夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『梅見月』、或いは『雪見月』の2月に、愛惜を秘めて別れを告げて・・。

2014-02-28 16:03:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、小庭のテラスに下り立ちと、曇り空の中、暖かく感じたりした。

その後、地元の天気情報を視聴すると、
朝の6時は7度、昼下がりは18度前後、夕暮れの後の6時は13度前後、
午前中は曇り、午後より晴れ間となり、4月のような陽気に恵まれます、
と報じられて、私は微笑んだりした。

そして平素の買物専任者の私は、もとより防寒コートも必要とせず、
ジャケット風のフリースも置いて、冬のスポーツシャツの容姿で、
10時半過ぎ、私はスーパーで買物を終えた帰宅した後、
近くに流れる野川の遊歩道を上流に向かった歩いた。
          

やがて小公園に立ち寄り、落葉樹の冬木立を長らく眺めたりした。
私は幼年期に農家の児として育った為か、こうした情景に都心の街並みより心が安堵することが多く、
まもなく芽吹きの時期を迎える、と私は心を寄せたりしてた。
          

そして陽だまりのベンチに腰を下ろして座ったりしていると、
2月は早くも月末かょ、と思ったりした・・。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
昨年の12月頃から平年より寒い日が多かったので、2月をむかえても、
我が家の小庭にある水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、
白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。

そして私は幼年期に農家の児として育った体験を重ねたりすると、2月の『如月(きさらぎ)』は、
やはり『梅見月』、或いは『雪見月』かしら、と東京の田舎者の私は思い馳せたりしてきた・・。


この時節、私たち夫婦は雪の舞い降る情景、その後の風もない青空の快晴の中、
予告もなく花びらのような雪が舞いながら落ちてくる風花(かざはな)の情景に、
魅了されて、心を寄せたりした・・。

しかしながら私の住む地域は、冬の時節にわずか5センチ前後は降る年もあるぐらいで、
冬の時節になると、雪恋し、心情となり、
昨年の12月中旬になると、旭川市の郊外にある天人峡温泉に3泊4日で訪れ、
スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。

そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月中旬に4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
       

この後、2月初旬に札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日滞在し、
定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を歩き廻ったりした。
          

この滞在中、東京は40数年ぶりの大雪が降った、とテレビのニュースで視聴したりした。
どうして何10年ぶりの大雪なのょ、と気まぐれな気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして旅路を終えて深夜に帰宅した私たち夫婦は、
門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
何かと雪舞い降る情景に魅せられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
             
           
翌日からは、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
平素の買物専任者の私は、いつものようにスーパーなどに行ったり、
旅路で撮った数多くの写真を整理した後、このブログサイトに旅路のことを13通ばかり投稿して、
何かと愚図の私でも慌ただしく過ごしてきた。

こうした中で、小庭の雪も溶け、白梅が満開となったりした。
          

ここ一週間は三寒四温であったりしたが、たまたま3月のような暖かな陽射しに恵まれることもあり、
まもなく春到来かしら、と喜んだりして、自宅の周辺をひたすら歩き廻ったりした。

しかし古人からは、暑さ寒さは彼岸までの格言通り、今年も3月の下旬を迎えてかしら、
と思ったりした。


このようなことをぼんやりと思いながら、私は今年の初秋に古希と称せられる70歳を迎え、
何かと定年後の私たち夫婦の年金生活はお互いに心身溌剌と過ごしてきたが、
やはり私は体力の衰えをここ5年ぐらい実感を増してきた。

そして私は、私たち夫婦は大病することなく過ごしてきたが、
お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ、良いと思ったして、
こうした中、共通趣味の国内旅行の旅路を重ねたりしてきた・・。

いつの日にか、遠方の旅行も負担となるが、それまでの期間は平素の生活のささいな事でも、
それなりに数多くの思いであり、あの時は・・と私は過ぎ去り日々に愛惜を深めたりしている。


この後、私は遊歩道から降りて、川辺の近い小路を歩いたりした。
そして時折吹く風も甘く、流れる水の音も春の気配が感じられた。
          

10分ぐらい小路を歩いたりし、やがて住宅街の中の道を歩くと、精麗な花に見惚(みと)れて、
立ち止まったりした。
          

この後、再び歩きだすと、まもなく大きなマンションの外れの垣根は、
ある一角には椿(ツバキ)であり、こうした垣根の花を眺めながら歩いたりしていると、
          
冬の代表的な花のひとつは椿(ツバキ)であるから、まもなくお別れだねぇ、
と私は思ったりした。

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曽野綾子さんの数多くの御著書、私は多々教示されて、人生の師として敬愛を深め・・。

2014-02-27 14:21:43 | 定年後の思い
私は中小業の民間会社に35年近く勤め2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
平素の買物専任者、その後の散策をしたり季節のうつろいを享受している69歳の身である。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。
          

こうした中で定年後の年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、
毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。

或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。

私が読書をする場所は、我が家の居間でソファーに座ったり読むことが多いが、
寝室の布団に横たわって読んだりする時もある。
                    

ここ10日前の頃、新聞の雑誌広告が掲載されている中で、
女性専門月刊誌のひとつの『婦人公論』の最新号が広告が載っていて、
この横に、《 完全保存版 曽野綾子さんに学ぶ 人生後半の潔い生き方 》
と明記されていたのが、小さく掲載されていた。

私は『婦人公論』の特別付録と瞬時に感じ、特に定年後の9年半に於いて、
曽野綾子さんの作品から多々教示されているが、やはり婦人の雑誌を買い求めるのは、
躊躇ったりしてきた。

昨日、駅前に買物に行った時、本屋に立ち寄った時、雑誌コーナーで、
『婦人公論』の3/15号増刊、としてこの《 完全保存版 曽野綾子さんに学ぶ 人生後半の潔い生き方 》が、
一冊の本となっていた。

そしてこれだったら高齢者の男性の私でも買い求めることができる、と安堵して、
購入して、ただいま読書中である・・。
             

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965年(昭和40年)の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

これ以前の私としては、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966年(昭和41年)5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ10年は見逃してきた作品、リアルタイムで新刊された作品を購読している。
            

そして文学的なことは今回は対象外としても、人生の思いに多々教示されられ、
人生の師として敬愛を深めている・・。


こうした中のひとつに、過ぎし日の2012年(平成24年)5月下旬に、
伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、4泊5日の温泉滞在旅行をした。

私は齢ばかり重ねた67歳の時であったが、こうした滞在旅行の時は、
読書をするのが快適と思い、この時は三冊の本を持参した。

曽野綾子・著作の『生活の中の愛国心』(河出書房新社)の新書本、
そして曽野綾子・著作の『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場~』(新潮社)の単行本、
再読したく書庫から抜き出した城山三郎、平岩外四・共著作の『人生に二度読む本』(講談社文庫)であった。

旅路の先のひととき、これらの本を読んだりして、多々教示された。

そして宿泊先の網代温泉の『湯の宿 平鶴(ひらつる)』で朝食前のひととき、
私はロビーの近くで、当館で置いてある『毎日新聞』、『産経新聞』、『静岡新聞』の朝刊を読むのが、
習性のようになったりしていた。

たまたまこの日の25日の朝も、『産経新聞』の朝刊を手にしたら、
一面の左上に、作家・曽野綾子さんの『小さな親切 大きなお世話』と題された寄稿文が掲載されていた。
見出しには《 会えなかった恩人たち 》と明記され、
敬愛している作家のひとりなので、私は精読した・・。

曽野綾子さんは海外邦人宣教者活動援助後援会のNGO組織の代表を長らくされていることは、
数多くのご著作から私は学んできたが、
今回40年間続けられた代表を辞任され、これに伴い、《ささやかな感謝会》をされた、と記していた。
          

この後に綴られた寄稿文は、圧倒的に感銘を受けた・・。
そして私は持参している手帳に書き留めたりし、無断であるが、転記させて頂く。

《・・(略)
この最後の機会に、私の中には初期から数十年来の支援者で、
ついぞ顔を会わせたことのない何人かのお顔を今度こそ見られるだろう、
という淡い期待があった。

世間は生活に余裕のある幸福な人が、苦しい人を助けると信じている。
しかし私の体験では、長年の支援者の多くは、悲しみを知っている人たちであった。
私はその一部を打ち明けてもらう光栄に与(あずか)り、
人生とは悲しみこそが基本の感情であり、
そこから出発する人には、芳香が漂うのを知った。

このような人たちの一部は、しかし今度も会にもやはり出席してくれず、ただ温かい言葉を送ってきた。

人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、
と私は思った。

私はここ数年、いつ死ぬか分からないのだから、
以前から心にかかっていた人たちと、無理でない機会で、
会っておくようにしょうと心に決めていたのだが、
それは浅はかな人生の計算だということもわかった。

深い感謝は、時には恋のような思いでもあったが、
恋もやはり会わないでおいた方がいい場合が多い。

人生ですべてをやり遂げ、会うべき人にも会って死のうだということは、
思い上がりもいいところで、人は誰もが多くの思いを残して死んでいいのだ。
むしろそれが普通なのである。
私は強情だったが、運命には従順でありたいと願っていた。

愛というものは、二人がお互いに見つめあうことではない。
同じ目標を見つめあうことだ、と昔教わったが、
ついに現世で視線を合わせることもなかった支援者たちと私は、
図(はか)らずも同じものを見つめる位置に立って、人生を生きたに違いがない。
・・》
注)新聞に掲載された原文、あえて改行を多くした。

私は拝読した後、功利を問わない無償の奉仕活動をされる人たちに、
ひたすら敬服するひとりである。
その上、さりげなくこうした活動に共鳴して、支援金を提供して、
更に顔を会わることない人の心に、圧倒的に感銘させられた・・。

こうした思いの中で、私が瞬時に共鳴させられたことは、
《・・人生は生涯、ついに会わないままに終わる方がいいのだという人間関係があるのだ、と私は思った。》
と一節である。

このようなことを始め、私は曽野綾子さんの作品から、深く多々学び、
これからも人生の師として、敬愛しているひとりである。
             

曽野綾子さんの綴られたエッセイを読むと、短縮した言葉であえて表現すれば、
もとより明確な人生観を根底にあり、たぐいまれな言動を重ねて、
超高齢化社会の高齢者世代に、残された人生の指針を具体的に発露され、
そして読者は生きがいの要素の再確認と安堵感をもたらす、と愛読者のひとりの私は深く感じている。

たとえば『老いの才覚』(徳間書店)がベストセラーになった後、
『人生の第四楽章としての死』に於いて、《 最期の備え この時代をより良く生きるために 》
と徳間書店の広告に掲載され、
そして《 人生は明るく前向きに 締めくくることができる 》と大きく横書きされ、
8か条のような箇条書きが明記されていた・・。

著作権の関係もあり、ひとつだけ転記させて頂く。
《 最後に残るのは、財産でもなく名声でもなく愛だけだ 》
と明記されていた。

このような箇条書きのひとつを読むと、つたない人生を歩んできた私でも、
降参します、と思いながら購読したりした。
             
そして数多くの曽野綾子さんの御著書を精読すれば、市販のビタミン剤より少なくとも百万倍は、
心身ともに効果がある、と感じている。

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ここ数日、高齢者の男性の私でも、キャンディーズの『春一番』を心の中で唄い・・。

2014-02-26 16:31:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69の身であるが、
冬の時節は私たち夫婦は雪の舞い降る情景に魅せられて、この時節になると、雪恋し、心情となり、
昨年の12月中旬になると、旭川市の郊外にある天人峡温泉に3泊4日で訪れ、
スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。

そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月中旬に4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
          

この後、2月初旬に札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに13泊14日滞在し、
定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を歩き廻ったりした。
          

この滞在中、東京は40数年ぶりの大雪が降った、とテレビのニュースで視聴したりした。
私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であるが、
平年は天上の気候の神々の采配に寄り、冬の時節にわずか5センチ前後は降る年もあるが、
どうして何10年ぶりの大雪なのょ、と気まぐれな気候の神々の采配に戸惑ったりした。

そして旅路の最終日、『新千歳空港』の出発ロビーで私たち夫婦は、
19時30分発の航空便を待機していたが、
東京の羽田空港が過日の大雪の影響で欠航にあったし、もとより新千歳空港も影響があり、
出発ロビーはキャンセル待ちの方たちが長蛇の列で混雑していた。

結果として私たちが機内に乗席できて、離陸できたのは1時間半遅れの21時であった。
やがて羽田空港に着陸し、私たちが預けていたスーツケースを受け取ったのは、
23時過ぎてあった。
そして私たちは自宅の最寄駅に着いたのは、深夜の12時過ぎであった。

私たちは最寄駅でタクシーを乗ろうと思っていたが、
平素はタクシーが客待ちで数多く並んでいるが、私たちのようにタクシー待ちの長蛇の列だったので、
やむなく積雪残る夜道を歩いて帰宅できたのは、深夜の12時半であった。

そして門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
何かと雪舞い降る情景にみせられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
             
           
翌日からは、家内は洗濯の合間に掃除をしたり、料理をしているが、
平素の買物専任者の私は、いつものようにスーパーなどに行ったり、
旅路で撮った数多くの写真を整理した後、このブログサイトに旅路のことを13通ばかり投稿して、
何かと愚図の私でも慌ただしく過ごしてきた。

こうした中で、小庭の雪も溶け、白梅が満開となったりした。
          

昨日の朝、澄み切った青空で、陽射しを受けたりすると暖かく、防寒コートを置いて、
薄手の冬のスポーツシャツの上にジャケット風のフリースの容姿で、
午前の11時過ぎに駅前のスーパーに買い物に向った。

そして散歩を兼ねて遊歩道を歩いていた時、白梅の精麗な満開となった花びら、
紅梅の朱紅色の七分咲きを足を止めて眺めていたら、
単細胞の私はひとつの歌を心の中で唄ったりした・・。

恥ずかしながら記載すれば、キャンディーズの『春一番』の歌である。
http://www.youtube.com/watch?v=NWBVfUiXIis
☆Youtube《『春一番』 作詞、作曲・穂口雄右、唄・キャンディーズ》☆

この歌は確か1976年(昭和51年)3月初めの頃から、街に流れていたと記憶している。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社で、管理系の情報畑で奮戦している中、、
私のプライベートは前年に婚約を終え、3月の下旬に結婚式がまじかな時であり、
多忙ながら心も身も高揚していた時であった。

キャンディーズは他社のCBSソニーの専属であったが、
三人の麗しき乙女たちが健気に唄って、素人さが見え隠れするので、私は好感していたひとりであった。

このような心情を秘めていた私は、早春を迎え、春先の空気を感じられ、
春到来かしら、と感じる時、私は心の中で唄ってしまうのが、ここ30数年の習性となっている。

本日も昨日に続き、3月のような陽気に恵まれ、私は買物が終わった後、
こっそりとスキップしながら遊歩道を独り歩き廻っている・・。

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ときには44年前の1969年〈昭和44年〉の当時の頃、思い馳せて・・。

2014-02-25 13:49:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜の8時近く、60歳をわずか過ぎた麗人の女性より電話を頂き、
微笑みながら10分ぐらい話したりした。

過ぎしき44年前の1969年〈昭和44年〉の4月から翌年の1970年〈昭和45年〉3月までの一年間、
私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学び、
昨年の初秋の頃から、有志が集い、やがてクラスの同期会をこの3月中旬に開催しょう、
と優れた機敏能力のある女性を幹事として、私たち男性3名が助成として打ち合わせを重ねてきた。

この幹事をして下さる女性のお方の電話連絡であったが、
この後ぼんやりとあの当時の頃を私は思い馳せたりした・・。
          

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
小学4年生の頃から独りで映画館に数多くの映画作品を鑑賞してきたので、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老から、これから映画で飯を喰えるのは極く一部の人だょ、
まして脚本は・・同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。
                     
このような時、近所の家電販売店の店主が、生家の長兄宅に幾たびか来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

そして購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
                     

この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているある新設されたコンピューター専門学校に、
1969年〈昭和44年〉4月に入学した。

          
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であり、近くの大きな広告の看板に、
モデルの小川ローザさんが、車が走り抜けた風圧にスカートがまくり上げられ、
『オー・モーレツ!』とスカートを抑えながら言ったりした看板に、
よくやるよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。

やがて数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。
          

こうした間、学友のひとりに誘われて、新宿駅の西口に一度だけ行ったりした。
この当時、フォークゲリラと称された反戦フォークソングを唄って反戦運動を高めようとする若者たちが、
ベ平連の青年たちがギターを持って新宿駅の西口の地下広場で盛んに決起していた。

こうした状況を観た私は、過ぎ去る年にアメリカのケネディ大統領の暗殺、
やがて弟のロバート・ケネディが大統領立候補のさなか暗殺されてしまい、
私は政治の怜悧さを痛感させられ、政治への希望と関心は遠ざかっていたので、
あわゆい効果のない青年の政治活動だ、と傍観者の心情で見つめたりしていた。

或いは卒業をまもなく迎える1970年〈昭和45年〉の3月中旬からは、
『日本万国博覧会』が大阪の郊外で華々しく開催されて、
私は鑑賞に出かけるお金の余裕もなく、漠然と羨望を重ねたりしていた。

やがて1970年〈昭和45年〉の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業時期を迎え
卒業式の後を先生方と私たちは謝恩会で高揚した中、私は心の片隅には、
私は劣等生の為に追試を受けたばかりであったので、不安さを秘めていた・・。
そして何とか卒業証明書を頂けたのは3月31日であった。

私は生家の自動車で、代々木にある学校に向かう世田谷街道を走行していると、
社内のラジオから、『よど号ハイジャック事件』が発生して、
犯行した方たちはどのようになるのか、と思いながら学校に到着して、
先生から卒業証明書を頂く時、私は照れながら受け取ったりた。

こうした中で私の就職活動は、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーの経営陣のひとりが、
私の生家の遠い親戚の方が知人で、私は紹介を受けて、このお方のご尽力もあり、
何とか中途入社の内定を受けたのは3月15日過ぎであった。

そして私たち生徒一同は、それぞれの企業に就職して行った・・。

その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
                     

私は卒業証明書を頂いた翌日の4月1日に、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーに中途入社し、
その後まもなくある音楽の大手レーベルが独立し、外資系のレコード会社として新設された。
私も異動させられて、この後35年近く奮闘して勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年を迎えた。

しかし正確には、定年の7年前の頃から、音楽業界のリストラ烈風となり、
私も最後の5年は出向となったりした。

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『所得税の確定申告書』、高齢者の年金生活の私は作成しながら、微苦笑し・・。

2014-02-24 14:22:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の69歳の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし1月下旬の頃に所属地域の武蔵府中税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送物が我が家の郵便受け箱に入っていて、
私は表紙を見たりして、
《 申告書の提出は、平成26年2月17日(月)から3月17日(月)までです 》
と明記されていた。
               
そして私は、たまたま家内との共通趣味のひとつの国内旅行がまじかであったので、
2月の月末頃まで所得税の確定申告書を作成し、最寄りの市の預かり場所に手渡しすればよい、と思ったりした。
          

もとより税金に関しては、幾数1000年の古今東西のどの国家に於いても、
国民に対してどのくらい負担して頂くことは、最も悩ましい難題である。

しかし国家の形成維持、発展をするには、ある程度の税金を国民に負担しなければ、
社会インフラ、社会保障、教育、国防等は成立しないので、
国民は程ほどの負担の責務があるし、人々の一部には脱税する方がいるとニュースなどは知ったりすると、
まぎない非国民と思ったりしているひとりである。

問題はどの方に、どの世代に負担の増減が最大の問題となる。

私のような年金の方たちの世代を一方的に軽減すれば、
現役で働いて下さる肝要な諸兄諸姉の多くの人々に加重負担となるので、
これは健全な日本の生活を営む上で、絶対に避けなければならない。

むしろ私は、ここ10数年の社会風潮に於いて、
孫の世代が、祖父、祖母に何かしらの金銭にすがる状況、
或いは孫に懐(なつ)いでもらいたい余り、
祖父、祖母が優先的に金銭を与える風潮をなくしてもらいたい、
と余計なことを思ったりしている。

程ほどの年金を蓄えて、孫の世代に渡すより、
祖父、祖母は、生きた知恵を孫に教示するのが、望ましいと思考している。

ここ数年、国家の財政は益々悪化し、年金世代が一方的に国にすがるのは、
孫の世代に破綻をまねくと憂いたりしている。

私の日常の生活は、多くの高齢者と同様に、
年金の収入では足りないので、程ほどの貯金を取り崩している。
そして、清く貧しく美しくのモットーで日常を過ごしているが、
海外の主要国から見れば、日本の年金世代の人々は豊かである、と確信を深めたりしている。
          

このように思っている私は、国民の責務と確信しながら、
年金生活の私は真摯に毎年、所得税の確定申告書を作成している。

過ぎ去る年の 2004年(平成16年)の秋に定年退職する以前の現役のサラリーマン時代は、
12月初旬に社内の担当部署に年末調整の書類を提出すれば、
医療控除、不動産等の用件がない限り、簡易であった。

この後は、私は年金生活の身となり、私は厚生公的年金、企業年金、個人年金、
家内は我が家を新築した後、3年ばかり勤めて支援してくれた以外は専業主婦の期間であり、
過ぎ去り年に60歳を過ぎた後、厚生公的年金、企業年金をわずかな額であるが頂いているので、
私たち夫婦は共に年金を頂く夫婦となっている。

私は高齢者の少しボケてきた身なので、それぞれの関係先から昨年の12月頃に送付されてきた
源泉徴収票を指定の封筒に入れて保管している。

そして医療費控除に関しては、私たち夫婦のどちらかが歯の治療費が多く、
病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を保存している。

我が家は私が高齢者5年生の69歳、家内は64歳の身となり、
私は小心者であり体力は衰えてきたが、気力だけは若者に負けたくないと思っているが、
家内は体力は私よりあると私は実感しているが、胃腸に弱く、何かと薬のお世話になることも多い。
          

昨日の23日のひととき、 私は所得税の確定申告書を作成する前に、
こうした医療控除に関係する領収書を整理し、電卓で算出している。

この後は、ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

こうした中で、『火災保険』、自治体の掛け捨ての『交通災害』は、
所得から差し引かれる対象外だった、と苦笑しながら、脇に置いたりしていた。

そして、『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている『下書き用』に記入しているのが、
平年の習わしとなっている。

私は幾年過ぎても『収入金額等』、『所得金額』、『所得から差し引かれる金額』、『税金の計算』などの各項目、
そして算出方法が解からないので、
この国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を頼りにして、項目、計算結果を転記している。

この後は、『下書き用』から本書の『所得税の確定申告書』に転記して完成をさせて、
添付するべき源泉徴収票、医療控除に関する領収書などを整理して、一表を作成した・・。

これらを同封すれば、本年度の責務を果たした、と安堵したりしている。
          
しかし恥ずかしいながら、年金生活の今は、納める税金は今回は樋口一葉のお札で足りてしまい、
ここ5年は記憶にある限り、福沢諭吉のお札が2枚の範囲ですむことが多いが、
過ぎし年には歯の治療費の影響で、還付された税金が福沢諭吉のお札が一枚の時もあったりした。

そして国債、定期貯金などの利子に関しては、
わずかながら国税、地方税に支払っていることもあり、本年度もわずかな所得税の納金で、
勘弁してねぇ、と国家の中核地の都心に向かって、お辞儀したりした。

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60代は人生の黄金期、改めて拙(つたな)い私でも、実感を深めて・・。

2014-02-23 10:00:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した後、
私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、
敗残者のようなことも幾たびか体験してきた。
そして残された人生は、せめて少しばかり自由な時を・・、と念願しながら定年直後から年金生活をしてきた。

私は今年の9月に誕生日を迎えると60代を卒業して、古希と称される70歳になり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。
          

私は定年した直後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

         
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書をすることが多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして少なくとも家内は料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主ぐらいはしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、パソコンの故障とか旅行に行っていない限り、
ブログの投稿文を重ねて、早や丸9年半が過ぎている。

          
そして時折、庭の手入れをし、特に雑木が多く、季節の移ろいを的確に表現してくれるので、
時節のうつろいを改めて教示され、深めたりしている。
          

或いは地元の小・中学時代や都心の高校時代の友人たちと居酒屋など逢ったり、
男性の場合は、お互いに呼び捨てしているが、女性からはXXクンなどと私は呼ばれている。

そして私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から、数多く旅を重ねたりしているが、
定年後は旅程の制約から解放されて、5泊6日前後で観光ホテルに滞在し、
周辺を歩いたりして遊学している。

このような旅路が多いが、私たち夫婦がそれぞれ意欲と体力があるうちに、
ノコノコと出かけて歩き廻ることが多いのである。

          
私はこれまでの60代の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごしてきたが、
健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、痴呆症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。

そしてせめて私が75歳、家内が70歳を迎えるまで、五体満足で生かして頂きたいと切望するが、
しかしこればかりは天上の神々の采配に寄ることである。
          
このような60代の最後の年を過ごしている私は、改めて60代は人生の黄金期、と実感を深めたりしている。
          
           ☆ 旅先で偶然に、私が敬愛している書家・詩人の亡き相田みつを氏の数多く遺(のこ)された中、
                 特に私の好きな氏の名言を人生の確かな格言として教示されている。☆

     
私は『60代は人生の黄金期』と改めて学んだのは、旅先であった・・。

私たち夫婦は年金生活を始めた翌年の2007年〈平成17年〉5月下旬に、
ある旅行会社の企画のひとつとして、
流氷が立ち去り海明けとなった知床半島のウトロから観光船で、
出港してオホーツク海を北上して、やがて半島の先端の知床岬で、
日の出を洋上から観る早朝クルーズに瞬時に魅了されて、
3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。

この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。

私たち夫婦は団体周遊ツアー旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。

この時も年配のご主人と湖畔の喫煙所の近くで、私たちは談笑した・・。

『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期だった・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。

そして『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
          
私は堺屋太一(さかいや・たいち)氏のご著書から《ゴールデン・イヤーズ》と名言は学んできたが、
このご主人から、改めて60代は人生の黄金期と学んだりした。
                             
もとより大半のサラリーマンの男性は、第一線を退かれて、
それぞれの第二の人生を歩まれる中、現役時代の責務で多忙から解放され、
ストレスを感じることなく、60代の日々を自身の好み時間を過ごされていることを、
私の友人、知人などから学んだりしていた。

私は過ぎし昨年の6月のある日、現役時代のサラリーマンの時の勤めていた会社の懇親会が、
10数年ぶりに開催された時、先輩、同期、後輩の人々と懇親を深めながら、多くの方と談笑を重ねたりした。
こうした中で、私が多々教示して下さった先輩の多くが75歳前後で、
御歳を召された、と実感させられた・・。

無念ながらも世の中の70代り殆どは、特に75歳を迎えると身体の衰えを日増しに感じ、
中には不幸にも大病、もしくは病死される方も多い、と私は学んだりしてきた。

私は満69歳の時期は今年の9月に別れを告げるが、過ぎし60代の9年半を振り返れば、           
私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができることに感謝したりしている。

そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
年金生活の最大の恩恵かしら、と私は微笑んだりして、過ごしたりしてきたので、
改めて60代の殆どの人々は、それぞれのお方は人生の黄金期を過ごされている、と実感させられている。

          
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雪だるま、旅先の札幌市内でめぐり逢え、微笑みを重ねて・・。

2014-02-22 08:30:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎし2日より15日まで札幌市の郊外にある定山渓温泉の観光ホテルに、
私たち夫婦は滞在した。

こうした中で、定山渓温泉地の周辺、札幌市内の郊外、そして市内の中心街を遊学してきた。

たまたま6日の時は、『さっぽろ雪まつり』が開催中であったので、
私たちは確か15年ぶりに観たりした。

大通会場で市民、観光客の多い中、札幌市内の小学低学年の児童を数多く見かけたりした。、

そして私は社会見学の授業の一環かしら、と思いながら、
それぞれの防寒着の背中に『XX小』を明記した標示の布地を付けて、
列を作って歩いたり、ふたりで談笑しながら歩いたり、雪像を真剣に見学したり、
或いは眩(まぶ)しげに雪像を視たりしている情景に、私は好感をしていた・・。

私はこうした児童の情景に好感が増して、デジカメで撮ってしまいたい衝動になったが、
ここ10数年、特にプライバシー侵害の問題もあるので、断念した。

この後、何かしら大きな雪像の前で、多くの園児と思われる幼い児が、
記念写真に伴い、それぞれ微笑んだりしている情景を見かけて、
防寒着も圧倒的に愛らしく、何よりもそれぞれの表情に魅了させられて、
少しばかりプライバシー侵害を配慮しながらも、こっそりと撮ってしまった・・。
          

この後、やはりプライバシー侵害もあり、反省をしたりした。

やがて雪まつりの会場の片隅に、ひとつの状景を見て、
これだったら問題がない、と私は微笑みながら撮ったりした。
         
こうした園児が幼いなりに創意を秘めたペンギン雪像、可愛いよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


そして後日の12日に、市内の中心街を私たち夫婦が散策していると、
場所名は忘れてしまったが、雪だるまを見かけて、私は撮ったりした。
         
性格もよさそうな雪だるまの表情に、作られた人に、誰からも愛される雪だるまだょ、と私は誉めたりした。

この後、荘厳な赤レンガの歴史を秘めた『北海道庁旧本庁舎』を初めて訪れたが、
由緒ある正門から入門すると、雪だるまが歓迎して下さるようにあった。
          
この雪だるまは、少し疲れ果てたのか少し斜めになっていた。

私は冬晴れで雪が溶けだして、基礎の部分が少し溶けて、雪だるまが少し斜めになってしまった、
と感じたりした。

この後、由緒ある『北海道庁旧本庁舎』であるので、
訪れる方には、緊張をほぐす為に、あえて最初からユーモア心で少し斜めの雪だるまを作られた、
と思い改めたりした・・。

いずれにしても、雪だるまは誰しも人生の苦楽を秘めて、哀歓の日常を過ごされる中、
多くの方を和(なご)ます容姿であり、
この冬の時節として私は見かけるたびに、微笑みを重ねてしまうのである。

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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《最終》 最終章 旅の終わりは豊平峡温泉

2014-02-21 09:07:54 | 
       最終章 旅の終わりは豊平峡温泉
2月14日
私たち夫婦は、定山渓温泉地の片隅にある『定山渓グランドホテル端苑』に
2日の夜より15日の朝まで13泊宿泊滞在しているが、
いよいよ明日の15日の朝に、この観光ホテルに別れを告げる為に、
家内はこの日の14日の日中は荷物整理としていた。

今回、私たちは旅行用のスーツケースは二つ用意して、
ひとつの大きなアルミ製のスーツケースは、宅配便を利用して往復させ、
程ほどの大きさの強固なナイロン地のスーツケースは、登山靴などを収納させたのを私が牽(ひ)いて、
自宅より往還させる予定で出発してきた。

いずれにしても昨年の石垣島にこの時節に9泊10日で東京の5月のような暖かい滞在と違い、
雪のある地であるので防寒に関する衣服が多いので、ふたつのスーツケースとなってしまった。

こうした衣服の整理は、我が家は家内の専業であるので、
この日の私は館内で買い求めてきた本、雑誌を読んだりしていた。
部屋の窓際の椅子に座ったり、ときにはベットに横たわりながら、
或いはロビーの片隅で読んだりしていた。
          

こうした時、今回の旅路を思い重ねたりした。
2日の夜にチェックインした後、3日は近くの『豊平峡温泉』の湯処に予期した以上に満喫した。
4日は、私が念願してきた『銭函』駅に訪れたりしてきた。

5日には定山渓の温泉街を散策し、6日には『さっぽろ雪まつり』を鑑賞したりしてきた。
そして7日の夜には、滞在している観光ホテルから歩いて10分足らずの『定山渓神社』で
『雪灯路(ゆきとうろ)』を観たりした。

8日は『北海道 開拓の村』に遠征したり、
9日は休養日として本を寄りだり、昼過ぎに露天風呂に入ったりしていた。

10日は何かしら路線バスで10余分にある小金湯温泉地の『湯元 小金湯』に行ったり、
11日は『豊平峡温泉』のオプションのスノーシューに、
私たち夫婦は生まれて初めて体験した後、この湯処で貸し個室をお借りして、
湯船の大浴場、露天風呂に満足を実感されられたり、食事処でインドカリーとナンを賞味したりした。

12日は札幌市の中心街を散策したり、
13日には小金湯温泉地のもうひとつの湯処の『まつの湯』に行ったりした。

このようなことをロビーの渓谷を視える所で、思い馳せたりした。
          
過ぎぎ去ってしまえば実に早いが、私たちは出来る限り日に一箇所を遊学してきたので、
それなりに思いが深く残影している・・。

2月15日
朝食後、大きなスーツケースを宅配便に委託する為に、ロビーの片隅の専用受付所で依頼し、
やがてチェックアウトとした後、私たちは路線バスで『豊平峡温泉』に向った。
          
私たち夫婦は3日に初めて訪れ、予期した以上に満喫し、
11日にはこの館のオプションのスノーシューに参加した後、湯に入ったりした後、
食事処でインドカリーとナンを賞味して、瞬時に好感を増したりした。

受け付けて、いつものように貸し部屋をお借りして、旅の最後として4時間とし、
圧倒的に魅せられた大浴場、そして露天風呂に入浴した後、
食事処で特有な味覚のあるインドカリーとナンを頂だいたりした。

そして部屋に戻り、窓から前景を眺めたりした。
          
その後、家内が再び入浴に行っている間、畳み状のオンドルのような暖かい部屋で、
横たわりながら本を読んだりした。

やがて家内が戻ると、支配人らしいお方から、源泉で作った石鹸、頂いたわ、
と家内は言いながら、私に手渡した。
          

お客とサービスの度合いが難しい中、この間の管理スタッフ、オプションの指導員の方でも、
お友達と違う程ほどの親睦感、そして距離感に私たち夫婦は好感してきた上、
思いのある品を頂戴し、良き記念品を頂いたねぇ、と私は家内に言ったりした。

やがて私たちは、予約していた『かっぱライナー号』の大型バスの出発時が近づいてきた。
この『かっぱライナー号』は豊平峡温泉、定山渓温泉から札幌駅までの直行便である。

やがて私たちは直行便に乗車して、名残り惜しい『豊平峡温泉』に別れを告げた。
          
そして札幌駅前に到着後、私たちはJR千歳線に乗車して、『新千歳空港』で下車した。

やがて私たちは出発ロビーで、19時30分発の航空便を待機していたが、
東京の羽田空港が過日の大雪の影響で欠航にあったし、もとより新千歳空港も影響があり、
出発ロビーはキャンセル待ちの方たちが長蛇の列で混雑していた。

結果として私たちが機内に乗席できて、離陸できたのは1時間半遅れの21時であった。
やがて羽田空港に着陸し、私たちが預けていたスーツケースを受け取ったのは、
23時過ぎてあった。
そして私たちは東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の自宅の最寄駅に着いたのは、
深夜の12時過ぎであった。

余談であるが、私たちは最寄駅でタクシーを乗ろうと思っていたが、
平素はタクシーが客待ちで数多く並んでいるが、私たちのようにタクシー待ちの長蛇の列だったので、
やむなく積雪残る夜道を歩いて帰宅できたのは、深夜の12時半であった。

そして門扉から玄関先、そして庭の大半は残雪があり、せめて門扉から玄関まで雪かきをした。
私の住む地域は冬の時節は、天上の気候の神々のきまぐれな采配により、わずか5センチ前後は降る時もあり、
何かと雪舞い降る情景にみせられて、私たちは北国の旅路をしてきたが、
家に帰ってきて早々、深夜に雪かきかょ、と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。
                                  《連載、終了》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《12》 第11章 札幌の中心街を散策すれば

2014-02-20 16:37:39 | 
       第11章 札幌の中心街を散策すれば

2月12日
私たち夫婦は、定山渓温泉地の片隅にある『定山渓グランドホテル端苑』に
2日の夜より15日の朝まで宿泊滞在しているが、
私は10日の夕暮れ時から、定山渓温泉地に出ると、幾つかのコンビニに寄ったりした。

私が1970年(昭和45年)の4月から購読している総合月刊誌の『文藝春秋』が、
確か10日発売であり、最新号の3月特別号が雑誌コーナーに置いてないかしら、
と思い寄ったりしてきたが、やはりこの地にはなく、落胆してきた。
             

その上、過日に館内のロビーにある読売新聞の『書評』をたまたま読んでいた時、
山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)の作品をノンフィクションライターの渡辺一史さんが書評され、
私は精読してしまった・・。

この後、私はノートに転記したりした・・

《 新たな自分に出会う

なんと深い余韻を残すエッセイ集だろう。

山田太一。日本を代表する脚本家であり、テレビドラマ、戯曲、そして小説にも数多くの傑作をもつ。
私は高校1年のとき、ドラマ「ふぞろいの林檎りんごたち」を観みて以来、
すっかり重症の“太一マニア”になってしまった者だが、
本書では、これまでのどんなドラマや小説でも味わえなかった、
エッセイ集ならではの円熟した言葉の妙味、文体の妙技に酔いしれた。

今年80歳になる山田さんだが、70歳の手前で、体の芯に大きな変化が来ているのを感じたという(エッセイ「減退」より)。
性欲が減退し、そっちに針が振れなくなった。
つまり、どうでもよくなってしまったのである。
しかし、「底流にいつも性欲があった世界」を離れると、街も人も自然も、以前とは違って見える。
恋愛ばかり美しく唄うたい上げる歌手が、いかに多くの現実を無視しているかが見える。
「別の世界へ足を踏み入れたぞ、という小さな興奮があった」

収録エッセイは35編。私小説を思わせるような幼~青年期の思い出や、
秀逸な寺山修司論あり、哀切な木下恵介論ありと、読みどころ満載だが、
とりわけ自らの「老い」に対するやわらかな視線と深い洞察は、
現在40代である私自身の行く末を照らす灯あかりのようにも思えた。
「この先の老いた自分からはなにが出てくるか分らないぞと思う」と山田さんは書く。

老いとは、「自分には憶おぼえのない自分に出会う」ことであり、
「私が私ではなくなって行く兆候」でもある。怖い――と常識的には思うようなことだが、
「なにか、『妙に』心をなごませるものがあるようなのだ」(エッセイ「この先の楽しみ」)

未曽有の高齢化に突入してゆく今の日本と、揺れ動く人々の心を見つめる書き手として、
山田さんほどかっこうの書き手はいまい。
いや、本書はまだほんの序の口であり、これからもっと凄すごいものが出てくるかもしれない。
そんな予感と期待を抱かせる山田太一、80歳の新境地。・・》
             
このした深い書評の寄稿文を読んだりすると、ぜひ購読したい、と私は思ったりしてきた・・。

こうした心情を秘めてきた私は、札幌の中心街に行き、本屋で買い求めたく、
幸いに家内は外湯の湯処で入浴した後にトレーナーがあると楽だわ、
と言ったりしていたので、私は家内を誘って、札幌の中心街に向った。

私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、路線バスに乗り、      
          
地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、その後『真駒内』駅から『大通』駅に着いたが、
地上に出ると、やはり札幌市の中心街は都会だなぁ、と感じたりした。

そして昨日まで多くの市民、観光客を楽しませた『さっぽろ雪まつり』も終わり、
雪まつりの会場の撤去作業が行われたりしていた。

こうした中、街の歩道を歩いたりすると、可愛らしい雪だるまにめぐり逢い、
記念に私は撮ったりした。
          

やがて私たちは、『サッポロファクトリー』に向った。
一部の歩道は根雪のような中を歩いたり、それぞれシティホテルの前は小奇麗に雪かきがされていて、
思わず微笑んだりした。

やがて『サッポロファクトリー』に入ると、懐かしい状景を観たりした。
          

確か2008年の12月の下旬の時に、家内が『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たく、
繁華街のすすきの4丁目より200m前後にある『ススキノ グリーンホテル 2』に4泊5日し、
この間にすすきの周辺、南三条を歩き廻ったり、もとより大通公園で『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
或いは『三越』に寄ったり、地下街の商店街を歩いたりした。

そして『サッポロファクトー』に行ったりし、中島公園にある『北海道立文学館』に訪れたりした。

この時の『サッポロファクトー』の鮮明に思いは、この前景の煙突にサンタクロースが登っている情景で、
私は微笑みながら、創案された方の感性に絶賛したりしていた。

こうした思いのある私だったが、あれから6年は過ぎてしまったか、と歳月が余りにも早く過ぎてしまった・・
感慨深く感じながら、あの頃は私は若かった、と69歳の私は微苦笑したりした。


この後、私たちは館内の本屋に入り、私は総合月刊雑誌の『文藝春秋』(3月特別号)を手に取った後、
単行本のコーナで山田太一・著の『月日の残像』(新潮社)を探し求めたりした。

そして見つからずレジの近くの山積みになっているコーナーで、
偶然に野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)にめぐり逢い、
私は瞬時に手に取り、微笑んだりした。
             

そして三冊の本をレジで精算して頂いている時、女性の店員さんに、
『アマゾンなどのネット販売ですと・・こうした本に無知のままだったと思われ、
やはり本屋に寄りますと、偶然に出逢える本もありますよねぇ・・
ですから、私はネット販売で買い求めたりしません・・』
と私は明るく言ったりしすると、若き女性の店員さんは微笑んだりした。
          

この後、開放されているパン屋さんに寄り、店内は買い求めた方が軽食できる喫茶風になっている処で、
私たちは好みの菓子パンを買い求めて、コーヒーを飲みながら頂いたりした。

やがて家内は衣料品のフロアーで、トレーナーを買い求めに行っている間、
私は窓辺に近いベンチに座り、前景を眺めたりした。
          
そして購入した野坂幸弘・監修『ふるさと文学さんぽ 北海道』(大和書房)を読みはじめたりした・・。


やがて家内と合流した後、一度ぐらいは『旧本庁舎』を見よう、と私は家内を誘ったりした。
私たちは幾たびか札幌市に訪れていたが、何となく避けてきたのが『北海道庁旧本庁舎』であった。

そして中心街を歩くと、まもなく前景が観えた・・。
          
やがて正門から入門すると、雪だるまが歓迎して下さり、私たちは微笑んだりした。
          
そして赤レンガの荘厳な建物に、歴史を感じると襟を正して、私たちは入ったりした。
          

そして庁舎の2階にある各室を拝見したりした。
『北方領土』、『樺太関係』、『北海道の歴史ギャラリー』など2時間ぐらい視たりした。
          
         
やがて私たちは3時過ぎに札幌の中心街より、郊外にある定山渓に帰路した。
                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《11》 第10章 初めてのスノーシュー体験を学び

2014-02-20 08:07:32 | 
       第10章 初めてのスノーシュー体験を学び

2月11日
一昨日、宿泊している館内のロビーの片隅に、
《 定山渓でスノーシュー!!
    初心者でも女性の方でも、ガイド付きで安心らくらく雪中探検 》
と題されたパンフレットがあった。

私たち夫婦は雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは20余年を体験してきた。
          
こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴で、
滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填している。

そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートとすれば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。

私はスキーには全く興味はないが、ここ数年山里の森林の雪上を歩くスノーシューには、
旅先で機会があったら体験してみたい、と秘かに思ったりしてきた。

しかしながら体力の衰えた現在、もとより本格的に山の中を歩くことは無念ながらできないので、
若葉マークと称される初心者用のコースを歩いてみたい、と念願してきた。

こうした思いのある私は、このポスターを見て、
今しなくて、いつ覚えるのよ、と自身を叱咤激励して、家内に誘ったりした。


そしてこのパンフレット発信元に電話連絡したが、未通で落胆した時、
過日訪れた豊平峡温泉の湯処でも、オプションの一環として、スノーシューのコースがあったことを思いだして、
私たち夫婦は申し込んだりした。

もとより初体験の初心者コースとしたが、靴などを含めて洋装は大丈夫ですか、
と質問されて、私は冬の防寒ズボンで街中でも歩ける長ズボンであったので、少し不安となったりした。

家内は予備用として、スキー用の長ズボンを持参していたので、問題はないと思われたりした。


そして翌日の11日の朝、私たち夫婦は路線バスを利用して、豊平峡温泉に到着後、
受付で予約した確認後、やがて40歳前後の男性が現れて、スノーシューを担当させて頂くXXです、と紹介を受けたりした。
この後、私は全くの未経験でして・・こんな長ズボン、靴は大丈夫ですか、
と指導員にお伺いしたら、微笑まれながら問題ありませんょ、と言われ私は安堵したりした。

まもなく今回参加されるオプションの参加メンバーは、私たち夫婦と若き20代のご夫妻であった。
そして指導員の方が自動車を運転され、私たち生徒4名は車中の人となり、山里の道を登っていった・・。

やがて自動車は停止すると、『定山渓 自然の村』の堅牢な案内標識があった。
           

そして私たち4名の生徒は、スノーシューが配られて、靴に付ける方法を学んだりしたが、
私などは指導員の方に殆ど行って頂き、家内は微苦笑したりしていた。
          

やがて私たちは指導員のアドバイスに基づき、スノーシューを履き、
両手にはストックをして、広大な定山渓の自然の村を歩き始めた・・。
低山の森林であったが、この時節は冬眠の森のように静寂であった。

おだやかな登り、或いはゆるい下りを歩いたりし、指導員は時折立ち止まり、
幾数本の落葉樹を解説して下さったりした。
         
          ☆ スノーシューの最中、にぶ児の私はこれ以外の写真を撮る余裕がなかった ☆

こうした冬眠の森林の中を一時間半ぐらい歩いたりした。
そしてスノーシューを履くと、積雪の深い中でも歩くことが出来、
夏の時節は藪深い処、湿地帯、ときには沼地でも、この冬には積雪で覆われて、
雪上を歩けるのは利便性もあるが、何よりも景観が変貌して、圧倒的な美景となることもある。

こうした中で、急降下の処は雪すべりを2回ばかり体験し、童心に還ったりした。

或いは後半の20分は、ストックに頼らず自身のバランスでしましょう、
と指導員の方から私たち生徒は言われて、指導員はストックを私たちから回収されて、
私たちはそれそれおぼつかない積雪の上を歩いたりした。

やがてスノーシューの初めての体験が終了したが、もとより指導員のアドバイスの賜物であるが、
私は汗ばんだりして歩いたりしたが、予期した以上に満喫した。
          

この後、私たち一行は、豊平峡温泉の前に帰館した。

そして私たち夫婦はお互いに入浴した後、この館の食事処で
名高いインド料理のパン生地を平べったい皿のように焼いたナンとカレーを頂いたりした・・。
          
この食事処は、各国の老若男女が利用されて食事されているが、
私は《インド人シェフの本格派 インド料理》の特有な個性に、瞬時に魅了されたひとりであり、
食事を終えた後、旅の最終日に来て、もう一度食べてみたい、と私は家内に言ったりし、
何かと料理に辛口の家内でも、大いに同意した。

その後、私たち夫婦はお借りしている個室に戻り、
スノーシューも楽しかったり、お風呂も最上だし、その上に料理にも魅了されたので、
これ以上のことはこの世に中々ないよ、と私はビールを吞みながら高揚を増したりし、
家内もそうよねぇ、と頷(うなず)いたりした・・。
                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《10》 第9章 小金湯温泉の湯処は

2014-02-19 18:09:38 | 
       第9章 小金湯温泉の湯処は

過日、地下鉄の南北線の『真駒内』駅と滞在している定山渓温泉地の間を路線バスで、
幾たびか往還している時、バスの車内で、『温泉 日帰りパック』と題されたパンフレットがあり、
私は手に取って、読んだりした・・。

何かしら『定山渓』、『豊平峡』、『小金湯』の温泉地が、
札幌駅・真駒内駅から各温泉地に往復バスが運行されている、と知ったりした。

そして温泉大好きな家内にパンフレットを手渡すと、
『小金湯温泉は近い処だし・・行ってみたいわ』
と私に言ったりした。
          
          
私たちは滞在している『定山渓』は、少なくとも毎朝夕は入浴しているし、
『豊平峡』は3日に訪れて、予期した以上に満喫して、旅の最終日に寄ろうと決意しているが、
『小金湯』は未知であり、札幌の市民等から愛されているような温泉地であり、
滞在している間、行って見よう、と私たちは話し合ったりした。

2月9日 小金湯温泉『湯元 小金湯』
この日、私たちは路線バスで10余分足らずの『小金湯』に向った。
そしてバス停を降りたが、めざした『湯元 小金湯』の館を5分ぐらい彷徨(さまよ)った後、
バス停より5分ぐらい歩いた先にあった。

『湯元 小金湯』の館内は、ゆったりとしたクアハウス形式であった。
そして私は入浴後、館内の食事処でジャガイモのベーコン巻きを昼食代わりにして、
ビールを呑んだりして、家内を待ちわびた。

やがて合流した後、家内はフライトポテト、台湾風のアイスクリームなどを賞味したりした。

その後、家内は再び入浴してくる、と言ったりしたので、
私は館内をめぐっていた時、休息室のような一室があった。

数多くのリクライグ・シートがあり、多くの方はシートに座り、静粛な室であった。
私もリクライグ・シートに身を寄せて、持参した本を読んだりした。

そして時折前景の雪景色を見たりすると、時が止まったように感じ、
やがて私はまどろみながら寝付いてしまった・・。
そして目覚めた時、家内が隣席に座っていて、
この後、別室に移動した時、少し鼾(いびき)をしていましたょ、と家内から私は言われたりした。

そして私は天国にいたような甘受の時を過ごし、この世の贅沢なひとときを共にした、
と微笑んだりした。


2月13日 小金湯温泉『まつの湯』
私たちは2月9日に小金湯温泉『湯元 小金湯』に初めて訪れて、予期した以上に湯処に満足し、
この湯処の近くに、もう一軒の湯処の『まつの湯』が気になった。

そして滞在している間に行かなければ、のちに後悔しても・・と思いもあり、
家内の誘惑により、69歳の体力の衰えた私でも、行きましょう、と元気な声で言ったりした。

しかし滞在している観光ホテルを出て、路線バスに乗車している間、
小雪から風も伴う本降りのような雪の状況となった。

そしてバス停を降りたつと、5分少しで『まつの湯』に到着すると思いながら、歩いたりした。
          

やがて傘を差していても防寒コートは雪まみれとなり、『まつの湯』に到着した。

そして私は大浴場、露天風呂に30分ばかり浸かったりしていると気分爽快となり、
私は細長いテーブルが数多く並びられている大広間の片隅で、
私たちの利用客は10数名であったので、座布団を三枚お借りして横たわったりした。

その後、家内を待っている間、ビールを2杯お代りしていると、
雪は止み、陽射しが射し込んできた・・。

宿泊滞在している定山渓、豊平峡、そして市内、或いはこの小金湯の地域でも、
天候が激しく移ろうので、私は微苦笑したりした。

やがて家内と合流した後、私はビールのおつまみ・・
そして家内は軽食に、何かないかしら、とメニュー表を見たりした。


私たち夫婦は、たまたま小金湯温泉の『湯元 小金湯』、『まつの湯』、
或いは豊平峡の『豊平峡温泉』の湯処に満喫させられ、
それぞれ魅了された湯、くつろげる休憩室があり、湯処の三冠王かしら、と実感を深めたりした。

そしていずれの湯処も程ほどの格安な値段で入浴できるので、
私が札幌の市民だったら、毎週一度はこの中の一軒を訪ねると、
月に少なくとも湯処の三冠王を入浴でき、休憩室でくつろげる、と妄想したりした・・。

                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《9》 第8章 『定山渓グランドホテル端苑』の館内

2014-02-19 13:47:52 | 
       第8章 『定山渓グランドホテル端苑』の館内

2月9日
私たち夫婦は定山渓温泉地の片隅にある『定山渓グランドホテル端苑』に、
2月2日の夜から13泊し、15日の朝には辞するが、
この日の9日の朝は、雪が本降りとなっていた・・。
          
この日まで市内の各地、付近を周遊したりしてきたので、少し疲れを感じて、
この日は館内でのんびり過ごそう、と私たちは話し合ったりした。

そして朝食後はいつものようにロービーの片隅で、わずか二紙の新聞が置いてあり、
私は地方紙の『北海道新聞』、そして全国紙の『読売新聞』を読んだりした。
          
この滞在期間に、私は期日前投票した都知事選の結果に微苦笑したり、
或いは大雪が全国的に各地が困憊している情況を学び、憂いたりした。

ときにはロビーの渓谷側に面した所から、渓谷を眺めたりした。
          
或いはロビーの中心にある状景を見たりする時もあったりした。
          

こうした中で、私たちの指定された6階の一部屋が、大浴場、露天風呂に行く時は、
この2階にあるロビーを通り過ぎなければいけないので、
ロビーの中央付近にある若き女性に、こっそりと見つめたりする時もあった。
          

2階にある大浴場は、『希みの湯』と称されて、露天風呂も隣接されて、雪景色が一望でき、解放感がある。

或いは1階にある大浴場は、『祈りの湯』命名され、露天風呂も隣接されて、静かに湯浴み出来る所であった。
そして低温のサウナが設置され、サウナの高温に苦手な私は低温だったら大丈夫かしら、
と思いながら、この日に挑戦した。

そしてこの室内から、ベートーヴェンのピアノソナタの『月光』が流れて、
低温サウナに身をあずけて、私は聴いたりしていると、なるほどねぇ・・この曲は確かに合うねぇ、
と微笑んだりした。

私は楽譜も読めず、楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、音楽を聴くのは好きな方で、
このベートーヴェンのピアノソナタの『悲愴』とか『熱情』も魅了されている曲となっているので、
この『月光』の後は何の曲がかかるかしら、と漠然と思ったりしていると、
熱さを感じてきて、私は退散してしまった。

そしてこの日は、ぐうだらな私でも、この後は持参した本を
部屋に戻った後に、ベットに横たわりながら読んだりしていた
             
この本は2008年(平成20年)12月下旬に4泊5日で札幌に訪れ、
初めて『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観た時、
吉田武三(よしだ・たけぞう)・著作の『武四郎つれづれ ~北の風土記』(北海道新聞社)を買い求めて、
遅ればせながら北海道の名付け親と称せられる松浦武四郎の道内をくまなく踏査の偉業を学んだりした。

そして少しボケてきた私は、復習ねぇ、と思いながら今回再読した。
                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《8》 第7章 『北海道開拓の村』を初めて訪ねて

2014-02-19 06:35:13 | 
       第7章 『北海道開拓の村』を初めて訪ねて

2月8日
もとより北海道は、アイヌの人々が住み、その後の江戸時代の後期には、徳川幕府の意向に基づいて、
道南の松前地方を中核に移住され、
やがて明治時代になると、政府の奨励により、東北、北陸、中部地方などの一部の人々が本格的に移住され、
悪戦苦闘の苦難を得て、北海道の各地が少しづつ開拓されてきた。

こうした明治から昭和初期に及び、北海道で建築された建造物が、
『北海道開拓の村』に於いて、移築復元・再現されている、と私は遅ればせながら知り、
北海道の開拓の歴史の一面を学ぼう、と家内を誘って、私たちは初めて訪れた。

そしてこの日の8日、私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、
                   
路線バスに乗り、地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、
その後『真駒内』駅から『大通』駅に着いた後、地下鉄の東西線に乗り換えて『新さっぽろ』駅に向かった。

そして『新さっぽろ』駅を生まれて初めて下車すると、この駅はJR千歳線の『新さっぽろ』駅と合体する
大きな駅ビルだったので、戸惑いながら『開拓の村』行きのバス停を探したりした。

まもなく駅ビルの一面がバス・ターミナルのように各方面のバス停となっていた。

やがて私たちは『開拓の村』行きのバスに乗車すると、車窓から新さっぽろの街並みを観たり、
まもなくバスが『森林公園』駅前に着き、周辺の状景に魅了され、後でJR函館本線のひとつの駅だった、
と学んだりした。

そして再びバスは走ると、樹木豊かな一帯となり、私は見惚れてしまった・・。
まもなく広大な『野幌(のほろ)森林公園』の中に於いて、
『北海道開拓の村』、『北海道開拓記念館』、『百年記念塔』があると知ったりした。

やがて『開拓の村』のバス停に到着いると、なだらから丘の上に、
管理棟と活用されている旧札幌停車場の大きな建物が聳え立ち、
私たちは受付となっている大きな建物を目指して歩いた。
          

やがて『開拓の村』の村内に入ると、この冬期の土・日・祝日・さっぽろ雪まつり期間中に限り、
馬そりに乗って主要な村内を観られる、と動物好きな家内は事前に調べて折、
何かと動物の苦手な私を誘った。
          

やがて若き清麗な案内嬢の解説を聞きながら、市街地、漁村、農村、山村の各群のそれぞれ建物を観たりした。

この後、私たちはこの村内の中を数時間歩き廻ったりした・・。
          

そして明治、大正、昭和の時代に、この北海道の各地で苦楽を共にし、
生活された人々の住居、郵便局、学校、府舎などを多々教示させられた。
          

          

こうした中で、欧米人風の50代の男女の6名のグループに逢ったりし、
          
この館の60代の男性の解説者を共に聞いたりした。
そして解説される方が、英語の単語を幾たび重ねながら、解説されていたのに私は好感を深めたりした。
                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《7》 第6章 『雪灯路』、そして粉雪舞う中の花火

2014-02-18 14:21:22 | 
       第6章 『雪灯路』、そして粉雪舞う中の花火

2月7日
私たち夫婦は2月2日の夜から定山渓温泉の観光ホテルに滞在しているが、
この館のロビーの片隅でも『雪灯路(ゆきとうろ)』のパンフレットが置いてあり、
7日の夕食後に訪れることとした。

私たちが滞在している観光ホテルから歩いて10分足らずに『定山渓神社』があり、
この神社は、『さっぽろ雪まつり』の開催期間に準拠して、
5日から11日まで2014個のスノーキャンドルが灯される『雪灯路(ゆきとうろ)』が開催されている。

少し暗い雪道を歩いた私たちは、余り寒くないよねぇ、と私は家内に言ったりした。
          
まもなく神社の『雪灯路』の提灯が視え、そして境内に入ると人出もも多く、
          
数多くのスノーキャンドルが灯されていた・・。
          

暗い夜空の中、ぼっかりと境内を彩る情景は、何かしら温かみのあるぬくもり感があり、
私は長らく見つめたりした・・。
          

やがて再び歩きだすと、まぼろしのような時を感じたりした。
          

          

そして15分過ぎた頃、私たちは『定山渓神社』を辞した。
          

帰館後、お風呂でも入ろうか、と思っていた私は、花火の打ち上げる音が窓辺から聴こえ、
そして窓を開けると、暗い夜空の中、粉雪が舞い、花火が打ち上げられていた・・。

『小雪が降る中でも・・この地でも花火の打ち上げを決行するんだ・・』
と私は家内に言ったりした。

そして私たちは窓際に近い椅子に座り、カーテンを出来る限り開いたりし、眺めたりした。
          

この花火は定山渓観光協会の主催で、この時節の毎夜9時前後に打ち上げられ、
たまたま渓谷に近い部屋だったので、私たちは幸運のひとときを享受した。
               

そして私は冬の花火は幾たびか鑑賞してきたが、小雪が舞う中の花火は初めてであり、
まぎれない美のひとつ、と思い深めながら見惚(みと)れたりした・・。
          

この後、もとより花火は打ち上げられてから夜空の中、多彩な色合いを展開させ、
見る人に感動をもたらすのは、打ち上げからその人なりの思いの花火の色あいを待ち望む心情もあり、
何よりもわずかな時で、多彩の美色のはかないひととき・・そして消え去る余韻、余情かしら、
と私は改めて思ったりした。
          
                                         《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《6》 第5章 『さっぽろ雪まつり』を鑑賞、その後は

2014-02-18 07:09:48 | 
       第5章 『さっぽろ雪まつり』を鑑賞、その後は

2月6日
私たち夫婦が定山渓温泉地に2月2日から15日まで滞在している中、
札幌の市内に於いて、『第65回さっぽろ雪まつり』が5日(水)から11日(火・祝)の7日間で、
大通会場、つどーむ会場、すすきの会場で開催される、旅立つ前から知っていた。

そしてこの間に『雪まつり』を観ようと、この6日に大通会場に向った・・。
私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、路線バスに乗り、      
地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、その後『真駒内』駅から『大通』駅に着いたが、
やはり札幌市内として屈折の『さっぽろ雪まつり』であり、多くの鑑賞客でにぎわっていた・・。

私たち夫婦が初めて『さっぽろ雪まつり』を鑑賞したのは、
確か15年前の頃、勤めていた会社の勤続30年の特別休暇5日間を利用して、
私はオーホック海の流氷、家内は札幌の雪まつりを目的に2月初旬に旅をした時であった。

この時は網走の郊外の能取岬の近くの観光ホテルに2泊し、知床半島の付け根の宇登呂(ウトロ)の近くで、
厳粛な流氷の状景に感銘させられた後、『網走』駅より日中に於いて特急列車で『札幌』駅に着き、
そして小樽でシティホテルで宿泊した後、札幌に移動した後、シティホテルにチェックイン後に、
『さっぽろ雪まつり』の開催前日の状景を鑑賞したりした。

そして翌日の『さっぽろ雪まつり』の開催日に、大通会場で拝見した・・。
人出の多い中、雪像も多かったが、家内が以前テレビで中継された時よりも、
華やかさが足りないわ、と私に言ったりした。

そして私は、以前のバブル時代の経済狂乱記より、少ないのは当然だし・・
このくらい良いのではないかしら、と私は家内に言ったりし、2時間ばかり鑑賞した。

やがて付近の自衛隊の基地でも雪まつりに協賛した祭りがあると学び、
私たちは地下鉄の南北線の『自衛隊前』駅で下車して、
自衛隊の貴地は私たちような国民にも、この祭りの時は解放されていた。

そして自衛隊の歴史の歩みなど多々教示させられたが、
何よりも魅了させられたのは、若き10代、20代の溌剌とした自衛隊諸兄諸姉の言動であり、
私は圧倒的に好感した。


こうした私のささやかな雪まつりの思いが根底にあり、今回の『第65回さっぽろ雪まつり』を
拝見した・・。
          
そしてそれぞれの雪像は鋭意工夫されていたが、やはり平成の始めの頃までのバブル時代、
やがてデフレの15幾余年・・政治は混迷、経済は衰退、社会は劣化した結果、
何かしらコンパクトになったのは、致しがたい、と私は感じたりした。
          

こうした中で、札幌市の小学低学年の児童が、社会見学の授業の一環かしら、
数校に及び多くの児童を見かけて、私は好感したりした。

或いは園児と思われる幼い児も見かけて、私は雪像よりも圧倒的に魅了されて、
プライバシー侵害もあるので、こっそりと撮ったりした。
          
そして園児が幼いなりに創意を秘めたペンギン雪像を見かけて、可愛いよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
         

この会場で私たち夫婦が微苦笑させられたひとつがある。
記念写真・・無料ですが、いかがですか?、と勧誘させられて、
私たち夫婦は撮って頂いた。

そして写真の受領場所に移動した時、一枚の写真のバネル状にしたのを頂いたが、
写真は2センチぐらいの長方形であった。
この時、担当された若き男性が、大きな写真を1000円でお渡しできます、
と言いながら、プリントされた大きな15センチ×10センチぐらいの写真を手渡しされた・・。

そして私は見ると、私たち夫婦ふたりだけの写真は確か3年前の最上川船下り以来の記念写真だ、
と思いながら家内に微苦笑しながら、買い求めたりした。


やがて会場を後にした私たち夫婦は、家内が下調べした『こんぶ屋』に向った。
何かしら家内の話に寄ると、昨年の秋にテレビの番組で、
こんぶの多彩に加工した販売品であった。

私たちは三越デパートの前近くある市電の『西四丁目』駅より乗車して、
街中の駅を幾たびか通り、確か『西線11条』駅で下車して、数分探したりして、
やがて『こんぶ屋』の店の看板を視えた。

何かしらご夫婦だけで、幾種類のこんぶを多彩に加工して販売する店であり、
家内は4種類のこんぶを加工したを確か15個ぐらい買い求めたりした。

そして私たちが食べる品、ささやかな土産品として購入した、
と私は帰館する中で、家内から伝えられた。

そして翌日の午後、滞在している部屋で、
三時のおやつ代わり、この中のひとつを食べたりした。
           

          
                                         《つづく》
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