夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときには『おひとりさま』の独りぼっちの生活、何かと愚図の私は・・。

2015-06-30 09:20:49 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。
                             
       
たまたま今回、家内は昨日の29日より家内の母宅に、わずか3泊4日となっている。
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら過ごすこともある。
               
こうした根底のひとつとしては、過ぎし7年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。

平素の私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行っているが、
いつも感じさせられることは、主婦の人はさりげない知恵と体力で日々の家事全般の責務を果たしている、
と幾たびか実感を深めたりしてきた・・。
          
          
そして『おひとりさま』の生活は、季節の変わるたびの定例行事となり、
何かと愚図でノロマの私でも、ここ6年は安定化している、と独り微苦笑することもある。

朝一番に行うことは、台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、最優先として一合ばかりのお米を洗い、五穀米を加えて電気炊飯器に10分後にセットする。
この後は読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりする。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
昨今は天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えないと気が多くなっている。

こうした時は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂く、

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

しかしながら、ご飯の一合は多すぎるので、半分はラップに包んで、
こっそりと冷蔵庫の片隅に保存し、翌朝に電子レンジで温めて、頂いている。
従って二日に一回だけ、お米を洗いのが実態となっている。
          

昼食はフランスパンを三分の一、ときにはアンパンを頂いたりしている。

そして夕食は、私の場合は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
2日に1回、スーパーで買い物をし、野菜コーナー、肉類コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、
適度に選定し、煎茶を飲みながら食べたりしてきた。

しかしながら独りだと話し相手がいなく寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
或いはウィスキーをオンザロックして数杯を呑みながら、テレビのニュースを視聴したりした。
         
          
洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機で、洗いから乾燥までしてくれるオール自動セットに頼り、
パジャマ、肌着、タオルなど2日に1回まとめて、
あとはお願いねぇ、と洗濯機に向って呟(つぶや)くことが多い。

日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたりしているが、
本音を発露すれば、埃が多少あっても生死に影響はない、と3日1回ぐらいとなっている。

こうした中で、家内から借りたエプロンを着て、台所で皿洗いをしたりしているが、
現役時代のサラリーマンだった業務よりも、ただちに成果が感じられて小奇麗になるので、
水遊びを兼ねて楽しんだりしている。

こうした時は、なぜかしら古き良き時代の歌謡曲をかぼそい声で幾度も唄いながら、
皿洗いをしたりした。
            
この間、平素のように本を読んだり、居間でビデオ棚から映画の作品を観たり、
或いは音楽棚から聴きたいCDを取りだして聴いたりしてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、もとより家内のいる平素の日常生活から落第生となっている。
                 

平素の我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

こうしたことは年金生活を数年過ぎた頃、現役サラリーマン時代の緊張感が薄れてきた上、
ボケてはいけないと思い、せめて家内への返事とか戸締りの点検なとで言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりしている。

独りぼっちの場合でも、万一不手際で火災とか盗難に遭遇すると困窮するので、
相変わらず指差し点検を行い、何故かしらかぼそい声で言ったりしている。

そして報告する相棒がいなく、独り微苦笑したりしている。

何よりも困苦することは、私の母からの血筋を受けた私は、恥ずかしながら男の癖におしゃべりの為、
気楽に話せる相棒がいなく、寂しいが本音となっている。
                           

余談であるが、年金生活を始めた2004年(平成16年)の当初の頃に、
作家の曽野綾子さんの随筆の一節に『夫族の中で、生活者として無能な人がいて・・』と銘言を学び、
今回も私は叱咤激励されながら過ごしているが、手抜きが多いので『おひとりさま』の劣等生かしら、
と苦笑したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死に至る「睡眠」・長生きする「睡眠」を学び、過ぎし日々を思い重ねて、微苦笑して・・。

2015-06-29 08:19:36 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生となっている。

東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
           
                                              
この後の日中の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、
聴いたりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
          

昨夜、週に一度ぐらい愛読している講談社の基幹サイトの【現代ビジネス 】を見ていたら、
《死に至る「睡眠」・長生きする「睡眠」 人生の3分の1を占める時間、あなたは上手に過ごしていますか?》
と題された見出しを見て、何かと睡眠不足で定年まで半生を過ごしてきた私は、
どういうことなのょ、とクリックした。

やがて70歳の身ながら、「睡眠」は健康はもとより、心身に大切なことだ、
と多々教示された・・。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43848
☆【現代ビジネス 】<==『オトナの生活』<==『賢者の生活』
       <==『死に至る「睡眠」・長生きする「睡眠」 人生の3分の1を占める時間、あなたは上手に過ごしていますか?』

そして私は多々教示されたことを整理した。

◎睡眠は、ただ身体を休めるためだけのものではありません。
と睡眠障害の治療などで広く知られる遠藤拓郎・スリープクリニック調布院長の助言。

たとえば、成長ホルモンは子供の成長だけでなく、大人でも古くなったり壊れてしまった細胞を
新しくする役割を担っていますが、これは起きている間はほとんど分泌されず、
就寝後3時間の間に多く出ることが知られています。

細胞が再生されなければ、お酒を飲んで壊された肝臓の細胞も、
年齢を重ねたお肌も、病と闘う免疫細胞も更新されません。

睡眠がうまくとれないことは、認知症や糖尿病、がんなど、重大な病気にもつながるのです」
          

◎睡眠不足は、死に至る病にも直結することである。

睡眠の状態を見ることで、実は睡眠障害だけでなく、隠された深刻な病が明らかになることが多いと、
睡眠呼吸障害が専門で東京医科歯科大学の附属病院快眠センター 玉岡明洋副センター長の助言。

「『いい睡眠がとれない』と私たちの病院で受診された患者さんには、
睡眠時無呼吸症候群などの睡眠障害に加えて、生活習慣病の可能性を調べます。

寝つきが悪い、夜中に何回もトイレに行く、朝起きたとき頭痛がする、
起きたとき口がすごく乾いている、といった症状を訴える方から、糖尿病が見つかったという例もあります。

患者さんの中には驚いて、『そんなことは言われたためしがない。先生は睡眠が専門でしょう。
本当に糖尿病なんですか』と疑われる方もいますが、
睡眠の状態からは、さまざまな病気が判明するのです」

病気だから睡眠の状態が悪いのか、睡眠の質が悪いから病気になったのか。
これはどちらとも分けられないほど、渾然一体としているという。

たとえば、起きたときに頭痛がする場合には、睡眠時無呼吸症候群による低酸素状態の心配もある。
睡眠時無呼吸症候群は、肥満などによって喉の気道周辺が圧迫され、
寝ている間にうまく呼吸ができず、息が止まってしまうことがある病だ。

自分では気がつかないが、いびきも大きくなる。
家族に「最近、いびきがうるさいよ」などと言われた場合は要注意だ。

この病にかかると、全身が慢性的な酸素不足に陥り、眠りは浅くなって疲労は回復せず蓄積していく。
心不全や脳出血による突然死の、大きな要因の一つとされる。
          

◎人間には『体内時計』があり、一日の活動のサイクルを司(つかさど)る。
遠藤拓郎・スリープクリニック調布院長の助言。

「体内時計によって、人間は夜になると体温が下がる。
体温が急激に下がる際に、人間は強い眠気を感じるのです。
そして、朝になると、コルチゾールというホルモンを分泌させて、体温を上げます。

ストレスホルモンと呼ばれるものの一種で、心身にストレスがかかると多く分泌され、
体温や心拍数を上げ、エネルギーを使いやすくする。

ところが、むしゃくしゃした気持ちを抱えたまま、ふて寝するときのように、
精神的なストレスをためこみ、コルチゾールが多量に分泌された状態で寝ると、
身体は戦闘状態のまま眠るような状況になってしまう。

「体温が下がらないので寝つきが悪く、血圧が下がらないから高血圧になり、
毛細血管がやられて脳梗塞、心筋梗塞になりやすくなる」

慢性的な睡眠不足の上、風呂に入ってリラックスするでもなく、電気もつけっぱなし、
音楽などをかけっぱなしで寝るようなことをつづけると、
いつも眠りが浅く、夜中にすぐ目が覚めてしまう。

質の悪い眠りを重ねると、成長ホルモンの分泌を盛んにする深い眠りが不足、
体内で免疫細胞が生産されにくくなる。

普通なら免疫で排除されるような小さながん細胞が、野放しになり、がんのリスクが高くなる。

「認知症は脳細胞が死んでいく病ですが、眠れないと脳細胞は急速に死んでいきます。
高齢者福祉施設で入居者は3日間眠れないと家族の顔を忘れると言われる。
認知症は、よく言われる加齢や脳を使わないことだけでなく、不眠によっても加速するのです」
          

☆体内時計の睡眠リズムを安定させる
玉岡明洋副センター長の助言。

床につく時間を気にするよりも、起きる時間を一定にしたほうがよい。

「朝日を浴びると体内時計はリセットされ、
自分なりの睡眠リズムが安定し、自然と夜の寝つきもよくなります。

平日よりも土日は多く寝ようとする人がいますが、これをやると月曜日の朝には体内時計が狂ってしまう。
また、いわゆる寝だめには普段の睡眠不足を補う効果はないことが知られています」

最近の研究では、その人なりのリズムより長く寝すぎると、
抑うつ気味になり、気分が落ち込むことが判明。
          


このように多々教示され、やがて過ぎし私が若き日の23歳の頃が思いだされた・・。

この当時の私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をしていた。

都心のあるスーパーの勤務地に派遣されて、2人で48時間の交代勤務をした体験がある。

たとえば私が朝の9時に出勤し、相手方と1時間ばかりお互いに確認した後、
相手方は退社し、私は警備室で朝の10時から翌日の朝の9時まで責務の時間となる。

この間、毎一時間ごとに10分前後で巡回をすれば、
残りの時間の警備室で自在の勤務体制となるので、私は文学修行の時間帯とした。

このような勤務をしていると明け方の3時頃が眠くなり、
少し10分ぐらいウトウトする程度で、日の出の前の夜明けを待ち焦(こ)がれたりした。

こうして勤務サイクルをしていると、何よりも困苦したのは、
相手方が冠婚葬祭で休暇となり、私は2日分の48時間を勤務し、
眠れない過酷な勤務となったことである。

この当時の中小業の警備会社は、大半の自由な時間なことがあるが、
このようなハードな勤務体制があったりし、さすがに若さを誇っていても身体が順応できず、
私は10ヶ月ばかり勤めた後、退社した。
          

やがて文学青年の真似事があえなく敗退した後、
止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、1年間ばかり学んだりした。

そして何とか民間会社に中途入社して、やがて正社員として奮闘していた。
こうした中で、情報畑でコンピュータを活用し、運営・開発をしていた業務を20数年したりした。

そして業務は数年ごとにシステムの改定をしたり、全面改定の開発業務になると、
深夜、休日出勤などで奮闘したりした。

或いは徹夜勤務をして、連続勤務30時間前後は幾たびもしたが、
もとより確かな先の見える正社員であり、達成感の悦びが加わり、奮戦したりした。
          

昨今、この世は健康第一と、食べ物、薬などが大いにもてはやされている・・。
もとより超高齢化の社会なので、長寿の命題でこのような風潮となっているが、ときおり私は苦笑する・・。

私は健康の源(みなもと)は、程ほどの食べ物を頂き、栄養補給剤の薬に頼らず、
何よりも熟睡こそ肝要で、そして生きがいのある言動をしていれば、
たとえ齢を重ね体力が衰えても、心身は溌溂(はつらつ)と確信している。

そして私は定年後、風邪気味の時は、病院などに行かず、早めに布団にもぐり、
本を読み、そして睡眠時間を多めにしている。

これは年金生活の自在の身だからできることなので、
この世で一番贅沢なことと確信しながら、と微苦笑しながら甘受している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽観思考の私でも、ときには気落ちし、やがて帯津良一さんの名言に励まされ・・。

2015-06-28 11:41:07 | ささやかな古稀からの思い
私は古希と称される70歳の年金生活の身であるが、
ここ一週間は何かと楽観思考の私でも、気落ちしてきた・・。

作家・石原慎太郎さんの著書『歴史の十字路に立って~戦後70年の回顧』が
ネットの【PHPオンライン 衆知】で一部公開され、
私は読んだりして、深く思考させられて、深く悲嘆してしまった。
          

無断であるが、一部を引用させて頂く。
《・・あの戦争から早くももう70年が経とうとしている。
私は戦争にはわずかに遅れてきた少年だったせいで、終戦近く、
米軍機による爆撃や機銃掃射に遭いはしたものの死なずに済んだ。

それでも戦争に関する記憶はいろいろある。
敗戦間際に紺碧の空に仰いだ敵機B-29が追撃の日本の戦闘機や高射砲の届かぬ高空を
初めて目にする鮮やかな飛行機雲を引きながら去っていく姿。

そして海鳴りに似た遠い九十九里浜への敵艦の艦砲射撃の音。
空襲で燃え上がる横浜や東京の夜空を染める炎の色。

爾来、日本人として敗戦の屈辱を噛み締めながら、
日本が自らの運命は自ら決せられる国として再起する日を信じて今日まで歩んできた。

時には自らの人生そのものを懸けて国の舵取りに挑み、歴史の交差点に立ち会ってもきた。
今齢八十を超え、私の人生という航海も終わりに近づきつつある。
(略)

今、「戦後70年」という時間に自らの人生を重ねてみると、
私なりに懸命にこの日本について考え、真の独立国家としての再起を訴えてきたつもりだが
結果として日本をどう支えも出来ず、
どう救いも出来ずに立ち至ってしまったと慙愧の念に堪えない。
(略)
戦後70年を経た日本は、物欲第一の時代を迎えてしまったようだ。
振り返ってみると、戦後この方日本が享受してきた平和は、世界の中で未曾有のものだったとも言える。

国家を只ならぬ緊張に哂す事態に遭遇することなく、
アメリカに隷属することでの「平和の代償」を意識することもなく半世紀あまりを過ごせたのは
人間の歴史の中でも稀有なことではあるまいか。
          

しかし、「平和の毒」というものは明らかにある。
私は最近の日本の様相を眺めると、この言葉を是とせざるを得ない。
政治が何を行うかは所詮、国民が何を望み欲しているかによって決まってくる。

ならば今、大方の日本人が何を最も求め欲しているかといえば、端的にいって物欲を満たすこと・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
          

私は1960年(昭和35年)に高校に入学してまもなく、歴史、時事に関心して以来、
特に専門知識もないシロウトの身ながら、現代史などを乱読して学んだりしてきた・・。

そして戦後の日本は、アメリカの怜悧な国益の基で、日本はアメリカの保護下で、
政治、外交、軍事、文化そして経済さえも属国となり、真の独立国とは思えず、今日に至っている。

こうした日本に、世界の主要のアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツなど、そして中国からも、
大人になれない国、と冷笑されている、と私は憂いたりしてきたひとりである。

何よりも日本とドイツは同じ敗戦国でありながら、
地理的な島国、陸続き、そして隣国を取り巻く状況には差異があるが、
共に戦後を歩んできた中、主権国家としての国のありかたが、大きく異なってしまったのだろうか、と悲嘆している。

こうした真情のある私は、本書の石原慎太郎さんの要旨は、無力な私でも至言です、感じ深めて、
やがて気落ちしてきた。


或いは私は高齢者の癖に、今日の高齢化に伴う介護の難題も無知な方であったので、
学へば学ぶ程、悲惨な実態を知り、悲嘆してきた。
          

私は平素は亡き母の遺伝を受けて、男の癖におしゃべりで、家内はもとより、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして知人とか友人から、人生に対して楽観プラス思考だよ、と私は言われたりしている。

こうした何かと単細胞の私でも、石原慎太郎さんに戦後の日本を的言、
そして益々高齢化になる今後の介護の悲惨な状況を学び、
ここ一週間は気落ちしてきた・・。
                    

昨夜、うつろな思いで本棚から一冊を抜き取った。
帯津良一(おびつ・りょういち)・著作の『楽々往生 ~老いを輝かせる12の心得』(ベスト新書)である。
             
               
本書は、過ぎし2011年〈平成23年〉の秋に、買い求めて、何かと大いに励ましを受けた一冊であった。
               
この本の帯に明記されている『楽々往生のための心得』として、
《 ◎いくつになっても、ときめきをもつ
  ◎「定年」で終わりにしない
  ◎ひとりを愉しむ
  ◎自分なりの「養成法」をもつ
  ◎敗れることも必ず想定に入れる
  ◎できるだけ身軽でいる 》
このように記載されていることを私は多々教示されて、私のセカンドライフの格言としている。
(意味合いが想像して、ご理解できない方は、この本をお読みください。)
             
         
私は医学博士で病院長の帯津良一さんに、紙上でめぐり逢えたのは、
過ぎし2010年8月下旬の頃に、帯津良一さんの雑誌での発言が、新聞の出版広告で偶然に読み、
この雑誌が女性月刊誌の『婦人公論』と知り、私は恥ずかしながら買い求めて、精読したりした。

《・・(略)・・私の理想は、「達者でポックリ」逝くことです。
死ぬ直前まで自分の足で歩き、自分の口で食べ、自分の頭で考えることができる。
「寝たきり」とは180度対照的な死に方が、「達者でポックリ」だと言えるでしょう。
・・
人生は生老病死ーーつまり死も含めて、丸ごと自分の人生なのだから、
「死に時」も「死に方」も自分らしくありたいという考えが基本です。
          

「いたずらに死を恐れるあまり不要に長生きしても意味がない」と考えるようになったのは、
このホリスティック医学の考え方に共鳴し、
その理念に基づいて自らの病院を設立した40半ば以降です。
・・
私もブラッと飲みに行けなくなったら、そろそろ「死に時」ですかねぇ(笑)。
理想は、下町の小料理店に出向き、さぁ、今日は何をツマミに飲もうかなとワクワクして暖簾をくぐっているときに、
心筋梗塞でバタッと倒れるなんていうのがいいですね。

年齢に関していえば、80歳くらいまで生きれば十分ではないですか。
もちろん、肉体面でも精神面でも人それぞれ個人差がありますから一概には言えません。

しかし、自力で自由に動けるのはせいぜい80代まででしょう。
90代になると、何かしら衰え、欠けてくる。
いくら頭がしっかりとしている人でも、足腰が立たなくなったり、その逆のケースも起こります。

ましてや100歳なんて、どんな人でもポンコツになっているはずですよ(笑)。
おめでたいと言うけれど、100歳以上は、やはり「生き過ぎ」だと私は思います。

これとこれができなくなったら、自分はそろそろ「死に時」かもしれない。
その線引きは人それぞれですし、それがわかれば、
「生きているうちにこれだけはやり遂げておこう」という人生のテーマも見えてくる。

つまり、自分にとってベストな「死に時」を考えことは、
今、生きているこの時間を最大限に充実させて生きていくことにもつながるのである。(略)・・》
          

このような秘伝を、この後に6つばかり披露して下さったのである。
          
そして私は、今後の確かな晩年期の導きの御人にめぐり逢えた、深く感じて、
これ以降、帯津良一さんの言動に注視して、信愛を重ねている。

         
私の家の最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら殆ど毎日のように歩いている。

そして本日、憂いを払拭した私は、歩いたりしてきた。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

介護の概要、遅ればせながら70歳の私は、学び初めて、やがて・・。

2015-06-27 10:21:39 | ささやかな古稀からの思い
私は恥ずかしながら、厚生労働省が管轄する公的介護保険、介護の概要に関しても、
殆ど無知な高齢者な年金生活をしている70歳の身である。

過ぎし年の2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となったが、
長きサラリーマン時代に給与から社会保険として『厚生年金』と『健康保険』と『失業保険』があったが、
確か定年の数年前に『介護保険』が新設されて、給与から差し引かれたりした。

この当時の私は、リストラ烈風の中、出向先で奮戦していたので、
高齢化社会を迎えて、やがて私も老年になった時、介護を受ける身になるかしら、
と漠然として思ったりしていた。
          

私の父は私が小学2年の時に、最寄の内科医師が来宅されて訪問治療を受けたりしていた。
肝臓が悪化して床に臥(ふ)したり、或いは体調の良い時は農作業をしていたが、
やがて42歳の若さで肝臓ガンで死去した。

母は私が54歳の時に病死したが、数年前から入退院を繰り返して、
婦人系のガンで喜寿(きじゅ)と称される77歳を迎えてまもなく亡くなった。

家内の父は私が定年退職する直前に病死されたが、やはり4年前から入退院を繰り返して、
腎臓ガンで77歳で死去した。

いずれも認知症にもならず、公的介護保険には無縁であった。

家内の母は独り住まいとなってしまったが、心身溌剌とふるまってきたが、
4年前の80歳前後に膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)を突いて歩く身となった。

そして市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。
          

こうした中、私が定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
市から『介護保険』の請求があり、漠然と支払ってきた。
そして介護には『要支援』と『要介護』のランクがあることを知ったりした。
          
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、
心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、やがて80代後半では
何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

この後、私は介護付き施設を何かと注視するようになったが、
公的介護保険にも殆ど無知である上、肝要の介護の概要も漠然としているのが本音である。
          
          
たまたま昨夜、【産経デジタル】の中のひとつ終活WEB【ソナエ】に於いて、
遅ればせながら、介護の概要を学んだりした・・。
http://sonae.sankei.co.jp/howto/list/howto_05.html
☆【産経デジタル】<==終活WEB【ソナエ】<==『介護』☆

そして介護保険、介護認定から利用まで、要介護と要支援(認定区分)、
要介護1~5で利用できるサービス、要支援1、2で利用できるサービスなどを教示された。
          

私は過ぎし昨年の9月の誕生日を迎え、古希と称される70歳となり、
家内は昨年の12月に65歳の高齢者入門となったりした。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

過ぎし私が66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたりした。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
ひたすら歩くことが多くなっている。

そして独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
 
こうしたこと以外は私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

しかしながら、いつの日にか身体が衰え、家内の母と同様な『要支援』を受ける立場となる・・。
          

家内の母は私より14歳ばかり齢上の高齢者であり、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。

この間、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に4回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

過ぎし5年前の頃に通院している医師の勧(すす)めもあり、
そして家内は聞き、市の福祉関係した結果、やがて『要支援2』と認定されて、今日に至っているが、
私は家内から経過の概要は聞いたりしてきた。

しかしながら詳細の手続きの過程は、無知であった。
          

こうした事情もあり今回、私が特に学んだのは、『介護認定から利用まで』であった。

①介護保険を使って介護サービスを受けるには、日常生活で介護・支援が必要と認定される必要がある。

②住んでいる市区町村の窓口で要介護(要支援)認定の申請を行う。

③申請後は市区町村の職員などが家庭などを訪問。認定に向けた聞き取り調査(認定調査)を行なわれる。

④市区町村からの依頼により、かかりつけの医師が心身の状況について意見書(主治医意見書)を作成される。

⑤これらの認定調査結果や主治医意見書に基づき、コンピューターによる一次判定が行われる。

⑥さらに介護認定審査会が一次判定の結果や主治医意見書に基づいて二次判定を実施される。

⑦この結果を受けて、市区町村が要介護度を決定します。

⑧原則として申請から30日以内に結果が通知される。

⑨要介護状態の区分は大きく、「非該当(自立)」「要支援」(社会的支援が必要)、
 「要介護」(介護が必要)の3区分がある。
 非該当(自立)は、介護保険の給付対象となりません。
 症状によって、要支援は1、2、要介護は1~5に区分される。

⑩要介護度に応じて受けられるサービスが決まっているため、自分の要介護度が判定された後、
どのような介護サービスをいつ、どれだけ利用するかについて介護サービス計画書(ケアプラン)を作成し、
それに基づいたサービスの利用が始まります。

⑪「要支援1、2」のケアプランは、地域包括支援センターに相談します。
 「要介護1以上」のケアプランは、介護支援専門員(ケアマネジャー)のいる
居宅介護支援事業者(ケアプラン作成事業者)へ作成を依頼します。

⑫要介護認定には有効期間があり、新規の場合は原則6カ月、
 更新の場合は原則1年(または、市町村が定める期間)となる。
 更新の手続きは有効期間が終わる60日前から可能です。
 もし認定後に状況が悪化した時は、変更の申請ができる。

このようなことを多々教示されたりした。
          
          
やがて私は、『要介護3』の状態を見たりし、
《身の回りの世話や排泄が自分ひとりでできない。
移動等の動作や立位保持が自分でできないことがある。
いくつかの問題行動や理解の低下が見られることがある。》
このような悲嘆な状態を知り、勘弁してょ、というのが私の本音である。

いつの日にか、誰しもが齢を重ねれば老後の末期を迎えるが、
私は程々な身体が弱まり、『要支援』は受け入れられるが、果たして『要介護』の世界は・・
漠然としながらも、欧米社会に多い自身の意思で介護を依頼できる範囲まで、
と願ったりしている。

そして私も自身の確かな意思があるうちに、この世とさよならをしたい、と念願したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老後の医療費は闇雲に恐れる必要はない、と古稀の私は、改めて励まされて

2015-06-26 10:41:51 | ささやかな古稀からの思い
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は過ぎし昨年の9月の誕生日を迎え、古希と称される70歳となり、
家内は昨年の12月に65歳の高齢者入門となったりした。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                  
過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた直後、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした中、健康保険に関して定年退職後も、勤めていた企業の所属する健康機関に継続していたが、
支払い請求額の通知を受けて、少し高いなぁ、とため息をついたりした。

現役の企業の諸兄諸姉が所属していた健康機関なので、
何かしら病気とか万一の病死などは手厚く保障されていたが、
私の現役サラリーマン時代は給与から自動的に毎月差し引かれていたので、
余り気にせずに、高いとも低いとも感じていなかった。

やがて私は定年後に年金生活に入ったが、昭和19年9月生まれであるので、
年金満額支給は62歳になってからであり、それまでの2年間は年金支給額は、ほぼ半額程度であった。

このような収入時期の時代で、やはり企業の所属する健康機関は手厚く保障されていたが、
支払う毎月の保険料も高かった、と遅ればせながら気付いたりした。

やむなく私は、健康保険を企業の所属していた健康機関から国民健康保険に切り替え後、
最初の『国民健康保険料』の夫婦合算の請求支払額が余りにも激少したので、微苦笑したりした。

もとより国民健康保険料は、前年度の収入に基づいて、
家族構成、お住まい地域の自治体により差は発生するが、算出されている。

この後、保険関係をすべて見直して、
現役サラリーマン時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとしたりした。
                                    
やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

その後、2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と家内の妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、
年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は教えらた、と家内の帰宅後に私は聞いたりした。

この後、何かと愚図の私は、現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視(み)たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
                 
そして、私は解約の手続きを開始したのは、私たち夫婦は年金生活を7年過ぎた頃であった。  

こうした中、家内は年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあれば、
万一、大病やケガで多額の医療費が要した時は、「高額療養費制度」を活用させて頂く、と思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。
                    

こうした中で 「高額療養費制度」は、何かしら手術や治療で、
月に100万円かかることになったとしても「高額療養費制度」を活用すれば、
実際の負担額は月9万円を超えることはない、と学んだりした。

たとえば100万円の医療費のうち、70歳未満なら、
まず3割が自己負担なので、窓口で支払うのは30万円。

さらに「高額療養費制度」を利用すると、1か月の医療費が約9万円を超えた分については、
加入する健康保険に申請すると、払い戻してもらえ、約21万円が後から戻ってくる、と知ったりした。
                    
このように「高額療養費制度」を学び、何よりも私のような高齢者に頼りになる制度、
と私は信愛を深めたりしてきた・・。
          

昨夜、毎日のように愛読している総合ビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】を
見たりしていた中で、『ライフ・健康』コーナーに於いて、
『知らないと損する!医療費の裏ワザと落とし穴 』があり、この中のひとつの記事で、
『年を取って病院へ行く回数が増えると、出費もどんどん増える?』と題された記事を読んだりした・・。

恥ずかしながら昨今忘れてしまうことがあり、改めてお勉強ねぇ、と思いながら読んでいたが、
改めて多々教示されたりした。

この分野に詳しいフリーライターの早川幸子さんが寄稿された記事で、2015年6月18日に配信され、
無断ながら転載させて頂く。
          

《・・「膝が痛くて、毎週のように整形外科に通っている」
「月1回、高血圧の薬を内科で処方してもらっている」
「入院して白内障の手術を受けた」

若いときは病気ひとつしなかった人でも、年を重ねると病気やケガで医療機関を利用する機会が増えていく。

通院している人の割合を比べてみると、40~44歳は3.4%なのに対して、
70歳以上になると12.4%。若い人の約4倍もの人が通院している。
入院にいたっては、40~44歳が0.3%なのに、70歳以上は3.7%で、
12倍もの開きがある(厚生労働省「患者調査」2011年。10万人に対する割合)
          

☆受診率の高さは、医療費にも反映される。

2011年のひとりあたり医療費は、45~64歳が27万5700円なのに対して、
70歳以上は80万6800円(2012年度「国民医療費」)。
若い世代の3倍の医療費を使っている。

こうしたデータを見ると、高齢になってからの医療費負担に不安を覚える人もいるだろう。
だが、健康保険があるので、このすべてを自己負担するわけではない。
しかも、高齢者特有の受診回数の多さを考慮して、70歳以上の人の自己負担額は、
現役世代のそれよりも、かなり低く抑えられるようになっている。
          

☆病院の窓口負担割合は70歳から引き下げられる

医療機関の窓口では年齢や所得に応じて、かかった医療費の一部を負担する。
この一部負担金の割合は、70歳未満は所得に関係なく3割(未就学児は2割)。
だが、70歳になると2割になり、75歳以降は1割に引き下げられる(ただし、現役並み所得の人は3割)。

以前は、70~74歳の人の窓口負担割合も1割だったが、
2014年4月2日以降に70歳になった人から2割に引き上げられることになった。

生年月日でいうと、1944年(昭和19年)4月2日以降に生まれた人だ。
70~74歳の人の窓口負担の引き上げは、2006年に改正された法律で決められたものだ。
本来なら2008年から実施されるはずだったが、政治的な理由で凍結され、
昨年、ようやく実施に至ったという経緯がある。

このときの法改正では、同時に高額療養費の上限額を引き上げることも決められたが、
低所得層への配慮などから今回も据え置かれることになった。
          

☆現役世代に比べると、かなり低い高額療養費

高額療養費は、病気やケガをしても医療費を支払うために借金したり、
生活できないといった事態が起こらないように配慮した制度で、福祉元年と呼ばれる1973年(昭和48年)に導入された。

1ヵ月に自己負担する医療費には上限を設けることで、
高額な治療をしても、実際に支払うお金は低く抑えられるようにした。
患者にとっては有難い制度だが、70歳未満と70歳以降では、自己負担限度額や利用条件が異なる。

70歳未満の場合、1ヵ月の自己負担限度額は所得に応じて5段階。
たとえば一般的な収入(年収約370万~約770万円)の人は
【8万100円+(医療費-26万7000円)×1%】。
医療費が100万円だった場合は、8万7430円だ。

高額療養費に該当する月が1年間に3回以上になると、
4回目からさらに負担が下がる「多数回該当」という制度もある。
たとえば、一般的な収入の人の場合は4万4400円になる。

これを、「個人ごと」「1ヵ月ごと」「1医療機関ごと」に計算する。
入院でも通院でも区別なく、この金額が1ヵ月の自己負担上限額になる。

家族が同時に病気になって医療費がたくさんかかった場合、
家族の医療費をまとめて高額療養費の申請ができる「世帯合算」という制度もあるが、
それぞれの自己負担分が2万1000円を超えることが利用条件だ。


だが、70歳以上になると、自己負担限度額は4段階に分類される。
「1ヵ月ごと」に計算するのは同じだが、金額は「通院のみ」と「通院と入院」で異なり、世帯合算のハードルも低い。
そのため、70歳以上の人の医療費の自己負担は、かなり低く抑えられるようになるのだ。
          

☆通院のみは1万2000円、入院もしたら4万4400円

夫婦ともに70歳で、年収が「一般」の場合の自己負担額を見てみよう。

●通院のみ…個人ごとに月1万2000円

通院だけの月は、夫婦それぞれに高額療養費を計算する。

70歳未満は医療機関ごとに1ヵ月の高額療養費を計算するが、
70歳以上は複数の医療機関の窓口に支払った自己負担額をすべて合算できる。

高齢になると「毎月、内科と整形外科に通って、今月は眼科にもかかった」など、
複数の医療機関を利用するケースが多くなる。
これらの自己負担額をすべて合計して、ひとりにつき1万2000円を超えた分は、
申請すると払い戻してもらえる。

つまり、夫婦ともに通院しても、それぞれ1万2000円が自己負担限度額。
夫婦ふたりでも2万4000円を超える医療費はかからない。
          

●通院と入院の両方…世帯単位で4万4400円

入院もした月は、通院費用も合算して、世帯単位で高額療養費を計算する。

たとえば、「夫が持病の心臓病のために通院治療をしていたが、今月は入院もして手術を受けた」といったケースでは、
1ヵ月の自己負担限度額は4万4400円。
通院での限度額1万2000円に入院費用を加えて4万4400円を超えたら、払い戻しを受けられる。

さらに、妻も通院していたら、その自己負担分も合算できるので、
どんなに医療費がかかったとしても、夫婦で合計4万4400円以上は負担しなくていい。

ただし、世帯合算できるのは、家族で同じ健康保険に加入していることが条件なので、
夫婦で別々の健康保険に加入している場合は合算対象にならない。

たとえば、「夫婦ともに70歳で地域の国民健康保険に加入」というケースは合算できるが、
「夫が75歳で後期高齢者医療制度、妻は73歳で国民健康保険に加入」というケースでは合算できない。

70~74歳の人で、70歳未満の子どもなどと同居して、
同じ健康保険に加入している場合は、これも合算対象になる。
ただし、70歳未満の人の自己負担分は2万1000円を超えていることが条件だ。
          

☆世帯合算するとさらに負担が軽くなることも

70歳以上の人の窓口負担割合は、所得に応じて2段階。
通常は年齢に応じて1割、もしくは2割だが、現役並みの所得のある人は3割だ。
それを医療機関の窓口で証明するために、70~74歳の人には健康保険証のほかに「高齢受給者証」が発行される。

75歳以上の後期高齢者医療制度の人は、健康保険証にその人の窓口負担割合が記載されている。
医療機関は、この負担割合を見て、会計時に患者に請求する金額を計算しているのだ。

高額療養費の自己負担限度額も、入院のみの場合は、記載された窓口負担割合をもとに、
病院側が自動的に計算してくれる。
そのため、原則的には自分で申請しなくても、窓口では限度額までを支払えばよいことになっている。

ただし、「1ヵ月に複数の病院に入院した」「入院のほかに通院もした」というケースでは、
申請しないと払い戻しを受けられない。
高額療養費の対象になる人には、健康保険から書類が送られてくるので、忘れずに申請しよう。

住民税非課税世帯の人は、窓口負担割合は1~2割だが、
高額療養費の自己負担限度額の限度額は所得が「一般」の人よりも低い。
だが、病院側は健康保険証を見ただけでは限度額を把握できないので、証明できるものがないと、
窓口では「一般」の人と同じ限度額まで支払わなければいけなくなる。

住民税非課税世帯の人で、入院することが分かっている場合は、
事前に加入している健康保険で「限度額適用認定証」を発行してもらっておくと、
持ち出しを少なくできることも覚えておきたい。

高齢になると、医療機関を受診する回数は増え、医療費も高くなる。
だが、日本の医療制度は、受診傾向を踏まえて70歳以降の医療費の自己負担は軽くなるように設計されている。
          

自己負担額は所得に応じて、通院だけなら月8000~4万4400円。
入院しても月1万5000~9万円程度だ。
このほかに、入院中は食事療養費が別途かかるが、現在は所得に応じて1食あたり100~260円だ
(一般病床の場合。ただし、2016年度から引き上げられる予定)。

定期的な年金収入、ある程度の預貯金があれば、決して払えない金額ではない。
こうした制度があることを知っておけば、老後の医療費を闇雲に恐れる必要もない。

「老後の医療費の備え」というと、民間の医療保険に入ることばかりがクローズアップされるが、
それ以前に今ある公的な制度を知っておくことが大切だ。

公的な健康保険は、財政論を巡って「破綻寸前」などと揶揄される。
だが、もしも、今のような制度がなくなってしまったら、
医療にかかれない人が続出し、国家の存亡に関わることになる。

今のように、「いつでも」「だれでも」「どこでも」平等にかかれる医療は、
民間の医療保険では到底とってかわれるものではない。
どうしたら、この国の制度を壊さないように、持続可能なものにできるのか。
自分ごととして考えたい。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
          

私は改めて国の公的『国民健康保険』で、通院、入院など治療費の実質負担額を学び、
世界の主要国の中でも、日本は高齢者に限りなくやさしい制度と実感させられた。

そして今回の寄稿者の早川幸子さんの励ましの名言《老後の医療費を闇雲に恐れる必要もない。》を、
確かにそうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性の年金受給者の基礎知識を学び、年金生活の男性の私は微苦笑させられ・・。

2015-06-25 07:22:49 | ささやかな古稀からの思い
私は古稀と称される70歳の年金生活をしている男性であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
             
我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活し、早や11年生となっている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

こうした中で、毎年1月下旬の頃に私が住む所属地域の税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送され、
私は2月下旬の頃に申告書を作成して、遅くても3月上旬まで税務署に郵送している。
          

昨夜のひととき、ネットでニュースを見たりしている中で、
【年金受給者 払い過ぎた税金は確定申告しないと取り戻せない】
と見出しを偶然に見て、私は『所得税の確定申告』の時に落ち度はないよなぁ、
と思いながらクリックした。

やがて記事を読み終わった時、女性の年金受給者の基礎知識、と解ったりしたが、
私は無知なこともあり、教示されたりした。

この記事は、週刊誌『女性セブン』2015年7月2日号に掲載された記事のひとつであり、
そして配信元は『NEWS ポストセブン 』に6月24日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。
          

《・・年金受給者 払い過ぎた税金は確定申告しないと取り戻せない

意外に知られていないが、年金受給者も国や地方に税金を納めている。
毎月の給料から税金が天引きされるサラリーマンと同じように、
2か月に1度受け取る年金額の中から、税金分はキチンと天引きされているのだ。

専業主婦の場合、税金は納めていないので、
税金のことはサラリーマンの夫や世帯主に任せておけばよかった。

ところが、年金を受け取り始めたら、「納税者」だから
「税金のことは難しくてわからない」では、損をすることになる。

年金受給者やサラリーマンの税金の天引き(源泉徴収)は、
「本来の納税額より少し多めの前払い」を意味する。

サラリーマンの場合、払いすぎた税金は「年末調整」で返ってくるのだが、
年金受給者は自分で「確定申告」をしないと取り戻せないのだ。
          

「年金博士」の異名をとる社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーの北村庄吾氏が語る。

「年金受給者がまず忘れてはいけないのが、
毎年10~11月頃に送られてくる『扶養親族等申告書』を必ず記入して送り返すことです。

特に、夫に先立たれていれば、『寡婦控除』を申請できる。
例えば、月額10万円の年金を受給している人であれば、
毎月1万円程度支払っている税金がすべて返ってきます。
年間で12万円程度、税金を取り戻せるのです」

確定申告では高齢者の場合は特に「医療費控除」の申告が大切だ。
病院の診察代や薬局の薬代などの医療費を年間10万円以上使った人は医療費控除を受けられる。

例えば、年金月額14万5000円の人は年間4万4000円の税金を天引きされているが、
医療費支出が20万円だった場合、1万2000円程度を取り返せる計算になる。

なお、確定申告などで税金が戻ってくるのは、65歳未満ならば年金が年額108万円超、
65歳以上ならば158万円超の人だけだ。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
          

私は『所得税の確定申告』の時に、特に『医療費控除』は注意を払っている。

私か家内が歯の老化で歯科医院で治療を受けたり、
或いは内科、眼科医院など治療を受けたりしてきた。
この時の医療費、そして服用する薬代も、対象としてしてきた。

そして医院で治療を受ける為に通院する時、公共交通費たとえばバス代も対象とした。

或いはドラッグ・ストアーで風邪薬、胃腸薬などを買い求めた時も、対象としてしてきた。

今回、私が無知だったは、『寡婦控除』であった。

もとより寡婦(かふ)は、夫と死別または離別し、未亡人(みぼうじん)であり、
再婚していない女性のことは私でも、漠然と理解している。

しかしながら国税庁の寡婦控除の定義には、無知であり、こっそりと調べたりした。
《寡婦とは、納税者本人が、原則としてその年の12月31日の現況で、次のいずれかに当てはまる人です。

夫と死別し、若しくは離婚した後婚姻をしていない人、又は夫の生死が明らかでない一定の人で、
扶養親族がいる人又は生計を一にする子がいる人です。

この場合の子は、総所得金額等が38万円以下で、
他の人の控除対象配偶者や扶養親族となっていない人に限られます。

そして控除できる金額は27万円、特定の寡婦に該当する場合には35万円です。》
          

やがて私は学んだりし、いつの日にか私が家内より先に死去することは
90%ぐらい、と思ったりしている。

こうした中で、残された家内が生活困窮になることは、何よりも私は慙愧にたえられなく、
『寡婦控除』は助かるょ、と真摯に思ったりした。

余談であるが、私が家内に先立たれ《おひとりさま》になった時は、
愛(いと)しき家内を偲(しの)びながら、ビールかウィスキーを飲むアルコール代・・
女性の場合は寡婦控除の27万円と知り、男性の私だって12万円ぐらい控除して欲しいょ、
と微苦笑したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「梅雨だる」の時節、疲れに負けない体をつくる方法を学び、私は微苦笑して・・。

2015-06-24 07:37:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む70歳の身であるが、
殆ど毎日のように自宅の周辺3キロ範囲を歩き廻ったりしてきたが、
梅雨真っ盛りの昨今、雨が降ったりする時は、中止したりしてきた。

その上に、『戦後70年』のテーマで、読売新聞の特集連載記事を精読したり、
或いはNHK総合デレビに於いても、『NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像』
特集連続番組を視聴し、憂いを重ねて心痛な思いで過ごしたりしてきた。

こうした影響の為か、何かと単細胞のプラス思考の私でも、心身絶好調から遠く、
疲労感を感じることが多くなっている。
          

たまたま昨夜、パソコンを開き、
トップページにしている【YAHOO! JAPAN】の中のひとつの『雑誌』コーナーを
ぼんやりと見たりしていた・・。

こうした中で、【「梅雨だる」は食事が原因? 疲れに負けない体をつくる方法】
と題された見出しを見て、どういうことなょ、と私はクリックした。

何かしら初めて見る【KAI-YOU.net 】に於いて、6月22日(月)18時に配信して下さった記事で、
きくちみずほさんの寄稿文と解り、読み終わった後、70歳の男性の私でも、多々教示されたりした。

無断であるが転載させて頂く。
          

《・・6月も半ばに入り、全国的に梅雨のシーズンが到来。
梅雨といえば、「雨が多くて憂鬱な季節」というイメージが強いですよね。

筆者も「湿気で髪の毛は広がるし、洗濯物は外に干せないし、出かけるのも面倒くさい。
そんな時は家でごろごろするしかない……!」ということで、
休日はお布団から抜け出せないという状況に陥っています。

それだけではなく、体調を崩しやすかったり、だるさや疲れを感じやすくなるということもあり、
梅雨は1年の中でも不調を感じやすい時期ともいえます。

では、なぜ梅雨の時期になるとだるさや疲れやすさを感じてしまうのでしょうか? 
天気のせい? 運動不足? それとも気合いが足りない……?

実は、そんな梅雨ストレスによる不調=「梅雨だる」の原因は、日々の食事に隠れているかもしれません!

ということで今回は、元管理栄養士の筆者がその原因を食生活の面から考え、
「梅雨だる」解消に向けた食事のポイントをご紹介したいと思います!
          

☆どうして「梅雨だる」になるの?

女性の心身に関する健康情報を発信している「ウーマンウェルネス研究会 supported by Kao」では、
首都圏在住の20代から50代の女性425人を対象に実施した
「身体や精神面の不調が出やすい梅雨時期の過ごし方に関する意識調査」を実施。

すると、およそ7割以上の人が「だるい」「疲労感を感じる」「憂鬱な気分になる」「やる気がしない」など、
身体的にも精神的にも不調を抱えていることが明らかとなりました。

中にはこれらの不調に対し「5月病を引きずっている」という人もいますが、
「梅雨だる」の症状は、倦怠感・頭痛・生理痛・腰痛・肩こり・便秘や下痢などの
胃腸障害・膀胱炎・肌トラブル・憂鬱感など、非常に幅広いのが特徴です。

皆さんもいずれかの症状で心当たりがあるのではないでしょうか?

その原因としてよくあげられるのが、低気圧や湿度の上昇などの気象条件です。
自律神経の働きが乱れたり、発汗がスムーズに行えなくなるので、身体の不調を起こしやすくなります。

また、クーラーを使い始める時期ということで、
知らず知らずのうちに身体が冷え、血行不良や慢性疲労を引き起こしている場合も。
          

☆食事の内容も「梅雨だる」の原因に!

もちろん気象条件や冷えは「梅雨だる」の原因の1つではありますが、
多くの人が見落としがちなのは「食事」です!

朝食は抜き、昼はコンビニ弁当かファーストフード、夜は揚げ物や肉・魚料理が多く野菜はほぼ食べない……
なんていう食生活を送っていませんか?
また、ストレス解消のために甘いものを食べているという人も多いかもしれません。

偏った食生活は、ビタミンやミネラルの不足を引き起こします。
すると身体はストレスと戦えずにイライラしたり、疲労物質が分解されず、
疲れやだるさを感じるようになってしまいます。

また、お菓子など糖質の多いものは、疲労回復や神経機能を正常に保つビタミンB1を消費してしまうため、
せっかくストレス解消のために食べたはずが、余計疲れを感じやすくなるという負のループに……。

さらに食欲がないときや、タバコ、お酒もビタミンB1を消費するため、
このような条件がいくつも重なっている人は要注意です。
          

☆「梅雨だる」を制するための食事とは?

まず、糖質の代謝を助け、疲労物質を分解するビタミンB1を積極的に摂取してみましょう!
ビタミンB1は、玄米や胚芽精米などの精製されていない穀類に多く含まれています。

例えば、白米を玄米に、食パンを全粒粉パンに、うどんをそばにというふうに置き換えるだけでも、
ビタミンB1の摂取量を増やすことができます。

さらにビタミンB1は、豚肉やレバーなどの肉類、にんにく、大豆などにも多く含まれており、
効率よく摂るためにおすすめなのが、豚汁です。

野菜もたっぷり入っていますし、さらにネギを加えると、
アリシンという香気成分がビタミンB1と結びついて、より疲労回復に効果的です。

また、疲れやだるさを解消するには、
ビタミンやミネラルをバランスよく摂取して身体の代謝を高めることも重要! 

そのためには多種類の野菜を摂るようにしましょう。
生の野菜はそんなにたくさん食べられない……という人は、
茹でたり蒸したりすると野菜自体のかさが減って食べやすくなります。

この時期の悩みとして抱えやすい「梅雨だる」。
疲労回復に効果的な食事とともに、適度な運動や十分な睡眠も加えながら、
憂鬱な梅雨を乗り切りましょう。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
          

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
昨今は天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えないと気が多くなっている。

こうした時は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂く、
『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』の真似事をしている。

家内は大半、食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂いている。

昼食はお互いに、蕎麦(そば)、或いは素麺(そうめん)を食べたりしているが、
ときには私はフランスパンを三分の一、家内は菓子パンを頂いたりしている。

そして夕食は、私の場合は、朝食と同様な前菜を盛大に食べた後、
牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

このような我が家の実態であり、私は食事に関しては満足している。
                   

しかしながら私は、雨で順延として散策をさぼってしまうことがあり、体調は不十分となり、
やはり梅雨の時節は、今回きくちみずほさんから教示された「梅雨だる」かしら、と微苦笑したりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄慰霊の日、戦争を知らない私でも、南の空に向かって黙祷して・・。

2015-06-23 09:55:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む70歳の身であるが、
洗面した後、庭のテラスに下り立ち、襟を正して南の空に向かい、黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に、日本は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも沖縄戦が事実上集結したこの日の6月23日は、
『沖縄慰霊の日』と命名された厳粛な日として認識している。
          

恥ずかしきことを告白すれば、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の当時、
私は大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしている中、
たまたま中野好夫、新崎盛輝の両氏による共著『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読み、
高校時代以来、何かと時事に関心を抱き、ベトナム問題と同様に
まとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。

若き私は感受性が豊かな時であったので、知識人の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この本の言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、基軸となった・・。

これ以降、やがて社会人となり、そして定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れることが出来なくなり、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、更に思いを深めたりした・・。


もとより太平洋戦争で、日本の国土である沖縄列島が直接に戦闘地域となり、
軍人の死もさることながら、一般の人々までが戦場の中で多大な犠牲の上、
沖縄戦は事実上集結した日である。
そして沖縄県は『慰霊の日』として、この日は戦没者追悼式が行われている。
          
何よりも戦時中、日本の本州の防波堤となり、
直接にアメリカ軍との激戦地となり、民間の住民まで戦禍にまみれ、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この『慰霊の日』は、沖縄に向って、満22歳より黙祷をしている。


私よりご年配の方はともかく、私より若き世代の人たちの一部に、
『沖縄慰霊の日』の由来を誰でも解り易く、簡潔に記した書物は、
私が知る限り、知識人の藤野邦夫(ふじの・くにお)氏の書かれた『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)であり、
この中で、この『沖縄慰霊の日』を明記している。

そして私は若き人たちと共有致したく、今回もあえて転記させて頂く。
《・・ 太平洋戦争が最終段階に入った1944年(昭和19年)3月、
本土決戦を引き延ばす目的で、沖縄に第32軍(牛島満・司令官)が配備された。

そして全島を要塞化する計画が推進されたが、
10月10日の大空襲で守護隊は大きな被害を受けて、那覇市は全焼。
548人の一般市民の死者をだした。

この後、守護隊の主力部隊が、フィリピン作戦、に狩り出された為、
軍首脳部は県民の中から、人員を補充せざるを得なかったのである。
沖縄戦が始まった時点の兵力は、約10万人とされるが、その3の1は、前記のような補充兵だった。

これに対し、ミニッツ太平洋艦隊司令官の基に、バックナー中将の率いるアメリカ軍の艦船は、約1500隻。
兵力は17万3000人で、後方支援部隊も合せると、実に44万人に達したという。

兵器と爆薬の面でも、心もとない守護隊に対して、アメリカ軍は圧倒的に優位にたっていたのである。

このアメリカ軍が、1945(昭和20年)年3月23日、沖縄諸島に激しい艦砲射撃をくわえた。

彼等は、26日に慶良間列島を確保した後、4月1日から沖縄本島に対する上陸作戦を開始した。

日本軍の主力が、首里を中心に配備されていたので、アメリカ軍はさほどの抵抗も受けずに上陸を完了し、
沖縄本土は南北に分断した。

この後、アメリカ軍は、南部にいた日本軍に対する総攻撃を開始。
両軍の激戦は40日におよび、劣悪な条件で戦った日本軍の抗戦には、すさまじいものであった。
しかし、この戦いの為、守護隊の主力は壊滅した。

残った約4万人の兵力は、5月22日に、更に南部に撤退した。
ここには推定で約10万人の県民も避難した為、沖縄戦は過酷な様相を呈することとなった。

勢いに乗るアメリカ軍の激烈な攻撃にさらされる極限状況の中で、
日本軍による一般人の虐殺、食糧の強奪などが発生。

更に、女子学生で組織された看護隊『ひめゆり部隊』の悲劇にみられるような、
          
県民達の凄惨な事件が続発した。

そして6月23日、牛島司令官の自決。
ここで日本軍の組織的な抗戦は終結した。

しかし、引き続き行なわれたアメリカ軍の掃討作戦で、6月末までに、約9000人の日本兵が犠牲となった。

この三ヶ月間の戦闘死者は、日本軍6万5908人、県出身の軍人2万8228人、
アメリカ軍1万2281人で、計10万5417人。
そして一般の県民は、推定で9万4000人が亡くなった。

軍人よりも一般人の犠牲者が多い所が、沖縄戦の非人道的な面が如実に現れている。

沖縄県では、沖縄が事実上終結した6月23日を『慰霊の日』とし、1951年(昭和26年)から祝祭日に指定。
糸満市の『平和記念公園』で、戦没者追悼式が行なわれている。 ・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私は転記しながら、改めて再確認しながら、戦争とは、かくも果てなき残虐の行為である。
          

                         

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れたが、
この中のある時、海原を観ていた時、ガイドさんが、
『あの海の彼方は・・アメリカの艦隊でいっぱいだった・・
とご年配の方から教えて貰いました・・』
と私はガイドさんから教えて頂いた。

そして私は、前方の海原にアメリカの艦隊がひしめき、
そこから艦砲射撃がされ、沖縄本土が被弾する状況を想像した時、
私は胸が熱くなり、そして涙があふれていた・・。
          

私はこの日の『沖縄慰霊の日』、そして原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、8月9日の『長崎被爆』、
そして 敗戦となった8月15日は、
たった一枚の赤紙(召集令状)で徴兵され、戦場で亡くなわれたお方たち、
或いは戦時下、空襲などで亡くなわれた多くの人々に哀悼の意を表して、
毎年この日に黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
                     

尚、掲載した数々の写真は、過ぎし2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母と共に、沖縄本島の一部を訪れた時に撮ったものである。

家内の母は、1930年〈昭和5年〉生まれであり、
この数か月前に、死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい、と家内に言ったりした。

家内の母は、戦時中は(新潟県)高田の女学校時代に於いて、
軍事工場の支援に強制従事させられた体験を含めて、
何か平和祈念公園の中で、沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地にも花をささげたい、
このような慰霊の旅路を、この沖縄の前半の時に私たち3人は巡礼した。

この後、佐野真一・著作の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008年、集英社インターナショナル)、
『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年、集英社インターナショナル)を読み、
沖縄の光と影を学んだりしてきた。

そして今年は大久保潤、篠原章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)を読み、
つたない私なりに沖縄の思いを深化している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の愛読書のひとつは、『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。

2015-06-22 14:15:32 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の古稀と称される70歳の身であるが、
少し前にパソコンの置いてある小さな本棚から、一冊の本を抜き取った。

私は何かと読書が好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしていることが多くひとりである。

たまたま手にしたは、『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
過ぎし年の私が若き42歳の1987年(昭和62年)の晩秋の頃、
私が会社を退社後に本屋に立ち寄って、偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。

これ以来、年に数回ぐらい幾たびも愛読してきた本のひとつとなっている。
               

巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎さんが、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博さんが、この詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信さんが、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅さん、随筆家・岡部伊都子さん、造形作家・多田美波さん、
夏には英文学者・外山滋比古さん、随筆家・白州正子さん、女優・村松英子さん、
秋には俳人・金子兜太さん、歌人・前登志夫さん、歌人・馬場あき子さん、
冬には詩人・吉原幸子さん、作家・高橋治さん、作家・丸山健二さん、

このような各分野で優(すぐ)れた各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が、幾重にも掲載されている。
          

或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫さん、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門さん、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、紹介されている。

『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑健さんが、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など12点を掲載しながら、具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎さんが『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。
          

『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫さんにより、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。


最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。
          

そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していた。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。

《・・『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。

1月
おもいくれない『想紅』

初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。


2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』

浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。


3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』

春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。


4月
はなまいこえだ『花舞小枝』

春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。


5月
はつこいあざみ『初恋薊』

風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。


6月
あこがれかずら『憧葛』

さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。


7月
さきそめこふじ『咲初小藤』

夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。


8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』

夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。


9月
こいじいざよい『恋路十六夜』

月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。


10月
おもわれしおん『想紫苑』

風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。


11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』

秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。


12月
わすれなすみれ『勿忘菫』

淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
          

私は幾たびも読んできたが、読むたびにこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、
心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

もとより日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、
まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。


この本は、1983年(昭和58年)に初回として発刊されているのが、
稀なほど優(すぐ)れた執筆陣であり、
無念ながら現在は故人となられた人が多くなっている。

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの確かな遺書のひとつかしら、とも思ったりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログの投稿文、私は10年半ばかり、日々投稿してきた理由は・・。

2015-06-21 11:59:22 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む70歳の身であるが、
家内と共に朝食を頂いたりしている間も、小雨が降ったり止(や)んだりしていた。

やがて私は、小庭に降る小雨を眺めながら、ぼんやりとしていた。
まもなく過ぎし年、どのような心情で過ごしてきたか、
と思いながら古きブログの投稿文を読み返したりした・・。、

たまたま私が読んだは、2005年(平成17年)6月26日に投稿した
『初夏の一日・・♪』と題した投稿文であった。
          

日中は、猛暑だったので、私はエアコンの冷風の中で、
本を読んだり、眠くなったら昼寝をしたりしていた。

やがて夕方になり、家内が洗濯物を取り入れた後、
私の夏用の作務衣の予備を求めて、二人で家を出た。

私の家から、一キロぐらいの所に、再開発と称して、
数多くの分譲マンションがあり、その外れに
イトーヨーカドーの大きな店舗が出来ていた。

『○○ちゃん、お腹がすいたょ・』
と私は家内に言った。

『それでしたら・・お買物に入り前、寄りますか』
と家内は応(おう)じた。

まもなく私たちは、 付近の中華料理のチェーン店の『バーミヤン』に入った。
家内が中華が好きであるので、このチェーン店をときたま利用する。

今回入った店は、いつもの店と違い、東南アジア風の装飾になっていた。
店内は、午後五過ぎの時間帯の為か、空(す)いていた。

私は、料理店ではテーブルが広いのを優先としている。
そして、二番目に料理が美味しければ良し、三番目はお値段を信条としている。

私はビールを呑みながら、
こうして、ときたま家内と外食でき、
あと10年はお互い五体満足でいれたら良い、と思ったりした・・。

もとより人生は終わってみなければ、解らないが、
こうしてお互いに目的をもち、日一日と過せれば、
これに超したことはない、と私は煙草に火を点(つ)けた。


私はこの投稿文を読み終わった後、10年前の私は、このような心情で過ごしてきたのか、
と微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

まもなく偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

やがて2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って10年半が過ぎて、11年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
          

私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。
          

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
そして数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
          
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                                            こうした中で、セカンドライフを過ごされる数多くの諸兄諸姉のブログの投稿文を読ませて頂き、
このように日常はお過ごしされている、或いはこのような思いを秘めている・・
多々教示させられ、ときには私が励まされるようなこともあったりしている。
          
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、心の財産となっている。
          
このような思いがあり、私はブログの投稿文を10年半ばかり日々継続できたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デコチィン、と一家の主(あるじ)の私は家内から言われて、微苦笑して・・。

2015-06-20 16:17:10 | ささやかな古稀からの思い
東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む私は、
今朝、梅雨(つゆ)の間の晴れ間となり、陽射しが恋しかったょ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、久々の青空に微笑んだりした・・。

家内と朝食を頂いた時、夕食は久しぶりに肉ジャガにしましょうか、と家内は私に言った。
私は肉ジャガが大好きであるが、食べ過ぎも有ったりし、やむなく敬遠してきたが、
『結構ですねぇ、食べましょう!』
と私は若き自衛官に負けないように、明るい声で応(おう)じたりした。

やがて平素の買物の専任者の私は、最寄のスーパーに行き、
肉ジャガの素材を中核に買い求めた後、意気揚々と帰宅した。

家内は受け取った後、あらぁシラタキが有りませんわ、
と呟(つぶや)くように、私に言ったりした。

私は肉ジャガの素材として、もとよりジャガイモ、玉ネギ、豚肉を買い求めたが、
肝要なシラタキを忘れたことに気付いたりした・・。

『デコチィンねぇ・・』
と家内は苦笑しながら、私に言ったりした。

そして私はスーパーのチラシの片隅に、シラタキを書き忘れたことに気付き、
やがて最寄のもう一店のスーパーにシラタキを買い求めに向かったりした時、
デコチィンかょ、新語だよなぁ、と私は微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中、年金生活の当初から、私は平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                            
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

私は年金生活の中で、日中の大半を随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時間を確保したく、積極的に買物メール老ボーイとなった。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、或いはあなたたちお若いわ、
と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          

我が家の日常生活の実情は、私は家内のことを婚約する前の頃から、
『XXちゃん・・』と呼んだりしている。

家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。


過ぎし年の2004年(平成16年)の秋、年金生活を始めてまもない頃、
私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
          
こうした時、私は現役サラリーマン時代の50代後半期に、年収は1000万円を少し超え奮戦していたが、
年金生活の中は、もとより大幅に生活は変貌となり、形無(かたな)しだよなぁ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。
                    
私は70歳の身であり、私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や11年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。

そして人だれしも長所、短所はあるが、私は幾つになっても短所の方が多いので、
家内の短所には目をつぶり、長所を伸ばそうと心がけてきた・・。

家内は料理、洗濯、掃除などを積極果敢にする専業主婦の優等生であるが、
血液型A型となっている。

そして我が家では一年に数回、私はB型、家内はA型の為か、ボタンの掛け違いのように差異が発生し、
険悪になることもある。

やがて私は、文学、映画、音楽に関しての粗雑なコメント以外は、私たちの人生に大勢に影響がないと判断して、
いつまでも心のわだかまりを残すことは、夫婦としてよくないと思い、15分以内に妥協して、
『ボクが悪かった・・XXちゃんのおしゃる通りです!!』
と家内の前で、私は床に伏して詫びたりしている。

このように我が家は家内安全となり、離婚などは無縁である、と私は微苦笑したりしている。
                 
これからの日々は、お互いに体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、
最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
         
このように思案している私は、こうして過ごしている昨今こそが、
いつまで続くか解らないが、私たち夫婦にとっては最良の日々、と私は感じ深めている。

そして本日、たまたまデコチィン、と一家の主(あるじ)の私に家内から言われても、
家内の日頃のストレスの解消になれば、たやすいこと、と私は微苦笑したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活11年生の私、働いて下さる諸兄諸姉に、感謝を重ねて・・。

2015-06-19 13:22:08 | ささやかな古稀からの思い
今朝6時過ぎ、新聞を取り込む為に玄関の軒下に降り立つと、雨が本降りとなっていた。

こうした中、門扉の前の道路で、40代風の男性がスーツをきっちりと着て、傘を差して、
ビジネスバックを提げて通り過ぎて行った・・。
この後、やはりスーツを着た男性2名が足早に通り過ぎて、ぼんやりと私は眺めたりした。

まもなく私は、もうあの職責で奮闘した時代には戻れない・・、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。
          

私は過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、明日が見えないような生活をしたが、
やがてはかなくも敗退した。

そして止(や)むえず何とかして民間会社に中途入社したい為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、
1年間ばかり学んだりした。

やがて1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり、何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、上司より叱咤激励されながら、
商品、情報、経理、営業に配属され、何かと悪戦苦闘が多い中、奮戦して、
やがて2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
          

この間、中小業の多いレコード会社であったので、
幾たびリストラを何とか障害レースを乗り越えて、
最後の5年はリストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
          
          
世の中の数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、何かと安堵しながら、
第二の人生は身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの中、
知人、友人から何かと嬉しい、楽しげな便りを数多く受けたりしてきた・・。

そして私も過ぎ去った60代の年金生活の10年間の日々は、私の人生の中で何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。
                               
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
 
この間、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて、何とか克服してきたりした。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
ひたすら歩くことが多くなっている。
                                              
この後の日中の大半は、居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

新聞は『読売新聞』を40年近く購読しているが、気になり記事を更に深く知りたい時は、
総合ビジネス情報誌として名高いビジネス情報サイトの【ダイヤモンド・オンライン】に縋(すが)り、
多々教示されている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、
聴いたりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

そして日常生活で、昼下がりのひととき眠くなったら、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
              
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

こうした中で私たちは観光ホテルなどに滞在して、周辺の山里、遊歩道、街並みの中を歩きながら
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。
          
                
年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。
     
このように私は安楽な年金生活を過ごしてきたが、もとより年金が基盤となっている。
          

日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を過ぎた現在、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、安住できない時代となってきた・・。

こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
          
  
そして過酷な現実として、年金、医療、介護なとで、毎年一兆円が増加している。

こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できるので、
私は働いて下さる諸兄諸姉に、ときおり感謝を重ねたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まもなく『父の日』、少子高齢化の中、罪人(つみびと)のひとりの私は、独り寂しく・・。

2015-06-18 13:01:23 | ささやかな古稀からの思い
ここ数週間、新聞の折込チラシの中で、デパート、スーパーなどの多くは、
来る21日の日曜日の『父の日』に際して、贈り物の商品が掲載されている。

一昨日も私はあるデパートのチラシを見たりした。
《 いつも頑張っているお父さんに
      あふれるほどの感謝を込めて。
    Father’s Day 2015》

と大きく見出しされ、《父の日ギフトフェア》と明記された下段には、
お洒落なウエア、高級な扇子、折財布、キーケース、ポールペン、万年筆などの商品が掲載されていて、
私は思わず微笑みながら見たりした。
          

私の父は、私が小学2年の時の1953年〈昭和28年〉の春に42歳の若さ病死され、
家内の父は、私のサラリーマン定年退職の直前の2004年〈平成16年〉の秋に、
入退院を繰り返してきたが77歳で他界された。

そして私たち夫婦は無念ながら子供に恵まれなく、
私たち夫婦生活の39年間の中で、最大の誤算となっている。

もとより夫婦であれば子供をさずかり、子供を育てる重責の一面を果たしていないことを思い浮かべ、、
ときおり後ろめたさを感じたりする時もある。

このようなことで少子高齢化の中で、罪人(つみびと)のひとり、と思う時もある。

そして私は毎年『父の日』を迎えても、子もなく、もとより孫もいなく、寂しい日となっている。
                    

このような事情で、私としては父親の資格もなく、語る資格もないが、
何かしら父親が存命している、ご愛息(あいそく)・ご愛嬢(あいじょう)に、
秘かにお願いをしたいことがある・・。


子供の立場として、男子たる場合は幾つになっても『母親』を何かと慕(した)い、感謝し、
『父親』は何かと二の次になることが多いと思われる。

特に成人した頃からは、父親が現役で奮闘している場合は、
息子は何かとライバル視する傾向が多く、素直な父と息子の親子の心情のふるまいや会話ができなく、
やがて父が高齢者になり、しぐさが衰えたり、或いは死去されたりする。

そして 初めて父親が家庭を守る為に、孤軍奮闘してきた長年の言動に気付き、
遅ればせながら父の人生航路に感銘を覚えることが多いと思われる。

女の子の場合も『母親』を日頃から何かと纏(まと)いつきながら重視しがちであり、
父親からすれば、自身の愛(いと)しき妻よりも、遥かにご自分の娘がこの世界で一番可愛い、
と私の多くの知人から聞いている。
          

こうした心情、情念もさることながら、
未成年、成人した子供を問わず、たとえプレゼントする品がなくとも、
『お父さんのお陰で・・』
と何かしら感謝の言葉を父親に労(ねぎら)いの一言を切に願っている。

或いは直筆のメッセージを綴られることを願ったりしている。
          

私は見果てぬ叶(かな)うことの出来ない夢もある。

たとえば、私が高校生で『父の日』に際しては、
『父上さまのお陰で・・高校生活が楽しく過ごせています・・。
不束(ふつつか)な息子でありますが、しばらくはご面倒の程をよろしくお願い致します。
父上さまもお身体を程ほどにご自愛下さい。』
と父親の前で正座して、感謝の言葉を重ねる、と夢想している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『あなたの終活必要度チェック』、こっそり受験した結果、微苦笑させられて・・。

2015-06-17 12:09:36 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある中小業の民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となる70歳の身である。

こうした中で、サラリーマンだった習性の為か、経済に関するニュースを新聞やネットで、
何かと見ることもある。

昨夜、たまたま産経新聞社のネット公式サイトのひとつの【SankeiBiz】を見ていたが、
やがて最下段に、【ソナエ】と私が初めて見る公式サイトが掲げられていた・・。

やがて私は、《・・自分らしく人生を仕上げる終活情報を提供・・》
と明記されていたで、私はセカンドライフを過ごしているので、クリックした。
http://sonae.sankei.co.jp/
☆産経デジタル*終活WEB【ソナエ】☆

私は人生の晩年期に備えて、多彩な厳粛な要素があるんだ、と改めて漠然と思案させられた後、
このトップ画面の下段に、『診断』として、『あなたの終活必要度チェック』があった。
          

何かしら《終活に興味のある方に対して、必要度のチェック》と解り、
私は漠然と、設定された質問に、YESかNOでクリックするだけであり、こっそりと受験した・・。
http://sonae.sankei.co.jp/check/check01/index.html
☆産経デジタル*終活WEB【ソナエ】==>《終活に興味のある方に対して、必要度のチェック》☆

①終活に興味のある
②配偶者と同じお墓に入りたくない
③どんな戒名でも気にしない
④お葬式代は確保してある
⑤老後の資金は安心だ
⑥持ち家がある。
⑦実は家族以外の人に遺産を残したい

このような設問に、私はYESかNOでクリックした結果、
結果が明示された。

《・・終活必要度 60%

交際範囲があまり広くなく、孤独死、孤立死が目立つタイプです。
交際範囲の狭さを遺言などでカバーする必要があります・・》
          

このように明記されて、やがて私は《・・孤独死か孤立死かょ・・》微苦笑してしまった。

私はこうした厳粛な要素は、ブログの投稿文で幾たびか投稿している。
たとえば、私たち夫婦は葬儀は家族葬で簡素に執行したい、
お墓は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったで一代限りとなり、死後は土に還りたいので、樹木葬・・
このようなことを数多く明記したで、今回は省略する。

そして人は、それぞれ誰も同じでない人生航路を過ごしてきたと思われ、
晩年期を迎えるにあたっては、それぞれの多彩な思いで、厳粛な判断をされるだろう、
と私は深く思ったりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジサイ鑑賞、名所として名高い遠い処より、私は身近な所で心を深めて・・。

2015-06-16 13:53:48 | ささやかな古稀からの思い
昨日、家内が駅前の歯科医院で3週間ごとに治療を受けている為に、私たち夫婦は外出した。

我が家から最寄駅のひとつの小田急線の『喜多見』駅前にある歯科医院であり、
利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到達する。

しかしながら何かと運動不足の私たち夫婦は、近くに野川が流れて、
この両岸には遊歩道があり、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がホディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。
                            
           ☆今回、掲載した写真は、昨日すべて撮ったものである☆

10時過ぎに私たちは早めに自宅を出て、まもなく野川の遊歩道を歩き、『喜多見』駅前を目指して歩いたりした。
       
家内は白いワンピースで、おしゃれなウォーキング・シューズを履き、日傘を差して歩いたりした。

一歩遅れた私は、夏用のストレッチパンズの長ズボン、アロハシャツ、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをしているが、
ときおりバックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。

歩いて5分ぐらいに遊歩道沿いにレクセンターが有り、
この片隅にある花壇は、今の時節は紫陽花(アジサイ)が咲き、
私は数週間前の頃から、幾たびも独りで散策していた時、気になり見たりしてきた。

そして私は家内を誘い、人影ない処で15分ぐらいゆったりと鑑賞したりした。
          

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
定年後に年金生活をして10年ばかり過ごしてきた中、過ぎし年の・・花が咲き始める頃は・・満開の状景は・・
花の終わる頃は・・と多彩な紫陽花(アジサイ)のうつろう情景を家内に話しかけたりした・・。
          

或いは過ぎし年、霧雨が降っている中、傘を差して、
このレクセンター傘を差して紫陽花(アジサイ)の多彩な花色を見たことなどを家内に言ったりした。
          

やがて紫陽花(アジサイ)に私たち夫婦は解れを告げて、遊歩道を歩き駅前をめざしたりした・・。

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり70歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

そして私は都心の人出多い処は、齢を重ねるたびに苦手となっている。
          

やがて遊歩道を家内と共にあるいていると、何故かしら昨夕の15日に、
テレビのニュースで視聴した鎌倉市の明月院の情景を思いだして、苦笑したりした。

何かしら麗(うるわ)しき若き女性キャスターが、
神奈川県鎌倉市の明月院ではアジサイが満開となり、梅雨の晴れ間が広がった15日、
大勢の参拝客でにぎわいました。
JR北鎌倉駅に近い明月院は「あじさい寺」の名で親しまれ、約2500株が境内を彩っていました。

日本古来の品種「ヒメアジサイ」がほとんどで、
「明月院ブルー」とも呼ばれる青色は、淡い色合いから日ごとに深みを増していきます。
今年は例年より1週間ほど早い6月上旬に見頃を迎え、今月いっぱいは楽しめます。

このような意味合いの言葉で、人出で込み合え中、数多く紫陽花(アジサイ)が映し出されていた・・。


私は我が家より2時間ばかり行って、そして人出で込み合え中、ゆったりと鑑賞てきないねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
          

そして人それぞれ、私の身勝手な思いかしらと思い馳せて、せんなきことだよなぁ、
と呟(つぶや)きながら、扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする