昨夕、テレビのニュースでボーカリストの尾崎紀世彦さんの死去を知り、
私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、長年圧倒的な存在の歌い手のひとりに、
『波乱万丈の人生を過ごされたと思いますが・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心の中で呟(つぶや)きなから冥福を祈ったりした。
私は1963〈昭和38〉年に大学に入学したが、この少し前の頃から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で翌年に大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。
その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをし生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。
この間、純文学の新人賞に応募したが、最終候補の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
やむなく何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、近所の家電販売店の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知ったりした。
日本ビクターという会社で、中途入社の募集があり、確か経理、情報分野の要員であった。
私はこのお方のご尽力もあり、入社試験、そして面接を二回ばかりした後、ほぼ内定となった。
この当時の日本ビクターは、確かビジネス情報誌のひとつ『週間ダイヤモンド』に於いて、
民間企業の申告所得ベスト100位以内に常連する大企業であり、
私は内定する直前、このお方から会社に来るように云われた。
私は大企業の重役の役員室は初めて訪れ、内定の確定ができるかどうかの瀬戸際であり、
緊張したのである。
『情報畑も良いけれど・・経理畑はどうかしら・・』
とこのお方は柔らかな視線で私に言った。
『経理関係は・・どうも不得意の分野でして・・』
と私は言った。
このお方にしてみれば、事業本部単位の独算採算制もを経営方針のひとつでにあり、
経理本部は何かと昇進などで有利、と私は学んできたので、あくまでご好意の上、私に言っ下さった。
『私は情報分野でも苦手で・・できましたら音楽事業本部に入れて下されば、最も嬉しいことでして・・』
と私は厚かましいことを懇願して、このお方に申し上げたりした。
『君がどのように想像しているか解からないが・・レコード分野は決して華やかな部署ではないょ・・
音楽の管理畑でいいねぇ・・』
とこのお方は私の要望を受け入れて下さった。
この頃の私の根底には、ハード製品のテレビ、ステレオ、ラジオなどの事業本部より、ソフト商品の方が波長に合う、
同じ働くなら音楽事業本部の方が何かと創作などにも刺激があると思い、
無理難題を申しあげたのが本音であった。
このような状況で何とか日本ビクターに中途入社が出来たのは、
1970(昭和45)年4月であり、25歳の時であった。
私は日本橋にある本社に初出社後、音楽事業本部の仮正社員となり、
ともかく現場を学べと指示されて、いきなり横浜工場にある商品部に配属となった。
製造部でレコード、カセット、ステレオ8(エイト)の商品を製造された後、
商品の中央拠点であり、各営業所の商品在庫までコントロールする部署の商品部であった。
この当時の音楽事業本部は、レコード市場に於いて、圧倒的な首位の座であった。
本体のビクターレコードの森 進一、青江三奈など、RCAレコードで内山田 洋とクールファイブ、藤 圭子など、
フィリップスレコードからは森山良子をはじめ、前年に『黒ねこのタンゴ』などが、ヒットを多発していた。
私は入社早々、商品部の音楽テープ課で商品センター働き始めた時、
森 進一、青江三奈などの曲名も知らず、
君は何も知らないんだねぇ、と職場の方は私の音楽に無知にあきれていた。
私は程ほどに文学、映画には詳しいと秘かに自負していたが、音楽は映画音楽分野しか知らず、
殆ど無知であった。
やむなく私は退社後、自宅の近くのスナックでジュース・ボックスで、
ビクターの販売している歌手の曲を学んだり、
そして音楽月刊誌のクラシック専門誌の『レコード芸術』を購読した。
数ヶ月した頃、フィリップスレコードが親会社のフィリップスの要請により、
レコード会社と独立すると知ったのである。
この当時、数年前にCBSがソニーと折半でCBS/ソニーのレコード会社が設立され、
外資の資本参加のはじまりでもあった。
私はこのフィリップスレコードが独立した日本フォノグラムというレコード会社に転籍の辞令を受けて、
もとよりレコード会社の各社は中小業であり、苦楽の大波、小波をまともに受けたした。
こうして新レコード会社で商品管理の現場を学び、
半年過ぎた頃に中途入社の対象の正社員登用の3泊4日の研修を受けた後、
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。
システムの運用、開発に関しては、既にビクターの音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだのである。
このような関係でビクターの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。
こうした中で、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなった・・。
私は本社でコンピュータ専任者として奮戦していたが、もとよりレコード会社なので、
営業部の片隅み勤務していたが、何かと音楽を聴くことの多い職場であった。
そして音楽情報誌の『オリコン』、数多く業界紙も読んだりして、
他社のレコードも買い求めて聴いたりした。
何より他社は邦楽のヒット曲を連発しているのに、わが社は邦楽が不調で、
ポール・モーリア、イムジチの『四季』などの洋楽は好調であったりしていたが、
私は個人的にはシャンソンの歌の数々に傾倒し始めたりしていた。
このような私の心情の時、1971〈昭和46〉年2月25日にわが社で『また逢う日まで』が発売された。
私は宣伝、販促を兼ねた見本盤を発売前に社内で聴いたりしたが、
斬新な詞の内容と圧倒的な唄い上げる歌唱力を瞬時に感じた。
私は作詞された阿久 悠さんに関しては、前年の10月5日発売された『ざんげの値打ちもない』を買い求め、
この当時の17センチのレコードのシングル盤のジャケットには、
劇画家・上村一夫・氏が印象に残る絵を書かれ、何よりも作詞の斬新さに圧倒的に魅せられ、
この曲以前に、森山加代子の『白い蝶のサンバ』に書いたことも知った。
そして私は、『また逢う日まで』を聴いた後、
これだけジャンルを書き分けられる作詞の才能に、動顚しながら、
この作詞家・阿久 悠さんに、これ以降の作品に何かと注視させられた。
さて今回のテーマである尾崎紀世彦さんに関して、
前年の8月25日に発売された『別れの夜明け』の曲は知っていたが、
歌唱力のある方が唄っていた、という印象ぐらいであった。
そして次曲となった『また逢う日まで』(作詞・阿久 悠、作曲・編曲・筒美京平)は、
斬新な詞の内容と圧倒的な唄い上げる歌唱力の相乗効果の賜物(たまもの)と私は感じたのである。
この当時のレコード会社の各社は、
かってのように専属の作詞家、作曲家を専属契約で所属させる余裕のない時代となり、
大半は多くの音楽出版社が音源まで創り原盤所有の時代となっていた。
この曲も有数な音楽出版社の『日音』の基で創られた曲であり、
レコード会社は音楽出版社、プロダクションなどと連携して発売権に基づいて制作・宣伝・販促し、
そして販売活動をして、全国の5000店前後の契約した販売店に流通させている。
やがて販売店のレコード店などを通して、人々に手に渡っていた。
そして『また逢う日まで』は、音楽情報誌の『オリコン』のベストランキングのシングルに於いて、
発売後、辛口の音楽評論家まで賞賛されながら、5月17日にベストワンに輝き、
その後9週間連続となり、私は片隅でヒットの形跡を初めて間接ながら体験した。
或いは邦楽に不調だった私の勤めていた会社は、たったひとつの大ヒットで業績の躍進を学び、
ひとりのアーティストでレコード会社を変貌させる、という業界の哲学のひとつを実感させられた。
この『また逢う日まで』が上昇している4月25日に、30センチレコードのアルバム『ファースト・アルバム』が発売された。
このアルバムは、当時の洋楽で流行っていた有数な曲が選定されていた。
たとえばトム・ジョーンズの『思い出のグリーン・グラス』、『ラブ・ミー・トゥナイト』、
エンゲルト・フンパーディングの『太陽は燃えている』、『ラストワルツ』、
プレスリーの『この胸のときめきを』、『好きにならずにはいられない』などであったが、
私は国内の歌手で初めて世界の第一線の歌手と肩が並べられる歌唱力のある人と実感した。
その後、シングルでは7月25日『さよならをもう一度』、11月25日『愛する人はひとり』もヒットされ、
この年の日本レコード大賞、日本歌謡大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場され、
私としては嬉しげに歳末を迎えることができた。
私はその後の今でも覚えている圧倒的にシングルの印象的な曲としては、
翌年の7月5日『ゴッドファーザー~愛のテーマ』(作詞・L.Kusik、訳詞・千家和也、作曲・ニーノ・ロータ、編曲・前田憲男)、
その翌年の第2回東京音楽祭銀賞受賞曲された6月5日『かがやける愛の日に』(作詞・阿久 悠、作曲・筒美京平、編曲・葵 まさひこ)である。
その後もアルバムが発売されたたびに、私は買い求めたりした。
こうした中で、風の噂として、尾崎紀世彦はテレビなどで同じ曲を何回も唄うのはいやがって、辞退することが多い、
と聞いたりしていた。
その後、確か1977〈昭和52〉年の時だったと記憶しているが、
尾崎紀世彦さんのディナー・ショウが品川のホテルパシフィック東京で開催されることを知り、
私は前年に結婚し、新妻の家内を誘って行った。
この時に、尾崎紀世彦さんは数多くのアルバムの中から、のびのびと10曲ぐらい唄い、
私は聴いたりしながら、大人のお客さんも満足させることのできる圧倒的な歌唱力で、
そのショーのたびごとに、ご自分が好きな曲を選定して唄う稀(まれ)なアーティスト、と好感した。
そして私は、今でもCDとなったアルバムを時折聴いたりしている。
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