は長寿となっているので、
過ぎし日に私は長兄に向かって、
『兄貴さぁ・・お父さんの代は男は短命だったが、せめて兄貴と俺は80歳を元気で迎えることが出来れば・・』
と私は微苦笑しながら長兄に言ったりした。

しかしながら、この世はまさか出来事に遭遇することもある。
            

つたない人生航路を歩んできた私は、ささやかな死生観を秘めている。

過ぎし2010年8月下旬の頃に、私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えた。
新聞の出版広告で偶然に読み、この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、
私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
                       

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのは、せいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
                      

このような深く学び、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、と深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動に注視して、信愛を重ねている。


私は70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
                   

そして私は、天上の神々か仏(ほとけ)様の采配か解らないが、生かしてもらっている、と思いが強く、
亡くなわれた御方のしぐさ、表情が走馬灯の思い浮かび、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

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アンチエイジング、スキンケア、サプリメントなど用語に、齢ばかり重ねた私は、戸惑い・・。

2016-03-24 14:00:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市の片隅みに住む年金生活の男性の71歳の身であるが、
早朝より霧雨が降る肌寒い午前中、平素の買物メール老ボーイの私は、買物、そして散策も中止し、
ぼんやりとしていた。

そして2月下旬のような寒い日と知り、ここ5日間は4月中旬のような陽気に恵まれて、
私は桜花を求めて鑑賞してきたが、本日は花冷えの日かしら、と微苦笑した。

こうした中、新聞を読んだり、テレビでニュースを視聴した後、
愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見たりしていた・・。

やがて40代・50代からの健康寿命を考える【男の健康】を見たりすると、
《・・男は40代に入ると、肉体の衰えを実感します。
アンチエイジング・老化防止のために、運動やスキンケア、サプリメントなどで若返りの努力を。・・》
このような標題が掲げられていた。

しかし私は恥ずかしながら、アンチエイジング、スキンケア、サプリメントの意味合いが解らなかった。
            

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、早や年金生活12年生となり、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの為か、もとより息子、娘、そして孫もいないので、
社会事情が疎(うと)くなっていることが多くなっている。

やがて私は、こっそりとネットで検索した・・。

『アンチエイジング』
日本語で言えば「抗老化」「抗加齢」。
最近では「サクセスフルエイジング」「ウェルビーエイジング」「スローエイジング」など、様々な呼ばれ方がされつつあります。
しかし、どれも目的は同じことと考えます。

『スキンケア』
基本的なスキンケアの役割は、外的な刺激(乾燥・摩擦・紫外線)から肌を守り、肌内の潤いを維持することです。
その中でも各スキンケア製品によって役割は異なります。
クレンジング、洗顔、化粧水、美容液、乳液、クリーム

『サプリメント』
アメリカ合衆国での食品の区分の一つであるダイエタリー・サプリメント(dietary supplement)の訳語で、
狭義には、不足しがちなビタミンやミネラル、アミノ酸などの栄養補給を補助することや、
ハーブなどの成分による薬効の発揮が目的である食品である。

ほかにも生薬、酵素、ダイエット食品など様々な種類のサプリメントがある。
広義には、人体に与えられる物質という意味で食品以外にも用いられる。
栄養補助食品、健康補助食品とも呼ばれる。略称はサプリである。

このように明記されていたので、そして微苦笑したりした。
            

そして齢ばかり重ねた私は、横文字が多くなっている社会状況に、戸惑うことが多くなっているのが、
本音となっている。

私は朝夕、ブロッコリー、そしてキャベツカタマネギを盛大に食べたりしている。
何かしら私は、もとより味も良いし、「自己免疫力」も向上して、
何よりも口の中、食道、胃、大腸まで浄化してくれると思いながら、
私の好物となり心身の活力源と思ったりしている。
            
そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
            

今回、いまだ不明なのは、私は衰えた日本男児であるので、
『スキンケア』のクレンジング、化粧水、美容液、乳液などは、家内は使っているが、
私としては未知の世界となっている。

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阿川佐和子さんの「50代“ゼロからのスタート”の面白さ」、71歳の男性の私でも、同意を深めて・・。

2016-03-23 12:56:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の調布市の片隅みに住む年金生活の男性の71歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ている中で、
【 阿川佐和子さん「50代“ゼロからのスタート”の面白さ」 [おとなスタイル] 】
と見出しを見て、遠い親戚の姪っ子ように長年思っている私は、クリックして精読してしまった・・。

この講談社の【JOSEISHI.NET 】に於いて、本日3月23日に配信されて、
原文は講談社からシニア女性向けライフスタイル誌『おとなスタイル』として、2015年8月25日創刊され、
この創刊号に阿川佐和子さんがインタビューに応じて、メッセージされた内容であった。

阿川佐和子さんが意気軒昂に明るく50代からの人生観を発露される中で、整然とした人生哲学あり、
つたない人生航路を歩んできた私でも、そうですよねぇ、と同意を深めたりした・・。

無断であるが転載させて頂く。
            

《・・“ゼロからのスタート”って、いくつになってもまだまだある。その喜びと刺激を味わって!

歳を取るとまぶたがどんどん垂れてくるし、お腹とか腰回りに肉はつくし、物理的に嫌なことは山のようにありますよ。
だけど、じゃあ若い頃に戻りたいかというと、いやいや、私は全然そうは思わない。

今の生活のほうが刺激的で面白いし、世間とつきあうのもずっと楽しくなりました。

いろんなことを積み重ねて、ある程度のことには慣れてきたはずなのに、
まるで“幼稚園児のような”状態に戻ることって、まだあるんですよ。

50歳の誕生日の1週間後にゴルフを始めたら、なんて楽しいんだろう、とハマっちゃって。
その日は160打近く叩いたし、右も左もわからなかったけど、それがまたうれしい。
「ナントカの手習い」ではないですが、“ゼロからのスタート”をまだ味わえる、その喜びったら!(笑)

以前、100歳を目前に控えた婦人解放運動家の故・加藤シヅエさんにインタビューしたことがあり、
いつまでも若い気持ちでいる秘訣を伺ったら、「一日10回、感情を動かすこと」とおっしゃったんです。

うれしいとか素敵というプラスの感情だけでなく、腹が立つとか悲しいというのも含めて、
心を10回動かすことが大切、と。

その言葉が、今でも記憶に残っています。
「世の中、大体こんなもんよ」って言い出したら、おしまい。

自分の常識と違うことは、世の中には、まだまだあるわけですから。
その10回を常に探しているほうが、人生、断然面白いよね。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。

こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。

やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読し、
第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、1966年(昭和41年)7月に発刊された。
             
これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。

特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。

そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。

そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。
            

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。

そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之氏の作品から学んだひとつの詩である。

或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。

私は氏の数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、氏には慈父のように敬愛を重ねてきた。
            

この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。

父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。

父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
          
或いは阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。

このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
                         

たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。

《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》

このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。

もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。

この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
            

やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。

こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。

そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。

私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。

そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
          
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。

それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。

読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ18年ばかり読んだりしている。

昨年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、氏の遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。
            

私は若き日に映画・文学青年の真似事をしたが、やがて敗退して、
やむなく民間会社に中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であった。

そして私は苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦して、何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりし、つたないサラリーマン時代を過ごしたりした。

そして定年退職後は多々の理由で年金生活を始めて、早や12年生となっている。

私は殆ど毎日、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園を独りで歩きながら、
過ぎ去った日々に愛惜をしたり、これから到来する未知の日々に希望を託して、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
            

そして知的好奇心が衰えず、相変わらず随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている時もある。

こうした中で、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで歩き廻ったりして、 季節の移ろいを享受している。

このようにサラリーマンから卒業してから、何かと制約から解放されて、自由時間が多い中、
過ごしてきた為か、遅ればせながら私としては、「60代“ゼロからのスタート”の面白さ」を実感している。

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桜花が咲き始めた中を散策すれば、やがて森山直太郎さんの『さくら(独唱)』が思い浮かび・・。

2016-03-22 17:19:35 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、66年この地に住んでいる。

昨日の21日の昼過ぎ、私はテレビのニュースを視聴していたら、
東京都心で桜(ソメイヨシノ)が開花し、平年より5日早く、昨年より2日早い開花です。

東京では17日から春本番の暖かさになり、花芽の生長が進み、
やがて桜は一般的に咲き始めてから1週間程度で、満開を迎え、
今週後半から来週にかけて、お花見が楽しめそうです、と報じていた。

私の住む地域は河津桜、大島桜などの早咲き桜を除けば、
3月25日前後から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなっている。

本日の午前中、平素の買物の専任者の私は、スーパーで家内からの依頼品を買い求め、帰宅した後、
歯科医院で歯の治療を受ける為に、野川の遊歩道を歩いたりして、喜多見駅の駅前に向かった。

我が家の周囲は住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、こよなく歩いているコースのひとつである。
            

そして昨日は都心は桜が開花したので、野川の桜並木も、咲き始めたかしらと思いを秘めて、
青空の中を歩いたりした・・。

まもなく桜並木の下を歩けば、恥ずかしげに少し桜花が咲き始め、私は見惚れて立ち止まったりした。
そして私は一期一会と思いながら、デジカメで撮ったりした。
            

やがて駅前にある歯科医院で歯の治療を受けた後、帰路も桜並木の下を歩いたりした。

そして私は桜花が視(み)える近くのベンチに座り、休息とした。
ぼんやりと桜花を見惚れていると、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌が思い浮かび、
私は苦笑した後、微苦笑をしたりした・・。
            

私のサラリーマン現役時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、そして早期退職優遇制度による退職などの烈風となった・・。
このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

私自身も1999年(平成11年)の初春、55歳の少し前に出向となってしまった。
            

私の出向先は、各レコード会社がCD、DVD等の音楽商品を委託した物流情報会社であり、
通勤としては、ほど遠く、この中のひとつの物流センターに配属された。

私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近く情報畑、管理畑に勤めた本社で勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。

そして出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い処まで、一時間半ばかりで通った。

職場状況、そして通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは戸惑いながら、
つたない私でも、もとより出向は本社機能の戦力から不必要だと烙印を押されたことであるので、
まぎれなく都落ちで、敗北感が充満し失墜感で気落ちした・・。

この後、何とか半年後に私は職場の業務にも馴染み、
この間に、私の勤めていた出向先の物流情報会社も大幅なリストラがあったり、
かって30年近く勤めていた出向元のあるレコード会社も幾たびかリストラが実施され、
こうした中で、私なりに奮戦し、定年退職を迎えた。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
            
          
私が勤めた物流センターは、センター長を始め、私も含めて正社員5名を中核に、
若き20代の男性の契約社員10名前後、そして女性パート120名前後の中で、
全国のCD販売店、卸店などからの注文に応じて、即日出荷するのが、業務が大半で、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

こうした中で、2003年(平成15年)3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』のCDシングルは、
発売日の初回枚数がわずか1500枚前後であったと記憶している。

この当時、かって勤めていた出向元のあるレコード会社からは、
毎月発売されている新譜と称されるCD、DVD等の音楽商品に関して、
邦楽、洋楽、クラシックなどは、少なくとも100種類はあった。

その上に既に前月までに発売されている旧譜と称されるの商品は、
東京ドームより少し広い倉庫の中で、1万5000種類以上があり、それぞれ商品棚があるが、
この中の一部にヒット曲もあり、主要曲として出荷量の大半を占めていた。

こうした状況であったので、3月5日に発売された森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、
初回枚数が余りにも少なく、私は注視することがなかった。

やがて桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したりした。
               
しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚単位のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、現場を駆けずり廻っていた。
                      

この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年近くレコード会社で情報・管理畑で体験した身でも、需要予測は難しいの実情であった。

特に数多い音楽商品の場合は、人々の好みを予測し、この中の一部の方が一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎さんの『さくら(独唱)』は、東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となり、その後も出荷を重ねた。

私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、この曲が、私の予測を遥かに超え、
思いで深い曲のひとつとなった・・。
          

この当時の頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。
このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。
             
         
ここ10数年、中学生、高校生の間で、卒業式の愛唱歌として唄われる、と私は風の噂で聞いたりすると、
作詞も良し、メロディーも良し、そして唄声も心に残る、と私は確信を深めて、
そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、微笑(ほほえ)む時もある。

このようなことを私は思い馳せたり、この森山直太郎の『さくら(独唱)』の出荷作業に奮闘していた時から、
早くも13年の歳月が過ぎてしまった、と微苦笑したりして、
そして年金生活をしていると、実に時が早く過ぎ去ってしまう、と思いを重ねたりし、帰路に向った。

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誰でも危ない「老後破産」の共通項を学び、私は溜息を重ねて、やがて涙を浮かべて・・。

2016-03-21 16:41:09 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

昼食後、愛読している新潮社の総合ニュースサイト【ディリー新潮】を見ていた時、
【 「天地真理」が激白! 「柳沢きみお」も瀬戸際! 誰でも危ない「老後破産」の共通項を検証する 】
と題された見出しを見て、《・・誰でも危ない「老後破産」の共通項を検証する・・》を学びたく、
精読してしまった・・。

この記事の原文は、『週刊新潮』2015年10月1日号に掲載された記事のひとつであり、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《・・老後とは、それをエンジョイできる余裕がある人には「第二の人生」でも、
「破産」状態に陥った人にとっては、悪夢でしかないだろう。
人生の終章で辛酸をなめる人には、どうやら共通項があるようだ。
            

日本文化史を研究するイタリア人、パオロ・マッツァリーノ氏は、
著書『「昔はよかった」病』(新潮新書)の中で、「昔はよかったね」と言って今を嘆き、
過去を懐かしんでばかりいるのが、日本の年長者の特徴だ、と看破する。

しかし、「老後破産」に追い込まれてしまった人が生きている「今」は、
誰がどう見ても、「昔はよかった」と言うほかないものである。

そして今、「昔」の「よかった」生活から、「破産」に近い状態にまで転落する人が激増している。
『老後破産 長寿という悪夢』(新潮社刊)がベストセラーになり、
誰もが「悪夢」にうなされかねない現実があるからだろう。

事実、「昔」のほうが、老後をすごしやすい環境が整っていたようだ。
貧困者の生活相談に乗り、アパートの連帯保証人を引き受けるNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の大西連理事長が言う。

「私たちが収入を得る要素は、労働、資産、家族の援助、社会保障の4つ。
そして国民年金は、社会保障以外の3つの要素がある前提で成り立っている制度なんです。

成人するまでは親に扶養され、学校を出たら働いて貯金する。
結婚して子供が生まれたら、家族を養いながらマイホームを買い、資産を作る。

そして定年退職を迎えたら、貯蓄と退職金、子供たちの援助に支えられて生活する――。
実際、昭和にはそうした社会モデルが一般的で、現在の社会保障制度は、こうしたモデルを前提に設計されている。

国民年金も、それ1本で、生活を成り立たせるための制度ではないのです」
            

ところが、そんな社会モデルが大きく崩れているという。大西氏が続ける。

「高度成長期には、正社員が当然で、終身雇用が前提で、企業福祉も充実し、妻が専業主婦でも家族を養う余裕があった。
しかし、現在は非正規雇用者が労働者全体の37%を占め、彼らは給料が低いので、資産を形成できず、
そんな状態では結婚して家族を養うこともできない。

要するに、収入の4要素のうち3つがない人が増え、昭和モデルが通用しなくなっているのです」

それでもまだ、自分は正社員だから、あるいは正社員だったからと、
対岸の火事の見物を決め込んでいる人が多いのではあるまいか。

だが、大西氏は、
「老後破産に陥る人は、一般企業の正社員だった人も多い。それなりに恵まれた家庭環境で育ち、大学も出た人が少なくないのです」
と指摘するのだ。

心身の病気、リストラ、親の介護のいずれかの理由で仕事をやめたケースが多く、
リストラを機に、離婚を切り出される例もあるという。

彼らが追い込まれる理由を、大西氏はこう解き明かす。
「そういう人は、自分がリストラされたり、熟年離婚せざるをえなくなったりしたとき、
“恥”だと感じて周囲や友人に言い出せません。

20代、30代ならともかく、40代や50代で今までの不自由のない生活から、
グレードを下げなくてはならなくなっても、周囲に同じような境遇の人はおらず、話しづらい。

それを引け目に感じ、友達づきあいも減ってしまうのです。
いざ転職先を見つけても、20代や30代の若者が上司ということが多く、孤立を深め、
精神的に病んでしまったり、相談できないまま、間違った選択肢を選んでしまったりするのです」
            

■日本独特の価値観に縛られ

大西氏はこんな例を挙げる。

「うちに相談にきた60代の男性は、元々は一般企業に勤め、年収500万円ほどでしたが、
50歳のころに母親が認知症を患い、介護に専念するために退職。

しかし再就職しようにも、50代では条件に見合う仕事は見つからず、
介護のストレスも溜まって鬱病になり、生活保護を受けています。

介護つきマンションや老人ホームを探せば、仕事を辞めずに済んだはずですが、
それでも自宅介護を選んだのは、“親の面倒は子が看る”という、日本独特の価値観があったからです」


似ているのが、離婚をきっかけに身を落とすケースだという。

「ある50代の男性は、40代でリストラに遭って離婚を切り出され、
持ち家と子供は妻に渡し、自分は賃貸アパートに一人暮らし。

そのうえ養育費を月々支払い、新しい仕事は見つからない。
リストラされたのなら、財産は半々にするなど、もう少し自分の人生設計を考えるべきでした。

離婚後に苦しむケースは、男性が財産分与の際に見栄を張り、ほとんどを妻子に渡してしまう場合もあるんです」(同)
            

全日本年金者組合東京都本部の年金アドバイザー、芝宮忠美氏(73歳)も、介護が足枷になる例を挙げる。

「最近、相談に来られた女性は、40代のころ母親の介護のために仕事を辞め、
母親が亡くなったときには、自分が50歳を超えていて、再就職もままならなかった。

それでも、老人ホームに入れることだけは“絶対に嫌だった”と言うんです。
結局、母親が亡くなると都営住宅から強制退去させられてしまい、私と相談した結果、生活保護を申請することになりました」
やはり“美徳”を優先して、自らの首を絞めてしまったのだ。
            

ところで、芝宮氏自身も「老後破産」に近い状態にあるという。

「私は同志社大学を卒業後、外資系のヒルトンホテルに就職して、最初の赴任地がアラブ首長国連邦の首都アブダビ。
その後はクウェートやイギリスなどを転々とし、52歳からはスウェーデンで、定年退職後、帰国しました。

当時の年収は700万円ほどで、妻と2人で普通の老後が送れると思っていましたが、
海外勤務が長く、厚生年金に未加入の期間があって、年金受給額は月7万円弱。

病気の妻の障害年金が約10万円ありますが、妻は人工透析を受けに週に3回病院に行くので交通費がかかり、
週2日のデイケアの費用も3万円ほどかかる。
そのほかの出費も積み重ねると、家賃4000円の都営住宅に住んでいても、毎月、収支はギリギリなんです」
            

だが、必死に介護したくなる家族がいる人は、まだ幸いなのかもしれない。

シニアの生活相談を行っている全国SLA協会事務局長の石寺弘子さんは、
「家族とのコミュニケーションが上手くとれているかどうかも、老後破産を防ぐうえで大事な要素」
と言って、実例を示す。

「全財産をはたいて二世帯住宅を建て、息子夫婦と同居を始めたものの、
何かにつけ嫁と揉めて嫌気がさし、家を出てアパートを借りた方がいます。

年金だけではやっていけませんが、財産はもうなく、
息子夫婦に家賃の支払いを求めたところが、取りあってもらえず困っている、という相談でした。

また、家族の問題で最近増えてきたのは、自立しない子供を抱えた親からの相談ですね。
働かない息子を抱え、生活の面倒は見てあげたいが、
自分が病気をして入院中に、預金を下ろされ使われてしまい、
退院したら生活費にも困る状態になっていた、という相談もありました」
            

■100円のお惣菜を半額で

さて、話を原点に戻すと、老後破産の“王道”は、なんらかの理由で、仕事を追われたケースである。
それは予期できないという点で、誰にも他人事ではない。

大阪で日雇い労働者やホームレスの生活支援に取り組む野宿者ネットワークの生田武志代表は、
「40代、50代のときに仕事を失い、再浮上できないまま破産状態に追い込まれる人もいます」
と言って、続ける。

「府内に住む60代の男性は、調理師として働き、30代のころは月に30万~40万円稼いでいたそうですが、
バブル崩壊の煽りで店が倒産。

40代から土木作業に転じますがケガが多く、50歳を前に解雇。
その後は転職もできず貯金も尽き、生活保護を受給しています。

やはり生活保護を受けている60代の男性は、大阪市内で複数のスナックを営んでいましたが、
倒産して借金を抱え、10年前に離婚。
住まいが奥さんの実家だったために住居も失い、自己破産してしまいました」

また、最近は若くして破産状態に追い込まれる人も多いと、こう続ける。

「ある20代の女性は、理系の大学院を卒業後、企業の研究機関に勤めていましたが、
企業がその事業から撤退して研究機関が廃止されてしまった。
レジ打ちなどのアルバイトをして過ごすものの、腰を悪くしたりして長く続かず、
転職活動もままならないうちに、精神的にも病んでしまった」

若者がこうなら、高齢者にはなおさら厳しいのは当然である。
            

都営住宅に住む66歳の男性が語る。
「鹿児島から上京して獨協大学に入学し、卒業後は浅草有線放送などで正社員として働きましたが、
競馬にはまったりして退職。

新聞の勧誘や清掃などをして過ごしました。
収入は月13万~14万円程度で、家賃は6万円。独身だし身体は丈夫なので生活できました。

ところが5年前、鷺宮のホテルの清掃の帰りに、新宿駅で腹痛に襲われて意識を失った。
急性腹膜炎で危険な状態だったらしくて、意識がないうちに手術され、3週間入院して50万円の医療費がかかった。

それは月賦で払うことにしたけど、もう体力がなくなって働けない。
生活保護を受けていますが、それが恥ずかしくて・・・。
食事は100円のお惣菜が、夜は半額になるのを狙って食べています」

続いて、やはり都内に住む69歳の男性の話である。
「18歳から自動車の組み立て工場で働き、20歳でやめて夜間学校に4年間通い、証券会社に正社員として入社しました。
給料もよかったのですが、職場にパソコンが入ってきて、それを使えずにクビになってしまった。

その後は警備員をしたり、飲食店で働いたりしましたが、月収15万円ほどで生活はぎりぎり。
独身で傾きかけた両親の持ち家があるから、なんとかなりました。
今は2カ月で16万円の年金だけで暮らしていますが、貯金はゼロで、食事は納豆と豆腐ばかりです」
            

前出の石寺さんは、
「今は医療の進歩もあって、高齢者の方も元気。
退職後を第二の人生ととらえ、アクティブに行動する人が増えましたが、
その分、交際費もかかり、生活を圧迫している場合もあります」
と言う。

たしかに、長生きのためには「アクティブであれ」と説かれるが、
アクティブに行動する余裕がある高齢者がどれだけいるのか。
また、アクティブな行動によって得られた長寿が、老後破産という悪夢と直結するなら、これほど皮肉な話はない。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は苦楽の激しい中小業の民間会社に35年近く奮戦して、何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

やがて出向先で定年を迎え、敗残者のようなサラリーマン航路を歩んだ為、
サラリーマン人生の哀歓は強く知っているひとりである。
そして、この間、私たち夫婦は幸いにも大病に無縁であった。

こうした中で、ひとつの歯車が狂えば、今日の私たち夫婦の年金生活は叶うことがないので、
今回の記事を読み続ける中、溜息を重ねてしまい、やがて涙を浮かべてしまった・・。
            

過ぎし2011年(平成23年)の7月下旬のある日、
いつものように午前中のひとときに、駅前のスーパーに向かい買物に行った。

その後はいつものように本屋に立ち寄った時、過日の読売新聞の出版広告で、
たまたま中央公論新社の新書本の案内のひとつで、
西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』を知り、
いずれは読んでおきたいと感じたりしたことを思い出して、本書を手に取ったりした。
            

そして解説文を読んだりした・・。
《・・認知症、病気、詐欺、事故、子どもの失業――老後の生活にはさまざまなリスクが潜んでいる。
そして一度問題が生じると、周囲に気づかれないまま生活が破綻してしまうことも、
現代の日本社会では少なくない。

高齢者を助けるサービスはたくさんあるのに、なぜ十分に活用されないのか。
苦しむ高齢者を一人でも減らすため、また、自分や家族がそうした事態に陥らないために、何が必要なのか。
豊富な実例とともに考える。・・》

そして私は帰宅後、最優先に読み終えた後は、
長い老後を安らかに生きる為の教科書のひとつだ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

本書の中では、《高齢社会の現実》の章に於いては、《高齢化の特徴》、《健康》、《血縁と地縁》、《家計》、
《事例で見る生活破綻》の章に於いては、《判断力の低下》、《健康状態の変化》、《予期せぬ事故・災害》など、

或いは《高齢者特有のリスク》の章に於いては、《生活破綻の実態》、《セルフマネジメント能力の低下》、《人間関係の変化》など、
そして終章の《高齢者の生活破綻を防ぐために》に於いては、多々実例を記載されている。
            

こうした本書は、齢を重ねた高齢者にとっては、誰しもが避けて通れない切実な難題が明記されているので、
これ以来、私は貴重な教科書としている。

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『春分の日』、私たち夫婦は長兄宅に行き、やがてお墓参りを重ねて、早や38年が過ぎ・・。

2016-03-20 14:50:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京都の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後38年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、毎年『春分の日』の日は、私たち夫婦は私の生家の実家となっている長兄宅に行き、
仏壇に安置されている位牌にお線香を捧げた後、
長兄夫婦と他愛ない話をした後、お墓参りに行っているのが、恒例のようになっている。

私はお墓参りは、生者の死者に対する慰めと思ったりしているが、
1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
両親、祖父、親族、祖先のお陰で、私がこうして生きていられるので、
感謝の意味から墓前にお線香、花をささげて手を合わしている・・。

このように、この日の『春分の日』、『お盆の日』、『秋分の日』、そして『母の命日』、
年にわずか4回ばかりであるが、私たち夫婦はお墓参りをしている。
            

今朝、快晴に恵まれた青空の中、9時過ぎに長兄宅に行き、
長兄夫婦と私に取っては甥っ子となり長男夫婦と2時間半ばかり談笑したりした。

こうした中で、今年の誕生日を迎えと長兄は77歳、義姉は70歳となり、
私も72歳、家内は67歳を迎えることとなるので、
お互いに無理しないで過ごしましょう、と語り合ったりした。

こうした間、父の末妹の81歳の私に取っては叔母、そして父の三妹のご子息60歳も来宅されて、
60代、70代、そして80代に遭遇しやすい病気の話題、或いは住まいの地域の変貌など、
談笑しながらお互いに打ち明けたりすると、話が尽きることはなく、いつもより長らく話し合ったりした。

やがて私たち夫婦も長兄宅を辞した後、
私たち夫婦は小田急線の『狛江駅』まで路線バスで行き、そして徒歩5分ぐらいにあるお寺まで行ったりした。

いつものように山門から私たち夫婦は入り、
              
             ☆昨今プライバシー(個人情報)の保護に伴い、たまたま一昨日に散策に私は訪れて、撮った☆

            

            

寺院の境内は、大きな樹木が数多くあり程広く、ご家族連れが多く、にぎわう中、
私たち夫婦はお墓に向った。
            
       
この後、私たちは私を育ててくれた祖父、父、母、次兄などが永眠しているお墓の墓石を水で清め、
駅前で買い求めた生前の母が好きだったお花を奉(ささげ)、お米を備えた。
そして、お線香を奉げた。

お線香の紫煙が立ち昇る中、祖先はもとより、祖父、父、母、次兄などから、改めて私は見守られて日々を過ごしている、
と私は感謝をしながら、手を合わしたりした。

こうした思いを重ねたりした後、毎年ながら母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時に病死され、
その1年を過ぎた後、まもなく祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

こうした確かな記憶の片隅から、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、表情、言葉づかいが想いだされる・・。

そして生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。
            

まもなく青空の中、お線香の煙が芳香を残して、
澄み切った空の中にゆったりと、立ち昇りながら消えていった・・。


やがて寺を辞した後、現実の身過ぎ世過ぎの生活に帰った。

そして駅前のスーパーで、昼食代わりに季節にふさわしい華やいだお弁当を買い求めて、
駅前より路線バスに乗車して、帰宅したのは午前12時半過ぎであった。

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『老いてますます楽し 貝原益軒の極意』を少し学び、つたない私でも瞬時に魅了されて・・。

2016-03-19 15:06:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昨夜11過ぎから降りだした雨は、本日の午前中には本降りとなり、
平素の買物メール老ボーイの私は、買物、そして散策も取りやめとした。

そして新聞を読んだり、テレビでニュースを視聴した後、
愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を見たりしていた・・。

こうした中で、【 江戸のグルメブームに歯止めをかけた腹八分精神 】と見出しを見て、
どのようなことなょ、とクリックして精読してしまった。

やがて読み終わった後、つたない人生航路を歩んできた私でも、瞬時に魅了された・・。

この記事は、【ダイヤモンド・オンライン】の【ライフ】の【長寿の食卓】に於いて、
小説家・料理人の樋口直哉さんの【 あの人は何を食べてきたか 】の連載記事のひとつである。

この原文は、樋口直哉さんの著作『老いてますます楽し 貝原益軒の極意』より、
編集部が少し編集し、昨年2015年10月8日に配信されていた記事であり、無断ながら転載させて頂く。
            

《・・貝原益軒は、江戸時代中期の儒学者。
その学問領域と残した著作の幅は広く、幕末に来日したシーボルトは「日本のアリストテレス」と賞賛した。
83歳の時に書き残した健康指南書の『養生訓』は、現在でも読み継がれている名著だ。

1630年に筑前・福岡に生まれた益軒は、虚弱な子どもだった。
外で遊べない幼少期が書物と向き合う時間をつくり、父から医学や薬物、食物の性質などを学んだことが
晩年、世に送り出す『養生訓』のベースになった。

益軒は日常の中で、食を重視していた。
それは『養生訓』全8巻のうち、2巻を飲食に充てていたことからもよくわかる。

具体的には「薄味」「脂っこいものは避ける」「なま物、冷たい物、かたいものも禁物」
「汁物は一種類、肉も一品に、おかずも一つか二つくらいにとどめる」といったものだ。

他に「腹八分を心がけること」など驚くべきことに、現代の栄養指導とほぼ同じである。
益軒の食生活は野菜中心だったようで、そのあたりにも江戸時代に85歳まで生きた理由があった。

ちなみに『老いてますます楽し 貝原益軒の極意』という本の著者、山崎光夫氏は、
この腹八分精神は益軒の『養生訓』がベストセラーになったことで、庶民の間にも定着したものだ、と推察していている。

当時、武士の食習慣が変わり、1日3食になったことが影響しているという。
この時期さらに1日4食を習慣とする武士たちも現れ、また元禄時代は今でいうグルメブームだったこともあり、
益軒はそうした流れに歯止めをかける意味で、腹八分を提唱したという。
            

かといって益軒は“べからず”ばかりの堅苦しい人間ではなかった、と前述の山崎氏は解説する。

「みづから楽み、人を楽まめて、人の道を行はんこそ、人と生まれるかひ(甲斐)有りて」

81歳の著作『楽訓』の一節である。
『養生訓』が体の健康書なら、『楽訓』は心の健康書。
どちらも人生の本質を楽しみとする哲学で貫かれている。

「益軒にとっては、長命は目的ではなく、“楽しむ人生”のための一つの手段だった」と山崎氏は言う。

「怒ってから食事をしてはいけない」「心配事をしながら食べてはいけない」「体を動かし」「心を平静に」「毎日に楽しみを見つける」

そんな当たり前のことが書かれた『養生訓』は、300年前の知恵の宝庫。
現代は当たり前のことが、わからなくなる時代だ。

時々は深呼吸するような気持ちで、古い本を開きたい。
昔の人たちがいろんなことを教えてくれる。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私が読み終わった後、つたない私でも瞬時に魅了されては、
《・・長命は目的ではなく、“楽しむ人生”のための一つの手段だった・・》
と一節であり、特に《・・「毎日に楽しみを見つける」・・》は、深く同意させられたりした。

私は殆ど毎日、自宅から3キロ範囲にある遊歩道、小公園を独りで歩きながら、
過ぎ去った日々に愛惜をしたり、これから到来する未知の日々に希望を託して、
70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして知的好奇心が衰えず、相変わらず随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている時もある。

こうした中で、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで歩き廻ったりして、 季節の移ろいを享受している。
            

そして食習慣は大切であり、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えない場合は、タマネギが代用としている。

こうした時は、タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

こうした後、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、
やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。
        
家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

昼食はフランスバンを三分の一ぐらい私は食べたりしているが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。
そして昼食は、お互いに自由な時間で頂いているのが、実態となっている。
            

やがて夕食の時は、私は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
ブロッコリーを食べている。

そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、
私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、男の癖におしゃべりで、
家内と談笑をしたりしている。

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60歳以上の糖尿病治療は、「食べなさすぎ」「動き過ぎ」に注意と学び、私は微苦笑させられて・・。

2016-03-18 14:19:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中は定例スケジュールのように、家内から依頼された品を求めて独りでスーパーに行った後、
帰宅後も独りで近く遊歩道、小公園を一時間ばかり歩いたりした。

昼食後、ぼんやりとネットでニュースを見ていると、
【 60歳以上の糖尿病治療 「食べなさすぎ」「動き過ぎ」に注意 】
と見出しされたタイトルを読み、どういうことなの、と思いながらクリックしてしまった。

やがて記事を読み終えた後、本当かしら・・、と微苦笑させられたりした。

この記事は、『週刊ポスト』の2016年3月25日・4月1日号に掲載された記事のひとつで、
関連の『NEWS ポストセブン 』に於いて、3月18日11時過ぎに配信された記事であり、
無断であるが転載させて頂く。
            

《・・「糖尿病」は予備群を含めれば、患者の数は2000万人に及び、日本人の国民病ともいえる。
ところが、同じ病名なのに60歳を境に、合併症の危険や治療の常識が変わるという。
では、60歳未満と以上とでは、治療法にどんな違いがあるだろうか。

糖尿病は食事療法を中心とした生活習慣の改善が基本であり、その後に薬物療法を開始する点は、どの世代も変わらない。
しかし、その実践内容は60歳を境に、変化する。

まず「食事療法」に関しては、年齢によって指導が大きく異なる。
芝浦スリーワンクリニックの板倉広重名誉院長が解説する。

「50代までは、カロリーに気を配る必要があり、特に炭水化物の取りすぎには、注意すべきです。
それに対して60歳以上は老化によって、何もしなくても段々と身体の新陳代謝や免疫力が落ちていきます。

また食欲も衰えて、食事の量も減りがちになります。
そうなると代謝や免疫力がますます落ちてしまう。

よって肉や大豆など、たんぱく質が含まれる食品を積極的に摂取して、
体力や身体機能を維持することを心がけるべきです」

若い頃より食事量が減ってくることを当たり前と受け止めるのではなく、
むしろ注意を払うべきだというのだ。
            

次に、生活習慣の改善というと、まず運動が思い浮かぶ。
「若い世代は、運動による体重管理が有効です。
できれば毎日の習慣的な運動を心がけてもらいたい」(前出・板倉名誉院長)

一方、60歳以上は「動きすぎに要注意」と指摘するのは、北品川藤クリニックの石原藤樹院長だ。
「運動は糖尿病対策として非常に大事ですが、高齢になるほど、体に負担の少ない動きを心がけるべきです。
過度の運動は心臓に負担をかけたり、関節痛や転倒の原因となります」・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で直ちに年金生活に入り、
現役サラリーマン時代は悪戦苦闘が多かった為か、解放感で高揚したりした・・。

こうした中で、純米酒の辛口が好きの私は、晩酌の時は現役時代と同様に2合、ときには3合を呑んだり、
或いはビールの時は500mlの缶ビールを数本を呑んだりした。

ときには日中に小庭のテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、缶ビールを呑みながら、
最後の出向時代の5年間は、何かと大変だったなぁ、と思い重ねたりした。

この結果、身長は170センチ、体重は70キロだった私は、毎年少しずつ体重が増えてしまった・・。
         
この当時の私は、朝食は白米のご飯を腹いっぱい食べながら、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬けなど、
そして魚を煮たり焼いたりする代わりに、せめてと思いながらシャケの瓶づめ、或いは鯖(サバ)の味噌煮の缶詰が、
日々貫徹のように食べたりしていた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』が、
何かと心身の波長に合ったりしていた。

そして夕食は牛肉、豚肉、ラム肉、鶏肉などをそれぞれの日に於いて、たらふく食べたりしてきた。
                                
        
やがて2008年(平成20年)の秋に健康診断を受診した後、肥満体と診断されたり、
その後の2010年(平成22年)の秋に健康診断の結果、『糖尿病で、内科に受診して下さい』と明記され、
私は青色吐息のような表情で、内科の医師のアドバイスを頂いたりした。

そして医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。

この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。

       
そして朝食前、夕食前に大きな皿にキャベツとニンジンの千切りした盛り合わせを大皿で食べたりしている。
こうした結果、朝食のご飯は半分ぐらいとなり、夕食の食べる肉も減少した。

これ以来、キャベツは愛食となっているが、寒さを感じる時節は、電子レンジで少し温めて、
ミッカンぽん酢か、ときにはもずく三杯酢をかけて盛大に頂いている。

しかしながらキャベツは、もとより農作物であり、天候の不順で不作の時はスーパーなどの店頭にない時は、
サニーレタス、或いはタマネギを代用している。

タマネギの場合は、スライスし、ワカメであえて、ミッカンぽん酢をかけて、
盛大な前菜としている。
                       

そして私は晩酌の缶ビールの350mlを2本さえも取りやめて、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。

昼食は婦女子のようなフルティ・ランチで、リンゴを一個、そして柿一個としたり、
或いはフランスパンを4分一ぐらい食べたりした。

その上、散策は時速3キロぐらいの歩みから、時速6キロぐらいのウォーキングとなり、
汗をかきながら最低30分は歩き廻り、ほぼ毎日していた。

この結果、体重は74キロとなり、4キロばか減少し、
ズボンの腰回りも楽になり、ベルトについている穴も2つばかり減り、
何かしら身体が軽快に成ったと微笑んだりしていた。
          
この間、私は最寄の内科に3週間毎に定期健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外はすべて優等生となったのは、2011年(平成23年)の3月の初旬であった。
                                         
かって呑兵衛と自任してきた私は、平素の夕食に煎茶でもまったく違和感が感じることなく、
過ぎている・・。

このように私は20代から何かと日本酒、ビールを中核にワイン、ウィスキーも呑んできたが、
歌を忘れたカナリヤのようにアルコールから遠ざかり、
国内旅行、冠婚葬祭、或いは懇親会、そして我が家で週に一度ぐらい呑むぐらいとなり、激少となった。
            

この後、国内旅行で家内と共に各地を幾たびも行ったりすると、
やはり宿泊処で地酒を呑んだりしてきたが、体重が増えてしまった。
          
やむえなく糖分の多い日本酒とお別れして、ウィスキーに氷を入れただけのオンザ・ロックとし、
弱くなったので少しだけ水を入れた濃いめの水割りで呑むこととした。

そして糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとなっている。

ここ数年は、お世話になっている最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ3年ぐらいは悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。

そして私は世の中に数多くの健康食品よりも、キャベツ、タマネギ、ブロッコリーをこよなく愛食して、
早や5年生となっている。
                    
私はこれまでの60代の10年の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
そして私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
            

このように過ごしてきた私は、今回の記事を読み、「食べなさすぎ」そして「動き過ぎ」に、
微苦笑させられたりした。

私は最寄の内科専門医院に4週間毎に定期健診を受けているが、前回、
『少し血糖値が前回よりも高くなっていますので・・もう少し歩いて下さい』
と医院長より私は言われたりした。

私は思い当たることは、4週間には小雨の一日、家内のお供で都心に買物に行き、
散策を中止してしまったことを思い浮かべたりした。

そして《・・体に負担の少ない動きを心がけるべきで・・
過度の運動は心臓に負担をかけたり、関節痛や転倒の原因となります・・》と今回の記事で明示されても、
どうしたらよいのょ、と苦笑し、やがて何事も程ほどにだよねぇ、と微苦笑したりした。

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