夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《最終》

2018-10-26 08:02:21 | 旅のあれこれ

            最終章 滞在したホテル、そして周辺は・・。

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味のひとつであるが、制約があるとすれば、
定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。

そして私たち夫婦は年金生活をしている身で、優雅な高価なリゾートホテル、旅館は背伸びしても無理であり、
ここ3年は家内は遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹とで交代している関係で、
今年の春の旅路の一週間ぐらいの日程を思案すると、4月上旬には何とかできる状態となってきた。

        
          

このような状況であり、家内は介護の疲れもあり、南の海辺でゆっくり過ごしたいわ、と私に言ったりしてきたので、
やがて沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊ばかり滞在して、
いつものように周辺を歩き廻ろう、と私たち夫婦は立案してきた。

そして私たち夫婦は、今回は『マリンピアザ オキナワ』に4月5日より連泊して、
6泊7日の旅路となった。

そして滞在したホテルの指定された部屋、バルコニーからの情景、或いは別館にあるレストランは、
心が充たされたりした。

こうした中で、ホテルの広い前庭には、乳児から学童まで安全に遊べる多彩な施設があり、
私は滞在中、指定された部屋のバルコニーから、若いパパ、ママに引率された幼い子供が遊んでいる情景を、
微笑ましく私は、幾たびも眺めてきた。

こうした中、3歳ぐらいの女の子が、砂場などで、ひとり遊びに熱中し、
私もこの当時は、ひとり遊びが好きだったなぁ・・と苦笑しながら、好感を増したりした。

        

その上、ホテルに併設されている『もとぶ元気村』に於いては、
インストラクターの解説を受けながら、モーターボートの操縦体験、
或いはイルカを鑑賞できるなど10数種類の多彩な施設があり、学童が安全に学べる所であり、
子供たちの歓声を私は聞きながら、微笑んだりしてきた。 


4月5日の夕方にチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。

このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そして『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳がしている情景が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなり、4月6日に乗船して、10数名の方達と共に楽しんだりした。

        

或いは『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
お得感もさることながら恐縮したりした。

そして私たち夫婦は、8日、そして9日の両日、サンセット・セーリングを乗船して、
たまたま乗船したのは私たち夫婦だけであり、恐縮しながらも享受したりした。
        
その上、昼食と夕食は、滞在期間中に一回無料招待券を頂き、
手抜きでない昼食のランチ、そして夕食のディナーを私たち夫婦は頂いたりした。


こうした中で、ホテルに隣接された『もとぶ文化交流館』なども私たちは利用させて頂いた。
        

 

この『もとぶ文化交流館』に於いては、幾つかの学習のプログラムがあり、
私たち夫婦は『オリジナル・フォトフレーム作り』をした。

何かしら学習料は、ホテルから頂いたチャレンジ・クーポン券をたった一枚で、
学べることが出来ることで、もとよりお得感あふれる学習であった。
        
最初に60代と思われる女性アドバイサーより、木のフレームを頂き、
付近にある貝殻、サンゴのかけら・・などが、長方形の木箱に数多くあり、
これを自由に選択して、フレームに接着剤で貼る内容であった・・。

そして幾つかのサンブルもあり、殆どの御方の作品は貝殻が数多く付けられていたが、
私は美は簡素にある、と思いながら、小学生の当時は『工作』授業は劣等生であった私は、
わずか数分で完成したのは、上記の作品となった。

この後、この『もとぶ文化交流館』の裏庭を眺めたりした。
        

この片隅に咲いていた花に、私は見惚れたりした。
        

まもなく館長のような男性に、私は教えを乞うと、朝鮮アサガオ、
と私は教えられたりした。

やがて私たち夫婦は、『もとぶ文化交流館』を辞した後、ホテルに戻る階段で、

        

南国らしいバナナの樹を見て、花も実もある、と定年退職時まで何かと悪戦苦闘が多かった私の人生航路として、
退職後に多々の理由で年金生活を始めた私は、年金生活は予測した以上に安楽に過ごしてきたので、
私は思わず心を寄せて、微笑んだりした。

        

そして私は夜のひととき、バルコニーで星空を期待して
6日、7日を眺めていたが、
日中は曇り空でときおり淡き陽射しとなり、無念ながら深闇となったりした。

やがて8日の夜は、星は瞬(まばたき)く、30数ばかり彩(いろど)り、
満天の星空のようだよねぇ・・と私は長らく見惚れたりした。

或いは最終日の前日の夕暮れには、バルコニーからサンセットを鑑賞した。
        

今回、周辺の大きな観光施設では、日本語、英語、中国語、韓国語の順にアナウンサーの解説が流れて、
世界各国から来日していることを改めて実感させられた。

今回の私たち夫婦のこの地の旅路は、殆ど不満は少なく、
予測した以上にホテルの館内も良く、スタッフも明るく応対して下さり、
併設された『もとぶ元気村』のスタッフも明るく前向きに好感し、
良かったよねぇ・・のちにも思いで深い旅路になるよねぇ・・と私は家内に言ったりした。

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過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《5》

2018-10-25 07:57:24 | 旅のあれこれ

                  第6章 島の形がパンの「クロワッサン」に似ている水納島を訪ねれば・・。 


私たち夫婦は今回滞在した『マリンピアザ オキナワ』の指定された部屋のバルコニーからは、

              

左側からは本部(もとぶ)の街並みの片隅が観え、瀬底(せそこ)島を結ぶ瀬底大橋、そして瀬底(せそこ)島が
観えたりした。


そして前方の彼方には、小さな島が見え、まもなく私は島の形がパンの「クロワッサン」に似ているので、
数多くの方たちから『クロワッサン・アイランド』と呼ばれていることを知ったりした。

              

正式名所は、本部半島の沖に浮かぶ水納島(みんなじま)であり、渡久地港から定期船で15分ばかりであるが、
島の周囲はサンゴ礁があるので、透明感ある美しい海となり、東から北にかけて広がる白い砂浜がある、
と学んだりしてきた。


そして右側には、伊江島が観られる・・。
私は伊江島に関して、書物より敗戦前の沖縄本土の過酷な決戦の前哨戦として、
連合軍が伊江島を破壊するような攻撃があったことを学んだりした。
             

そして周知の通り、残留していた日本軍か、或いは村民の長の決意か、
どなたが命令を発したことに取り出されてきたが、
確かなことは多くの村民が自決した悲哀を秘めた島・・と私は感じ深めてきた島である。

こうしたことを学ぶと、敗戦前に都心の郊外で生を受けた私でも、
後ろめたい深情があり、安楽に訪れることはできなくなり、哀悼を重ねながらも、
今回の旅路も訪れることはできなかった。


こうした心情で私はバルコニーから、幾たびも眺めたりしてきた。

やがて私たち夫婦は、安楽な心情で、『クロワッサン・アイランド』と称された水納島(みんなじま)に、
9日に訪れた・・。

宿泊しているホテルより渡久地港までタクシーで行ったりした。

この一昨日の7日には、本部(もとぶ)の街並みを散策している中、
この渡久地港も歩いたりした・・。

こうした中で、『沖縄県警察』の船舶が係留されていたことに、
沖縄本島は諸島に囲まれていることに、改めて教示させられたりした。

                


               


今回の9日、快晴に恵まれたの中、 水納島(みんなじま)までの定期船の時刻表、船舶を
改めて確認したりした。
               

              


やがて私たち夫婦は、10時発の定期船に乗船して、まもなく「クロワッサンアイランド」の水納港に着岸した。

              

まもなく私たち夫婦は、浜辺を散策した・・。

              

そして家内は、日傘を差して沖の方に歩いて行った。

私は付近の浜辺に腰を下ろして、長らく打ち寄せる清怜な波、澄み切った波間を眺める中、
何かと単細胞の私は、脳裏からひとつの歌が浮かび、心の中で唄いだしたりした・・。

             

♪あした浜辺を さまよえば
 昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も
【 『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三 】 
留意)1916年(大正5年)に作詞・作曲に伴い、著作権保護期間から過ぎているが、敬意しながら転記させて頂いた。

このような歌は幾つかの時代の悲しみも、或いは喜びも、すべて幾千万年の中で打ち寄せる波が浄化する、
と漠然と思いながら、長らく眺めたりした・・。

この後、私たち夫婦は『水納港』待合休憩所に立ち寄り、外部はコンクリートで、
内部は広くゆったりとしている中、幾つかの木造のテーブル、長椅子があり、
こうした中で、浜の出入り口には階段があり、この階段で腰を下ろして、心地よい浜風を受けたりした。

            


やがて私たち夫婦は、クロワッサンのような形をしている内側に向かって歩き出したりした。

            

やがて、忽然にクロワッサンの内側に到着して、これも美麗な情景だなぁ・・と私は心の中で呟いたりした。

           

潮が退いた干潮の光景であったが、満潮になれば波間で満たされて消え去り、
こうした情景も素敵だ、と思いさせられたりした。

私たちは3時間ばかり、島内の光景を享受した後、水納港発の13時半の定期船に乗船して、
帰路に向かった。

           

           

私は定期船の後部より、彼方に過ぎ去っていく「クロワッサン・アイランド」と称せられる水納島(みんなじま)を観たりしたが、
この世のドリーム・アイランドだったことに、改めて気づかされたりした。

                              《つづく》

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過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《4》

2018-10-24 07:52:28 | 旅のあれこれ

               第5章 サンセット・セーリング、大型ヨットを私たち夫婦だけで、享受して・・。

私たち夫婦は今回滞在した『マリンピアザ オキナワ』で、
4月5日の夕方にチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。


このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そして『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳がしている情景が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなり、4月6日に乗船して、10数名の方達と共に楽しんだりした。

        

こうした中、私たち夫婦は、過ぎし年に石垣島でサンセット・クルージングとして小型のヨット船に乗船して、
福沢諭吉さんのお札を2枚支払って、成功体験をしてきたので、
今回の旅路でも、少なくとも2回は乗船しょうと、旅立つ前より話し合ってきた・・。

今回の『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
お得感もさることながら恐縮したりした。

そして翌日の6日、7日も曇り空でときおり淡き陽射しとなり、
無念ながらサンセット・セーリングは、欠航となってしまった・・。

やむなく『もとぶ元気村』のスタッフに、明日以降のサンセット・セーリングの予定を尋ねたりしている中、
スタッフの責任者の御方が、私たち夫婦の前に来たりした。

『今回の滞在中、何よりも楽しみにしていたのは、サンセット・クルージングで、
2回乗船できる予約をしていましたが・・』
と家内はスタッフの責任者の御方に言ったりした。



        

そして8日は、早朝より待ち焦がれた青空となる快晴となり、
『これだったら、夕暮れよりサンセット・セーリングは実施されるよなぁ・・』
と私は家内に言ったりした。

こうした中、大型ヨットは定員30名が乗船できるし、私たちと同様に滞在している方達もいるので、
今回の乗船希望者は10数名かしら、と私は思い馳せたりした。

この後、まもなくして私たち夫婦は、この日の8日、そして9日のサンセット・セーリングを
改めて依頼したりした。


やがて当日の8日の夕暮れの6時過ぎに、『もとぶ元気村』の指定された場所に行くと、
まもなく若い男性のスタッフ2名が見えて、救命胴衣を私たち夫婦は手渡されたりした。

私は、こうしたかっこうは4年ぶりだよねぇ・・と家内に言ったりしたが、
乗船を希望される御方たちが見えなく、スタッフの方に、
今回、何名の御方と乗船するのですか・・と私は尋ねたりした。

『あなた様ご夫婦だけです・・』
と私たち夫婦は伝えられて、大型ヨットを貸し切り状況に、驚きながら恐縮したりした。

この後、若い男性ふたりのスタッフに引率されて、大型ヨットに乗船した私たち夫婦は、
客席がいくつもある中、恐縮しながら座ったりした・・。


        

そして操縦されるスタッフと私たち夫婦にガイドして下さるスタッフで、
まもなく夕暮れ迫る中、離岸した・・。

                 

定員30名が乗船できる大型ヨットは、私たち夫婦だけで、恐縮しながらも
ゆったりと
後部座席に腰かけて、周辺の海上を眺めたりした・・。

そして今後の人生も、こうした贅沢な機会はめったにないだろう、と思いながら、
波間に照らし出す淡きになっている陽射しを眺めたりした。


        


        


        


やがて太陽は、名残りおしそうに、かなたの波間にゆっくりと消えていった・・。

このように私たち夫婦は、贅沢な一時間半のひとときを過ごした・・。


しかしこの世の人生は不思議なことがあると、翌日のサンセット・セーリングで、
教えられたりした。

翌日の9日にも、私たち夫婦は予約していたので参加したが、
この時も私たち夫婦だけとなり、恐縮しながら戸惑ったりした・・。

        


        


私は残された人生に、偶然にこうした幸運な機会を与えられたことに感謝し、
下船した時、『私は74歳を迎える身ですが、何よりのプレゼントを頂き、
人生の良きひとときを過ごせて、感謝致します・・ありがとうございました・・』
と若い男性スタッフのお二人にお礼を言ったりした。

                             《つづく》

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過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《3》

2018-10-23 08:46:49 | 旅のあれこれ

             第4章 古宇利島(こうりじま)往還、そして備前までの遊歩道

4月8日、私たち夫婦が宿泊している地域は、過ぎし3日間は曇りときおり淡い陽射しが続いてきたが、

早朝より待ち焦がれた青空となる快晴の中、北方のかなたにある古宇利島を訪ねることとした。

古宇利島(こうりじま)は、名護市の屋我地島と2005年に約2キロ近い古宇利大橋で結ばれ、
この大橋の景観がメディアに盛んに取り上げて話題となっている。

そして古宇利島の海辺はエメラルドグリーンで、島の北にはハートロックと称されたハート形の岩があり、
多くの人が訪れている、と私は今回の旅立つ一か月前の頃から学んできた。

しかしながら交通の手段は、路線バスを乗り継いで行く方法があるが便数が少なく、
レンタカーが最適であるが、免許証のない私たち夫婦は、タクシーで往還するには余りにも高価であり、
やむなく断念した。

やがて旅立つ一週間前、『やんばる急行バス』が無料のシャトルバスが、
今帰仁城跡~古宇利島の物産センターを走行していると知り、
乗車できる人は、やんばる急行バスの他の路線を乗車した方が、利用権が頂ける規約であった。

                     

幸いにも私たち夫婦は、那覇空港前より本部(もとぶ)まで利用してきたので、
下車する前にドライバーさんより、やんばる急行バスが無料のシャトルバス利用券を
頂いたりした。

ただし利用権は3日以内であったが、ドライバーさんのご厚意で9日まで、
乗車できるようにして頂いたりした。

このような『やんばる急行バス』の無料のシャトルバスに乗車する為、
私たち夫婦はホテルよりタクシーで基点となる今帰仁城跡まで行き、9時15分発のバスを待機したりした。

                     

まもなく私たち夫婦は、古宇利島の物産センター行きの無料のシャトルバスに乗車し、
バスのドライバーさんのご好意で、景観の良い所で止まって頂いたり、小休憩もして下さったりした。

                 


そして私は、あれが有名となっている古宇利大橋・・と知り、微笑んだりした。


やがて古宇利大橋を走行して、島内の主要道路を一周して、まもなく島内の物産センター前に到着して、
私たち夫婦は帰路の2時間半ばかり、昼食をしたり、浜辺で過ごしたりした・・。


            

 


                



                


                



                



                
                
やがて島内の物産センター前の12時44分発の無料のシャトルバスに乗車して、
帰路に向かったが、海洋博公園の北方にフクギ並木、そして備前までの遊歩道を散策する為、
ハーソー公園近くで下車し、高速バスに乗り換えて、フクギ並木近くで下車した。

 

まもなく私たち夫婦は、備前までの海辺の遊歩道を歩き出した・・。

               


              


              


              

この前望にある島には、干潮の時には浅瀬となり、歩いて渡れると知っていたが、
干潮時間には約4時間もあり、やむなく断念したりした。

やがて遊歩道を戻る中で、額縁の中にある情景を真似事をして、たわむれに一枚を撮ったりした。

             

    
この後、フクギ並木を散策した後、ホテルに帰館して、
夕暮れのサンセット・クルーズに私たち夫婦は備えたりした。

                       《つづく》

 

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過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《2》

2018-10-22 08:39:11 | 旅のあれこれ

               第3章 『海洋博公園』で、ふたたび『美ら海桔梗』にめぐり逢い・・。

4月6
日、曇り空で、ときおり晴れ間となる中、

私たち夫婦は予定通り『海洋博公園』に向かった・・。

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れた。


この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズが企画したコースで、宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に北西部観光コースで、『海洋博公園』を初めて訪れたが、
現在としては、無念ながら記憶が薄らいでいる・・。


              
                
やがて私は定年退職後、三年過ぎた2007年(平成19年)10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。

こうした中、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内たちは『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中高年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、私の目を楽しませてくれた。     

そして遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。 

              

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂っている中、
このような中に数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。        

私の住む都心の郊外では、見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗(ききょう)に似ているかしら、と感じたりした。

いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗(ちゅらうみ・ききょう)』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

この旅路の中、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。

                 

11年ぶりに訪れた『海洋博公園』は、益々整備されて、多くの異国の人々を含めた観光客で賑わっていた・・。

              

              

やがて私たち夫婦は、誘われるように『熱帯ドリームセンター』に入館した。

              


              

この後、まもなく懐かしき『美ら海桔梗』に、私はめぐり逢え、しばらくたたずんだりした。

               


やがて私は名残惜しかったが、歩きだしたが、あとはおまけねぇ・・と思いながらも、
美麗な幾つかの花にも見惚(みと)れたりした。

               


              


              


              


              

この後は、『遠見台』と称された高さ36メートルの塔から、周辺を一望した後、
カフェ『スコール』で、私はマンゴー(トロピカル・ジュース)、家内は琉球薬草のスムージーを飲み、
小休憩とした。

この後は、園内遊覧車一日乗車券を買い求めて、広大な『海洋博公園』の園内を観て廻った後、
私にとっては懐かしいエメラルド・ビーチに向かった・・。


11年前の2007年(平成19年)11月に、私は独り
エメラルド・ビーチを散策していると、
修学旅行らしい高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で言った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の簡易カメラの写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と大声で2人の女学生から私は言われ、照れたりした。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。


こうした情景に思いを馳せて、私は家内に言ったりしながら、
私たち夫婦は
エメラルド・ビーチに向かった歩きだした。

              


              
こうした情景を眺めていると、一期一会のように、『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
漢詩のひとつを重ねたりしていた。


                            

            
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が、
『白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代(かわり)て」と題する詩の第4節ある一節である。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

《・・年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・・》

歳月は過ぎ去ってしまえば、実に早いと感じたりし、
毎年この季節にも同じように、美麗な海辺の彩(いろど)りを見せてくれるが、
この情景を観賞できる人は変っている・・。

もとより自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて、人生の無常を詠歎した句であるが、
私はこのように解釈しながら、人生のはかなさ、哀歓を若き二十歳の時に、
この詩から学びだし、早くも50数年の歳月が流れてしまった。


やがて私は溜息をひとつした後、家内に『ホテルに戻ろうょ・・』と言ったりして、
出口方面に私たち夫婦は向かったりした。


              

『またん めんそーりょー』と大きく彩られた文を読み、
僕だって・・いつの日にか、元気であったなら、また訪れたいょ・・
とプラス思考に転じて、私たち夫婦はタクシーの乗り場に向かった。
                                《つづく》

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過ぎし4月、沖縄・本部(もとぶ)きままな旅路の遊学記【2018.4.5.~4.11.】 《1》

2018-10-21 08:21:00 | 旅のあれこれ

              序章 旅立つ前の思い

今年の2月初旬に春の旅路はどこに行こうかしら、と私たち夫婦は漠然としながら思案してきた。


制約があるとすれば、私たち夫婦は年金生活をしている身で、優雅な高価なリゾートホテル、旅館は無理であり、
そして家内は遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹とで交代している関係で、
春の旅路の一週間ぐらいの日程を思案すると、4月上旬には何とかできる状態となっている。

        
          

このような状況であり、私たち夫婦は思案して、
家内は、南の海辺でゆっくり過ごしたいわ、と私に言ったりしてきたので、
やがて沖縄本島の北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルに6泊ばかり滞在して、
いつものように周辺を歩き廻ろう、と私たち夫婦は立案してきた。

        

このパンフレットは、JTBガイアレックが企画された『きまま沖縄』と題されて、
沖縄本島、石垣島、宮古島、久米島など周辺の島々を含めて、
《 自分で選んで、自分で作る!
            自由きままに旅に出よう!! 》と明記されていたので、
私たち夫婦にピツタリかしら、と私は微笑んだりした。

こうした中で、家内は血液型A型の為か、
周辺の観光地、人気のない島、或いは住民の方たちが利用される市場など、
或いは私たち夫婦はお互いに自動車の運転免許証もないので、
路線バスのバス停の場所はもとより、時刻表まで、徹底してネットなどで調べたりしてきた。

        

そして那覇空港から北西部地域の本部(もとぶ)にあるリゾートホテルまでの路線バスには、
少なくとも約2時間半以上であり、高齢者の私は恥ずかしながら何かとオシッコが心配だったが、
やんばり急行バスを利用すれば、途中のパーキング・エリアで約10分ぐらいの休憩があると知り、
大いに安堵して、微笑んできた・・。

こうした中、訪れる本部(もとぶ)は、《 太陽と海と緑・・観光文化のまち 》と明記され、
私たち夫婦は期待を膨らましていた・・。

この後、まもなく私たち夫婦は、最寄駅の駅ビルにある旅行代理店を訪れた・・。

私たち夫婦は、 4月1日から6泊7日の春の旅路の案を、早めに依頼した理由は、
児童の春休みは3月21日から4月6日と思われ、航空便が満席も予測したり、
そして私たちは日本航空の少しゆったりとするクラスJ席に好感してきたので、
何かと早めの申し込みが必要と思われのが、根底であった。

しかしながら私たちの指定したリゾートホテル『ホテル モトブリゾート』は、
すべて予約済であり、空きがない、と私たち夫婦は言われて、驚嘆した・・。

この後、私たち夫婦は本部(もとぶ)にあるリゾートホテルの選定を修正した結果、
『マリンピアザ オキナワ』としたが、公式ホームページhttp://m-piazza.com/
記載されている以上に多彩であり、私たち夫婦は幾たびも喜び、充実感があったりした。



             第1章 『マリンピアザ オキナワ』までは・・。
                    
4月5日、私たち夫婦は羽田空港を10時50分初の日航機で、
那覇空港に降り立ったのは、10分遅れの13時45分であった。

そして北西部にある本部(もとぶ)に向かう為に、
本島の中央部にある高速道路を大半走行する『やんばる急行』バスに14時半に乗車し、
やがて本部(もとぶ)港の北にある『博物館前』で16時40分に下車した。

曇り空の中、街並み散策をしたりして、やがて夕食代わりに焼肉を食べたいなぁ、
と私は家内に呟(つぶや)くように言ったら、家内は事前に調べていたので、
焼肉『もとぶ牧場』http://motobugyu.ti-da.net/を探し求めて、まもなく入店した。

やがてオリオンビールを呑みながら、ロース、カルビ、ハツ、ミノなどのセット物に、
牛タンを追加して、私たち夫婦は宿泊先の『マリンピアザ オキナワ』に近づいてきた地で、
安堵しながら、食べたりした。

https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=lmd_poi&p=%E7%84%BC%E8%82%89%20%E3%82%82%E3%81%A8%E3%81%B6%E7%89%A7%E5%A0%B4%20%E6%9C%AC%E9%83%A8%E5%BA%97
☆焼肉『もとぶ牧場』・公式ホームページ・写真をお借りしました。

この後、タクシーでホテルまで行ったが、宿泊先より周辺の名所は、千円前後で行けると知り、
今回の旅路の大半は、時間間隔の多い路線バスをやめて、タクシーを利用して、
移動することとした。

やがて、私たち夫婦は宿泊先の『マリンピアザ オキナワ』でチェックインした時、
クーポン券を手渡されて、まもなく驚きながら喜んだりした・・。


               第2章 『もとぶ元気村』チャレンジ・クーポン券

『マリンピアザ オキナワ』でチェックインした時、チャレンジ・クーポン券が手渡された。

このホテルの全景には、『もとぶ元気村』の施設があることは、
旅立つ前には私たち夫婦は、公式ホームベージで知っていたが、宿泊者に限り、
この施設を殆ど無料に近く利用できることを知り、驚きながら私たちは喜んだりした・・。

何かしら一泊について、おひとり様2枚プレゼント(☆7月21日~8月31日は、一泊に付き、1枚)となり、
たまたま私たち夫婦は6連泊するので、総計24枚のチャレンジ・クーポン券を頂いた。

そしてが『もとぶ元気村』の施設の利用としては、
サンゴ礁とか魚が遊泳が観られる水中展望室がある遊覧船には、通常は大人2200円であるが、
たった2枚のクーポン券で、
乗船料の代わりとなる。

        

或いは私たち夫婦は、石垣島でサンセット・クルージングとして小型のヨット船に乗船して、
福沢諭吉さんのお札を2枚支払って、成功体験をしてきたので、
今回の旅路でも、少なくとも2回は乗船しょうと、話し合ってきた・・。

今回の『もとぶ元気村』に於いては、定員30名が乗船できる大型ヨットで、
サンセット・セーリングが、わずか3枚のクーポン券で、乗船料の代わりとなり、
恐縮したりした。

そして何かと単細胞の私は、宿泊先のホテルの夕食には、
滞在中にホテルが指定されている4種類のディナー食を食べて、
毎夜オリオンビールを盛大に呑まなくては・・と私は家内に言ったりした。

        

もとより、ホテルの広い前庭には、乳児から学童まで安全に遊べる多彩な施設があり、
私は滞在中、指定された部屋のバルコニーから、若いパパ、ママに引率された幼い子供が遊んでいる情景を、
微笑ましく私は、幾たびも眺めてきた。

こうした中、3歳ぐらいの女の子が、砂場などで、ひとり遊びに熱中し、
私もこの当時は、ひとり遊びが好きだったなぁ・・と苦笑しながら、好感を増したりした。

        

その上、ホテルに併設されている『もとぶ元気村』に於いては、
インストラクターの解説を受けながら、モーターボートの操縦体験、
或いはイルカを鑑賞できるなど10数種類の多彩な施設があり、学童が安全に学べる所であり、
子供たちの歓声を私は聞きながら、微笑んだりしてきた。

        

                                     《つづく》 

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国内旅行の沖縄県、ささやかな私たち夫婦の幾たびの旅路は・・。

2018-10-20 14:19:13 | 旅のあれこれ

私は東京の調布市に住む年金生活の74歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節、日本の各地を旅行をすることが、多かったりしてきた。

             

私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。

            

今回、私たち夫婦は沖縄本島の中部地域にある名護のあるリゾートホテルに、
家内の要望により、明日の10月21日より4連泊の旅路をする。


私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れた。

この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズの企画した宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に石垣島に連泊した時、石垣島の島内を周遊したり、
西表島に船で訪れて、仲間川のマングロープの中を小舟で遡ったり、その後はカンビレーの滝まで散策したりした。

その後は隣接した由布島、そして竹富島などの八重山諸島を周遊したりしたが、
カメラを持参していなかったので、心の片隅に残っているだけである。


やがて私は定年退職後、三年過ぎた2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《 死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい 》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。

                        

この後、2013年1月、旅行通販会社の大手のクラブツーリズムに於いて、
フリープランのひとつとして、石垣島フリープラン5・10・14日間が掲載されて、
《 離島桟橋まで徒歩3分の大浴場付きホテルに連泊 》と見出しがあり、
私たち夫婦は、石垣島の島内をゆっくり周遊するのも良いかしら、と思い申し込んだりした。

そして市内の中心街にあるビシネス風の『ホテルグランビュー 石垣』に2月7日より9連泊して、
本島の名所、周辺の新城島(あらぐすじま)、小浜島、竹富島などを遊学した。

この新城島(あらぐすじま)は、バラスと称されるサンゴの欠片だけで出来た白い島であり、
住民は近くの島に移動されて、この島に残されたお墓に、
かっての住民はお墓参りの時に訪れるぐらいの無人島になった、
と案内して下さった御方から、私たちは聞いたりした。

こうした状況を私たち夫婦は学び、たまたま観光客は私たち夫婦だけて、
島内散策と白い浜にたわむれたりした。

      

                



この後、沖縄本島のサンセットビーチとして名高い北谷(ちゃたん)町にあるリゾートホテルに
昨年の1月12日より9泊10日で滞在旅行をした。

   

何かしら県内最高層の23階建ての『ザ・ビーチタワー沖縄』であり、すぐ目の前がサンセットビーチ、
客室から眺望が良く、隣接地には華やかな『アメリカン・ビレッジ(村)』、そしてスーパーの『イオン』もあり、
何かと利便性に優れた地域であった。

    

こうした中、利便性の良い路線バスを利用して、周辺の観光地を訪れたりした。

そして今年の4月に、中部地域にある本部(もとぶ)のリゾートホテルに
4月5日より6泊7日で滞在旅行をした。

この旅路に関しては、後日記載する。


今回の旅路は、私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、この間に読書をしたりして、
家内は日頃の家内の母の介護の疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごす予定としている。

尚、今年の4月に、中部地域にある本部(もとぶ)のリゾートホテル滞在記、明日より掲載。

☆コメント欄、一時閉鎖と致します。

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 最終章 旅の終りは悲哀を秘めた花に別れを告げて 

2018-04-12 09:31:36 | 旅のあれこれ

私たち夫婦は『ザ・ビーチタワー沖縄』に9連泊した後、
1月21日の朝、帰京する日を迎えた。

私は朝食後、滞在中こよなく散策した場所に独り歩き出した・・。
             

そして浜辺に行くホテルのゆるやかな脇道を下った。
             

まもなく安良波(アラハ)ビーチに行く近道を歩いたりした。
             

その後、一分足らずで安良波(アラハ)ビーチに下り立った。
確かに地元の御方と談笑した時、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れたり、ときおり小雨が多い、
と教えられて、私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかであった。
             

しかしながら人生と同様に、晴れる日もあり、曇り日もあり、そして小雨の日もあるよなぁ、
と私は微苦笑しながら波間を眺めたりした。

私は沖縄本島に関して、50代の初めに家内と共に初めて訪れ、
60代の三年生の時に、私たち夫婦は家内の母の要望で三人の旅路をして、
今回、70代の三年生となり、家内と共に各地を遊学した・・。

果たして沖縄に対する思いは、進歩したかと問われれば、
感傷的な視線から、良きこと悪しきことなど複眼的な視線に変貌してきた。

このようなことを思い重ねた後、やがてホテルに戻る途中、公園内でたんたんと咲いている花を見つめたりした。
             

そして眺めている中、沖縄の悲哀を秘めた花・・と私は感じ受け止めたりした・・。


やがて私たちはチエックアウト後、ホテル間を走るリムジンバスに乗車して、那覇空港に向かった。
こうした中で、『アメリカンビレッジ』の食事処で多彩な料理を頂いたり、
たまたま訪れた名所も残影したが、やはり私はさりげなく咲いている花に魅了された。
   

   

或いは曇り空の夕方、淡き陽射しが観られる中、日没の景観である。
             

こうしたことを思い馳せたりしていると、彼方に那覇空港が観えたりした。

《終り》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第5章 宿泊滞在した『ザ・ビーチタワー沖縄』の中で、私は・・。 

2018-04-11 17:26:38 | 旅のあれこれ

私たち夫婦は、今回の旅路は沖縄本島・北谷(ちゃたん)地域にある『ザ・ビーチタワー沖縄』に、
1月12日より20日まで宿泊滞在したが、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れ、ときおり小雨が多く、
私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかで、
私たち夫婦は大いに戸惑ったりした。

こうした中、食事に関しては殆ど近くにある『アメリカンビレッジ』の食事処で、多彩な料理を頂いたりした。
そしてホテル館内では、朝食を二回ばかり賞味したりした。

そしてお風呂は、館内の指定された浴室が良く、殆ど私は愛用させて頂いた。
家内はホテルに隣接した『ちゅらーゆ』と称した大浴場、沖縄には稀な源泉かけ流しの露天風呂を日参し、
私も家内に勧められて、部屋から持参したビーチサンダルを履いて、ノコノコと二回ほど利用した。

クアハウス的であり、やはり源泉かけ流しの露天風呂は、心身共に解放感があり、享受した。

館内の売店は、私はビールを盛んに購入し、家内は沖縄特有のお菓子などを買い求めて、
私たちは部屋で頂いたりした。

朝のひととき、私はロビーの片隅で、地方紙を読んだりした・・。
             

たまたま1月21日の『琉球新報』に於いて、『沖縄への観光客 過去最高861万人 2016年』と見出しがあり、
私は沖縄が繁栄することは何よりと好感しながら、精読したりした・・。

《・・県が20日に発表した2016年の暦年(1~12月)入域観光客数は
前年比11・0%増(85万100人増)の861万3100人で、4年連続で過去最高を更新し、初めて800万人を突破した。
県が16年度(16年4月~17年3月)の目標とする観光客数840万人も大きく上回っており、年度目標の達成もほぼ確実な状況だ。

外国人客は38・7%の大幅増の208万2100人で、200万人の大台を超え、
県が21年度までの達成目標に据えていた年間200万人に早くも到達した。

増加の背景には国内外路線の拡充やクルーズ寄港回数の増加などがあり、全体を押し上げた。

外国人客の内訳をみると、台湾が27・9%増の60万7300人、中国本土が51・5%増の44万9200人、
韓国が44・8%増の43万1300人、香港が16・5%増の22万1千人などだった。

国内客は4・3%増の653万1千人。
内訳は東京方面が4・5%増の320万600人、関西方面が3・6%増の135万8千人、福岡方面が4・8%増の81万4400人、
名古屋が8・9%増の53万5100人、その他が0・4%増の62万2900人だった。・・》
             

こうした記事を読み終えた私は、館内、近くにある『アメリカンビレッジ』、公園、ビーチ、遊歩道など海外の観光客が多く見られ、
経済の繁栄こと沖縄は肝要だ、と微苦笑しながら好感したりした・・。

私は滞在中、持参した本を再読した。

福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(2014年、中公新書)、
改めて敗戦後の怜悧な国益に基づいた実態史を多々教示された。

そして大久保 潤、篠原 章・共著作の『沖縄の不都合な真実』(2015年、新潮新書)、
ロバート・D・エルドリッヂ著作の『オキナワ論』(2015年、新潮新書)、
沖縄の現実の難題を多々学び、これまでの沖縄に対する思考が、更に複眼化したりした。

或いはユージン・B・ストレッジ著作の『ペリリュー・沖縄戦記』(伊藤 真、曽田和子・訳、2008年、講談社学術文庫)、
映画などで表現しずらい戦場の余りにも過酷な実態を改めて震撼させられた。

こうした本を再読した後、近くにある総合スーパーのイオンの2階にある『未来屋書店』に於いて、
佐藤 優・著作の『佐藤優の沖縄評論』(2014年、光文社知恵の森文庫)を購読した。

いずれも室内のソファーに座ったり、或いはベットに横たわりながら読んだりした。

平素はパソコンを日々何かと友にしている私は、旅先は情報機器から一切断絶している身なので、
平素より読書時間が多いょねぇ、と独り微苦笑したりした。
             

こうした中、ときおり窓辺にあるベランダで、海上を眺めたりした・・。
  

  

私たちが滞在している中、快晴から程遠いが夕陽、日没した情景が、たった一度だけ観られた。
  

  

《つづく》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第4章 幾たびか路線バスで名所を訪ねれば・・。

2018-04-11 15:22:15 | 旅のあれこれ

私たち夫婦は、宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』の隣接した『アメリカンビレッジ』、
或いは白い砂浜が美しい安良波(アラハ)ビーチ、そして海外沿いの遊歩道を散策してきたが、
5日目の1月16日には、路線バスを活用して嘉手納飛行場が少し見られる道の駅『かでな』を訪ねることとした。

私は定年後に自動車免許証明書の更新を断念した身であり、もとよりレンタカーも乗れず、
旅先でもタクシー、観光バスは出来るだけ避けてきた。

そして遠方の場合は路線バスを利用してきた・・。

こうした中で、佐渡島、長崎、石垣島などで路線バスに乗車すれば、その地域にお住まいの会話、
ときには私は談笑したり、車窓から見える情景・・
その地域の住民の生活が少し界間視られることを私は幾たびか体験をしてきた。


そしてホテルから10分ぐらい歩いた『桑江』バス停から路線バスに乗り、
やがて『嘉手納』バス停で下車した後は、20分ばかり歩いて道の駅『かでな』に到着した。

まもなく4階の『展望場&スカイラウンジ』からは、広大なアメリカ基地の『嘉手納飛行場』が観えたりした。



翌日の17日には、リゾートホテルが点在する恩納村の万座毛(まんざもう)をめざして、
路線バスに乗車して、やがて『恩納村役場前』バス停で下車して、15分足らず歩くと、
東シナ海に面した海岸の絶壁に、象の鼻の形の岩が付いている景勝地の万座毛に到着した。
              

平日の11時少し前であったが、観光客が多く見られて、やはり人気ある景勝地である。
万座毛の由来は琉球王朝の尚敬王が、「一万人が座れる広い原っぱ」と評した、
と伝えられている。

やがて私は遥か彼方の東シナ海を眺めたりした。
              

まもなく私たち夫婦は帰路する為に歩き出すと、確か全日空が約40年前の頃、
沖縄本島の万座毛にリゾートホテルを開業されて、本島のリゾートホテルのさきがけとなった、
と私はおぼろげながら記憶している。
              

この後、私たちは『恩納村役場前』バス停をめざして歩いている時、
道端に健気(けなげ)に咲いている花に私は見惚れたりした。
              

翌日の18日には、旧コザ街(現在・沖縄市)を私たち夫婦は訪れた。
前夜、家内は観光パンフレットで、《・・沖縄文化とアメリカ文化がチャンプルー(混ぜこぜ)された異国情緒ただよう沖縄市・・》、
見て行って観たい、と私に言ったりした。

私は沖縄が日本に復帰する前、アメリカ施政権下の時、1970年(昭和45年)12月にコザ暴動が発生し、
アメリカ軍人、沖縄住人にとっても、お互いに暗い不幸な事件であることを、
当時25歳の私はニュースで学んだりしてきた。

こうした意味合いから、私はこうした古傷をもう一度剥がすような処には訪れたくない街であった。

しかしながら家内の要望を私は聞きいれて、18日ホテルから近く『美浜アメリカンビレッジ南口』バス停より
路線バスに乗車して、『コザ』をめざした。

緩い丘陵には住宅街にある道をバスは通り抜けて、まもなく『コザ』バス停で下車し、
街の中心街と判ったが、小雨が降りだして、やがて本降りとなった。

私たちは北に一キロぐらい、そして西に一キロぐらい彷徨(さまよ)うようにあてどもなく歩いたが、
私は纏(まとわ)りつかない思いとなり、家内にアメリカンビレッジに戻り昼食を・・と私は言ったりした。

やがてアメリカンビレッジに向かう路線バスに乗車している中、雨は止み、
雲間から陽射しが差し込み、やはり『コザ』は私にとっては苦手な街だったかしら、と私は微苦笑したりした。
             

19日、私の要望で那覇市の中心街から少し外れた県立・博物館に、家内を誘って訪れた。
滞在しているホテルの最寄『軍病院前』バス停から路線バスに乗り、
45分ぐらいで『県立博物館美術館』バス停で下車した。
             

私は恥ずかしながら美術に関しては、小学生の『図画』は通信簿『2』の劣等生であり、
素養も知識もなく、未だに苦手な分野である。

しかしながら歴史、文化だけは、長らく好奇心旺盛であるので、博物館だけ視察する思いで、訪れた。

そして視察する前、早目の昼食と思いながら、館内の食事処『茶花』に家内を誘った。
まもなく入って、私は壁面、テーブル、椅子に瞬時に魅了されて、私にとっては異例であるが、写真を撮らせて頂いた。
             

やがて博物館の展示には、沖縄の自然として沖縄の地勢が形成されるまで具体的に明示されていた。

歴史・文化分野は、先史時代の土器出現以前の後期旧石器時代、その後の土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)、
やがて12世紀頃に本格的な農耕社会が成立し、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」時代が展示されていた。

こうした中で、中世のグスク時代、三山時代のそれぞれの興亡史、そして第一尚氏王統、第二尚氏王統など、
私は興味があふれて改めて学んだりした。

その後の王国の再建、近代、第二次世界大戦、敗戦後のアメリカの統治による琉球政府時代、
やがて日本に復帰、そして現代・・私は二十歳以来思い秘めてきたことが凝縮されて展示され、
改めて多々学んだりした・・。

そして重く心が疲れたので、屋外の展示場に私は出た。
             

こうした中、民家も見られた。
   

私は幾たびも沖縄本島、石垣島などで拝見してきたが、屋根を見て驚いた。
             

このようなことがあったの・・と遅ればせながら学んだりした。

この後、家内との待ち合わせ場所に向かう途中、教師3名に引率された小学6年生の男女50名に出会った。
そして私は足を止めて、学童の学習見学の一環と知った。

こうした沖縄の歴史、文化を学ぶことこそ、学童の自己形成には肝要だ、と私は強く願いながら、
この教師、そして学校の方針に私は賛意を重ねたりした。

今回、初めて県立博物館を訪れたが、多彩な展示に、私は知的好奇心の刺激が強く、
私を若替えさせられる何よりの心のビタミン剤と思ったりした・・。

《つづく》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第3章 ホテル周辺を散策すれば・・。

2018-04-11 07:19:19 | 旅のあれこれ

私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』の隣接した処に北谷公園があり、
海辺には全長600mの白い砂浜が美しい安良波(アラハ)ビーチ、そして夕陽が眺めるに最適なサンセットビーチがある。
   

   


そして海岸沿いには、北に向かって整備された遊歩道が長く続く・・。
   

   

やがて15分ぐらい遊歩道を歩くと、『うみんちゅワーク』と名付けられた海の駅があり、
館内には『海の部屋』、『海洋生物と植物食物のパネル展』が常設されていた。

そして『北谷うみんちゅ市場』として、魚屋と野菜屋が即売店として、新鮮な多彩な魚、野菜があり、
私たちは魚の刺身に瞬時に魅了されて、三種類ばかり買い求めて、帰館後にビールを飲みながら賞味したりした。

ひとつ残念だったことは、この地域の一月の時節は、曇りが多く一時晴れ、ときおり小雨が多く、
私たちが滞在した9日間で、まばゆい陽射し、空は青空が拡がる景観は、ごくわずかで、
私たち夫婦は大いに戸惑ったりした。

そして散策している中、多彩な花に魅了されて、見惚れたりして、歩き廻ったりした・・。
   

   

そして海上を眺めると、曇り空の中、淡き陽射しで天使の梯子(はしご)に似た情景に、
私は微苦笑しながら、長らく見惚れたりした・・。
             

《つづく》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第2章 異国情緒あふれる美浜『アメリカンビレッジ』

2018-04-10 16:16:33 | 旅のあれこれ

私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』より、5分たらずにある『アメリカンビレッジ』は、
私たちは多彩な飲食店で、滞在した殆どは食事をしたり、カフェで休息したり、
或いは家内は雑貨店、土産物店を見て、魅せられた品を買い求めたりした・・。

この『アメリカンビレッジ』は、在日米軍施設キャンプ・フォスターのうち海岸沿いにあったハンビー飛行場が、
1981年(昭和56年)に返還され、やがて1988年(昭和63年)には飛行場跡地北側に隣接する海岸で、
新たに埋め立て地が造成された、と伝えられている。

そして両地区は一体的な開発が行われることになり、このうちの埋め立て地部分に建設されたのが、
北谷町運動公園とアメリカンビレッジとなった。

こうした中で、在日米軍施設が集中するこの地域の特性を生かして、
アメリカの雰囲気を前面に押し出すことになった、と私は学んだりした。

そしてアメリカンビレッジは、1997年(平成9年)から本格的な工事が始まり、翌年から施設が順次開業し、
2004年(平成16年)にほぼ完成した。

こうした中、2003年における年間来客数は、延べ830万人にのぼった活性化したリゾート街並みとなっている。
https://www.okinawa-americanvillage.com/
☆『アメリカンビレッジ』公式サイト☆

私たち夫婦は、このアメリカ風を中核とし、琉球、沖縄、インドなど異国情緒あふれる多彩な建物、それぞれの店、
そしてアメリカが多い欧米人、台湾、中国、韓国、インドそして日本人らアジア人が利用している不思議な街並みであった。
   

   

   

こうした中、アメリカが世界の諸国の中で、圧倒的な突出した経済、軍事力を有し、
もとより政治、外交も世界の主要国さえ、優に威圧できた1950年代、1960年代中期までのベトナム戦争の以前の時代、
この当時の雑誌『TIMES』、E.プレスリーのジャケットが、さりげなく店に掲げられていた・・。
   

こうした情景を見た私は、私は中学、高校生で、やはりアメリカ文化をまぶしく感じていた時代であったので、
あの当時の頃を思い馳せたりした・・。

私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
小学4年生の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた・・。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりし、
ラジオではコニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声を聴き、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。

そしてレコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れ、聴いたりしていた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、あるレコード会社に勤めて、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。

その後、人事異動をして営業本部で奮闘していた時、
洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
       
       ☆今回、ブック形式のジャケットの表を記念に撮った☆

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、と解説書を精読した。

《・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・》と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。

そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。

私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付けた素敵なお姉さん・・素敵なワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。

コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学生の時代の頃は、大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に心酔し、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、或いはツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての憧憬させられる思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。

このようなことを私は思い浮かべて、家内が魅了されて店で買物している時、近くで待ち侘びて思い重ねたりした・・。

やがて私たちは歩き出すと、私は足を止めて眺めたりした・・。
             

あの当時のアメリカは、アメリカ人にとっては黄金時代であった、と私は感じ深めたりした。

《つづく》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第1章 リゾートホテルに到着した日には

2018-04-10 13:13:26 | 旅のあれこれ

私たち夫婦は国内旅行で観光ホテル、リゾートホテル、旅館に宿泊する滞在型の時は、
原則として、旅行ケースを宅配便を活用して、我が家から宿泊する処に配達依頼をしたり、
帰路も旅先の宿泊地から配達依頼をし、我が家に配達して貰ったりしている。
                   
                    ☆2013年(平成23年)1月に買い改めた時、記念写真として撮った☆

今回も1月9日に宅配業者の御方が我が家に来て頂き、
私たちが宿泊するリゾートホテルに1月12日の午前中に必着依頼をしたりした。

1月12日、私たちは旅立つ日は、家内は4時、私は5時半に起床して、
軽食を頂き、家を7時過ぎに出た。

そして路線バスに乗車して、まもなく最寄駅の小田急線の成城学園前より新宿駅に到着後、
山手線で品川駅に到着後に、京浜急行線に乗り替えて、やがて羽田空港・国内ターミナル駅・・
やがて出発ロビーに移動するのが、恒例のようになっている。

しかしながら家内は、この間に電車の事故などで遅延することを配慮して、
航空機が発走する2時間半前には、出発ロビーの近くで私たちは待機する習性となっている。

たまたま今回は羽田空港11時30分発の那覇空港行であったが、
羽田空港・国内ターミナル駅には9時少し前に到着した。

確か5年の以前の頃まで、こうした時には、空港内のレストランを利用して食事をしてきた。
しかし殆ど30分前後で食事を終えた後、待ち侘びている方たちもいるので、
この食事処を退去した後、パーラー風の喫茶店のような処でコーヒーか紅茶を飲んだりしてきた。

こうして20数年、それぞれのレストラン、蕎麦屋などで食事をした後、喫茶店を利用してきた・・。
       

そして5年前の頃、いつものように京浜急行の羽田空港・国内ターミナル駅を下車した後、
地下1階のフロアーを歩き、2階の出発ロビーを目指していた時、
何かしら地下1階のフロアーで、簡素な食事処が集約しているのを見かけたりした・・。

『XXちゃんさぁ・・とんかつ屋さん、蕎麦屋さん・・など沢山あるよねぇ・・便利そう・・』
と私は家内に言ったりした。

『あのような所は、フードコートっていうのょ・・』
と家内は微苦笑しながら、世の中に疎(うと)くなった私に教えてくれた。

そして何かと好奇心が衰えていない私は、家内を誘い、初めて入店した。

やがてフードコートには、とんかつ専門店・銀座「梅林」、下町浅草の洋食屋「ヨシカミ」、
青山のピザ&パスタ「トゥ・ザ・ハーブズエクスプレス」、大阪たこ焼「たこぼん」、
中華料理「彩鳳」、日本そば「あずみ野」などがあることを知ったりした。

そして私は山菜そばを食べたり、3か月後の旅路の時は、とんかつを食べたりした。
特にとんかつは程ほどに美味しく、お値段も廉(やす)かったのであった。

食事を終えた後、飲み物も廉(やす)く、1時間ぐらい座っていても、
違和感が感じられない店内の雰囲気で、私たち夫婦の周囲でも、
欧米人らしいグループの数組が寛(くつろ)いで、談笑したりしていた・・。

その上に、私は愛煙家のひとりで、喫煙所は30メートル近くにあり、この近くに化粧室(トイレ)もあり、
圧倒的な便利な所だょ、と私は微笑みながら家内に言ったりしてきた。

これ以来、私たち夫婦は羽田空港・発の旅路は、
この第1旅客ターミナルの地下1階にあるフードコートの『東京シェフキッチン』を利用している。

今回は早い9時であったので、メニューは制約されていたが、私は特選カレーライスを食べたりした。

やがて乗機待合所の23番ゲートの窓辺から、澄み切った冬晴れの中、遥かに遠方であったが冬富士が観え、
私たちの旅路を祝賀してくれているように思えて、私は微笑んだりした。

この後は予定より10分遅れで離陸して、私は機内でJALの機内誌『スカイワード』(1月号)を30分ぐらいで読んだりした後、
買い求めてきた月刊総合雑誌の『文藝春秋』(2月号)を読んだりしていると、14時半過ぎに那覇空港に着陸した。

そして到着ロビーで、私は冬用のフリースを脱いで、冬用のスボーツシャツを少し腕まくりをしたりし、
『やはり沖縄は、東京の5月ような陽気だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

やがてJTBが契約しているホテル間を巡回するリムジン・バスに私たち夫婦は乗車して、
曇り空の中、40分過ぎた時、私たちが宿泊滞在する『ザ・ビーチタワー沖縄』に17時に到着した。
             

そしてチェックイン後、指定された14階の一室に入り、室内は広々とし、窓辺のベランダから中央から右手には海上が観え、
左側は北谷(ちゃたん)の陸上グランド場、野球場、そして街並み、緩やかな丘陵には住宅街が見えたりした。


この後、私たち夫婦は5分たらずにあるアメリカン・ビレッジの食事処で、夕食を思いながら歩いていると小雨が降りだし、
結果としては『ザ・ビーチタワー沖縄』に隣接している島唄と琉球料理の『北谷ダイニング』で、夕食とした。
             

そして島唄を鑑賞しながら、私たちは生ビールを4杯ばかり飲み、あぐー石垣牛盛り合わせ、石垣牛ロース、島野菜サラダ、野菜盛り合わせ、
オムタコライス、島らっきょうを食べたりした。

やがて一時間半ばかり過ごした後、隣接したテラス風の広いサンデッキに喫煙場があり、
私は煙草を喫っていると、先程の食事テーブルで隣席にいた若き男女の御方が近寄ってきて、
私は若き男女の御方と談笑し、家内も加わり、お互いに談笑したりした・・。

何かしら女性の御方は北海道の阿寒湖にお住まいと明言され、若き男性の御方は地元の沖縄と見られ、
私は遠距離の恋愛のように感じて、冬の天の川・・と私は感じ深めたりし、好感したりした。

そして私たち夫婦は指定された部屋に戻り、疲れを感じて21時過ぎに私は寝付いたりした。

《つづく》

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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 序章 旅立つ前の思い

2018-04-10 08:12:26 | 旅のあれこれ

私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。


私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。
            

昨年の2015年2月9日より、オーホッツク海に面した紋別で流氷を目的に三連泊した後、
そしてサロマ湖の厳冬期を見たく三連泊した後、やがて網走湖畔で一泊するプランを旅行代理店に依頼して、
遊学したりした。

結果的に、紋別は観光ホテルの『セントラルホテル』で、サロマ湖は東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に、
網走湖畔で観光ホテルの『網走湖荘』に予定通り宿泊できたりしたが、風雪の怖さを実感させられたりした。

ここ数年、私たちの旅行は、春夏秋冬を含めても激少している。

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、
『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で『おひとりさま』の生活をしたり、私たち夫婦の旅行も少し遠ざかったりしている。
              

やがて家内は家内の母の介護で、疲労が増してきたので、気分転換に、疲労回復も兼ねて
伊豆半島の西海岸にある『堂ヶ島温泉ホテル』に3連泊プランが、クラブツーリズムの雑誌に掲載されていたので、
私たちは利用して、5月8日より周辺を遊学したりした。

まもなく、私たち夫婦はお墓に関しては樹木葬と決めてきたが、肝要の墓地を決定する為、
伊豆七島にある大島に今年5月19日に訪れて、三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』に一泊だけして、
墓地の仮契約したり、三原山に登山したりした。

やがて私は、秋になったら旅行に行こうょ、と家内と話し合ったりして、
能登半島の和倉温泉に少しゆっくりと滞在しょうと、7月中旬に旅行代理店に手配を依頼した。

そして私たち夫婦は10月上旬に旅立つ予定であったが、家内の母の容体の影響で、
結果としては11月7日より4泊5日で、久々(ひさびさ)の秋の旅路となったりした。

12月初旬、駅前の旅行代理店で、ひとつのパンフレットを頂き、私たち夫婦は冬の旅路は北海道が多かったが、
久々(ひさびさ)に日本列島の南海にある沖縄本島に、滞在旅行をしょうかしら、と思案したりした。
              

このパンフレットは、JTBが企画された『沖縄本島・石垣島』の長期滞在型で、
《暮らすようにおトクに滞在》と称して、各リゾートホテルが掲載されていた・・。

        

私は50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、初めて沖縄諸島を観光で訪れた。

この50代の時は、私の勤めていた会社が勤続25年になると、有給休暇5日間を頂ける制度があり、
私たち夫婦はJALの関係の旅行会社ジャル・ストリーズを利用して、
八重山諸島の石垣島の『ホテル日航 八重山』に連泊した後、その後は沖縄本島の恩納村の『ホテル日航 サンマリーナ』、
そして首里の『ホテル日航 首里』に宿泊して、4泊5日の観光周遊旅行をした。

いずれもジャル・ストリーズの企画した宿泊したホテルから次の宿泊するホテルの間に、
それぞれの名所など周遊できる専用バスのコースがあり、利便性のあるプランを利用した。

この時に石垣島に連泊した時、石垣島の島内を周遊したり、
西表島に船で訪れて、仲間川のマングロープの中を小舟で遡ったり、その後はカンビレーの滝まで散策したりした。

その後は隣接した由布島、そして竹富島などの八重山諸島を周遊したりしたが、
カメラを持参していなかったので、心の片隅に残っているだけである。


やがて私は定年退職後、三年過ぎた2007年〈平成19年〉10月29日から8泊9日間で、
私たち夫婦は家内の母の《死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したい》願いを叶える為に、
那覇市内にあるビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊して、『ひめゆり塔』、『平和祈念公園』など訪れたりした。

そして中部地域の観光に利便性がある名護市の郊外にあるリゾート・ホテルを家内が選定して、
かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』に6連泊滞在して、
周辺の風光明媚な光景を遊学したりした。
                        

そして2013年1月、旅行通販会社の大手のクラブツーリズムに於いて、
フリープランのひとつとして、石垣島フリープラン5・10・14日間が掲載されて、
《 離島桟橋まで徒歩3分の大浴場付きホテルに連泊 》と見出しがあり、
私たち夫婦は、石垣島の島内をゆっくり周遊するのも良いかしら、と思い申し込んだりした。

そして市内の中心街にあるビシネス風の『ホテルグランビュー 石垣』に2月7日より9連泊して、
本島の名所、周辺の新城島(あらぐすじま)、小浜島、竹富島などを遊学した。

この新城島は、バラスと称されるサンゴの欠片だけで出来た白い島であり、
たまたま観光客は私たち夫婦だけて、島内散策と白い浜にたわむれたりした。
      

                

このような沖縄・八重山諸島に、ささやかな想いを秘めた私たち夫婦は、
今回に於いて沖縄本島の滞在地は、那覇市内からバスで40分ぐらい北上した波打ち際に近いリゾートホテルであった。

何かしら県内最高層の23階建ての『ザ・ビーチタワー沖縄』であり、すぐ目の前がサンセットビーチ、
客室から眺望が良い、と明記されたりしている。

そして隣接地には華やかそうな『アメリカン・ビレッジ(村)』、そしてスーパーの『イオン』もあり、
何かと利便性に優れた地域である。

こうしたことを少し学び、沖縄本島のサンセットビーチとして名高い北谷(ちゃたん)町にあるリゾートホテルに
1月12日より9泊10日で滞在旅行をすることとした。

そして私は波打ち際を散策したり、朝夕の海上のうつろう情景、この間に読書をしたりして、
家内は日頃の家内の母の介護、そして年末年始に孤軍奮闘した疲れを癒す為、
私たち夫婦はゆったりと過ごす予定としているが、果たして・・。

《つづく》

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過ぎし2007年に沖縄本島、私たち三人でを遊学した旅路 最終章 『またん めんそ~れ・・』

2018-04-09 18:33:34 | 旅のあれこれ

      最終章 『またん めんそ~れ・・』

私たち夫婦は、15年前頃に沖縄列島を観光周遊をした。
私が現役時代であったので、4泊5日でジャル・ツアーズの旅行会社を利用し、
JAL直営のホテルに宿泊した。

石垣島に連泊し、西表島の周辺の島々を周遊し、
本島に来て、恩納村のリゾート・ホテルに宿泊し中北部の観光を楽しみ、
首里のシティ・ホテルに宿泊した後、南部観光をしたりした。
観光周遊の移動としては、JALライナーのバスでホテルからホテルの間を観光周遊、オプションをまじえて、周遊した。


定年退職後の4年生の今は、
家内の母が『ひめゆりの塔を観てみたいわ・・』と、
娘の家内に話したことから、私たち夫婦は高齢者の為のプランを設定した。

那覇のビジネス・ホテル『アパホテル那覇』に連泊し、南部観光をめぐり、
恩納村のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン・スパ』に6連泊して、中北部の観光を周遊した。
今回は家内が殆ど選定し、東急の旅行会社を通して、予約した。

移動の交通は、初日に『ゆいレール』を那覇から首里に一度ばかり利用し、
最終日のリゾート・ホテルの各所から那覇空港へのリムジン・バス以外は、タクシーで移動した。

食事に関しては、朝食はホテルのバイキングの和・洋食を頂き、
昼食は出先の観光地で簡素なおにぎりなどを中心に、
夕食は日常住民の方たちが利用されている沖縄料理の食事処、居酒屋に、
滞在先から15キロ以内の処にタクシーで往還した。

私たち3人は、それぞれ美味しそうと思われる料理を賞味し、
お互いに分け合って、夜のひとときを甘受した。

地魚の平アジの煮付け、地魚の刺身の盛り合わせ、刺身のニンニク刻み、
豚の豚足、耳の刻み、島ラッキョウ、ダイコンのわさび漬け、ヘチマ煮、
ヤシ蟹、マングローブ蟹(ガザミ)などが、私としては沖縄らしい味として賞味した。

最後の宿泊の夜には、ホテル館内の『かりゆし料理』で頂いたが、
上質でどなたでも賞味できる和食コースであった。

そして、家内たちはトロピカル・カクテルのような
泡盛をベースに南国のフルーツ入りのカクテルを呑んだりしていた。

私はオリオン・ビールを呑みながら、
家内たちに『またん めんそ~れ・・』
と笑いながら、言ったりした・・。

家内と家内の母は小首を傾げたので、
『俺も観光先で見かけたのであるが・・
See you agan・・とペンキで書かれた看板があったよ・・
この中で、youというのが、ouになっているの・・
おかしいなぁ、と思っていたら《y》が欠けていたの・・

いずれにしても、
ふたたび・・沖縄でお逢いしたいですね・・という意味だよね・・
こちらの沖縄の言葉だと・・またん めんそ~れ・・』
と説明したら、家内たちは笑いころげたりした。

その後、羽田空港に向かう機中で、私は『海洋公園』のつる植物園で、
めぐり逢え秘かに『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』と名付けた『ベンガル・ヤハズ・カズラ』を思い浮かべたりした。

そしてエメラルド・ビーチと称された浜辺を散策した後、
園内の別の一角で、ふたたび『美ら海桔梗』に再会できたりした。
        

私は美麗な花に再会できて、旅の記念の一葉として撮ったりした・・。
                        

このようなことを旅の終わり重ねたりした。

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