夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

錦繍の”洞爺湖”滞在記【12.10.22.~10.31.】 序章 晩秋の時節に初めて北海道の洞爺湖に

2012-10-31 22:36:18 | 
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
ときおり家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしてきたが、
過ぎし4週間前の頃から、ある旅行会社の雑誌が郵送された中で、
特集記事として、落葉樹のたわわな葉が朱紅色、黄色などに染められる各地の錦繍(きんしゅう)の情景が掲載され、
私たち夫婦は今年はどの地域に訪れて、錦繍の情景を享受しようかしら、と話し合ったりした。

この中の旅行企画のひとつとして、《水に癒され、のんびり過ごす絶景の湯宿》と題され、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間のプランが掲載されていた。
なにかしら指定された航空便で往復して、新千歳空港から往復の送迎バスに乗車して、
宿泊滞在している間で、周辺の観光地を自在に観て下さい、というフリープランのひとつであった。

私たちは夫婦は北海道の旅路は、何かと心身波長に合い、春、夏、秋そして冬に各地を幾たびか訪れてきたが、
たまたま道内の洞爺湖は、通過点のように通り過ぎりばかりであったので、
洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに滞在して、未知の洞爺湖はもとより周辺の観光地を訪れよう、
と私は家内を誘ったりした。

そして10月下旬に道内のこの地域を訪れる場合は、平年ならば晩秋の時節と思い、
落葉樹のたわわな葉が朱色、紅色、黄色などに染められる錦繍は終わりを告げて、
葉が舞い散り、落ち葉を踏みしめて、この地の観光地を歩くことになるだろう、
と私は思いを馳せたりした。


しかしながら、初めて洞爺湖の地を訪れると、平年より数週間遅い秋たけなわの情景であった。
そして私たち夫婦は、あまたの落葉樹の葉が朱紅、紅色、淡い黄色、黄色に染められてゆく錦繍の状景の中で、
私たちは幾たびか散策をしながら、心奥深く情感を重ねた。

そして今回訪れた旅先で私が感じ、心に残った心象を記載する。

                           《つづく》

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・8》高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に【終】《2006.10.16.~ 10.23.》

2012-10-30 10:18:33 | 旅のあれこれ
   第10章  日本の原風景に触れて

23日(月)は旅の最終日となり、JALライナーのバスで、
阿寒湖のホテルを出て、釧路湿原の北斗展望台で湿原を一望し、
その後に温根内周辺の湿原の木道を2時間前後散策する。

この時、NPO法人の『釧路湿原やちの会』のガイドさんに案内、解説をして下さる。

その後、釧路の駅前で昼食とし、釧路空港となる周遊コースである。

温根内は環境省の管理下で良く整備されている所だった。
バスを下車すると、我々の20名のグループは、
ガイドさんの指示でふた手に別れた。

私達のグループは、40代後半の女性のガイドさんの案内で、
樹林の中ゆるい下り道を歩くと、湿原の中に木道が観えた。

あたり一帯は葦(よし)の枯れた中、木道を歩いていたら、
微風が吹くと、葦の穂はいっせいに首を傾げたようになり、風は通り過ぎていった・・。

『風情ある情景だね・・』
と私は家内に軽口をたたいた。
家内は笑い、ガイドさんも微笑んでいた・・。

ガイドさんは、葦の穂を指して、
昔は葦(アシ)と呼ばれていた頃もあったが、
あしきこと・・悪き事・・なので、
葦(ヨシ)・・好し・・の方となった。

こうした解説は、私にとっては心の最良の薬となり、
ガイドさんの発露するセンスの好さの言葉に魅了された。

葦の一帯の下草が枯れて、朱色、黄色、薄緑色に染められて、
草紅葉となったいた。

そして、この葦の一帯に、落葉を終えた榛の木(ハンノキ)が所々に観られた。

その昔、本州に於いても開墾前はこのような状況で、
たまたま温暖な本州の一部で開墾がすすめられ、水田になったり、
やがて田畑になったりした。
この釧路あたりは余りの寒さで長い歳月放置された結果、
こうした残った・・・。

とガイドさんは教示してくれた。

こうした解説を聴くと、私は目をこらし、日本の原風景を観た・・。

長い歳月・・縄文の頃かしら・・或いは・・と
日本のたどってきた風土に思いを馳せた・・。

私は釧路湿原のこうした原風景に魅了された。

帰路、ゆるい昇り坂の脇に、
朱色の実を数多くつけた野生の果樹が柔らかな陽射しのあびて、
ひっそりとしていた。

『何気なく・・ありますが・・情感を秘めた樹ですね・・』
と私はガイドさんに言った。

『マユミ・・という樹です・・』
とガイドさんは微笑んで言った。



   第11章  されど、『勝手丼』

名残りおしい釧路湿原を後にして、バスは釧路市に向かった。
ゆるやかな下り坂から釧路市内の街並みが観え、その彼方に光る海が見えた・・。

旅行前に家内と昼食を『和商市場』で、と決めていた。

幸い和商市場の駐車場にバスは止まり、1時間半の時間があったので、
『勝手丼』をこの店内で頂こう、と家内と話し合った。

この和商市場は、海鮮品を中核に販売する店舗が
30店前後が集約されている処である。

勝手丼とは、総菜屋さんから発砲の丼(どんぶり)でご飯を買い求める。
ご飯の量も小盛から大盛と選択できる。

その上で、鮮魚店、塩干屋、魚卵店の立ち並ぶ専門店から、
イクラ、ウニ、鮭、タラコ、ホッキ貝、ホタテ、ボタンエビ、蟹むき、
甘エビ、秋刀魚の刺身、マグロ等が100g前後の単位、切り身で売られている。

ご飯の量は自在に決め、好きな具を勝手に選択でき、
最後にお醤油と山葵(わさび)等を頂く。

素材も新鮮で価格も安く、少量で買い求められるので良心的である。

私達3人は、それぞれの好みの品をご飯の上にのせて、
中心地にある簡素なテーブルと椅子で頂いた。

何より驚いたのは、別の店でビールを見かけたので、
『おねえさん・・ビールだけ・・いい・・』
と私は言った。

ビールのグラスジョキーに淹れて下さり、
『旦那さん・・後でグラスを返してくれれば・・』
と私に言った。

私は簡素なテーブルで、
追加で買い求めたタラコとイカでビールを呑んだりした・・。

この店内は、各お店が協力し、一蓮托生の感があり、好感したので、
ビールを追加しに私は歩いた。


家内達は買い物に行ったので、私は街中の和菓子屋に出かけた。

『柳月』という名であったが、名菓子をひとつずつ選択できるので、
初めての品の和菓子を味わうのに最適である。

家内達が空港内の待ち時間に食べて戴く為に、
わずか四つであったが購入した。

家内達がお互いに分かち合い、
その地域の和菓子を味合うのも日本の文化のひとつと思っているからである。



   最終章  旅の終りは、雨

北海道の観光めぐりを終えて、晴れ間の釧路空港を定時に離陸した。

私達の乗った航空機は、雲海を下に見下ろして平行飛行となったので、
私はノートをひろげ、ポールペンで旅の思い出を綴ったりしていた。

羽田空港に近づくと、雨の中の東京湾に面した街並みが見えた・・。

カフェ・テラスで家内と家内の母は、コーヒー、私はビールを呑み、
家内の母の初めての飛行機搭乗、そして初めての北海道観光を祝った。

76歳の家内の母から、初めての北の大地の思い出を聴いたりすると、
私達夫婦はある面感慨深げになったりした・・。

歳を重ね、その人の思いに加味されると
旅先の感想も色々と考えさせられる事もあったりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・7》高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に【3】《2006.10.16.~ 10.23.》

2012-10-29 10:09:05 | 旅のあれこれ
   第7章  阿寒湖の湖畔

家内達は、観光船でマリモ展示観察センター観たりするが、
私は興味がないので、湖畔周辺を散策することにした。

知床の『自然センター』から周辺を独りで散策したが、
熊と万一に出会いそうになった時は、

♪イヨマンテ
 燃えろ かがり火

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫 】

歌手の伊藤久男のように朗々と唄えないが、
今回の旅行前から『イヨマンテ(熊祭)の夜』の歌を練習をしていた。

今回も熊避(よ)けには、鈴などより余程効果があると信じている。

観光船乗り場の脇道から遊歩道があると聞いていたので、歩き始めた・・。

湖畔沿いの小道は、エゾマツ、トドマツ、ダテカンバ、ナナカマドの針広混生樹林の中を少し間引いて、
遊歩道として『湖畔コース』と名づけられていた。

湖畔に目を転じると、阿寒湖の情景が観え、
快晴の中、遠方に遊覧船が見えたりした。

広葉樹林は、紅色、黄色に染められて錦繍となり、
湖面の陽射しが差し込み、葉の一枚が枝から舞いながら水面に落ち、
微かな水紋でゆらいでいる・・。

この遊歩道をゆっくり歩きながら、
ときおりデジカメで風景を切り取り、15分過ぎたと思われるが、
私のほかは人影を見かけない。

その後、ご年配の独りの女性と会い、互いに黙礼をしながら、すれ違った。

硫黄ガスが感じられると『ボッケ』と称された泥火山が、
ボコボコと泥を跳ね除けて生きている火山の実感を見せていた。

湖畔の桟橋に下り立つと、
湖面の彼方に雄大な雄阿寒岳の雄姿が見られた。

振り返ると湖面に小島が観え、
針葉樹の中、広葉樹が秋たけなわの色合いに染められていた。

『森の小道』を目指して歩いたが、
近日の強風の為に倒木があったので通行止めとなって折、
やむ得ず『エコ・ミュージアム・センター』に向かった。

このE.M.C.に近づくと木道となり、湿原となっていた。
樹木に影を見たと思ったら、エゾリスが枝に移り去って行った。

E.M.C.の館内は、樹木の10数種類の大木が、
五メートル前後の高さで並べられて折、
樹皮に触れることが出来るので、しばらく手肌で感じたりして、
感心しながらしばらくたたずんでいた。

森の樹木は針葉樹林、針葉広葉混成樹林、広葉樹林が具体的に展示して折、
私のつたない知識に教示してくれた。

館の表に出て、灰皿の設置しているベンチで煙草を喫っていたら、
偶然に家内達を見かけた。

家内達は遊覧船から下船後、
お土産屋さんの街並みを歩いていたら、この館が見えたので立ち寄った、
ということであった。

その直後、にわかな空は暗くなった後、
しばらくすると明るくなり、雹(ひょう)がパラパラと降りだしてきた。

15分も過ぎると雹は止み、曇り空となった。

家内達は動物好きなので、エゾリスの話をすると、先程の小道を通り、
幸いエゾリスも見られ、街中に戻った。



   第8章  阿寒湖の夜は、アイヌ古式舞踊

街に戻り、遅い昼食をアイヌ村にある『喫茶ポロンノ』に行った。

夜の9時過ぎに『アイヌ古式舞踊』を観るための下調べを兼ね、
アイヌ料理に興味があったので出かけた次第である。

この店内は、アイヌのお土産売り場も兼ねているが、
鹿のサイコロ・ステーキ、キトピロという行者ニンニクの醤油漬けで
クラシック・ビールで頂いた。
鹿肉、行者ニンニクは、以前食べたことがあるが、
こうした風味は初めてであったが、美味しく頂けた。
家内達は、アイヌ特有の食べ物を食べたり、飲み物も特有な品を注文したりした。

ホテルに一端戻った後、寒くなった夜空の8時半過ぎに、アイヌ村に出かけた。

円形の会場は、哀切帯びた『ムックリ』という民族楽器の音色が響き、
それに伴ない民族の唄が聴こえてきた。

舞踊する中核には、篝(かがり)火が燃え上がり続け、
周囲は黒土一色となっていた。

6曲前後の舞踊が披露された後、最終曲は我々観衆も踊りに加わり、
『踊り比べ』という曲の演奏に揃って、輪踊りをした。

その後、長老が記念写真のサービスをして下さり、
私は家内達を促(うなが)して、長老を囲んだ記念撮影を数枚写したりした。

帰路、この村でアイヌ工芸品を購入し、ホテルに戻った。



   第9章 ときには、ご年配のお方と立ち話

22日の日曜日、家内達はホテルの館内でゆっくりしたいと言うので、
私は昨日の魅了させられた湖畔の小道を散策した。

日曜日の為か、人と行き交うのが多かった。
昨日見かけたご年配のご婦人と会い、ご婦人が私に話しかけてきた・・。

旭川市に生まれ、女学校を出て、疎開でこの阿寒湖に来た時、
この地の人にみそめられ、嫁いできたが、長年議員をしてきた。
10年前頃、辞職してから急にボケてしまい、
今や孫達に馬鹿にされている、と明るく話されていた。

85歳の身のお方であるが、毎日この道を散策している、とのこと。

『ご健在・・何よりですよ・・』
と私は言いながら、別れた。


ボッケ付近に日当たりの良い処に、
ひとりのご年配のご婦人が座っていたが、
私を見かけると話しかけてきた・・。

軽い糖尿病があるので、毎日歩いているの、と言った。
そして息子4人と娘が近くにいるので、食事は毎日持ってきてくれるが、
自由に生きたいので、独り住まいをしている。

好きな時間に起きて、食べたい時は自分でも作れるし、
寝たくなったら、時間に関係なく眠ってしまうの、
だから私は幸せよ、と私に微笑んだ。
89歳のお方である。

私は偶然にご年配のご婦人のお二人から、
人生の生き字引を頂いた。

私は62歳の身であるが、
常日頃こうしたお方達から謙虚にお話を教示させて頂き、
人生の玉手箱を学んでいる。

街中に出た後、ヒメマスかワカサギで昼食しょうとし、
食事処を探した。

一軒の蕎麦屋に入り、ヒメマスの塩焼きでクラシック・ビールでほめた。

『評判通り・・確かな味でした・・』
と店を出る時に私は奥方に言った。

この蕎麦屋は、暖簾に郷土料理と蕎麦と綴られて折、
『奈辺久』と読めた。

                         《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・6》高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に【2】《2006.10.16.~ 10.23.》

2012-10-28 10:04:49 | 旅のあれこれ
   第5章  されど、知床観光航路

20日(金)は知床の硫黄山航路コースの観光船に乗船後、知床峠を通り、ウラス、標津、摩周湖、硫黄山、
そして阿寒湖までのJALライナーのバス観光周遊の移動の旅である。

前日の朝、港から沖まで晴れ渡って折、
家内達に明日のお天気は悪いから、今日の日中に観光船に乗った方が良い、と私は言い、
私は『知床自然センター』に出かけた。

『乙女の涙』までの散策の途中で、道連れになった人達と話している時、
観光船が風と波で欠航になった、と教えて貰った。

この人達は、九州の方達で、団体観光のグループで、道東観光めぐりをしている一部の人であった。

『こんなに・・良いお天気なのに・・欠航とは・・
何のために・・この道東めぐりに参加したか・・意味がないわ・・』
と50代のご婦人が私に言ったりしていた。

『そうですよね・・観光船の方達に・・こんな良いお天気・・
何時・・周航するのよ・・言ってみたいですね・・』
と私は軽口を言った。

この観光船は、これだけ魅了させる景観を秘めている。

私たち夫婦は、昨年の5月、知床岬まで早朝クルーズがある団体観光周遊に参加したことがある。

ウトロのホテルのロビーに真夜中の2時半に集合して、
知床岬で日の出を観るために乗船したことがあった。

観光船から知床連峰が望め、4時過ぎの月をほめ、知床岬まで周航したことがあった。
詳細は昨年の5月に綴っているので、省略するが深く心に残っている。


20日の朝は、どりよりとした曇り空であった。
昨日のお天気を配慮すると、欠航かしら、と思いながら、朝の7時過ぎにフロントに問い合わせた。

『おかあさん・・こんな天気でも・・観光船に乗れるって・・』
と私は家内の母に言った。

そして家内は
『良かったわ・・おかあさん・・雨女・・返上よ』
と言った。

家内達は動物好きなのであるが、
ここ数年に動物園などに行ったりすると、雨まじりのお天気が多かったのである。

私からしてみれば、家内の母は初めて北海道の思い出に観光船は欠かせないひとつであるので、
何とかと思いが叶えたらという気持ちであった。

硫黄山航路コースの乗船後、どんよりとした曇り空で、ときおり小雨が降ったりした。
オホーツクの波の打ち寄せる海岸の景観は飽きることのない光景であった。

家内の母の微笑んだ顔立ちを見ると、この旅行は良い思い出になると私は感じ、
安堵したりした。



   第6章  道東の魅了のひとつは

硫黄山コース周遊船を下船後、バスは知床峠に向かったが、
霧につつまれて、前回訪れた時と同様に、
峠で下車しても薄ら寒く霧の中で、知床の連山も幻となった。

峠を越えてラウスに向かうと、霧が消え去り、ラウスの街並みが一望できた。

私は前回も感じたことであるが、
オホーツク海のウトロと根室海峡に面した太平洋のラウスとは陽と陰のように思っている。
標津のサモンハウスで昼食後、摩周湖を観たが、おだやかな晩秋の光景であった。
家内達に記念写真を撮った後、冬の情景が深く心に残っているので、
道のはずれで煙草を喫ったりしていた。

摩周湖から硫黄山に向かうゆるい下り道の直線があるが、
左右の広葉樹が朱色と黄色の錦繍の世界となっていた。
道路以外、すべての彼方まで染まって折、
この中をバスが走行したが、夢幻のひとときを感じた。

硫黄山は20年ぶりに来たが、休憩所、お土産屋、広い駐車場に少し驚き、
この間の歳月を感じたが、硫黄の吹き出る小高い山の丘陵は変わらない情景であった。

阿寒湖は華やかな温泉街であるが、それなりに3連泊の間に散策し、
私の阿寒湖の魅力を探そうと思っている。

                         《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・5》高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に【1】《2006.10.16.~ 10.23.》

2012-10-27 10:46:37 | 旅のあれこれ
   第1章  旅の始まりは、北海道限定ビール

私たち夫婦は、北海道はたびたび旅行しているが、
旭川市に関しては、昨年『旭山動物園』に3時間ばかり観た以外は、
昼食に立ち寄る程度であった。

今回の旅行で、家内の母が動物好きなので、
この動物園をゆっくり観たい、という要望の為、市内のホテルに宿泊することとなった。

旭川空港に昼に着き、バスで市内に入ると、
町の街路樹に紅い実をつけ、朱色に染め始めたナナカマドが観られた・・。

ナナカマドの樹木は、本州では里山、高山に見られるので、
『おかあ(義母)さん・・やはり、北海道だね・・』
と私は、家内の母に言った。

ホテルにチエック・インをした後、遅い昼食を取るために、
旭川の街並みを歩いた。

これといった当ての無い食事処であったので、結果として寿司屋に入った。

座敷に上がり、家内の母は、
通常はアサヒビールのスーパードライを飲んでいるので、
北海道限定の『北の職人』を注文した。

私は北海道に来た時は、サッポロビールの北海道限定『クラシック』を吞み、
地酒は『男山』、『国士無双』の純米酒が殆どである。

私たち3人は、『北の職人』をグラスに注ぎ、
『おかあさんの・・初めての・・北海道・・乾杯ね・・』
と私は明るく言った。

こうして家内の母は、
初めての飛行機の搭乗を羽田空港から旭川空港の旅路を終えて、
初めての北海道観光のはじまりとなった。

尚、この寿司屋の味は、私は美味しい感じ、『大番寿司』という名の店であった。



   第2章  雨、そして風の中の層雲峡

旭川の明け方は、霧雨だった。

家内と家内の母は、旭山動物園に行き、
私は独りで今晩の宿泊先の層雲峡に向かった。

駅前で路線バスを待っている時、中国人の観光客のグループと同乗となった。
60代の温厚そうな男性がリーダーらしく、
15名の20代から40代の人達を先導していた。
上川市経由層雲峡に向かったが、雨は強さを増し、ときたま風が吹いた。

終点の観光ビルでホテルからの送迎車を待っている間、
私は『層雲峡・渓谷案内図』を温厚そうな中国人のリーダーらしき人に手渡し、
つたない英語の単語を並べ、解説した。

先方の方は、にっこりと笑い、頷(うなづ)いた。
後で私は反省したが、メモ用紙で漢字を並べた方が好かった、思ったりした。

昨年の5月に層雲峡は宿泊したが、夕方に到着し、朝にこの地を離れたので、
今回は黒岳方面のロープウェイに乗り、周辺の景観をほめる予定であったが、
風のために運行は中止となっていた。

やむなくホテルに直行したが、昼前であり、チエックインの時間前であったが、
部屋に通してくれた。

私は昼のひととき、大浴場、露天風呂に浸(つ)かったが、
たまたま独りであった。

露天風呂の前面は、渓谷に面していたので、
風がうなりの音をたてて通り過ぎて寒かったが、これ以外はすこぶる快適であった。

家内達が部屋に着いたのは、3時過ぎであった。
やはり旭山動物園も雨が強さを増したので、早めに引き上げてきた、
と家内は呟(つぶや)いていた。

夕食の時、オリジナル創作料理と称して、
タマネギの中身をくり抜き、ビーフシチューを詰め込んで焼き上げた料理は好感した。
ありふれた料理でも、少し工夫すれば、
このような夢のある形、味わいが増すということである。


   第3章  遙かなるオホーツク海

快晴の朝の中、層雲峡の銀河、流星の滝をほめた後、
大雪湖から石北峠に向かう道は私は好きな景観のひとつである。

エゾマツ、トドマツ、そしてダケカンバの多い樹林の中、
左側の道路沿いに数多くのせせらぎがある。
こうした中、ときたま鹿を見かける時もある。

『クマ(熊)なく・・シカ(鹿)と・・コンキよく・・観てください・・』
とバスガイドさんが言った。
確かに、この辺は熊、鹿、そしてキツネを見かけることもある。

北見市に抜ける途中は、広大な畑が広がり、
その奥まった処が小高い里山となり、紅葉、黄葉に染められた錦繍の世界が展開し、
私は道内の風物詩のひとつと思っている。

網走を通り過ぎると、オホーツク海が望め、
斜里を過ぎると、海岸沿いの道になると、北海道らしい景観となる。

私は冬の季節、流氷を追い求め、初めて流氷を眺めな時、
厳粛な心持になったことを想いだしていた。

知床五胡の2湖を散策した途中、羅臼岳を望みながら、
湖面沿いの小道を歩くのも私の好きな光景のひとつである。

宿泊するホテルは、ウトロ港をまじかに景観できる処だった・・。



   第4章  『知床~それは命の営み』

夜明け前の3時過ぎに目覚め、
ウトロ魚港とその前方に拡がるオホーツク海を観た・・。

標題を掲げたのは、斜里町商工観光課が命題した『知床~世界遺産~』の豪華な小誌の中から、
拝借した言葉である。

宿泊しているホテルの館内で頂いたものである。

私は知床に関しては、像(ゾウ)の尻尾以下しか無知である。

斜里町から海岸沿いの国道をウトロに向かうと、
玄関代わりのオシンコシンの滝が迎えてくれる。
ウトロには秋、冬、春に来ているが、私の心の想いは流氷の時節が深く残っている。

厳粛・・と云うしか言葉が見つからず、
海岸沿いと見られる周辺を3時間ばかり家内と歩いた体験がある。

防寒服と登山靴で零下10度、風が吹くと零下15度前後であったが、
遥か彼方まで流氷を見つめていると、私はこの景観には謙虚になる。

厳粛と謙虚・・これが私の知床の思いであるが、
適切な言葉で集約したのは標題に拝借した言葉につきると直感した次第である。

家内達は魚港周辺を散策するので、
私は『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た。
解説に寄れば、映像を超えたダイナビジョンが誘う、大自然の世界、と綴られていたが、
まさに遂力のある映像から知床の大半が集約されている名画、
と感動を受けたりした。

その後、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道を散策した。
樹林の中のゆるやかな坂道を下ると、あたり一面平地となり遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。

のどかな晴れ間の中、こうした光景の中で散策ができるのは、贅沢のひとつと感じたりした。

帰路、ウトロの街中で、ホッケを遅い昼食代わりにした。
このホッケは、私の好きな魚のひとつであるが、
都心で頂くのは小ぶりが多い。

私の友人の一人に小樽出身がいるが、
都心の居酒屋で、この小ぶりのホッケを私が食べていたら、
こんなのホッケじゃない、
と言われたりしたこともある。

私は本物のホッケをクラシック・ビールでほめ、
友人の顔を思い浮かべたりした。

ホテルの敷地の一角に足湯があったので、部屋に戻ると、浴衣に着替え、
足湯にのんびり浸かっていると、
こんな贅沢な昼下がりのひとときを過ごしてもよいかしら、
と思ったりした。

まもなく家内達が散策から戻る姿を見かけた。

                         《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・4》高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に【序】《2006.10.16.~ 10.23.》

2012-10-26 10:44:26 | 旅のあれこれ
   序章  元気なうちに北海道

家内の母は、私より14歳上の76歳の一人住まい身であるが、
私たち夫婦は家内の母を誘い、3人で温泉滞在旅行は、幾たびか出かけてきたが、
2ヶ月前頃、家内に『元気なうちに・・北海道に行ってみたいわ・・』と言った。

家内の母は76歳の高齢者の身であり、初めて飛行機に乗るので果たして・・
と思ったりした。
私共夫婦は、北海道には四季折々、心身の波長があうので、10数回訪ずれている。

家内の母は、動物が好きな上、温泉滞在を好んでいる。

私は自動車の運転免許証は定年後の更新時に取り止めているので、
レンタカーは対象外である。

晩秋の北海道で程々ゆったり観光するにはと、家内と色々と話し合った。

その結果、来週の月曜日から7泊8日となった。


北海道を周遊するには、効率と快適さ、そして程々の価格を配慮して、
《 JAL STAGE(ジャル・ステージ)》からの企画を利用することとした。

日本航空、全日空の航空会社の旅行専門会社が、
各地のホテルとホテルの間を定期的に周遊観光バスを走らせている。

私達夫婦は、昭和55年の夏に個人旅行として道南周遊に利用し、
その後、秋の沖縄本島と諸島、真冬の北海道に周遊したりしていた。

今回利用する北海道に於いては、6泊7日以内の旅行会社の規約があったので、
別途シティホテルを加えたりした。

尚、この中の旅行プランの中で通常に各地を移動する周遊するプランがあるが、
高齢者には体力を要求されるので、無理である。

以前、南紀の勝浦温泉に6泊7日で滞在した折、
三時間ぼかりの周遊観光を選定した時、
家内の母は名所に寄ったりしたが、忙しいので疲れたと聞いたりしていた。

こうした体験があったので、程々にゆったりと周遊するのに、
家内と色々と話し合ったが、日程などで一時は家内と険悪になったりしたが、
何とか旅行日程を纏(まと)め上げた。

下記の日程は、あくまで高齢者に配慮した周遊である。
     

10月16日に出発し、23日に帰宅する7泊8日の旅となるが、
旅行日程を記すると、以下のプランとなる。

①京浜急行の『羽田空港駅』のプラットホームで家内の母と逢い、
ゆったりとティー・タイム後、羽田空港から旭川空港に着いて、旭川のシティホテルに宿泊。

②家内達は、旭山動物園で日中過ごして、私は層雲峡に直行して、周辺を散策。
その後、層雲峡の観光ホテルで合流する。

③層雲峡よりJALライナーのバスで知床半島の宇土(ウトロ)に行き、観光ホテルに宿泊。
この間、指定された観光地に寄りながら走行破する。

④ウトロに連泊。
  周辺を散策。

⑤ウトロよりJALライナーのバスで阿寒湖に移動する。
知床観光船に乗ったりした後、知床峠を越えて、ラウスから摩周湖に寄ったりする。
阿寒湖の湖畔の観光ホテルに宿泊。

⑥阿寒湖に連泊。
 周辺を散策。

⑦阿寒湖に三連泊。
 周辺を散策。

⑧阿寒湖からJALライナーのバスで釧路空港に移動。
この間、釧路湿原を2時間前後で散策。

釧路空港から羽田空港に着陸し、その後、軽食をして、家内の母と別れ、帰宅。

以上が今回の旅行日程であるが、
家内の母が高齢者であるので、どこで連泊して心身を休めて頂くかで、
家内と一時険悪となったりした。

北海道は晩秋の時節となるが、錦繍は過ぎてしまうかと、思ったりしている・・。

私達夫婦は、昨年の10月19日より新潟港からフェリーで小樽港に行き、
各地を観光した時、偶然に二週間遅れた紅葉、黄葉の色合いを染めた錦繍にめぐり合えた。
4泊5日のみじかな旅であったが、心に深く残っている。

今回の旅路で果たして樹木の色合いは、と期待もしたりしている。

旅の途中、知床のウトロに連泊、阿寒湖で三連泊で休息を設定しているが、
この間に私は周辺を散策する予定である。

私が独りで散策するが、熊と出会った時は、お互いにびっくりして、
互いに尻尾をまいて、退散すると思っている。
熊だって、見知らぬ東京の田舎者に逢いたくないと確信しているからである。

                         《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・3》 錦繍の北海道周遊記 《下》【2005.10.19. ~ 10.23.】

2012-10-25 10:03:08 | 旅のあれこれ

   第三章  雨の中の錦繍の情景は

定山渓温泉は、渓谷沿いに数多くのホテルが建っている温泉町であった。

窓辺で観ていると、渓谷の対岸を川べりから空に向かって
樹木が色付いているようだった。
ナナカマド、カエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色、
そしてエゾマツ、トドマツの濃い緑色の配色は、秋の盛りであった。

朝食後、雨の中を豊平峡を散策する。
電気バスに乗り、ダムを囲むかのように錦繍の世界が拡がっていた・・。

雨の中、濡れた朱色、黄色も良い光景である。
朝の川霧が立ち昇り、雨が舞うようにしっとりと降っている。

雨の中、傘を差して立ち竦んでいても、飽きない光景であった・・。


   第四章  そして小樽に

雨の中を豊平峡を後にし、
バスは札幌を目指して走路したが、周囲は錦繍に染まっていた。

札幌から小樽に抜けると、雨が止み、観光客であふれた街が小樽であった。

3年前の冬、オホーツク海の流氷を観る為に、
網走の二ツ岩のホテルで2泊して流氷を待ち焦がれたが、
1週間前に接岸したが、沖に去っていた・・。

この間、斜里までノロッコ号に乗ったが、海上は快晴の中、見渡す限り蒼い海原で、
やむなく路線バスで知床半島のウトロまで行った。

ウトロに近づいた峠を越えると、海の彼方まで流氷であった。

その後、ウトロの海辺あたりを私たちは数時間ばかり積雪の中を散策した。

網走駅から特急『オホーツク号』で9時30分発で後にした後、
冬の道北、道央を抜けて、札幌駅着14時46分に乗車した。
これも私の長年の夢のひとつであった。

札幌駅から小樽駅に着き、ホテルにチェック・インした後、
雪の中を運河沿いのガス灯のある遊歩道を夕暮れ時に歩いた。

夜になると、居酒屋に行き、地酒を呑みながら、地魚をふんだんに食べたりした。


こうした想いが私たち夫婦はあったので、
晩秋の小樽は味気なく、運河沿いの地ビールを呑ませる料理店に入る。

ここの店は、ラムの骨付き肉を食べさせてくれる所で、
塩味と大根おろしの付いた甘いたれの2種類を注文する。
地ビールを呑みながら、かぶりつくのは満足させてくれるひとつである。

集合場所に戻る時、小樽ワインの店があった。
試飲させてくれた時、
『辛口で・・深みのある・・』
と私が言った。

店員さんは、店頭の試飲用の十種類から選定し、私に呑ましてくれた。

結果として、この銘柄を1本買い求め、夜の駅弁を食べる時の友とした。


  第五章  旅の終りは、寝台特急で

旅の終りは、『北斗星号』であった。
札幌駅を17時12分に発車し、上野駅に翌日の9時41分着である。

お弁当と煎茶のペットボトルを買い求め、B寝台の個室は想像したより狭かった。

家内と旅行バックと手荷物を置く位置を決め、私は浴衣に着替えた。

小樽ワインを呑みながら、お弁当を開く。

今回の旅は、日中は原則としてサッポロ・クラシックのビールで、
夜はホテルのハウス・ワインか富良野、小樽ワインのボトルを良く呑んだりした。
私は旅先では、その地のアルコールを呑むことにしている。
その地の文化を知ることは、お酒もひとつの手がかりとなるからである。

疲れを覚えたのでベットに横たわり、直ぐに寝付く。
深夜の1時過ぎに目覚め、煎茶を少し呑んだ後、地酒を呑む。
その後、眠りについて朝の5時過ぎに目覚め、ぼんやりと車窓から外の景色を眺めた・・。

東北地方を旅する時、殆んど新幹線を利用していることに気付いた。
今回の旅の最後は、在来線で上野駅に向かっているが、
在来線はその地をゆっくりと通っているので、その地の風土を教示してくれる・・。
その点、新幹線は単なる通過の役割しかないことに、改めて気付いた。

上野駅より私の住む最寄駅の成城学園前に着いた時、
懐かしさを覚え、安心したせいか旅の疲れが出た。

家の門扉を開け、玄関庭を見ると、花梨の大きな実が3つほど落ちていた。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・2》 錦繍の北海道周遊記 《上》【2005.10.19. ~ 10.23.】

2012-10-24 10:43:31 | 旅のあれこれ
   序章  明日より、北海道へ・・♪

ある北海道に住む敬愛している著名人の方が、
あるエッセイで船便で来道するのが最良です、といったような綴りを20年前の頃に読んだりした。

そして確か10年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。
この中には、新潟港から小樽港が紹介され、特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。

私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、と私たち夫婦は退職記念旅行と決めた。

そして私の定年退職の直前に、
入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、ちょっと慌しくなったので、
退職記念旅行は延期とした。

この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、申し込んだ。

4泊5日の団体観光ツアーであり、東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動し、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。

小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の裾野のリゾートホテルに宿泊する。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策する。
その後、天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し、宿泊する。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に行く。

夕暮れの札幌駅より寝台特急の『北斗星号』を乗車し、夜間に走行し上野駅に到着する。
このような日程であった。

   第一章  旅の始まりは、月の光

新潟港を10時30分に離れた『らいらっく号』は、翌朝の4時10分に小樽港をめざして出港した。

私たちはランクアップした専用のテラス付きの特等A個室は、
船体から海に出たような形で、予期した以上に広い6畳ぐらいのテラスであった。
夕食はデイナー付きであったので、
昼食を私はラーメンとビールにし、家内はサンドイッチにした。

そして部屋に戻った後、私はテラスに下り立ち、
日中のひととき日本海の雲の間に晴れ間が果てしなく広がっている情景を眺めながら、
簡易椅子に座り、ゆっくりとビールを呑んだりした。
そしてこうした贅沢の時を過ごせるのは、年金生活の特権かしら、と心の中で微笑んだりした。

こうした満足な時を一時間ばかり過ごした後、少し眠くなってしまった・・。
今朝、東京駅7時12分発の新幹線に乗る為、 集合時間は6時半であったので、
我が家を早朝に、タクシーで新宿駅に向かった。
その後は、新宿駅より中央線の始発近い電車で東京駅に到着し、
自動販売機でコーヒー缶を買い求めて、待機していたのであった。

この後、私はベットにもぐり、まどろんだ後に寝付いたりした。
そして目覚めた後、午後4時過ぎに、大浴場で身体をさっぱりさせた後は、
喫煙室で煙草を喫っていたら、数多くのトラックのドライバーに会ったりした。

もとよりフェリー船であるので、彼らは業務で休息のひとときで、
楽しげに話し合っているのに、やはり働いている現役の諸兄は溌剌としているので、
私は中小業の民間会社で奮戦してきた体験があるので、好感したりした。

ディナーの際、イタリアン料理だったので、
小樽ワインの辛口を注文し、家内と呑みながら談笑したりして食事をしたりした。
こうした旅先の夕食も私たち夫婦は、長年楽しんできた。
そして齢を重ねるたびに、食べ物に多少のこだわりを持つのは、
多くの人が経験するのだろう、と思ったりした。

部屋に戻り、夜の海を眺めた。
月の光の帯が、遠方から波間を通して、あたかもテラスに向かって部屋に差し込み、
月の道ように思えた。

その後しばらくすると、月は空高く昇ると、海上の一辺に月の光の溜(た)まり場となり、
この範囲に月の光を寄せ集めていた。


   第二章  やがて錦繍の世界に

早朝の四時になると、小樽港の街の灯りが煌々と観えて来た。

フェリーは予定通り4時10分に接岸した。
港内はコンテナのトラックが百台前後あり、日本海の海上航路の要所であることを現していた。

私共の団体観光ツアーは、5時15分に下船し、バスで祝津にある食堂に向かう。

空は白く明け方の情景の中で、地元民も通う町外れの食堂で、
鰊(にしん)を私共の人数分を焼いてくれ、暖かなご飯と味噌汁で頂く。
素朴さであるが、これは最も贅沢な朝食である・・。

バスは高速道路を北上し、岩見沢を過ぎ、
三笠のインターチェンジで降りると、
やがて里山はナナカマドとカエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色で
錦繍(きんしゅう)の世界となった。

私は家を出るときは、旅の最後の行程で定山峡周辺で錦秋を期待していたが、
目の前で秋色が展開されたのには、
ちょっと驚き錦繍の光景に瞠(みは)った・・。

バスガイドさんの話に寄ると、
道内の紅葉は例年より2週間遅れで今は最盛期、と伝えてきた。


その後の芦別の三段の滝、富良野の新プリンスホテルのニングルの森も、
秋たけなわの錦繍の光景であった。

ニングルの森は、ゆるい傾斜の雑木林の中にあり、
開園前の時間であったので、即売店は閉っていた。

私の理想は、このような環境に近いが、
見渡す限り雑木林の中で平屋建ての一軒屋に住み、
近くにはホテルがあり、ときたま食事が出来るところであった。

齢を重ねた今、私は自分の実力の拙(つたな)さを嘆いて、
煙草を喫いながら、夢の世界に近いニングルの森を見詰めた・・。

その後、美瑛を通り、旭岳の裾野にあるホテルに宿泊する。
部屋の窓辺からは、夕陽が山なみの沈むところであった。
空は水色で、陽の周辺は朱色、そして黄色を取り混ぜて、そして山なみに消えていった・・。


旭岳の裾野は、落葉樹は葉を落とし終わっていた。
エゾマツ、トドマツの濃い緑が周辺を彩っていた。

朝陽の差し込んでいるレストランで朝食をした後、
ロープウェイに乗り、旭岳が展望できる高原登山道を散策する。

小さな池は凍り付いて折、道端は霜が陽に当たって溶け出していた・・。
旭岳から下方の旭岳温泉や
遙か彼方の遠方の山なみまで視界の開けた雄大なスロープであった。

その後、旭岳を下った所にある天人峡に行き、羽衣の滝を観に行く。
バスから下車し、遊歩道を散策したが、朱色、黄色に彩られた錦繍の中を歩く。
午前の柔らかな陽射しの中、ときおり黄色の葉が上空から舞い降りてくる。

こうした光景を観ると、まぎれなく秋を受容した思いが、心に沁みてくる。
多分、今後このようなことは、幻想しか実感できないだろう、
と思い返したりした。

その後、札幌のはずれにある定山渓に行き、宿泊する。

                         《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《北海道、秋の旅路・1》 初めての北海道の秋の旅路は、道東地方周遊 【1.11.3.~11.5】 

2012-10-23 08:30:44 | 旅のあれこれ
私たち夫婦は共通趣味のひとつとしては国内旅行であり、
若き新婚時代から、日本の各地を四季折々に旅を重ねてきた。

北海道に関しては、春、夏、秋そして冬に各地を廻ってきたが、
個人旅行のような形式もあったり、住宅ローンなどの返済で団体観光ツアーの格安旅行もしたりしてきたが、
夏と秋に訪れるのが少なかった、と先ほどから思い浮かべたりした。

今回、たまたま道内の洞爺湖を初めて訪れる機会に、
私たち夫婦がこの季節に北海道の旅路をしてきたことを思い馳せながら、特集のような形で連載する。

先ほど私の旅のメモ書きを取りだして、北海道の秋の旅路をめくったりしていたが、
初めて秋の季節に訊ねたのは、1989〈平成元〉年11月3日~5日、2泊3日 道東地方、
と記載されていた。
そしてウトロ、川湯温泉、宿泊と書かれていたので、確かあるる旅行会社の団体観光ツアーに参加し、
私は代休を取得して、私たち夫婦は周遊したことを思いだした・・。

私たち夫婦は、晩秋の道東地方は寒いと予測して、防寒着のフィールド・ジャケットを着て、
羽田空港に集合し、添乗員の方は新卒出のうら若き女性であり、
参加者は私たち夫婦と同様な40代のグループが3組、そして60代と思われるグループが10組ぐらいで、
若き女性のグループが2組、総勢35名前後であった、と記憶している。

女満別空港に着陸した後、待機してくれた観光バスに乗り、
網走の海岸ちかくの食事処で、昼食を自在に食べ自分で支払う自由食であったので、
私はビールを吞みながら、確かどんぶり食を頂き、
晩秋のオホーツク海だねぇ、と意気揚々と家内に話しかけたりした。

その後、知床半島のウトロをめざして、私たち一行の観光バスは走行し、
オシンコシンの滝を下車して観たりした後、知床五湖を散策して、ウトロの観光ホテル名は忘れたが宿泊した。


翌日、知床峠を越えて羅臼(ラウス)に出た後、南下して野付半島を観光バスは走行し、
車窓から国後島が観え、当時はソ連の領土であったので、まじかに感じられた。

その後、海老のシッポのように曲がった野付半島のトドワラ海岸で下車して、
2時間半ばかり散策し、周辺は平坦な牧草地帯と彼方まで観えそうな海を眺めたりし、
立枯れたトドマツの中を歩いたりした。

快晴で風もない中の歩道を歩くと、防寒着を脱ぎ、
『あなたが晩秋の北海道は寒いから・・着込んできたのに・・思ったより爽やかで・・』
と家内も防寒着を脱ぎ、
私は家内に、予測は外れた、と謝ったりした。

この後、売店で熊(クマ)、アザラシ、トドの肉のそれぞれの缶詰を買い求めたりし、
観光バスに乗り、
明所のひとつの根室中標津空港の近くの展望台で下車した。
そして私たちは展望台より東を観ても西を見て、少し起伏ある草原が四方の彼方まで拡がる状景に見惚れたりしていた。
近くにいる私たちの一行の60代の男性が、
『このように広大な草原・・何万坪あるのかしら・・
東京だったら、少なくとも一坪は何十万にするのに・・』
とバブルの余韻が残るこの当時の風潮の意味合いを発露され、私は微苦笑させられたりである。

この後は淡き陽射しの中の摩周湖の美景を観たりし、宿泊所の川湯温泉の観光ホテル名は忘れたが、
部屋で頂いた夕食の中で、それぞれ蟹(カニ)一杯を頂き、
私は地酒を吞みながら、やはり蟹味噌が一番美味しい、
と家内に言ったりした。

翌日、私たち一行は硫黄山を散策している中で、私は硫黄の吹き出る近くで、
家内に記念写真を撮ってねぇ、と言いながら、胸をはって整然としていたが、
硫黄の吹き出る煙に蒸せかえるように感じ、思わずメガネを取り外した稀な写真となったりした。

その後、10時過ぎに阿寒湖で遊覧船に乗船し、湖岸の葦(アシ)の群生が晩秋のおだやかな陽射しを受け、
この時節を改めて教えてくれた。

そして阿寒湖の観光ホテルで昼食を頂いた後、観光バスは帯広空港をめざして走行した。
この間、足寄でこの地の出身のシンガーソングライターの松山千春さんの記念館がある、
と隣席の近くのグループから教えられ、私たちは入館した。

この後、池田ワイン館に入館する予定であったが、
添乗員さんはこの時点で休館と知り、私たち一行は苦笑したりした。
この当時は、携帯電話が普及していないこともあった上、
添乗員さんは眠れる森の美女のように車内で、ほっとしたのか眠ることの多い人で、
私たちの一行はもとより、ドライバー、ガイドさんも呆れ果て、稀な新卒出の添乗員さんであった。

私たち一行が帯広空港で指定された時間を待っていると、
着陸した乗客を観かけて、この中の家族の方が、
ディズニーランドの手提げ袋とキャラクター商品を子供が持っていたので、
私は微笑んだりした。

私たち一行は東京を出て、北海道の道東地方を訪れてきたが、
こちらの道東地方にお住いの方たちは、羽田空港から東京周辺に宿泊して、ディズニーランドか、
と思い、お互いに健全な経済交流になっている、と思ったりしたからである。

今回、初めて訪れた北海道の秋の旅路を思い馳せながら綴ってきたが、
20数年前のことであるが、この程度ぐらいしか思いだせないでいる。
やむなく、忘却とは忘れることなり、と劇作家の菊田一夫さんの遺された名言に、
そうですよねぇ、と甘えながら苦笑している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北海道の洞爺湖に、晩秋の時節に初めて、本日より訪れることになり・・。

2012-10-22 06:30:00 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ときおり家内との共通趣味のひとつの国内旅行をしたりしている。

一昨年の3月11日の東日本大震災の以前は、東北の各地を夫婦だけの個人型の旅行することが多かったが、
この東日本大震災で各地が甚大な被災となり、私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
私たちの住む地域も余震が幾たびかあり、私の住む避難地の確認、防災器具の購入などをしたりした。

そして旅行の予定も中止し、私たち夫婦は我が家の何かと専守防衛の体制となり、
家の内部の整理などに重点し、日常生活も大きく変貌した。

そして夏が終わり、落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の紹介記事を見たりすると、
どの地域に魅せられるところは・・と漠然と探したりしたが、
夫婦だけの個人型の旅行より、幾分旅先の安全を配慮して、久々に団体滞在型のツアーに変更した。

この後、八ヶ岳の高原にあるリゾートホテルに昨年の10月16日より三連泊する団体滞在型で、
星空が観やすいリゾートホテル、と何かの雑誌で私は読んだりし、私たち夫婦は参加し、
周辺を秋日和に恵まれた中を散策したりした。

この後も、11月13日より3泊4日で秋田県の田沢湖の高原温泉にある観光ホテルに
三連泊する団体滞在型に、乳頭温泉郷めぐりもあるので、私たち夫婦は参加し、
たまたま初雪にめぐり逢え、俳句の素養のない私でも思わず、
 みゆき舞ふ 田沢の森 冬の訪れ と詠んだりした。

そして12月20日より4泊5日で、北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
その後に未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊する団体の滞在型に、参加して訪れた。
私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、晴れ間のひととき、大地は凛とし、
果てしなく青空が観える蒼穹(そうきゅう)の状景を観たく、
家内と共に郊外を数時間ばかり散策して、確かな情景に圧倒的に魅了させられた。

そして、いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行き、
私は積雪30センチの中を、小躍りしながら歩いたりした。


今年になって、裏磐梯の檜原湖に隣接したリゾートホテルに三連泊する団体の滞在型で、
3泊4日で訪れ、檜原湖の雪が舞い降る中、私たちは少し凍った湖上を歩いたり、
スノー・モービルに生まれて初めて、若き男性の運転した後席に私たち夫婦は乗車し、
湖上から周辺の冬の情景に心を寄せたりした。

その後は、1月28日より2月3日まで、札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在し、
冬の札幌を中核とした各地の地域を訪れた。

この後、私の住む地域は、初春より梅、そしてハナモモ、やがて桜花が咲く中、
この間は、落葉樹が芽吹き、そして萌希色、やがて新緑に染められる時節であり、
私たち夫婦は自宅の小庭、近く野川の遊歩道、或いは神代植物園の情景に、
魅せられて過ごしてきた・・。

こうした中で、家内は近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、
と私に言ったりした。

そして越後湯沢の旅館に宿泊する団体温泉滞在型に、
5月6日より3連泊するプランに私たちは参加し、5月の初めに寒波で雪が降った後も訪れたので、
周辺の越後の山なみは、中腹まで残り雪の情景となった景色に魅了されたりした。

このように山里の観光ホテル、旅館、リゾートホテルなどで滞在して、
旅行を繰り返してきたが、
海を見ながら露天風呂で、ゆっくりと過ごしたいわ、と家内は私に言ったりした。

そして私たちは余り遠くない伊豆半島で、海に近く温泉も良し、
食事処でも浴衣で良し、気楽に過ごせる観光ホテルを調べたりした。

この結果、私たちが選定した処は、伊豆半島の東海岸の熱海から少し南下した網代(あじろ)温泉で、
露天風呂から海を観ることができる観光ホテルを見つけたりした。
この後、この観光ホテルに電話で予約し、5月21日より四連泊し、滞在した。
海辺に面した露天風呂は、ときおり大波が押し寄せると私は頭上から波しぶきをあびて、
少年のように歓声を心の中で上げて、満喫したりした。

この後の熱い季節は、私は何よりも暑さに苦手で、余程の魅了されない限り、
我が家は旅行の休眠となって、定年後の習性となっている。


このような旅路をしてきたが、3週間前の頃から、
落葉樹のたわわな葉が朱色、黄色などに染められる各地の錦繍の情景の便(たよ)りを
ニュースなどで知ると、どの地域に魅せられるところは・・と私たち夫婦は検討したりしていた。

そしてある旅行の雑誌に、《水に癒され、のんびり過ごす絶景の湯宿》と題され、
洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日の旅行企画が掲載されていた。
指定された航空便で往復して、新千歳空港から往復の送迎バスに乗車して、
宿泊滞在している間で、自在に観光地を観て下さい、というフリープランのひとつであった。

こうした企画は、私は定年後に自動車の運転免許証も更新を取りやめ、もとより自動車の運転できないので、
移動の交通と宿泊先だけを確保してくれた上、程ほどに旅費は廉(やす)く、私たちは幾たびか利用してきた。

私たちは夫婦は北海道の旅路は、何かと心身波長に合い、春、夏、秋そして冬に各地を廻ってきたが、
個人旅行のような形式もあったり、住宅ローンなどの返済で団体観光ツアーの格安旅行もしたりしてきたが、
夏と秋に訪れるのが少なかったが、
今回、たまたま道内の洞爺湖を初めて訪れる機会に、
私たち夫婦がこの季節に北海道の旅路をしてきたことを思い馳せながら、特集のような形で連載する。


旅行の期間の月末の31日まで、投稿文に関して、
私は《北海道、秋の旅路》として題して、掲載します。
定年後にまもない時期に『錦繍の北海道周遊記』、『高齢者の家内の母の初めての北海道旅行と共に』は、
この当時に投稿した文を再編集しましたので、恥ずかしながら幼い綴りとなっています。
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私が初めて『小父さん』、そして『叔父さま』と呼ばれた頃のささやかな思いで・・。

2012-10-21 10:50:49 | 定年後の思い
私は齢ばかり重ねた年金生活の68歳の身であるが、
先程ぼんやりと初めて『小父(おじ)さん』と呼ばれた頃、そして『叔父さん』と呼ばれた頃の
遠い昔を思い浮かべ、あのようなことがあったなぁ、思い馳せたりした。

私が40代の初めの頃だったので1985〈昭和60〉年頃と思われるが、
あるレコード会社の情報畑でシステム開発の多忙が終えて、
何とか軌道にのせた土曜日の休日出勤務した夜、
自宅からの最寄駅の成城学園前から、疲れ切っていたので、タクシーに乗った。

そして自宅の近くの大通りで私は下車した直後、
すぐに空車を探していた若き女性の3人がタクシーに乗り込んだ。
タクシーのドライバーは効率が良いね、と私は微笑んで歩き出した時、
『おじ(小父)さ~ん・・本・・忘れている!』
とタクシーの車内から、若き女性のひとりから大声で言われたりした・・。

私はこの女性にお礼の言葉を言いながら、単行本の本を受け取ったのである。
この後、私は自宅に向かいながら、俺もおじ(小父)さんになってしまったかょ、と微苦笑したりした。


そして『おじ(叔父)さま』と呼ばれたことも、私は思いだしたりした・・。
私が45歳前後で合ったから、20数年前の確か梅雨の季節だった。

私は雨が降ると、少し長め傘を持ち、大きく広げて差したりしている。
雨降りしきる中、少し風が吹いても、自身の身体はもとより、
手持ちのバックなどが濡れるのが嫌いで、少し重いが長めの傘を愛用している。

私は六本木に所在している会社を退社した後、
自宅の最寄駅の『成城学園前』のタクシー乗り場に並び、
夜の11時過ぎ、雨の降る中、傘を差していた・・。

私の前に20人ぐらい並んでいて、1番後方だった。
しばらくすると、私の後方に5、6人の人影を感じた。
私は左手にアタシュ・ケースを提げて、
スーツのズホンが濡れないように、傘を深く差していた。

後方から、
『おじ(叔父)さま・・かしら?・・』
と声がした。

私は振り返ると、若い女性のツーピース姿を見た。
『XXちゃんか・・しばらく・・』
と私は言った。

遠い親戚の娘さんだった。

私はこの娘を私の立っている場所の前に譲り、
『ずいぶん・・遅いんだね・・』
と私は言った。

そして雨のしずくが水色のツーピースに掛からない程度に、傘かしげにした後、少し間隔を開けた・・。

『おじさま・・知らなかった・・私、今年から銀行にお勤め・・』
とこの娘は私に言った。

『大学に行ったのは聞いていたけど・・
そうかぁ・・社会人の一年生かぁ・・何かと大変でしょう・・』
と私は言った。

『思ったより楽しいけれど・・勤務時間が長くて・・
今日もこんな時間になって・・』
と微苦笑しながら、私に言った。

『おじさんの所もね・・金融関係と違うけれど・・何かと忙しいょ・・』
と私は言った。

雨がしきりに降っていた。

まもなく並びの列の先頭となり、タクシーにこの娘が乗り込む寸前、
『おじさま・・お先に・・ありがとう・・』
と笑顔を浮かべながら私に言った。

私は走り去るタクシーの尾灯を見送った。

私は兄妹の子供の甥っ子の4人からは、この7年前の頃からは、
『XXおじ(叔父)さん・・』と私の名前を付けて、何かと親しく呼ばれていたが、
遠い親戚の娘さんから、叔父さま、と呼ばれたのは初めてのことであり、鮮明に心の片隅に残っている。

このような私のささやかな『おじさん』、『おじさま』の思いでを秘め、
高齢者の4年生となった私は、時は余りにも早く過ぎ去り走馬灯のような、遠い思いでとなっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活している私の8年間の中で、何よりも困窮したことは・・。

2012-10-20 10:25:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む高齢者4年生の68歳の身であるが、
本日の20日は私の定年退職の記念日となり、丸8年の年金生活が過ぎて、早くも9年生に進級するが、
過ぎ去り歳月は実に早いと感じている。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職したのは、2004(平成16)年10月20日であった。
そして定年退職後、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた。


我家の生計は原則として、厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で日常生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしている・・。

そして私たち夫婦は毎年の年末年始のひととき、
思いついた耐久商品などの予定、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、
概算予算の年次計画を作成している。
そしてこれに基づいて、月次予算も割り当てをして作成し、
毎月の月末の前後に使った実績を入力し、今月も赤字だったょねぇ、とお互いに微苦笑したりるすることが多い。

年金生活をしていると、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしている。

我が家のテレビに関しては、恥ずかしながら、
昨年の2011年の夏頃にアナグロテレビ放送は廃止と知り、やむえず昨年の2011年5月に、
デジタル対応の薄型テレビ、ブルーディスクの録画機を買い求めたりした。

何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内が、
パソコンは半永久的商品、と確信したように思い続けていることである。


私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、積み立てきた個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったする。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが故障したりすると、
どうしてなのょ、と私はパソコンを眺めて困惑した体験をして、
やむえず定年後の8年間に、2度ばかり購入したりしてきた・・。


2001(平成13)年の秋になると、 定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

あるメーカーの市販の上級のクラスの機種を選定して、プリンターも新調し、
10年ぐらいは大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そして民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

念願の定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私が無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名ぐらいの人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006(平成18)年9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに、どうして故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅して、
修理します、と店の技術者から言われて、困窮した・・。
我が家はパソコンがたった一台しかなく、この1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

ブログ上で交流し、コメントを頂いていたので、返信が出来なく、
この当時の私は、半日以内に必ず返信していたので、相手のお方は戸惑うと思い、悩み、
リアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
もとよりブログの匿名が多く、連絡できる方法がない、と困苦したりした。

この修理の期間、パソコンのレンタルの依頼をしたが、
扱っていない、と素っ気ない返事を受けたりした。

そして修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円にため息をしたのである。
そして我が家の予算計上にしていないので、困り果てた・・。

1週間後、パソコンの量販店の技術者が来宅して、パソコンの不備を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。


私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていたが、
この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなく、やむなく新製品を買い改めることに決意した私は、
家内にどう説得するかであった。

私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、鍛えられ多少の悪知恵もあり、
家内が冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったのを、思いだしたりした。

私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・冷蔵庫、洗濯機でも耐久商品といっても・・7年ぐらいで・・
我家は新しい物に代えているよね・・』
と私は優しく家内に言った。

そして、この機を逃さずに更に、
『パソコンの修理代・・10万円を超えるみたい・・
パソコンなんか、ここ10数年でどの家庭に急激に普及してきたから・・
パソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょう・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。

結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。

こうした私としては苦く辛い体験をし、その後の3年後も液晶画面の寿命で、
やむなく部品交換して、パソコン不在の2週間ばかり過ごしたりしてきた。


このような事情を秘めてきたが、現在愛用しているパソコンは、
遅ればせながら、基本ソフトの主流のウィンドウズ・セブンを搭載した新機種を買い改めたのが、
昨年の2011〈平成23〉年の6月であった。
そして情報量は限りなく増大する昨今に、やむなく外部ドライブ装置として、
ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させて、現在に至っている。

そして私はこれまで愛用してきた『XP』は、予備用として利用することに決めた。
以前にパソコンが故障して、修理期間の2週間において、
パソコンのない空白の『パソコン迷子』になった寂しい体験があった。

或いは、私が家内に旅行関係のネット検索を初心者用にやさしく教えた結果、
ときおり家内が、旅行関係のネットの検索をするようになった。
家内は徹底的に調べるタイプなので、我が家の一台のパソコンは家内の独壇場となったりした。

このような目的を秘めて、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『XP』と新たな『セブン』を当面2台のパソコンを置いたりしているので、
ときおり私は微苦笑する時もある。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活している中で、私が何よりも贅沢なひととき、と甘受したことは・・。

2012-10-19 09:56:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。


私は遠い昔、東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、養成所の講師のひとりの知人の新劇のある長老から、
小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した身である。

この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。


そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑などを含め35年近く奮戦してきたが、
この間、音楽業界は、1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、
この少し前の年から各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめ、
リストラ烈風となった。
そして私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、 私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。

この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、
退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となり、その後は年金生活を始めて、
家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、決意して実行してきた。

サラリーマンの現役時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

具体的には、年金生活でも家内は殆ど従来通りしてもらい、
その間のささやかな息抜き・・趣味ごとを邪魔にするのは、
まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。


平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
残された方は落胆しながらも、強い趣味があれば、やがて薄らいで、命果てるまで生きがいのひとつとなるので、
互いの趣味の時は大切にしている。

日常は私は、毎日のように独りで最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパーに行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
何かしら私は根がケチなせいか、路線バスに乗るのことなく、ひたすら歩いたりしている。
その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などを歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。

そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

もとより年金生活を過ごすと、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

我が家は年金生活なので、原則として厚生年金とわずかな企業年金の年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


このような年金生活を過ごしているが、何よりも贅沢な時と感じたのは、
定年した後、年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。

或いは国内旅行を幾たびか重ねてきたが、殆ど平日の多くを利用してきたので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉に申し訳ないと思いながら、
ゆったりと訪れた地を散策したりし、甘受したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活、定年前に思案していたささやかな思い、そして現実の年金生活の落差に微苦笑して・・。

2012-10-18 13:58:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む高齢者4年生の68歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、10月18日と明示され、
まもなく定年退職の記念日を迎え、早くも年金生活9年生に進級するのか、と微苦笑したりした。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職したのは、
2004(平成16)年10月20日であった。

そして定年退職後、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めたので、
まもなく丸8年が過ぎて、早くも9年目を迎え、過ぎ去り歳月は実に早いと微苦笑してしまった。

午前中のひととき、居間から小庭に霧雨降りしきる情景を見たりした後、
私の机の脇机の引き出しから、1冊のノートを取りだした。
私が定年退職の前の1年半の頃に購入したノートであった。

この当時の私は、出向時代であったので、通勤時間の小田急線には45分前後、利用していた。
帰路の時は、出来うる限り、乗車の駅始発の電車に乗っていたので、ほぼ座れた。
この時に電車の中で、このノートに色々とメモったりした。

この中のひとつとして、平成15年1月30日『退職後の日常生活の目標』、
と題したメモ書きがあり、読んだりした。

☆パソコン
  Eメールの送受信
     エッセイ(文学的に日常、旅の寸評)
     音楽と映画

   インターネットの検索
     ただし、散歩を兼ねて、図書館に行くこと

   写真の整理

☆日曜菜園
草むしり、植木の手入れをした上で、1メートル × 2メートルの菜園を作り、
ピーマン、チソ、ダイコン、ニンジン、ショウガ、ネギ等

このような日常生活の目標メモが記載されていた。


こうして退職後の年金生活9年生に進級する今、微苦笑してしまった。

定年前の3年前にパソコンを改めて買い求めたし、机、椅子、脇机も新調して、
定年後の年金生活に備えていた私は、
遅ればせながら定年の数か月前にインターネット回線を自宅に導入した。

そして年金生活を始めたら、電子メールと称されているEメールの送受信で、
知人、関係者などで交流をしょうと思ったりした。
その上、秘かにホームページを開設して、未知の方と心の交流ができれば最良と思案していた。

現実としては、定年後まもなくブログの世界を知り、
これだったら誰でも発信できるし、心の節度さえあれば、どのような分野のことも綴れる、
と確信して、私はパソコンの故障、国内旅行で自宅不在以外は、毎日投稿してきた。

このように昨今の私は、Eメールは殆ど利用していないく、
ネットのニュース、専門誌のサイト、国内旅行の関係サイトを検索しているのが現状である。

図書館を利用と思ってた私は、やはり本屋に寄り、
単行本、新書本、文庫本、雑誌を見たりして、魅せられた本を購入することが、
高校時代から習性であったので、文愛人のひとりの私は買い求めたりしている。

写真の整理に関しては、定年退職の記念としてデジカメを買い求めて、
バソコンのハードディスクにそれぞれファイル名を付けて、管理しているが、
それ以前の長き時代のフィルムで撮った写真の整理が課題であった。

フィルムを読み取りデジタルに変換する専用機を購入して、
時系列に整理しょうと思っていた私は、面倒さも感じ断念した。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかった為が、
私の独身時代、家内の独身時代、そして私たちが結婚してから私の定年まで、
家内と共にアルバムを改めて整理し、総計18冊となったりした。

何よりも変ったのは、菜園の予定であった。
この当時の8年前の頃から、雑誌の『サライ』を定期購読して、
ある号で野菜の成長、花、色合いが載っていた。

そして作家・曽野綾子さんの随筆の新書本のひとつに、
ご自宅の庭でも野菜を育成していると私は読んだりしてきたので、
生育のうつろいを眺めて、育成するのも良いと思案していた。

結果としては、小庭が更に手狭となり、小鳥が定期便のように飛来してくるので、
断念した。

私は定年前に予定したこのようなささやかな事が、現実の年金生活を過ごしている今、
差異があったなぁ、微苦笑している。
 

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この時節の小鳥たち、縄張り争いを見て、サラリーマンを卒業した私は微苦笑して・・。

2012-10-17 13:06:01 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の住み、民間会社を定年退職した年金生活の68歳の身である。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた築後35年の一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域に於いては、
我家の小庭にも定期便のように小鳥が飛来する・・。

この時節を迎えると、ここ10日前の頃から、
樹の高い処に止まって、何かしら甲高い鳴き声をしたり、別の小鳥は離れた樹で止まり、
やはり甲高い鳴き声をたびたびしている。

三日前の朝のひととき、いつものように小鳥が甲高い鳴き声をしていたので、
『XXちゃん、小鳥たちが最近・・変に甲高い鳴き声をしていているよねぇ』
と私は家内に話しかけたりした。
『あれは・・小鳥がこの周囲は私の縄張りょ、と宣言している鳴き声なの』
と家内は笑いながら私に言った。
『そうなの・・』
と私は家内から教えられた苦笑したりした。


我が家は私より家内の方が小鳥に関して詳しいのである。
晩秋になると、目白(メジロ)、シジュウカラ、雀(スズメ)が多い、と確か5年前の頃に教えて貰ったことを、
ぼんやりと私は思いだしたりした。

この時は、午前の10時過ぎに、居間で家内とお茶の時間としていた。
私は煎茶で家内はコーヒーであるが、
居間の窓際のテーブルにお盆を置いて、飲んでいた。

モミジの朱色の葉は、わずかに残っているが、小枝に小鳥が2羽が飛んで来た。
『XXちゃん、小鳥が2羽・・いるよ』
と私は小鳥好きな家内に言った。

『あれはメジロです・・』
と家内は言った。

『あれがメジロかょ・・』
と私は言った。

『前にも・・教えてあげましたょ・・』
と家内は微笑みながら言った。


私は雀ぐらいは解かるが、あとはすべて小鳥と称している。

メジロの1羽は小枝から小枝に飛んで、何かを啄(つい)ばんでいる・・。

もう1羽のメジロは小枝から枝先の方に移動し、少し身体をよろけている・・。

家内は笑っている・・。

家内に言わせれば、器用に餌(えさ)を啄(つい)ばめことのできるメジロもいれば、
或いは不器用なメジロもいるらしい。

以前も家内から教えられたことであるが、
さしずめ少しよろけたメジロは私に似ているのかしら、と思って私はみつめたりした。

よろけたメジロは、この後はしっかりとした枝に止まり、
先程の動悸を鎮(しず)めているのか、陽射しを浴びている。


このようなことを私は思い浮かべたりした後、
やはり小鳥たちも冬季になると何かと餌不足となるので、この時節に縄張り争いをするのか、
と苦笑したりした。

私は中小業の民間会社を35年近く勤めていたが、
私は殆ど専門職の多い管理畑だったので、社内の後方支援のような立場であり、
上層部の栄進には無縁となったが、出世コースの制作、営業畑の多く人の奮戦を見たりしてきた。
そして派閥のようなグループをそれぞれ作り、意気揚々としたふるまいを傍観していた。
こうした中で栄達された方、或いは敗退して退社された方を眺めたりしてきた。

私は新聞や雑誌などで、無知な官界、政界も同じように、多くの方たちは派閥を作り、
互いに縄張り争いをしている、と学んだりしてきたので、
小鳥たちを見ていると、小鳥もよくやるよなぁ、苦笑させられたのである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
散文 ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする