夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて数多くの皆様には、感謝の一言です・・♪

2008-12-31 15:33:04 | 定年後の思い
私は定年退職後、年金生活の5年生の64歳の身であり、
身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしているが、
私は小説、随筆などの読書に続いて、
文章を綴るのが好きなので、日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
真摯に、ときには楽しく綴ったりしてきた。

そして、人それぞれ誰しもが光と影を持ちあわせているが、
つたない私もささやかな光、秘められた影があり、
余すところなく綴ったりしてきた・・。

昨今、このサイトに綴ることが生きがいのひとつになっていますので、
数多くのお方にお読み頂き、感謝の一言です。


何よりも数多くの皆様の投稿文を拝読し、
それぞれの人生を過ごされていると改めて感じてながら、
ご教示を頂いたり、感銘を受けたり、
ときには数多く人から励まされたりして、拝読しているのが本音である。


我家では、大晦日の今宵は、お年取りのささやかな酒宴を致しますので、
今年の最後の投稿となります。

今年も暗いニュースが余りにも多く、憂(うれ)いたりしましたが、
来年こそは明るいニュースでお互いに笑いあったりしたい、と祈願しています。

皆様には、良いお年とお迎え下さい。





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されど、年末の風物詩・・!?

2008-12-31 11:38:15 | 定年後の思い
私は大晦日か、と改めてカレンダーを見て、
今年も早くも平成20年もお別れか、
と感慨深げに思ったりしていた・・。

先ほど、私がここ4年ばかりこのサイトで大晦日に綴った
古来からの良き風習などの風物詩のような拙い綴りを読んだりして、
微苦笑したりしていたのである。


一昨年は、
【『年越し蕎麦(としこしそば)』の由来は・・♪】
と題して、投稿している。

【・・
大晦日の夜、我家では『年越し蕎麦』の習慣はなくなり、
江戸前寿司とか御節料理の単品を好きなように食べたりしている。

私が幼年期には、祖父、父が健在の時は、お蕎麦を頂いたりしていた。

先程、『年越し蕎麦』の由来を調べていたら、【日本文化いろは事典】に於いて、
明確に掲載されていた。

無断であるが、引用させて頂きます。

【・・
大晦日の風物詩である年越し蕎麦は、
江戸時代から食べられるようになりました。
金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を使ったことから、
年越し蕎麦を残すと、翌年金運に恵まれないと言われています。

また、江戸時代の町人は、大晦日になると借金の返済に追われていました。
これは、年内に借金を返済し、新しい気持ちで新年を迎えたいという人が多かったからである。
・・】
以上、無断であるが引用させて頂きました。

現世の日本で、金策に追われ年を越すのは、極く一部のお方と思われるので、
食べ物に関しては世界で一番贅沢な国民生活となって折、
消え去った風物詩として懐かしく感じたりしている。

・・】


そしてこの日は、続編として、
【『大晦日』の由来は・・♪】
と題して、再び投稿したりしていた。

【・・
東京の郊外は、澄み切った快晴を迎え、日中は9度前後ののどかな日を迎える。

朝、戸を開けると、主庭は黒土に昨日から霜柱がうっすらと見える。
朝の陽射しを受ければ、たちまち消え去るので、いとおしくも感じられる。

今日は『大晦日』と云われているが、
齢を重ねた今の私は無知であったので調べだした。

知識人・藤野邦夫に寄れば、
【・・
毎月の最後の日を『みそか』というのは、『30日(みそか)』からでたものであり、
特に一年の最後の12月31日を『大みそか』とよんでいる。
・・】

尚、【日本文化いろは事典】に寄れば、
【・・
『晦日(みそか)』とは、毎月の末日であり、一年の最後の日を『大晦日』と記載されている。
・・】

いずれも、おおそれた意味合いがないが、
私なりに一年の最後の日、心穏(おだ)やかに過ごそうと思っている。

・・】



昨年の日になると、たわむれに、
【『どうして・・寒い時に新しい年になるの・・?』】
と題して、投稿したりしていたのである。

【・・
私は昨日、散策と買物に出かけたが、
ご近所の男の子の2人を連れたご婦人に逢った・・。

私は亡き母のおしゃべりな血を受けているので、
ご近所の方、無知な人とでも、よく声を掛けたり、
社交辞令をしている。

特に定年退職後の4年生の身であるので、
日中のひとときは買物のついでに散策をしたりしている。

こうした折、ご近所の方、買物先で無知な人と、さりげない会話をしているのである。

昨日は我家の数軒先のお宅の方たちで、上の男の子とは、
ときたま下校時に出会って、子供じみた挨拶を交わしている1人であった。

『小父さん・・ちょつと・・教えて・・
どうして・・寒い時に・・新しい年になるの・・』
と10歳ぐらいの男の子が私に訊(たず)ねた。

『今年も・・もう直ぐに終りだし・・
お正月から・・なぜ新しい年になること・・?』
と私は男の子に云った。

『う~ん・・・そうだょ』
と男の子は私の見つめ云った。

私は若き頃から雑学の雄、と秘かに思っている身で、
20代の前半の時代には総合雑誌の『世界』から男性娯楽雑誌の『平凡パンチ』まで、
広範囲に読んでいたのである。

しかし、私でも正直な所、判らない事も数多いのである。
『小父さん・・帰ってから・・ボクに電話するからねぇ・・』
と私は男の子に約束して、難を逃れたのである。

私は帰宅後、色々と調べたが、一番判りやすいのが、
30分過ぎて判明した。

知識人・藤野邦夫に寄れば、

【・・古代の人達は・・すべてのものは死んで滅びることによって、
新たに生き返ることができるという考え方があった・・

たとえば植物は、枯れて朽ち果てることによって種を残し、
新しい生命として再生することができる・・

太陽が沈んで、いったん死ぬことによって、
翌日また生まれ変わり、再び輝くことができる・・

これらと同じ様に、一年も春先から、次第に日が長くなっていって成長し、
一番昼の長い『夏至』で成長しきった後、衰退に向かうというのが、
古代達の共通した感じ方だった・・。

そして、昼の時間の一番短い『冬至』の日に、一年は死に絶えることとなり、
その翌日に新しい一年が生まれて、
少しずつ日が長くなると考えられいた・・

古代人達が冬至の次の日を一年のはじまりとした・・

・・】
このように藤野邦夫・編の『幸せ暮らしの歳時記』に明示されていた。


私は10歳の男の子が理解しやすいように、
庭先に下り立ち、煙草を喫いながら、考えた。

その後、30分した頃に電話をし、
『小父さん・・ありがとう・・ボク・・判ったょ・・』
と男の子の明るい声を聴いて、
私は安堵した。

私は大学教授のように専門基礎知識はないのであるが、
人生63年の苦楽を共にしてきたので、雑学の身は健在かしら、
とこの晩の純米酒の辛口は、特別に美味しく感じたのである。

・・】


このように綴ったのを読んだりしていると、
私も齢ばかり重ね、体力も衰え、少しボケてきたのかしら、
と苦笑したのである。



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大晦日を迎えても、『年々歳々 花相似 ・・』・・♪

2008-12-31 08:50:23 | 定年後の思い
私は民間会社を定年退職後、年金生活の5年生の身であり、
大晦日を迎えて朝、何を綴ろうかと思案したりしていた。

やむえず、このサイトを開き、過去の綴った投稿文を読み返していた・・。


定年退職後、直ぐに年金生活に入り、まもなくブログの世界を知り、
初めての年末を迎えた時、平成16年(2004年)に、
あるサイトに投稿した文のひとつである。

【『冬のソナタ』に寄せて・・。】
と題して、投稿しているが、再掲載をする。

【・・
家内と昨日の夕方、駅前に買物に行く。
街は歳末の雑踏だった。

スーパーの一軒に家内が入り、私は入り口に近い所にある、小さめの家電量販店に佇んでいた。

『冬のソナタ』の主題歌が流れてきた・・。

振り向くと、量販店の店頭にテレビ販売のデモとして、『冬のソナタ』のビデオを放映していた。

三人の家族連れで、五十歳前後の奥さんがこの『冬のソナタ』を見て、
二十五歳前後の娘に『あら・・』と見入っていた・・。

主人の方は、『なんで、こんなのがブームになるのか、俺はわかんねえ・・』
と奥さんを急きたてた。

私はこの主人について、
奥さんとコミニューケションを日頃から取っているのかしら、と疑った。


以前、眠りが浅く、深夜目覚めたとき、
何気なしにテレビを点けたら、『冬のソナタ』を放映していた。

一時間半前後、見ていたが、
この監督は岩井俊二・監督の『Love Letter』《中山美穂・主演》の映画に影響を受けている、と直感した。

『冬のソナタ』は甘くせつない作品で、ありふれた作品であり、
ただ切り口が巧いと思えた。

日韓の文化交流の一環として、貢献出来た事は喜ばしい、と感じている。


一部の男は家庭を守る上で、会社人間になり、
妻の従順に甘え、五十歳を過ぎた頃、子供は成長を見て、順風と錯覚しまう。

妻側からして、世間並みの生活が保ってきたが、空虚さを感じ始める・・。

主人に『あたしを見つめて・・』と言いたいが、主人は気づかない・・。


『冬のソナタ』の主演男優に夢中になっている四、五十歳台のご婦人をみると、
このように感じてしまうのである。
若い二十歳前後の女性ならともかく、お気の毒ですね、と思う。

何はともあれ、日韓の交流の一環として、日韓がより一層深まってくれるよう、
切望する次第です。

尚、家内は『冬のソナタ』には、興味を示すことなくはない。

・・】



翌年の大晦日になると、
【 一年を振り返り時・・♪】
と題して、投稿している。

【・・
東京の郊外は、早朝は強い風が吹き、目覚めた・・。

先程まで煎茶を淹れたり、家内のコーヒーを枕元に置いた後、
新聞を読んだりしていた。

先程、玄関庭に出たら、風は微風に変わり、
陽射しが何時ものような情景となった。

穏やかな静寂の大晦日の朝である。

昨夜、家内の母が、予定通り夜の7時過ぎに来宅して、
夕食をしたが、やはり話題は、ここ一年を振り返る話に尽きた・・。

私は弐合徳利をお替りして、数の子、祝い鯛、蒲鉾、ゆずの輪切りを食べながら、
色々と話し込んだ。

しばらくした後、眠くなったので、煎茶を枕元に於いて、
文庫本を持ち込んで数ページ読んだ時、眠りについた・・。

さしずめ、この本は歴史学者のA.L.サッチャー氏の『燃え続けた20世紀』である。

この本は、10回前後、読み返している本である。

社会、政治、外交、軍事、経済、宗教が揺れ動いている現在、
私の脳裏に冷静な思考を保たせる最適な本である。

・・】



そしてこの後の一昨年の大晦日に於いては、
【『除夜の鐘』に寄せて・・♪】
と題して、投稿していた。

【・・
大晦日の夜、日本の各地で除夜の鐘を撞(つ)くが、古来より108回となっている。

知識人・藤野邦夫の解説に寄れば、

【・・仏教で人間の煩悩(ぼんのう)が、108あるとされることによるっている、
と明示されている。

煩悩とは、身体や心の欲望、他人への怒り、ないもののへの執着などとされている。

仏教に於いては、

①生まれてくる苦しみ
②年をとる苦しみ
③病気の苦しみ
④死の苦しみ
4大要素を『四苦(しく)』とし、

⑤欲しくても手には入らない苦しみ
⑥愛する人と別れる苦しみ
⑦いやなことをさせられる苦しみ
⑧その他の色々な苦しみ
『八苦(はっく)』があるとされている。

そして、この『四苦八苦』の四苦(4x9=36)と八苦(8x9=72)を加算すれば、108になる。

108回の来歴については、他にも諸説があるが、
一年の様々な思いをかきたてる除夜の鐘は、
旧年中に107まで撞(つ)き、
最後の1回を新年に撞くのが慣例である。

尚、『除夜の鐘』は、中国の宗(960年~1279年)の時代に始まった風習だと云われて折、
『除夜』とは、旧暦で一年の最後の夜のことである。

・・】
以上、無断であるが、引用させて頂きました。


私は11時過ぎに家を出て、独りで川辺の遊歩道を散策した。
陽射しの中、風もなく、のどかな情景であった。
私にとっての煩悩とは・・しばらく鴨の親子が水面をゆったりと泳いでいるのを見詰めながら考えた。

絣(かすり)の似合う女性で、昭和40年頃までの小説、随筆、映画など知る文学少女かしら、
と思ったりした。
この時代を知る人であったら、さしずめ若くても50代の女性となる。

こうした美女と語り合い、そして弐合徳利、ぐい呑みでお酒を呑みながら、料理を食べたりしたい。
そして別れ際、そおっと手を握り、握手をして去る・・。

こうしたのが私の見果てぬ夢かしら、と思っている。

私はこんな他愛のない、ひとときの夢をみていたが、
いつの間にか煙草を喫ったりしていた。

帰宅したら2時過ぎの昼下り、玄関庭の白梅が陽射しをさんさんと受けていた。
枝先は早くも莟(つぼみ)かしら、と夢幻のひとときを脳裏にかすめた。

・・】



そして昨年は、
【大晦日の昼下りの音楽は・・♪】
と題して、投稿していた。

【・・
家内と家内の母は、年末年始の買物に出かけているので、
先程から音楽を聴いている・・。

最初は、昨夜レコード大賞を受賞されたコブクロに敬意を示し、
『蕾(つぼみ)』を聴き、彼等のメジャー・デビューの前、
9年前から無名の3年間、路上で唄い続けた心情に熱く思いを寄せたりした。

そして、夢はみるものでなく、明日を信じて労苦の言動した日々を思う時、
胸が熱くなるのである。

この後は選曲は少し迷ったけれど、
モーツァルトも好いが、やはりベートーヴェンの『第九』だろうと、
と思いCD棚が取り出した・・。

今回はたまたま小澤征爾に寄るサイトウ・キネン・オーケストラであるが、
大晦日に相応(ふさわ)しいかしら、と微笑んでいる。

・・】



このように年金生活後の一年生から昨年の四年生までの大晦日に綴った1部であるが、
齢ばかり重ね、果たして私の心は深化してきたのだろうか、
と思ったりしたのである。
私は安楽に年金生活を過ごすのは、
何よりの堕落の一歩と思考しているひとりであるので、
深く反省したりしているのである。

そしてこの後は、
中国初唐の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺されたひとつの詩に
思いを重ねたのである・・。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同        

毎年たんたんと美しい花を咲くが、
この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学び初めて、40数年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃はと思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりしている。



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何かと便利な【Yahoo! JAPAN】の年末年始特集・・♪ 

2008-12-30 14:24:25 | 時事【社会】
先ほど、ネットでニュースを検索しょうとして、
私は【Yahoo! JAPAN】のトップページを開いた。

左上段に、【年末年始特集2008-2009】と題され、
おでかけガイト、初売りバーゲン、おせち料理レシピ、
福袋セール・・等の目的別の索引がでていた。

http://newyear.yahoo.co.jp/

私は年金生活の5年生の暇な身であるので、
この中の『おでかけガイト』を開き、
『初詣』、『初日の出』、『除夜の鐘』、『イベント』の各項目を開き、
これほど解かりやすいガイドブックはないと、微笑んだのである。

そして、こうして見たりしていると、
想像力を逞(たくま)しくすれば、日本の各地の情景の彩(いろど)りまで、
パソコンの置いてある暖かい居間の一室で観ることができるので、
何かと便利で頼りになるガイドブックと確信している。



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改めて、幼年時代、『お正月』を唄った心情は・・♪

2008-12-30 10:39:25 | 幼年・少年時代の想いで
私の住む東京郊外kの調布市は、
26日はどんよりとした曇り空で風が強く吹き、寒い1日であったが、
この後は風もなく穏(おだ)やかな冬晴れに恵まれ、
私は日中のひととき買物、散策をしたりしている。

今朝も地元の天気情報は、
朝の6時過ぎは3度、昼下りは14度前後、そして夜の6時は10度と予測され、
今後の年末年始も晴れマークが続いている。

このように年末年始に於いて恵まれた天気は、
私の64年間で記憶がなく、どうしたのかしら、と戸惑ったりしている。

昨今の政治はもとより混迷し、経済も稀(ま)れな程に悪化し、
社会に暗いニュースばかり、報じられている。

私は憂(うれ)いながらも年金生活の5年生の無力な身であり、
天上の気候の神々が、せめてお天気ぐらいは温かい年末年始に、
と采配して下さっている、と解釈したりしている。

この後、庭のテラスで煙草を喫っていた時、
私の幼年期の頃の年末年始は、どのように過ごしたのかしら、
と思いを馳せたりした・・。
過日、買物のスーパーの店内で、『お正月』のメロディーが流れていて、
このことが脳裏の片隅に残っていたのかもしれない。


このような思いになると、私の綴ったサイトで、
『幼年・少年期の想いで』のカテゴリを開いたりしたのである。

偶然に昨年の12月30日に於いて、
【幼年時代、この時節に唄った歌は・・♪】
と題して、このサイトに投稿しているが、再掲載する。

【・・
私の父は小学二年、祖父は小学三年で死去され、
農家で大黒柱を失った我家は没落しはじめるのであるが、
一年生の時、冬休みの直前は恒例の二学期の終業式があり、
そして何より苦手であったのは通信簿を貰うことであった。

兄2人は優等生で、私は『2』が多い劣等生で、
父にしぶしぶ見せると、やっぱりね、といった表情を感じたのである。

私はいじけた可愛げのない幼児であったが、
やはりお正月が近くになると、人影の少ない農道で、


♪もういくつねると お正月
 お正月には 凧(たこ)あげて
 こまをまわして 遊びましょう
 はやく来い来い お正月

【 『お正月』 作詞・東 くめ 】


とかぼそい声で唄ったりした。

私は元旦になると、お年玉を父、祖父の両方から頂けることを覚え、
そして兄に教えて貰い、凧を揚げたりし、こまも廻したりした記憶があるので、
劣等生なりにお正月を迎えるのが楽しかったのである。

尚、凧揚(たこあ)げを兄に見習い、凧を揚げようとしたが、
私のだけが少し揚がったと思ったら、直ぐに落下するのであった。

兄達は通信簿『5』の多い優等生であり、
僕のだけは『2』が多い劣等生のせいか、
『僕の凧・・どうして揚がってくれないの・・』
と心の中で叫びながら、悲しくなり、そして益々(ますます)劣等感を増した時でもあった。

・・】


このように綴ったのを読み返し、私は微苦笑したりしたのである。
そして今年の初夏の時、中学校時代の有志で懇親会の時、
『俺は・・小学校、中学校の時・・通信簿②とか③の多い・・劣等生だったよ・・』
と私は明言したりしたのである。

隣に座っていた裕福な家庭で育てられた優等生だった女性が、
『あらぁ・・XXクン・・
そんなこと・・この人生に関係ないの・・
私の主人・・地方公務員だけど・・転勤が多かったのよ・・
お陰でさぁ・・引越しの連続・・
そのたびに子供も学校をだいぶ転校したりして・・可哀想くらいだったわ・・
その上、主人の母が病気がちで・・
人生・・うまく平等にできているの・・分かる・・』
と微笑みながら、私に云った。

私は苦笑しながら、聴いたりしていた。



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遠い昔、餅を搗(つ)いた頃の想いで・・♪

2008-12-29 22:53:44 | 幼年・少年時代の想いで
私はサラリーマンを卒業した年金生活の5年生であるが、
年末に近づくと、遠い昔、私の幼年時代に実家で、
餅を搗(つ)いた頃が想いだされる・・。

昨今の餅は、我家ではスーパーで販売されている品を買い求めている。
母の生前だった10数年以前の頃は、
母の住んでいた最寄の和菓子さんに注文した餅を頂ただいたりしていた。

そして、私が高校生だった頃は、
遠い親戚の方が、米屋を営んでいたので、
私は長兄に伴い、アルバイトのような形で、冬休みの期間でもあり、
25日前後の1週間は、早朝から夜遅くまで餅つき作業を手伝ったりした。
私は餅つきの作業が終った時、私にしては破格な礼金を頂き、
何に使ったよいかと、戸惑ったくらいであった。

私の幼年期は、祖父と父が健在だった頃までは、
東京の郊外で農家をしていて、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。
この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。

私はこうした一面の情景をこのサイトで、
【呑んべえの予感した頃・・♪】
と題して、2005年5月1日に投稿しているが、再掲載をする。

【・・
私が小学1年の頃だったので、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。

祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。

祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。

夕方の6時頃になると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。

ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』

『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。

『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この子きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。


この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に没落しはじめた・・。

そして昭和32年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。

・・】


このように綴ったりしていたが、私にとっては替え難い愛惜感もあり、
涙を浮かべそうになりながら、微苦笑している。




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私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪ ④ 理由その③ 佐々木俊尚・著の『ブログ論壇の誕生』

2008-12-29 10:22:00 | 定年後の思い
この本に関しても、このサイトで10月19日に於いて、
【佐々木俊尚・著の『ブログ論壇の誕生』・・。】
と題して投稿しているが、あえて再掲載する。

【・・
過日、偶然に本屋で佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』(文春新書)を見かけ、
新書の帯の表には、
【新しい巨大な 言論の波
    マスコミを揺るがし 政治を動かし
         旧弊な言説を 一掃する】
と明記されていた。

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/65/9784166606573.shtml

そして、カバーをめくると、
【インターネットの世界に出現した巨大なブログ論壇。
その新しい言論は、古い言論を支配していた団塊世代と
激しく対立し超克しようとしている。
新たな公共圏生成のインパクトをレポート。】
と明記されていた。


著作者に関しては、『グーグル~既存のビジネスを破壊する』(文春新書)、
『次世代ウェブ~グーグルの次のモデル~』(光文社新書)、
そして『ネット未来地図』(文春新書)を読んできた・・。
私は年金生活の64歳の拙(つたな)い身であるが、
ITの世界に不明が多いので、この他の関連した本を10冊前後読んでいるが、
特に佐々木俊尚氏は解かりやすく綴られているので、
信頼できる著作者のひとりとなっている。


今回の『ブログ論壇の誕生』は、

Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
Ⅳ ブログ論壇はどこへ向うのか

各章に於いて、教示されられことが多いが、
私としては、《Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する》に
衝撃を受けて、ここ数日考えさせられたのである。

この中で、第8章として、『辛抱を説く団塊への猛反発』がある。

【『官僚出身教授に対する猛反発』

橋本久義・政策研究大学院大学教授が投稿したコラムで、
タイトル『我慢を知らない若者では勤まらない』と題して、
『日経ビジネス』のオンライン版に2007年10月9日号掲載された。

・・派遣社員やアルバイトのよう非正規雇用労働者は、愛社精神が薄い。
「若者の方にも問題がある。
清潔な職場で、仕事が楽で、給料が高くて、転勤がなくて、
誰もが名前を知っているような企業以外はお断り」
というような条件で仕事を探すから、希望の就職先が見つからないのではないか、と指摘である。

そしてコラムの結論として、
日本の将来のためには若者に「我慢」や「辛抱」を教え込み、
若者を正社員にしたくなるように鍛え上げなければならない、
と投稿された。


これに対して、インターネットの世界から猛烈な反発を受けた。

橋本教授に対する批判内容を大別すれば・・

①我慢をしないのは、我慢しても報われないからだ。
 若者たちを、非正規雇用に落とし、
 見返りも与えずに、「我慢をしろ」といわれても無理だ。

②そもそも現実の若者の多くは、
 「我慢を知らない」どころか、非正規雇用に耐え、
 過労死するほどに働かされているのが現状ではないか。

③技術が伝承されないのは、
 企業が短期的なコスト削減に目が眩み、
 に切り替えてしまったツケが回ってきているだけでないか。
 その責任をなぜ若者に帰するのか。
・・】


『激烈な世代間対立』

・・多くの若者は、我慢して辛抱しながら、
安い給料や非正規雇用に耐えているいるのが現実なのだ。

1990年代末、金融危機のさなかに
山一證券や北海道拓殖銀行などの大手の金融機関が次々と破綻し、
若者たちは「もう大企業に頼れる時代ではなくなった」
ということを実感させられた。

そしてほぼ同じ時期から、企業の徹底的な人材コスト削減が始まる。
グローバリゼーションの中で、台頭するアジアや南アメリカの企業と
競争していくためには、
コスト削減は避けられない方向性だったとはいえ、
しかしその結果として切り捨てられた若者たちにとっては、
それはあまりにも過酷な運命であった。

そして2000年代に入ると、事態はますます深刻化する。
小泉改革によって派遣労働規制が緩和され、
非正規雇用がさらに加速してしまったからだ。
この結果、ワーキングプアと呼ばれるような貧困層が激増し、
格差社会化はさらに進んだ。

この荒波をまともに受けてしまったのが、
ロストジェネレーション世代(注・引用者 1970年代~1980年代の初頭に生まれ、
就職時に雇用の機会が余りにもなく、就職氷河期の世代とも別称)である。

彼らが・・書き込みやブログのエントリーを見わたせば、
そこには将来への不安、人材を切り捨てている企業への怒り、
格差社会への絶望が渦巻いているのが、鮮烈に読み取れる。
・・
若者たちの怒りは、団塊をはじめとする上の世代へと向かいつつある。

これは激烈な世代間対立なのだ。

そしてこの対立は、メディアを巻き込んでいる。
・・中高年ビジネスマンを主たる読者層とするメディアでは、
「いまどきの若者はだめだ」
「われわれのころと比べると、辛抱が足りない」
といった若者観が幅を利かせている。
これはテレビのニュース番組や新聞も同様だ。

こうしたメディアの記事を読んで、
ロストジェネレーションの若者たちは・・
なかば絶望的な気分で冷笑するのみだ。
彼らの世代を代弁してくれるのはマスメディアではなく、
いまやインターネットの掲示板やブログになってしまっているのである。

一方で、団塊の世代の人たちは、
インターネットのことはほとんど知らないし、
掲示板やブログでどのような言論が展開されているのかも把握していない。
マスメディアが体現する団塊世代の言論空間と、
ネットで勃興しているロストジェネレーションの言論空間の間には、
深く暗い河が流れている・・


長々と引用させて頂いたのであるが、
このような著作者の綴られた内容に、私は衝撃を受けたのである。


私は昭和19年に生を受け、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしながら、アルバイトや契約社員をした後、
25歳よりある大手の企業に何とか中途入社できたのである。
そして、この会社の一部門がレコード会社として独立し、
中小業となり35年近く勤め、定年退職となったのは、平成16年の秋であった。

50代の初め、外資百パーセントの会社に変貌し、
業界、会社も盛んにリストラが行われ、私も50代のなかば、
出向となったのである。
物流情報会社のある物流センターに勤務したのであるが、
正社員は私を含めても4名で、若手の男性はアルバイト契約、契約社員が10名、
そして女性のアルバイト契約が100名前後の職場であった。

ここで特に若手の男性のアルバイト、契約社員の雇用実態、
安い給料、将来性のない職場の実態を知り、
私は彼らがなぜ将来性のある会社に移らないのか、
最初は不思議と思ったのであるが、本音でいえば希薄であったのである。
私も週刊の『日経ビジネス』を愛読していたので、
50代の初めの頃から、若い人は就職で大変と、就職氷河期の人たちを
思ったりしていたのであったが、漠然としていたのである。

そして、まもなく若手の男性たちと懇親を重ねるうちに、
少しつづ過酷な世界の現状を知ったのである。

私達の世代、少し後輩の団塊世代の多くは、
50代に於いて、リストラで早期退職優遇制度で退職させられたり、
或いは異色な人事異動があったにせよ、
私と同様に正社員として既得権のように勤め続け、
就職氷河期の彼らの就職の機会を奪ったのは確かなことである。

私は定年退職後、働くことをやめて、年金生活に入ったのである。
共に同じ空気を長きに共にした人が、定年前に無念ながら退社されたり、
再就職は就職氷河期の彼らの就職の機会を更にうばう、という心情も重ねたりし、
そして何より私自身が心身疲れきっていたのである。


このような軌跡もあったので、
この本で明確に提示した、団塊の世代の人たちと、ロストジェネレーションの言論空間は
単なるネットの問題を遙かに越えた社会問題の一冊と感じ、
確かに深く思考される日本の大きな問題のひとつである。

私は佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』から多く学び、
世代を超えて読んで頂きたい、と確信しているひとりである。
たとえ年金生活の方で、真摯に次の日本を背負う若者たちに少しでも理解をするならば、
彼らの汗の結晶の働いてくれた税金からの1部がやがて循環し、
年金となり受給しているのだから、少なくとも目は離せないのである。
このような思いになると、必読書かしら、と深く考えているのである。

・・】


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我家も、昨夕から年末年始の休暇・・♪

2008-12-29 10:06:01 | 定年後の思い
東京の郊外は、昨日は風もなく穏(おだ)やかな冬晴れであった。

私達夫婦は、家内の母の来宅時を心配していたが、
例年より早く3時前に我家に到着した。

『おかあさん・・早かったじゃないの・・
でも・・良かった・・夕方の寒くなる前で・・』
と私は、家内の母に微笑みながら云った。

我家では、これからの年末年始に於いて、
私達夫婦と家内の母の3人で生活を共に過ごすのは、
今回で5度目である。

家内の父が死去されて、独り住まいとなった家内の母に、
年末年始の時は、我家に来て頂きたい、と私達夫婦の発案であった。

居間の20畳ばかりに一角に6人用の炬燵で設置し、
奥の6畳の和室と書棚の3畳のスペースで休んで頂くのが、
恒例となってきている。

居間の炬燵の中で私達夫婦は、
家内の母から八千代市の自宅から我家までの年の瀬の街の情景を聴いたりした後、
今年、私達3人で旅行で訪れた話となった。
家内、家内の母はビール、私は弐合徳利の純米酒の辛口を呑みながら、
ささやかな料理を食べ、談笑したのである・・。

2月の中旬に箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在し、
芦ノ湖の遊覧船に乗船したり、ロープーウェイを利用し、
周辺を観て廻ったりした・・。

5月の下旬には、富山市の郊外の呉羽山温泉に5泊6日で滞在し、
富山市の街並み、周辺の公園、観光地などを散策したりした。

8月の初旬になると、直江津港から佐渡島を訪れて、
両津港の郊外にある温泉地で3泊4日で滞在し、
島内の観光地を観たりしたのである。

このように今年は、私達3人で訪れたささやかな旅行であったが、
家内の母の希望した場所もあったので、それなりに心の思いは深く残った、
と私に熱っぽく話された・・。

こうした話題をあの時は・・などと話し込めば、
2時間ばかりの酒宴は過ぎてしまった。

私は9時過ぎには寝室の布団の中で読書としたが、
30分ぐらいで寝付いてしまった。


今朝は3時過ぎに目覚め、4時頃からパソコンで投稿文を認(した)めた後、
配達された新聞を読んだりしていた。

そして7時過ぎに、11時過ぎまで母と炬燵の中で・・、と私は家内から聴き、
私は微笑みながら、我家でも年末年始の休暇が始まった、
と実感したりしている。



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私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪ ④ 理由その③

2008-12-28 15:46:24 | 読書、小説・随筆
③佐々木俊尚・著の『ブログ論壇の誕生』

この本に関しても、このサイトで10月19日に於いて、
【佐々木俊尚・著の『ブログ論壇の誕生』・・。】
と題して投稿しているが、あえて再掲載する。

【・・
過日、偶然に本屋で佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』(文春新書)を見かけ、
新書の帯の表には、
【新しい巨大な 言論の波
    マスコミを揺るがし 政治を動かし
         旧弊な言説を 一掃する】
と明記されていた。

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/65/9784166606573.shtml

そして、カバーをめくると、
【インターネットの世界に出現した巨大なブログ論壇。
その新しい言論は、古い言論を支配していた団塊世代と
激しく対立し超克しようとしている。
新たな公共圏生成のインパクトをレポート。】
と明記されていた。


著作者に関しては、『グーグル~既存のビジネスを破壊する』(文春新書)、
『次世代ウェブ~グーグルの次のモデル~』(光文社新書)、
そして『ネット未来地図』(文春新書)を読んできた・・。
私は年金生活の64歳の拙(つたな)い身であるが、
ITの世界に不明が多いので、この他の関連した本を10冊前後読んでいるが、
特に佐々木俊尚氏は解かりやすく綴られているので、
信頼できる著作者のひとりとなっている。


今回の『ブログ論壇の誕生』は、

Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
Ⅳ ブログ論壇はどこへ向うのか

各章に於いて、教示されられことが多いが、
私としては、《Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する》に
衝撃を受けて、ここ数日考えさせられたのである。

この中で、第8章として、『辛抱を説く団塊への猛反発』がある。

【『官僚出身教授に対する猛反発』

橋本久義・政策研究大学院大学教授が投稿したコラムで、
タイトル『我慢を知らない若者では勤まらない』と題して、
『日経ビジネス』のオンライン版に2007年10月9日号掲載された。

・・派遣社員やアルバイトのよう非正規雇用労働者は、愛社精神が薄い。
「若者の方にも問題がある。
清潔な職場で、仕事が楽で、給料が高くて、転勤がなくて、
誰もが名前を知っているような企業以外はお断り」
というような条件で仕事を探すから、希望の就職先が見つからないのではないか、と指摘である。

そしてコラムの結論として、
日本の将来のためには若者に「我慢」や「辛抱」を教え込み、
若者を正社員にしたくなるように鍛え上げなければならない、
と投稿された。


これに対して、インターネットの世界から猛烈な反発を受けた。

橋本教授に対する批判内容を大別すれば・・

①我慢をしないのは、我慢しても報われないからだ。
 若者たちを、非正規雇用に落とし、
 見返りも与えずに、「我慢をしろ」といわれても無理だ。

②そもそも現実の若者の多くは、
 「我慢を知らない」どころか、非正規雇用に耐え、
 過労死するほどに働かされているのが現状ではないか。

③技術が伝承されないのは、
 企業が短期的なコスト削減に目が眩み、
 に切り替えてしまったツケが回ってきているだけでないか。
 その責任をなぜ若者に帰するのか。
・・】


『激烈な世代間対立』

・・多くの若者は、我慢して辛抱しながら、
安い給料や非正規雇用に耐えているいるのが現実なのだ。

1990年代末、金融危機のさなかに
山一證券や北海道拓殖銀行などの大手の金融機関が次々と破綻し、
若者たちは「もう大企業に頼れる時代ではなくなった」
ということを実感させられた。

そしてほぼ同じ時期から、企業の徹底的な人材コスト削減が始まる。
グローバリゼーションの中で、台頭するアジアや南アメリカの企業と
競争していくためには、
コスト削減は避けられない方向性だったとはいえ、
しかしその結果として切り捨てられた若者たちにとっては、
それはあまりにも過酷な運命であった。

そして2000年代に入ると、事態はますます深刻化する。
小泉改革によって派遣労働規制が緩和され、
非正規雇用がさらに加速してしまったからだ。
この結果、ワーキングプアと呼ばれるような貧困層が激増し、
格差社会化はさらに進んだ。

この荒波をまともに受けてしまったのが、
ロストジェネレーション世代(注・引用者 1970年代~1980年代の初頭に生まれ、
就職時に雇用の機会が余りにもなく、就職氷河期の世代とも別称)である。

彼らが・・書き込みやブログのエントリーを見わたせば、
そこには将来への不安、人材を切り捨てている企業への怒り、
格差社会への絶望が渦巻いているのが、鮮烈に読み取れる。
・・
若者たちの怒りは、団塊をはじめとする上の世代へと向かいつつある。

これは激烈な世代間対立なのだ。

そしてこの対立は、メディアを巻き込んでいる。
・・中高年ビジネスマンを主たる読者層とするメディアでは、
「いまどきの若者はだめだ」
「われわれのころと比べると、辛抱が足りない」
といった若者観が幅を利かせている。
これはテレビのニュース番組や新聞も同様だ。

こうしたメディアの記事を読んで、
ロストジェネレーションの若者たちは・・
なかば絶望的な気分で冷笑するのみだ。
彼らの世代を代弁してくれるのはマスメディアではなく、
いまやインターネットの掲示板やブログになってしまっているのである。

一方で、団塊の世代の人たちは、
インターネットのことはほとんど知らないし、
掲示板やブログでどのような言論が展開されているのかも把握していない。
マスメディアが体現する団塊世代の言論空間と、
ネットで勃興しているロストジェネレーションの言論空間の間には、
深く暗い河が流れている・・


長々と引用させて頂いたのであるが、
このような著作者の綴られた内容に、私は衝撃を受けたのである。


私は昭和19年に生を受け、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしながら、アルバイトや契約社員をした後、
25歳よりある大手の企業に何とか中途入社できたのである。
そして、この会社の一部門がレコード会社として独立し、
中小業となり35年近く勤め、定年退職となったのは、平成16年の秋であった。

50代の初め、外資百パーセントの会社に変貌し、
業界、会社も盛んにリストラが行われ、私も50代のなかば、
出向となったのである。
物流情報会社のある物流センターに勤務したのであるが、
正社員は私を含めても4名で、若手の男性はアルバイト契約、契約社員が10名、
そして女性のアルバイト契約が100名前後の職場であった。

ここで特に若手の男性のアルバイト、契約社員の雇用実態、
安い給料、将来性のない職場の実態を知り、
私は彼らがなぜ将来性のある会社に移らないのか、
最初は不思議と思ったのであるが、本音でいえば希薄であったのである。
私も週刊の『日経ビジネス』を愛読していたので、
50代の初めの頃から、若い人は就職で大変と、就職氷河期の人たちを
思ったりしていたのであったが、漠然としていたのである。

そして、まもなく若手の男性たちと懇親を重ねるうちに、
少しつづ過酷な世界の現状を知ったのである。

私達の世代、少し後輩の団塊世代の多くは、
50代に於いて、リストラで早期退職優遇制度で退職させられたり、
或いは異色な人事異動があったにせよ、
私と同様に正社員として既得権のように勤め続け、
就職氷河期の彼らの就職の機会を奪ったのは確かなことである。

私は定年退職後、働くことをやめて、年金生活に入ったのである。
共に同じ空気を長きに共にした人が、定年前に無念ながら退社されたり、
再就職は就職氷河期の彼らの就職の機会を更にうばう、という心情も重ねたりし、
そして何より私自身が心身疲れきっていたのである。


このような軌跡もあったので、
この本で明確に提示した、団塊の世代の人たちと、ロストジェネレーションの言論空間は
単なるネットの問題を遙かに越えた社会問題の一冊と感じ、
確かに深く思考される日本の大きな問題のひとつである。

私は佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』から多く学び、
世代を超えて読んで頂きたい、と確信しているひとりである。
たとえ年金生活の方で、真摯に次の日本を背負う若者たちに少しでも理解をするならば、
彼らの汗の結晶の働いてくれた税金からの1部がやがて循環し、
年金となり受給しているのだから、少なくとも目は離せないのである。
このような思いになると、必読書かしら、と深く考えているのである。

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私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪ ③ 理由その②

2008-12-28 15:45:36 | 読書、小説・随筆
②管 英輝・著の『アメリカの世界戦略』

この本に関しても、このサイトに於いて3月31日で、
【 管 英輝・著の『アメリカの世界戦略』】
と題して投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の4年生の身であるが、
趣味の読書で過ごすことが多い・・。

この一週間は、殆ど一冊の本を読んで過ごしたのである。

管 英輝・著の『アメリカの世界戦略』(中公新書)であり、
副題として、戦争はどう利用されるのか、と明題されていた。

私の読書歴からは、著作者に関しては無知であったが、
略歴を見て、アメリカ政治外交論、国際関係論を専攻する大学教授であったことを知ったのである。

本の帯にある解説に寄れば、

2003年3月、ブッシュ政権は対イラク戦争に踏み切った。
世界の平和と安全を説く国がなぜ先制攻撃を仕掛けるのか。
そこには、冷戦終結後、EUと中国の挑戦を受けるなか、
圧倒的な経済力と軍事力をもとに世界一極支配を目指すアメリカの戦略がある。

本書では朝鮮戦争からヴェトナム戦争、
そして「ブッシュの戦争」に至るアメリカ式戦争の特徴と問題点を
政策決定者たちの証言を交えて分析し、
「帝国」の今後を展望する。


こうした解説を本屋の文庫新書コーナーで私は読んで、
購入し、この1週間を費(つい)やして読んだのである。

              
私は昭和19年に生を受けて、
幼年期、祖父と父が健在の時は、農家の子として育てられていた・・。

私はいじけた可愛げのない子でいたずらをしたりすると、
『そんなに・・いたずらするとマッカーサー(日本占領軍の最高司令官)に・・
やってしまうぞ・・』
と父から怒られ、蔵に入れられたりしていた。

私は中学校に通った頃は、日本映画はもとより欧米の映画を観たりしていた。

高校の一年の6月のある日、『60安保』騒動の影響で、
数日学校が休校となったが、
この頃の私は安保の意義などは無知な少年であった。

この頃、日本史、世界史が好きで、
時の権力者はどうして領土拡張に執念するのか、
と思いはじめ、選択科目の『時事』も学んだりした。
そして『朝日ジャーナル』などを読みはじめ、
時事担当の教師にしばしば質問をして、
困らせたりしていた。

このような時、『キューバー危機』があり、
私は米ソが核ミサイルを互いに発射させ、世界は終ってしまう、
と思い込み震えながら一夜を過ごしたことがある。

そして現代史、歴史書を学びはじめ、
時のアメリカのケネディ大統領が就任した時の演説に魅了されていた。

『・・祖国が貴方に何をしてくれるのかを尋ねてはなりません・・
貴方は祖国の為に何を出来るのか考えて欲しい・・(略)・・』

この言葉に夢中になり、しばらくした時に、
『ケネディ大統領の暗殺』をテレビで観て、
私は長らく落ち込んだ。

その後、『ヴェトナム戦争』が報じられるたび、
巨大国である米ソ中の三国の怜悧な国益を学んだりした。

そして弟のロバート・ケネディが大統領の予備選で勝ち進めていた時、
『暗殺』され、私はひどく気落ちし、
政治の世界に興味を失ったのである。

私は遅ればせながら、1970年の春、25歳の時に企業に中途入社し、
数多くの方と同様に日本を見つめ、世界をみつめても、
熱い思いで眺めることなく、冷めた思考でここ40年を過ごしている。

時の権力者はもとより、私を含めた無名な方まで、
人は光と影を有する者であるが、心の節度がどこまで保てるか
現代史、歴史書から学び、そして私が生きてきた哲学のひとつでもある。


このような思いがあるので、
『アメリカの世界戦略』の著作者に導かれて、
日本の敗戦後からの今日まで、アメリカの視点を通して読み進めるが、
あの時は・・、と思索すると中々次ページに進まないのである。

私はたった一冊の本であるが、私なりの自身のための現代史の検証、
と思ったりし、1週間を要したのである。

・・】



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私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪ ② 理由その①

2008-12-28 15:44:09 | 読書、小説・随筆
①佐野眞一・著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』

この本に関しては、このサイトに11月22日に於いて、
【佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪】
と題して、投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
過日、遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

【・・

はじめに


戦後日本のありのままの姿を見ようとするとき、
私の視野にはいつも二つの国土がせりあがってくる。
一つは満州、一つは沖縄である。

世界史的にも類を見ない日本の高度経済成長とは、
失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。

私は長年抱いてきたそうした見方に基づいて、
満州を舞台とした作品を発表してきた。
その第一弾が、○五年夏に出版した『阿片王 満州の夜と霧』であり、
第二弾が、沖縄取材が終わった○八年五月に出版した『甘粕正彦 乱心の曠野』(いずれも新潮社)である。

戦後高度経済成長のシンボルである夢の超特急も、
合理的な集合住宅も、アジア初の水洗トイレも、すべて満州で実験済みだった。

日本は敗戦からわずか十年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。
それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の下に入って、
軍事防衛問題をほとんどアメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、
経済分野に一意専心することができたからにほかならない。

その反対給付の人身御供としてアメリカに差し出されたのが、沖縄だった。
沖縄は世界第二位の経済大国になる道を駆け上がった本土の繁栄をよそに、
東シナ海に浮かぶ日本最貧の島としての運命をたどることになった。

満州も沖縄も“還暦”を過ぎた戦後日本を検証する上で、
絶対に避けて通ることができない大きな宿題となっている。

日本の戦後社会を透視するため、満州という「時間軸」と、
沖縄という「空間軸」を立てる。
そしてその二つの軸がクロスしたところに結ばれた像こそ、
われわれがいま暮らす日本列島の掛け値なしの姿ではないか。
この仮説に、私はかなり前からとらわれていた。

満州を舞台にして暗躍し、“阿片王”と呼ばれた里見甫と、
“満州の夜の帝王”という異名をほしいままにした甘粕正彦。
日本近現代史上最も謎めいた二人の男の物語をとりあえず書き終えた私の目は、
自ずともう一つの仮説の立脚点の沖縄に向かった。


沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、
ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

私は沖縄の知られざる戦後史を扱った本書でも、
読者がこれまで聞いたことも見たこともない「小文字」の物語だけを、
型通りの主人公を食う魅力的なバイプレイヤーたちを数多く登場させて書いていくつもりである。


本書は五つのジャンルから構成されている。

Iの「天皇・米軍・沖縄県警」では、
沖縄に対する私の立ち位置をあらためて明確にするとともに、
これまでの仕事を通じた沖縄と私の歴史的関わりや、
天皇と沖縄の微妙な関係、そして沖縄県警がたどった数奇な運命にふれた。

米軍問題も、基地問題一般を語るのではなく、
歴史に埋もれてしまった知られざる怪事件や、
この島に暗躍する米軍がらみのスパイたちの活動を通して描いた。


Ⅱの「沖縄アンダーグラウンド」では、
戦後沖縄ヤクザの発生から始まって現在の勢力図にいたる暴力団の消長のプロセスをあまさず描いた。

ここでは、現役のヤクザにインタビューするとともに、
苛烈な暴力団抗争の過程でヒットマンとなった男の痛切な告白もそのまま書きとめた。
このロングインタビューは沖縄そのものの身を切るような独白となっているので、
じっくり味わいながら読んでほしい。

また、これまでほとんど知られていなかった奄美大島の差別の歴史と、
そこからたくましく起ちあがった男が惚れる奄美のヤクザについても筆を割いた。


Ⅲの「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」では、
“沖縄の四天王”といわれる財界人たちにスポットライトをあてるとともに、
沖縄の戦後史に残る不撓不屈の政治家や、
左翼の枠組みにはおさまらない魅力的な組合活動家、
沖縄独立の夢に賭けた男たちにも言及した。

さらに、これまでまったく書かれてこなかった封印された沖縄の戦後メディア史や、
米留組といわれるアメリカ帰りのパワーエリート、
沖縄を実質的に支配する軍用地主、女傑といわれる女たちの群像をスケッチする一方、
○六年十一月に行われた沖縄知事選の舞台裏や、沖縄の知られざる金融事情についてもふれた。


Ⅳの[踊る琉球・歌う沖縄」では、
大阪でリバイバルした琉球民謡の復活から始まって、
ベトナム戦争下のコザで花開いた本格的ロックの発展まで、
沖縄の戦後史に重ね合わせながら、
この島を走破する形で沖縄芸能の全貌をルポした。
また、ここでは沖縄の芸能を支配しようとする本土の芸能プロダクションの動きも追った。


Vの「今日の沖縄・明日の沖縄」では、
米海兵隊のグアム移転にまつわる防衛省スキャンダルや、
また繰り返された米兵による少女暴行事件、
本土復帰に関わる沖縄密約問題などにからめながら、
沖縄が現在かかえる問題と将来の問題を総合的に展望した。


・・】

以上、ネットで掲載されていた。
注)著作者の原文をあえて改行を多くした。


私は昼過ぎに、本書でこの原文【はじめに】を拝読したのであるが、
少なくとも日本の敗戦後の政治、社会までに関心のあるお方、
このサイトで日本の政治、外交、軍事などを綴られる方たちは、
必読書のひとつかしら、と齢を重ね、政治に疎(うと)い私さえ、確信しはじめている・・。

・・】



そして、私はこの後も、このサイトに11月24日で、
【再び、佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』・・。】
と題して、投稿したのであるが、再掲載をする。

【・・
私は昨夜、10時過ぎに布団にもぐり、1時間ばかり、
佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読んでいたが、
日中の庭の手入れの疲労感の為、眠ってしまったのである。

今朝は、5時過ぎに目覚め、再び本を開き、
7時過ぎまで読んでいた・・。
第一章の『天皇・米軍・沖縄県警』しか読了していないが、
やむえず本を閉じたのである。

先ほど、短くなった庭の樹木を眺めたりし、
私の沖縄の原点は・・と思考したのである・・。


私はこのサイトに、【私の沖縄問題の原点・・。】と題して、
2007年6月20日に投稿している。

再掲載は少し気が引けるが、私なりの沖縄の深い思いがあるので、
つたない私なりの沖縄の思いを連載投稿する。

【・・
私の手元に、1冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫・氏と新崎盛輝・氏のお二人による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学2年で中退し、映画青年の真似事をしていた時であった。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとわりのない問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。


この本のまえがきに書かれている、


なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、
沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、
そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。

ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。

だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。


戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか3ヶ月の戦闘に20万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、
本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。


そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈の軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。

もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。


正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。

     (略)
        


以上、著作者の中野好夫・氏が綴っている。

注)原文より、私は勝手ながら改行を多くさせて頂きました。



私は21歳の感受性が豊かであったので、
年長者の暖かいアドバイスを頂いたようになった。
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と観かたを教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、のことばを聴くと、何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
30年後の50代の初めに沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした。

・・】

このようなことを投稿した後、昨年の10月下旬で8泊9日で、
私達夫婦は家内の母と3人で本島を周遊したり、
マスメディアの『沖縄』の記事を注視したりしてきた。

しかし、私は学者、評論家の本、新聞、テレビ、雑誌などのマスメディアしか知るよしもなかったので、
佐野眞一氏の題されたまぎれもなく『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の明示された事柄は、
予期した以上に動揺させられたのである。

そして、私は現役時代の一時時期、
沖縄の名護市出身の女性が部署が一緒だったので、
私としては何かとこの若き女性に対しては、父親がわりのような思いで、
懇親をかさねたりしたのである。

この女性の父親、母親の数10年の生活実態、これからの思いや、
この女性の幼児から近日までの軌跡を忌憚なく、話してくれたのである。
こうしたマスメディアに表面化しない話題こそ、
何より歴然とした事実であり、数多くの方たちを軌跡を積み重ねれば、
沖縄の戦後史、と思ったりしている。


私はこのような思いも重ね、
日中のひととき、再び佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の次章を、
熱中し、読み続ける予定である。

・・】



私はこの後も、このサイトに於き、11月25日で、
【佐野眞一氏に『沖縄の・・戦後史 』を教示され・・。】
と題して投稿をしている。

【・・
私は11時過ぎに、晩秋の陽射しの中、郵便局、スーパーの二店を廻り、
買物や散策をした。
モミジが朱色や朱紅色、そして紅色に色合いを深めた中、歩いたりしたが、
晩秋の情景が心に染めらるようであった。

帰宅後、我家のモミジは、まだ淡い朱色であることに眺めたりした後、
午後のひととき、ここ数日熱中している佐野眞一・著の
『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読みはじめたのである・・。

私のこれまでの沖縄と奄美本島との関係を何かの本で学んできたのは、
アメリカ軍が奄美本島は山間部が多く、戦闘し占領しても利用価値が少なく、
こうした状況下で過酷な戦地から免れたこと。
その後、敗戦後の沖縄本島で沖縄人の下で、奄美人が冷遇され働いた・・
この程度の拙(つたな)い知識であった。

佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の中、
私は遅ればせながら教示されたのである・・。

【・・

軍政下の奄美はいわば日本とは”異国”となり、
鹿児島などへの渡航はすべて密航扱いとなった。
奄美住民の目はいきおい、同じ米占領下にあった沖縄に向かわざるを得なかった。

ましてや米軍基地建設ラッシュに沸く当時の沖縄は、
働く場所にもありつけず食うや食わずの状態に置かれた奄美住民にとって、
願ってもない働き口となった。

北に行けば密航者として裁かれ、
南に行けば基地ブームで一旗揚げられる。
沖縄のように熾烈な戦闘もなかった奄美を占領したのは、
安価で豊富な基地建設労働力を狩り出すため、
アメリカがあらかじめ仕組んだ高度な植民地政策だったともいえる。
・・


注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした本書の一節を読むと、しばらく唸(うな)ったのである。

そして私は佐野眞一氏に導かれて、午後のひととき次節を読んだりしている。

・・】




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私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪ ①

2008-12-28 14:08:23 | 読書、小説・随筆
私は年金生活の5年生で64歳の身であるが、
小説、随筆、歴史書、現代史などを読書をするのが、日常生活で多い。
高校生の頃からの習慣であるが、これと云って系統立てて、読むのでは、
新聞の広告記事で知ったりして買い求めたり、
本屋の店頭で偶然に好奇心で購入したりする、
乱読タイプの活字好きなひとりである。

今朝の読売新聞に於いて、『本よみうり堂』の定期特集があるが、
今回は【読書委員が選ぶ 2008年の3冊】と題して特集であった。
このコーナーの著名な読書委員の方たちが、それぞれ3冊を選定していた。

私は拙(つたな)い読書歴であるが、
私なりに今年度発刊された本で、魅了された本を選定することにした。



①佐野眞一・著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』

②管 英輝・著の『アメリカの世界戦略』

③佐々木俊尚・著『ブログ論壇の誕生』


私なりに感銘作品が多くあったが、あえて3冊を選定したみたが、
あの本もこの中の一冊に入れてみたかったというのが本音でもある。

しかし、特に齢を重ね少しボケ私でも、
熱き心情で読んだ3冊を明示したのである。

尚、この選定した理由は、次回で明記する。




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冬の札幌の旅から帰宅し、歳末に向けて私は・・。

2008-12-28 08:58:30 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む私達夫婦は、
札幌に21日~25日まで4泊5日で滞在し、
市内を散策したりしたが、積雪が5センチ前後で、
郊外の中島公園付近でも15センチ前後であり、
雪の少なさと予測していたほど寒くなく、驚いたりしていた。
25日の昼下り、新千歳空港の航空便も20分遅れ程度であった。

26日の東京郊外の自宅付近は、
朝の6時過ぎは1度前後、昼時は7度前後となり、
曇り空の中、ときおり風が強く吹く、寒い日中となった。
私はこのサイトに綴ったりし、家内は掃除、洗濯などしていたが、
テレビのニュースで、新千歳空港が朝より風雪で、午後の4時ごろまで欠航となり、
利用客も大幅に予定が変更され混乱をし、道内の各地も激しい風雪となり、
と報じていたのである。

私達の当初の旅程は、22日~26日まで滞在し、
クリスマスの時節を札幌で満喫する予定であったが、
28日から家内の母を自宅に来て貰い、年始まで共に過ごすので、
慌しい期間となることもあり、21日~25日としたのである。

このようなこともあり、北海道の道民のお方たちには不謹慎ながら、
日程を早めたのが良かった、
と私達は感じたのである。

翌日のニュース等で、急激な寒波による風雪の激しさを報じていた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081227-00000016-maip-soci


昨日の27日の東京郊外は、朝の6時過ぎはマイナス4度、
昼下りも8度前後の寒さであったが、
風もなく穏(おだ)やかな冬晴れるの日中となった。

私は過日ホームセンターで注文していたアコーディオン・カーテンが配達されたので、
家内の指示の基で、取り付けたりした後、
やはり家内の指示により、独りでスーパーに買物に2度ばかり出陣し、
家内は掃除、料理と互いに孤軍奮闘したのである。

私はスーパーの店内で、
昨日は官公庁も御用納めとなり、多くの方たちが本日から年末年始の休暇が始まり、
現役世代の買物客を見たり、
何より新年に向けたお節料理用の数々の品を選定しながら、
時節は歳末と改めて実感したりしたのである。




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冬の札幌のひとときは、時のゆりかご・・。【2008.12.21~.12.25.】  最終 

2008-12-27 18:19:00 | 
        最終章 旅の終りは、『朝市食堂』・・♪

25日の旅の最終日、9時半過ぎにホテルをチェック・アウトし、
荷物が増えたので、やむえず札幌駅までタクシーを利用した。

私は旅先に於いては、原則として公共の交通機関を利用し、
その地にお住まいの人々の特徴を知る最もすぐれた手掛かりとなるので、
今回の滞在中、地下鉄、バスなど乗ったり、
或いは徒歩で市内の街並みを散策したのである。
そして、言葉のアクセント、何気ないしぐさ等を学んだりしたのである。

札幌駅より電車で新千歳空港に行き、
何かしら昼食代わりにと食事処を探したのである。
1階の到着&サービス施設のフロアで食事処の中で、
『朝市食堂』と明示された所を入り、頂いたのであるが、
想像以上に魚介類は新鮮で、程々のお値段で、美味しかったのである。

http://www.bfh.jp/theme/theme_searchdetail.html/80000570

従来、この新千歳空港内は、洋風の食事処を利用してきたが、
今後、空港内の食事時の場合は、
この『朝市食堂』は心身の波長が合うので利用しょう、
と私は家内に明言したりした。


私達の乗る航空便は予定より20分遅れで、
新千歳空港を離陸した。

                            (終り)



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冬の札幌のひとときは、時のゆりかご・・。【2008.12.21~.12.25.】  ⑤ 

2008-12-27 08:20:17 | 
        第四章 北海道の文学を訪ねて・・。

『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。


http://www.h-bungaku.or.jp/

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と
確信したのである。

そして、私は館内にあった同人雑誌で、
数多くのお方たちが文学をめざして、何とか筆1本で生計を夢みた人に、
思いを馳せたりした・・。

私はこのサイトに於いて、
【遅ればせながら、『七本杉』という略称を学び・・♪】
と題して、11月18日に投稿した綴りを甦(よみがえ)ってきた・・。

【・・
昼下りのひととき、私は総合月刊雑誌の『中央公論』の今月号を
読んだりしていた。

特集のひとつである『これであなたも作家になれる』があり、
この中で75歳となる平成17年に作家デビューされた加藤 廣さんが、
愛情をこめて物書き志望者にアドバイスを送る、と解説された

『物書きの夢と現実を語ろう』

と題された加藤 廣・氏の綴られた随筆を拝読したのである。


この中で、私は驚いて、こうした略称があったのか、
と齢ばかり重ねた私は学んだのである。

【・・
「按ずるに筆は一本也。箸は二本也。
衆寡敵せずと知るべし」

明治の作家兼評論家・齋藤緑雨の残した一代の名句である。
物書きたらんとする者、これだけは肝に銘じたい。

これまで、どれほど多くの作家が、この警句の禁を犯し、
七本杉(身過ぎ、世過ぎ)のために筆を曲げ、
エロ作家や通俗大衆作家などに堕ちていったかを知ってほしい。
・・】

注)原文にあえて改行など多くした。

・・】


私は若き一時時期、文学青年の真似事をしたことあったので、
こうしたことは痛いほど理解しているひとりである。

この後、近くに『渡辺淳一文学館』があるのは知っていたが、
私は興味がなかったのである。

私の拙(つたな)い読書歴からして、小説家・渡辺淳一氏の作品は、
初期から『ひとひらの雪』の前までは賞賛したが、
これ以降の作品に失望している。
亡くなわれた小説家・立原正秋の遺された作品を読めば、
男女の世界を描いても歴然と明確になる。

このような思いで、『北海道文学館』を名残惜しく後にした。


                            《続く》




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