私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝6時に起床して、やがて朝食を頂いたりした。
家内は家内の母宅に介護で行っているので、我が家は私が独りぼっちの『おひとりさま』となり、
朝食は前菜として冷凍のブロッコリーを電子レンジで温めて食べ、そしていつもように一汁七菜で頂いた後、
休むと台所が汚くなるので、人生は気合だ、と自身を叱咤激励した・・。
そして家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、台所で皿洗いを始めた。
食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、それぞれの茶碗、皿などに丁重に擦(こすっ)たりした後、
盛大に水道水で洗い清めたりした・・。
こうした時、どうした心情が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていた。
そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し 君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。
この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。
そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
やがて自宅の近くにある遊歩道を散策すれば、桜花が五分咲きが多く、私は微笑みながら歩いたりした。
そして私は木のベンチに腰を下ろして、桜花を見上げたりしてた。
こうした時、過日、ネットで読んだ『長寿祝いは人生の祝勝会』とコラムが思いだされた・・。
毎日新聞の週刊誌『サンデー毎日』連載されている『人生の四季』に於いて、
2016年3月6日号に掲載されたコラムであった。
無断であるが、転載させて頂く。
《・・先日、知り合いの編集者が「還暦」を迎えたので、お祝い会を開いた。
まずはホテルのBARで待ち合わせ、シャンパンで乾杯。
その後は食事して、スナックでカラオケという、いわゆる「おじさんコース」である。
近年、30歳前後を「アラサー」、40歳前後は「アラフォー」、50歳前後は「アラフィフ」と呼ぶ。
60歳前後は伝説の名俳優・嵐寛寿郎を思わせる「アラカン」と言うそうだ。
還暦は第二の誕生とされ、生まれ直すとの意味合いで、赤子のように赤色の衣服や頭巾などを贈って祝う。
還暦に贈る赤色は、赤子に贈る赤い品々になぞらえているという。
では、なぜ赤色なのだろうか。
赤色は、朱色や紅色なども含めて祝意を表すもので、縁起物や祝い事の膳椀(ぜんわん)、酒樽(さかだる)などに使われた。
魔除(よ)けの意味でも、赤色は重視されたようだ。
わたしは、赤のチャンチャンコの代わりに、「還暦祝い」として、
その人にラルフローレンの赤いVネックセーターをプレゼントした。
日本には、長寿祝いというものがある。
数え年で61歳の「還暦」、70歳の「古稀(こき)」、77歳の「喜寿」、
80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」などだ。
そのいわれは、次の通り。
還暦は、生まれ年と同じ干支の年を迎えることから暦に還るという。
古稀は、杜甫(とほ)の詩である「人生七十古来稀也」に由来。
喜寿は、喜の草書体が「七十七」と読めることから。
傘寿は、傘の略字が「八十」に通じ、米寿は八十八が「米」の字に通じる。
卒寿は、卒の略字の「卆」が九十に通じる。
そして白寿は、百から一をとると字は「白」になり、数は九十九になるというわけである。
沖縄の人々は「生年祝い」として、さらに長寿を盛大に祝う。
それらは高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であることを示し、
「人は老いるほど豊かになる」ということをくっきりとした形で見せてくれる。
長寿祝いとは、大いなる人生の祝勝会なのである。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた。
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
一昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されて71歳となっている。
ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受し、大病に遭遇せず、70代も継続している・・。
こうした中で、厚生労働省は2015年7月30日に公表した、
2014年(平成26年)における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳となっている。
私が小学一年生の1951年(昭和26年)の当時は、男性が60.80歳、女性が64.90歳であり、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時は、男性が67.67歳、女性が72.87歳であったので、
数え年で61歳の「還暦」祝いをされた家庭も多かったと思われる。
現代では、長寿祝いは、77歳の「喜寿」祝いからかしら、と微笑んだりした。
私の父は私が小学2年の時に病死され、私の母は何かと人生の大半は労苦が多く、60代からは安楽の生活を過ごしてきたので、
せめて77歳の「喜寿」祝いを私たち兄妹は、罪滅ぼしを兼ねて出来る限り盛会としたりした。
このようなことを思い浮かべ、『サンデー毎日』の『人生の四季』をコラムで綴られている御方、
《・・長寿祝いは人生の祝勝会・・》と名言された感性に、私は脱帽している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村
今朝6時に起床して、やがて朝食を頂いたりした。
家内は家内の母宅に介護で行っているので、我が家は私が独りぼっちの『おひとりさま』となり、
朝食は前菜として冷凍のブロッコリーを電子レンジで温めて食べ、そしていつもように一汁七菜で頂いた後、
休むと台所が汚くなるので、人生は気合だ、と自身を叱咤激励した・・。
そして家内から借りた可愛らしいエプロンを着て、台所で皿洗いを始めた。
食器専用の洗剤液をスポンジにたらし、それぞれの茶碗、皿などに丁重に擦(こすっ)たりした後、
盛大に水道水で洗い清めたりした・・。
こうした時、どうした心情が解からないが、
♪嵐も吹けば 雨も降る・・と大津美子さんの『ここに幸あり』の歌を、かぼそい声で唄っていた。
そして♪・・女の道よ なぜ険(けわ)し 君をたよりに わたしは生きる・・
と唄ったりした。
この数分後、家内や私の妹も団塊世代の人であり、専業主婦が多く、
妻が専守防衛長官ように家庭内を維持管理していたので、もとより発言力も増し、
まして平成の時代になると、共稼せぎの多い時代に変貌してきたので、
この歌の内容は、死語だょねぇ、と苦笑したりしていた。
そして私は微苦笑しながら、確か1956年(昭和31年)の私が小学5年生の時に、
ラジオから盛んに流れていた歌だったので、
俺も古い人間でやはり齢は隠せない・・、と思ったりした。
やがて自宅の近くにある遊歩道を散策すれば、桜花が五分咲きが多く、私は微笑みながら歩いたりした。
そして私は木のベンチに腰を下ろして、桜花を見上げたりしてた。
こうした時、過日、ネットで読んだ『長寿祝いは人生の祝勝会』とコラムが思いだされた・・。
毎日新聞の週刊誌『サンデー毎日』連載されている『人生の四季』に於いて、
2016年3月6日号に掲載されたコラムであった。
無断であるが、転載させて頂く。
《・・先日、知り合いの編集者が「還暦」を迎えたので、お祝い会を開いた。
まずはホテルのBARで待ち合わせ、シャンパンで乾杯。
その後は食事して、スナックでカラオケという、いわゆる「おじさんコース」である。
近年、30歳前後を「アラサー」、40歳前後は「アラフォー」、50歳前後は「アラフィフ」と呼ぶ。
60歳前後は伝説の名俳優・嵐寛寿郎を思わせる「アラカン」と言うそうだ。
還暦は第二の誕生とされ、生まれ直すとの意味合いで、赤子のように赤色の衣服や頭巾などを贈って祝う。
還暦に贈る赤色は、赤子に贈る赤い品々になぞらえているという。
では、なぜ赤色なのだろうか。
赤色は、朱色や紅色なども含めて祝意を表すもので、縁起物や祝い事の膳椀(ぜんわん)、酒樽(さかだる)などに使われた。
魔除(よ)けの意味でも、赤色は重視されたようだ。
わたしは、赤のチャンチャンコの代わりに、「還暦祝い」として、
その人にラルフローレンの赤いVネックセーターをプレゼントした。
日本には、長寿祝いというものがある。
数え年で61歳の「還暦」、70歳の「古稀(こき)」、77歳の「喜寿」、
80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」などだ。
そのいわれは、次の通り。
還暦は、生まれ年と同じ干支の年を迎えることから暦に還るという。
古稀は、杜甫(とほ)の詩である「人生七十古来稀也」に由来。
喜寿は、喜の草書体が「七十七」と読めることから。
傘寿は、傘の略字が「八十」に通じ、米寿は八十八が「米」の字に通じる。
卒寿は、卒の略字の「卆」が九十に通じる。
そして白寿は、百から一をとると字は「白」になり、数は九十九になるというわけである。
沖縄の人々は「生年祝い」として、さらに長寿を盛大に祝う。
それらは高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であることを示し、
「人は老いるほど豊かになる」ということをくっきりとした形で見せてくれる。
長寿祝いとは、大いなる人生の祝勝会なのである。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。
そして最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となり、やがて出向先で定年を迎えた。
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えて、定年を迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
一昨年の9月に古稀と称される70歳となり、何とか70代の入門が許されて71歳となっている。
ときおり60代の10年間の年金生活を振り返る時は、
ここ7年前の頃から、世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
セカンド・ライフに於いて、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。
そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受し、大病に遭遇せず、70代も継続している・・。
こうした中で、厚生労働省は2015年7月30日に公表した、
2014年(平成26年)における日本の平均寿命は、男性が80.50歳、女性が86.83歳となっている。
私が小学一年生の1951年(昭和26年)の当時は、男性が60.80歳、女性が64.90歳であり、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時は、男性が67.67歳、女性が72.87歳であったので、
数え年で61歳の「還暦」祝いをされた家庭も多かったと思われる。
現代では、長寿祝いは、77歳の「喜寿」祝いからかしら、と微笑んだりした。
私の父は私が小学2年の時に病死され、私の母は何かと人生の大半は労苦が多く、60代からは安楽の生活を過ごしてきたので、
せめて77歳の「喜寿」祝いを私たち兄妹は、罪滅ぼしを兼ねて出来る限り盛会としたりした。
このようなことを思い浮かべ、『サンデー毎日』の『人生の四季』をコラムで綴られている御方、
《・・長寿祝いは人生の祝勝会・・》と名言された感性に、私は脱帽している。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村