夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

都心の郊外に住む買物メール老ボーイの私は、いつもように季節を友として、過ごして・・。

2016-01-31 16:59:31 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
          
                            
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めた私としては、
家内のささやかな時間を崩すのは天敵と確信して、
平素の買物専任者を自主宣言し、午前中のひととき買物メール老ボーイとなったりし、その後も独りで散策している。
          
          
今朝、私は昨夜は深夜まで居間で読書した為か、目覚めたのは8時過ぎであった。
2階の寝室から階段を下りて居間に行くと、陽射しが燦々と照らす中、
家内はコーヒーを飲みながらテレビを視聴していた・・。

『久々に寝坊してしまったょ・・いつもより1時間遅れだねぇ・・』
と私は家内に朝の挨拶代わりに言ったりした。

やがて私たち夫婦は朝食を頂き、一時間を過ぎた頃、
家内は新聞の折込みに入っていた最寄りのスーパーにチラシを取りだして、
家内が赤のサインペンで丸印を付けたりする。

まもなく、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。
          

この後、家内から、
『本日は・・少し多いですが、お願いしますねぇ・・』
と家内は最寄のスーパー2店のチラシを私は手渡しながら、私に言ったりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や11年が過ぎいるが、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

そして私は最寄りのスーパーにチラシを見ると、
《お一人様よりどり2点限り》あるメーカーのトイレット・ペーパー12ロール、
あるメーカーのティシュ・ペーパー200W400枚の5コパックに、家内が赤丸を付けていた。

この横に、あるメーカーのソフラン、アロマナチュラル詰替、と明記されていたので、
『いくつぐらい買ってくればいい?』
と私は家内に尋ねると、
『お廉(やす)いから・・できるだけ多く、お願い』
と家内は私に応(こた)えた。

そして私は『とりあえず、6個ばかり・・』
と私は言ったりした後、食品フロアーでも、平素買い求めている数多くの品に家内は赤丸を付けていたので、
『車を曳〈ひ〉いて、行ってくるょ』
と私は明るく応(こた)えたりした


我が家は恥ずかしながら自動車も所有できない上、
私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、ひたすら歩くことが多い。

こうした時の私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
         ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

そして時折、家内がホームセンター、ドラッグ・ストアー、スーパーなどで大量に買い求める時は、
私はホディガード、荷物持ちで参戦してきたが、
家内は私より数歩先を歩いて、私は段ボールを乗せた『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、歩いたりしているので、
まるで江戸時代の下男のようなお供だねぇ、と私は微苦笑したりしてきた。
                    

『キャリーカート』をやがて私は最寄のスーパーに『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて行ったりしたが、
帰路はトイレット・ペーパー12ロールが2つ、ティシュ・ペーパーが2つ、ソフランが6など、そして平素の食料品が重なり、
スーパーから頂いた段ボールを2段重ねにして、曳〈ひ〉きながら、左手にはバナナ、リンゴ、プリンを提げて、帰宅したりした。

そして私は、私が行った最寄のスーパーでも、
5000円以上購入すれば、当日に無料で配達して下さる制度を知っていたが、
体力も衰えを増してきた中、まだ頑張れるょ、と微苦笑したことも事実である。
          

帰宅後、やがて家内は『悪いけれど・・駅前のドラッグ・ストアー・・特売品があるのょ・・』
と家内はためらうように私に言ったりした。

『散歩代わりに、行ってきますょ』
と私は明るく応(こた)えたりした。

やがて京王線にある『仙川』駅の近いドラッグ・ストアーであり、片手で提げられる買物品であるので、
デジカメを首廻りからネクタイのように下げて、身を整えて颯爽として出かけた。

そして私は路線バスも走る大通りを避けて、旧街道を20分ばかり歩いたりした。

私は殆ど独りで散策し、季節を友に歩き、落葉樹の四季折々うつろう情景、花木や野花を愛(め)でて、
過ぎ去ったことに愛惜したり、今見ている情景に感動させられたり、
ときにはこれから到来することに期待感を胸いっぱいしたり、少年のような心情になることもある。

やがてドラッグ・ストアーで買物を終えた後、
家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』に寄り、
私ようにフランスパンを2本、そして家内のお土産としてケーキのような菓子パンを3つばかり買い求めて、帰宅した。
          

いつもながら脚色もなく、ありのままの日中の私の出来事であり、
進歩ないよなぁ、と独り微苦笑したりしている。

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相続税改正! でも特例を使えば94%の家庭は無縁と学び、高齢者の私は微苦笑を重ねて・・。

2016-01-30 11:08:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨夜のひととき、週に2回ぐらい愛読しているビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
【 相続税改正! でも特例を使えば94%の家庭は無縁 】と見出しされた記事を偶然に見たりした。

そして【 家計のマル得教えます【相続税】 】と連載記事のひとつであったが、
何かと税に疎(うと)い私は、こっそりと精読し、やがて安堵して、微苦笑を重ねてしまった・・。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2015年5月18日号に掲載された記事のひとつで、
相続税、住宅ローンのプロフェッショナルの吉澤 大さんが監修して、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2016年1月27日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
          
《・・
☆課税対象者1・5倍とは、何人なのか?

15年1月、相続税の基礎控除額が縮小され、最高税率が引き上げられた。
この改正を受け、新聞や雑誌には「相続税大増税時代の幕開け」「課税対象者1・5倍に」といった見出しが躍った。
だが、この改正は、それほど恐れるものなのだろうか。

相続税は、亡くなった人が遺した土地建物、金融資産などを受け継いだ配偶者や子どもなどに支払い義務が発生する。
ただし、純資産(プラスの財産から負債などマイナスの財産を引いた金額)から差し引ける基礎控除があるため、
課税対象になるのは、これを超えた部分。
純資産が基礎控除の範囲内なら、相続税は課税されない。

増税が騒がれているのは、この基礎控除額が縮小されたためだ。
これまで、「5000万円+1000万円×法定相続人の数」だったものが、
「3000万円+600万円×法定相続人の数」に引き下げられた。

たとえば、法定相続人が子ども2人の場合、従来は7000万円まで無税だったものが、
4200万円を超えた部分が課税対象になる。
純資産が6000万円なら、今後は180万円の相続税がかかるようになる。

同時に、これまで50%だった最高税率が55%に引き上げられ、
税率構造も六段階から八段階に変更された。

基礎控除額が引き下げられたので、課税される遺産総額が増え、これまでよりも適用税率が高くなる可能性もある。

これらにより、例えば、法廷相続人が子ども2人で純資産が5億円の場合、
相続税の総額は約1400万円も増えることになるのだ。

複数の不動産を所有していたり、莫大な金融資産があったりする富裕層は、
これまで以上に相続税対策が必要になることは間違いないだろう。
          

☆相続人が配偶者なら、一般家庭は影響なし

こうした変更をもって、メディアは「大増税」を煽っている。
だからといって、誰もが相続税対策をしなければならないわけではない。

相続税には基礎控除のほかに、種々の税額軽減措置もあるからだ。
まず、長年連れ添った配偶者には、1億6000万円まで(または相続する取得価格が法定相続分以下)なら、
税額が丸ごと控除される「配偶者の税額軽減」がある。

そのため、夫の遺産を一定額まで妻が受け継ぐことで、純資産が2億円程度までであれば、まず相続税は発生しない。

また、この改正に合わせて、「小規模宅地等の特例」の適用も拡大された。
この特例は夫が亡くなっても、相続税の支払いのために同居している妻や子どもが、
自宅を売らなくてもすむように配慮したもの。

一定の居住用の宅地や事業に使っていた土地は、相続時の評価額を8割減にできる。

この改正で、対象面積の上限が240平方メートルから330平方メートルまで広がった。
都心部の土地は評価額が高く、相続税の負担が高額になると言われるが、
都心で敷地が330平方メートルを超える戸建てはレアケース。
自宅敷地の評価額は、思いのほか低くてすむのだ。
          

小規模宅地等の特例を利用できるのは、原則的に亡くなった人と同居している親族のみだ。
しかし、「家なき子特例」といって、相続開始の3年前までに本人(またはその配偶者)の持ち家に住んだことがなければ、
同居していた親族がいない場合に、相続税の申告期限までに保有を継続することを条件に、特例を適用できることも覚えておきたい。

これらの特例を使えば、実際に課税対象となるのは、変わらずに一握りの人々だ。

国税庁の「平成25年分の相続税の申告の状況について」によると、
2013年に相続税を納税したのは5万4421人。
死亡者数は126万8436人なので、全体の4・3%に相続税が発生したことになる。

この改正で、課税対象者は8万人を超えることが見込まれている。
たしかに、納税者は「1・5倍」にはなるが、もともとの対象者が少ないので、たとえ増えても全体の6%程度。
残り94%の人は、相変わらず相続税とは無縁なのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

そして定年退職後は年金生活を始めて、丸11年が過ぎ、早や12年となっている。
少子高齢化の時代、年金、医療、介護などの社会保障費は膨張のする中、私が頂いている厚生年金も年々削減されてきた・・。

我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

もとより年金は削減されてきたので、貯金は減ることがあっても増えることがない実態となっている。

こうした中で、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりする時もある。
                                

私は年金生活を始めた当初は、お酒は好き、タバコも喫うし、これといってスポーツもしなし、
散策する程度であるので、家内より先にあの世に行く、と漠然としながらも思ったりしてきた。

このようなダラシナイ私は、私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしてきた。

こうした思いのある私は、定年退職後まもなく公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれば、
と私は家内に言ったりしてきた。
          

やがて昨年に相続税が改正し、基礎控除額が縮小され、
《・・これまで、「5000万円+1000万円×法定相続人の数」だったものが、
「3000万円+600万円×法定相続人の数」に引き下げられた。・・》
と知ったりしたが、自宅の固定資産評価額と預貯金を配慮すると、やはり相続税を支払う対象者になるかしら、
と危惧したりした。

やがて数か月後、何かとビジネス雑誌で、配偶者の税額軽減で相続時1億6千万円までの財産は無税、
と学んだりした。

今回の記事に於いても、《・・長年連れ添った配偶者には、1億6000万円まで(または相続する取得価格が法定相続分以下)なら、
税額が丸ごと控除される「配偶者の税額軽減」がある・・》と私は解釈した。

そして私は、とても1億6000万円は夢のような世界だし、
金融資産5000万円以上のあなたに、とある銀行の勧誘パンフレットを眺めても、我が家は対象外となっている。
          

私の中学時代の同級生には、親の資産を受け付いて裕福な人が、ふたりばかりいるが、
中小業の民間会社でサラリーマンをしていた私は、甚(はなは)だ遠い人となったりしている。

今回、《配偶者の税額軽減》を再確認して、我が家は減少している貯金、自宅の敷地を合算しても、
相続税は無税と改めて確認し、つたない人生航路を歩んできた私は、せめて長年苦楽を共にしてきた家内に程ほどに遺せれば、
と微苦笑しながら、安堵をしたりした。

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定年後の年金生活12年生の老ボーイの私、秘かに励まされてきた置物は・・。

2016-01-29 12:38:59 | ささやかな古稀からの思い
私は昨日、我が家より徒歩45分ばかり歩き、都立・神代植物園を訪れて、
ケヤキ、コナラ、クヌギなどの落葉樹と白梅、紅梅、蠟梅(ロウバイ)、椿などを鑑賞した後、
隣接した深大寺に寄ったりした。

そしてお賽銭は恥ずかしながら123円で、私たち夫婦は健康でいられますように、とお願いした後、
七福神の土鈴を眺めて、ひとつ買い求めたりした。

長寿、人徳の神と称せられる『福禄寿(ふくろくじゅ)』である。
そして解説には、幸福の『福』、財運の『禄』、寿命の『寿』の三徳を備えた長寿の神。
また人徳の神として、親しまれています。
と明記されていたので、つたない半生を歩んできた私は微苦笑した。
          

過ぎし年2013年1月2日に都立・『神代植物園』の帰路、初詣と思いながら『深大寺』に立ち寄り、
何か記念品と思いながら、境内の片隅みに『破魔矢』とか『おみくじ』の売り場を見たが興味もなく、
こうした中で『土鈴』売り場が見えたので、私は近づいた。

そして白衣に緋袴で巫女(みこ)装束で奉職されている乙女が、
黒髪で清楚なしぐさで、真摯な表情で売り場担当をされていたので、
高校生の中でも突出した美少女だ、と高齢者の私でも確信を深めながら、土鈴の数々を見たりした。

私はこの年の干支の可愛らしい形の巳(蛇)は何かと苦手であるので、
七福神の土鈴の中で『大黒天(豊作・財福の神)』を選定して、たった500円で買い求めた。

そして豊作・財福の神と称せられる『大黒天』については、
寺院の台所の守護神でしたが、庶民の家でも台所を守り
家庭の繁栄をもたらす神として親しまれています、と付記されていたので、
我が家にぴったりだ、と私は微笑んだりしてきた。

そして帰宅後、我が家の居間の片隅みにある、CDケースの上に安置して、たわむれに記念写真を撮った一葉である。
          

この表面は竹できている文鎮(ぶんちん)の後方にあるのは、
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』であり、
私は定年後の年金生活の中で、毎朝向って、氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、 人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

この横に今回の土鈴『大黒天(豊作・財福の神)』を安置させ、
何かと気弱で小心者の私を守って下さい、と念願したりしている。

そして『大黒天(豊作・財福の神)』は微笑んでいるので、
何かしら良いことが招来するのかしら、と余計なことを思ったりしている。
       

今回、買い求めてきた長寿、人徳の神と称せられる『福禄寿(ふくろくじゅ)』も加わったので、
たわむれに記念写真を撮ったりした。
          

このように相田みつを氏の人生の生きた哲学のような遺(のこ)された名言、
そして豊作・財福の神と称せられる『大黒天』、長寿、人徳の神と称せられる『福禄寿』に保護されれば、
今後どのような苦難があっても、大丈夫かしら、と私は微笑んだりした。

余談であるが、お賽銭123円が多い私は、サラリーマンをしていた中で、
1990年(平成2年)前後の当時、パソコン用の表計算ロータス1-2-3を活用して、多々の管理表を作成して、
社内の多くの方から好評だったので、今でもロータス1-2-3に恩義を感じて、感謝をしているからである。

尚、表計算ロータス1-2-3は10年前頃まで愛用してきたが、やむなくエクセルで転化してきた。

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好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信愛している私は、早や65年が過ぎて・・。

2016-01-28 16:58:41 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の苦楽の多い中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
         
私は71歳の身となり、家内は66歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして70代の心針初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
                  
           ☆掲載した写真は、本日、都立・神代植物園の私なりの情景である☆

こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信愛している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。
          

私は1944年〈昭和19年〉の秋に農家の児として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人のサンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして1951年(昭和26年)の春に地元の小学校に入学したが、
独りで下校する時が多かったりした。

こうした時、通学路から外れて、田圃の畦道を歩いたりし、
ある日、小雨に降られた後、七色の虹が視えて、
この世でこんなに綺麗なことがあるの・・と長らく見惚(みと)れたりした。

或いは通学路を下校する時、祖父の知人宅に寄り、
70歳ぐらいの小父さんに、白い梅の花、桜より好きです、と私は言ったりして、
変わった児だねぇ、と私は言われたりした。
          

この当時は、祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

こうした中で、田んぼの中には小川に流れたり、ある処には湧水(わきみず)があったり、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
幼年期の私は、何かと湧水(わきみず)に魅せられて、
夏も冬も変ることコンコンと湧き出る水を不思議に思ったりしていた。
そしてこの湧水(わきみず)は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。

初夏になると湧水(わきみず)の周辺は、夏のお盆に使う朱紅色したミソハギの花が咲いたりしていた。
          
            ☆一昨年の7月23日に近くの『水生植物園』で撮った☆

私は湧き水を観るのが好きで、春の季節であっても、冬の時節に於いても
コンコンと湧き出る水を、どうしていつまでも湧いてくる、と不思議そうに眺め、飽きることがなかった。

後年、私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行をしたりした。
富士山の伏流水が湧き出る三島郊外の柿田川、或いは忍野八海の湧き水を観に行ったりした。

或いは伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島にある山葵(わさび)が植えられている処があり、
杉木立の斜面の外れに湧き水があった。
小さな湧き水が四箇所あり、コンコンと湧き出て、やがて小川となっていた。


蓮(ハス)専用の水田に関しては、7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
やがて8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

そして私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて独り楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、どうしてあんなに綺麗な白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
          
            ☆一昨年の7月23日に近くの『神代植物園』で撮った☆
          
こうした中、父や母にコンコンと湧く湧水(わきみず)とか、
泥だらけの中で育ち、綺麗な白い花が咲く蓮(ハス)の花に、どうしてなの、と困らせたりした。


やがて私は小学4年生の頃から、映画に圧倒的に魅せられて、独りで映画館に行ったり、
遅ればせながら高校に入学して、読書に目覚めたりした。

その後、私は社会人となり、たまたま音楽業界のあるレコード会社に勤務した為か、
音楽もこよなく聴いたりしてきた・・。


昨夜、私の住んでいる処より、徒歩45分ばかり歩くと、都立・神代植物園があり、
落葉樹とか花木に魅せられて、四季折々鑑賞してきたが、白梅、紅梅、蠟梅(ロウバイ)は咲いたかしら、
或いは過ぎし18日に今年初めて小雪が降ったので、椿の花は耐えられたかしら、と思い馳せたりした・・。
          

そして本日、老ボーイとなってしまった私は、都立・神代植物園を訪れたが、
いつも教示させられることは、日ごとに、朝、昼、夕暮れごとに、花は変貌し、
一期一会ですねぇ、と深く感じたりしてきた・・。
          

そして私は、齢を重ねた今、ともすれば忘却の彼方に遠ざかることを恐れて、
こっそりと記憶のかたみとして、デジカメで撮ったりした。

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殆どの団塊の世代の晩年期は、もはや自分で守るしかない、と高齢者71歳の私は思惑を深めて・・。

2016-01-27 16:27:05 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中のひととき、いつもように家内から依頼された品を求めに、独りでスーパーで買物した後、
帰宅後も独りで自宅から数キロ以内の遊歩道をひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

午後のひととき、ネットでニュースを見ようとしたら、
【 要介護者、爆発的増加で予測不能事態も…3K労働で介護施設も職員も絶対的に不足 】
と題された記事に、私はいつの日にか介護にお世話になる、と思いながら記事を精読した。

【Business Journal 】が1月27日に配信され、
ジャーナリストの鷲尾香一さんが寄稿され、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・安倍晋三政権が「一億総活躍社会」の実現に向けて打ち出した“新3本の矢”のひとつである「介護離職ゼロ」が、
早くも折れかかっている。

介護離職ゼロとは、文字通り介護のための離職者をゼロにすることを指す。
総務省の統計によると、介護を理由に離職や転職をする人は現在約10万人いる。
安倍政権は、これを2020年初めまでに、ゼロにすることを打ち出した。

その具体策が「介護保険事業計画」だ。
同計画では、介護施設、ケアハウス、グループホームなどの入所者数を20年度までに38万人以上増やし、
さらに24時間対応の定期巡回・随時対応型サービスの充実により、施設と在宅を合わせて10万人分の介護サービス利用を拡大、
加えてサービス付高齢者向け住宅の供給を2万人分増加する。これらを合計すると50万人以上になる。

しかし、特別養護老人ホーム(以下、特養)への入所を希望しながら、順番待ちをしている要介護者は、
13年9月末で52万4000人もいる。
計画通りに50万人以上の受け皿ができたとしても、すでに順番待ちをしている特養への入所希望者ですら、賄えないのが実態だ。

その上、介護施設への入所ではなく在宅介護ということになれば、
いくら24時間対応の定期巡回・随時対応型サービスがあっても家族は介護に付き添う必要があり、
介護離職が発生する可能性が残る。

基本的に介護離職をゼロにしようとするならば、入所希望者全員が介護施設へ入れることが前提となる。
          

さらに問題なのは、団塊の世代が75歳以上となる25年には、
要介護者が爆発的に増加し始め、高水準が継続する可能性が高いことだ。

政府は、社会福祉法人の認可基準を緩和する方向で検討を進めており、
さらに、これまで特養は社会福祉法人が建物を所有することが条件となっていたが、
都市部においては賃借を認めるなど、介護施設の増加を促そうとしている。

だが、いくら施設数が増加しても、介護職員数が増加しなければ、十分な介護を受けることはできない。
「3K(きつい、汚い、給与が安い)」といわれる介護職員は、慢性的な人員不足の状態が続いている。

厚生労働省によると、08年度から13年度までの6年間で、要介護者は約130万人増加した。
同時期に介護職員は、約50万人増加している。

この間、介護職員1人当たりの担当する要介護者は3~4人で、ほぼ横ばいの状態が続いている。

しかし、団塊の世代が75歳以上となる25年までには、介護職員を253万人に増やす必要があるにもかかわらず、
推計では介護職員は215万2000人にとどまり、37万7000人の不足が生じると指摘されている。
          

●介護事業者の経営は厳しさを増している
1月13日、大手信用調査会社の帝国データバンクと東京商工リサーチは、15年の老人福祉・介護事業者の倒産状況を発表した。
帝国データバンクは倒産件数を58件、東京商工リサーチは76件としているが、
両社とも「介護保険法が施行された00年以降、過去最悪」としている。

また、倒産した介護事業者の中心は、新規事業者で小規模事業者としている点と、
倒産の一因として15年4月から9年ぶりに介護報酬が2.27%と大幅に引き下げられたことを挙げている点で、
分析は共通している。

東京商工リサーチは「介護報酬改定では、基本報酬がダウンした一方で、
充実したサービスを行う施設への加算が拡充された。
しかし、小規模事業者では加算の条件を満たせないところも多い」とし、
帝国データバンクは「介護報酬改定によって、経営悪化が進む事業者が相次いだ」としている。

このように安倍政権は、一方で介護報酬を大幅に引き下げて、事業者の経営を悪化させ倒産に追い込んでいながら、
他方では介護施設の増設により「介護離職ゼロ」という夢のような皮算用を行っている。

当然のことながら、介護事業者や介護職員にとって、インセンティブが働くような状況にならなければ、
3Kといわれて敬遠される介護職員が増加する可能性は低い。

このままでは、20年初めまでに介護離職ゼロという矢は間違いなく折れることになるだろう。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私も過日、安倍晋三政権の「一億総活躍社会」の実現に向けて打ち出した“新3本の矢”のひとつである「介護離職ゼロ」を知り、
理想であっても現実は無理だろう、と瞬時に感じたひとりである。

敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。
私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代も奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。
          

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族で明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中でバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
やがてソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変し、
世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。
そして私は確か5年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。
          

更に昨今、国税庁による「民間給与実態統計調査」に寄れば、
1人あたりの年間平均給与は、継続的に下がり続け、
平成16年には438.8万円だったのが、平成26年には415.0万円と知ったりした。

ここ10数年は、民間会社は短期に成果が問われる時代の中、常時リストラともいわれたりして過酷な時代になり、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

こうした中で、少子高齢化が増す社会となり、年金、医療、介護などの社会保障費は膨張し、
やむなく年金の削減、医療、介護の見直し改定が実施されてきた。


そして14年の平均寿命は女性86.83歳、男性80.5歳と大幅に伸び、
健康寿命も女性は約74歳、男性は約71歳で、
晩年期の難関として、健康寿命から平均寿命までは、女性が約12年、男性が約9年となっている現実がある。

こうした中で、14年簡易生命表による生存率に寄れば、90歳時点でも女性の48.3%、男性の24.2%は、
95歳時点でも女性の24.4%、男性の8.7%、お元気な方もいる。

このような状況の中、40兆円の医療費は65歳以上が半分以上を占め、
やがて25年には約50兆円に達すると予測されている。

何よりも年金だけとっても、2000年に現役世代3.6人で1人の高齢者を支える状況から、
25年には現役世代1.8人で1人の高齢者を支える事態が到来する。
          

不幸にして生活保護を受けられる方は、国家予算の約3%前後となり、
14年度は過去最高の2.8兆円となり、162万世帯で217万人と私は学んだりした。
この中で、高齢者は半分を占める、と知ったりした。

今回の記事を読み終わった後、漠然としながらも、
生活保護を受けられる方を除外し団塊の世代の晩年期は、もはや自分で守るしかない、と高齢者71歳の私は思惑を深めている・・。

そして私は何よりも認知症が怖く、殆ど毎日ひたすら自宅周辺にある遊歩道、小公園を歩き廻ったしている。


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つたない半生を歩んだ私でも、定年後は隠居の身と感じたが、やがて老ボーイに変貌して・・。

2016-01-26 16:04:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住む71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

私の祖父と父は、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある東京郊外のよくある旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂い万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

兄ふたり妹ふたりでサンドイッチのように育った私は、私だけが通信簿『3』と『2』の劣等生で過ごし、
『お兄さんおふたりは・・成績は優秀なのに・・』
と私は通信簿を頂いた後、幾たびか職員室で担任の先生から言われたりした。
          

こうした中で、小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
映画の脚本家になりたくて、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退した。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
          
その後は、何とか大手の企業に中途入社する為に、あえて苦手な理数系であるコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時としては大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてこのレコード会社で、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
          

こうした中で、1998年(平成10年)に音楽業界全体の売上げピークとなり、
デパート業界と同様にかげりが見え、この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、 第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。

やがて私は何とか2004年(平成16年)秋に、出向先で定年退職を迎えることができたが、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。
          

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
                     
 
このように私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年(昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。
          

こうした中で、定年後の年金生活を始めてまもない時、偶然にブログの世界を知り、
私はある簡易ブログサイトに加入にして、殆ど毎日投稿したりした。

そして北九州にお住まいの心清き奥様と、高校生の交換日記のように、コメント上で心の交流を重ねた。
こうしたある日、貴方様は投稿文で隠居の身で・・と幾たびも綴られていますが、
お若いにおかしいですわ、と指摘されたりした。

この当時の私は、つたない半生を歩んだ私は、定年後に年金生活を始めたが、
当初は覚束ない日々を過ごしたりした。

年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。

そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

このように私は、働かず年金生活を過ごし始めると、隠居したような心情となり、
ブログの投稿文でも、隠居の身ながら・・と数多く綴ったりした。
          

やがて年金生活3年生になった頃、数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの状況を、
知人、友人からの楽しげな便(たよ)りを受けたりしてきた・・。

こうした影響を受けた私はプラス思考に転じて、この後は私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

私は昨年70歳となり、幾つになっても夢をみる少年のような言動が多い老ボーイの身となっているが、
やはり霞(かすみ)を喰っては生きられないので、
現実として最優先には『いきがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』と思い、過ごしてきた。

そして男性の健康平均寿命は71歳であるが、何とか男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、と念願している。

こうした思いには、後期高齢者入門とされる75歳を第一目標として、
到達できたならば、それから一歩づづ堅実に気を楽にして過ごすことが肝要である、
とブログの先達者の投稿文からも学んだりしてきた。
          
          
もとより、こうしたことは自助努力も必要であるが、天上の神々の采配に寄ることであり、
定年退職するまで敗残者のような半生を歩んできたので、
先苦後楽の人生航路だ、と何かとプラス思考の私は思い深めている・・。

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ブログの投稿文、メールなどの入力は、老ボーイの私は、長年『ひらがら』で殆ど一本指で入力して・・。

2016-01-25 15:14:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であり、
恥ずかしながら、携帯電話そしてスマートフォンも使えない身である。

2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
これ以来はパソコンの故障、或いは国内旅行に行く以外は、日々貫徹のような思いで毎日投稿している。

現在、私が愛用しているパソコンは、ディスクトップの固定型であり、
キー・ボードでブログの投稿文、電子メール、ネット検索などの入力をしている。

私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。

そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆

私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、1969年(昭和44年)の4月であった。

東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、1年間ばかり学び始めた時であった。

この当時は、もとよりパソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに連動させたディスク・トップを端末機として使用していた。

私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んだりした・・。

この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、
もっぱら英数字だけの時代であったので、覚束ない手で、殆ど一本指で入力していた。
                              

その後、1970年(昭和45年)4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に何とか中途入社できた後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きな有力レーベルが、外資の要請で、レコード会社として独立し、
私も新たなる外資系のレコード会社に転属させられた。

そして翌年の1971年(昭和46年)1月に、私は本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などは、元所属していた会社の音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら管理していた。

そして委託処理をしていたIBMの大きなデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい、修正データなどを打ち込んだりしていた。

この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした、

この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982年(昭和57年)の頃であったと思われるが、
私もNECのPC8801を購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に、漢字ロムを付加させたりした。

この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私の収入からして高価なパソコン・セットであった。

そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。
          

この後、1983年(昭和58年)からは、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら、私は入力したりしていた。

この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたりした。
そして運営の処理の指示書、データ入力をしていた・・。

このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示できる時代となり、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。

しかしながら住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が羅列表示されて、この中から選定し、確定させる。
そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。

私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、単細胞の私は転進できず、今日に至っている。
               
この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、やはり入力方法は『ひらがな』であった。

やがて20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。

或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算ソフトを活用して資料を作成したりしていた。
          

やがて2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
まもなくブログの世界を知り、殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。

そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて早や47年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、40年が近くなっているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。
               
この間、1995年〈平成7年〉の頃から、世の中は携帯電話が普及し始めた中、
電子メールを打ち込んでいる若き男女を見かけたりしてきた。
私はあのような小さく、わずかなキーを変換させて、よく入力できるなぁ、と感心したりした。

その後に、多くの50、60代の女性も、たどたどしい指先で、この携帯電話に
メールを打ち込んでいる情況を私は見かけたりすると、微苦笑を重ねてきた・・。
          

私は昨今、ブログの投稿文を綴っている時、脳裏から言葉が舞い降りてこない時もあり、
思案しながら散文らしき投稿文を書き散らかしているが、殆ど一本指を頼りにキー・ボードで入力したりしている。
               
このような情況の時、過ぎし年、亡き歌手の岸洋子(きし・ようこ)さんを思い浮かび、
確か 『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった。

私はこの岸洋子さんの歌唱力に魅せられて、私の勤めていた会社とは他社契約の方であったが、
この当時はレコード、カセットの時代であり、3枚ばかり私は買い求めたりし、心酔していた。

そして岸洋子さんを体調を崩されて、病み上がりでリサイタルを日生劇場で開催された時、
私も退社後に駆けつけて、鑑賞しながら心震(ふる)わせ、圧倒的に感銘を受けたひとりである・・。

この後、このライブ盤『ラスト・ライブ! 岸 洋子リサイタル’91』が他社から発売されて、
私も幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。

この中の一曲として、『一本指のシンフォニー』の歌があり、
ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏(かな)でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。

私は無念ながら所有しているレコードからは、紹介できる技量も機種もなく.
やむなく【YouTube】にすがり、この名曲を投稿された方に感謝をしながら、掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=4iHBUEYhX6o
☆【YouTube】<==岸洋子リサイタル'79 歌手生活20周年記念より
                         <==『一本指のシンフォニー』☆

このような曲に思いを重ねたりして、 私も殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
若き日より感性も衰えたのかしら、と私は溜息をしたりして投稿文を重ねている・・。
                    

余談であるが、私が愛用しているパソコン『ウィンドウズ7(セブン)』は、
確か6年ぐらい使用しているが、『の』に当たるキーボードが、不動作になることが多い。

日本文を綴ると、何かと『の』を使うことが多く、キーがくたびれている、と私は微苦笑したりしている。

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デジカメの愛機、年金生活12年生の私、買い改めて3台目となり、微苦笑を重ねて・・。

2016-01-24 16:33:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
民間会社の中小業の会社に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋の書物からブログの世界を知った後、パソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、
自宅から日々投稿文を重ねて、早や丸11年が過ぎ12年生となっている。

こうした中で、諸兄諸姉の皆様の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ8年ぐらい前の頃からは、殆どの方が心ある写真を添付し、
いつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮してきた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧してきたのが本音でもあった。

こうした中、2012年の10月に私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を散策した。
そして旅から帰宅した後、いつものように投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログ上で、ここ心の交流を重ねたひとりで、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥方である。
          

やがて私は、喚起させられて、いま覚えなくていつになったら覚えるのょ、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

そして過ぎし2012年の『文化の日』の翌日の4日に於いて、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞(こ)う人もいなく、
いろいろと彷徨(さまよ)いながら、これ以降のブログに写真を添付して、今日に至っている。
          
                   

私が以前に愛用していたデジタルカメラは、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職する2か月前に、
我が家から最寄りの家電の量販店で買い求めた。

購入する数が月間は、会社の近くのカメラ売り場を見て、色々と思案させられた・・。
この当時の2004年〈平成16年〉の初夏の頃は、
液晶画面を見て撮るコンパクト・カメラが流行していたが、
やはり私は一眼レフのようにファインダーを見て構図を決定するのに、こだわっていた。
          
この当時としては、ニコン、キャノンなどの一眼レフの1000万画素前後のカメラに魅了させられたが、
標準レンズの20~55mm、そして望遠ズームの55~200mmを付けたりすると、
確か80万円を超える金額であった。
         
私は若き1960年〈昭和35年〉の春に、都心の私立の高校に入学して、
クラブとしては写真部に所属し、人を写すポートレートは照れ臭いので、
風景画に専念し、現像などを含めて、ニコン、キャノン、アサヒベンタックスなどのフィルム一眼レフのカメラから、
写しだされる奥行、深さも少しは学んだりした。
         
その後のサラリーマン時代の多忙の時代は、フィルムのコンバクト・カメラで、
ともすれば忘れるので、記憶のメモ代わりに撮ったりしてきた。
           
          

定年後は年金生活を予定していた私としては、一眼レフのカメラだと、
レンズの買い増しなどの購入などでエスカレートすると費用も際限なくなるので、やむなく断念し、
この当時としては高質とされていた800画素でズームレンズのあるカメラ一体型で、
程ほどの良質なキャノン、ニコン、ソニー、コニカミノルタから選定することとした。

結果として、手ブレ補正の搭載されている随一の商品で、
総合教養雑誌の『サライ』でも賞賛されていたコニカミノルタの『DIMAGE A2』とした。
そしてデジカメ本体にカメラ・ケース、充電器、リチウムイオン電池の予備、
記憶媒体はCF(コンパクト・フラッシュ)であるので、512MBを購入し、確かこの当時30万円を超えた。

http://www.konicaminolta.jp/about/release/2004/0213_06_01.html
☆【コニカミノルタ】公式サイト<==《DIMAGE A2》☆

このデジカメはズームが35mmフィルム換算で28~200mmであり、
周遊観光などに参加した場合は、ゆったりと撮影する時間が少ないので、
画質さえ800画素以上要求しなければ、一眼レフのレンズ交換を考慮すると、
確かに私のデジカメは構図が素早く決められ、機動力がある、と秘かに思ったりしていた。


そして記憶媒体はCF(コンバクト・フラッシュ)は512MBを使用していたが
512MBの記憶媒体で500画素程度にすると、128枚前後撮れる。

800画素にすると、64枚前後となるので、フィルム時代からすれば隔世の感があった。

この後、1Gのコンバクト・フラッシュを2年後に買い求めると、
たった2年間で、5分の1程度の価格となったのに驚いたりした。

このデジカメの世界も画質は年々向上し、価格も下落する状況となっている。

こうした中で私は相変わらずコニカミノルタの『DIMAGE A2』を愛用し、
『高級な一眼レフに比べれば確かに劣るが、撮る思いは一流である』
と心の中で呟(つぶや)きながら、旅行先の美景を撮り続けてきた・・。
          

しかし恥ずかしいことを告白すれば、安芸の宮島に訪れた時は、夜景を撮るのに失敗した。

夕食後、遊覧船に乗り、海上から大鳥居、厳島神社がライトアップさせられた中、
風もない穏やかな海上で、遊覧船は大鳥居に近づき、そして大鳥居の中を遊覧船は通り抜けた・・。
前方に厳島神社が観え、後方には五重塔が聳(そび)えている。

幻のような景観であったが、確かに目の前に圧倒的な光景が拡がった。
無念ながら、この情景が殆ど撮れていなく、その後の薄暗いシーン、花火も失敗作となったりした。

こうして旅先などで撮ったのを私は、パソコンのハードディスクに保存して、
プリンターで印刷もせず、その上にブログに写真を掲載する技量もなく、7年ばかり過ぎた・・。

やがてこのデジカメの性能は世の中の進歩から取り残されたか、或いは私のつたない技量か解らないが、
過ぎし2012年(平成24年)の春先から、秘かにデジカメの最新を漠然としながらも注視したりした・・。
          

こうした心情を重ねてきた私が、いつものように私は家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供となり一緒に出かけ、
家電の量販店に『電気毛布』を買い求めに行った。
そして電気毛布を購入した後、デジカメの売り場も寄ろう、と私は家内を誘ったりした。

デジカメ売り場で、私がここ数か月思案していたデジカメを手に取っていたら、
家内が見ていて、
『貴方の持っているデジカメより、可愛らしいわ・・軽そうだし・・
その上・・お値段も廉(やす)いし・・』
とデジカメにまったく無知な家内でも、私に言った。

http://www.nikon-image.com/products/camera/compact/coolpix/performance/p510/
☆【ニコン】公式サイト<==《クールピクス P510》

『今の持っているデジカメより、遥かに画質も向上しているし・・価格も廉(やす)いよ』
と私は家内に言ったりした。

『欲しかったら・・お買い求めになれば・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

結果として私は、売り場の精算場所で、
この新しいデジカメ、そしてカメラケース、記憶媒体のSDHCの8GBを、
デジカメの世界の熾烈な競争の中で、私は4万円以下で、手にすることができた。

そして何よりも私が驚いたのは、この中の記憶媒体がたった1680円で、
私の定年後の丸8年過ぎた中で、世界市場の過激な実態を実感させられたのである。
         
こうして私は新しいデシカメを手にし、
思いがけない家内からのクリスマス・プレゼントかしら、と喜びながらも、
余りにも進んでいる機能をマニアル本を見ながら、デジカメを触ったりしてきた。
          
そして私は、真新しいデジカメを持ちながら、散策をする時の情景を撮ったり、
或いは自宅から近い遊歩道、小公園、神社などを撮ったり、
恥ずかしながら自宅の小庭まで掲載したりし、何かと外出する時にデシカメを持参する習慣となってしまい、
当人の私でも変貌に微苦笑している。

こうした間に、記憶媒体のSDHCの16GBを買い求めて、旅先の滞在日数の多い時に備えたりした。
          
         
やがて私はパソコンのソフトの中で、遅ればせながら『ペイント』という機能を初めて知り、
この『ペイント』を活用し始めたのは、2013年の5月過ぎであった。

この間、デジカメの世界を遅ればせながら改めて学び、一眼レフには高級、中級、初心者用があり、
コンパクトに於いては程ほどの品、簡易用が区分されて、歴然とした表現力を秘めた機能があることを知った。

そして私はデジカメの一眼レフの中級品の本体に、ズーム28~300ミリぐらいのレンズで撮ったならば、
圧倒的に鮮明に表現できる、と夢想を重ねたりしたこともあった。

しかしながら私はデジカメの技巧に乏しい上、お金にも余裕がなく、
やむなく愛機を首廻りからネクタイのように前に提げて歩いて、撮ったりしている。

そして私のブログ上は、写真の主体の『写真』ブログの範疇ではなく、
『随筆』そしてシニア系の『日記』に所属しているので、その日のあふれた思いを投稿文を綴り、
無念ながら筆力が乏しいので、写真は付属品のイラスト絵柄のような代わりとして添付している。

このような思いになると、あふれる思いの描写こそが肝要なので、
写真の技量より、文章表現の修行をしなさい、もうひとりの私に叱咤させられている。

しかし昨今は、かっての写真添付のない私の投稿文を読んだりすると、
文章だけの投稿文は息苦しく感じ、その上に描写表現に乏しいこともあり、
されど写真掲載は私の投稿文に於いては、今や不可欠である、と微苦笑している。

このように過ごしてきた私でも、デジカメの昨今の少し学ぶと、現在愛用しているデジカメより、
少し画素の多いデジカメが欲しくなり、半年ばかり思案してきた。
          

こうした中で、何かと単細胞の私は、《・・有効画素数2010万画素、高感度な1.0型センサーを搭載。
1/2.3型センサーと比べ、約4倍の面積をもつ大型センサーは、
浅い被写界深度で、被写体をより立体的にとらえることが可能に。

また入射する光を増やすことで、ノイズを抑え、光量の少ない夜景や暗い室内での撮影においても
美しい画づくりを可能にします。・・》

こうしたメーカーの紹介文を読み、思案させられたりし、デジカメの技巧に乏しい私でも、
誘惑されて、
やがて本日、新たに一台を買い求めたりした。
          http://panasonic.jp/dc/compact/fz1000/
          ☆【パナソニック】公式サイト<==《LUMIX(ルミックス)DMC-FZ1000》

私は技巧も乏しい癖に、現行の私が持っているデジカメより、性能は進化したデジカメを手に取り、
これから新たに、年金生活の中、三台目となったデジカメに微苦笑したりしている。

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『電力自由化 電気を使えば使うほど安くなる可能性も?』、高齢者の私は戸惑いを重ねて・・。

2016-01-23 15:12:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昨今、新聞、テレビ、雑誌などで、これまでは地域で決められていた電力会社としか契約できなかった電気は、
2016年の4月の「電力自由化」以降は、現在の電力会社だけでなく、新たに参入する電力会社からも、
電気を契約できるようになります、と報じられている・・。

こうした状況に伴い、現在の電力会社、そして新たに参入する電力会社より、
何かしらお得感が謳(うた)われて、私は戸惑いながら、本当かしら、と思惑してきた。

このような心情を重ねてきた私は、先ほどネットを見ていたら、
【電力自由化 電気を使えば使うほど安くなる可能性も?】と題された記事にめぐり逢い、
記事を精読して、微苦笑させられた。

この記事は、『女性セブン』2016年2月4日号に掲載された記事のひとつであり、
1月23日にネットに配信され、無断ながら転載させて頂く。
             

《・・「電力自由化で電気代が安くなる」、「さまざまな電力プランで電気代をもっとお得に」
ワイドショーや新聞で報じられる「電力自由化」というニュース。

自由化っていわれても、いったいなに?と、「?」だらけの人は多い。
安くなる、お得になるっていうけど、そんなにうまい話があるのかしら、と疑問に思う人もいるはず。

わからないままにしておくのは、危険。

その基本を理解しておく必要がある。
電力自由化が始まるのは、今年の4月1日から。この制度は、ごく簡単にいうと「電力を買う会社を選べる」ということだ。

現在、日本にある電力会社は、東京電力、関西電力、中部電力、九州電力など10社。
それぞれ住む地域によって管轄が区分けされており、私たちは自動的に、そこから電力を供給されている。

自由化が始まれば、既存の10電力会社以外からも、自由に電力を買うことができるようになる。
「電気売ります」と、新規参入に名乗りをあげている企業は、すでに100社ほどあり、各企業がさまざまなプランを用意している。

『電力自由化入門』(good.book刊)の著者で、RAUL代表取締役の江田健二さんが言う。

「電力自由化をわかりやすく言うと、これまでは、お米を作れる会社は10社しかなかったけど、
2000年頃から段階的に“誰でも作っていいよ”、“作ったら自分たちで食べてもいいよ”、
“余ったら他の人に売ってもいいよ”というように、少しずつ門戸が広がりました」

日本の電力供給は、戦後GHQに定められ、各地域に電力会社が1つという地域独占形態になった。
競争がなく、市場が独占されているため各社は「電力を安定的に供給する」というただひとつの目標を持って、
設備投資などに注力してきた。

それが1995年に発電の自由化が認められ、2000年以降は段階的に売電が認められ、
企業や中小規模の工場への電力販売が自由化された。

そして今回、一般家庭への売電が“解禁”されることになったのだ。
             

なぜ今、自由化が始まろうとしているのか。
「ひとつの理由は、異業種交流による新技術や新製品の発想です。
例えば、かつて通信市場は、電電公社の独占でしたが、自由化されていくつかの企業が参入し、
携帯電話、スマートフォン、それに伴うアプリなど技術や形態は飛躍的に進化しました。

そしてもうひとつは、これまでは原子力発電所や大規模火力発電所などを持っていないと電力供給できなかったのが、
太陽光など小規模な発電設備を持っていれば、供給が可能になったことが挙げられます」(江田さん)

また、大きな変化は「価格」。
それも、自由化が求められた理由のひとつだという。
電気料金比較診断などを行う「エネチェンジ」副社長の巻口守男さんの話。

「戦後、日本が発展していくためには、電力が欠かせませんでした。
一にも二にも安定した供給が求められ、それがあったからこそ、産業や経済が発展しました。
でも、今やそれは当たり前の時代。

一律の料金設定では、夜だけしか電気を使わない、ひとり暮らしでほとんど電気を使わない、
在宅介護をしているから一日中冷暖房をつけっぱなし、などライフスタイルに合わないという人も大勢出てきましたし、
付加価値を求める声も強くなった。

それに応えるために導入されるのが、電力自由化なのです。

これまでは節電効果を促すため、第1段階、第2段階、第3段階と、
使えば使うほど割高になっていた料金システムが、第2段階や第3段階で割引されるようになり、安くなるのです」・・》
             

このような記事であったが、私は従来の電力会社より安定性はもとより、使用量に伴い廉(やす)くなる価格設定を
本当なの、と懐疑的であった。


こうした私の根底には、敬愛している大前研一氏の寄稿文を過ぎし年2012年6月に於いて、
ネットで読んだりしていた。

【電力の全面自由化は実現するはずない“夢物語”】と題され、『週刊ポスト』に2012年6月29日号に、
寄稿された記事であり、転載させて頂くと下記の通りである。

【・・もし電力が全面自由化されれば、家庭の電力購入の選択肢が増え、料金の引き下げにつながる可能性がある――
大新聞はそう報じるが、それはただの夢物語に過ぎないと、大前研一氏は断言する。
以下は、大前氏の解説だ。
              
 
経済産業省が、2014年以降をメドに電力会社の発電事業と送電事業を分離し、
家庭向けの小売りも含めて、電力を全面自由化する方針を示した。

これを「一般家庭の電力購入の選択肢が増え、電気料金の引き下げにつながる可能性がある」と報じた大新聞もあるが、
経産省の発表を垂れ流す見識のなさには、呆れるばかりだ。

なぜなら、電力の全面自由化は実現するはずのない“夢物語”であり、
電気料金の値上げに怒る消費者を宥めるための、まやかしにすぎないからである。

それは東京電力をめぐる政府の対応を見れば明らかだ。

そもそも昨年8月に施行された「原子力損害賠償支援機構法」は、非常に卑劣な法律である。
その内容は、国が同機構を通じて、資本注入や資金援助をすることで、
東電が破綻しないようにして、銀行にも追加融資を行なわせるもので、
表向きは福島第一原子力発電所事故の被害者への東京電力による損害賠償を支援するという名目で制定された。

しかし、実際は、電力業界や原子力ムラに巣食って甘い汁を吸ってきた政治家、役人、学者などの電力利権を温存した、
東電を倒産させないための法律である。

当初の原賠支援機構法に関する議論では、当時官房長官だった枝野幸男経産相が、
損害賠償は最後まで、東電に負担させる、と断言していた。

ところが、政府は7月に東電に1兆円出資して、株主総会の議決権の50%超を握り、東電を「実質国有化」することになった。
 
さらに種類株式(株式の権利の内容が異なる複数の種類の株式)を発行し、
いざとなったら定款変更などの重要な意思決定が、可能な3分の2を上回る75%まで議決権を持てるようにした。

つまり損害賠償は、実質的に東電の株を持っている国=国民が負担することになったのである。
             

そして、実質国有化した東電が、赤字になれば国は責任を問われる。
責任を問われるようなことを役人が、するわけがない。

つまり、経産省が東電の経営を悪化させる電気料金の値下げや
電力の全面自由化に踏み切るとは考えられないのである。

もとより役人が(明らかに民主党が去った後の)2014年という数字を出すということは、
やる気がないということだ。

東電に1兆円も出資する重大な意思決定が、簡単にできるなら、電力の全面自由化も、やる気があればすぐにできるはずだ。・・》

このような記事であったが、もとより政権は自民・公明党の連立に代わって3年過ぎ、
電力自由化を今年の4月より実施します、と元気よく公表している。

果たして従来の電力会社より安定性はもとより、不意な災害による対応、使用量に伴い廉(やす)くなる価格設定、
そして契約前後の費用を含めて、本当に価格などを含めて利便になるの、と私は今でも、理解できないでいる。

尚、我が家は現在は東京電力の管轄下で電気を利用しているが、
東京電力に関しては、私、親戚、知人などを含め一切関係がないことを付記する。

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最悪なパスワードの2015年版ランキングを知り、老ボーイの私でも、びっくりぽん、と呟(つぶや)き・・。

2016-01-22 15:58:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
一昨日、ネットでニュースを見ていた時、読み終わった後、「びっくりぽん」と私は呟(つぶや)いたりした。

我が家の家内は、昨年よりNHK連続テレビ小説「あさが来た」を視聴してきたので、
ときおり私に「びっくりぽん」と言ったりしてきた・・。

こうした影響か、何かと単細胞の私は、「びっくりぽん」と新用語を覚えたりした。

今回、私が「びっくりぽん」と呟(つぶや)いた記事は、
【「最悪なパスワード」2015年版ランキングが発表 1位は「123456」】
と見出しされた記事であった。

初めて知る【ねとらぼ】から1月20日に配信された記事であるが、無断ながら転載させて頂く。
             

《・・パスワード管理サービスを提供する米SplashDataが1月19日、
インターネットで多用されている「最悪なパスワード」2015年版ランキングを発表しました。

【米SplashDataのパスワード管理術】
1位は「123456」で、2位は「password」。
この2つは同社がランキング発表を開始した2011年から、ずっと上位にいるそうで
「人々が、いかに危険なパスワードを選び、続けているかを示している」とコメントしています。

1位~25位は以下の通り。

「最悪なパスワード トップ25」(カッコ内は前年順位)

・1:123456 (1)
・2:password (2)
・3:12345678 (4)
・4:qwerty (5)
・5:12345 (3)
・6:123456789(6)
・7:football (10)
・8:1234 (7)
・9:1234567 (11)
・10:baseball(8)
・11:welcome (New)
・12:1234567890 (New)
・13:abc123 (14)
・14:111111 (15)
・15:1qaz2wsx(New)
・16:dragon (9)
・17:master (19)
・18:monkey (12)
・19:letmein (13)
・20:login (New)
・21:princess(New)
・22:qwertyuiop (New)
・23:solo (New)
・24:passw0rd (New)
・25:starwars (New)

新たにランクインしたパスワードには「solo」「starwars」などスター・ウォーズにあやかったものも。
ただ、こうした短くてシンプルな文字列は、脆弱なため、
同社は「数字やアルファベットを組み合わせた12文字以上」を推奨しています。・・》
             

私はパソコンだけは、こよなく日々愛用しているが、ネットの各サイトには、セキュリティーの一環として、
パスワードを設定しているが、多少の注意を配慮して、決めている。

もとよりパスワードは、特定の機能を使用する際に、認証を得るため入力する文字及び数字の羅列を指し、
多くの場合、その利用者が本人であることを確認するもので、その利用者のみが知る文字列を用いる、と定義されている。

このように個人の大切な鍵のような番号であり、誰でも想像できるパスワードは、
たとえばマンションであったならば、玄関のドアーの鍵もせず、どうぞ見知らぬ人でも、ご自由にお入りください、
と宣言しているようなことである。

私は上記の余りにも安易なパスワードに驚いて、何かと時代遅れの私でも、びっくりぽん、と呟(つぶや)いてしまった。
             

しかしながらパスワースは、肝要の本人が忘れてしまうことも最悪で、
私はメモ用紙に記載して、本棚にある本の一冊に、挿(はさ)んだりしている。

余談であるが、数年前、私の悪友のひとりは、クラシック熱愛者であり、
パスワードはモーツァルトの生年月日だ、と私に懇親会の延長戦の2次会のひととき教えてくれ、
酔っていても俺に教えるなょ、と私は悪友に言ったりした。

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老後は「1人暮らし」が幸せ 家族同居より生活満足と学び、高齢者の男性の私は戸惑いながら苦笑して・・。

2016-01-21 13:53:31 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活している高齢者71歳の男性であるが、
先程ネットで、【老後は「1人暮らし」が幸せ 家族同居より生活満足】と題された記事を読み、
どのようなことなの、と思いながら読み、やがて驚いたりした。

『産経新聞』より本日の1月21日に配信された記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・1人暮らしの高齢者は、家族と同居している高齢者よりも、生活の満足度が高く、悩みが少ない-。
大阪府門真市の医師が実施した調査からそんな結果が明らかになった。
高齢で体が不自由になると、家族の介護が頼りと思われがちだが、体調があまりよくない人でも、独居の方が満足度が高かった。

調査した医師は「高齢者のお1人さま生活は、実は幸せなのでは」と話している。(加納裕子)
             

「1人暮らしの高齢者も、家族同居と同じぐらい満足度が高いのではないか」。
診察の際のやりとりなどを通してこう感じていたという大阪府門真市の耳鼻咽喉科医院の辻川覚志医師(64)は
平成25年、同市医師会の相談電話や日々の診療を通じて聞き取り調査を開始。
27年までに60歳以上の約1千人に生活への満足度などを尋ねた。

その結果、独居の生活満足度の平均は73・5点。
同居の68・3点を約5点も上回り、悩みは少なかった。
子供の有無や男女による差は、なかったという。

家族と同居する人の満足度が、低い理由について、
辻川医師は「家族への対応に、苦慮するため」と分析する。
家族とうまくいかなかったり、コミュニケーションが取れなかったりすれば、生活の満足度は急激に下がる。

一方独居なら、体調が悪くても、自分のペースで動けて、家族に配慮する必要もない。
ただし、満足度の高い1人暮らしの条件としては、
(1)自由で勝手気ままに、暮らせること
(2)信頼できる同世代の友人や親類が2~3人いてたまに話ができること
(3)住み慣れた土地に住んでいること-と辻川医師は指摘する。
             

26年の国民生活基礎調査によると、65歳以上の人口は約3400万人。
最も多いのが、夫婦のみで暮らしている人で38%、
続いて配偶者のいない子供との同居26・8%、
1人暮らし17・4%、
子供夫婦との同居13・8%-と続く。

家族と同居していても満足度を上げるために、辻川医師は“疑似1人暮らし”を推奨している。

夫婦2人暮らしなら、夫が自分の食事は、自分で準備するなどお互いに自立。
子供と住む場合も、緊急時以外は連絡せず、なるべく顔を合わせないことでトラブルが回避できるという。


■「あこがれの独身生活」
「大阪府内に住む息子には、私のことは忘れて、と言っています。
毎日友達と出歩いていて、家にいるのは、月に2日くらい。楽しくて仕方ないです」。
賃貸住宅で1人暮らしをする前田良子さん(80)は、こう言ってほほえんだ。

前田さんは20歳で結婚し、大阪府東大阪市で、夫が経営する会社で働いてきた。
3年前に夫が他界し、長男に「一緒に住もう」と誘われたが「あこがれの独身生活を手放したくない」と拒否したという。

現在の住まいに置いているのは、針箱や文箱など必要な物だけ。
自分が急病になっても、救急車は呼ばないつもりで、
購読している新聞の販売店に、新聞が2日間たまっていたら警察を呼ぶよう依頼している。

「息子に、迷惑を掛けたくないから。
孤独死は、かわいそうなんてことはなく、理想。
知らん間に、死んでいきたいなと思います」と話す。
             

一方、大阪府内で、40代の次男と2人暮らしの女性は
「息子とよくけんかしていて、本当に疲れる。
『老いては子に従え』というけれど、それも腹が立つ。
私が産んでやったのに…」と苦笑。

ただ、「電球が切れたときなど、やっぱり息子に頼る。
1人暮らしだったら、けんか相手もいないので寂しい」とつぶやいた。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
             

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                            
こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めた私としては、
家内のささやかな時間を崩すのは天敵と確信して、
平素の買物専任者を自主宣言し、午前中のひととき買物メール老ボーイとなったりし、その後も独りで散策している。
             

日中の午後から私は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりする時もある。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯などを従来通りしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。

そして私は家内が外出する時は、殆どボディガード兼お供となり、
最寄のホームセンター、スーパーなどに買物に行く時、荷物持ちの責務を果たしている。
 
或いは私がときおり小庭の手入れをする時、年に4回ぐらい家内が手助けをしてくれる。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、幾たびか各地を旅路を重ねてきた。

こうした私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちは仲良し恋しねぇ、或いはあなたたちお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
                     

私たち夫婦は年金生活を過ごして、丸11年が過ぎて早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
年金生活のセカンドライフは、ささやかながら安楽の日々を過ごしてきた。
             

こうした中で、ときおり私は『おひとりさま』の生活をしている。

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、我が家から遠い地で独り住まいをしているが、
家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっている。

そして昨年より家内の母は、膝(ひざ)、腰も悪化して、家内は介護で行く時もあり、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
          
私は家内より先に、あの世に行くことは漠然としながらも深めているが、
この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
私を残して家内が先き立たつことも考えられるので、
『おひとりさま』の特別演習だ、と自身を叱咤激励して過ごしている。
                                 

私は平素は亡き母の遺伝を受けて、男の癖におしゃべりで、何かと家内とは談笑を重ねているが、
『おひとりさま』の生活をしていると、話し相手がいなく寂しいのが、本音である。

私は年金生活の中で、『おひとりさま』についての実態として、書物としては、
上野千鶴子(うえの・ちずこ)著作の『男おひとりさま道』で概要を学んだりしてきた。

そして愛妻を亡くされた倉嶋 厚(くらしま・あつし)著作の『やまない雨はない』、
徳岡孝夫(とくおか・たかお)著作の『妻の肖像』、
垣添忠生(かきぞえ・ただお)著作の『妻を看取る日』、
川本三郎(かわもと・さぶろう)著作の『いまも、君を想う』、
新藤兼人(しんどう・かねと)著作の『愛妻記』、
それぞれの各氏の愛妻の終末の病状、そして告別の死、
その後の『おひとりさま』の生活状況を多々教示されてきた。

或いは私は、年金生活を始めて、まもなくして『ブログ』の世界を知り、
私もブログのサイトを開設して、身過ぎ世過ぎの年金生活の中で、感じてきたことや思索していることを
あふれる思いを真摯に、ときには楽しく投稿文を重ねてきた。

そして数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けてきた・・。
               
こうした中で、『おひとりさま』の男性、女性の投稿文を精読する時がある。
                        

そして私が感じるには、何かと残された男性は弱く、女性は強い、と私は確信を深めたりしている。
          
多くの男性は、一家の主(あるじ)として、家計の収入に長らく責務を果たしながら奮戦し、
妻は料理、洗濯、掃除はもとより、育児、やがて子供の学業などの支援など、
あらゆる面の後方支援となり、家庭の専守防衛長官を果たしてきた人が多い。

そして定年退職後、男性は単身赴任の経験のない多くの人は、
日常の肝要な買物、料理、洗濯、掃除などに関して、未経験の分野で戸惑う方が多く、
妻に何かと頼る状況が多い、と知人からも聞いたりしている。

こうした高齢者65歳以上の男性が、思いもかけずに愛妻に死去された後、
『おひとりさま』の生活は・・何かと楽観視のぐうだらな私でも、考えさせられたりしてきた。
             
その上、妻との苦楽の過ぎ去り日々の出来事などはもとより、
或いは青年期から何人かの交際してきた女性たちで、やむなく結婚に至らず別れた人に、
いまどうしているのかしら、ときおり振り返ったりする男性も多い、と私は学んだりしてきた。

何かしら女性の多くは、くよくよと苦悶する時期が過ぎた後、やがて現在の状況に精進し、
多くの方が生き生きと生活をしている、と学んだりしてきた。
                    
こうして『おひとりさま』の男性、女性を考察させて頂くと、女の人は強いよねぇ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりし、微苦笑している。
             

今回の【老後は「1人暮らし」が幸せ 家族同居より生活満足】を読んだ後、
私はこのようなことを思い重ねたりした。

そして私は人生の荒波を長らく共有してきた家内に対し、私は戦友と思い深めてきたので、
この世で一番安心できる家内がいないと、寂しいが本音となっている。

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5年後になくなっているもの…電話番号に電子メールに…を学び、時代遅れの私は戸惑いながら・・。

2016-01-20 15:37:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、インターネットに関して、私が定年退職した2004年(平成16年)の秋を迎る前の夏に、
遅ればせながら我が家にインターネット回線を導入した。

これ以来、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコン、予備機としてノートパソコンを設置して、今日に至っている。

ここ11年、据え置き型のパソコンに関しては、故障とか新製品に戸惑いながら、
やむなく3回ばかり新機種を買い改めたりしてきた。
                           

こうした中で私は、ガラケーと称される携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には携帯電話が必要と思ったりした。

過ぎし昨年の3月中旬、家内用に携帯電話の入門者に最適と思われる『らくらくホン』コースを一台ばかり買い求めたが、
メールとか写真などを利用できず、単なる移動できる電話機として使用している。
私は相変わらず、『ひかり電話』を使用している。
         
このような状況であり、ましてスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。
そしてスマホは、ここ7年急速に普及して、2012年(平成24年)には世帯保有状況が40%となり、
最近は60%になった、と私は学んだりしてきた。

そして私は、フェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように私は、無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                                      

このような時代遅れの私が、昨夜のひととき、ネットで偶然に、
情報最先端のITジャーナリスト・ソーシャルメディアコンサルタントをされている神田敏晶さんが、
【5年後になくなっているもの・・電話番号に電子メールに・・】と題された記事を読み、
やがて戸惑いながら動顛させられた・・。

何かしらアメリカの情報最先端の方の記事を紹介した後、
神田敏晶さんが『今後5年で日本の絶滅危機種となるだろうメディア5つ』を思考した後、
アメリカと比較する意味で、自分の身の回りの環境を独断と偏見で考えて結果を公表していたので、大半を転載させて頂く。

◎アメリカに於いて、5年後になくなるの5つ
《わずか5年前、世界はまったく違う場所だった。2010年、iPadはデビューしたばかり、
(略)これからの5年間で、現在想像もしていない製品やサービスが出てくることは間違いない。
5年後に無くなっているもの5つをとりあげる・・。

1.小切手
20%以上が紙の小切手を書いて支払いをしたことがない

2.USBメモリー
モバイル通信ネットワークが人口の90%をカバーする

3.パスワードや鍵
スマート端末が鍵になり、生体認証と組み合わせる

4.リモコン
2020年には大量の新しいデバイスが、インターネットにつながる

5.紙ベースの署名と紙ベースの手続き
将来は、あらゆる取引が「クラウド契約」によってアクティブに管理されるようになる。


米国での価値観でいうと、家賃を支払うのにいまだに「小切手=マネーオーダー」を家主に送るという習慣があるから当然、
早く無くして欲しいという意味あいがきっとあったのだろう。
他にもいろいろと意見はあるが、あと5年も経過すると完全に無くなることはないまでも、絶滅危機種となりえるものはたくさんある。

ケータイ電話の登場で絶滅機種となったのは、NTT ISDN公衆電話、赤電話、アドレス帳、電話番号簿、ポケベル、電話関連。
スマートフォンの登場で、持ち歩きから完全にベンチスタートとなったのが、時計、カメラ、計算機、ペン、電卓、地図など。

新たな媒体がデファクトとなるとそれに関連するものが、一気に一般的な価値を消失してしまう。
            

◎日本に於いて、今後5年で日本の絶滅危機種となるだろうメディア5つ
神田敏晶さんがアメリカと比較する意味で、自分の身の回りの環境を独断と偏見で考えた結果、
理由が掲載されていた。

1.電話番号

「メッセンジャーがあれば電話番号は不要」…とFacebookメッセンジャーのMAUが8億突破で
デビッド・マーカス副社長が曰く、電話番号というよりも、音声通話をする機会は本当に減った。

今や電話をかけてくるのは、テレアポ業者か、訃報だけになっている。
すでに電話番号はGoogleの二重認証のための認証番号としてしか機能しない。
Skypeや他の番号のほうが完全に安上がり。
着信専用電話があれば事足りるので、Wi-Fiモバイルルーター&着信専用のようなもので
しばし場つなぎしてもらったほうがよいかも。

2.電子メール

20世紀のインターネット時代の主役だった、電子メールもSPAM化されて、
プロモーションにフィルタリングされるような内容ばかり…ウィルスの感染経路とかにもなりえるので、
緊急時とまったくつきあいのない人のファーストコンタクト程度になってしまい
いつしか他の手段へと代替化される運命に…。

3.amazonの段ボール

amazonのドローン宅配や自動運転が話題だが、5年で従来の方法を変えるのは、まだまだ現実的ではない。
しかし、我が家での最大のゴミは、amazonの段ボールである。

注文する度に梱包されるあのダンボール。
これだけ宅配便の人が、こちらの在宅時間指定で来てくれるようになったのだから、その場で中身だけを渡してほしいのだ。
もちろん『梱包なし』を選べば、ポイント還元するなどで、一気に普及が可能だ。
倉庫からの物流が可能なamazonだから、流通できる配送箱を開発したほうがコストダウンにつながるだろう。
            

4.ドメイン名

昨年、knn.comという20年使用していたドメイン名をSedo.comで売出し、
escrow.comで売買したが、ドメイン名がなくなっても、何も不自由に感じることがなくて驚いているほどだ。

さすがにメールアドレスとして登録していたサービスの引越しは大変だったが…。

引越し見積りで大量に来る引越し業者のうち誰か、メールアドレスやブログの引越し、ドメイン名の引越しも、
サービスとしてやれば良いのにと思うほど。

あの手間を考えれば、光ファイバーの新規回線くらいならすぐに契約するのに。
ドメイン名が例え、暗号のような長いドメインだったとしても、
SEOさえ効いていれば、「◯◯で検索してください」のワードでランディングできるからだ。

ドメイン名はレガシーな電子メールのアドレス名くらいでしか、役にたたなくなっている。

5.ハードディスクドライブ

長年にわたり、データ・ストレージとして活用してきたハードディスクドライブだけど、
写真やビデオのデータはすべてGoogle Photosに自動アップロード、
音楽データは、Google Play Musicに5万曲までアップロードが可能。

さらに月額サブスクリプションが終了しても、
Google Play Musicは自分のアップロードした楽曲を無料で利用できる。
騙されたとおもって、無料の30日間にアップロードして確かめてみるとよいだろう。

他にもevernoteやdropboxGoogle ドキュメントなど、
仕事も会社のデータは、セキュアなサーバでないとあぶなかっしくて利用しない。

ローカルには、潤沢なメモリ空間と最低限の非常時バック・アップ用のSSDさえあればという状況になりつつある。


このような5つを羅列した後、本当は5つと言わず、もっといらないものがでてくるだろう。
MicrosoftのSurfaceのキャッチコピーである「これさえあれば何もいらない」は、
「IDさえ証明できれば何もいらない」時代がやってきそうだ。
            

このような記事であったが、私は神田敏晶さんが書かれた専門語も、半分ぐらいしか理解できないこともあり、
戸惑いながら苦笑してしまった。

そして『電話番号』は不要になると明示されても、私は長らく固定電話の『ひかり電話』を使用している。

或いはパソコンしか使えない私は、『電子メール』『ドメイン名』『ハードディスクドライブ』は必要である。

しかしながら『amazonの段ボール』に関しては、
私はアマゾンに関しては利用したことがないので、アマゾンの段ボールは無知なので、微苦笑したりしている。

そして私は、困苦しながら、ここ10年ぐらいは、ひたすらパソコンを活用して、
時代遅れの私は、日々楽観的に過ごす、と思ったりしている。

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北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【下】

2016-01-19 18:15:12 | ささやかな古稀からの思い

2月12日
私たち夫婦は、紋別の市内に3連泊した後は、
次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動する為、
『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスを利用し、
やがてサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着した。

確か20数年前の頃の私は、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』のような処で、
数日のんびりと滞在することが夢のひとつであった。

しかしながらこの当時の私は、民間会社の中小業に勤めるサラリーマンであり、
多くの人と同様に多忙であり、とても静寂な地のリゾートホテルで数日のんびりと滞在することが、
叶(かな)わないことであった。

今回の旅路は、家内は紋別で3連泊して、流氷観光船に幾たびか乗船し流氷を満喫したい、
私は静寂なサロマ湖畔のリゾートホテルで3連泊したい、
このような発想が根源であった。

そして過ぎし年、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』は、
北海道の有力観光グループの鶴雅(つるが)グループに経営権は委譲されたが、
いつの日にか宿泊したい、あこがれを秘めた処でもあった。
       

予約した旅行代理店から、この『サロマ湖鶴雅リゾート』パンフレットを頂いた表紙には、
《、なにもない静寂
     なにもしない贅沢 (略)》
このようなフレーズが綴られ、私が念願していた思いと、ピツタリと微笑んだりした。

チエックインは午後3時過ぎであったので、予定通り家内と未知の周辺を散策したりした。
そして湖岸を少し眺めたりした。
       

やがてホテルの裏側は道路があり、奥地は山林となっていた。
       

この道路沿いを10分ぐらい歩き、左折した道路の前方には大きな橋があり、小さな漁港が視えたりした。
       
そして彼方にはワツカ原生花園にように思えたりした。
      

やがてホテルに帰還すると、早めの午後2時にチェックインして頂いた後、
指定された部屋は、昼下がりの陽射しで眩しく、
窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪していた・・。
       

やがて夕暮れ時には、落日の光景を窓辺の椅子から、私たちは鑑賞したりした。
       

2月13日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に初めて宿泊した私たち夫婦は、
私は朝の5時半過ぎに目覚めて、やがて窓辺のカーテンを少し開いた。
       

窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪し、彼方の対岸は霧のようにぼんやりとしていた・・。

もとよりサロマ湖は、琵琶湖、そして霞ヶ浦に次いで3番目の大きな湖(みずうみ)であり、
北海道としては第一の広さとなっている。

広大なオーホーツク海とは細長い砂州によって境界となっているが、
二つばかりの小さな湾口を通じて、周囲72キロの広さオーホーツク海につながっている稀な湖(みずうみ)となっている。

そしてサロマ湖はこうした稀な形状の為か、カキ、ホタテ、ノリなどが養殖され、
湖岸に生息するサンゴソウは天然記念物として名高い。

数多くの訪れた人たちからは、サロマ湖の落日は美しく、
北国の清澄な空気を茜色(あかねいろ)に染めながら、金色の太陽が光を弱めて水平線に落ちてゆく、
情景が絶賛されてきた。

このようなことを思い浮かべたりしたが、冬のおだやかな晴れた朝、ものみな静寂・・、
と微苦笑したりした。
       

この後、私は10時過ぎに独りで湖岸を散策したりした・・。
       

       

       

やがて昼下がりになると、窓辺の左前方の空は暗くなり、右前方の空は明るさを残していた・・。
私は、まもなく雪雲(ゆきぐも)が到来して、粉雪が降るかしら、と思ったりした。

この後、まもなくして上空は暗さを増す中、風が吹き粉雪(こなゆき)が舞い降りてきた・・。
       

このような情景を眺めていた私は、館内の売店に行き、雪見酒とした。
           

私はぼんやりと茶碗酒を呑みながら、
雪が降りそうな暗い空は、確か雪気(ゆきげ)と称したよなぁ、と思いだしたり、
粉雪(こなゆき)は粉のように細かくさらさらと降る雪だった、
昨今の若き男女はパウダースノーとおしゃれに命名していたよなぁ、
とせんなきことを思い重ねたりしていた。

しかしながら、この後の旅先で私たち夫婦は、粉雪(こなゆき)に風が強く吹けば、
視界は遮(さえぎ)られて翻弄され、困苦することは、この時は予感もできなかった。


2月14日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に滞在している夫婦は、
昨日の午後時過ぎより、粉雪(こなゆき)が舞い降り、やがて風も伴い視界も悪くなった・・。

こうした時の私たち夫婦は、指定された部屋でのんびり過ごしたり、
朝、昼下がり、夕方などは大浴場、露天風呂に行ったりし、
ときには館内の遊びの広場と称せられた体育館のような処で、
10数年ぶりに卓球の真似事をしたりした。

こうした中で私は独りで館内のロビーに、12日より滞在する中で、幾たびか通ったりした。

私は年金生活11年生であるが、午前中に買物専任者の責務を終えると、
やはり独りで自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしている。

この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
       
このような生活をしている私は、旅先の『サロマ湖鶴雅リゾート』のロビーに瞬時に魅せられた・・。


チェックインの時に気付いたのであるが、ロビーの一面に大きなスピーカーが置かれていたので、
スピーカーの名門のJBLの美しいフォルムと名高く、アンティークな大きなパラコンが置かれていたことに、驚いた。
       

そして私は、オーディオファンの誰しもが知っているマッキントッシュの構成で、
それぞれの音楽が奏(かな)でられていたことに魅せられた・・。
       

       

たまたま私は、現役サラリーマン時代はあるレコード会社に35年近く勤めた為か、
知人にはオーディオファンの方も多く、私は勤めて6年間の頃まではオーディオの初級まで熱意したが、
この後は家のローンの返済であえなく敗退し、昨今はCDラジカセで聴いたりしている身となっている。

そして所有しているレコード、CDを知れば、本と同様にそのお方の思考が解ると思っている私は、
私はこの突出したオーディオ装置の壁面の一面のソフトを拝見したりした。

この後、フロントのスタッフから、このオーディオ装置は、
このリゾートホテルを含め道内に多くの観光ホテルを経営している鶴雅(つるが)グループのオーナが、
ご自身のあふれる熱意で購入された、と教えて頂き、良きご趣味ですねぇ、と私は微笑みながら言ったりした。

このロビーには、大きな薪ストーブが設置され、幾たびか薪が燃やされている状況を私は見たりした。
もとより館内は大型の冷暖房完備しているが、特に薪の爆(はぜ)る音は、羨望させられたり、
この世の最上な贅沢なひとときを享受したりした。
       

       


そしてロビーには幾つかの彫刻作品が置かれていた。
私は彫刻の世界は全く無知であるが、この中のひとつに瞬時魅了させられた・・。
            

うつむく少女、と私は勝手に名づけてしまったが、近寄って見たら『少女』と命名され、
私は微苦笑させられたりした。


2月15日
私たち夫婦はサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に3連泊した朝、
次の宿泊地の網走湖の湖畔にある観光ホテル『網走湖荘』に向かう準備を終えた。

そして朝食前に館内にある売店で、大きな旅行ケースを宅配便で自宅に送付する為に手続きをしたりした。

次の網走までは、私たちがこのサロマ湖まで来た『エクスプレスバス』を活用すれば、
『サロマ湖鶴雅リゾート』13時45分・発に乗車し、やがて網走の『おーろらターミナル』14時35分・着で、
わずか50分たらず近い道のりである。

しかしながら私たちは早めに網走に行って、網走湖の湖畔にある『網走湖荘』の付近で、
冬のイベントのひとつの『あったか網走』で、熱気球などに乗って体験したい為に、
当初よりコースを改定していた。

『サロマ湖鶴雅リゾート』よりホテルの送迎車でJRの『北見』駅まで行き、
その後は10時45分・発の各駅列車で『網走』駅に11時46分・着、
そして駅前より網走湖荘』まで路線バスで行く、予定を立てていた。


やがて8時半過ぎにチェックアウトをして、お世話になったホテルに別れを告げた。
       


そしてホテルのご厚意の送迎車に私たち夫婦は乗車し、たまたま同乗したは若き20代のご夫婦であった。
湖畔は粉雪(こなゆき)が降り続け、ときおり風も伴い視界も悪くなった・・。

まもなく9時にホテルを出発し、同乗した若きご夫婦と談笑する中、
北見市にお住まいで、平素は自動車を利用しているが、このような暴風雪は怖くて・・
と若き男性は私たちに言ったりした。
       

送迎車を運転して下さる方は、50代年配の男性で、大半は除雪されていた道路を疾走してくれたが、
路肩に除雪された粉雪がうず高く小山となり、この除雪された粉雪は風が吹くと舞い上がり、
前方の道路の視界を遮(さえぎ)ったりする。

或いは付近の平地の積雪している粉雪も、風で舞い上がり、道路の視界を遮(さえぎ)ったりしている。

私は運転して下さる方は、『暴風雪のようで、運転するも大変ですね』
と言ったりした。

『このような悪天候は慣れていますが・・怖いは道路に人が突然に出てくることです・・視界ゼロに近いですから』
と運転して下さる方は、私に言ったりした。

私たち夫婦は北海道の冬の旅路は幾たびもしてきたが、このような長く視界ゼロのような状況は、
初めて経験した。

やがて運転して下さる方の技量で、予定通り10時にJRの『北見』駅前に到着した。
そしてそれぞれお互いに、お気を付けて・・と別れを告げたりした。


『北見』駅の待合所の告知には、石北本線の各駅列車は全面運休、と表示されたりした。
もとより石北本線は道内の北の中心地の旭川市、そしてオホーツク海の玄関口の網走市を結ぶ幹線である。

私たちが乗車する10時45分・発~網走駅・11時36分・着も、もとより運休となり、
『札幌』発、『旭川』経由『網走』まで疾走する『特急オホーツク』列車だけが運行となっていた。

そして私たちは、『北見』11時57分・発の『特急オホーツク』で、『網走』12時46分・着、
このように切り替えた。

そして私は構内、待合所をうろついたりして、『特急オホーツク』の到着を待ちわびた。
       
        ☆駅構内にあったボスターを記念に撮ったりした☆

やがて20分近く遅れて、『特急オホーツク』は、『北見』に到着した。
この少し前に改札となり、私は『北見』駅のプラットフォームを撮ったりした。
       

       

そして『特急オホーツク』は入ってきたが、前面は積雪がビッシリと付着していたので、
特に『旭川』から山間部の多く、更に暴風雪の中を奮闘した結果だった、と私は理解できたりした。

やがて『特急オホーツク』は、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、『美瑛(びえい)』そして『女満別』を停車した時、
運転席の前はワイパーが暴風雪で故障しまして、修理でお時間を下さい、
このような意味合いが車内放送に流れたりした。

『この特急は『札幌』を7時半近く発車して、悪天候の中、よくぞ力走してくれているょ・・
ワイパーだって・・壊れてもおかしくない暴風雪だもん・・』
と私は特急オホーツクの健闘をたたえて、家内に言ったりした。

やがて『特急オホーツク』は、遅延しながらも『網走』駅に到着した。

『網走』駅の構内は、数多く人出の中を私たち夫婦は通り抜けた後、
駅前の路線バス乗り場、或いはタクシー乗り場を探したりした。

しかしながら積雪があり、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、
一般自動車、路線バス、そしてタクシーも混乱している状況であった。

やむなくタクシー乗り場で待機していたが、肝心のタクシーが積雪15センチ前後の中、
スリップして動けず、私の前にタクシー待ちをしていた男性の掛け声で、
私たち男性6名がスリップしたタクシーの後部を、数分に及び何とか押し出したりした・・。

やがて私たち夫婦は、何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

結果としては、サロマ湖から網走まで近くて、遠い5時間の長い道のりとなってしまったねぇ、
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。                             

しかしながら暴風雪に翻弄された私たち夫婦だったが、この後の翌日は更に大きく影響されるのである。


2月16日
私たち夫婦は昨日の15日には、網走駅前より暴風雪の中で何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

やがてチェックイン後、予想したより大きな部屋に通されて、
私は煎茶を淹れながら、サロマ湖からの道のりには予想外のことが多くて、疲れたょ、と家内に言ったりした。

そして私は、家内の座っている前に煎茶の入った茶碗を置き、
『XXちゃんの楽しみにしていた『あったか網走』のイベントも中止になり・・熱気球も乗れなくて・・』
と私は家内に言ったりした。

家内は煎茶を飲みながら、このような悪天候になってしまって・・やむえないわ、と私に言いながら、
お互いに微苦笑したりした。

翌日の16日の朝の6時過ぎ、私は部屋の窓辺のカーテンを開けると、
網走湖は粉雪が降る中、風が吹き、粉雪は舞うような視界をさえぎったりしていた・・。
       

やがて8時半過ぎに、チェックアウトした時、予約していた9時発の網走行の送迎バス・・大丈夫ですよねぇ、
とフロントの方に私は確認したりしたが、明確な返答はなく、私は少し不安を増した。

私たち夫婦の予定は、このホテルからの9時発の網走行の送迎バスで、市内の道の駅『流氷街道網走』まで行き、
この館に併設されている流氷観光砕氷船の『おーろら号』11時・発のクルーズを1時間ほど乗船した後、
この道の駅『流氷街道網走』12時20分・発の路線バスで女満別空港に13時・着を予定している。

そして女満別空港15時・発の日本航空1188便に搭乗して、羽田空港16時55分・着を予約していた。


やがてホテルの9時発の網走行の送迎バスは、30分近く遅れて乗車でき、
市内の道の駅『流氷街道網走』に到着したのは10時少し前であった。

そして併設されている『おーろら号』の乗船売り場で、『おーろら号』は欠航と知った。
       

この後、観光案内所を見つけて、女満別空港・発の航空状況を確認して頂いた・・。
まもなく女満別空港の昨日は欠航便が多く、キャンセン待ちなどで130名前後の方たちが、
空港の待合所で一晩過ごされ待機されていた、と知ったりした。

そして私たちが搭乗する便が『欠航』が確定している、と教示されて、
私たちは困惑した。

私たちは幾たびに旅路をしてきた中で、搭乗予約している航空便が『欠航』は、初めて体験であり、
やはり女満別空港の日本航空の受付センターで、振替の依頼をしょう、と公衆電話で幾たびもしたが、
問い合わせが殺到しているらしく、連絡ができなかった。

その上に、女満別空港までの路線バスも『運休』と知り、
とりあえず館内の休息場でコーヒーを飲んだり、女満別空港の日本航空の受付センターに電話連絡したり、
或いは港から海を眺めたりしていた。
       

やがて女満別空港行きの路線バスは、運行を始められ、
私たちは乗車して、何とか女満別空港の日本航空の受付センターに着いたは13時半過ぎであった。

そして家内は受付センターで予約していた搭乗券(J席)を提出し、欠航の振替の依頼をした・・。
やがて満席続きで、搭乗できそうなプランは、2日後、と提示された。

私はこの後、網走湖畔の観光ホテルに連泊しても、必ず確約ができなければ・・、
と受付センターの方に言ったりした。

やがて数分した後、旭川空港・発の明日の午後便でしたら、確約できます、と私たちは説明を受けた。

この女満別空港のJR最寄駅の『美瑛』駅に行き、やがて特急オホーツク号で『旭川』駅・着。
たとえば『美瑛』13時55分・発の場合は、『旭川』17時12分・着。
或いは『美瑛』14時44分・発の場合は、『旭川』18時04分・着。
このような意味合い表を頂き、やむえなく了承した。

そして旭川空港・発の明日の午後便の仮搭乗券を受け取り、
迅速に私たちは未知のJRの『美瑛』駅までタクシーに乗車した。

私は車内で、旭川の市内ホテルに一泊して、明日の昼まで旭川空港に着けば、夕方には羽田に帰れるょ、
と家内を慰めるように言ったりした。
タクシーは積雪のある道を疾走し、ときおり粉雪が舞う中、やがてJRの『美瑛』駅に到着した。


しかしながら駅の構内の告知板では、『全面運休』と表示されていた。
家内は驚きながら窓口の担当者に、特急も運休ですか、と訊(たず)ねたりした。
そして窓口の担当者は、お詫びの言葉を重ねたりした。
       

やむなく私たちは女満別空港まで引き返すこととしたが、駅前にはタクシーが一台もなく、
私は公衆電話でタクシー会社に依頼した。

結果として女満別空港とJRの『美瑛』駅をタクシーで往還し、
往復料金として6000円なってしまい、苦笑させられた。

やがて日本航空の受付センターに私たちは舞い戻ると、
先ほどの受付センターの麗(うるわ)しき女性が、恐縮した表情で待ち構えていた。

『あれからまもなくしまして、JRの石北本線は全面運休と知りまして・・大変ご迷惑をお掛け致しまして・・
遅ればせながら本日の20時20発の最終便に、何とか2名様が確保できまして・・』
とこのような意味合いの言葉を言いながら、家内に指定された搭乗券(J席))を手渡したりした。

この後、私は当初予定していた15時発が、20時20分になってしまったが、
予約していた通りの少しゆったりと座れるJ席で良かったじゃない、と家内に言ったりした。

この後、空港内の食事処で、遅い昼食を注文できたのは14時半過ぎであった。

やがて待合所の椅子に座ったのは、15時過ぎであり、この後5時間近く待たされ、
私は本を読んだりしたり、ペットボトルの煎茶を飲んだり、
或いは愛煙家の私は喫煙室に行ったりしていた、

家内は空港内の名店で買物をしたりしていたが、
やはり5時間は余りにも長く、ときおりお互いに微苦笑したりしていた。

こうした中で、もしも新千歳空港で長らく待機するだったら、
入浴、休息できるクワハウスを利用し、安楽なひとときが過ごせたのに、
と私はユーモアを含めて家内に言ったりして笑わせたりした。

或いは私は大きく掲げられた運航状況の告知電子版を観たりした。
そして私たちが搭乗する便が、確か空港測定中、という表示が消えず、私は不安を増したりした。

私は濃霧で離発着できない、或いは粉雪が暴風雪となり滑走路などで離発着できない状況を思い馳せたりし、
何かと平素はプラス思考の私は、ここ二日間の出来事を思い浮かべれば、弱気になったりした。

やがて私たちが搭乗する航空機は、予定時20時20分を30分ばかり遅れて女満別空港を離陸した。
           

そして羽田空港に23時近くに着陸し、やがて私たちは疲れ果てていたので、
タクシーに自宅に向かった。

ときおり旅路の帰路にはタクシーを利用することもあったが、
こうした帰路は環状7号より世田谷街道から帰宅したりしている。

今回は旭川のホテルに泊まったつもりで、都心の夜景見物を兼ねて、
首都高速を通ってもらい、やがて我が家に着いたのは24時の真夜中であった。


このような昨年の冬の私たち夫婦の遊学した旅路であったが、今年は家内は家内の母の介護に伴い、何かと多忙となり、
冬の私たち夫婦の旅路が定まることなく、私はうつろな思いで、のんびりと何処か旅行に行けるのは、いつごろになるかしら、
と苦笑したりしている。

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北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【中】

2016-01-19 15:23:28 | ささやかな古稀からの思い
2月9日(月曜日)

私たち夫婦は羽田空港に行き、全日空の『紋別空港』行きに搭乗手続きを終え、待合所に移動しのは午前10時であった。
しかしながら私は不安を秘めていた・・。

『羽田空港』と『紋別空港』の飛行機便は、日にたった全日空の一便の往復路だけで、
たとえば私たちが搭乗するは、『羽田空港』は10時30分発、『紋別空港』は12時20分着、
となっている。

もとより『紋別空港』は道内の空港としては、新千歳、旭川、函館、釧路、女満別、帯広よりコンパクトで、
稚内、中標津と同等の空港と私は感じたりしていたので、特に冬の天候異変多い季節に予定通り運航ができるかしら、
と危惧したりしていた。


私たち夫婦はⅠ月中旬に、クラブツーリズムの主催する北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在する、
格安のフリープランに参加した・・。

そして私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。

こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。


こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の函館市の郊外にある湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。

航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。

①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。

②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。

③予定通り、函館空港・着陸します。

この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。

その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。

やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。

          
            この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。

          

このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。

そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。

やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。

私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。


その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。

やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。

私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。

この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。

やがて、今回の旅路も宿泊先に大きな旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
            

このような苦い体験をしたりしたので、今回の『紋別空港』は何とか着陸して欲しい、と念願したりした。


幸いにも機長、客室乗務員の行いが良かったらしく、私たちが搭乗した全日空の飛行機は、
『紋別空港』に着陸体制し、やがて予定時に着陸した。

そして到着ロビーの混雑する中で、空港から紋別市内まで無料送迎バスを見つけて、
私たちは乗車した。

この無料送迎バスは、飛行機の到着に合わせて、『海洋交流館』にあるガリンコ乗場、有力な宿泊『プリンスホテル』、
私たちが宿泊する『セントラルホテル』などを利便性のある運行路と解ったりした。

やがて車窓からは海辺が視(み)えたりしたが、流氷はなく蒼い海上が広がっていた・・。

こうした中で、同乗していた女性グループのひとりが、バスのドライバーさんに、
『流氷・・全然視えませんが、明日ごろに見ることができますか?』
と訊(たず)ねられたりした。

『流氷は数週間前に観えましたが、沖に向い強い風で、20キロ先の海上に流れまして・・』
とバスのドライバーさんは、苦慮しながら大きな声で返答したりしていた。

私は流氷は気候の神々のきまぐれ采配に寄り、
時には沖合から陸地に向い、烈風が吹けば、見ることはできる、と思いながらも、
やはりオホーツク海上の流氷を視たく、この紋別に滞在する3日間で、4回ばかりガリンコ号の乗船予約をしたりしていた。

やがて市内にバスは入り、私たちは宿泊する『セントラルホテル』前で下車した。

そしてフロントでチェックインした後、4日前に自宅から宅配便で送付した大きな旅行ケースを受け取り、
私たち夫婦が指定された部屋は、最上階の客室だった為か、海上の視界に恵まれた・・。

過ぎし日に家内は、紋別の市内の『プリンスホテル』か『セントラルホテル』と懸案した結果、
海上の景観が良いと思えて選定してきた上、部屋も程ほど広く、私たちは思ったよりもよかったねぇ、と微笑んだりした。
          


この後、私たちは『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かった。


私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』で少し休息した後、
『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かったのは午後2時半過ぎであった。

紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』は、流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、
流氷観光ができる砕氷船として名高い。

深紅の船体とアルキメディアンス・スクリューと称せられる巨大な2本のドリルで、
現代は二代目で、数多くの流氷を観光する人々に好評されている砕氷船でもある。
       
       ☆ 初代のガリンコ号は、『海洋交流館』の前の広場に公開されていたので、
         翌日の10日に私は撮った ☆

そして現代のガリンコ号は、『ガリンコ号Ⅱ』として命名され、砕氷能力も向上させ、
観光客も多く乗船できる砕氷の観光船として、この2月には朝のサンライズ・クルーズとして午前6時より、
夕暮れにはサンセット・クルーズとして午後4時10分より、出港されて、45分前後流氷観光ができる。

この間の日中には、5便が流氷クルーズとして活躍されている。
       
       ☆ 現代の『ガリンコ号Ⅱ』は、翌日の10日に私は撮った ☆


こうした中、私たち夫婦は紋別市に着いた初めて夕暮れに、サンセット・クルーズに乗船した。

そして流氷の大群は沖合の彼方に遠ざかってしまっていたが、防波堤の一面には残っていた所もあったりした・・。
       


このオホーツク海の流氷は、流氷が発生するロシアの沿岸に於いて、
真冬に大陸から北西風の烈風下でマイナス40度以下になり、
更にシベリア大陸の4350キロに及ぶ大河のアムール川から大量の真水がオホーツク海に流れる。

そしてオホーツク海の表面から50メートルの深さに、塩分の薄い水の層ができ、
これにシベリアおろしの寒風にさらされて氷結される。

やがて3月にはオホーツク海の80%前後が凍てつく、
こうした中で知床半島の岬からウトロ、斜里、網走、湧別、紋別、果ては枝幸、宗谷岬まで、
一月の中旬から3月初旬まで流氷が到来することもある。

しかしながら寒気、烈風で飛ばされたり、寄せあったりするので、
このように学んできた私は、流水は天上の気候の神々に寄るきまぐれな采配に寄る、と思い深めたりしてきた。

このように思いながらも海面に残る夕陽を受けた流氷を眺めたりした・・。
               

やがて夕暮れは終わり、私は彼方の山なみを眺めたりした。
       

そして海面に照らす陽の残照を長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちが乗船した『ガリンコ号Ⅱ』は、帰港に向かった。

下船した私たちは、海洋交流館の隣接した所に、この時節には『流氷まつり』が開催され、
イベント時間が終えた暗い中、メイーンステージだけが光帯びていた。
       

この後、私たちは市内にある居酒屋に、タクシーで向かった。
タクシーのドライバーさんに、評判の良い居酒屋さん、と私は言ったりした。

やがてお値段の程に味は悪く、ホテルに帰還した後、失敗だったねぇ、と私は家内に言ったりした。

そして窓辺から夜の港の情景は美しく、旅路に来たことを実感を深めたりした。
       

2月10日
私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』でバイキング形式の朝食を頂いた後、
指定された部屋に戻った時、
『蒼い海ばかりなので・・ガリンコ号の予約、キャンセルしましょうか?』
と家内は私に言ったりした。

家内は紋別に3連泊し、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』で、
流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、流氷観光ができることを夢想を重ねて、
過ぎし3か月前に旅行代理店に予約していた。

到着日の昨日の9日には、午後4時10分より、夕陽と陽が沈む『サンセット・クルーズ』
本日の10日には、午後1時30分より、日中クルーズ
明日の11日には、早朝の午前6時より、朝焼けと日の出を観る『サンライズ・クルーズ』
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より、日中クルーズ

このようなガリンコ号で流氷観光をすれば、朝昼夕の流氷の情景が受容できるわ、
と思い続けてきた・・。

私も昨日の9日に到着日した時に、流氷の大群が沖合20キロ以上に遠ざかってしまった現状に、
呆然としながら、タクシー・ドライバーさん、そして居酒屋で客の漁師の方たちと談笑したりした・・。

そして私は秘かに、沖から陸に強い風が吹けば、流氷は港に近づいてくる、と念願したりしていたが、
数日はこの気候では無理でしょう、とそれぞれ方から苦笑されたりした。
       

結果的には、昨日の9日には『サンセット・クルーズ』に乗船でき、
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より日中クルーズに乗船して、
あとはキャンセルすることにした。

私たち夫婦は、ホテル前より路線バスを活用して、『海洋交流館』に向かったのは午前9時半過ぎであった。
そして当初の予定通り、ガリンコ号の乗り場に隣接し、沖合に突き出した『オホーツクタワー』に向かった。
       

この『オホーツクタワー』には、ガリンコ号の前に電気の可愛らしい移動車で往還したが、
肝要のタワーは地下三階ぐらいの海底の魚介類が、窓越しから鑑賞できるが、私たち興味がなく、
海上を展望できる処から、蒼い海面を眺めたりしていた。

この後、当初の予定通り『海洋交流館』から徒歩10分ぐらいにある『流氷科学館』に向かった。
そしてどんよりとした曇り空の中、ときおり風が吹き付けていたが、
私たちは談笑しながら歩いたりした。
       

やがて先ほどにいた『海洋交流館』が遠望となり、私はこうした状景は心身波長に合ったりした。
       


『流氷科学館』に入館したが、クリネオなど展示には微笑んだりしたが、
マイナス20度の厳寒体験室が有り、入口には防寒着が無料貸し出しがあり、
家内は利用させて頂いた。

しかしながら私は身に着けている防寒着で入室したが、
鈍(にぶ)児の為か、寒さを感じることなく、退出後に家内と再会した時、
扇風機などで風を発生させれば、体感温度は低下して寒いょ、と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。

この後、一階の軽食処で私たちはコーヒーを飲んだりした。
やがて家内は隣接したコーナーで、地産のケーキのようなおしゃれな食べ物を10ぐらい買い求め、
私たちは滞在している市内ホテルに帰還した。

この日の夕食は、ホテルの食事処で頂き、私たちはそれぞれ単品で9品を選定したが、予想した以上に美味であった。
特に家内は刺身系のマグロ、ホタテ、そしてトマトの三杯酢サラダ、
私は刺身系のほっき貝、イカなどであり、焼魚のホッケ、ニシンの開きも良く、
お値段以上に遥かに美味しかった、と私たち夫婦は魅せられて、翌日の夕食も予約したりした。

2月11日
紋別市の『セントラルホテル』で目覚めた私は、ぼんやりと窓辺のカーテンを少し開けると、
朝焼けの情景に長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちの指定された部屋は、客室としては最上階の7階で窓辺から景観は良かったが、
何かしらこのホテルの屋上には、展望フロアーとなっていたことを思い出して、
私は部屋着の作務衣の容姿で、デジカメを持ち展望フロアーに行った。

少し暗い中、日の出まえの30分前の時間帯だった為か、人影もなく、
私は海上を見つめて、見惚れたりした後、記念に撮ったりした。
       

       

この後、私は指定された部屋は戻って、日の出の時間を待ちわびたりした・・。

やがて6時半過ぎに、再び展望フロアーに行くと、宿泊されている50名前後の方たちは防寒着で身を固めて、
それぞれ海上から上昇する陽を眺めたりしている。
       

私は何かと単細胞なので、翌朝には指定された部屋の窓辺から、日の出の情景を撮ったりした。
       

日中のひととき、私たち夫婦は『海洋交流館』に路線バスで向かった。
そして隣接した所で、この時節は『流氷まつり』が開催され、
特に本日は祭日で、多く市民の方たちでにぎ合う、と思われた・・。
       

やがてメイーンステージに於いては、『沖揚げ音頭』など郷土芸能が行われたりした。
       

この後、大漁祈願祭として『流氷もちまき』が実施され、10数名方たちがステージの上から、
大量の紅白の餅が撒(ま)かれた・・。

もとより市民の方たち、観光客も加わり、盛会となった。
そして家内も加わり、10数個の紅白の餅を微笑みながら、
『家に帰ったら、頂くわ』
と言いながら私に見せたりした。

この後、付近にいた小学生らしい女の子が、餅を拾い損ねたらしく、
家内は手持ちの紅白の餅を半分ほど手渡したりしていた。
       


2月12日
3連泊した紋別の最終日の朝となり、私は大きな旅行ケースをチェックアウトの時、
曳(ひ)いたりした。

私たち夫婦は、次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動するが、
この道内には、『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスがある。

私たちが活用した『エクスプレスバス』の観光路線バス・コースは、
層雲峡温泉の各ホテルを巡回して7時50分に発車し、
やがて紋別の各ホテルを巡回して10時5分に発車するので、私たちは乗車し、
まもなく『海洋交流館』の前に10時15分に到着する。
       

そして隣接したガリンコ号の10時30分~11時30分近くクリーズを満喫した後、
『海洋交流館』の前を11時45分に発車し、
やがてサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着する。

宿泊地から次の宿泊地まで、大きな旅行ケースをバスの車内に預けたまま、
この間に有力な観光めぐりができ、自動車の運転免許を放棄した私は、
もとよりレンターカーも利用できないので、この『エクスプレスバス』の利便性を利用させて頂いた。


やがて私たちはガリンコ号に乗船して、紋別港を出港した。
       

まもなく大きな入江となった彼方に見える市内に、私は別れを告げたりした。
       

そして少しばかり残った流氷にも、別れを重ねたりした。
       

                                    《つづく》
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北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【上】

2016-01-19 12:52:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
午前9時過ぎに、ネットで天気情報を見ようとしていたら、
『時事通信』に於いて、【北日本など猛吹雪警戒=低気圧、北海道付近へ―交通の乱れ注意】
と見出しされた記事を読んだりした。

《・・低気圧が急速に発達しながら北海道の太平洋側へ進み、19日午前は北日本(北海道と東北)のほか、
北陸から九州北部の日本海側を中心に雪や雨が降り、太平洋側も含めて沿岸部で強風が吹いた。

低気圧は20日にかけて動きが遅くなり、冬型の気圧配置が強まる。
気象庁は猛吹雪や大雪、暴風、高波に警戒するよう呼び掛けた。

JRは山陽新幹線が三原―博多間の徐行運転のため遅れ、山陰線が一部区間で運転を見合わせたほか、北陸線も一部運休や遅れが生じた。
北海道では札幌発着の特急が一部運休。
日本航空と全日空は、北海道や東北各地の発着便を中心に、午前7時半現在で計73便の欠航を決めた。

北海道の20日にかけての最大瞬間風速は45メートル、波の高さは9メートルの見込み。
20日午前6時までの24時間予想降雪量は多い所で、北海道120センチ、北陸100センチ、東海80センチ、東北60センチ、
関東甲信と近畿、中国に50センチ、四国30センチ、九州北部20センチ、九州南部10センチ。

その後21日午前6時までの24時間降雪量は、北海道と東北、関東甲信で40~60センチと予想される。・・》

このように報じられていたが、都心では昨日の積雪5~10センチとなり、私鉄、JRは運休、遅延などで、
通勤される方たちを中心に、乗車する方たちは乗車制限などの混乱の中、困苦を強いられた、とニュースで私は知ったりした。

今回の記事を読み終わった後、各地方のお住まい方たちは、くれぐれも被害に遇われないよう、お身体をご自愛して下さい・・
と祈願したりした・・。

やがて私は、猛吹雪や大雪、暴風、高波など何かと気弱な私でも、何かと冬の旅路を重ねてきたで、
昨年の旅路を思い馳せたりした・・。
            

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、幾たびか旅路を重ねてきた。

こうした中で、一昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして昨年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。

私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。

確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
  

私たちは防寒着の厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。

この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。

女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。

そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。

この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。

この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。

やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
            

翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。

やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。

そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。

その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。

やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。

そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。

その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、このような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。

私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。

この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。

そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした。

この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人が被(かぶ)る帽子を買い求め、今日も愛用している。

そして郊外の豊平川を見下ろせるシティホテルに宿泊し、
翌日は快晴の中、 『さっぽろ雪まつり』の初日の情景を観たりした。

やがて付近の自衛隊の基地でも雪まつりに協賛した祭りがあると学び、
私たちは地下鉄の南北線の『自衛隊前』駅で下車して、
自衛隊の貴地は私たちような国民にも、この祭りの時は解放されていた。

そして自衛隊の歴史の歩みなど多々教示させられたが、
何よりも魅了させられたのは、若き10代、20代の溌剌とした自衛隊諸兄諸姉の言動であり、
私は圧倒的に好感した。

やがて、札幌の市内の中心街を散策したりして、その後は、予定通り新千歳空港に行き、帰京した。
            


この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。

この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。

こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
       

大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。

そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
            

翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。

そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下した。

旅の終わりの寸前、郊外の厚く根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。

この後、私はまもなく中島みゆきさんが創られた『根雪』の歌が心の中で流れたりした・・。

私は音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界全体の売上げピークとなり、デパート業界と同様にかげりが見えたりした。

この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。

こうしたことが札幌の街並みを眺め、♪いつか時が経てば 忘れられる あんたなんか・・、
思いだされてきたのである。

この当時の私は、やむなく業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいで、胸が熱くなった日々であった。
            

このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
       

そして昨年の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖の観光ホテル1泊とし、7泊8日となった。

こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『ガリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定としていた。

しかしながら人生航路と同じように、予期せぬ出来事が旅路でも遭遇する。
                                  《つづく》

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